若き獣達の休日(前編)
通い慣れた雑居ビルの階段を駆け登って、叩き慣れたドアを軽やかにノックする。
顔の高さにはめ込まれているドアの磨りガラスには「字伏探偵事務所」の白い文字。
「いらっしゃい。開いてるよ」
部屋の中からの返事に、私はドアを引き開けた。
「こんにちは。お邪魔します」
事務所の入り口を潜ってペコリとお辞儀した私に、部屋の奥、窓際の所長席に着いていた男性が微かな笑みを浮かべた。
整った顔立ちに切れ長の鋭い瞳。スラリとした長身、引き締まった体にはワイシャツとスラックス。嫌いなネクタイは今日
はつけていない。
精悍な、鋭い印象を受ける顔に笑みが浮かぶと、とろけそうな甘いマスクになる。
…といっても、数年前までは、彼は滅多に笑顔なんて見せてくれなかった。いつも張り詰めた感じがして、近寄りがたい雰
囲気すらあった。でも今は、身に纏った気高い空気はそのままに、包み込んでくれるような穏やかさも感じる。
「今日はお休みなんですか?」
「いや、夜には出かけなければならない」
彼の名前は字伏夜血(あざふせやち)。年齢は32歳。この街で私立探偵をしている。
が、それは表向きの姿。ヤチさんは私達、人に紛れて棲まう者の中で、狩人…いわゆる掃除屋をしている。一般人に知られ
ないように、私達人外の存在に生じたトラブルの解決を行うのが狩人の仕事。そして彼は、私達の同志の中でも最強の狩人なのだ。
彼は、二年前に起こったネクタールという組織との抗争において、手練れの仲間と共に敵の上層部に奇襲をかけ、主力部隊
を壊滅させた上、総帥を一騎打ちで打ち破った猛者である。同志の中では一目置かれ、英雄視される存在だ。
…それと、私の初恋の人でもあった訳だけれど、それはまぁ昔の話…。今は素敵な奥さんが居るから、私の入り込む隙間な
んてないし…。
「ユウは帰っていますか?」
「ああ。今さっき帰って自室に入って行った。期末前だし、勉強でもするつもりかな…」
相変わらず真面目ねぇ、シロクマ君ったら…。
私はヤチさんに断りを入れて、事務所の奥側のドアから居住区域にお邪魔する。
隣接する玄関スペースから上がり、リビングを通り、廊下を抜け、目当ての部屋の前に立ち、ノックする。
「お邪魔するわよ〜」
「え?ちょ、ちょっと待っ…!」
制止の声が部屋の中から上がったけれど、少し遅かった。
「わっ、わわわっ!」
トランクス一枚だった部屋の主は、足下に脱ぎ捨ててあったウィンドブレーカーを拾い上げ、慌てて体を隠した。…あらら、
着替え中だったか…。
「ごめんごめん。でも気にしなくて良いのよ?私達って本来裸の生き物なんだから」
「そ、そうは言っても…」
「ま、着替えたら呼んでね?外で待ってるから」
色白の少しぽっちゃりした、しかし逞しく鍛えられた体を上着で隠し、顔を真っ赤にしているユウに、私は手を振ってから
部屋を出た。
私の名前は芒野焦狐(すすきのしょうこ)。21歳の大学三年生。
…というのは表向きの肩書きで、実際にはこの街に住む人間では無い者の一人。普段は人間の姿で社会に紛れ込んでいるけ
れど、その正体は半獣半人の、ライカンスロープと呼ばれる存在だ。
この街に住むライカンスロープは、私のママ…、芒野玉藻(すすきのたまも)を元締めに、強い結束力で繋がっている。絆
の強さなら、他の街に存在するどんな共同体にも負けはしない。
で、私がお邪魔しているこの部屋の主、机を挟んで向かいの椅子に腰掛けている色白ぽっちゃり系少年は字伏優(あざふせ
ゆう)。戸籍上は佐久間優(さくまゆう)だけれど、ヤチさんと義兄弟の契りを結び、私達の間ではアザフセを名乗っている。
彼もやはりライカンスロープだ。彼は天涯孤独の身で、数年前まで自分がライカンスロープである事も知らずに孤児院で育
てられていたという変わり種。
