森の白夜
あたしはなだらかな山道を登っている。
鬱蒼と茂った木々の中、腐葉土に埋もれた道を辿って。
立ち止まって息をつき、上を見上げると、あの時からずっとあたしのお守りだった木彫りのフクロウが、胸元で揺れた。
彼と出会ったのは、あたしが幼稚園の年長組だった時だ。
あたしは今と同じように、この山道を登っていた。
性格の不一致か、意見の食い違いか、価値観の違いか、生活リズムの違いか…、あたしが気付いた時にはすでに、両親の関
係は修復不能な段階まで進行していた。
離婚に際し、二人のどちらかを選ぶ事を迫られたあたしは、お父さんもお母さんも好きだったから、どちらと離れるのもい
やだと泣き喚いた。
しかし、あたしがどんなに泣いても、両親の仲は元には戻らなかった。
あたしの事をめぐり、両親は毎日口論した。
両親は私の親権について話していたのだが、幼かったあたしには話の内容までは理解できず、漠然と自分について話してい
る事しか分からなかった。
ベッドの上で丸くなり、布団を被って耳を塞いでも、両親の声は耳に届いた。
その声を聞いていると、あたしのせいで二人が不仲になっているような気がした。
自分が居なくなれば二人は仲良くなる。幼いあたしはそう思い込んだ。
そしてある秋晴れの朝、眠っている両親の間、ベッドから静かに這い出し、あたしはこっそりと家を抜け出したのだ。
住んでいた町は、山の麓にあった。
一面が木々に覆われたなだらかで広い山。
高さはあまり無いので、山と言うよりも、こんもりと盛り上がった丘を覆った森のようだった。
深入りすると大人でも迷うので、絶対に入ってはいけないと言われていたその山に、あたしは迷う事なく、ずかずかと奥へ
踏み込んで行った。
荷物は飴玉が何個かと、ビスケット一箱、ランタン型の懐中電灯、500ミリボトルに入ったミネラルウォーター。それと
替えの服が一着。
思い返すに明らかに無謀な装備だが、幼稚園児に思いついた生活用品はそれぐらいしか無かったのだ。
たったそれだけを詰めたリュックを背負い、あたしはなだらかな傾斜を登り続けた。
朝早くに家を出て、休みながら歩いていると、太陽はあっというまに頭上を飛び越え、だんだん傾き始めた。
歩き疲れて泣きたくなって、幼いあたしがそれでも歩き続けたのは、少しでも遠くに行かなければならない。絶対に見つか
らない所まで行かなければならない。ただその思いがあったからだと思う。
太陽が木立に紛れ込み、辺りが暗いオレンジ色に染まり始めた頃、あたしの足は疲労の限界にきていた。
少し休もうと思い、座れそうな場所を見回すと、根本から二股に分かれた大きな木が目に映った。二股に分かれた部分はな
めらかなU字形で、座りやすそうだった。
小さいあたしには正面から登るのは難しく、股が地面とほとんど同じ高さになっている斜面の上に回り込み、ちょこんと腰
掛けた。
飴玉を取りだし、口に入れる。
あたしはへとへとに疲れており、暗くなるにつれ、心細くなっていた。寂しくなって泣きそうになる。涙が目尻に溜まり、
視界がぼやけた。
目尻に涙を手の甲で拭っていると、不意に、後ろでギィッと音がした。
驚いて振り返ると、家が建っているのが見えた。
当時のあたしは知らなかったが、それは丸太を組み合わせたログハウスというものだ。
絵本に出てくるようなその家は、煉瓦の煙突がついており、周囲にウッドテラスが巡らされた、少しおしゃれな作りだった。
音は、家のドアが開いた音だったらしい。ドアの正面にあたしの座っている二股の木が生えている。
ドアを押し開けた格好で、そのひとはあたしを見つめていた。
黄色い半袖ティーシャツにオーバーオールを身に付けた、とても大きなひとだった。
