若き獣達の休日(後編)
ショウコさんの手を引き、僕は可能な限り感覚を外へと開き、周囲を探りながら暗闇を走った。
ここは海に面した倉庫の建ち並ぶ区画だ。人気のないこの場所で、僕達は所属不明のライカンスロープ達に追われている。
前後左右、地面だけを気にすればいい訳じゃない。相手が相手なので、頭上や壁越しの不意打ちも視野に入れておかないと、
とんだ奇襲を受けかねない。
『受け身の状況では、敵を自分に置き換え、先の戦局を想定しろ』
僕に格闘術を教えてくれている、フータイさんの言葉だ。
僕ならば、追うべき相手を見失い、しかも取り逃がす恐れがあれば、まずは高所を取る。
追われる側が見晴らしの良い場所に出てくれるとは考え難いから、張るべきは倉庫の隙間。なら、倉庫の屋根に登るのが一
番手っ取り早い。つまり…、
「くそっ!何処にいる!?」
「この辺りに来たはずだ!」
「臭いを辿れ!倉庫の裏を集中的に探れ!」
押し殺した声を鋭敏化させた聴覚で拾い、僕は目論見通りに事が進んでいる事を確認する。
以前は多少嗅覚を強化できる程度だったけれど、今ではこの姿のままでも五感全ての鋭敏化ができるようになっていた。
倉庫の一つの前に積まれた廃材の影、錆びたトタンの後ろで油臭い水たまりに臭いを紛れさせ、僕達は身を潜めていた。
「声と臭いから考えると、四人ね」
「同じ意見です。間違いないでしょう」
ショウコさんの言葉に頷き、僕は彼女をちらりと横目で見る。
すでにショウコさんは本来の姿、妖狐となっている。…なっているだけじゃなく、実はすでに一発ぶちかましてもいる。
彼女の能力は強力だけれど、心身に及ぼす疲労も非常に大きい。出力と精度を押さえたせいか、感じられる消耗の気配は微
々たるものだけれど、それでも彼女の体に余計な負担をかけさせてしまった…。
あれだけ策を弄して、上手く事を運んだつもりだったのに…、自分が情けないよ…。ここから先は、ショウコさんに力は使
わせない。僕が一人で何とかする。
敵の数と状況からして、追撃を振り切るのは簡単じゃなさそうだ。兄さんへの連絡も、携帯を壊されて途中で途切れてしまっ
た。さっき気絶させた男達も、じきに仲間に開放されるだろうし、ぐずぐずしてたら後手に回ってしまう…。
助けを期待できない以上…、やむを得ないな。
「僕が合図するまで、出てきちゃ駄目ですよ」
「何するつもり?」
「あいつらを掻き回します。ショウコさんはこっそり、誰かに連絡を…」
「駄目よ!私も…」
反対しかけたショウコさんに、僕は笑って見せた。
「たまのデートの時くらい、かっこつけさせて下さいよ」
どうやら言葉の不意打ちは成功したらしい。目を丸くした彼女に、僕は頷いて見せた。
「約束します。無茶はしませんから」
「本当ね?」
「はい。本当です」
やっと首を縦に振ったショウコさんに、軽く手を上げて挨拶し、僕はそっと月光の下に進み出た。
「せっかくのデートだったのに…、どうしてこうなっちゃうかな…」
口の中で呟いたら、少しブルーになった…。
「くそっ…!まだフラフラする…!」
六人の男が、廃倉庫からふらつく足取りで歩み出る。
さっき縛り上げた五人と、もう一人別の男…、彼らを助け出した仲間だろう。
ショウコさんに焼かれた男達の姿は無い。人間の姿で直撃を受けたんだ、一命を取り留めたとしても、不用意に動かすのも
危険なほどの重傷のはずだ。
「あのガキ、見つけたらただじゃおかないぞ…」
「それは怖いですね」
僕の声を聞いた男が顔を上げる。確か、さっき顎に飛び蹴りを食らわせた男だな。
その顔面に、僕が屋根の上から蹴り落とした一斗缶(塗料入り)が命中し、即座に昏倒した。…まず一人。
「貴様ぁっ!」
倉庫の屋根の上に居る僕を見上げ、さっき鳩尾に肘を入れて気絶させた男が、背を丸めて全身に力を込める。
