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「くそっ!ミスった!」
舌打ちすると、俺は獲物を追ってビルの壁面を駆け上る。
追い込んだ獲物を待ち伏せし、俺が取り押さえる手はずだったのに!
豹男は素早くビルを登ってゆく。地上での追跡ならば俺の得意とする所なのだが、高低差を生かして逃げ回られると、柔軟
性と身軽さで上を行く相手に対しては、引き離されないようにするだけで精一杯だ。
人目についていないからまだ良いようなものの、このままでは騒ぎになるのも時間の問題だ。相手も人間に目撃されるのを
避けたいはずだが、追い詰められればなりふり構わない行動に出ることもあり得る。
俺との距離を離しつつ、豹男がビルの屋上に消えた。このままではまずい!
遅れてビルの屋上へと登り詰めた俺は、手すりに手をかけた状態で動きを止めた。
豹男がそこに居た。それともう一人…。
「ビャクヤ…」
安堵のため息が漏れる。
豹男は白い大柄なライカンスロープに顔面を鷲づかみにされ、もがいていた。その足は床から離れて宙に浮いている。ビャ
クヤは俺に視線を向けると、笑みを浮かべた。
「良い追い込みだったよ。おかげで楽に捕まえられた」
…本当は、ビャクヤが追い込んだ相手を俺が捕らえる手はずだった。万が一に備え、フォローに回ってくれていたのだろう。
ビャクヤは腕一本で軽々と吊し上げた豹男に首を傾げて見せた。豹男の足が、腹と言わず胸と言わず蹴り付けているが、そ
よ風程にも感じていないかのようにビクともしない。
「さて…。手荒な真似はしたくないんだけど…」
そう言うと、ビャクヤは手にほんの少し力を加えた。頭蓋骨がミシッと音を立て、豹男が悲鳴を上げる。分厚い鉄板すらも
包装紙のようにむしり取れるあいつの腕力にかかれば、いかに頑丈なライカンスロープの体も簡単に破壊される。ビャクヤに
その気があれば、豹男の頭部は掴まれた瞬間に砕け散っていたはずだ。
「速やかにこの街を去ること、二度とこの街に現れないこと、この二つが約束できるなら、今回は見逃してあげる。どうかな?」
「や、約束するっ!二度とここには来ないっ!」
静かな、そして穏やかな声でビャクヤが告げると、豹男はたまらずに降参した。
「お疲れ様」
月が照る廃ビルの屋上で、ビャクヤは俺に缶コーヒーを放ってよこした。
俺は手すりに寄りかかったままそれをキャッチし、缶ビールをあおっているビャクヤに視線を向ける。
「…甘くないか?見逃すなど…」
「彼は元々ここのルールを知らない流れ者さ。誤って同志を傷つけてしまったけれど、元々害意があった訳じゃない。命まで
獲る程の罪は犯していないよ」
歩み寄り、手すりにもたれ掛かったビャクヤの顔を見上げる。正体を現したビャクヤは、身長は2メートルを越え、ボリュ
ームに至っては俺の倍はある。それでいてスピードも敏捷性も俺と同等。膂力に至っては数倍だ。その内に俺の方が速くなる
と言っているが、この頃の俺にはただの慰めに聞こえていた。
「う〜ん。毎回こういう風に、殺さないで済ませられたらいいのにねぇ」
夜風に白い被毛をなぶらせ、気持ちよさそうに背伸びしながらビャクヤは言った。
知っていた。ビャクヤが狩人として優れていながら、他者を傷つける事を辛いと感じている事は。だから俺も狩人の役を担
い、ビャクヤと代わってやりたいと思っていた。なのに、俺はこの当時、半人前も良いところだった。
実力も欲しかったが、早く一人前と認めて欲しかった。だから、あんな馬鹿な真似をしてしまったのかもしれない…。
「と言うわけで、見逃したけど。まずかったかな?」
ビャクヤは頭を掻いて笑いながらタマモさんに告げた。
「…仕方ないわねぇ…」
事の顛末を聞いたタマモさんが苦笑を浮かべる。
ビャクヤと話していると、気持ちが落ち着いて和やかな雰囲気になる。タマモさんも、他の同志達も、皆ビャクヤと話すと
