FILE9

ここ最近いつものように、ユウは学校の帰りに事務所を訪れる。

今日もまたやって来た少年に菓子とオレンジジュースを勧め、俺はヨウコやタマモさんと相談した件を、彼にどう伝えたも

のかと考えを巡らせた。

「ところで、ヨウコさんの雑誌を、ずっと愛読しているのか?」

いつもの変身練習をひととおり行い、休憩を取りながら俺は尋ねた。

「はい。でも、元々別の方が担当していた頃は、あのコーナーあまり面白くなかったんですよ。シラナミさんが担当するよう

になってからファンになりました」

「その前は何が好きで読んでいたんだい?」

「自殺の名所を紹介するコーナーがあって、そこが今でも気に入ってます。凄いんですよ。これまでに自殺したケースや、遺

体が発見された状況まで細かく載っていて、各種交通手段でのアクセス方法や所要時間、料金まで書いてあるんです!」

ユウは目をキラキラさせながら熱心に説明する。…というか、良く発禁にならないな、月刊ミステリーライン…。

「…死ねば、楽になれるかなって、思っていた事もあったんです…。でも、そんな勇気も無くて…。ただそんな情報を集めて、

ああ、痛いだろうなぁ、苦しいだろうなぁ、って、そう思うだけだったんですよ」

「…ユウ…」

無性に悲しくなり、俺の耳は意思に反してペタリと寝る。

「そのお陰かな?記事を読んでいる内に怖くなって、自殺を考える事はなくなりました」

ユウは笑ってそう言った。

俺は、この幼い同族の事が無性に気になった。家族を知らずに育った、昔の俺と重なるのだろうか?それとも、ビャクヤが

俺にしてくれた事を他の誰かにしてやりたいと思っているのか?自分でも、この気持ちが一体何なのか分からず、持て余して

いるというのが正直なところだ…

「ユウ。もしも、君が良ければの話だが…」

俺は口調を改め、少年の顔を見つめて話を切り出した。

「孤児院を出て、俺達と一緒に暮らさないか?」

予想もしていなかったのだろう。ユウは目を丸くして俺を見つめていた。

「これからライカンスロープとしての生き方を学ぶ上でも、同族との生活は役立つと思う。それに、自覚はしていないと思う

が、ずっと人間の姿を取っている事は、身体的にも、精神的にも負担がかかるものだ。変身が意識下でコントロールできるよ

うになっても、大勢と暮らす孤児院では、本来の姿に戻って体を休めるのも難しいだろう」

黙ったままのユウに、俺は微笑みかけた。はたして、人間の中で育った彼に、狼の笑みがどのように見えるのかは分からな

いが…。

「無理に勧めるつもりはない。もしも君が嫌でなければの話だ。ただ、そういう選択もあるのだという事を、心のどこかに留

めておいて欲しい」

ユウは依然として黙りこくったままだった。そして、用意していた言葉を言い尽くした俺は、その時やっと、自分が本当に

言いたかった事が何なのか分かった。

「…君は独りじゃない。その事だけは忘れないで欲しい」

ユウは少し目を大きくし、俺の顔を見つめた。

…そう。これこそが、俺が彼に伝えたかった事だ。

ビャクヤが居なくなり、一人で暮らすようになってからは、こんな当り前の事をも忘れていた。ヨウコと暮らすようになっ

て思い出したのだ。

独りじゃない。こんな俺にも自分の事を気にかけてくれる他者が存在する。俺にとってのヨウコやタマモさん、同志達と同

じように、ユウにとっては俺がそんな存在になれれば良いと思っている。

「…良いんですか?だって、僕、ヤチさんとは赤の他人なのに…。なんで、なんでそんなに親切にしてくれるんですか?」

「赤の他人でも大切な同族だ。兄は俺に、受け取りきれないほどの愛情を注いでくれた。俺も、兄から受け取りきれなかった

分の愛情を、君に分けてやりたい。これは、俺自身の願いでもある。…どうも、上手く説明できないな…」

俺が頭を掻くと、ユウは顔を歪ませた。

「お、おい?どうした!?」

ユウは、涙をポロポロと零し始めた。

「…また何かまずい事を言ってしまったのか?」

慌てた俺に、ユウはしゃくりあげながら首を左右に振った。

「ち…、ちが、うんですっ、うれし…くてっ、僕、誰かに、そういう風に…言われたことっ、なかっ…なかったからっ…」

涙を流しながら肩を震わせるユウが、たまらなく愛しく、そして不憫だった。この若き同族は、顔にこそ出さないものの、

心の内ではどれほど愛情を欲していたのだろうか?