二年前、ネクタールとの闘争の際には、ヤチさんと共に上層部への奇襲を行った勇士の一人。なんだけれど、その名前通り
の優しい性格を考慮し、兄であるヤチさんは彼が狩人になる事には反対している。
現在の彼は都内の有名大学附属高校に通う17歳の二年生。将来は医学部に進み、医者になりたいというのが彼の夢で、家
庭教師の真似事をしている私から見ても、実に勉強熱心な努力家だ。
ジョギング帰りだったユウは、ポカリスエットを一気飲みして一息つくと、さっそくノートと参考書を取り出した。
「あ、違うのよ。今日は勉強を見に来た訳じゃないわ」
私が言うと、ユウは不思議そうに首を傾げた。
「来週の日曜日は何かする予定?」
「勉強しようと思ってましたけど?」
さらりと答えたユウに、私は思わず苦笑い。
「出かける予定とか、部活は無いのね?」
「ええ。それがどうかしたんですか?」
私の意図が読めないらしく、ユウは不思議そうな顔をしている。
「鈍いわねぇ。一緒にどこか出かけない?って聞いてるのよ」
「…ああ、なるほど…」
やっと納得して頷くユウ。彼は頭が良いのに、こういう事には極めて鈍感だ。
「期末試験後だし、息抜きには丁度いいでしょう?」
「…そうですね。久しぶりだし、一緒に出かけましょうか」
ユウは少し頬を赤らめ、照れたような笑みを浮かべた。
実は私達、恋人同士だ。付き合い初めてからもう一年近く経つ。
最初はそう…、初めて会った当時のユウは、気弱でオドオドした印象を受ける、ひ弱で小柄な男の子だった。頼りなくて、
守ってあげたくなるような、母性本能をくすぐられるような感じで気になり始めたのが全ての始まり。
でも、ユウは二年前の闘争を生き延び、ヤチさんの背に憧れ続け、少しずつ逞しく、頼もしく成長していた。
高校に進んでからは空手部に所属し、昨年のインターハイでは全国大会進出を果たした。
メンタル的な部分だけじゃない。この二年の間にグングン背が伸びて、体付きも逞しくなり、もう少しで180センチにな
ろうとしている。
頼りない弟のような子供から、逞しい一人の男に成長してゆく彼に対し、気が付けば私は、いつしか恋心を抱くようになっ
ていた…。
「…ドッキリですか?」
昨年の春。勉強の休憩中に言った、
「私と付き合ってみない?」
という言葉に対しての反応は、第一声がこれだった。
「違うわよ」
隠しカメラを捜してか、部屋中を見回しているユウに、私は不機嫌に応じた。
「エイプリルフールじゃないですよね?今日…」
「違うわね」
「…じゃあどうして?」
告白される理由が解らない。そんな様子でユウは首を傾げた。
「ああもう!好きになったから付き合ってって言ってるのよ!」
ユウは口をポカンと開け、しばらく呆けたような顔で私を見つめた後、色白の顔を真っ赤にした。
「え?え?なんで…?ぼ、僕なんかの何処が?」
ドギマギし始めたユウに、私はそっぽを向きながら告げた。
「なんでって…、仕方ないじゃない。好きになっちゃったんだもん…」
「だ、だって僕、流行とかにも疎いし、センスもダサいし、太ってるし…」
俯いてモゴモゴと呟くユウに、私は殆どキレかかりながら詰め寄った。
「そんなの別に関係ないわよ。で、どうなの!?付き合う相手は私じゃ不満なの!?」
「そ、そんな事は…!」
「じゃあ付き合いましょうっ!」
「え?い、いやだって…、ショウコさんは美人だし…、僕なんかじゃ釣り合わな…」
「えぇい!四の五の五月蠅い!」
…結局、ユウは私の勢いに押されるようにして、
「…よろしくお願いします…」
と、交際を承諾したのだった。
「お台場とかどう?」
「良いですね」
私の提案に、ユウは即座に賛成した。
「来週は丁度、国際展示場で「栄光のインカ帝国展」が…」
「そんなの頼まれたって見に行かないわよ?」
「えぇっ!?最終皇帝アタワルパが身に付けていた装飾品のいくつかが初来日なんですよ!?」
