FILE8
ヨウコがその少年を連れてきたのは、フータイとの戦いから二週間ほど経ってからだった。
後々になって思い返すに、この一件は、ヨウコが起こした数々の奇跡の中でも、とびっきりの一つだったと俺は思う。
「間違いない。この子はライカンスロープだな…」
事務所の応接室、向かいに座った少年を見つめ、俺はヨウコにそう告げた。
向かい合って座り、オドオドと落ち着かない様子で上目遣いに俺を見る少年は、今年で15歳になる中学三年生だという。
常に眉尻を下げて気の弱そうな顔をしており、身長はあまり高くない。運動も特にしていないのだろう。色白で、少しぽっ
ちゃりした少年だった。
この子の名は佐久間優(さくまゆう)。孤児院で育ったというこの少年は、ヨウコのファン…。つまり、オカルト雑誌、月
刊ミステリーラインの読者だ。…結構売れているのか?あの雑誌…。
何度かファンレターを貰っていたヨウコは、彼の手紙に書かれた悩み事に違和感を覚えたらしい。そして直に会ってみたと
ころ、どうにも普通の人間ではないように感じたという。ヨウコ曰く、
「ヤチさんや同族の皆さんと似たような雰囲気が感じられたので…」
との事だった。
驚いた事に、完全に看破するまでには至らないものの、ヨウコは相手がライカンスロープである事をなんとなく感じ取れる
らしい。俺と過ごす事で身についたのか、それとも元々素養があったのかは分からないが、人間としては非常に特殊な、そし
て希少な能力だ。
「ええと、佐久間君」
「あ、は、はいっ…」
少年が緊張した様子で返事をした。
「嗅覚の鋭さや、傷の治りの速さは、ずっと以前からかい?」
「思い出せる範囲ではそうです」
赤ん坊だった彼は、真冬の寒空の下、孤児院の前に置き去りにされていたらしい。凍死してもおかしくない状況だが、朝早
くに孤児院の人間に発見された時は、凍傷を負う事もなく、元気に泣き声を上げていたという。
両親の素性も、その後の状況も分からない。が、彼は自分が何者かという事を知ることもなく、これまで過ごして来たのだ
ろう…。
俺は、いつのまにか過去の自分自身と、少年の生い立ちを重ねて見ている自分に気付く。
ふと気になり、彼の生徒手帳を見せて貰うと、血液型の欄にはB型とあった。安定していない、幼少時の採血結果なのだろ
う。俺達は人間とは異なる血液構造を持つ。バレていなかったのは僥倖だ。
「…では、これから俺達…、つまり、君の同族についての話をしよう」
俺はそう切り出すと、佐久間少年に、俺達ライカンスロープの事を話し始めた。
「信じられないか?」
困惑している様子の少年に、俺はそう尋ねた。
「まあ、突然だし、突飛もない話だからな。信じられなくとも無理はない。だがこれは間違い無い事だ。俺の鼻は君が同族で
ある事を確信している。君も何か感じてはいないか?」
俺達同族同士は、例え人間の姿を取っている時でも、互いがライカンスロープである事を感じ取れる。この少年も、俺が他
の人間とは違うことを感じ取っているのだろう。俺の言葉を頭から否定はしなかった。
「今から、その証拠を見せよう」
俺は事務所のドアに鍵をかけると、上着を脱ぎ、シャツのボタンを外して拘束を緩める。
訳が分からない様子の少年の前に戻った俺は、精神の束縛を解き放った。
束縛が解かれる開放感が全身に広がり、体中の細胞が歓喜に震える。
皮膚から銀の被毛が生え出し、全身を覆う。
体中の骨格が変形し、筋肉が性質を変化させながら質量を増やす。
鼻と顎が前にせり出し、耳が頭頂側に移動し、形を変える。
「どうだ?これなら信じられるかい?」
目の前に現れた銀の獣に、少年は声も無く、驚いた様子で見入っていた。
人狼。各地の伝承に姿を垣間見せる人外の存在、その末裔が俺だ。
そして、この少年もまた俺と同じく人外の存在なのだ。
「今までに意識して変身した経験は無いようだが…、俺達の血は、ずっと押さえ込んでおく事などできない。何らかの拍子に
本来の姿を取り戻しても不思議では無いのだが…」
少し考えた後、思い当たる事があったので尋ねてみる。
「自分が、何か他の存在になる夢を見た事はないかな?」
少年は俺の姿が怖いのか、少し身を固くしながらも頷いた。まあ、怖いのは仕方がない。ヨウコのように最初から恐れを感