スーツの背が破れ、焦げ茶色の被毛に覆われた背が顕わになり、そのシルエットが獣と人の中間のモノへと変化する。
男の正体は犬、それも猟犬、アフガンハウンドのライカンスロープだ。
ハウンドは身を屈め、跳躍の姿勢に移った。
彼の脚力ならここまでひとっ飛びだろう…。僕は身を翻し、彼らの目から姿を隠す。
「逃がすか!」
ハウンドは跳躍し、屋根の上に姿を現す。そこへ、
「ぐぇっ!」
僕の繰り出した渾身の回し蹴りは、屋根の下から顔を出した直後のハウンドの喉に飛び込んだ。退くと見せかけて、僕は屋
根のヘリ近くで屈み込み、飛び上がった直後を迎撃したのだ。五感が本調子なら、こんな手には引っかからなかったろうにね…。
『己のコンディションを把握できず、能力を過信するのは二流以下だ』
これもフータイさんの言葉だけれど、まったく持って言えてるなぁ…。
ハウンドは喉を押さえて落下し、平衡感覚に狂いが生じたまま着地し損ね、頭から地面に落ちた。後頭部を硬いコンクリー
トの地面に叩き付けられたハウンドは、ピクピクと痙攣し始める。
この高さから落ちて無防備に頭を打てば、さすがのライカンスロープといえども平気じゃいられない。頭蓋骨は頑丈でも、
脳そのものはやっぱり急所だ。…これで二人目。
屋根のヘリから下を見下ろすと、残る四人もすでに変身していた。
緑色の鱗に身を包んだ蜥蜴と、茶色い縞猫、ドーベルマン、それに黒い剛毛の猪だ。
全員が闘争向きのライカンスロープ。拳銃を持っていた事といい、やっぱり何らかの組織か、それに類する集団と見て良さ
そうだ。
四人は僕を見上げたまま、しかし警戒しているらしく、即座に襲いかかってくる事は無かった。
「僕はこの界隈を縄張りにする者の一人です」
せっかくの機会を無駄にするつもりは無い。話し合いで解決できるなら、もちろんそれに越した事は無いんだ。僕は警戒を
緩めないまま、彼らに話しかけた。
「あなた方の目的が何かは分かりませんが、ここまでの強硬手段に出る、その理由を教えては頂けませんか?」
男達は僕を無言で見上げたままだ。
「僕には、話し合う用意があります」
「我等には無い」
短い返答と同時に、ドーベルマンが跳躍した。臭いから察するに、こいつは助けに入った男、つまり有毒ガスを吸っていない。
ひとっ飛びで屋根のヘリに到達したドーベルマンは、着地を待たずに腕を振るった。鋭い爪が掠め、後ろに飛び下がった僕
のジャケットが浅く切れる。…結構速いな…。
「交渉決裂、ですね」
視覚を鋭敏化し、眼球のサッケード運動回数を増やす。同時に受容体のキャンセル速度と、脳の情報処理速度を上げ、ドー
ベルマンの速度に目が追いつくよう調節する。
素早く詰め寄ったドーベルマンが、下から腕を振るう。仰け反るようにしてそれをかわし、足下を狙った蹴りは後退してや
り過ごす。
もちろん、この状態でまともにやりあうつもりなんか僕には無い。感覚をいくら鋭敏化した所で、身体能力が違い過ぎるか
ら勝負になんてならない。あくまでもその場凌ぎだ。
「言い忘れましたけど」
受ければ頭が無くなりそうな蹴りを、前髪をかすらせて避けた僕は、後方へ身を投げ出しながら告げた。
「話し合う用意だけじゃなく、迎撃の用意もありますから」
屋根に空いた暗い穴に、僕は背中から吸い込まれた。
ドーベルマンは僕を追って穴に飛び込む事に、一瞬の躊躇を見せる。
彼が月光の入り込む穴の縁から覗き込み、僕を見下ろした時にはもう遅い。
…ショウコさんと一緒に出かけて選んだ物だし、結構気に入ってたんだけどな、この服…。
僕は内なる獣に語りかける。「目を覚ましてもいいよ…」と。
許可と同時に、瞬間的に力が沸き上がる。全身が熱を持ったように熱くなり、体内を駆け巡る血液が隅々まで力を伝播させる。