きは自然に笑顔になる。あいつはそういう不思議なやつだった。
「でもまあ、カタは付いたのだから、よしとしましょう。ネクタールの事だけでも忙しいのに、負担をかけるわね」
「体力だけが取りえだからね」
ビャクヤは笑って応じると、少し表情を引き締めた。
「ところで、調査に当たった同志達は?」
「もうじき戻ってくると思うけれど…」
タマモさんがそう言った、まさにその時だった。襖が勢い良く引き開けられ、当時まだ小さかったショウコちゃんが顔を出す。
「た、大変ですっ!井野塚さんと士家村さんが大怪我をっ!」
タマモさんは顔色を変えて立ち上がった。俺とビャクヤも顔を見合わせて頷くと、二人に続いて医務室へ向かった。
「…め、面目ない…!」
ベッドの上に横たわった猪の顔をしたイノヅカさんが、苦しげに顔を歪めた。
何度も深手を負い、傷の修復もままならないのだろう。胸には三本の真っ直ぐな傷が、パックリと口を開けていた。
牡鹿の顔をしたシカムラさんは、首や腹にも深い傷を負っており、意識が無かった。
「あの虎だ…。俺達が見張っているのに気付き、いきなり仕掛けて来て…」
タマモさんはイノヅカさんをなだめながら尋ねた。
「落ち着いて…、兎林さんは?一緒に逃げたのではなかったの?」
「トバヤシは…、あいつを足止めして…、ワシらに先に逃げろって…、くそっ…!」
俺は静かに医務室の扉に向かった。皆俺の動きには気付いていない。今日張り込む事になっていた場所は俺も知っている。
誰も敵わない噂の虎人を仕留め、トバヤシさんを連れ帰れば、きっと一人前だと認めてもらえるだろう。
そんな事を考えそっと医務室から出ると、足音に注意しつつ、足早に廊下を通り抜けた。
濃い血臭に、俺は相手が近い事を悟る。
空き家の多い裏道を抜け、匂いを辿ってひた走る。
やがて、俺はそいつの姿を目にした。
こちらに背を向ける黄色と黒の縞に彩られた巨躯。太く長い尾。筋肉の隆起した四肢。こいつが噂の虎人だ。
足元に横たわっているのは…、トバヤシさんだ。息絶えているのかピクリとも動かない。
「お前がフータイか!?」
俺の声に、虎人はゆっくりと振り向いた。
炯々と輝く瞳は、俺の姿を映すと、興味を失ったように逸らされた。
「人狼、…しかしガキか…。見逃してやる。さっさと消えろ…」
「ただのガキだと思うなよ!?」
俺は背を向けたフータイに踊りかかった。最大速度で詰め寄り、加速と体重を乗せた右腕は、爪に鋼の力を宿す。
貫いた!そう思った瞬間、ヤツの姿が消えた。
「…遅い…」
声と同時に、俺の背に衝撃が走った。地面に叩きつけられ、肺から空気が絞り出される。残像を残すほどの速度で、フータ
イは俺の攻撃をかわし、背後に回りこんでいた。瞬時に跳ね起きて飛びかかった俺は、胸にカウンターの一撃を受ける。
深々と突き刺さった虎の爪が、俺の胸筋と肋骨を掴んで吊るし上げる。衝撃で肺がやられ、吐息と共に口から血が溢れた。
「未熟…。…つまらん…」
一瞬だった。ただの一瞬で俺はフータイとの天と地ほどの実力差を痛感した。
白状する。動けなかったのは傷のせいだけではなかった。死への恐怖に全身が震え、萎縮して動けなくなっていた。
俺の胸に食い込んだ爪に力が込められる。
肋骨がメキメキと音を立て、今にも破砕されそうになったその時、フータイは動きを止め、振り返った。翳む視界の中、ヤ
ツの肩越しにスーツ姿の男達が見えた。
「人狼か?珍しいな…」
「殺すのは惜しい。連れ帰ろう」
「これは良い研究材料になるぞ」
口々に男達が言い、フータイは俺に視線を戻す。ほんの一瞬、ヤツは哀れむような目で俺を見つめ、手を放した。唐突に解
放され、俺は地面に崩れ落ちてむせ返る。
次の瞬間、俺の首の後ろにヤツの手刀が振り下ろされ、意識が途絶えた。
目が覚めると、俺は灰色の部屋に居た。