じない者の方が珍しいのだ。同族とはいえ、自分がそうと知らないで育ったこの子にとっては、俺は初めて目にする怪物なの
だから。
「昔から、何回かそういう夢を見ました。夢は自分の視点で、すごくリアルで、自分の姿が変わっている事に気付くまで、夢だと思えませんでした。それが何か…?」
佐久間少年はそう言って首を傾げた。
「夢の中で、君はどんな姿をしていた?」
「分かりません。自分の姿をはっきり見たことは無いんです。夢の中で、ボクはベッドの上で起き上がるんです。そして、ふ
と見たら手足や体から白くて長い毛が生えていて…、だから、また夢を見ているんだなぁ。と思って、そのまま夢の中で寝ま
す…」
「その姿で何処かへ行った事は?」
「これまではありません」
「それはどのくらい前から?」
「ええと、小さい頃からずっと…。ただ、最近はあの夢を見る頻度が増えているような気がします」
俺が腕組みをして考えると、ヨウコは小声で尋ねてきた。
「寝ぼけて変身しているんでしょうか?」
「…寝ぼけて、というよりも、精神の監視をかいくぐり、身体が勝手に変身しているのだろうな。先にも言ったが、変化をずっ
と押さえ込んでおくのは不可能だ。それに、この子の身体も大人になりつつある。頻度が上がっているのも頷ける」
「なるほど…、夢精みたいなものですか」
…いや…、まあ、…言われてみるとそうかな…。
「…とにかくだ…」
俺は咳払いをして少年に告げた。
「君は俺と同じように、ライカンスロープの血を引いている。君のその夢は、肉体が押さえ込まれる事を拒み、勝手に本来の
姿を取り戻しているのだろう」
「僕が…、変身…」
「そう簡単には受け入れられないのも無理はない。だが、自分の身体については正しく知っておく必要がある。いきなり人前
で変身したら困るからな」
本当は困るどころの騒ぎではないのだがな。俺は机越しに手を伸ばし、佐久間少年の手を掴んだ。少年は驚いて腕を引いた
が、放してはやれない。
「変身について簡単に説明する。コントロールさえ出来るようになれば、悩むにはあたらない事だ」
俺は少年の目を真っ直ぐに見つめ、ビャクヤに教えられたコントロール法を伝える。
「自分の鼓動を感じろ。魂の声に耳を澄まし、本能に身を任せろ。生きる事を、生き延びる事をイメージし、そして強く求め
ろ。力が欲しい、と」
「生き延びる…、力を求める…」
言葉を反芻する少年の身体の中で、何かが蠢くのを感じた。初めてにしては良い感触だ。
だが、次の瞬間、俺はその感触に違和感を覚えた。これは…、反発している?
じわりと胸の中心から全身に広がりかけた覚醒の波は、不意にかき消された。それ以上に強い波動によって。
少年ははっと我に返ると、俺の手を振りほどいた。思いの外強い力だったので、思わず手を放してしまった。
恐怖。そう、少年の双眸に宿っていたのは、恐怖の光だった。
「ご、ごめんなさい…!僕、もう帰らなくちゃ…」
少年はそう言うと、急に立ち上がった。
「そうか。…また今度、時間がある時にでもゆっくり来ると良い。それと、俺達の事は他言無用だ。これは厳守してくれ」
佐久間少年は頷く。誰にも話すつもりは無い事が、匂いで分かった。
ヨウコが困惑しながらも事務所の鍵を開けてやり、少年は転げ出るように出て行った。
「ずいぶん急いでいたな?孤児院の門限は早いのだろうか」
「…ヤチさん…!」
ヨウコは何故か、少し怒っているような調子で言った。
「もしかして、俺が何かまずいことを言ってしまったのか?」
俺がそう尋ねると、彼女は呆れたように言った。
「彼、ショックを受けているんですよ。想像してみてください。ずっと自分の事を普通の人間と思って過ごしていたのに、急
に、実は君は人間じゃない。なんて言われたら、誰だってショックを受けます。しかも、彼はまだ14歳の多感な子供なんで
すよ?」
…しまった…。俺は自分の無神経な言動にやっと気付いた。
物心つく頃から自分が普通の人間では無いと自覚していた俺と違い、彼は今日初めてその事を知った。…いや、無神経にも、
俺がストレートに人間ではないのだと告げてしまったのだ。他にも言いようがあっただろうに、言葉を選ばなかった…。
「彼の居る孤児院は何処か分かるか?」
俺は変身を解き、外出用に上着を羽織りながらヨウコに尋ねた。