一番驚いたのは、さっきまで気付かなかった家の事でもなければ、そのひとが大きい事でもなかった。何よりもそのひとの
顔を見て驚いていた。
白いフサフサの長い毛に覆われた頭は、犬のようだった。
長く垂らした前髪の下で、黒い瞳が光っていた。
よく見れば、袖口から覗く腕も手も指も、白い毛に覆われていた。
がっしりした体つきで、背が高く、横幅も体の厚みも、お父さんの倍以上あった。
後で知った事だけれど、オールドイングリッシュシープドッグ。そういう名前の犬の顔に似ていた。
そのひとは右の眉を上げ、口の左端を微かに吊り上げていた。
少し驚いているような、同時に面白がっているような、そんな奇妙な表情だった。
「お客さんとは珍しいねぇ…。どこから来たのかな?お嬢ちゃん」
幼かったあたしは、最初は毛が白いから年をとっているのかと思ったが、そのひとは思いのほか若い声で言ってあたしに笑
いかけた。
人間の顔ではないのに、不思議に怖くなかった。見ていると安心するような、そんな柔らかい笑顔だった。
彼はゆっくり歩み寄りながら、あたしに尋ねた。
「お父さんやお母さんは?一人で来たの?」
「しらないひとと、はなしをしちゃいけないの」
あたしは両親の言いつけを守ろうと、そう言った。
彼は少し考え、それから親指で自分を指さした。
「僕は字伏白夜(あざふせびゃくや)」
「あざせばくや?」
あたしがうまく発音できないと、彼は可笑しそうに笑った。
「違うよ。びゃ、く、や」
今度は注意して正確に発音すると、彼は微笑みながら頷いた。
「名前が分かったら、もう、知らないひとじゃないよね?」
名前が分かるなら知ってるひと。彼の言うことは、幼いあたしにはもっともに思えた。だからあたしも彼に名前を教えた。
「あたしは川村朝日(かわむらあさひ)」
「アサヒちゃんか。良い名前だね。…でもビールを連想する名前だ…」
彼はあたしの名前を褒めてくれた。呟くような言葉の後半は、当時のあたしにはどういう意味か理解できなかった。
「お父さんとお母さんはどうしたの?はぐれちゃったのかな?」
彼はあたしの側で屈み込み、そう尋ねた。
「ちがうの。いえでしてきたの」
あたしの言葉に、彼はちょっと驚いたように目を丸くした。
「それなら帰らなくちゃ。もうすぐ日が暮れる。きっと二人とも心配しているよ?」
「していないよ。きっと、あたしがいないほうが、おとうさんも、おかあさんも…。あたし…、あたし、きっといらないこな
んだもん…」
思い出したら、とても哀しくなった。我慢していた涙があふれ出し、あたしは顔を押さえて泣き出してしまった。
彼はきっと困っただろう。家出した子供がいきなりやってきて、自分の家の前で泣き出したのだから。
結局、日も沈みかけていたので、彼はあたしを家に泊めることにしてくれた。
それが、あたしとビャクヤの出会いだった。
家出をしたその夜。
夕食には、ビャクヤが作ってくれた野菜スープと、鳥の唐揚げをごちそうになった。
彼は食後に蜂蜜をたっぷり入れて甘くした紅茶を出してくれた。
「口にあうと良いけれど…」
野菜もお茶の葉も自分で育てているのだと彼は言った。
あたしがビスケットを出すと、ビャクヤはとても喜んだ。
「この山奥じゃ、お菓子はなかなか手に入らなくてね」
あたしは紅茶を飲みながら、どうして犬の顔をしているのかとビャクヤに聞いてみた。
「前は人間の姿になったりもしてたけどねぇ…」
ビャクヤはそう言って言葉を濁した。意味は分からなかったけど、なんとなく話し辛そうなので、あまり追求してはいけな
いと感じた。
人の少し変わっているところをじろじろ見てはいけない。と、前にハゲたおじさんをじっと見つめていた時に、お母さんに
注意されたことがあった。あれと同じかもしれないと思ったのだ。