肉親も、己を知る者も無く、自分の正体すらも知らずに育った少年…。

守ってやりたいと思う。おそらく、俺を迎えに来たビャクヤも、きっと同じ心境だったのだろう…。

俺は、ユウの震える体をそっと抱きしめた。



「僕は、変身したらどんな姿になるんでしょうね?」

落ち着いたのか、泣きはらした顔に笑みを浮かべ、ユウは俺の顔を見つめた。

「ヤチさんみたいにカッコイイと良いな」

俺の尻尾が意思に反して勝手に動いた。カッコイイと言われて嬉しかったのだろうか?最近体がやけに正直者で困る。

「でも無理かなぁ…。僕は元が良くないから…、変身してもタヌキとか、アライグマとか、そんな感じかな…?」

それはそれで可愛いと思うが?…こんな感想も、少し前なら抱かなかっただろうな…。

「本来の姿は、それこそ動物の種類ほどあると言っていい。さすがに微生物や深海魚などに変わるやつは見たことが無いが、

犬猫から馬、象、実に様々なライカンスロープが存在するからな…。実のところ、ある程度目星は付いているが…」

「なんですか!?」

よほど興味があるのか(当り前だが)ユウは身を乗り出した。俺は苦笑しながら応じる。

「哺乳類。それも、鼻が利く種族だろう。手足に毛が生えるという話だったし、人間の姿のままで鼻が利くのはその証拠だ」

「狼だったら良いな…、そうしたら、ヤチさんと兄弟みたいに見えるかも」

「兄は俺とあまり似ていなかったぞ?犬型で、白くて大きく…、白熊のようだった」

俺が肩を竦めて見せると、ユウは可笑しそうに笑った。

「本当に、良いんですか?その、僕なんかが来たら迷惑なんじゃ…」

「迷惑なんかじゃないさ。実を言うと、ヨウコも賛成してくれている。本当に君次第だ」

ユウはその後もしばらく迷っていたが、結局、首を縦に振ってくれた。

あとは、俺が孤児院の経営者と直接会って話をするだけだな。



「と言うわけで、ユウを引き取らせて頂きたいのです」

俺は話を締めくくると、孤児院の院長。年を取った白髪の老人にそう告げた。

14年ほど前に、俺の遠縁の親戚が借金を苦に自殺した。生まれたばかりの優という名の赤ん坊が居たはずだったが、遺体

は見付からなかった事。そして、先日ばったり出会ったユウが、その親戚の若い頃に瓜二つで驚いたという事を話した所だ。

俺の事はホテルのオーナーと話している。所有しているホテルには、タマモさんの了解を得て、彼女が所有する5つのホテ

ルを上げておいた。

…もちろん、全てヨウコとタマモさんと相談してでっちあげたホラ話だがな。

「ここまでユウを立派に育てていただいた事には、本当に感謝しております。こんな形でお礼というのも、実に心苦しいので

すが…」

俺はそう言いながら、持参した革の手提げ鞄を机の上に乗せ、開いて見せた。

中にはぎっしり札束が詰まっている。その額一千万。…勘違いするなよ?全部俺が働いて貯めた金だ。やましいモノじゃな

い。…まあ、狩りの報酬も混じっているが…。

老人は最初こそ胡散臭そうに俺を見ていたが、食いぶちが減るのだ、悪い話でもない。

それに、ユウを異質に感じ、厄介払いしたかったのかもしれない。そんな心境だったのだろうから、鞄の中身を見た老人は、

急に愛想が良くなった。

もちろん、ユウを引き取ることには異存はないそうだ。



「荷物を纏め終わったら連絡をくれ、迎えに来る」

ユウの部屋で、俺は荷造りに取り掛かった彼にそう告げる。

「良いんですか?荷物少ないから、明日の夜までには終わってしまいますよ?」