「行きませんっ!ってかだいたいにして誰よそれ!?」
なんでこうこの子は、趣味からして一般人と少しズレてるのかしら…?意見を却下されたユウは、少し考えてから言った。
「それじゃあ、水族館とかはどうでしょう?」
「ん〜…。良いわね、水族館」
本当は、行き先なんて結構どうでも良い。ま、最低限のムードは欲しいので、インカ帝国展なんかは御免被るけれど、ユウ
と一緒にのんびりと出かけられるなら、私にしたらそれだけで満足なのが本音だったりする。
私達は情報誌を見ながらあれこれ話し込み、食事する所や見て回る所を決めた。昼過ぎに来たというのに、話が纏まった頃
にはもう夕方になっていた。
楽しい時間はいつだって、あっというまに過ぎて行ってしまう…。
「それじゃあ、そろそろ帰るわね。来週、忘れちゃだめよ?」
私が椅子から立ち上がると、ユウも立ち上がりながら頭を掻いた。
「いやだなぁ、さすがに忘れませんよ。それじゃ…」
ユウは少し照れたように、俯き加減で上目遣いに私を見た。
「…来週、楽しみにしてます」
彼はこれだけの事を言うのにいちいち照れる。それがまた可愛い。
「私も、楽しみにしてるっ!」
私はユウに歩み寄り、素早く背伸びしてキスをした。そして不意打ちにビックリしている彼から離れ、笑いかけた。
「空手部が隙だらけだぞ?」
「精進します…」
私は、頭を掻きながら言った彼に手を振る。
「見送りは結構よ。長々とお邪魔しちゃったし、構わないで試験勉強初めちゃって」
「そういう訳には行きませんよ。せめて下まで送ります」
ユウはそう言うと、ドアを開けた私についてきた。
ヤチさんに挨拶してビルを出て、ユウに見送られ、歩きながら私は考える。
ユウに身長を抜かれたのは、いつの事だっただろうか、と…。
デートが決まれば、それが待ち遠しくなるのが人の心理。ライカンスロープだって一緒である。
じりじりと過ぎてゆく日々を、私はキャンパスライフと次代玉藻御前としての修行で埋め、ユウは二年生最後の期末試験で
埋めた。
そしてやっと一週間が過ぎ、待ちに待った日曜がやってきた。
私達は朝早くに電車に乗って、意気揚々とお台場へと繰り出した。
すっかり春めいた暖かい日差しの中、私達はのんびりと散策し、目星を付けていたお店で昼食を摂り、水族館へ入る。
「見て見て!ほらあの子、ユウそっくりっ!」
分厚いガラスの向こうで水に飛び込み、ゆったりと身をくねらせて泳ぐ白熊を指して言うと、ユウは微苦笑した。…う〜ん、
癒し系な笑顔…。
「えー?似てますかね?」
「そっくり!うり二つよ!か〜わいいなぁ〜!」
ユウが水槽の前で振り向いた瞬間を狙い、白熊ツーショットを携帯でパシャリ!お、良い絵が撮れた。後でヤチさん達にも
送っておこうっと。
「ところで…」
ユウは声を小さくして囁いた。
「…匂いませんか…?」
その声に潜む僅かな緊張に気付き、私は鋭敏な感覚を解放し、周囲を探る。
日曜日の水族館は、家族連れやカップル、人でごった返しだ。様々な匂いと気配が入り交じったその中から、私はそれを感
じ取る。
…確かに…、微かにだけれど感じる…。
「…同族ね…。でも…、ダメだわ…、かなり薄くて位置は特定できない…」
「僕もです。残り香かもしれません」
同志の誰とも違う匂い。おそらく匂いの主は余所者だろう。
ユウは鋭く目を細め、それとなく周囲の気配を探っていたけれど、やがて首を横に振った。私でも指摘されなければ気付か
なかった微かな匂い、それを嗅ぎ取る嗅覚は、犬族顔負けの鋭さである。
「…匂いの主の特定はできませんでしたが、近くには居ないようです…」
「そう。とりあえず一安心ね…」
私達はもちろん騒ぎは御免だけれど、私達と遭遇した余所者が、どういう行動に出るかは分からない。顔を合わせないで済
むならそれが一番。せっかくのデートを台無しにされたら溜ったもんじゃないわ!