紅茶をすすりながら、両親の事をビャクヤに話した。説明は下手くそだったと思うけれど、それでもビャクヤは熱心に耳を
傾けてくれた。
「すきになってけっこんしたのに、なんできらいになっちゃうのかな?」
あたしの問いに、ビャクヤは腕組みをして「う~ん…」と唸った。
「気持ちはね、少しずつ変わっていってしまうものなんだよ。好きが嫌いになることもあれば、嫌いが好きになることもある」
「すきが、もっとすきにはならないの?」
あたしの質問に、ビャクヤは優しく微笑みながら頷いた。
「もちろんなるよ。全部が全部そうだったなら、みんな幸せになれるのかもね」
でも…。嫌いが、もっと嫌いになる事もある。この時ビャクヤは、きっとわざとその事は言わなかったのだと思う。
今なら理解している。過ぎてゆく四季によって景色が変わるように、人の心もまた変わっていってしまうものなのだと。
「ビャクヤは、けっこんしてるの?」
「してないよ」
「つきあってるひとはいるの?」
ビャクヤは可笑しそうに笑った。
「アサヒちゃんはませてるなあ。そういうの何処で覚えるんだい?」
「おかあさんがみてるドラマ」
「なるほど、納得…」
「つきあっているひとはいないの?」
あたしが再び尋ねると、ビャクヤは首を横に振った。
「残念ながら居ないね。僕、モテるように見える?」
テレビで見るイケメンとされる人達とビャクヤを比較し、あたしは答えた。
「ぜんぜんみえない」
「君は正直だなあ…」
ビャクヤは苦笑いしていた。今思えば、面と向かってかなり失礼な事を言ったものだ。
「まあ実際モテないんだけどね。太ってるし、長毛がウザいって言われるし。だから生まれてこの方、彼女ができた事もない
んだけどね」
傷ついた様子も、気にした様子も見せず、ビャクヤは気楽な調子で、黙っていれば分からなかった事までさらりと言った。
あまりにも堂々と、自然に言っているので、何故かかっこわるいとは思わなかった。
ビャクヤは汗をかいていたあたしを、大きな木の桶のお風呂に入れてくれた。珍しくて大はしゃぎして、あたしは服を着た
ままのビャクヤをずぶ濡れにしてしまった。
お風呂が済むと、歩き疲れて眠くなっていたあたしは、ビャクヤの寝室に案内された。
あたしと両親が一緒に寝られるくらい大きなベッドがあり、ビャクヤはあたしをその上に寝かせ、毛布をかけてくれた。
「それじゃあ、お休み」
居間で寝ると言って、寝室を出て行こうとしたビャクヤをあたしは引き留めた。
一人で寝るのは怖かった。一緒に寝て欲しいと訴えると、ビャクヤは少しの間困ったような顔をし、それから、仕方がない、
といった様子で頷いた。
ビャクヤは毛布をかぶったあたしの横に添い寝してくれた。
たぶん、自覚していなかったけれど、とても心細かったのだろう。あたしはビャクヤの体にぴったり寄り添って目を瞑った。
ビャクヤの体はフカフカで、柔らかくて、暖かかった。日干しした後の布団のような良い匂いと、ハッカのタバコの香りが
微かにしていたのを、良く覚えている。
家出して二日目、麓まで送るから家に帰れとビャクヤは言った。
が、あたしは頑なに拒否した。今になって思えば迷惑な子供だ。
あたしは畑仕事をするビャクヤを手伝って過ごした。
手伝うといっても、あたしにできる事はたかが知れていて、雑草と間違えてニンジンの葉っぱをむしったり、水を撒きすぎ
て畑を水浸しにするくらいしかできなかった。
失敗だらけだったが、ビャクヤは怒りもせず、ずっと楽しそうに笑っていた。
今思えば、ビャクヤはいつも笑みを浮かべていた。
畑仕事が終わり、昼食を摂った後、あたしはビャクヤに連れられて、近くの川に釣りに出かけた。
いろいろな話をしながら、二人でのんびり釣りを楽しんだ。夕方までにあたしは3匹釣り上げ、ビャクヤは7匹も釣り上げ
