独白する人狼の物語(中編)
…赤い…。
赤い部屋に、俺は座り込んでいる。
俺が暮らしていたその狭い、しかし居心地の良かった部屋には、血臭が立ち込め、家具は散乱し、割れたガラスや他の物が
床に散らばっていた。
呆然と自分の手を見つめ、いつまでも座り込んでいる。
血に塗れた両手は銀の毛に覆われ、指先からは果物ナイフを思わせる、長く鋭い爪が伸びていた。
やっと、真っ赤に染まった手から視線を外し、顔を上げると、俺に背を向け、部屋の隅に蹲る女の背中が目に入った。
「…母さん…」
途方に暮れた声で、俺は女に呼びかける。
声がかかった瞬間に、女はビクリと肩を震わせた。
俺はのろのろと立ち上がり、辺りに散乱した人間の手足、首や胴、そこからぶちまけられた臓腑を跨ぎ越し、血溜まりの中
を女に歩み寄る。
「母さん…。もう、大丈夫だよ…」
まだ幼さの残る、当時の俺の声が女の背にかけられる。だが、女は震えるばかりでこちらを向こうとはしない。
俺は女の肩に手を伸ばし、そして触れる。
途端に、女は勢い良く振り向いた。
胸に、冷たい何かが滑り込む感覚。次いで灼熱感を覚える。
ゆっくりと、視線を下ろす。シャツを押し破って顕わになっていた、銀の被毛に覆われた胸が、赤い液体を噴き出している。
「かあ…さ…」
女の握った長く、鋭いガラスの破片が、俺の胸に深々と突き刺さっていた。
俺は女の顔を見る。
美しかったその顔は、恐怖と嫌悪に彩られ、醜く歪んでいた。
いつも綺麗だと思っていた、黒く大きな瞳に、銀の獣の顔が映り込んでいた。
「…ば…ばけもの…!」
口を歪ませて吐き捨てた女は、ガラスが自分の手を傷つけるのも構わず、俺の胸に、さらに深く凶器を突き入れる。
喉の奥から熱いものが込み上げ、俺は堪らずに女の顔へと吐血した。
…視界が、赤く染まる…。
薄れ行く意識の中、どこか遠くから、獣の咆吼のようなものが聞こえてきた。
…いや、それはきっと、俺の声だったのだろう…。
嫌な汗をかき、俺はソファーの上で目を覚ました。
身を起こし、額に手を当てて、ため息をつく。
十数年間、繰り返し見た悪夢…。…いや、ただの夢ではない、俺自身の記憶だ。
俺が初めて獣として覚醒し、普通の人間としての生活と、母を失ったあの日の記憶だ…。しばらく見ていなかったのだが、
ここ二日間、連続でこの夢を見ている…。
時計を見れば、もうじき午前6時になるところだった。
時間は半端だが、もう一眠りしている時間は無い。
依頼を受けてから二日…、調査はまだ殆ど進展していないが、今日は経過報告のため、依頼人を訪ねる事になっている。
シャワーを浴びて気分を切り替え、それから出かけるとしよう…。
支度を終え、事務所を出ようと戸締まりしていた俺の元へ、タイミング良く小太りの若い男がやって来た。
「あれ?お出かけでしたか兄貴?」
俺はホウスケに頷き、それから胸元に抱えられた封筒に視線を向ける。
「調べがついたのか?」
ヒムロの調査を頼んでからまだ二日、結果が出るのがずいぶん早い。
「整形を当たりゃ一発でした。…もっとも、野郎が利用してたのは、当然正規の医者じゃないんですがね…」
俺は閉めたばかりの鍵を開け、詳しい話を聞くべくホウスケを部屋に迎え入れた。
念のために内側から鍵をかけて誰にも聞かれないようにし、ホウスケと俺のコーヒーを淹れる。
ホウスケは見ていて嫌になるほどコーヒーに角砂糖を放り込みながら、結果報告を始めた。俺は封筒の中身を確認しながら
ホウスケの話を聞く。