「そうなのか?それじゃあ、明日にでも家具を調達しないとな。幸い明日は日曜だ。学校も休みだろう?一緒に家具を選びに

行こうか」

不思議なことに俺は少々うきうきしていた。家族が増えるという事が単純に喜ばしかった。これも、ヨウコがくれた感覚か

もしれない。



孤児院の外に出た俺は、夕焼けに染まった茜の空気を胸いっぱいに吸い込む。

自分でも不思議に思うほど心が弾んでいた。これから少しばかり苦労が増えるはずなのだが、そんな事はどうでもよかった。

自然と足取りが弾む。何年ぶりだろうか?こんな感覚は。

晴れ晴れとした気分で孤児院の門を潜り、道路に出た瞬間に、俺はソレに気付いて気を引き締めた。

正面から歩道を歩いてくる厳つい顔つきの男。…同族の匂い…、だが俺の知らない顔だ。

…まさかこいつが…?

男も気付いたのか、足を止めて俺を見つめた。一瞬見つめ合った後、そいつは踵を返して走り出した。俺はすぐさま後を追

って走り出す。

間違いあるまい。あいつこそが、ユウの言っていた同族の匂いがする製薬会社の男だ!



男が逃げ込んだのは、建設途中で遺棄されたビルだった。

墓石のようなコンクリートの立方体に、窓と入り口になるはずだった所が、ポッカリと口を開けている。

俺は周囲の気配を探りながら、ゆっくりと入り口を潜り、匂いを辿って奥へと進む。

二階に上がり、ドアが入るはずだったらしい長方形の穴を抜けた所で、俺は目当ての男と対面した。

しきりのない、柱だけがポツポツと立っているだだっ広いフロアの中央に、そいつは一人で立っていた。

男は薄笑いを浮かべて俺を見つめる。…追いながらもしやとは思っていたが、やはりそうか。こいつは逃げていた訳では無

い。俺を誘い出したかったのだろう。

「貴様、ライカンスロープだな?」

「そうだ」

男の問いに頷きながら、俺は微かな違和感を覚える。他の匂いが混じり合わないこの場だからこそ気付いたが、なんとも奇

妙な匂いだ…。まるで、男の居る場所に数人が居るような、そんな匂い…。

「ギリアム・ミラーという男、知っているな?」

男は薄笑いを浮かべたまま尋ねる。まあ、フータイには俺がネクタールを追っている事が知られている。こいつもネクター

ルの側についているのなら、俺の事も筒抜けで当たり前か。

「ミラーは俺が狩った。お前もヤツの仲間…、ネクタールの飼い犬か?」

「ふん。あんな雇われと一緒にして貰っては困るな。俺の名は加西双角(かさいそうかく)。ネクタール四天王の一人よ」

……………。

「ふっ!驚いて声も出ないか!?」

「…ちょっと良いか?」

俺は疑問を覚えながらソウカクに尋ねた。

「お前、製薬会社の四天王という自分の立場に疑問は無いのか?」

「何を言う!名誉ある立場なのだぞ!?」

…こいつ…、少々阿呆だな…。

「…ついでに言うと、ネクタールは秘密裏に動いているのだろう…?驚くも何も…、お前の事など知らん」

さすがにこれは堪えたのか、ソウカクは、

「ぐうっ!?確かに…!」

と一歩後ずさった。…何故か疲れる…。

「貴様、ただのライカンスロープでは無いな!?名を聞いておこう!」

いやもうただのライカンスロープで良い。などと思い始めたが、一応名乗っておく。

「アザフセヤチ、か。覚えておくぞ」

…?こいつの反応…、奇妙だな…。

「…俺を知らないのか?」

「むう?有名人なのか?」

「…いや、そういう訳じゃ無いんだが…」

どういう事だ?てっきりフータイから俺の情報が伝わっているものと思ったのだが…。こいつは俺の名を初めて聞くらしい。

一体…?