た。初めての釣りはとても楽しかった。あの魚は、たぶん鮎だったと思う。
その夜。夕食後に家の中を探検していたあたしはギターを発見した。
フォークギターを抱えて居間に戻り、食器を洗っていたビャクヤに、何か聴かせて欲しいとせがむと、彼は苦笑いしながら
頷いた。
「あまりたくさんの曲を知っているわけじゃないからね?」
彼がそう断ってから弾き出した曲は、どれもあたしの知っている曲ばかりだった。きっと、幼稚園で聴かせそうな曲を選ん
で弾いてくれたのだと思う。
あたしはビャクヤのギターに合わせて何曲も歌った。
「アサヒちゃんはとても歌が上手いな」
ビャクヤはそう褒めてくれた。とても嬉しかった。
しばらくギターと歌を楽しんだあと。あたし達はテラスに出た。
虫の声を聞きながら、ビャクヤはタバコに火をつけた。臭いを嗅ぐと鼻の奥がスーッとする、ハッカのタバコだった。彼は
煙があたしの方に来ないように風下に座ると、ナイフを使って木の欠片を削り、何かを彫り始めた。
あたしは両親の事や幼稚園の事を色々話し、ビャクヤは時折手を休めながら熱心に聞いてくれた。
だいぶ夜が更けると、ビャクヤは彫り掛けの木片を目の前で翳し、
「う~ん、いまいち…」
と呟いた。何を彫っているのかはまだ分からなかったが、あたしもビャクヤの手元の木片を覗き込み、
「うーん、いまいち」
と真似てみた。何が面白かったのか、ビャクヤは声を上げて可笑しそうに笑った。あたしもつられて笑った。二人揃って笑
いながら、家の中に戻って休んだ。
家出して三日目、両親も心配しているだろうから今日こそ家に帰ろうとビャクヤは言った。
が、あたしは断固として拒否した。今になって思えば頑固な子供だ。
ビャクヤと過ごすのは楽しかったし、彼はお父さんと違って、あたしがせがめばおんぶもだっこも肩車もしてくれた。
このままずっとビャクヤと一緒に居てもいいと思っていた。勿論、彼の迷惑を考える頭はまだ無かった。
私達は森の中を歩き回って木の実を集め、キノコや山菜を採った。
毒のあるもの、ないもの、食べられるもの、食べられないもの、物知りなビャクヤはいろいろな事を教えてくれた。
お昼近くになると、あたし達は倒れた木に並んで腰掛け、バスケットに詰めてきたサンドイッチを食べた。昨日釣った魚の
フライが挟んであって、とても美味しかった。
あたしは食べながらビャクヤに尋ねてみた。
「ビャクヤはずっとここにすんでるの?」
「二年くらい前からここに住み始めたんだ」
「ひとりぼっちでさびしくないの?」
「う~ん…。時々は寂しくなるかな?でももう慣れちゃった」
「ビャクヤのかぞくはどこにいるの?」
この質問に、ビャクヤはあたしと出会ってから初めて、悲しそうな顔をした。
「一緒に居られなくなってね…、今は遠く離れて暮らしているんだ」
まだ6歳だったけれど、あたしはそれが聞いてはいけない事なのだと感じた。ビャクヤの悲しそうな顔は見たくなかった。
「さあ、十分に集まったし、帰ろうか」
ビャクヤが悲しそうな顔をしたのは一瞬の事で、すぐにいつもの笑顔を浮べてあたしに話しかけた。
あたしは、ビャクヤの家族のことは聞かないようにしようと思った。
夜になり、夕食を摂った後、家の中を探検してから居間に戻ると、ビャクヤはまたテラスに出て、昨日の続きをしていた。
あたしもテラスに出て、ビャクヤの隣に座った。
ビャクヤが時々視線を上げて正面の木を眺めるので、その視線を辿ってみると、木の枝に一羽のフクロウがとまっていた。
フクロウはあまり動かないで、じっとこちらを見ていた。
ビャクヤは何度もフクロウを見ながら、木片を彫った。しばらくすると、木片を摘み上げて息を吹きかけ、木屑を飛ばした。