「ええ、知っていますが…。どうしたんです?」
「彼に一言謝ってくる。全く…、デリカシーのない事を言ってしまったものだ…」
人目も気にせず全力疾走した俺は、バス停で佇む彼を見つけ、声をかけた。
「アザフセさん…?」
驚いた様子の彼に、俺は頭を下げた。
「済まない。君の気持ちも考えず。無神経にベラベラと話してしまった…。さぞ傷つけてしまっただろう…。この通り、謝る」
彼はビックリしたようにおろおろすると、顔を上げるように言った。
「…済まない…」
「もう、良いです。僕の方こそ、あんな風に飛び出したりして、済みませんでした…。ちょっと驚いてしまって…」
俺と佐久間少年は、近くの公園のベンチに並んで座っていた。
俺が詫びにと奢ったオレンジの缶ジュースを啜り、少年はポツリと言った。
「僕の両親は…、僕が人間じゃないと知って、捨てたんでしょうか…?」
「それは…」
おそらくそうだろうとは思うが、俺は答えに詰まった。
俺達は本来の姿で生まれてくる。俺の母親は、自分が産み落とした人狼の赤子を目にして狂い死にした。この子の母も、お
そらくは自分が産み落とした子が人間では無いことに恐怖し、そして捨てた…。
父親は居なかったのだろう。一緒に居たのならこんな事にはなっていない。一晩だけの関係だったのか、それとも正体を明
かさぬまま死別したのか、そこまでは分からないが…。
「良いんです。両親の事はもう、恨む気持ちも有りませんから。不幸自慢みたいで嫌だけど、辛いことにはもう慣れましたから…」
…どうやら、孤児院というのも、俺が想像しているような住み良い場所ではないらしい。
「それに…、ビックリはしたけれど、僕と同じような人も、ちゃんと生活しているんですよね?だったら、僕も頑張れるよう
な気がします」
少年は俺に微笑んだ。俺の鼻は、それが非常に上手な作り笑いだという事を嗅ぎつけていた。
「それにしても、シラナミさんといい、アザフセさんといい、僕の正体がすぐに分かるんですね?」
「まあ、彼女の事は俺も驚いているが…、同族同士は感覚で分かる。君も、俺が他の人間とは違う事を感じ取っただろう?」
「ええ、まあ…。言われるまでは、この感覚がそうだとは気付かなかったんですけれど…。だとすると、あの人も僕と同じな
のかな…?」
何気ない言葉の意味を瞬時に察し、俺は反射的に尋ねていた。
「…誰だ?それは」
「あまり良く知らない人です。数ヶ月前に、街中でいきなり「割の良いバイトがある。研究に協力しないか?」って声をかけ
てきて、それからちょくちょく会いに来るんですけれど…。製薬会社の人らしいです。怪しいから断り続けてますが…」
…まさか…。いや、しかし…。
俺が情報を吟味していると、佐久間少年は腕時計を見て声を上げた。
「あ!そろそろ、帰らなくちゃ!」
そう言って立ち上がると、彼はおずおずと俺に尋ねた。
「…あの…。また、相談に行ってもいいですか?」
「もちろんだ。電話を一本くれれば、予定を開けて待っているよ」
佐久間少年は、今度は本物の笑顔を見せた。
少年はジュースの礼を言って、俺に手を振ってバス停に向う。振り返した手を下ろしながら、俺は考える。
少年の状況。会いに来る製薬会社の男。割の良いバイト。…気になる。調べなければならないだろうな…。
そして今、俺は孤児院の敷地内に生えている木にしがみつき、彼の部屋を覗き込んでいる。
気になって仕方が無く、彼の状況を観察すべく、先回りして敷地に忍び込んだのだが…。
彼は帰ってくると、大勢の子供がいる食堂で、人を避けるように一人離れて食事を摂った。冷えたスープとパン、あまり多
くはない量の食事を静かに食べる彼を、施設の職員だろうか?若い男が遠巻きに、汚らわしいものでも見るように見つめていた。
食事を済ませると、彼は食器を洗い、食堂を出て行った。誰も声をかけず、努めて無視するように、佐久間少年に視線を向
けようとしなかった。
正体に気付かないながらも、彼の異質さを感じているのだろう…。これならば居心地が良い訳がないな…。
それから少年はどこかへ行くと、しばらくして、二階にある一室、恐らく自室としてあてがわれている部屋に現れた。
おそらく入浴してきたのだろう。髪が湿っている。
少年は机に向かい、学校の宿題だろうか?勉強を始めた。
