独白する人狼の物語(後編)

運転手の手に乱暴に一万円札を握らせ、釣りも受け取らずにタクシーから飛び出した俺は、マンションの前を通る歩道にホ

ウスケの屋台を見つけた。

気付かれないように配慮したのだろう。マンションからは見えないよう、離れた位置に止めてある。

しかし、ホウスケの姿は屋台のところにも、マンション前にも無い。

俺はマンションの入り口を潜りながら、携帯を取り出してホウスケを呼ぶ。

「ホウスケ?今何処に…」

『すんません兄貴…、今取り込み中です…』

ホウスケは小声で呟いた。カウンターに管理人が居ない事を再確認し、エレベーター前に辿り着いた俺は、乱暴に昇りのボ

タンを押す。

『依頼人の姉さん。野郎と二人っきりで、屋上で何か話してます…』

エレベーターを待つ時間がもどかしく、ボタンを何度も押す。くそっ!非常階段を使った方が速いか?

『どうにも穏やかな雰囲気じゃなさそうで…。あの姉さん、管理人の正体が野郎だって事に気付いてたみたいですね…』

思えば、偽の戸籍や住民票の情報を渡した際に、彼女は顔色を変えた。…あれはつまり、自分達が住むマンションの管理人

の名と住所をそこに見たからだったのだ。

非常階段を駆け上りながら、俺は舌打ちした。このマンションで一度感じ、そして気のせいだと忘れたあの匂い…、気のせ

いなどではなかった。ここにヤツも居たのだ!

『兄貴!何だかヤバそうだっ!…くそっ!』

「何?ヤバいとは…」

ホウスケの声に緊迫したものを感じ取り、聞き返そうとした次の瞬間、携帯の向こうから女の悲鳴が響いた。

「ホウスケ!?」

携帯からガシャっというような衝撃音。次いでガラガラとこすれるような音。携帯が床に落ちた!?

携帯からはさらに言い争うような声が流れ出る。女の悲鳴、ホウスケの怒鳴る声、そして、バン、という破裂音…。

「ホウスケ?おい!ホウスケ!?」

ホウスケの声はもはや聞こえず、女の悲鳴だけが尾を引いて携帯から流れ出る。

俺は携帯が軋むほどに強く携帯を握り締め、全速力で非常階段を駆け上がった。



開けっ放しだった鉄扉から屋上に飛び出す。

俺の目に、まず一番最初に飛び込んできたのは、こちらに背を向けて立つ管理人の背中だった。

管理人…いや、ヒムロは、左手に警棒を、右手に黒光りする拳銃を握っている。

その向こうには、右手で腹を押さえ、青い顔で歯を食い縛っているホウスケの姿、その背後には、ホウスケに庇われるよう

な形で、やはり青ざめたヨウコが立っている。

腹を押さえるホウスケの右手は真っ赤に染まり、ジャケットの下に着込んだ黄色いトレーナーと、色褪せたジーンズまでが、

腹の辺りから下が赤黒く染まっている。

ホウスケとヒムロの間には、おそらくヨウコがヒムロを殺害するために用意したのであろう、出刃包丁が落ちていた。

「ギリギリセーフでさぁ、兄貴…」

ホウスケは血の気の失せた顔を歪ませて、安堵の笑みを浮かべた。

守るように横に伸ばされたホウスケの左手の向こうで、俺に気付いたヨウコが目を大きくした。

二人の様子に気付いたヒムロが、首を巡らせて俺の方を見る。

「…何だ?お前…」

ねっとりとした視線を放つその両目には、俺が良く知る光が宿っている。命を奪う事に慣れた者特有の、何かが欠けてしまっ

た目だ。

…それも当然か、何人もの女を殺害してきたのだから…。

「ただのしがない野良犬さ」

そう応じつつ、俺はゆっくりと、大きく円を描くようにしてヒムロの左手に回り込む。

俺の意図を察したホウスケは、ヒムロを挟んで俺と対角線に位置するようにして、ヨウコの手を引いて移動する。

両方を警戒するのは難しい。ヒムロは思惑通りに、元気な俺の方へと注意を向ける。

何度か経験しているが、銃で撃たれるというのは、はっきり言って痛いなんてものじゃない。人間の姿のままではなおさら

だ。もちろん、俺だってできれば銃撃など御免被りたいが…。

生粋の人間と比べれば少しは頑丈なおかげで、ホウスケも何とか動けているが、出血が酷い、無理をして人間の姿を維持し

続けるのは危険だ。早く何とかしてやらなければ…。

俺とホウスケ達が90度移動した時点で、俺はヒムロに向かって地を蹴った。

同時にホウスケはヨウコを連れてドアへと駆け出す。

素早く動いた拳銃は、俺の胸へと照準を合わせる。

火花。衝撃。轟音。灼熱感。

俺の体は跳ね飛ばされるようにして後ろへ吹き飛び、背中から床へ倒れ込む。

喉から熱い血が込み上げ、口から溢れ出す。右胸に命中した弾丸は、肋骨を粉砕し、肺を片方潰していた。激痛で飛びかけ

る意識を繋ぎ止め、俺は視線を動かす。

ホウスケとヨウコは、ドアの手前まで辿り着き、

「な、何で!?」

ホウスケから疑問の声が上がった。

風で締まったのだろうか?ホウスケは開けようとドアノブを握っているが、ドアノブが回らないようだ。

「オートロックだよ…。鍵は、ここにある…」

ヒムロが上着のポケットを叩き、ノッペリとした平坦な口調で言った。

不覚…!まず二人を逃がすつもりだったが、これでは…!