壁も床も天井もむき出しのコンクリートで、壁の一角が鉄格子になっており、そこが牢であるらしい事が分かった。
床に転がっていた俺は、身を起こそうとして気付く。口には頑丈な猿ぐつわが噛まされ、手は後ろに回され、合金製の板の
ような手錠を填められていた。足も同じく錠で拘束されており、自由になるのは尻尾だけだった。
拘束を解こうとしたが、ダメだった。何らかの薬物が投与されたのか、体がだるく、全く力が入らない。寝返りをうつのが
精一杯だった。頭には軽い鈍痛があり、麻酔か何かの一種が効いているのだろうと、ぼんやり考える。
捕らえられてからどれほどになるのだろうか?少しばかり空腹を感じる事から、それなりの時間が経った事は察せられた。
半日か、それとも一日か…。おそらく二日までは経っていないと思われた。
ビャクヤ…、心配しているだろうか?
功を焦った挙句この有様。自業自得と諦めもつくが、あいつの事だけが気がかりだった。
それから十数時間の間に、白衣を着た男達が何度か検査に来た。
その度に喉を鳴らして威嚇したが、動けないことは良く分かっているのだろう。採血され、瞳孔を覗き込まれ、体の至る所
を触診される。されるがままの自分が情けなかった。
男達が何度目かの検査に現れた時、軽く地面が揺れた。男達も顔を見合わせていた。地震かと思ったが、そうでない事はす
ぐに分かった。
どこか上の方から、大音量の咆吼が響いてきたから。
聞き慣れた声。だが、これほど逼迫しているのは初めて聞いた。
さるぐつわをされたままだったが、力を振り絞り、喉を真っ直ぐにして遠吠えを上げる。
男達の顔色が変わった。と、ほとんど間を置かず、牢に面した廊下の先で、凄まじい音が響いた。まるで爆弾でも爆発した
かのような音と共に、廊下に粉塵が立ち込め、コンクリートの破片が飛んできて鉄格子を叩いた。
白い獣が粉塵の中から飛び出した。腹の底に響く唸り声を上げ、真っ直ぐにこちらへ向かってくる。男の一人が咄嗟に内側
から牢を閉ざしたが、無駄だった。
ビャクヤは体を丸めて肩口から鉄格子に体当たりし、外枠ごと格子を破壊した。
人質にとるつもりだったのだろう。男の一人が腕を伸ばし、メスを俺の首にあてがう。が、その腕は、肘から先が一瞬で消
失した。
男の背後に立ったビャクヤの手に、メスを握ったままの男の手が握られていた。
信じられないといった顔で、消失した自分の腕の傷口を見つめていた男に、ビャクヤは当て身を食らわせて気絶させた。
「ヤチ!僕だ、分かる!?」
なんとか頷くと、ビャクヤはほっとしたようにため息をついた。
気付けば、すでに他の男達も昏倒させられていた。
「…無茶をして…。皆心配していたよ」
謝りたかったが、声も出ず、俺は喉の奥で唸った。
ビャクヤはさるぐつわと枷を壊し、俺の体を軽々と担ぎ上げると、先ほど突き破った壁の穴へと引き返し始めた。
途中にあった鉄格子の前で、その足がピタリと止まる。俺と同じように捕らえられていたのだろうか?虎人の若い娘がその
牢に居た。ベッドの上に寝かされたその娘は、病気だったのだろう。所々毛が抜け落ち、体は痩せこけて骨と皮ばかりになっ
ていた。
すでに息は無い。死んでから少し経つのだろう。露出した肌には水気が無く、鼻は乾き、閉じられた目は落ちくぼんでいた。
ビャクヤは哀しそうな顔でその遺体を見つめていたが、やがて再び歩き始めた。
俺が囚われていたのは、地下のかなり深い階だった。
警報がけたたましく鳴り響き、火が回っているのか、煙の立ち込める通路を、ビャクヤは俺を背負って進んでいく。
「もう少しの辛抱だよ。すぐに地上に…」
ビャクヤは言葉を切り、身を低くした。立ち込める煙を裂いて、何発もの銃弾が飛んできた。ビャクヤは俺を床に倒し、そ
の上に覆い被さる。被弾した衝撃がビャクヤの体越しに感じられた。放たれた銃弾の内、一発がビャクヤの体に潜り込み、白