10時になると、消灯時間なのだろう、施設の各部屋から明かりが消え、少年も電気を消し、ドアに施錠してからベッドに
潜り込んだ。
眠りについた佐久間少年を朝まで観察したが、今回は変身する事は無かった。
…毎回、探偵としてターゲットに張り付いている時には考えもしなかったが、今回はまるでストーカーの真似事をしている
ように思えるな…。
少年の事を報告すると、タマモさんは興味深そうな顔をした。
「生まれた時から人間の中に混じり、それと知らずに過ごしていたライカンスロープ…。私が知る限り初めてのケースだわ」
「ああ。俺も少々驚いている。よくもバレずに過ごせたものだ…」
俺達はススキの間で向かい合っている。俺は本来の人狼の姿だが、タマモさんは仕事中だし、いつお得意様が来て呼ばれる
か分からないので、人間の姿のままだ。まあ、日中だから呼ばれることなど無いと思うが…。
「話は分かったわ。全面的に協力しましょう。その子自身の決心がついたなら、すぐにでも皆さんを集めて会合を開くわ」
どうやら仲間に加える事には賛成らしい。これで心配事は一つ減った。だが…。
「それにしても、その子が会ったという製薬会社の男…。気になるわね…」
「同族の可能性がある。とはいえ、あの子の感覚はまだ不確かだ。確信は持てないが、調べてはみよう」
「悪いけど、お願いするわね」
フータイが絡んでいる以上、戦う力のある者が調査に当たらなければならない。同志達の中でも機動力のある俺が最適なの
だが、俺だけに負担をかけているようで、タマモさんは心苦しいらしい。望んでやっている事だ。気にすることはないのだがな…。
彼の状況についてしばらく話をしていると、俺の携帯が鳴った。画面に浮かんだ着信相手は件の少年、サクマユウだ。
俺は電話を口元に当てる。耳は電話から離れているが、聴覚が鋭いから問題は無い。
「サクマ君か。昨日は済まなかったな」
『いいえ、もう気にしないで下さい』
一晩経って落ち着いたのか、昨日よりも大分明るい声だった。
『あの…、今日、学校が終わったら、お邪魔しても良いでしょうか?』
学校の公衆電話からかけているのだろう。彼の声の後ろで、子供達の声が反響しながら聞こえている。
会話の内容が聞こえていたのだろう、タマモさんが口を開いた。
「せっかくだから、ここで待ち合わせたらどうかしら?私もその子に会ってみたいわ」
それも良いか。などと考え、それから俺は慌ててその考えを吹き飛ばした。
このホテルは歓楽街の最奥だ。こんな教育に良くない場所に、中学生を呼び出すわけにはいかない!
「ああ、分かった。事務所で待っているよ」
電話を切った俺を、タマモさんはちょっと残念そうに見ていた。
…無神経なのは、どうやら俺に限った事ではないらしい。俺達ライカンスロープ全体に言える事なのか?
「そうだ。呼吸を落ち着かせて…。そう、良い感じだぞ…」
俺は佐久間少年の手を握り、変身できるように導いてやりながら、声をかけていた。
場所は我が憩いの場所、リビングだ。事務所には鍵をかけてきたので、不意に来客があっても大丈夫。
少年はため息をつくと、額の汗を拭った。変化の兆しは感じられるのだが、なかなか上手く行かない。…恐らく、人間とし
ての自分にしがみつく心と、獣としての自分を恐れる心があるせいだろう。これは時間をかけて解決していく他はないな…。
「少し疲れただろう?一息いれよう」
俺はそう声をかけ、帰ってくる途中で買っておいた果汁100パーセントのオレンジジュースを開ける。
「オレンジジュースくらいしかないが、良いかな?」
「有り難うございます。ボク、オレンジ好きなんです!」
昨日も俺が奢ると言った時、オレンジジュースを選んでいたから、嫌いではなかろうと思ってはいた。このジュース、結構
良い値段がしたが、喜んで貰えてなによりだ。
「甘い物が苦手でなければケーキもあるぞ?どうだ?」
これも帰る途中で買ってきたチーズケーキを出す。佐久間少年は、一度は遠慮したが、強く勧めると、丁寧に礼を言って嬉
しそうに食べ始めた。
そんな彼を眺めていたら、俺は少し和んだ気分になっていた。弟を見ている時は、こういう気分になるものなのかもしれな
いな…。
そして思う。あいつは、俺がこの少年を見ているような気分で、いつも俺を見つめていたのだろうか?