「まあ良い。貴様がライカンスロープである事に変わりはなく、俺の仕事も変わりはない」

「お前の仕事というのはつまり、ライカンスロープを捕らえたり、狩ったりしてネクタールに提供する事か?」

「ぬう!?貴様何故知っている!?」

「いや、そうかと思って聞いてみただけなのだが…」

「しまった!ハメられたのか!?」

驚愕の表情を浮かべるソウカク。…だいぶ疲れる…。

「ま…、まあ良い…。事実を知った所で、この場で貴様を狩れば秘密の漏洩は防げる…」

やる気になったのか、ソウカクはニヤリと笑うと全身に力を込める。無論、俺も同時に全身を縛る意識の束縛を解き放った。

全身を銀の被毛が覆い、筋肉が膨れ上がる。

骨格が音を立てて変形し、尾てい骨が伸びて尾を形成する。

鼻と顎が前にせり出し、耳は頭頂に向かって移動し、ピンと立つ。

「ほう、人狼か!これは珍しい」

変身を終えた俺を見据え、ソウカクが鼻息を荒くした。

人狼の姿を取り戻した俺の前に立つのは、鎧にも似た分厚い、硬質の皮膚に全身を覆われた小山のような巨体。二本の角を

持つ、直立したサイだ。

草食獣だからといって嘗めてはいけない。実際、野生のサイが生息するインドでは、虎に襲われて死ぬ者より、サイによっ

て命を落とす者の方が圧倒的に多いのだ。野生動物としてサイの危険性は、そのままライカンスロープにも当てはまる。硬質

の角、鎧のような皮膚、戦車のような体躯、圧倒的なパワー。どれを取っても脅威だ。

厄介な相手ではあるが、俺にはヤツを遙かに上回るスピードがある。気は抜けないが、決して勝てない相手では無い。

ソウカクは床を振動させて突進してきた。思ったよりは速いが対処には問題ない速度だ。

素早く左右に身体を振り、狙いを絞らせないようにしながら真っ向から接近し、交錯する一瞬に首筋を切り裂く。

一撃を加えたにもかかわらず、ソウカクはそのまま突進し、柱の一本を薙ぎ倒す。…まともに食らえば一発でペシャンコだな。

俺は鉄分を集中させ、鋼の輝きを宿した爪をチラリと見る。十分な速度を乗せ、相手の勢いを利用したが、それでもまだ浅

かった。爪は僅かに血に濡れていたが、首の動脈を断つには至っていない。

ソウカクはコンクリートの粉塵が舞う中でゆっくりと向き直ると、自分の首に手を当てた。そして、そこについた僅かな血

を目にし、驚く。

「なんだこれは?傷が塞がらぬ?」

「知らなかったのか?人狼の呪いを。俺の力は同族の再生能力を阻害する」

「なるほどな…。だがこの程度の傷、いくら負った所で問題ないわ!」

そう、ヤツの言うとおりだ。俺の呪いは完全に再生不可能にする訳ではない。あくまで治癒を遅らせるだけなのだ。かすり

傷をいくら負わせた所で勝ち目は無い。

少々危険だが、一撃離脱を繰り返し、隙を見て目を潰すなりしないとダメだろう。

攻撃手段がそれしか無いのか、ソウカクは再び俺に向かって突進してきた。先と同じようにカウンターを狙って身構えた俺

に対し、ソウカクは両手を左右に大きく広げた。左右には逃がさないという事か。結果的にはノーガードになる訳だが、よほ

ど自分の頑強さに自信があるのだろう。

俺は僅かに身をかがめ、大きく跳躍する。頭上を飛び越し、背後から奇襲をかけるつもりだった。だが…。

「ちぃっ!」

俺は脚を襲った衝撃によって、宙で体勢を崩した。四つんばいで着地し、脚をチラリと見る。左の腿が、ザックリと切り裂

かれていた。

「ふははは!驚いたか!」

向き直ったソウカクが、俺に腕を翳して見せた。