骨格がメキメキと音を立てて変形し、体中を白く、長い被毛が覆い尽くす。
顔の下半分…、鼻と顎が前にせり出し、頭頂付近に登った耳は、丸く形を整える。
筋肉が質量を増し、背が、胸が、四肢が、太く、ぶ厚く膨れあがる。
膨れあがった肉体に内側から破られて布きれとなり、動きの妨げとなる衣服を千切り捨てる。
落下中に変身を終えた僕は、着地と同時に廃工場の床を蹴り、出口前に待機していた三人めがけて突進した。
僕の落下と変身に気付いた男達は、こちらを見て明らかに動揺していた。
僕のライカンスロープとしての本来の姿は、純白の熊だ。
骨格は頑強で、そこに搭載されている筋肉は他のライカンスロープと比較しても、量も密度も飛び抜けて高い。
それゆえに、大柄な体躯はかなりの重量があり、スピードに欠けるのがネックなんだけれど、タフさと単純なパワーなら、
牛や馬、象やサイにだって劣らない。
彼らもさすがに今度は不意こそ突かれなかったけれど…、足がふらついている。まだ中毒症状から回復し切ってはいないみ
たいだ。
先頭に立った蜥蜴が、長い、しなやかな尾を振るった。鞭のような横薙ぎの一撃を左腕と肩で受けて止め、尻尾を掴み、グ
イッと引っ張る。
「なっ!?」
蜥蜴が驚いたように声を上げた。尾の一撃を受けても僕が怯まなかった事に驚いたのだろうけれど、フータイさんに言わせれば、
『攻撃を凌がれても隙を見せるな。逆に、相手の攻撃を凌いだなら、その動揺につけ込め』
…となる。
行動に支障のない痛みは我慢する。僕には兄さんのような技やスピードも、フータイさんのような戦闘技術も経験も無い。
その代わり、持ち味である耐久力とパワーだけなら、あの二人をも上回る。
蜥蜴は慌てて尻尾を切る。一瞬の動揺を誘うには十分な回避行動、驚いてあげるのが当然の反応だろうけれど、これは想定済み。
僕は切れた尻尾をしっかり掴み、それを大きく振るって眼前に迫った蜥蜴に叩き付ける。鞭のようにしなった尻尾は、蜥蜴
の頭を真横から打ち据えた。
十分な速度を乗せた尾は、その強度もあり、一撃で蜥蜴を撃沈した。…これは意外に良い武器だ。僕の丸尻尾は短過ぎて何
の役にも立たないから、少しばかり羨ましいかも。…とりあえず三人目。
そのまま身を捻って速度を乗せ、蜥蜴の尻尾を猫の足下に振るう。猫は跳んで回避したが、僕はそのまま尻尾を振り回すよ
うに素早く一回転、再度空中の猫めがけて、一回転分の勢いを上乗せした尻尾の鞭を繰り出す。
今度は見事にヒット。空中で撃墜された猫は、きりもみ回転しながら向こうの倉庫の壁に激突した。これで四人目。
尻尾の鞭を振り終えた体勢の僕めがけ、今度は猪が突っかかって来る。僕は蜥蜴の尻尾を、彼に向かってひょいっと投げ捨てた。
視界を狭めて邪魔になるそれを、猪は腕を振ってはね除ける。…その一挙手が命取り。尻尾がはね除けられたその時には、
僕はすでに猪の真正面へ踏み込んで距離を詰め、腰を落としている。
反射的に顎を下げ、突進の勢いを加えて牙で下から突き上げる体勢に入った猪に対し、僕は後ろに引いた右足と、前に出し
た左足の爪を、コンクリートの地面にガッシリと食い込ませる。そして射程に入った猪めがけ、大きく後ろに引いていた右拳
を、捻りを加えて突き出した。
しっかりと踏み締められる足場の上で、足首、膝、股関節、腰、胸、肩、肘、手首が、一気に同時加速を行う。そして猪の
額に拳の先が触れたその瞬間、全身の筋肉を硬化させ、関節を固定する。
ゴッ!と、硬い、鈍い音が響き渡った。
首を支点に猪の体が泳ぎ、下半身が宙へ駆け上ろうとするように浮き上がり、僕が伸ばした腕に下からぶつかる。良い手応
えがあった。たぶん分厚い頭蓋骨は綺麗に割れている。
