紅葉の白夜
あたしはなだらかな山道を登っている。
鬱蒼と茂った木々の中、紅葉に彩られた道を辿って。
毎週のように登っていたら、最近では息が切れる事も無くなった。
大切なお守り、木彫りのフクロウのペンダントが、胸元で揺れた。
家出したあたしが彼と最初に出会ったのは、幼稚園の年長組の頃だった。
離婚する両親が私の親権について毎晩激しく口論した。それに耐え切れず、自分が居なくなれば両親が仲直りすると思い込
んで家出したのだ。
そしてこの山に登ったあたしは、まるで御伽噺のように、深い森の中に一軒だけ建つ彼の家に辿り着いた。
なによりも御伽噺的だったのは、レンガの煙突がついたログハウスでも、決まった方法でないと彼の家に辿り着けない事で
もなく、彼自身の事だった。
三時間かけて山道を登り、あたしは見慣れた木を目にする。
根本から二股に分かれた大きな桜の木。
二股に分かれた部分はなめらかなU字形で、座りやすそうに見える。事実、家出当時の幼稚園児だったあたしは、歩き疲れて
ここで休憩したのだ。
あたしは二股の桜を回り込み、斜面の上側から間を抜け、そして振り返った。
これが、彼の家を訪ねるときの決まり事。
振り向いたあたしの目に、先程までは無かったはずのログハウスが見えた。
絵本に出てくるようなその家は、煉瓦の煙突がついており、周囲にウッドテラスが巡らされたおしゃれな作りである。
ギィッと音がして、家のドアが開いた。
ドアを押し開けた格好で彼はあたしを見つめ、右の眉を上げ、口の左端を微かに吊り上げた。
ちょっと驚いているような、同時に面白がってもいるような、そんな奇妙な表情。
黄色い半袖のティーシャツにオーバーオールを身に付けた大男。木でも切り倒すつもりだったのだろうか?今日は肩にマサ
カリを担いでいた。
特徴的なのは、何よりもその顔だ。
白く、フサフサした長い毛に覆われた頭は犬のようで、オールドイングリッシュシープドッグという犬によく似ている。長
く垂らした前髪の下で黒い瞳が光っており、腕も手も指も、同じように白い毛に覆われていた。
測った事はないけれど、背は軽く2メートルを越えるだろう。がっしりした体つきで、横幅も厚みも普通の大人の倍以上あ
る。ちなみに、最初に会った頃と比べ、最近は少し太ってきたようにも感じる。
「遊びに来たよ。ビャクヤ!」
あたしが声をかけると、ビャクヤは犬の顔に笑みを浮べて見せた。
あたしの名前は川村朝日(かわむらあさひ)。
この山の麓の町の高校に通う一年生。15歳。ちなみに合唱部所属。彼氏は居ません。はい。
両親が離婚し、親権を得たお父さんと暮らす事になったあたしは、小学校に入る前にお父さんの転勤で遠い町に引っ越す事
になった。
お父さんが出世し、この町の本社に戻る事になり、再び戻ってきたのが高校に入学する春。今から6ヶ月前だ。
つまり、9年以上ものの時を経て、あたしとビャクヤは再会できたのだ。
「これはきっと運命だと思う」
と、あたしが拳を握り締めて言ったら。
「うん。確かに運命的だ。きっとこの町に縁があるんだね」
と、彼は応じた。
たぶん、あたしが伝えたい事はちっとも伝わっていないと思う…。