五指に生えるのは、先ほどとは明らかに形状の違う爪…。それはまるで猫科の爪のように、湾曲した鋭い爪だった。

ソウカクは頭上を飛び越そうとした俺を、まるでバレーのアタックのように手で叩き落とそうとした。その際に変化してい

た爪に気付いた俺は、一瞬動揺したせいで身を捌き切れなかったのだ。

「これがネクタールの生み出した技術、キメラブラッドの力よ!」

「キメラ…ブラッド、だと?」

「いかにも!ライカンスロープから抽出された因子を別の個体に移植し、その特徴を引き継がせる画期的な技術!施術の効果

はこの通り!」

背筋を悪寒が走った。狩られる同族…、抜き取られた血液…、そして心臓…、まさか…?

「…つまり、キマイラ…、複数の獣の特徴を持つライカンスロープを生み出す技術…、そういう事か?」

なんとも禍々しい話だ…。胸が悪くなる。

「その通り!ネクタールに着けば、このように簡単に力が得られるのだ!」

「…力を得る為に、同族を狩り、やつらに引き渡しているのか?」

胸の奥で、どす黒い憎悪の炎が燃え上がった。

ソウカクは不思議そうに俺を見据える。

「何が気に食わぬ?弱者は強者の糧となる。自然の摂理ではないか!」

そうだ。少し前ならば俺も同じ意見だっただろう。今でもその理論を完全には否定しない。だが…。

「お前は、自分より弱い者に、庇われた事があるか?」

ソウカクは嘲るように鼻を鳴らした。

「自分を圧倒する力に立ち向かう、無力な者を見た事はあるか?」

馬鹿にしたような表情を納め、ヤツは俺の言葉に首を傾げた。

「お前は力を得たのかもしれない。だが、引き替えに同じ位に大切な物を失った」

傷の修復を終え、俺は立ち上がる。そして真っ直ぐにヤツの瞳を見据えた。

「誇りと引き替えに力を手に入れ…、それで満足か!?」

脚力最大、俺は床を蹴り、銀の砲弾となってヤツに接近した。振るわれた腕をかいくぐり、喉をめがけて下から手刀を突き

出す。鋼の爪が、逸らされたソウカクの首を深々と切り裂き、血風を巻き上げた。

声を上げて腕を振り回すヤツの間合いから即座に離脱し、再度別の角度から切り込む。ヤツの右目を潰した爪は、そのまま

頭頂へと抜け、右耳ごと頭皮を削り取る。

銀の突風となって立て続けに奇襲と離脱を繰り返す内に、ソウカクの身体は朱に染まった。

…このまま沈めてやる!さらに速度を上げようとしたその時、俺の視界にあるものが飛び込んできた。

部屋の入り口から顔を覗かせ、青い顔でこちらを見つめている一人の少年…。

「ユウ!?」

思わず声を上げると同時に、ソウカクが振り向いた。失策!気付かせてしまった!

ソウカクはユウを人質にでもするつもりなのか、口元に醜悪な笑みを浮かべ、入り口に突進した。

「ユウ!逃げろ!」

ユウは俺以外のライカンスロープを見るのは初めてだ。加えて、闘争の場に居合わせるのも初めてのはず、少年は恐怖のあ

まり身動きがとれなくなっていた。

俺はソウカクを追い越し、ユウとの間に割って入った。急停止して方向転換、全身をバネにしてたわめ、正面から砲弾とな

って突撃する。

全力で放った右の抜き手が、ソウカクの左胸を貫いた。心臓を貫く手応えと同時に、ヤツの口から鮮血が吐き出される。

俺は腕を引き…、そして気が付いた。ソウカクの胸から力が抜けていない事に。

膨張した筋肉が腕を締め付け、腕が抜けない!馬鹿な!?見上げた視線がソウカクの目を捉えた。憎悪を湛えた目は、いさ

さかも力を失っていない!

