LASTFILE

窓から跳び、夜風を浴びながらビルの壁面すれすれを落下した俺は、十数メートル下の壁面で待ち構えている黒き狼の姿を

捉える。

壁に四肢をつき、爪を食い込ませていた黒狼は、壁面にへばりついた影のようにも見えた。

そのわだかまる影の中で、犬科の獣特有の瞳の組織タペタム・リュシデムが、光を照り返して薄緑色に怪しく輝いている。

壁面に左手の爪を打ち込んで減速した俺めがけ、総帥は跳躍した。

さすがは同種、かなり速い。…しかし、宙で交錯した後、鮮血を夜気に撒いたのは黒狼だった。

疲労困憊、満身創痍、動くのも辛い状況とはいえ、ここまでに踏んだ場数が違う。

牙を交えた何十の敵が、この身に浴びた何百の返り血が、駆け抜けて来た何千の夜が、俺を今この場に存在させている。

夜から、そして己から目を背けて生きようとしてきた男など、俺の敵足り得ない。

眼下に広がるは停電から復旧したネオンと街灯の海。垂直の壁面に爪を食い込ませ、あたかもそこが大地であるかのように、

俺達は駆け、跳び、殴り、蹴り、切り裂き合う。

街の高所を吹きすさぶ風に、俺達の撒いた血が混じり合い、吹き流され、ネオンの海に霧となって降ってゆく。

人の作りし灯火が集い、夜の大地に描き出す夜景、それを眼下に二頭の狼は牙を交える。夜空に聳える暗いビルの壁面にへ

ばりつき、命を削り合う獣達の存在になど、夜景の中でそれぞれの生を謳歌している人間達は気付かない。

一般人のあずかり知らぬ所で起こり、続いて来た事件は、こうしてまた、一般人のあずかり知らぬ所で幕を引こうとしていた…。



壁面を疾走し、屋上へと駆け上る黒狼の後を、俺もまた垂直の壁に爪を打ち込み、大地のように壁を駆けて追い縋る。

手すりを乗り越えた俺を、黒狼はビルの屋上、その中央で待ち受けていた。

黒い被毛は血で汚れ、しかし降り注ぐ月光を美しく反射する。

俺もまた、自分の物か相手の物か分からない程血で汚れ、銀の被毛はかなりの部分が黒ずんでいた。

体感するのは初めてだったが、俺達人狼の力は互いの肉体には影響しないらしい。呪いが相殺し合うのか、それとも肉体自

体に抵抗力があるのかは分からない。睨み合いながらも俺達の傷は塞がり、乾いた血がパラパラと剥がれ落ちる。

「素晴らしいと思わないか?この景色…」

黒狼は口元を歪め、手すりの向こうを見遣る。

「我が物顔で地上を闊歩する人間。自らを万物の霊長と公言してはばからない生物。獣達を住み処から追い、隠れる闇を奪い、

それでも飽きたらずに生活圏を広げ続け、他の生物を排斥しながら、それでもなお地上に君臨し続けるこの暴君…」

油断なく黒狼を見つめながらも、俺はヤツの言葉に耳を傾ける。

「生物の本能の根源、生きる力の象徴とも言える欲望を糧にし、この星の覇権を手にしたあの獣達に…」

黒狼は哀しげに目を細め、吐き捨てるように呟いた。

「…私はっ…憧れ続けた…!」

ヤツの気持ちは分からないでもない。実際、俺達は人の目を忍び、正体を隠して生きている。人間は、社会は、俺達の正体

に気付いたなら、その圧倒的な力を持って排斥する事だろう。この国にかつて暮らしていた、ニホンオオカミ達をそうしたよ

うにだ…。

「…正体を隠し、静かに寄り添って生きる道もあっただろう…。旧ネクタールが壊滅した後、追っ手もかからなかったお前な

ら、そうして生きる事も選べたはずだ…」

俺の言葉に、黒狼はニヤリと不敵に笑った。

「その生き方は、私にとっては敗北だ。私の誇りがそれを許さない!」

「…そうか…」

もはや語る言葉も出尽くし、俺達は一言も発する事無く、互いの目を見据えた。