たぶん死にはしないだろうけれど、脳にダメージを受けてしばらくは起き上がれないはずだ。これで五人…。
丸い耳が風切り音を捉え、僕は床に伏せるように身を低くした。その上を、月光を遮って黒いシルエットが跳び過ぎる。
不意打ちの跳び蹴りをかわされたドーベルマンが、舌打ちをして僕を振り返った。
「まだ続けますか?それとも、この辺で止めておきますか?僕には今からでも話し合う準備はありますよ?」
ドーベルマンは無言のまま、答えない。
「じゃあ話題を変えましょう。貴方達が追っている相手、もうこの辺りには居ませんよ?」
ドーベルマンの目尻がぴくりと動いた。
「貴様…、やはりヤツの仲間か?」
「あ、やっぱり誰かを追ってるんですね」
納得して頷いた僕を見て、ドーベルマンの顔が引き攣った。
「は、ハメたのか!?」
「ハメるだなんてそんな…、ちょっとカマをかけてみただけじゃないですか」
苦労しないで確認できた。結構正直者で楽ができたな…。
となると問題は、追われている側…、つまりこの人達とは別勢力の誰かがこの街に入り込んでいるという事。話の分かる相
手なら良いんだけれど、…厄介な事にならなければいいなぁ…。
「その人は、この街を縄張りにする者には秘密で捕らえなければ…、あるいは始末しなければならない相手なんですね?」
僕の問いかけにも、ドーベルマンは無言で応じない。
「この追跡が行われている事、そして自分達と、追っている相手がこの街に入り込んでいることは知られてはいけない…、知っ
てしまった相手は始末する。そうですね?」
ドーベルマンはやはり無言。
「なるほど、良く分かりました。…僕達と、その追われている人が接触するのは、貴方達にとっては面白くない、と…」
僕の言葉を聞き終えたドーベルマンは、地を蹴って突進して来た。
半分は当てずっぽうだったんだけれど、どうやら正解に近い推測だったらしい。追われている側は、僕達か、あるいは僕達
のトップ…、つまりタマモさんに用がある客人かもしれない。…そうなると、やっぱりこの人達は迎撃しておかないとまずい
よなぁ…。
ドーベルマンは僕の目前で横に跳ぶ。フェイクを入れて横合いから飛びかかったドーベルマンは、交差させて頭部を庇った
僕の腕を切り裂き、そのまま頭上を飛び越えて後方へと着地した。
間髪入れず、背後から奇襲に移るドーベルマン。気配で察知していた僕は、後ろを振り返る間も惜しんで地面に伏せた。凄
い速度で僕を飛び越えたドーベルマンの爪が背を掠め、全身の被毛を突風が吹き乱す。
…かなり速いな…。でも、兄さんやフータイさん程じゃない。
再び正面から向き合った状態で、僕は腰を少し落とし、迎撃の態勢に移る。一撃離脱を繰り返されると厄介だ。なんとかし
て動きを止める必要がある。
僕は切り裂かれた腕を修復する。パックリと口を開けていた傷は、ジッパーを引き上げるように閉じ、一瞬の内に消えた。
ドーベルマンが息を飲む。修復速度に驚いたんだろう。
この二年の肉体操作訓練で実感した事なんだけれど、僕の肉体強化…、骨や爪、牙の硬質化や、筋力の増強、修復速度の加
速力は、同族達の中でも群を抜いて高いらしい。
僕の体に宿る希少な能力の副産物で、生命力の操作に特化しているのだろうというのがタマモさんの見解だ。
僕は両腕を胸の前で八の字に構えた。脇を締め、握った拳は顎の下、この防御姿勢はボクシングのスタイルにも似ている。
守りに入った僕を嘲るように口元を歪め、ドーベルマンはぐっと身を縮めた。
爆発的な速度で飛びかかったドーベルマンの右腕が、上から振り下ろされる。水平に構えて差し上げた僕の左腕に爪が食い
込んだ。
続けざまに、ドーベルマンの大きく開けた顎が、僕の首めがけて閃いた。素早く上げ、首を庇った右腕に、鋭い牙が深々と
食い込む。…ここだ!