ケーキを食べ終えると、佐久間少年は、俺の顔を見つめて口を開いた。
「あの…。アザフセさん?」
「なんだ?」
「アザフセさんは、シラナミさんの恋人なんですか?」
「…は…?」
意表を突かれた俺は、目を丸くしていた。
「あ、違いましたか?なんだかそういう風に見えたので…」
悪い冗談だ。以前ならそう即答できたが、どうなのだろうか?少なくとも、以前と比べて好感は持てる。それに、時折だが
魅力的に見える事もあるが…。…まあ、この件は保留しておこう…。
「残念ながら、ただの同居人だ」
そう答えながら、何が残念なんだ?と、心の中で自分につっこんでいた。
「それより、俺の苗字は呼びにくいだろう?ヤチでいい。俺も名前の方が気に入っている」
「あ、はい。それじゃあ、ヤチさん?」
「うん?」
「名前が気に入っているって…、苗字もかっこいいのに、嫌いなんですか?」
「いや、嫌いという訳ではない。単に、兄がくれた名前だから気に入っているだけで」
「お兄さんが居るんですね?」
少年は少し羨ましそうな顔をした。
何故か、哀しい気持ちになった。この少年は、兄弟はおろか両親も居ない、天涯孤独の身なのだ…。
「良いな…。ボクも、ヤチさんみたいなお兄さんが居たら良かったのに…」
「佐久間君…」
何と声をかければいいか分からず、俺は言葉に詰まる。こういう時、ヨウコならなんと声をかけるだろうか…。
少年は、何故か俺に微笑んで見せた。
「僕の事も名前で呼んでください。名前は、たぶんお母さんがくれたものだから。…捨てられていた時に着ていた産着に「優」
って書いてあったんです…」
胸が痛んだ。自分を捨てた母を、この子はまだ慕っている…。俺がこの子と同じくらいの時、傍にはビャクヤが居てくれた。
だがこの子には、肉親の愛を求めても、応えてくれる相手は居ない…。
「では、ユウ君と呼ばせてもらおうか」
俺がそう言うと、彼は不満げに眉根を寄せた。言葉遣いや態度は大人びているが、今の彼は実に子供らしい表情だった。
「ユウ、って呼び捨てにしてくださいよ。なんだか施設の職員の人みたいで、いやです」
「…施設の人間は、好きじゃないか?」
自分がうっかり口にした本音に気付いたのか、彼は俯いて黙り込んだ。
「…あんまり、好きじゃないです…」
気付いているのだろう。自分に対する視線に込められた感情に…。そうでなくとも、彼の嗅覚は人間とは別の次元にある。
匂いで相手の感情が大まかに察せられるのだから。
「ユウ。あまり悲観することは無い」
ユウは顔を上げ、俺を見つめた。
「人間の中にも、俺達を理解してくれる者が居る。ヨウコさんのようにな」
少し前ならば考えもしなかったし、口にもしなかった事だ。俺は人間を良く思っていなかった。信用ならない、警戒すべき
相手だとだけ思っていた。だが今は違う。ヨウコの存在が、俺の価値観を大きく変え始めていた。
「もう遅くなる。帰った方が良いだろう。良ければ、また明日来ると良い。俺で良ければ相談に乗るし、話し相手にもなろう」
ユウは嬉しそうに笑みを浮かべ、頷いた。
俺は、この少年についてある事を考え始めていた。まずはタマモさんの承諾を得なければならないな。それから、ヨウコに
も相談した方が良いだろう。
きっと上手く行く。俺はそう確信していた。
ヨウコが帰って来ると、俺はユウについて考えた事を相談した。
「タマモさんには承諾を得た。もちろん、君の意見次第だが…」
ヨウコは笑みを浮べると、深く頷いた。
「良いと思いますよ?素晴らしい事だと思います」
快諾してくれたことに感謝しつつ頭を下げると、ヨウコは苦笑した。
「もともと、ここはヤチさんが借りているんですから、私に気兼ねする事なんてないのに」
「いや、やはり意見は聞くべきだと思ったので…」
「律儀ですねえ…。そして、やっぱり優しいですね。ヤチさんは」
俺は、顔が赤くなるのを感じた。尻尾が勝手にパタパタ動いた。…嬉しかったのか?優しいと言われた事が…。