い被毛が血に塗れた。小さく呻いたビャクヤは、キッと顔を上げると、声を張り上げた。
「否定する!」
ビャクヤの声と同時に飛んできた銃弾は、鼻面の先でカクンと軌道を変え、壁に激突した。続いて飛来した弾丸も、ことご
とくがビャクヤに触れる事を恐れるように、あり得ない角度に軌道を変えて逸れてゆく。
これがビャクヤの能力、「干渉否定」だ。ビャクヤが否定した物は、ビャクヤの体や創造物に影響を与える事ができなくな
る。例えば、雨を否定すれば雨はビャクヤを濡らす事はできず、特定の病原菌を否定すればその病に感染する事がない。他人
が自分を認識する事を否定する事もできる。
今回の場合は、宣言と同時に銃弾がビャクヤの体に触れられなくなったのだ。
一見万能にも見えるが、制約は存在する。
まず、否定する対象をビャクヤ自身がある程度知っている必要がある。正体不明のものや、認識できていない現象は否定の
しようがないのだ。
それと、一度否定してしまえば効果は永続的に続く。例えば、今降っている雨、というように限定すればいいが、うっかり
水という存在そのものを否定しようものなら、自分の体内の水分すらも否定してしまう事になり、死んでしまう。
そして、この力は一日に2〜3回しか発動できない。
銃撃の途切れた瞬間を見計らい、ビャクヤは煙の向こうの狙撃手達めがけて襲いかかった。霞んだ視界に、煙の向こう側で
人影が倒れていくのが映った。
「済んだよ。さあ、行こうか」
敵を蹴散らし、引き返して来たビャクヤは、俺の体を支えて歩き出す。が、数歩も歩かぬ内に、うめき声を上げて片膝を着いた。
その体が、縮み始めた。白い被毛が抜け落ち、細かい粒子になって空気に溶ける。骨格が変形し、筋肉が収縮し、ビャクヤ
は人の姿になった。
「…これは…?」
戸惑うように、人間のものとなった自分の手を見つめたビャクヤは、含み笑いを耳にして、倒れている男の一人に視線を向けた。
「く…、くふふ…、獣化因子抑制剤の効果はどうだ?獣になれまい…!」
「獣化因子抑制…。なるほど…」
ビャクヤは呟くと、男を無視して再び俺の体を支えた。
「…人間のままでは逃げられんぞ。…我々にはまだヤツが…」
立ち去る俺達の背に、男の言葉が投げかけられた。
「まあ、出くわしちゃったら、その時はその時だ。なるべくなら会いたくないけどね…」
ビャクヤは苦笑を浮かべてそう呟いた。
「もう少し、あと二階登れば地上だ」
ビャクヤは息を切らせてそう言うと、俺の顔を横目で見て微笑んだ。
「ヤチ、大きくなったね。こんなに重くなったなんて、全然気付かなかった」
「…お前の方が…、でかいし、重いだろ…」
俺が笑みを返し、ビャクヤが苦笑を浮かべた次の瞬間、突然の衝撃が俺達をまとめて吹き飛ばした。
その瞬間に何が起こったのか、全く分からなかった。気が付いた時には俺は宙を舞い、床に叩き付けられていた。
身をよじると、床に倒れ伏したビャクヤの姿が見えた。うつぶせに倒れたビャクヤの下で、赤い水たまりが広がっていく。
「…緊急招集に戻ってみれば…、留守の間に派手にやってくれたものだな」
ビャクヤの向こう、通路の先にフータイが立っていた。その爪が血に塗れている。
全身に痺れがあり、体が動かない。
ビャクヤが呻き、身を起こした。胸から腹にかけて深々と切り裂かれ、血が止めどなく溢れ出ている。深々と抉られた胸か
らは、白い骨が覗いていた。
ビャクヤは背を丸め、全身に力を込める。しかし…。
「…!?」
ビャクヤは自分の傷を見下ろし、そして自分の手を見つめた。変身しようとしたのだろう。だが、肉体に変化が起こらない。
…確か、さっきの男は…。
「これは…、確かに僕らにとっては劇薬だね…」
ビャクヤは苦笑を浮かべると、痛みに顔を顰めて片膝をついた。変身できないとなれば、あの負傷はまずい…!