爪が食い込んだ左腕を強引に振りほどく。傷が広がり、血がしぶいたけれど、どうって事はない。そのまま左腕でドーベル
マンの首を下から掴み、一瞬でのど仏を握り潰す。
たまらずに牙を外したドーベルマンの顔面へ、自由になった右手で拳を握り、打ち下ろしの一撃を叩き込む。
肉を切らせて骨を断つ。速度に劣る僕が機動性の高い相手と戦うなら、ダメージ覚悟で確実に反撃を叩き込むのが最も効率
的だ。痛みは我慢すればいい。多少の傷は物ともしない打たれ強さが、この身体の持ち味だ。
ドーベルマンは叩き落とされるようにして地面に激突、大きくバウンドして、二回転してから俯せに倒れた。
様子を窺ったけれど、息はあるが動く気配はない。とりあえず安心か。
再び負った腕の傷を修復し、僕は倉庫から飛び出した。
後から見た四人の内、ここには一人しか来ていない。つまり、少なくともあと三人は残っている。
ショウコさん、見つかってなければいいけれど…。
心配が当たった事が、爆発音で分かった。
「…もうっ…!」
僕は思わずぼやいて走り出す。出てきちゃだめだって言ったのに!
一応、一般人などが入り込んでいないか気配に注意しながら、僕は爆音のあった地点へと駆けた。騒ぎに気付いた一般人が
駆けつけるのも時間の問題だ。ショウコさんを連れて身を隠さないと…!
勢いで足を滑らせながら倉庫の角を曲がり、荷物の積まれた倉庫の間を、時に積まれた木箱を崩し、廃タイヤを蹴飛ばしな
がら駆け抜ける。
こんな状況だと、小回りの利かない、大きくて重い体が忌まわしいなぁ…。
倉庫の隙間から拾い通路へと飛び出し、ほとんど四つん這いの格好で勢いを殺しながら、急激に方向転換した僕の視線の先
で、炎が咲いた。
本日、恐らく三度目のファイアーワーク。目前で火球が炸裂し、火だるまになって吹き飛んだ犬のライカンスロープと、炸
裂点を挟んで反対側で、手を開き、腕を真っ直ぐに伸ばし、優雅に立つショウコさんの姿が見えた。
今焼かれて倒れ伏した犬の他に、少し遠くで黒こげの馬が倒れている。さっきの爆音は彼を仕留めたものだろう。
そして、ショウコさんの前にはまだ、大柄な牛のライカンスロープが立っている。
腕を伸ばし、いつでも狐火を放てる体勢で威嚇しているものの、ショウコさんの顔には疲労の色が濃い。
疲労を悟ったのだろう、彼女めがけて突進するために牛が足で地面を掻いたその瞬間、僕は全力で威嚇の咆吼を放った。
妖狐が、牛が、駆け出した僕へと視線を向ける。
牛は僕とショウコさんを見比べ、僅かに逡巡した後、結局僕に向き直り、突進を開始した。
ショウコさんは腕を降ろすと、その場で膝を着き、僕にちらりと視線を向けた。その口元が、瞳が、微かに安堵の笑みを浮
かべていた。
僕は牛との間合いを縮めながら、脚力を強化した。激突目前で加速した僕に、牛は頭を下げ、鋭い角を前に翳して体当たり
の体勢に移った。
体内の鉄分をかき集め、右腕、肩から指先までの骨を硬質化させる。さらに肩の筋肉に力を集中し、衝撃に備える。地面を
蹴る足に力を込め、爪を食い込ませて足がかりにし、一気に最大加速を行う。
握り込んだ拳が牛の角の間、額に接触した瞬間、僕は右腕に左手を添え、全身の関節を固定した。
鐘を打つような、大きな、そして鈍い衝撃音と共に、牛の身体は車に撥ねられたように、衝撃で宙へと跳ね上げられた。
牛を撥ねると同時に両足の爪を地面に食い込ませ、急制動をかける。僕が10メートル程滑ってからようやく停止すると、
きりもみ状態で落下した牛が、地面に激突した。
ホワイトミーティア。兄さんにあやかって名付けた技で、瞬間的な最大加速後、拳が接触すると同時に全身の関節を固定、