「平日に来るなんて思わなかったから驚いたよ。今日は金曜日だよね?」
彼はあたしを家に上げると、紅茶を淹れながら言った。
彼のフルネームは字伏白夜(あざふせびゃくや)。
何故オールドイングリッシュシープドッグ(長いな…)のような顔をしているのか、こんな山の中に一人で住んでいるのか、
家族はどうしているのか、実は全然知らない。
聞けば何でも答えてくれる彼だが、何かの弾みでこれらの件に話が及ぶと、困ったような、寂しそうな、悲しそうな顔をす
る。だから詳しく追求した事は無い。
あたしは学校が休みの日は、特に用事がない限り、必ずビャクヤに会いに来ている。なので彼は、土曜でも日曜でもない今
日、家を訪れた事を疑問に思っているようだ。
「今日は創立記念日で学校は休み。だから今日から三連休」
「それは良いね」
ビャクヤは微笑みながら応じる。
彼はいつもにこやかに笑っている。人間の顔ではないのに、最初に見たときから不思議に怖くはなかった。見ていると安心
するような、そんな柔らかい笑顔…。
この笑顔があたしは好きだ。いや、好きなんてものじゃない。あたしは彼の事が大好きだ。でも、鈍感な彼は恐らくその事
に気付いていない。実に遺憾である。
「そこで…」
あたしは机の横に置いてある、背負ってきた大きなザックを視線で指した。
「宿泊用具を持って来たわ」
ビャクヤは眉根を寄せ、何とも微妙な表情でザックを見つめた。
「宿泊って…、お父さんには何て?」
「「文化祭の出し物の特訓があるから、友達の家に泊まり込んで練習する」と伝えたの。友達への口裏あわせもバッチリ」
我家は割りと放任主義だ。あたしは結構頻繁に友人宅へ泊まりにゆくが、幼稚園まで過ごした見知った土地である事もある
せいか、父はあまり口うるさくない。
「年頃の女の子が、独り暮らしの男の家に転がり込むのは感心しないなぁ…」
「感心しなくていいから承諾して」
「承諾しなかったらどうするつもりだい?」
「野宿」
ザックから寝袋を引っ張り出して即答したあたしに、ビャクヤは諦めたようにため息をついた。
「仕方ないね…。強情な君のことだ。説得は無理だろうし…」
「さすがビャクヤ、解ってるじゃない。ついでに、料理くらいは作ろうと思って食材も買い込んで来たわ」
「…タマネギは入っていないだろうね?」
ビャクヤは警戒したように眉根を寄せ、鼻をフンフンと鳴らした。
彼はタマネギが苦手だ。最初は犬だからなのかと思ったが、違うらしい。単に嫌いなだけとの事、実にややこしい。
一度だが、故意にカレーにタマネギを混ぜ込んでやった事がある。
別にイヤガラセをしたかった訳じゃない。食わず嫌いを治してやろうと気遣っての行動だったのだ。が、ビャクヤはスプー
ンで掬ったルーの中に混じっていたタマネギを目にしたとたん、「ぎゃあっ!!!」と悲鳴を上げてスプーンを放り出して逃
げ、部屋の隅に身を寄せて顔を引き攣らせながらガタガタ震えていた。
後にも先にも、ビャクヤに悲鳴まで上げさせる事が出来たのはあの一度きりだ。一体、タマネギにどんなトラウマがあると
いうのだろうか?