「獣化因子抑制剤を使われたようだな」
フータイは、何故か不機嫌そうに言った。
「あの薬の効力は丸一日は切れん。力を失った者を狩るのは性に合わんが、これ以上好き勝手させる訳にも行かん。悪く思うな…」
丸一日…。人の姿のままではこの化け物に勝ち目はない。絶体絶命とはこの事か…。
諦めが頭をよぎると同時に、せめてビャクヤだけは逃がそうと思った。震えが治まらない四肢に力を込め、俺は身を起こそ
うとした。が、それに気づき、動きを止める。
ビャクヤが、俺を見ていた。これまでに見たこともないような哀しい目をして、微笑んでいた。
ビャクヤは僅かに笑みを深くして俺に頷くと、口を開いた。何をするつもりなのか、俺は一瞬で悟っていた。
「やめ…!」
俺の制止は、間に合わなかった。いや、例え間に合っていたとしても、ビャクヤは止めなかっただろう。
「否定する!」
ビャクヤの体から獣毛が生え出し、骨格が歪み、筋肉が膨張する。
俺の変身よりもずっと短時間、ほとんど一瞬で本来の姿を取り戻し、ビャクヤは立ち上がった。
「なんて…事を…」
俺はビャクヤが否定したものが何なのか、はっきりと分かった。正体不明の薬は否定しようがない。本来の姿に戻るために
ビャクヤが否定したのは…、人間としての姿だ…。一度否定したものは二度と戻せない。つまり、ビャクヤはもう二度と…。
変身したビャクヤの傷は、現在の俺をも上回る高速修復によって一瞬で治癒していた。
白い犬は短い間合いを置いて虎人と向き合い、両者が睨み合う。
ドンッ、と音が響いた。それが、二人が同時に地を蹴った音だと気付いたのは、両者が接触した後だった。
ビャクヤの固めた拳がフータイの腹部にめり込み、フータイの爪がビャクヤの右肩を深々と削り飛ばした。
スピードは俺と同じくらいだとばかり思っていたが、この時初めて知った。ビャクヤのトップスピードは、当時の俺の遙か
上を行っていた。この時の俺には、目で追うのすら精一杯だった。
そして、フータイの動きもまた俺の遙か上の次元にあった。めまぐるしく攻防が入れ替わり、外れた攻撃が周囲の壁を、床
を、粉々に破砕してゆく。
両者の実力は拮抗しているかに見えた。だが、時を経る毎に、その歴然とした力の差が浮き彫りになっていった。
避けきれなくなり、フータイが交差させた腕のガードの上から、ビャクヤは力任せに拳を叩き込んだ。白い豪腕はフータイ
の両腕を容易くへし折り、虎人を吹き飛ばす。
ビャクヤは、あのフータイをも凌駕していた。
壁に激突し、貼り付けになった虎人に、白い一個の砲弾と化したビャクヤが体当たりをかける。崩れた壁の向こうは、エレ
ベーターのシャフトだった。二人は壁を突き抜け、もつれ合って階下へと姿を消す。
人智を越える戦いに、俺はその場から動くことも忘れ、ただただ呆然としていた。
階下からの地鳴りのような音と振動はしばらく続き、そして唐突に静まった。
数分後、壁の穴のヘリに白い手がかかった時、俺は心底ほっとした。
ビャクヤは穴から体を引き上げると、顔に付着した血を手の甲で拭った。返り血なのか自分の血なのか、混じり合ってもう
分からなくなっていた。
「決着は着いた。行こう…」
言葉少なにそう言ったビャクヤは、とても哀しそうだった。だから俺は、止むを得ずフータイを殺した事を哀しんでいたの