「結論から言えば、同封した写真が今のヒムロです。もっとも、名前も変えてるはずですけど、残念ながら医者もそこまでは
知りませんでした」
「その医者、正規の医者ではないと言ったな?お前の知り合いのアングラドクターの一人か?」
「だからこそ、これだけ早く調べがついたってわけでさぁ」
この街には、正規の医者にかかれないような訳アリの者が利用する医者が居る。表には看板を掲げない彼らを総称して、俺
達はアンダーグラウンドドクター、地下医者と呼んでいる。
もちろん、俺達がかかる医者もそういった手合いだ。獣も人も区別せず、俺達のような存在を診てくれる医者も中には居る
のである。ホウスケはそちらから働きかけ、情報を集めて来てくれたらしい。
封筒の中にはこれまでにヤツが変えてきた顔全てと、来院時の名前と住所、そして施術年月日が記載してある。その一番古
い日付の物には、氷室景の名があった。
「偽造戸籍や住民票なんかの方も当たってますが、そっちはもう少し時間がかかりそうです。中途半端な報告で恐縮なんですが…」
「いや、期待した以上の情報だ。恩に着る」
俺が礼を言うと、ホウスケは「エヘヘ…」と頭を掻いた。
「兄貴の頼みとあればお安いご用でさぁ…」
「今回の依頼人は羽振りが良い。報酬には少し色を付けよう」
「いや、その…」
顔を赤くし、俯き加減で上目遣いに俺を見つめ、ホウスケはモジモジと丸っこい体を動かす。
「報酬はいらないんで…、仕事が片づいたら、…その…、暇な夜で良いんで、相手して貰えないですかね…?」
「ああ、そっちの方が良かったか…。分かった。時間を空け、近い内に連絡しよう」
俺の返答に、ホウスケの顔が輝いた。
俺達は、何故か雄しか存在しない。子を為すならば人間の女とつがう必要があるのだ。
だが、素性を隠して人間の女に近付くのは難しい。おまけに、人間の姿を維持したままでは、情事も今ひとつ本気になり切
れないのだ。
…贅沢と言うなかれ。快楽というのは制限つきでは半減するものなのである。…まぁ、制限がつく事で燃える場合もあるが、
それはまた別にして…。
そして必然的に、正体を見せ合った本気の情事を求め、雄同士で肉体関係を持つようになる者も出てくる。俺とホウスケも
そういうクチだ。
ホウスケは俺が気に入っているらしく、時折こうして誘ってくる。俺は本当は女の方が好みなのだが…。まぁ、慕ってくれ
ているし、まんざらでもない気分だったりもする…。
嬉しそうに帰って行くホウスケを見送り、俺は改めて事務所に鍵をかけ、依頼人の元へと向かった。
俺は依頼人である白波洋子のマンションを訪ね、ホウスケがもたらした最新の情報を含め、調査の途中経過を報告した。
報告を聞き終えたヨウコは、現在のヒムロの顔写真を、しばらくの間食い入るように見つめていたが、やがて静かに頭を下げた。
「引き続き、調査の方、宜しくお願いします…」
美しい顔に宿る、確かな暗い感情…。
夢の中の母とヨウコの顔が、一瞬ダブった…。
マンションの一階まで降りた俺は、しばらく思案した後、駅へ向かう事に決めた。
ここ数日の日課となっている、ヨウコがヤツの声を聞いたという駅周辺の探索だ。
とは言っても、人間の姿のままでは嗅覚の鋭さは本来の半分以下にまで落ちる。その辺の犬より少し悪い程度の鼻では、人
混みの中からヤツの匂いだけを嗅ぎ分けるのは難しい。日が高い内に行っても、所詮気休め程度の探索にしかならないがな。
マンションの正面口を潜ろうとしたその時、俺は足を止めた。
…微かだが…、あの匂いだ…。マフラーから嗅ぎ取った、ヒムロの匂い…。