彼の警戒を解く為に、あたしは机の上にザックの中身を並べて見せる。数本持ってきた缶ビールと、地元のケーキ屋の箱に
気付くと、ビャクヤは目を輝かせていた。
宿泊と夕食の支度をする許可を取り付ける事に成功すると、あたしは感謝を込めてビャクヤに抱きついた。
ビャクヤの体はフカフカで、柔らかくて、暖かい。日干しした後の布団のような良い匂いと、微かにハッカのタバコの香り
がする。
ビャクヤが木を切りにでかけると、あたしは夕食を作り始めた。
ガスはないので、薪を利用したかまど式だ。
時間がかかる作業なので、今のうちにビャクヤの事を説明しておこう。
ビャクヤは見ての通り普通の人間ではない。が、昔は人間の姿をしていた事もあったと言っていたので、おそらく昆虫なん
かのように、歳をとると姿形が変わるものなのだろうと思う。…たぶんだけど。
ビャクヤは犬っぽいが、尻尾は無い。本物のオールドイングリッシュのように断尾したのかと聞いたら、自分は生まれつき
尻尾無しで生まれた個体なのだと言っていた。
ビャクヤは太い腕や指をしているが、とても器用だ。あたしのフクロウのペンダントは彼が作ってくれたものだし、フォー
クギターも上手に演奏する。ちなみに料理もあたしより上手い。そこだけは遺憾である。
ビャクヤはこの山奥から出ようとしない。野菜やお茶の葉を家の横の畑で自家栽培しているし、魚や鳥は自分で取ってくる
し、小動物を獲ったりもする。木の実や山菜、キノコにも詳しい。彼はそうやって自給自足し、10年以上もたった一人で暮
らしているそうだ。
ビャクヤは甘いものが好きだ。菓子は山奥では手に入らないから貴重らしい。お菓子を持ってくるとあまりにも喜ぶので、
試しにドーナッツをたっぷり買ってきたら、ペロッと十数個食べてもまだ物足りなそうにしていた。
ビャクヤの存在は秘密だ。誰にもビャクヤの事を話さないと約束している。確かに大人達が知ったら、ビャクヤはテレビや
らなにやらに押しかけられて大変な事になってしまうだろう。
ビャクヤはタバコを吸う。COOLというタバコで、強いハッカのヤツだ。深夜にこっそり、人目を避けて下山して自販機で買
っているらしい。なお、自室には千円札と小銭がぎっしり入ったトランクがいくつもある。全部で1400万円以上あるとい
う事だが、タバコを買う以外には使う必要がないらしい。
ビャクヤは白くてフカフカで暖かい。ぎゅっと抱きつくと、柔らかい毛の下にすごい筋肉があるのが分かる。昔何か運動を
していたのかと聞いたら、答えにくそうに「狩りを少し」と言った。狩りは今でもやっているはずだが、聞かれたく無さそう
な雰囲気だった。
ビャクヤは不思議な力をもっている。フクロウとも会話できる様子だったし、この家も普通は見えないようにしてある。
ビャクヤは33歳らしい。「でも僕らの平均寿命は百二十歳くらいで人間の1.5倍くらいだから、人間に換算すると三分
の二で22歳くらいだね。…って、こんな事気にしてるあたり、やっぱり歳をとったのかなぁ?」などと苦笑いしていた。
ビャクヤが、あたしは要らない子なんかじゃないと教えてくれた。
ビャクヤのおかげで、両親の離婚にも耐えることができた。
ビャクヤのくれたフクロウが、あたしをずっと支えてくれた。
ビャクヤの事が、あたしは大好きだ。
ビャクヤに昔、「およめさんになってあげる」と約束した。
…彼はもう忘れてしまっているかもしれないが、あたしは今まで一度も忘れたことはない…。
あたしは臭いに気付いて我に返り、慌てて鍋を火から離す。
考え事に没頭していたら、シチューを焦がしてしまった…。
帰って来たビャクヤは、テーブルに並べた料理を目にして顔を綻ばせた。
作業をしてお腹がぺこぺこだったのだろう。彼の腹の虫が「ぐうぅぅぅっ」と凄い声で鳴いた。
ビャクヤは気恥ずかしそうに苦笑すると、あたしが促すまま食卓についた。