出来上がったのだろうか?様々に角度を変えて作品を眺め回すと、ビャクヤは満足そうに頷いた。
「ありがとう。参考になった。助かったよ」
そう言うと、彼は夕食にも出た魚のフライをフクロウに放った。フクロウは空中で見事にキャッチすると、フライを咥えた
まま、くぐもった声で「ホウ」と鳴き、夜空に飛んでいった。
ビャクヤは物知りだから、フクロウとも話ができるのだなあ。と、あたしは感心した。
あたしはビャクヤにしがみつき、完成したのだろう作品を見上げた。
「はい、君にあげる」
ビャクヤは笑いながら、できあがったばかりのそれを、私の手に握らせた。
それは、木彫りのフクロウだった。高さ5センチ、直径2センチ程の円筒形の木片は、三羽のフクロウが寄り添っている形
に彫り上げてあった。
大きいフクロウと、それより少し小さいフクロウが寄り添い、二羽の間、下の方に小さな子供のフクロウが居た。
可愛らしい三羽のフクロウを眺めているうちに、お父さんとお母さんとあたしみたいだと思った。
二人の事を思い出して、あたしはとても寂しい気分になった。
「お父さんとお母さんは、アサヒちゃんの事がとても大切なんだよ。大切だから、真剣に話し合っているんだ。君が要らない
子だなんて思ってやしないよ。きっと、今もとても心配してる…」
あたしがじっとフクロウ達を見つめていると、ビャクヤは大きな手を、あたしの頭にそっと乗せた。
「朝になったら、お父さんとお母さんのところに帰ろうね」
あたしはポロポロと涙を零しながら頷いた。零れた涙が、出来上がったばかりのフクロウ達に落ち、沁み込んでいった。
その夜。ビャクヤの体にしがみ付いて目を閉じながら、ずっと前に、お父さんとお母さんと三人で、動物園に行った時の事
を思い出した。
あたしが二人とはぐれてしまって、迷子センターに預けられた時、二人ともすごい心配顔で飛んできた。
「…しんぱいさせて、ごめんなさい…」
あたしは思わず呟いた。眠ったとばかり思っていたビャクヤは、あたしの頭を優しく撫でてくれた。
家出して四日目。あたしとビャクヤは早起きした。
ビャクヤは昨日くれた木彫りのフクロウの、お父さんとお母さんの間に小さな穴を開け、ヒモを通してペンダントにしてくれた。
あたし達は軽く朝食を摂って家を出た。
朝もやが立ち込める中、ビャクヤはあたしをひょいっと抱き上げると、肩車してくれた。
大きなビャクヤは、体を横にして二股になった木の間を通り抜け、さくさくと道を下り始めた。歩幅が広いからか、その速
さに驚き、あたしは喜んだ。
少しして振り返ると、ビャクヤの足が速いからか、朝もやで隠れてしまったのか、二股の木は見えたけれど、家はもう見え
なくなっていた。
あたしは何故か、急に不安になった。
「ねえ、またきてもいい?」
「…構わないよ」
ビャクヤの返事の前に、一瞬だけ間があった。
「あたしがいなくなったら、さびしい?」
「それはまあ、そうだねえ」
あたしはビャクヤのフサフサした毛に覆われた、長い耳を両手で掴んだ。
「あはは!くすぐったいよアサヒちゃん」
「あたし、またくるね?そうしたらビャクヤ、さびしくないよね?」
あたしはビャクヤの頭に顔を埋めて言った。
「かぞくができれば、ビャクヤもさびしくなくなるよね?あたし、おおきくなったらビャクヤのおよめさんになってあげる」
「そうだね。君の気が変わらなかったら、お願いしようかな」
あたしはビャクヤに言った。
「かわらないものって、たぶんあるとおもうよ」
「…そうだね、そうだったらいいね」
ビャクヤはそう呟いた。今思えば、あれは自分に言い聞かせているような呟きだった。
ふもとに近いところで、ビャクヤはあたしを降ろした。辺りの霧はだいぶ薄れていたけれど、心細くなって、あたしはビャ
クヤの太い腕にしがみついた。