体重と加速、激突の衝撃を一点集中させた一撃を加える技だ。もちろん速度も射程も本家には遠く及ばないけれどね。
ジンジンと衝撃の残る右手をプラプラさせて感覚を戻し、僕はショウコさんに歩み寄る。
「大丈夫ですか?」
「怪我はしてないわ。ちょっと疲れただけよ」
僕はショウコさんの手を取り、力を注ぎ込んだ。見る間にショウコさんの顔色が良くなり、同時に僕は軽い疲労を覚える。
これが僕の能力、「力の譲渡」だ。自分の生命力を他者へと分け与える力で、この力はかなりレアなものらしい。
「ありがと…」
「どういたしまして」
礼を言ったショウコさんの腕を引いて立ち上がらせ、僕は彼女の身体をしっかりと抱きかかえた。
「え?ゆ、ユウ…?」
戸惑ったような声を出したショウコさんを抱えたまま、僕は横へ跳ぶ。一瞬前まで僕らが立っていた場所を何かが通過し、
地面が抉れ、粉塵が舞った。
「な、何!?」
地面を転がって攻撃を避けた僕の腕の中で、ショウコさんが声を上げる。
「まだ、居たみたいですね…」
身を起こしながら呟いた僕の視線の先、たった今蹴り砕いた地面の上に、倉庫の屋根から飛び降りて来た黒い和犬の獣人が
立っていた。見上げれば、倉庫の屋根の上にはさらに4つの影。…さすがにこれは…、一筋縄じゃ行かないな…。
「引き付けます。ショウコさんは一旦この場から離脱を…」
「…来たわ」
言いかけた僕の言葉を遮り、ショウコさんが呟いた。
何を言っているのか分からず、彼女の顔を覗き込んだ僕は、その視線を追い、倉庫に挟まれた太い通りの向こうへ、闇の中
へと視線を向ける。
そこに、彼は居た。
降り注ぐ淡い月光に美しい銀の被毛を輝かせ、シャープなシルエットが闇の中に浮かんでいる。
黒い和犬も、屋根の上の四人も、彼に気付いて視線を向ける。その時には、銀の獣は流星となって闇を切り裂いていた。
静止状態から一気にトップスピードに移ると、銀の人狼は手始めに地面に居る黒犬へと接近した。
その音速の動きに対処しきれず、脇を駆け抜けられた黒犬は、棒立ちのまま喉から血をしぶかせ、一瞬後に仰け反った。
黒犬の喉から鮮血が吹き上がったその時には、その喉を腕の一振りで切り裂いた銀狼は、屋根の上へと飛び上がっている。
一瞬で目の前に到達された四人は、視界の隅に銀色の残像を残すだけの銀狼の動きに翻弄され、反応し切れないまま、反撃
らしい反撃もできず、喉を裂かれ、胸を貫かれ、頭部を蹴り砕かれ、首を捻られて倒れ伏す。
加勢なんてもちろん必要ないから、僕はショウコさんを守って、闘いとも呼べない一方的な殺戮が終わるまでの僅かな時間
を待った。僕に各個撃破される程度の相手なんて、兄さんの敵ではないのだ。
敵対者をほんの一瞬で一掃すると、銀狼は屋根の上から僕達を見下ろした。
「無事か?ユウ、ショウコちゃん」
「ヤチさん!」
銀狼を見上げ、ショウコさんが笑みを浮かべた。
頼もしい兄の声に、僕の緊張が解け、安堵の息が漏れた。
「助かりました。でも、なんでここが?」
屋根から飛び降り、音もなく地面に降り立った兄さんに、僕は尋ねた。電話では位置を伝えるまではできなかった。なのに…、
「私が連絡したの。でも、まさかこんなに早く来て貰えるとは思わなかったわ」
ショウコさんはそう言った後、不意に何かに気付いたように目を見開き、兄さんを見つめた。
「…まさか、またユウをこそこそ監視していた訳じゃ…?」
「な!?ば、馬鹿を言うな!今回は仕事で、たまたま近くまで来ていただけだ!」
「何の仕事だったんです?」
「タマモさんの依頼だ」
ショウコさんと兄さんの会話を聞きながら、僕は首を傾げた。
…「また」…?それに、「今回は」…?