ビーフシチューもチキンステーキもポテトサラダも、あまり上手くは作れなかったけれど、彼は「とても美味しいよ」と言っ
てくれた。たとえ嘘でも嬉しい。
食事をしながら、あたしはビャクヤに学校の事を話す。あたしにとっては退屈な日常の話だけれど、ビャクヤはいつでも興
味深そうに聞いてくれた。
「文化祭では、合唱部で出し物をする事になったの」
「良いねえ。君は小さい頃から歌が上手だったからね。きっと上手く行くよ」
ビャクヤにそう言われ、あたしは照れ笑いした。
小中高と合唱部に入ったのは、歌が上手いとビャクヤが誉めてくれたからだ。一生懸命練習して、今では自分でもそこそこ
上手くなったと思えるようになった。
先生に誉められるより、部の友人に誉められるより、お父さんに誉められるより、ビャクヤに誉められるのが一番嬉しい。
「もうすぐ、初めて会ってから10年になるわね」
ビャクヤも覚えていたのだろう。懐かしそうに目を細めた。
「あの年は冷え込むのが早かったね。君が来た頃は、もう紅葉が散り始めてた」
食事を終え、紅茶を飲みながら談笑し、あたしは時計を確認する。
午後9時半。あと2時間半だ。
「だいぶ遅くなってきたから、そろそろお風呂にしたら?もう沸かしてあるから」
ビャクヤの言葉に頷き、あたしは立ち上がった。
部屋の出口まで行き、そこでふと気が付いてビャクヤを振り返る。
彼はまだ、椅子に座ってクッキーをつまんでいた。
「来ないの?」
そう問いかけると、ビャクヤは訝しげにあたしを見た。
「昔は一緒に入ってくれたじゃない?」
「もう大きくなったんだし、一人で入れるでしょ?」
…やはり分かっていない…。
…まあいい、あと二日ある…。それに…。
あたしは木の桶のお風呂にゆっくりつかり、今夜に備え、持参したボディシャンプーで入念に体を洗った。
お風呂から上がると、ビャクヤの姿が無かった。食器類は全て洗って乾かしてある。
あたしは玄関のドアを開け、家にぐるりと巡らされたウッドテラスに出る。
ビャクヤはタバコを咥え、ベンチのような長椅子にかけて星空を眺めていた。
変に構えず、気取った所の無い、のんびりと穏やかな彼は、自然にくつろいでいる様子が実に絵になる。つくづくそう思う。
お風呂からあがった旨を伝え、あたしは彼の隣に座る。
初めて来た時、彼はここでフクロウのペンダントを彫って、あたしにくれた。彼に貰ったペンダントは、今ではあたしの大
切な御守だ。
少し話をした後、彼はお風呂に向かった。
あたしはその間に、今夜に備えてベッドを整えに向かう。
男の独り暮らしというと、散らかして汚れた部屋を想像しがちだが、ビャクヤは綺麗好きだ。はっきり言ってあたしの部屋
より片付いている。掃除をしてやろうというあたしの好意は、結局ゴミ箱に僅かに残ったゴミを集めて回る程度に留まってしまう。
ビャクヤのベッドは大きい。大人が二人、子供を挟んで寝られる程の大きさだ。
幼稚園児だったあたしは、ここでビャクヤに添い寝して貰った。両親から離れた不安も、彼のフカフカの身体に抱きついて
眠れば忘れられた。
整えたベッドを見下ろしてから、あたしは時計を確認する。
午後11時。あと1時間…。
お風呂から上がったビャクヤは機嫌が良さそうだった。あたしが新しく持ってきたボディシャンプーやソープが気に入った
のだろう。
ちなみに、シャンプーや石鹸などの山で手に入らない類の品は、あたしが土産に持ってくる。それまではどうしていたのか
と聞いたら、お湯洗いだけで入念に汚れを落としていたらしい。
ドライヤーも無いはずなのに、ビャクヤの体毛はすっかり乾き、フサフサになっている。何故かと尋ねると、
「体温を上げて乾かしたから」
という答えが返ってきた。意味不明だったが、これも彼の不思議な力の一つなのだろう。本当に、どういう生き物なのかが
さっぱり分からない。
とりとめもなく話をしながら時計を見れば、間もなく日付が変わるところだった。