「大丈夫だよ。すぐそこまで捜索隊が来てる」
「そーさくたいって?」
「お父さんやお母さんに協力して、君を探してくれている人達さ」
ビャクヤはそう言うと、あたしの頭を撫でた。
「僕と会ったことは、誰にも言ってはいけないよ?」
「どうして?」
「どうしても。約束できる?」
「うん。やくそくする。やくそくしたら、またあそびにきてもいい?」
ビャクヤが頷くと、あたしは右手を出して小指を立てた。
「じゃあやくそくする。ビャクヤのこと、だれにもいわない」
ビャクヤは顔をほころばせ、あたしの細い指に、太い指をくっつけた。
『ゆ~びき~りげ~んま~ん、う~そつ~いたらは~りせ~んぼ~んの~ます!ゆ~びきった!』
あたし達は声を揃えて指切りし、笑顔を交わした。
「さぁ、お別れだ」
指を離すと、ビャクヤは立ち上がった。
「道から外れないで真っ直ぐに進めば、すぐに皆のところに行ける。それじゃあ、元気でね、アサヒちゃん」
ビャクヤはあたしの背中を軽く押した。あたしは少し歩いてから立ち止まり、ビャクヤを振り返る。ビャクヤは笑みを浮べ
てあたしを見つめていた。その笑顔は、今までと違って、少しだけ寂しそうに見えた。
お別れの言葉を、お礼を言おうとして口を開く。
また来るから。ビスケットも持っていくから。ごはん美味しかった。いっぱい迷惑かけてごめんなさい。釣りは楽しかった。
ペンダント大事にする。ギターを弾いてくれて有難う。お風呂に入れてくれて有難う。一緒に寝てくれて有難う。優しくして
くれて有難う…。
言いたいことはたくさんあったのに、どう言葉にしていいか分からなかった。
あたしが迷っていると、下の方から足音と、人の声が聞こえた。
一度そっちを向き、それからまた振り返ると、ビャクヤはもう居なくなっていた。
結局、さよならも、有難うも、言えないまま…。
捜索隊の人達に連れられ麓に下りたら、眼を泣き腫らしたお母さんと、涙を堪えて顔をくしゃくしゃにしているお父さんが
待っていた。
あたしは二人に飛びつき、声を上げて泣いた。フクロウのペンダントを握り締めながら、何回も何回もごめんなさいを言った。
結局、程無く両親は離婚した。
あたしはお父さんと一緒に暮らすことになったが、お母さんはちょくちょくやってきては、あたしを連れて外食し、一緒に
買い物をしたりした。
あたしは要らない子じゃない。ビャクヤの言ってくれた言葉のおかげで、あたしは両親の離婚を受け入れても、塞ぎこむ事
はなかった。
そして、あの家出から一ヵ月後、町の工場に勤めていたお父さんの転勤が決まった。
両親の離婚と引越しの作業が重なって毎日がバタバタと忙しく、ビャクヤに会いに行くことはできないまま、あたしは遠い
町に引っ越した。
転勤先でお父さんが偉くなり、本社のあるこの町に戻る事が決まったのは去年の夏。実際に帰ってきたのは、つい昨日の事だ。
あたしは中学校を卒業し、この春からこの町の高校に通うことになっている。
…ビャクヤと会ったあの日から、9年以上が経っていた…。
あたしは胸元のペンダントを握り締め、再び道を歩き始める。
両親の離婚後も、心は離れていない事をずっと教えてくれていた木彫りのフクロウ達。
辛いときも、悲しいときも、このペンダントがあたしにずっと言い聞かせていた。お前は要らない子なんかじゃないんだ。と。
ビャクヤと過ごしたあの数日の記憶が、時と共に色褪せてしまわなかったのは、ずっとこのフクロウ達を眺めてきたからだ
ろうか?6歳のときのあたしの体験は、他の何を忘れてしまってもはっきりと思い出せた。
ビャクヤの家までの道は覚えていなかったが、分かれ道などで迷った覚えはない。ただただまっすぐに歩いてゆけばいいだ