ヤツの胸を蹴り付け、強引に腕を引き抜いた。が、一瞬遅い。

ソウカクは斜め下から突き上げるように首を振り上げる。飛び退くのは間に合わず、俺はまともに胴に頭突きを食らった。

二本の角が俺の胸と腹を貫き、背中まで貫通する。

肺が潰され、気管から上ってきた血が口から溢れる。ソウカクは俺の身体を串刺しにしたまま、いきり立って頭を振り回す。

その勢いで傷口が広げられ、上から振り下ろされた際に俺の身体から角が抜けた。

床に叩き付けられた俺は、ゴロゴロと転がり、うつぶせで止まった。

「くそっ!せっかく移植した心臓が潰れた!」

ソウカクが苛立たしげに吠える。…ぬかった…、集めた同族の心臓は、移植されてヤツらの力になっていたのか…。

「ヤチさんっ!!!」

誰かが俺の身体に縋り付いた。霞む視界の中に、ユウの泣き顔が見えた。

逃げるように言おうとしたが、溢れかえった血で喉がゴボゴボいうばかりで声にならない。…まずいな、身体強化に力を使

いすぎたか…、身体が動かない…。

「ごめんなさい!ごめんなさいっ!ヤチさんがあいつを追いかけて行くのが見えて…、気になって、それでついて来ちゃった

んです…!」

いいから逃げろ!このままではお前もあいつに…。

ユウは袖で涙をグイッと拭うと、立ち上がった。何を思ったか、俺に背を向けて数歩進み出ると、ソウカクと向き合う。

そしてユウは、短い両手を精一杯大きく広げ、俺とヤツとの間に立ちはだかった。

「ヤチさんをいじめたら、許さない!」

ソウカクが赫怒に歪んだ顔に嘲笑を浮かべた。

「ふん!己の真の姿も知らぬ小僧に、何ができる!?」

ユウの声は上ずり、身体は震えていた。それでも、押し潰されそうな恐怖に耐え、少年はソウカクを睨み付けた。その口が、

小さく何かを呟き続けている。

「…生きるんだ…。生き延びる、僕も、ヤチさんも。死なせるもんか、生き延びるんだ…」

ユウは、例え無力だとしても、その心は強く、誇りに満ちている。立ち向かう事、何者にも屈服しない事を本能的に実践す

る気高き魂…。そう、…ヨウコと同じだ…。

小刻みに震えているユウの背が、霞む視界の中で大きくなったように見えた。

…いや、違う…。これは…!?