まぁ、この余所者が私達の縄張りを通過して行くだけなら問題ないけれど、帰ったら一応報告しておいた方がいいわね…。
「行きましょうか」
ユウは私を安心させようとしてか、笑みを浮かべて手を引いた。
でも、彼が感覚を鋭くし、周囲の気配を探り続けているのははっきり分かった。
近くに居ないと確信しても、それでもなお私に危険が及ばないように、気を配ってくれているのだろう。その心遣いが嬉し
く、そしてくすぐったかった…。
「夜の海って、なんか怖いですよね」
水族館を出ると、港から日没後の海を眺め、ユウはそう言った。辺りには倉庫が建ち並び、水辺には大きな船が何隻も停泊
している。
「空手部のエースにして、黄虎太(ホァンフータイ)の弟子が、海なんかを怖がるわけ?」
からかうように言うと、ユウは困ったように頬を掻いた。
「昔、花火を見に行った時に土手から転げて、川に落っこちた事があるんですよ。それ以来、暗い水面が少し苦手になっちゃ
って…」
「あらら。それは災難だったわねぇ」
「泳げない訳じゃないんですけどね。子供の頃のトラウマって、どうにもなかなか治りませんよ。困った事に」
「トラウマかぁ…。私はママの作ったキャロットケーキがトラウマで、ニンジンがダメになったわね…」
「ああ…。キッツいですよね、タマモさんの野菜ばかり使うスイーツ…」
ユウは分かってくれたらしく、神妙な顔で重々しく頷く。
と、唐突に首を巡らせ、私に背を向けた。
一瞬遅れて反応した私は、庇うように身構えたユウの背中越しに、彼の向こうの闇を見透かす。
硬い靴底がコンクリートを蹴る、何者かが駆けてくる音。四人…、いや五人か。風向きが変わった瞬間、私はユウが警戒し
ている理由を理解した。
同族の匂い…!それも、覚えがない匂いだ!
闇の中から駆けて来た人影は、私達の20メートルほど手前で立ち止まった。その数五人。いずれも外人で、スーツを身に
つけた会社員風の男達だった。
男達は私達を見ながら英語で囁き合い始めた。
「違う。ヤツではないぞ?」
「女の方は人間だな…」
「現地の者か?」
「おそらくそうだろう。だが目撃者は消せと…」
「やむを得まい…」
ユウは男達から目を離さないまま、私の腕を掴んだ。
「物騒な雰囲気です。一旦ここを離れますよ?」
ユウは私の返事を待たずに、腕を引いて走り出す。一瞬の迷いもなく逃走に移ったユウに、男達は僅かな躊躇を見せた。
しかし彼らの行動の停滞は短いもので、それほどの距離を置かずに追いかけてきた。
ユウは私の腕をしっかりと掴み、グイグイと引っ張りながら倉庫の間に駆け込む。…人目につく所で正体を現す訳には行か
ないものね…。
倉庫と倉庫の間の狭い空間を走り抜け、私達は入り口が開いたままの、あちこち穴が空いたボロボロの倉庫の中に駆け込んだ。
息を切らせている私を暗がりに引っ張り込むと、ユウは周囲を見回し、それから頷いた。
「ここなら、色々と使えそうですね…」
「この辺りだ!」
「くそっ!どこへ隠れた!?」
「落ち着け、匂いからすればこの辺りに…」
ロープや木くずが散乱する倉庫の入り口で、一度は私達を見失い、手分けして探してから集まった男達は、低い声で会話を
交わす。
私はマグライトを握り込み、先端を手で覆いながらスイッチを入れ、男達がこちらを見ていないタイミングを計り、それを
倉庫の真ん中に放る。
突然生じた光に、男達が反応した。その次の瞬間…、
ドガドガドガッ!