けのはずだった。幼稚園児の足で行けたのだから、今ならば簡単に辿り着けると思っていた。
…それなのに、歩いても、歩いても、あのログハウスは見えてこない…。
足が疲れ、息が切れ、当時の自分を誉める。…少しでも遠くへ行こうと必死だったんだね、あの時のあたし…。
一息ついて額の汗を拭い、見覚えのある所はないかと周囲を見回す。
木ばかりで目印になりそうな場所は何も無い。途方に暮れてため息をついたあたしの目が、慌てて一度通り過ぎた所へ戻った。
木々の間に、寄り添うように立つ二本の太い木が見える…。
「あった…!」
足早に木々を回り込み、あたしは思わず呟いた。
根本から二股に分かれた木。あの時は秋だったし、あたしに知識が無かったから気付かなかったが、二股の木は桜だった。
薄桃色の桜の花びらがひらひらと舞い降りる中、あたしは顔を輝かせ、斜面の上を見上げる。
…そして、呆然と立ち尽くした。
二股の木のすぐ上の方に建っていたはずのログハウスは、何処にも見当たらなかった。
木々が生い茂るばかりで、家も、畑も、平らに均された庭も、何処にも無かった。
木の横を通り抜け、あたしは記憶を頼りに、ビャクヤの家が建っていたと思われる辺りに立つ。だが、家が建っていた痕跡
も、何処にも見つけられなかった。
家があった辺りには、9年やそこらで成長したのではない事がはっきり分かる巨木が、何本も生えていた。
二股の木があの時とは別のものなのかと思い、戻って調べてみる。しかし、じっくり眺めれば眺めるほど、同じ木に思えた。
くぼみも、うろも、記憶通りの位置にある…。
体中の力が抜けた。
あの時の事は、あたしの夢だったのだろうか?
あのログハウスは、幼いあたしが創り出した幻覚だったのだろうか?
オールドイングリッシュシープドッグの顔をした、毛むくじゃらの優しい大男は、あたしの空想上の存在だったのだろうか?
あの時の約束を守って9年間誰にも話さず、必ずまた会いに来ようと思っていたのに…。
胸にポッカリと穴が開いたような喪失感があった。あたしはあの時のように、二股の木の間に腰を降ろし、項垂れた。
項垂れたあたしは、胸元に揺れる木彫りのフクロウに気付き、はっとしてそれを握り締める。
…他の何が幻想だったとしても、6歳の幼女がナイフも無しにこんな細かい彫り物をするのは不可能だ…。
間違いない。あの時この子達を作ったのはビャクヤなのだ…!
不意に、後ろでギィッと音がした。
弾かれたように振り返ると、見覚えのあるログハウスの姿が、あたしの眼に飛び込んで来た。
絵本に出てくるような少しおしゃれなその家は、煉瓦の煙突がついており、周囲にウッドテラスが巡らされている。
ドアを押し開けた格好で、彼はあたしを見つめていた。
黄色い半袖ティーシャツにオーバーオールを身に付けた大柄な男。
白いフサフサの長い毛に覆われた頭は犬のようで、長く垂らした前髪の下で黒い瞳が光っていた。
あたしがよくしがみ付いてぶら下がった腕も、大きくて優しい手も、太い割に器用な指も、覚えている通りに白い毛に覆わ
れていた。
背が高く、がっしりとした体は、記憶にあるより少し太ったかもしれない。
彼は右の眉を上げ、口の左端を微かに吊り上げていた。初めて会った時と同じ、ちょっと驚いているような、そして面白がっ
ているような奇妙な表情…。
「…お客さんなんて珍しいと思ったら…」
あの時と全然変わらない声で言い、ビャクヤは笑みを浮べた。
あたしは立ち上がり、荷物を放り出して彼に駆け寄った。
大きなフカフカの体に飛びつき、分厚い胸に顔を埋めてから、ちょっと驚いているような彼の顔を見上げる。
「遅くなってごめん…!会いに来たよ。ビャクヤ!」
9年かかったけれど、あたしはやっと、あの時言いそびれたたくさんの有難うを、彼に伝えることができた!