同じ人狼だという事もあるのか、俺は宿敵であるはずのネクタールの総帥に、理解と同情、そして共感すら覚えていた。

もしも俺がビャクヤと出会わなかったなら…、あのスラムに留まり続けていたなら…、俺もまた、己の獣たる部分を憎み、

人間になりたいと願ったかもしれない…。

俺とこの男、その違いは僅かなものであり、そして決定的なものだった。

俺には、情を注いでくれたビャクヤが居た。

俺には、信頼してくれるタマモさん達が居た。

俺には、慕ってくれるユウが居た。

そして俺には、愛してくれるヨウコが居た。

受け入れられる喜びを、幸せを、俺は知った。だからこそ、この男が焦がれるほどに追い求める物を理解できる。

そして、黒狼を突き動かすその誇りゆえに、決して俺達が相容れることは無いこともはっきりと分かる。

…殺すも…止む無し…。

「語る言葉も尽きたな…」

黒狼の言葉に、俺は頷いた。

「ああ。そろそろ幕引きと行こう。…だがその前に、お前の名を聞かせてくれるか?」

黒狼は俺の意図を探るように一瞬目を細め、それから名乗った。

「…記憶に留めておく」

囁くように語られ、高所を吹き流れる夜風に舞ったその名を心に刻み込むと、俺はしっかりと床を踏み締め、姿勢を変えた。

それに応じ、黒狼も姿勢を低くした。

俺達は突撃に備え、前傾姿勢を取る。夜気に、被毛をピリピリと刺激する殺気が満ちる。

銀と黒、二頭の狼の決着を見守るのは、冴え冴えと輝く月一つ。

跳躍の寸前、黒狼の口元が、微かな笑みを浮かべた。

「…死ぬには、良い夜だ…」

黒狼の言葉が夜気に溶け、散ると同時に、爆ぜるように屋上の床が抉れ、俺達は同時に弾丸と化して突進した。

全力を振り絞っての加速、黒と銀の流線形は、月光の下で激突した。

刹那の間も置かず、赤い霧が夜風を染めた。

俺は頬をザックリと切り裂かれながら、首を傾けてヤツの爪をかわした。

黒狼は俺の右腕に胸を貫かれ、口から血を溢れさせた。

勢いは俺が勝っていた。俺達は接触したまま、手すりの上を越え、屋上から飛び出す。

地力では、俺が圧倒的に勝っていた。それでも膝を折らず、己の誇りを貫き続けた一頭の人狼を、俺はしっかりと抱きかかえる。

腕を伸ばせば届きそうなほど近く、俺達のすぐ傍を、ビルの壁が下から上へと流れてゆく。

力を、本当に最後の一滴まで振り絞った。体が自由に動かない。このまま落下すれば、さすがにただでは済まないな…。

「字伏っ!」

かけられた声と同時に、俺は視線を上に向けた。

 落下してゆく俺達の頭上から、月光を背に浴びた虎人が、壁面を疾走して追って来る。

差し伸べられた手に、力の入らない腕を伸ばすと、フータイは俺の手首を右手でしっかりと掴み、二人分の重量を支え、両

足の爪を壁面に食い込ませて踏ん張った。

それでも勢いを殺しきれず、まだ修復の済んでいない左腕を壁に突き込み、虎人は十数メートル壁面を滑り下った後、なん

とか停止する。

塞がりきっていない傷から出血し、零れた血がパタパタと俺の顔に落ちかかった。

「…無茶…するなぁ…、お前…」

「何を言うか、お前ほどではないぞ?」

呆れ半分に言った俺に、フータイは痛みを堪えて顔を歪ませ、ニヤリと笑って見せる。

「だが助かった。恩に着る…」

「盟友の為とあらば、お安いご用だ」

「…盟友?」

意外な言葉に驚きながら聞き返すと、フータイは咳払いして視線を背けた。

「…図に乗りすぎたな。忘れてくれ…」

予想外の表情を目にし、俺は少々驚いていた。…照れているのか?あのフータイが?