「兄さん。もしかして普段は僕が外出する時、監視していたんですか?」
「い、いや、そんな事は無いぞ?断じて」
僕の質問に、兄さんは視線を背けながらそう答えた。
「このブラコンは…」
ショウコさんがボソッと呟いた。
…帰ったら姉さんに聞いてみよう…。
「それはそうと、ママに連絡をしなくちゃ。どこの同族か分からないけど、かなりの強行派よ。目的も聞き出さなくちゃ…」
「その必要は無い」
兄さんはそうショウコさんに告げた。
「こいつらの素性は調べがついている。タマモさんに会いに来た客人と敵対しているヤツらだ。客人がタマモさんと会う前に
始末したかったようだな」
「客人?」
ショウコさんも知らなかったらしい。首を傾げている。
ドーベルマンとの会話である程度想定はしていたけれど、僕だって初耳だ。
「水族館でタマモさんの使いと待ち合わせの予定だったのだが、追っ手に気付かれたようでな…。急いでその場を離れたらし
いが、結局見付かり、追い回されるハメになったそうだ」
あ…。じゃあ水族館の中で気付いたあれは、そのお客様のものか…。
「それで、俺とクラマル、ソウスケに追っ手の始末が回ってきたのだが、来てみればこのとおり、ほとんど片付いていた」
兄さんはそう言って肩を竦めると、笑みを浮かべて腕を伸ばし、僕の頭に手を置いた。
「…本当に、逞しくなったものだな、ユウ…」
変身すれば身長が逆転し、見下ろす側になっている僕だけど、兄さんに優しく褒められると、いつでも、子供のように嬉し
い気分になる。
「さて、俺はソウスケ達を手伝い、追っ手共を縛り上げてから帰る。先に帰っていてくれ」
「その事なんですけど…」
ショウコさんは困ったように耳を伏せ、眉根を寄せた。
「ええ、服がこのざまじゃ…」
僕が腰回りに申し訳程度に残ったズボンを示すと、兄さんは苦笑いした。
「分かったよ。迎えが来ているから、先に車に乗っておくと良い」
「あ〜あ!久しぶりの外出だったのに〜!」
同志の用意した車に乗り込み、人の姿を取ったショウコさんは、毛布で身体を隠して頬を膨らませた。
「仕方ありませんよ。今回は、運が悪かったと思うしか…」
後部座席に並んで座り、そう応じた僕を、ショウコさんはちらりと横目で見た。
「何で人間の姿にならないの?」
「裸は恥ずかしいですから」
「…今も裸じゃない」
僕は頬の白い被毛を指先で弄る。…言われてみればそうだけれど、この姿なら被毛で肌が見えないし…。
「それはそうと、休んでいて下さいね?少しは分けましたけど、だいぶ力を使ったんですから」
「…うん。悪いけどそうする」
そう言うと、ショウコさんは僕に寄り掛かって目を閉じた。
「ふかふか〜…」
僕の肩に頬ずりして呟いたショウコさんは、少しすると寝息を立て始めた。…花火を三発も上げたんだもん、よほど疲れて
いたんだろうな…。
僕は労いを込め、彼女の肩に右腕をそっと回した。
「…うにゃ…」
可愛く寝息を漏らしたその顔に微笑みかけ、僕は思う。
二年前のあの闘いで、兄さんの名は広く知られるようになった。玉藻御前の懐刀、字伏夜血と知れば、遠く離れた土地から
やってきた余所者だって歯向かいはしない。
ネクタールが壊滅してフリーになったフータイさんも、この街に居ついた。同志になった訳じゃないけれど、兄さんに協力
して、影から同志達の守護を担ってくれている。
玉藻御前に加え、銀狼と猛虎。僕らのトライブに手を出そうとする外敵はめっきり減って、二年前と比べ、この街は随分平
和になった。
それでも、今回のようなトラブルは、完全には無くならない。
『厄介事というのは、望まぬ客のようなものだ。こちらが望まなくともやって来る』
フータイさんの言葉だ。だから望まぬ客にも常に備えよ、って…。
失いたくなければ、時には奪う事も必要だと、フータイさんは僕に言った。
正直、争い事は好きじゃないけれど、生きるためには時として戦う事も必要なのは解っているつもり…。
覚悟は決めている。僕は、狩人になる。兄さんが何と言っても、どんなに反対しても。
愛しいショウコさんの寝顔を見つめ、僕は自分の魂に、いつものように誓いを刻み付ける。
兄さんのように強くはないけれど、僕は力が及ぶ限り、このひとを守ってゆこう。
いつかは僕らのトライブを率いる事になる、このひとを支えてゆこう。
そうやって僕の命が続く限り、愛しいこのひとの傍に居続けよう…。
「大好きですよ。ショウコさん…」
普段、面と向かってはなかなか言えない言葉を囁き、僕は大切な人のおでこに、軽く口付けをした。