独白する人狼の物語(前編)

雨上がりの湿った風が、濡れたアスファルトの上を撫でて行く。

この薄暗い路地裏には、俺の他に動く物はない。…今は。

寂れた小さなビルとビルがひしめき合う間、隙間として残っているだけの路地から見上げれば、細い夜空に、湿気でぼんや

りと滲んだ満月が見える。

路地の壁に反響し、遠くから盛り場の喧噪が微かに聞こえてくる。間もなく日付が変わる頃だが、この不夜城都市、新宿が

眠る事はない。

指から滴る血を、長くしなやかな舌で嘗め取り、俺は足元に転がる、今しがた仕留めたばかりの獲物を見下ろした。

月光に照らされ横たわった獲物は、すでに息絶えている。

派手に動き過ぎた。それがこいつのミス。

俺達のような存在が、人に、社会に混じって生きていくならば、やり過ぎてはいけない。目立ってはいけないのだ。

自分の身を守る為でもある。派手に動き過ぎた同類を、こうして手にかけるのもやむを得ない事だ。

足下に倒れ伏すのは斑点に覆われた毛皮を持つ、異形の生物。

体付きは人のようではあるが、頭部も、体を覆う毛皮も、豹そのものだ。

古来より人々は、俺やこいつのような存在を、ライカンスロープと呼んでいる。

普段は人の姿を装いながらも、半人半獣の本性を持つ存在…、それが俺達だ。

おとぎ話や伝承の中にのみ存在するように思われているが、実在する証拠がここに居る。

殆どの者は他者との接触を避け、人気のない場所で、ひっそりと暮らしている。

しかし、中には正体を隠し、人間社会に紛れ込んでいる者も少数ながら居る。

つまりは俺もその中の一人だ。

俺は獲物の骸を肩に担ぎ上げた。死骸を残すのはまずい。この異形の死骸を目にしたら、人間共は大騒ぎするだろう。

死骸を担ぎ、暗く狭い路地を選びながら、俺はこの街で唯一気を緩められる場所、寝床へと引き上げ始めた。

だが、この時俺は重大なミスを犯した。

狩りの疲労で感覚が鈍っていたのか。

口の中に残った獲物の血が嗅覚を鈍らせていたのか。

降り注ぐ美しい月光が心を惑わしていたのか。

狭い路地の曲がり角で、俺はそいつとばったり顔をあわせた。

本来ならば出くわす前に相手の気配に気付く。例え嗅覚が駄目でも、俺には人間とは比べ物にならないほどに鋭い聴覚があ

るのだ。

気付けなかったのは、注意力が散漫になっていたとしか言いようが無い。

出くわした相手…、それは、一人の女だった。

その顔を目にし、ドクンと、俺の心臓が跳ねた。

整った顔につり上がり気味の目。化粧はあまり濃くないが、唇には血のように真っ赤なルージュを引いている。

引き締まった細身の体をボディラインがはっきりと分かる濃紺のスーツで覆い、黒いハイヒールを履いている。

若い、そして美しい女だ。驚いたように開かれた目が、俺の姿をしっかりと見ていた。

女は驚愕の表情を浮かべ、動きを止めたまま言葉も無く、俺を見つめ続けている。

見開かれた目の中で、黒い瞳に獣の姿が映りこんでいる。

月光を浴びて輝く、銀の毛皮を纏った獣。

女は今、異形の生物を担いだ、一頭の獣と相対している。

…見られた…!

素早く思考を巡らせる。この姿を見られたからには放っておく訳にはいかない。俺達のような人ならざる者が生き延びよう

とするならば、それが鉄則だ。

この場で殺すか…?ただの人間、それも女一人始末するのは容易い事だ。…だが…、

ごく短い時間、一瞬にも満たぬ刹那の間逡巡した俺は、大きく跳躍し、女を飛び越えて走り出した。

女が息を呑む気配を背後に感じながら、俺は細い路地を駆け、闇に紛れ込んだ。



何故殺さなかった?

ねぐらに戻った俺は、シャワーを浴びて返り血を落としながら自問する。

声も上げさせずに仕留める事など簡単だった。なのに、何故見逃した?