「それに、感謝ならばあの少年にする事だ。若いながらも大した男だ。お前を頼む。と、俺に最後の力を託し、昏倒してしまった」

「何っ!?」

弾かれたように顔を上げた俺に、フータイは安心させるように頷いて見せた。

「案ずるな、白波女史が止血と応急手当を施している。命に危険はない」

虎人の力強い腕に引き上げられ、俺達は手近な窓からビル内に放り込まれた。

先程駆け過ぎたばかりの階段の踊り場。その一つに転がされた俺は、しばらく仰向けに横たわったまま息を整え、それから

身を起こす。

視線を向けると、黒狼は、まだ生きていた。

やはり同種相手には、俺達人狼の呪いは効果を発揮しないらしい。

天井を見上げる瞳孔は開きかけ、目の焦点はあっていない。傷の修復も限界にきている。もうじきこのまま、穏やかな死が

彼を呑み込む事だろう。

「…暗いな…」

「ああ、そうだな」

白々しく冷たい蛍光灯の光と、割れた窓から冴え冴えと、しかし優しく降り注ぐ月光を浴びながら黒狼は呟く。もはや、光

も見えてはいないようだ。

「教えてくれるか?私達は、死んだら何処へゆく?」

「さてな…、死んだ事がない以上、何とも言えぬが、やはりあの世とやらに行くのではないか?」

壁によりかかり、肩の傷を押さえていたフータイが呟くように応じると、黒狼は微苦笑した。

「私は…、父に、会えるだろうか…?」

「会えるかもな」

俺の言葉に、黒狼は首を動かし、もはや見えていない瞳に俺の姿を映した。

「人間でも、ライカンスロープでも、悪党が死ねば行き先は決まっている。俺達のようなのは、間違いなく地獄行きだろうからな」

「ふ…、はははっ…、違いない…!」

黒狼は愉快そうに笑うと、笑みを口元に貼り付けたまま、目を閉じ、長く息を吐いた。

それっきり動かなくなった総帥を前に、俺は首を上げ、窓の外に広がる天を仰ぐ。

「せめて父親と同じ地獄に落ちれるよう、祈ってやるよ…」

父に受け入れられるために、人間になりたかったのだと、黒狼は言った。

…だが、本当は初めから受け入れられていたのだ。でなければ、ネクタールを作り上げるような真似をしてまで、息子を人

間にしてやろうなどとは思うまい。

…元を辿れば、この事件の根底にあったのは、子を思う親の、そして親を慕う子の情だったという訳か…。



フータイに肩を借り、のろのろと階段を登った俺は、やっと最上階に辿り着いた。

「ヤチ!」

床に寝かせられたユウの脇で屈み込んでいたヨウコは、俺達に気付いて顔を上げ、声を上げて立ち上がった。

「済まない。待たせ…、ぐあっ!?」

フータイから離れ、よろめきながらも一人で立った俺は、駆け寄ってきたヨウコに抱き付かれ、体中を走る激痛に、思わず

声を上げた。

「あ!ご、ごめんなさい!」

ヨウコは慌てて俺から離れると、血で染まった俺の手を、遠慮がちにそっと握った。

「終わったんですね…?」

「ああ、終わったよ…」

ヨウコはそっと俺の体に寄り添い、胸に顔を埋めた。

「帰れるんですね…?皆揃って…」

「ああ。だが、一つ問題がある」

俺の言葉に、ヨウコは顔を上げ、不安そうな表情を浮かべた。

「…情けない話なのだが…」

フータイは呟きつつ、その場でどっかと床に腰を降ろした。

「俺もフータイも、もう一歩も動けない…」

俺もまた、その場で膝を折り、力なく項垂れた。



助けが最上階に到達したのは、それから間もなくの事だった。

「ご苦労様、ヤチ君。それにヨウコさんにユウ君」

銀狐は俺達一人一人、気を失っているユウにも労いの言葉をかけると、フータイに向き直った。

「…それと、貴方も…」

「………」

フータイは無言のまま会釈すると、周囲に集った同志達を見回した。

虎人を見るその視線には、敵意と嫌悪、そして憎悪が宿っている。

彼への憎しみは無理もない事とはいえ、心がチクリと痛み、落ち着かない気分になる…。

「目的は果たしました。引き上げましょう」