素早く周囲に視線を巡らせるが、周囲に人影は無い。ガラス張りの管理人室の中に、受付口に座っている管理人が居るだけだ。
匂いは一瞬感じただけで、すでに消えていた。
…幻臭…、気のせいだったのか?考え込んでいたせいで、記憶の中の匂いを実際に嗅いだと勘違いしたのか…。
俺は小さく舌打ちし、頭を振ってから歩き出した。
それから三日が過ぎた夕方、ホウスケが再び事務所を訪れた。
「岡田景一(おかだけいいち)…。これが今のヒムロの名か?」
「その通りでさぁ。いやぁ、二年の間に名前を変えること変えること…。まるで出世魚みたいですね」
少々ずれたところに感心しつつ、ソファーにかけたホウスケが頷く。
これから屋台を出すのだろう。ジャケットを着込み、長靴を履いた、いつもの「屋台の親父ルック」だ。まだ若いのだが、
腹の出た太め体型のせいか、これがまたよく似合っている。…こう言っては屋台の親父さん達に失礼か…。
それにしても、何度も名を変えているが、「景」という字だけは変えていない。ヤツなりのこだわりなのだろうか?…ある
いは、「景」という字が元々の本名にも使われていたのかもな…。
「助かった。後はヤツの所在を確かめ、依頼人に報告すれば終わりだ。なんなら前払いしても良かったが…、これから仕事か」
「です…。野郎の写真を提供してくれた先生に、ウチ自慢のおでんと手に入れたばかりの芋焼酎をご馳走する約束をしてるん
で、今夜は外せないんでさぁ…」
ホウスケは残念そうにそう言い、名残惜しそうに事務所を出て仕事に向かった。
そして俺はその夜の内に出かけ、今はオカダと名を変えたヒムロの住居を探り当てた。
築三十年は経っているだろう安アパート。そのドアに残るその匂いを確認し、オカダと名乗るここの住人がヒムロである事
を確かめた。
灯りは消えており、部屋の中に気配もない。どうやら外出中のようだった。
その後、朝まで張り込んでみたが、結局ヤツは帰って来なかった。
引き払われた訳ではない。匂いは丸一日も経っていない新しいものだったし、朝には新聞も配達されていた。
また今夜改めて張り込んでみる事にし、俺はひとまず依頼人にアポを取り、報告に向かう事にした。
「オカダ…ケイイチ…」
昼過ぎに訪問して俺が告げた、現在のヒムロの名を呟き、ヨウコは調査資料を睨むように見つめた。
「住居を確認しましたが、昨夜の内には本人は帰宅せず、姿は確認できませんでした。ですが、この住所に住んでいるのは間
違い無いようです。今夜も改めて確認を…」
「いいえ、調査はここまでで結構です」
ヨウコは俺の言葉を遮り、そう言った。
「しかし…」
「約束のお礼は、今日中に口座に振り込ませて頂きます」
ヨウコは有無を言わせぬ口調でそう言った。
依頼人がそう言う以上、食い下がる事はできない。…そもそも食い下がった所で俺にメリットなど無いのだが…。
俺は資料をヨウコに渡し、振り込み手順の確認を行った後、少々釈然としない気持ちでマンションを降りた。
…俺は…、彼女に何を期待していたのだろう…。
頭を振り、エレベーターから降りると、足を踏み出したエントランスで声が聞こえ、俺は足を止めた。
視線を向ければ、マンションの管理人がガラスの向こうで電話をしている所だった。
デートなのだろうか?少し嬉しそうなニヤケ顔をしていた。
…今夜辺り、ホウスケに連絡を入れてやろうか…。
夜に備えて色々と買い込み、事務所に戻った頃には、日没寸前になっていた。
湯を沸かしてコーヒーを淹れながら、俺は携帯を手にしてホウスケの番号を呼び出した。