あと1分…、30秒…、10秒…、3…2…1…、
「お誕生日、おめでとう」
日付が変わると同時にビャクヤは笑みを浮かべて言った。
あたしは面食らって彼を見つめる。
「知ってたの?」
驚いて尋ねたら、以前一度星占いの話をしたときに、あたしの誕生日を確認していると言う。あたしもすっかり忘れていた
が、それでずっと覚えてくれていたらしい。
あたしは持参したケーキを机の上に置き、16本のロウソクを刺す。ビャクヤはそれを興味深そうに見つめていた。
あたしはロウソクに火を灯して、部屋のランタンのフードを降ろし、光量を調節した。
二人でハッピーバースデーを歌った。ビャクヤがギターで伴奏をしてくれた。
六人前はあるケーキを切り分け、五人前はビャクヤにあげる。
ケーキを食べ始める前に、ビャクヤは机の下から木彫り細工を取り出した。
それは、太い木の枝をくりぬいて作ったランタンだった。中にロウソクを入れると、透かし彫りになった三羽のフクロウが
逆光でシルエットになり、揺れる炎に合わせて踊った。
こんなステキなプレゼントまで用意してくれていたんだ…。…有難う、ビャクヤ…。
「今日で16歳になったわ」
「おめでとう!あれからもうじき10年かあ。月日が流れるのは早いものだねえ…」
ビャクヤはオッサン臭い事を言って笑った。
「そう、10年よ。あたしももう立派なレディ」
「うん。あの時の可愛かった女の子は、本当に綺麗な少女になった」
ビャクヤの誉め言葉に、あたしは「いやあ、それほどでも…」と頭を掻く。
…いやそうじゃない、落ち着けあたし。
「…16歳になったわ」
「うん。おめでとう!」
「16歳よ」
「うん。…どうかしたの?」
しつこく繰り返したあたしに、ビャクヤは首を傾げた。…やっぱり、気付いてない。
「女は16歳になれば結婚できるのよ」
「法律上はそうみたいだね」
「あたしは、ビャクヤのお嫁さんになれる歳になったのよ」
ビャクヤは目をまん丸にしてあたしを見つめた。
「10年前、別れ際に約束したわよね?ビャクヤのお嫁さんになってあげるって」
「…あ!…いや、でもそれは…」
思い出したのか、ビャクヤはもごもごと呟く。
「あたしの気が変わらなかったら、お願いするって言ってたわよね?」
「…そうだけど…」
「それとも、あれは嘘だったの?」
「いや…、嘘なんかじゃ…」
「変わらない物はやっぱりあった。あたしの気持ちは変わらなかったもの。だから今日、こうしてここに来ているのよ」
あたしは、大きく息を吸い込み、
「ビャクヤ!あたしをお嫁さんにして!」
勇気を振り絞ってビャクヤに結婚を申し込んだ。
頭に血が昇り、顔が真っ赤になって熱かった。
ビャクヤは困ったような顔で、胸の前で指を組んだりほどいたりしている。垂れている耳が、時折落ち着かなげにピクピク
と動いていた。
「アサヒちゃん…。気持ちは嬉しいけど…」
「あたしじゃイヤ?」
「そうじゃないよ。でも、君は若い。君は16歳で、僕は33で…、年だって倍も離れてるし…」
「愛があれば、年の差なんて関係ないわ」
「それにほら、僕は普通の人間じゃないし…」
「愛があれば、種族の違いなんて些細な事よ」
「…僕、太ってるし、毛深いし…」
「愛があれば、そこも好きになるのよ」
「…でも…、僕…」
「ああもう!全部含めて愛してるの!」
あたしが大声を上げると、ビャクヤはちょっと驚いたような顔をした後、照れたような、困ったような微笑を浮べた。
「…そこまで言ってくれたのは、君が始めてだよ」
ビャクヤはそう言うと、優しく微笑んだ。
「でもね。返事はまた今度」
今になって不安になった。
「…もしかして、あたしの事、ビャクヤはあまり好きじゃない…?」
ビャクヤはあたしを妹か娘みたいに思っているのではないだろうか?恋愛対象には含まれない、いつまでも小さな子供のあ
たしのイメージを抱いているのではないだろうか?