…答えは分かっている。あの女を見た瞬間に感じた事、それが全てだ…。

後々の面倒になる可能性すら残し、女を見逃した事は、いずれ自分の首を絞める事になるかもしれない…。

所々にこびりついた血が洗い流され、銀の輝きを取り戻した体を鏡越しに眺めた後、俺はバスタブに視線を向ける。

俺が入念に体を洗っている間、濃硫酸の風呂に浸かっていた獲物は、原形を留めぬほどに崩れていた。朝まで待てば処分で

きるだろう。

崩れゆく同胞の死骸を残して浴室を出ると、俺は体を拭い、リビングへ向かう。

…疲れた…。今夜は、いつもの悪夢など見ずに眠りたいものだ…。



俺の名は字伏夜血(あざふせやち)。

名乗っておいてなんだが、この名は偽名である。本名は捨てた。故に字伏せと言う訳だ。

寂れた雑居ビルに住居兼事務所を借り、表向きはこの街で私立探偵をしている。

日々の糧を得る為の仕事は何でも良かったのだが、生い立ちや経歴、素性が関係なくやれる仕事で、かつ俺に向いている物

というと、探偵か日雇い労働くらいしか無かったのである。

事実、犬以上の嗅覚を誇る俺の鼻は捜し物に役立つし、夜の尾行などはお手の物、やってみて実感したが、天職とはこの事

だろう。

それと、探偵という職業は俺のような存在が生きていく上で実に役立つ。

仕事柄、俺が望むような情報が入って来やすいのである。例えば、妙な殺しがあった。変な生き物を見かけた。ようするに

そういった情報だ。

俺達のような存在が人間社会に溶け込んで暮らすなら、人間共のルールを守らねばならないのは当然として、他にも守らね

ばならないルールがある。

目立たぬ事、人間と深く関わらぬ事、そして何より大事なのはもちろん、正体を気取られぬ事だ。

今日仕留めた獲物は、俺達の縄張り内で目立ち過ぎた。

どこのお上りさんかは知らないが、ごろつき共と喧嘩になり、あげく正体を晒して三人負傷させ、五人を殺害した。

事の発端や理由はどうあれ、始末されるには十分過ぎるミスだ。

リビングに入った俺は、まず冷蔵庫からビールを取り出した。

タブを起こし、大きく口を開け、よく冷えたビールを一気に喉に流し込む。

刺激と共に喉を滑り落ちる液体が、食道と胃に冷たい感触を残す。

天井を仰ぐようにして一気にビールをあおり、テレビをつけた。

深夜のニュースを見ながらリビングのソファー兼ベッドで眠りにつく。それが俺の一日の終わりだ。

本来の姿でくつろげるこのリビングが、この街で唯一、俺が安らげる空間だった。



翌朝、俺は事務所の呼び鈴で目を覚ました。

即座に人間の姿を取り、地味なスーツを着込み、急いで応接室兼仕事場へ向かう。

人間としての俺は、長身痩躯の20代後半の男の姿である。

親しい同族が言うには男前らしい。自分ではいまひとつピンと来ないのだがな。

…考えてみれば、時折女性の依頼人が羽振り良く報酬を上乗せしてくれたりもするので、それなりには見られる顔なのだろうか?

「どうぞ」

素早く部屋に入り、ドアの鍵を開けた俺は、そこで見覚えのある顔と出くわし、唖然とした。

整った美しい顔につり上がり気味の目。あまり濃くない化粧に、血のように真っ赤なルージュ…。

朝早く訪れた客は、昨夜の女だった。

昨夜とは違うが、同じような濃紺のスーツを纏い、やはりハイヒールを履いている。

まさか、尾行されていたのか!?やはり殺すべきか?いや、ここではまずい…!

一瞬の内に俺の頭の中を様々な考えがよぎる。しかし…、

「あの…、私の顔に何か…?」

女は驚いている俺を見て、困惑したように言った。

「え?あ、いや、失礼しました…。どうぞ中へ」

俺はいつでも女を取り押さえられるように備えながら答える。そして事務所の中へと通しながら、気付かれないように女の

様子を観察した。

女は、俺の正体に気付いている様子は無い。…偶然この事務所にやってきただけなのか…?