白く、長い被毛がユウの色白の腕を覆った。

ふっくらとした小柄な身体が筋肉で膨張し、骨格がメキメキと音を立てて変形する。

鼻と顎が前にせり出し、頭頂に寄った耳は丸くなる。

身に付けた衣類を突き破り、発達した筋肉で盛り上がった背があらわになった。

自意識下での初の覚醒に至った若き獣は、背を反らし、喉を垂直に立て、ビルを揺るがす程の猛々しい雄叫びを上げる。

それは、色素の抜けたような赤い瞳を持つ、純白の毛皮に覆われた一頭の獣。

ユウの本来の姿は、気弱そうな普段の様子とは対照的だった。まだ成長途中であるため少々小柄ではあるが、ユウの本来の

姿は、凛々しく、そして雄々しい、純白の熊だった。

「ちぃっ!変身できるようになっていたのか!?」

ソウカクはそう吐き捨てると、床を蹴って突進して来た。ユウは真っ直ぐにソウカクを睨み付け、腰を落として構えると、

正面からヤツの突進を受け止めた。

信じられない光景だった。覚醒したばかりのユウは、ソウカクの角を両手でしっかりと掴み、コンクリートの床に足の爪を

食い込ませて踏ん張った。

押し込まれるように後退したものの、ユウは俺の手前で停止し、自分の三倍近い大きさのソウカクの突進を、見事に食い止

めたのだ。

ユウはソウカクの角を掴んだまま、両腕を持ちあげた。

「ば、馬鹿な!?」

ソウカクの巨体が、角を掴んだユウの腕に持ちあげられた。

「わぁああああああああああああっ!!!」

叫び声を上げ、力任せにソウカクの巨体を放り投げるユウ。ボギンッという音と共に、ソウカクの巨体が宙を舞い、柱に激

突してそれを粉砕した。

ソウカクが顔を押さえ、絶叫を上げて床を転げ回る。手の隙間から、顔の真ん中にぽっかりと赤黒い穴があいているのが見えた。

ユウは肩で荒い息をつきながら、根本からもぎ取ったソウカクの角を放り捨て、自分の手を見た。僅かな間、見慣れぬ自分

の手を見つめた後、ハッとしたように俺を振り返る。

「ヤチさん!」

ユウは慌てて屈み込み、俺の身体に白い手で触れる。

「お願い、死なないで!死なないで下さい!」

同時に、奇妙な感覚を覚えた。ユウの手から何かが流れ込んでくるような感覚…。心地良さを覚えるその感覚と同時に、俺

は自分の身体に力が満ちるのを感じた。

満ち溢れる力によって傷が修復し始め、出血が瞬く間に止まる。それは、ごくごく短い時間で終わった。俺の身体に力が戻

ると同時に、ユウは意識を失って横倒しになる。

これはたぶん、ユウのライカンスロープとしての能力なのだろう。自分の力を他者に分け与える能力。噂には聞いたことが

あるが…、目にするのは始めてだ。

ソウカクが呻きながら起き上がる。顔の中心に空いた穴から血が溢れ、両目は血で塞がっている。ユウがくれた力と好機…、

その勇気に報いる為にも、無駄にするまい。

殺すも止む無し。

ありったけの力を右腕に集める。爪が鋼の輝きを宿し、右腕の骨が衝撃に備えて硬化する。残る力を全て脚力に集中させ、

俺は後方へと宙返りし、壁に両足をついた。床と身体が水平になった状態で全身をたわめ、バネにする。

次の瞬間、俺は射放たれた矢のように、ソウカクめがけて宙を走った。全身の関節を固定、突き出した右手の爪を束ね、俺

の身体は一本の銀の槍と化す。

右腕がソウカクの皮膚を突き破り、背中まで貫通した。ソウカクの巨体でも俺の勢いは受けきれず、その両足が宙に浮く。

激突の衝撃で血煙を撒き散らしながら、そのまま反対側の壁まで達し、俺の右手はソウカクの身体を壁に縫い止めた。

全身の筋肉と骨が上げる悲鳴を無視し、俺はソウカクの身体を貫通し、壁にめり込んだ腕を強引に引き抜く。返り血に塗れ

た手の中には、慣性だけで脈打つ心臓が握られている。

崩れ落ちたソウカクは、焦点の合わない目で俺を見上げていた。

「カースオブウルブスが発動しなかった…。まだ他に心臓があるのか?」

心臓を握りつぶし、俺は右手の爪を再び硬化させた。

「………イ…くれ…」

ソウカクの口が何かを呟き、視線が揺れた。俺は腕を振り上げる。

「…フータイ…、助けて…くれ…」

俺はほとんど反射的に振り返っていた。目の焦点があっていないのではない、ソウカクは、俺の背後に立つ者を見つめてい

たのだ。

「…フータイ!」

気配は全く感じなかった、だが、俺の目の前には屈強な体躯の虎人が、いつのまにか現れていた。

「たのむ…、助けて…くれ…」

ソウカクの言葉と同時に、突然フータイが動いた。反応はできても、消耗した身体がついて来ない!俺は咄嗟に腕を交差さ

せて防御態勢を取る。

吹き上がった鮮血が、俺の体を朱に染めた。