タマモさんの言葉に、同志達は一斉に頷いた。

「歩けそうもないな。アザフセ」

屈強な体躯の黒馬が、跪いたままの俺に歩み寄り、声をかけて来た。その右肩にはユウが担ぎ上げられている。

「降りるだけだ。転げながらでも行けるさ」

応じた強がりはしかし無視され、クラマルは俺の体に逞しい腕を回し、ひょいっと左肩に担ぎ上げた。

「おい!大丈夫だから降ろせ!」

「下に着いたら降ろしてやる」

前後逆に担がれた俺は、黒馬の背中を叩いて抗議したが、クラマルは涼しい口調で答え、俺達を軽々と担いだまま歩き出した。

情けない思いをしながら運ばれてゆく俺を、すぐ後ろから追いかけて来ながら、ヨウコは可笑しそうに含み笑いを漏らした。

…つくづく情けない…。

その横ではショウコちゃんが、目を閉じたままクラマルの肩で揺られているユウに、労うような、案ずるような視線を向け

ていた。

ふと気になることがあって視線を巡らせると…、…大丈夫か…。

フータイはソウスケの肩を借り、居心地悪そうにしながら、俺達の少し後ろを歩いていた。大山猫は仏頂面だったが、今は

文句を言うつもりは無いらしい。

俺は横で揺られているユウの顔を眺め、その頭を軽く撫で、労いの言葉を心で贈る。

やっと、実感が湧き上がって来た。

「終わったんだな…、今度こそ、やっと…」

口の中で呟いた言葉は、誰にも聞かれなかった。



待機していた同志達の車に分乗し、俺達は死骸と化したネクタール本部を後にする。

大停電の騒ぎに紛れ、一般人に気付かれる事無くシルバーフォックスへと引き上げる俺達を見届けると、タマモさんは全能

力を持ってビルに炎を放った後に脱出した。

玉藻御前の放った狐火は、人間達の消火活動をあざ笑うように一晩中燃え盛り、その身に内包した全てを含め、ビルを完全

に焼き尽くし、灰燼に帰した。

総帥であったあの黒狼や、他のライカンスロープ達の亡骸も共に…。

街の住人達に知られる事無く幕を上げた俺達の闘争は、こうして、住人達には事の顛末を悟られる事無く、幕を下ろした。



「「深夜の大火災。永命製薬ビル全焼」か…」

翌朝の新聞、そのトップ記事を読みながら、俺は昨夜起こった様々な出来事に思いを馳せた。

明け方になってようやく鎮火した火災は、風があったにも関わらず、奇跡的に近隣のいかなる建造物にも飛び火する事は無

かった。と、記事は締めくくられていた。

「残した痕跡はゼロ、か。重ね重ね見事なものだな」

俺が記事を読み上げて聞かせると、フータイが隣のベッドの上で、自由になる右手で鋼線のような髭を弾きながら感心した

ように漏らした。

虎人は左腕を付け根から完全に固定され、左足を天井から吊り下げられ、身動きの取れない状況である。

「それにしても…、大袈裟過ぎるな…」

黄色と黒の縞模様に彩られた体は、至る所で包帯の白いストライプを加えられ、少々賑やかになっていた。俺は不満げに零

したフータイに苦笑を返してやる。

「そう言うな。タマモさんの好意だ」

力の使い過ぎに加えて肉体そのものの疲労。一晩休んでいくらかはマシになったとはいえ、再生能力はなかなか本調子には

戻らず、立て続けに負った傷はまだ癒えてはいない。そういうわけで俺とフータイはベッドに縛り付けられるハメになったのだ。

フータイは一度失った左腕と、左足に負った深傷が酷く、だめ押しにビルから落下した俺を拾い上げるという無茶をやらか

したせいで、肩から足から関節がガタガタになっていた。

俺は彼に比べればマシ、…とは言え、全身にガタが来ており、やはり歩き回れるような状況でもなく、全身に負った無数の

傷を手当てされ、自慢の銀の被毛は薬と消毒液臭くなっている。両手が動き、新聞が読めるのがせめてもの救いだな…。

「さっさとねぐらに帰り、シャワーを浴びて、冷えたビールを飲みたいものだ…」

記事を読みながら独りごちていると、不意にドアがノックされた。…感覚まで本調子ではないらしい。来訪者の気配が全く