ソファーにかけさせると、女は向かいに座った俺に頭を下げた。

「所長のアザフセさん、ですか?」

「そうです」

…とは言っても、所長兼所員だ。俺一人しか居ないのだからな。

「捜し物の名人だと聞きしまして、お伺いしました」

…どうやら、本当にただの客として訪れたらしい。ひとまず安心した俺は、インスタントのコーヒーを勧めつつ、話の先を

促した。

「ぜひ、探し出して頂きたいものがあるのです」

女は少し硬い口調で、そう依頼を切り出した。



渡された名刺によれば、女の名は白波洋子(しらなみようこ)。有名証券会社の事務員らしい。

ヨウコの捜し物とは、一人の男だった。

手掛かりは、二年前の日付が入った写真一枚。

細面の目つきの鋭い男が、整った顔立ちの女性と一緒に写っている。

ヨウコと良く似た印象を受ける女性の方は、彼女の姉で、名を水穂(みずほ)というそうだ。

「二年前、姉はその男と結婚すると手紙を寄越しました。写真はその手紙に同封されていたものです」

ミズホと共に写真に写っている男の名は、氷室景(ひむろけい)という。

恵まれた容姿を活かし、高級クラブに勤めていたミズホは、ヒムロというこの男と知り合い、やがて同棲を始めた。

それから半年後、ミズホはヒムロと結婚すると言い出した。

大手製薬会社の社員であり、人当たりが良く、誠実そうなヒムロに、両親もヨウコも一度会っただけで気を許し、そして二

人を祝福した。

…だが…、

「式は挙げず、せめて新婚旅行だけでもと出かけた沖縄のホテルで、姉は絞殺死体で発見されました。一緒に居たはずのヒム

ロは、荷物ごと消えていたそうです。…それどころか、ホテルの宿泊記録には、姉の名しか残っていませんでした」

ミズホとヒムロが暮らしていたマンションからは、金目の物が無くなっており、ヒムロの痕跡を示す手掛かりは全て消えていた。

両親がヒムロが務めていたはずの大手製薬会社に問い合わせたところ、そのような社員は居ないとの事だった。

その時点で、ヨウコと両親はヒムロがミズホを殺害したのだと確信した。偽りの経歴でミズホに近付き、ミズホの命と財産

を奪い、自分に関わる全ての痕跡を消し、蒸発したのだと。

…それがヨウコから聞けた話だ。

「残っている手掛かりは…、写真以外にはこれだけです…」

ヨウコはバッグから、ビニール袋を取り出した。

「マンションに唯一残されていた、あの男が身に付けたはずのただ一つの品…。姉が、ヒムロに送った品です。」

完全に密閉された透明な袋には、毛糸のマフラーが入っている。

「その男がこの新宿に居るという確証は?」

ヨウコは俯き、膝の上で手を握り込む。

「数日前、駅のホームで声を聞きました。…朝の人混みの中で、誰が発した声かは判りませんでしたが、間違いなく、あの男

の声でした」

声か…。確証としては弱いな…。

「…話は解りました。それで、何故警察に行かないのですか?」

この国の警察は優秀だ。自分で言うのもなんだが、こんな胡散臭い私立探偵に依頼するよりもよほど確実だろう。

そもそも事件性が高いのだ。無下には断られまい。それなのに二年も経ってからこんな寂れた事務所に依頼に来るという事は…。

「…それは…」

ヨウコは言い淀んだが、察しはついた。

…私的な復讐…。それが彼女の目的だろう。

「…お引き受けしましょう」

俺の返答に、ヨウコは一瞬驚き、それから深々と頭を下げた。



ヨウコを送り出した俺は、事務机に頬杖をついて物思いに耽った。

運命の女神というヤツは確かに存在する。…ただし、相当な気まぐれで、おまけにあばずれだがな…。

よりによってあの女が、客として俺を訪ねて来るなどとは…。

…いや、そもそもあの女と出会った事自体、すでに女神の気まぐれかもしれないな…。

俺は写真を手に取り、それから机の上のビニール袋、マフラーへ視線を向ける。

…写真は手掛かりにならない。顔など整形すれば簡単に変わる。