あいつは報酬はいらないと言っていたが、もちろん色を付けて支払うつもりだ。ホウスケの方から求めてきたとはいえ、行
為を楽しむのはお互い様だからな。
コールしようとボタンを押しかけたその時、突然携帯が鳴った。
『月がポンと出りゃ〜…♪』
流れるメロディはポンポコサンバ75。ホウスケからの着信である。
「丁度良かった。俺からかけようと思っていたところだ。依頼の方はひとまず終わったから…」
『あああ兄貴!たた、大変です!』
慌てた様子のホウスケの声が、携帯から流れ出た。
『あぁ!なんて詫びれば良いのか…!とにかく申し訳ない!』
「とにかく落ち着けホウスケ。何があった?」
俺が宥めると、ホウスケはいくらか落ち着きを取り戻して話し始めた。
『いましがた先生から連絡があったんですが…、実はヒムロって男、三週間前にまた顔を変えてたらしいんでさぁ!』
「…何?」
『おいらが兄貴に渡した写真は、野郎の一つ前の顔なんです!つまり、住所は合ってるけど、今の野郎は兄貴が知ってる顔じゃ
ないんですよ!』
「なるほど。写真はあるな?明日にでも依頼人に連絡して渡して来よう。それにしても、何故そんなに慌てている?」
『落ち着いてられる状況じゃないんですよ兄貴!野郎は今…、ああもう!とにかく、今からメールで写真送ります!ついさっ
き突き止めた野郎の務め先も添付しますから!』
「勤め先?」
『前に聞いた依頼人のマンション…、おいらの覚え違いでなけりゃあ、かなりぶっ飛んだ事態になってます…!』
要領を得ないまま通話は切れた。そして程なくメールが届く。
「…何て事だ…!」
メールの内容を確認する前に、添付された顔写真を呼び出した俺は、あまりの事に絶句した。
携帯の小さなモニターに映し出されているのは、俺にも見覚えのある顔…。
それは、ヨウコの住むマンションの管理人の顔だった。よもや、こんなにもヨウコの近くに潜んでいようとは、なんという
偶然だろうか?
…偶然…?いや、こんな偶然があるだろうか?
嫌な予感が俺の背筋を這い登り、全身に鳥肌が立つ。
…ヒムロを追っていたはずのヨウコだが、追い詰められていたのは、彼女の方かもしれない…!
俺は淹れたばかりのコーヒーもそのままに事務所を飛び出し、タクシーを捕まえるべく大通りへと走りながらホウスケに電
話をかける。
「ホウスケ!済まない、良く調べてくれた!」
『とりあえず、礼も話も後でさぁ!』
携帯越しのホウスケの声は、不自然に弾んでいた。声の向こうに風の音が混じっている。
「ホウスケ?今何処に居る?」
『今、依頼人のマンションが見えたトコでさぁ!』
「何?お前一体何を…」
『万が一に備えて、兄貴が来るまで野郎を見張ります!おいらが渡した誤情報のせいで、兄貴の顔に泥を塗っちまう訳にはい
きませんから!』
「…済まない、助かる…。俺はすぐに依頼人へ連絡を…」
『…あ!』
俺の言葉を遮り、ホウスケは声を上げた。
『…受付には、野郎の姿がありやせん…』
どうやらエントランス内が見える位置、マンション前まで辿り着いたらしい。
「マンションの巡回中か?…いや…」
嫌な予感を覚え、俺はホウスケにヨウコの部屋の位置を教える。
『…灯りは…、ついてませんね…』
外から窓を確認したのだろう。ホウスケはそう答えた。
「帰宅していないだけなら良いが…。とにかく、依頼人に連絡を取ってみる」
やっと捕まえたタクシーに乗り込みながら通話を切り、俺はヨウコの携帯をコールする。
しかし、どれだけ鳴らしても彼女は出ない。
嫌な予感は、次第に膨れあがっていた…。