察知できなかった。

返事を待ってからドアを開け、病室に入ってきたのは、色白のぽっちゃりした少年だ。

「目が覚めたか、ユウ」

「はい。おはようございますヤチさん。フータイさんも。具合はどうですか?」

少年は礼儀正しくペコリとお辞儀し、笑顔を見せた。

呪いの主である総帥の死によって、昨夜の内に人狼の呪いが解除されたユウは、既に人間の姿をとれる程に回復している。

若さ故なのか、それともこれも能力の一部なのか、驚異的な回復力で傷の修復は終えていた。それでも完全に力が戻った訳で

もない、力の譲渡を行うと申し出てはくれたが、使用は控えさせた。

「ヨウコはどうしている?」

「口の中を深く切ったせいで、頬が腫れてしまっているから、顔を見せられないそうです」

ユウは苦笑しながら俺の問いに応じると、茶を淹れ始めた。

「試験勉強は良いのか?」

「部屋を借りてやっています。あ、そうそう。さっきショウコさんと一緒にフータイさんの部屋に行って、ワンちゃんに朝ご

飯を上げて来ましたからね」

そんな事までやってたのか?少々驚きながら報告を聞いた俺の隣で、フータイが口元に笑みを浮かべた。

「手間をかけたな」

「いえ。行儀も良いし、本当にかわいい豆柴でした」

「捨て犬でな。何故か懐かれ、腐れ縁で同居している」

そっけなく言ったが、犬を褒められたフータイの顔はまんざらでもなさそうだった。…しかし、こいつが豆柴ねぇ…。

「何だ字伏?」

「いや、なんでも…」

じろりと睨んだフータイから視線を外し、ユウの淹れてくれた茶をすすりながら、俺は新聞記事に目を戻した。

「日常が、戻って来るんだな…」

毎日目にし、耳にする同じような事件、同じような記事。

社会という名の巨大な群れの中、魂を磨り減らし、麻痺させてゆきながら、人間達は何を目指し、何を求めるのだろう?

あの黒狼が人間に憧れたように、人間もまた、何かに恋焦がれて歩んでいるのだろうか?

だとすれば何に焦がれて?

…やはり、その視線の先にあるのは、不滅の存在たる神の姿なのだろうか?

…考えても仕方のない事だな…、俺達はただ、そんな人間に紛れ、寄り添い、生きてゆくだけだ。…これまでも、そしてこ

れからも…。



事件から一ヶ月が経った。

今年ももう終わりが近付き、最近はめっきり冷え込んできた。

本社ビルの火災に次いで社員が次々と自殺や事故死などの変死を遂げ、大手製薬会社を襲った災厄として、呪いだテロだと

しばらくはワイドショーを賑わせていた永命製薬事件だったが、それが俺達のネクタール殲滅作戦だという事には、もちろん

誰も気付かなかった。

やがてこの事件も、クリスマス商戦の賑わいに押されてテレビからナリを潜め、一時の話題として他の事件に埋もれていった。



ユウは一月末の高校受験に備え、早くも追い込みに入った。

もともと真面目で成績の良いユウは、有名大学の付属高校を目指して猛勉強中だ。将来はそのまま大学の医学部へ進み、医

師になりたいらしい。他者に生きる力を分け与える能力を宿し、元来優しい性格のユウには、間違いなく天職だろう。

もっとも、まだ狩人になるのだと言い張って聞かないが、俺が現役で居られる間は、可愛い弟を狩人にするつもりなどない。



ショウコちゃんはユウの勉強を見てくれながら、次の玉藻御前としての修行中だ。

タマモさんは今回の一件で、ショウコちゃんもそろそろ引き継ぎをさせる時期に来ていると判断したらしい。厳しい修行に

もめげず、ユウの元にやって来ては勉強を教えてくれる現役大学生…。その多忙さと勤勉さには頭が下がる思いだ。



そうそう、タマモさんは最近ずっと機嫌が良い。

我が子ながら、期待以上の成長を見せるショウコちゃんの事が、我等の元締めとして長年責任を背負ってきた彼女の肩の荷

を軽くしているのだろう。

…それとも、ビル一つ焼き尽くして、溜め込んでいたストレスが一気に発散されたのだろうか…?