俺にとっての最大の手掛かりは、ヒムロが身に付けたとされるマフラーだ。匂いで追跡できる可能性がある。

だがしかし、この広い街をあてもなく嗅ぎ回った所で、たった一人の人間を捜し出す事など不可能だ。他の情報を元に絞り

込みをかける必要がある。

俺は携帯を取り出し、親しい同族の一人へ「今夜店へ会いに行く」と、短いメールを送った。できれば電話で簡単に用件を

話したかったが、夜が稼ぎ時のあいつは、大概午前中は寝ている。

…ん?送ってから気付いたが、これだけの内容では何故会いに行くのか判らない。下手をするとアッチの用事かと小躍りさ

れそうだが…、今から追加文を送るのも、慌てて訂正しているように思われそうで癪だな…。止めておくことにする。

日が暮れるまでの間、新聞記事を切り抜いて作った事件のスクラップを調べた後、俺は事務所を出て夜の街へと繰り出した。



「いらっしゃい兄貴!」

夜になると陸橋下に現れる屋台。その暖簾を潜った俺に、すでに飲んでいるらしい赤ら顔で、若い男が愛想良く笑いかけた。

20代前半の若い男は、黄色いトレーナーの上に黒いジャンバー、ジーンズに長靴といったいでたちだ。背は低いが少し幅

がある小太りの体形で、愛嬌のある丸顔をしている。目の周りにうっすらとクマがあるが、しかし別に体を壊している訳では

ない。単に本性の特徴が変化後の姿に名残として残っているだけだ。

男の名は六科保助(むじなほうすけ)。このおでん屋台の店主であり、そして俺と同種の存在だ。

「景気はどうだ?」

「まずまず、ってトコでさぁ。…そうそう、昨夜は余所者、無事に仕留められたんで?」

俺が頷くと、ホウスケはニカッと笑った。

「さっすが兄貴!これでおいら達も枕を高くして眠れるってもんでさぁ!さっそく皆に知らせときますよ!」

「それは何よりだ。それよりも、今日はお前に頼みがあってな、調べて欲しい事がある」

「…なんだ…、仕事の話でしたか…」

ホウスケはあからさまにがっかり顔をした。やはり勘違いしていたらしい。

俺はカウンターにつきながら、ホウスケに写真を見せた。

「この男の方、氷室景という男を捜している。今どうしているか可能な限り調べて欲しい」

適当におでんをよそい、俺の前にあてがったホウスケは、写真を受け取って目を細めた。

ホウスケはこの街に住む俺達のような人外の存在の中でも、情報屋として活動している男だ。こいつがせっせと情報を集め、

知らせてくれているおかげで、同種内での情報の共有は概ね良好な状態に保たれている。

なお、俺はこの繋がりの中で、余所者とのトラブルを片付ける、いわゆる掃除屋としての役目を引き受けている。昨夜の余

所者の始末も、その役割分担上の仕事だ。

「そりゃあ探偵の仕事ですか?それとも…おいら達の側の仕事で…?」

「探偵としての仕事がらみだ。そいつは生粋の人間だよ」

マフラーからは同種の匂いはしなかった。ヒムロは間違いなく人間だ。

俺は簡単に事情を話して聞かせた。ホウスケは腕組みして顔を顰める。

「う〜ん…、二年前ですかぁ…。わざわざおいらのトコに来るって事は、人間は人間でも、まっとうな人間様じゃあないって

事で?」

「そうだ。結婚すると騙して女一人を殺し、金品を奪って姿をくらましている」

「腐ってますねぇ…。こんなべっぴんさんを金目当てで殺すだなんて…。おいらだったら、こんな美人と付き合えるんなら金

なんて要らないですよ。逆に大枚払ったって良いくらいでさぁ」

ホウスケは写真を見つめながら呟く。

「これまでに都内で発生した、類似している事件を纏めて来た。これで何とか絞り込み、調べて欲しい。ヤツはおそらく顔を

変えているが、できるか?」

俺の頼みに、ホウスケはこくりと頷いた。

「分かりました。整形外科の記録も含めて当たってみましょう」

「済まない。手間をかけるが宜しく頼む」

「なぁに、いつもお世話になってる兄貴の頼みだ。断ったらバチが当たりまさぁ!任しといてください!」

ホウスケは笑いながら言うと、脂肪がついて丸みを帯びた胸をドンと叩いた。