「そうじゃないよ。ただね、君はまだ若い。焦る事なんてこれっぽっちも無いんだ」
ビャクヤはテーブル越しに手を伸ばし、あたしの手を優しく包んだ。彼がそんな事をするのは初めてだったので、少し驚いた。
「だから、今は結婚とかを焦って考えることは無い。高校生活を目一杯楽しんで、興味が有るなら大学にいって、少し社会に
出て働いてみるのも悪くないよ。やりたい事が見付からない内に、早々と将来を決めて、自分から視野を狭めるような事はし
て欲しくないんだ」
ビャクヤはそう告げると、照れたように笑った。
「君の気持ちは本当に嬉しいよ。でも、もう少し時間を置いて、好きな人が他にできなくて、気持ちが変わらなかったら、そ
の時にまた話し合おう」
…ビャクヤはじらし上手だ…。あたしは仕方なく頷いた。そして勝手に呟きが漏れる。
「初夜に備えていろいろ準備したのに…」
何て事言ってるんだろう、あたし…。呟きを耳にしたビャクヤは、口をポカンとあけて目を丸くしていた。
「…それじゃあ…」
ビャクヤはコホンと咳払いすると、テーブル越しに身を乗り出し、あたしの額に素早くキスをした。
「一応、仮予約って事で」
照れ笑いしたビャクヤの顔が、たまらなく愛おしかった。
やっぱり、あたしはビャクヤが大好きだ…。
「………かい…」
「え?」
あたしの囁くような言葉に、ビャクヤは聞き返す。
「…もう一回…」
ビャクヤは苦笑し、あたしは催促するように目を閉じる。
彼の顔が十分に近付いた時、あたしは目を開け、ビャクヤの唇を奪った。「んむっ!?」と声を上げたビャクヤの首に腕を
回し、あたしは舌を絡ませた。
不意打ちで硬直したビャクヤと、長い、長いキスを交わし、あたしは顔を離した。
「お返し。あたしも予約したから」
あたしの言葉に、ビャクヤはぼーっとした様子で呟いた。
「…実は僕、今のがファーストキスだったんだけど…」
「あたしもそう。これで、お互い初めての人ね」
ビャクヤは呆気に取られたようにあたしを見つめ、それから可笑しそうに声を上げて笑った。
その夜、リビングで寝ると言い出したビャクヤを散々説得し、あたしは彼をベッドに誘い込んだ。が、
「アクションは何も無し、大人しく寝るだけ。それなら一緒のベッドで寝るから」
と、先手を打って入念に釘を刺された。…ちっ、野生の勘というやつだろうか?なかなか鋭い…。
それでも、あたしはビャクヤの体にしがみつき、あの時と同じようにして眠れる事に満足した。
…翌朝、ビャクヤは寝不足のようだった。
あたしが一緒に居る事で興奮したのだろうか?そう思ったら、まんざらでもない手応えに思え、少し嬉しかった。
その日は、テラスの手すりの修理を手伝って過ごした。
昨日ビャクヤがまさかりをかついで出かけていたのは、この修理の材料を探すためだったらしい。
炊事、洗濯、日曜大工と、ビャクヤは何でもこなす。一人暮らしが長いせいだろうか、どれも板についている。
…お嫁さんとして、料理ぐらいは任されるように努力しよう…。
予約をしたという安心感があるせいか、昨夜までの焦るような胸の高鳴りは治まっていた。
でも、不満はまったく無い。今は不思議に、とても満たされた気分だった。
そう。焦ることなんてない。高校を卒業したら、またこの話をしてみよう。
10年待ったのだ。卒業するまでのあと二年半足らずくらい、どうって事ない!
「ビャクヤ」
私はビャクヤに声をかけた。ビャクヤは木材にやすりをかけながら振り向いた。
「大好きよ」
「僕もだよ」
ビャクヤの返答は意外にも、微笑みと一緒にしごくあっさり返って来た。
不意打ちしてやったはずが、逆に不意を突かれてしまい、思わず赤面して二の句が告げなくなる。
ビャクヤはそんなあたしを見て、いつもの優しい笑顔で可笑しそうに笑った。
周囲の紅葉よりも顔が赤くなっているのではないだろうか?そんな事を考えながら、あたしは照れ隠しに空を仰いだ。
…む〜…、してやられたなぁ…。