「ぬあっ!?」
「何だ!?奇襲か!?」
頭上から降り注いだペンキ缶に、男達が慌てまくる。
私が放ったマグライトにはヒモが結びつけられていた。そのヒモは倉庫の屋根を巡る鉄骨、丁度入り口の真上の梁に不安定
に置かれた板に繋がっていた。その上に並べたペンキ缶が、傾いた板ごと男達の前に落下したのだ。壊れた缶から溢れ出した
ペンキが男達の足下に広がり、強烈な匂いを上げた。
男達は上を振り仰いだけれど、もちろんそこには誰も居ない。そして、全員に上を向かせる事すらも、ユウの計画の一つだった。
ビンッ、と音がし、直後に男達が纏めて転び、ペンキ塗れになった。
私の横では、ユウが力一杯ロープを引いていた。散乱するゴミに紛れて潜ませたロープは、男達の足を襲い、ペンキの上に
引き摺り倒したのだ。
「ミッション1終了。次行きましょう」
ユウはロープを放すと、私の腕を掴み、潜んでいた暗がりから飛び出した。
「居たぞ!」
「追え!逃がすな!」
コケにされたペンキ塗れの男達が立ち上がり、奥へと走る私達を、遅れて追ってくる。
「マスクとハンカチ、忘れないで下さいね?」
ユウは走りながら私に言った。鼻の上まで覆う、病原菌すらシャットアウトするマスクをさっき手渡されている。
さっき一度奥へ行ったユウが何を仕込んでいるのかは分からないけれど、マスクをした上で、ハンカチで口元を覆い、なる
べく浅く息をしろと言われている。次は一体何を企んでいるのかしら?
「くそっ!ここかぁ!?」
ドアを蹴り開け、事務室だったらしき部屋に傾れ込んだ男達は、部屋に鋭い視線を巡らせた。
血眼になって壁際のロッカーを開けたり、スチール棚を倒して向こう側を確認していた男達を、私は息を殺して見つめている。
やがて、私達は男達の異常に気付いた。だが、彼らが自分達の身に起こっている異常に気付くのは、それより少し遅れてか
らだった。
「おい、気を付けろ」
ふらついて肩をぶつけた男に、別の男が声をかける。
「あ、ああ、済まない。少し目眩が…」
ふらついた男が眉間を揉みながら言うと、全員が彼を見た。
「なんだ?お前もか?」
「む?俺も目眩がするぞ?」
「言われてみれば俺も…」
異常を察したのか、顔を見合わせる男達。けれど、気付いた時にはもう遅い、彼らはユウの仕掛けた罠にまんまとはまっている。
部屋の中心にあるスチールデスクの上には、トイレ掃除用の洗剤のボトルが置いてある。蓋の無いそのボトルの中身は、僅
かに中身が残ったまま放置されていたものを、ユウがかき集めて混ぜ合わせた、多種類の洗剤の混合液だ。
ようするに「混ぜるな危険」ってヤツ。発生し、部屋に充満している有毒ガスは、感覚が鋭敏な私達にとっては、察知しや
すいと同時に危険な気体だ。高い生命力のおかげで死に至る事こそまずないものの、鋭い感覚があだになって、吸引すれば人
間以上に顕著な効果が出る。
でも、彼らは先に全身に付着させられたペンキの強烈な匂いによって、その危険な香りに気づけなかった。
「ミッション2、終了。次行きますね」
男達の足がふらつき始めたのを確認し、私の横に潜んでいたユウはそう呟くと、雑多な小物やゴミを置いてカモフラージュ
しておいた、頭上の床板を跳ね上げた。
私達が潜んでいたのは半地下の物置。深さ1メートルもないその空間は、床板兼蓋を剥がせばすぐに見つかる物だったけれ
ど、ペンキの臭いで鼻をやられた男達は、私達に気づけなかった。