だと、ずっと思っていた。
遠くに、燃え上がる巨大なビルが見える。
窓が割れ、雨のように地上へと落ちていくガラスの破片。
ぐったりとして動けない俺は、ビャクヤに抱えられてそれを眺めている。
俺を脇に抱えたまま、あいつは哀しげな目で燃えさかる炎を見つめていた。
「もう、大丈夫だよ…」
ビャクヤはそう囁き、大きな手で俺の頭を優しく撫でた。
子供扱いされるのが嫌だった俺は、いつもその手を払いのけていたが、実際は、その手の温もりに安心を感じていた。
薬のせいで体がだるく、意識が少しずつ薄れていく。
あいつは祈るようにしばらく目を閉じ、それから目を開け、自分の手を見つめた。
何の変化も起こらなかった。獣の特性は消えず、白い被毛はそのまま…。
ビャクヤの能力、「干渉否定」は絶対だ。一度否定された人間としての姿は、二度と戻ることは無い…。
あいつは、諦めたような、吹っ切れたような、そんな顔で笑みを浮べた。
「…僕はもう、人間社会には居られない…」
少し寂しそうに言うと、ビャクヤは俺の顔を見下ろした。
「辛い事もあったけれど、君と過ごした毎日は楽しかった。きっと、一生忘れない…」
あいつが何を言っているのか、朦朧とした頭では、すぐには分からなかった。
「…お別れだ。ヤチ…」
その言葉で、あいつが何を考えているのか、どうするつもりなのかがやっと分かった。
「…まて…よ…」
言葉が出ない。今にも消え入りそうな意識を必死に繋ぎとめ、俺はあいつの顔を見つめる。黒い瞳が、寂しそうに俺を見つ
め返した。
「……今までありがとう。元気でね…」
「…行…くな…!」
あいつの寂しそうな微笑みを焼き付けたまま、俺の視界は闇に染まり、意識が途絶えた。
「…気が付いた時には、俺はシルバーフォックスの医務室に居た。俺を運んだはずのビャクヤの姿を見た者は無く、ただ、い
つのまにか医務室の前に寝かされていたらしい。…こうして、ビャクヤは俺達の前から姿を消した。11年も前の話だ…」
長い、長い昔話を語り終え、俺はすっかり温くなったビールを喉に流し込んだ。
「全ては、俺の無力さと無思慮な行動が引き起こした事件だ…」
ヨウコは、泣いていた。
「俺を哀れんでいるのか…?それとも、ビャクヤの悲運を哀しんでいるのか…?」
眼鏡を外し、涙を拭いながら、ヨウコは首を左右に振った。
「分かりません。でも、何故か涙が…」
同情される事など、屈辱以外の何物でもないと思っていた。だが、ヨウコが俺達の為に泣いてくれた事は、何故か、ほんの
少しだけ嬉しかった。
「お兄さんは、それからずっと?」
「ああ…。人目を避け、どこかの山奥で暮らしているのかもしれない。ずっと手がかりを探してはいるが、いまだに見つから
ない…」
ヨウコは鼻をすすり上げ、ポツリと言った。
「ご免なさい。辛い話をさせて…」
「気にするな。話したらなんだか少しスッキリした」
そう応じ、俺は苦笑する。ヨウコは不思議そうに俺を見つめた。
「…俺にここまで口を割らせたのは、タマモさんを除けば、この11年でヨウコさんが初めてだ。あんた、凄腕の記者だな」
ヨウコは照れたように笑った。
朝が近づいていたが、じきに始まる一日に備え、俺達は眠りについた。
ここ数日で初めて、うなされて飛び起きる事無く、朝まで眠る事ができた。