同志達もそれぞれの日常に戻っている。

ソウスケとクラマルには、約束通り一杯奢った。…馬鹿みたいに高い酒を一杯奢らされたがな…。

ネクタールが壊滅したとはいえ、狩人の仕事は無くなった訳ではない。ちょくちょくトラブルが起こり、駆り出される事も

あるが…、まぁ、これも俺達の日常の姿だ。



フータイは、傷が癒えるとすぐに姿をくらました。

もっとも、ユウとショウコちゃんにはヤサが割れているので、伝言があれば二人に頼んでいる。

タマモさんも同志達も、二人に彼の居場所を問い質してまで報復に出るつもりは無いらしい。俺にとっては嬉しい事だが、

今回の協力の事も鑑み、ひとまず過去の因縁については不問にする事に決めたようだ。



そして、俺は…、



沈んだばかりの夕陽の残滓が、細長い雲を淡い青と緋色の斑に染める。

薄紫のヴェールとなった空に、星々が瞬き始めた。

そしてもちろん、地上にもまた人々が灯す生の星々が、今宵もまた輝き始める。

「どうしたんですか?急に黙り込んで」

高層ビルのレストラン。窓際の席から景色に目をやっていた俺に、向かいに座ったヨウコが尋ねてきた。

「いや…、何とも平和だと思ってな…」

視線を戻して笑った俺に、彼女は微笑を返した。

今日は俺達二人だけで、このレストランにやって来ている。

気を利かせてくれたのか、ユウは今夜の外食に同席するのを「勉強があるから」と、やんわり拒否した。今夜はショウコちゃ

んが勉強を見に来てくれるらしいので、今頃は彼女の手料理をご馳走になっている事だろう。

今夜は久々の外食という事もあり、彼女は仕立ての良い新品のスーツを身につけていた。なんでも冬のボーナスで買ったら

しい。…かくいう俺も、今日は一番高いスーツを着て来ているのだが…。

化粧気の無さも、厚ぼったい眼鏡も、彼女は初めて出会った時そのままだが、今ではその全てが愛おしい…。

本当に平和だ…。

愛する者と共に過ごせる穏やかな時間…。

満ち足りた、平穏な気分…。

少し前には想像もしなかった安らぎが、今の俺を包んでいる。

きっとこの世に生きる誰もが、心の底ではこんな安らかな、居心地の良い空気を渇望しているのではないだろうか?

俺達に許されたささやかな幸せ、比較的平和なこの日常が、いつまでも続く事を願って止まない…。

ぶるるるるるるるるっ

…が、しかし…。俺が感傷に浸っている時間は、毎度の事ながらそうそう長続きはしないようである…。

「…はい…?」

携帯を掴み、不機嫌に応対した俺の耳に、タマモさんの声が飛び込んできた。

『ごめんなさいヤチ君!縄張りに入り込んだ余所者が騒ぎを起こしたの!追撃を振り切って繁華街に紛れ込んでしまったらし

いわ!』

「…ソウスケは?」

『社内の移動忘年会で、今夜は草津よ』

「あのリーマンは肝心な時に…!ならクラマルは!?」

『一昨日から新婚旅行中でしょう?』

「えぇい!ならフー…!…いや何でもない…。…くそっ!久方ぶりのデートだったのに!」

俺は舌打ちして電話を切った。

ヨウコは何事かと、不安げな顔で俺を見つめていた。

「…済まない。仕事が入ってしまった…」

俺はヨウコに頭を下げて詫びた。…本来の姿であれば、申し訳ないあまり、耳を伏せて尻尾を股の下にしまい込んでいる所

だろう…。

ヨウコは残念そうな顔をしたが、やがて笑みを浮かべて頷いた。

「私の事は良いです。急ぎなんでしょう?」

「…本当に済まない」

「いいえ。行ってらっしゃい。ヤチ」

「ああ。行ってくる」

ヨウコは俺と同時に立ち上がると、傍に歩み寄り、素早く口付けした。

「気を付けて…!」

「…ゴホン!…ああ…!」

照れ隠しに咳払いし、俺はヨウコに背を向けて駆け出した。



かくして、銀の人狼は今宵も闇を駆ける。

だが、かつてのように、夜闇の中に兄の幻影を追う事も、仇の影を求める事も、もう二度と無いだろう。

今の俺が望むのは、愛する女と大切な弟、そして掛け替えのない友や仲間達と共に過ごす、この安息の日々が少しでも永く

続く事、ただそれだけだ。

大切な仲間達と誇りと魂、そしてこの安らぎの日々を失わぬ為ならば、どんな労苦も厭いはしない。

この目が光を宿し、この腕に力がこもり、この脚で大地を踏み締められる限り、俺は狩人として、俺達の大切なトライブを

守り続けよう。

深夜の路地裏に黒豹を追い詰めた俺は、なおも抵抗する素振りを見せる相手に、低い唸り声を交えて警告を発した。

「大人しく従うならば、これ以上の危害は加えない。だが、あくまでも抵抗するというのならば…」

俺は牙を剥き、月光を受けて輝く銀の被毛を逆立て、獰猛な唸りで余所者を威嚇する。

「…殺すも止む無し…!」