二手三手先まで考えて罠を張り巡らせていたのだろう。ユウの頭の回転に、私は内心舌を巻いていた。
飛び出したユウは素早く床を蹴って前進、男達の視線が自分に向く前に、一人目の男に跳び蹴りをお見舞いしていた。靴裏
が顎を横から捉え、首を傾げるような格好でよろめいた男は、綺麗に意識を飛ばされて昏倒する。
「お、おまひぇっ!ろこに隠れてっ!?」
男を蹴り倒し、敵団のほぼ真ん中に着地すると同時に身を捻ったユウは、ろれつが怪しくなっている男の鳩尾に、上半身全
てを旋回させ、勢いを乗せた右肘を振り向き様に叩き込む。
いかにライカンスロープといっても、人間の姿をしている時はその能力の一部しか発揮できない。ユウも同じ条件だけれど、
空手に加え、フータイ仕込みの格闘術を身に付けている。彼にかかれば、正体を現していない、ただのライカンスロープなど
一溜まりもない。
ふらつきながらも掴みかかってきた男の顎先を、フックで掠めて気絶させ、その男の体の脇をすり抜けて大きく踏み込み、
次の男の鳩尾に腰の入った正拳突きをお見舞いする。
かっこいいぞユウ!やっちゃえやっちゃえ!
私の心の声援を受け、ユウは背後から殴りかかった最後の一人を、背中での体当たりで迎撃し、壁まで吹き飛ばした。
ダメージを負わせる事ではなく、意識を刈り取る事を目的とした最小限の攻撃。いたずらに相手を傷つけたくないというユ
ウの意図がはっきり分かる。
「ミッション3、終了。作戦完了です」
あっという間に男達をのしたユウは、物置に潜んだままだった私を引っ張り上げると、毒気を吐き散らしている洗剤ボトル
に蓋をした。
「しかしひどい手を使うわねぇ」
「ひどいですかね?」
これも倉庫内に落ちていた荷造り用の紐で、てきぱきと男達を縛り上げながら、ユウは首を傾げる。
…いや、ひどいですかね?って…明らかにかなりひどいわよこのトラップ群、ひどいっていうかもう悪質極まりないわ…。
「もしかしてさ、まともにやりあっても楽勝だったんじゃないの?」
私が尋ねると、ユウは肩を竦めた。
「相手は五人ですからね、変身されたらまずかったですし、ふらついてなければ、人間の姿のままだってちょっと厳しかった
ですよ。…それに、ショウコさんが居るのに、危険を冒してまで腕試しするわけにはいきません」
…あ…。そうか、私を危険な目に遭わせない為に、確実な方法を選んだんだ…。
「さてと、兄さんに連絡して、後の判断は任せましょう」
上着のポケットから携帯を取り出し、ユウはヤチさんの番号を呼び出す。
私は微かな振動音に気付き、バッグをまさぐる。が、私のじゃない…。
「兄さん?済みません、今平気ですか?」
ユウの携帯は通話中、なら…?私はハッとして縛られている男達に視線を向けた。やっぱり、音は彼らが出所だった。…も
しかして、他にも仲間が!?
「ユウ!こいつらまだ仲間が…!」
私の声に振り向こうとしたユウは、バネ仕掛けのような速さで上体を横に傾けた。
プシュッという音と同時に、ユウの顔の横で携帯が粉々になり、破片でマスクの紐が切れる。
ユウはまだ室内に僅かに残っているガスを吸わないよう、口元を押さえながら転げるようにして床の上を移動する。その少
し後ろの床に、ガッ、ガッ、と音を立てて、ユウの後を追うように、小さな穴が立て続けに穿たれた。
消音器付きの拳銃で狙撃されてる!私はスチールデスクの影に身を潜め、部屋の入り口を窺った。
入り口の両側に二人の影…、やっぱりまだ仲間が!
ユウは引き倒された鉄の棚の後ろに転がり込み、銃撃を逃れた。でも、ユウはマスクを失ってる。有毒ガスは少しずつ薄く
なってきてるけど、このままじゃ動けなくなる…!
…これは仕方ないわよね?うん。ピンチピンチ。かなり危険な、やむを得ない状況よ。
私は正当な理由を見つけ、上着をスルリと脱ぐ。
むやみな力の使用はママに禁止されている。というのも、私はまだ修行中の身で、コントロールがいまいちだからだ。でも、
この状況は仕方ない。納得してくれるだろう。
全身を縛り付けていた、意志の束縛を解き放つ。
体に巻き付いていた鎖がばらけて外れるイメージと同時に、体の奥底から力が湧き上がり、感覚が一層鋭敏化する。
力の解放に体中の細胞が歓喜の声を上げ、本来の姿を取り戻すべく活発に活動を始めた。
むず痒い感覚と共に、きつね色のフサフサした毛が生えだし、全身を覆う。
骨格が音を立てて変形し、鼻と顎が前にせり出し、マスクのゴムが伸びきる。
尾てい骨が伸び、お尻にキュートな自慢の尻尾が形成される。
足の甲が伸び、その形は犬科の形態に変わり、両手の指先の爪は、長く、鋭く変形する。
変身を終え、闇に蹲るは一頭の狐…。人と狐の中間の姿。これが私本来の姿だ。
フサフサした自慢の尻尾を一振りし、私は闇に目を凝らした。
ドアの所に居る二人の男もライカンスロープだが、変身はしていない。
自慢じゃないけど、私は気配を絶つのが得意だ。今変身した事にも気付かれていない。
先手必勝!私は闇の中でもはっきり見えるようになった目を細め、男達の背後、一見何もない空間に意識を集中する。
私達、妖狐にとっては、「何もない空間」なんて地球上にはほぼ存在しない。空気の中に、水の中に、土の中にさえ、私達
の力の媒介になる物は必ず存在している。
私はソレに心で呼びかける。「集え」と。
男達の後ろに、私の「声」に応じて可燃物質が集まる。
私はソレに心で語りかける。「従え」と。
集まった可燃物質は私の「声」に応じ、ソフトボール大の球状に整う。
私はソレに心で命じる。「爆ぜよ」と。
実際には、これらはほんの一瞬の内に行っている。私が男達の背後の空間に意識を集中した次の瞬間には、闇の中に炎の華
が咲いた。
男達は火だるまになりながら、炸裂した炎に吹き飛ばされる。
狐火の初歩、遠隔発火現象の応用で、私のオリジナル。ファイアーワークと名付けた発火、爆破術だ。少し出力は押さえて
あるけれど、威力はごらんの通り。
一瞬の内に力を搾り取られ、軽い疲労を覚えながら、私は首を巡らせてユウを見る。…思った通り渋い顔だけれど、仕方な
いでしょ、この場合?
ユウは脱いだ上着で口元を覆いながらツカツカと歩み寄り、私の手を掴んでくぐもった声で言った。
「またタマモさんに叱られますよ?」
「今日のは正当防衛よ!」
収まりが悪くなったマスクを片手で押さえつつ堂々と言い放った私に顔を顰め、ユウは手を引いて歩き出した。
「まだ仲間が居るかもしれません。急いでこの場を離れましょう。歩けますか?」
「まだ平気よ。あと一、二発は行けるわ」
「…もう使わないで下さいね?」
ユウは私の腕を掴んだ手に少し力を入れ、真面目な顔で呟いた。
「僕が守りますから」
私は頬が火照るのを感じながら、微かな笑みを浮かべてユウに頷いた。
…うん。頼りにしてるわよ!