「逃がさないよ…。一人もな…」

もはや俺は脅威ではないと思ったか、ヒムロはゆっくりと二人に向き直った。

…こうなれば、やむを得ないな…。

俺は、全身を縛り付け、この身を人の姿たらしめていた意思の束縛を解き放つ。

喉から、獣の咆哮が漏れた。

ヨウコが驚いて俺を見つめ、ヒムロも振り返った。

束縛が解かれた。快感すら伴うその開放感に、体中の細胞一つ一つが歓喜の声を上げる。

全身から銀の被毛が生え出し、瞬時に皮膚を覆い隠す。

体中の骨格が音を立てて変化し、筋肉が密度を上げながら膨張する。

肉体自体の質量が増加し、ワイシャツが裂け、ボタンが飛ぶ。

尾てい骨が伸び、フサフサとした毛に覆われた尾が形成される。

耳は頭頂部付近へと移動して三角に尖り、鼻と顎が前にせり出す。

歯は抜け落ち、獲物を殺傷するための鋭い牙に生え変わる。

劇的な肉体の変化は、ごく短時間で終わる。4、5秒と経たずに俺の身体は本来の姿を取り戻し、全身に力が甦る。

右胸の傷がうごめき、体内に食い込んでいた弾丸をペッと吐き出した。

ゆっくりと立ち上がる俺の姿を、ヨウコは驚愕の表情で、ヒムロは表情のない顔の中で、目だけを大きくして見つめていた。

人間の姿の時と比べ、組織自体が変化して量を増した筋肉と、骨格の変化によって、肉体は一回り膨れ上がり、上背もかな

り伸びている。

銀の毛並みを押し上げる発達した筋肉、長い毛に覆われた尾、前にせり出した鼻と顎、頭頂近くでピンと立つ耳、体毛と同

じ銀色の瞳、両手両脚の五指は硬く鋭い爪を備え、口腔には鋭い牙がずらりと並ぶ。

直立した狼。そう表現すればいいだろうか?肉体的なフォルムは人間に近いが、足は本物の狼同様、踵から先が伸びた形に

なり、爪先立ちに近い。

銀色の人狼。それが俺の本来の姿だ。

「なんだ…お前…?」

驚愕を滲ませたヒムロの言葉に、俺は口の端を吊り上げて笑い、先程と同じ言葉を返す。

「ただのしがない野良犬さ」

「あ、兄貴…」

ホウスケは戸惑った様子で俺を見つめた。タブーである、人間の前での本性の発現を行った事に驚いているのだ。

「我慢させて済まなかった。もう人間のふりなど止めて良いぞ。この状況では仕方がない」

ホウスケは頷くと、ヨウコから数歩離れる。

腹を押さえていた手を放すと、血を吸ったトレーナーの穴から、丸みを帯びた腹に穿たれた、深く、赤黒い穴が見えた。

ホウスケは背を丸め、全身に力を込める。

灰色と茶、黒の混じった被毛が腕を覆い、肉体の膨張に伴ってジャケットが裂け、被毛に覆われた背があらわになる。

俺のものと比べてやや丸みを帯びた耳と体型。先が太く、丸くなっている尾。

やがてホウスケは本来の姿を取り戻す。

背を伸ばし、直立した狸の腹で腹筋が蠢き、傷口から体内の弾丸を吐き出させた。

「さて…、狩りの時間だ」

俺の呟きに、ホウスケに視線を向けていたヒムロが首を巡らせた。

その瞳には、いつもの悪夢で見る光景と同じように、銀の獣が映り込んでいる。

腰を落として背を丸め、前傾姿勢を取った俺に、ヒムロは銃口を向けつつ、ろくに狙いも定めずに引き金を引いた。

ヤツの手にあるのはトカレフ。ただし、もちろん本物ではなく、この国でよく知られている方の銃。闇ルートで一般的に出

回っている中国製トカレフ、黒星(ヘイシン)だ。つまり命中精度はあまり良くない。

ヤツが俺に対しても、ホウスケに対しても胴体を狙っていたのは、その欠点を良く知っているからだったのだろうが、冷静

さを欠いたヒムロは、ただ闇雲に引き金を引き続けた。

俺はただ、本来の性能を取り戻した瞳で銃口の向きを見定め、その軌道上から身を捌くだけで良かった。

やがてカチンと音がし、トカレフのスライドが後退したままで止まる。やっと弾切れか。

予備のマガジンを取り出すつもりなのだろう。ヒムロは懐に手を突っ込む。しかし、黙って見ているつもりはもちろん無い。

殆ど四つん這いの低姿勢の状態から、俺は床を蹴った。

刹那の間に、夜闇に銀の残像を残し、俺はヒムロとすれ違った。

そして、口に咥えていた物を床に落とす。

それは、拳銃を握ったまま、床に転がって血溜まりを作った。

右腕を肘から噛み千切られたヒムロは、腕を抱え込むようにして床に跪き、大きく開けた口から絶叫を上げる。

この状態ではもはや動けまい。俺はヒムロから視線を外し、ホウスケに、そして、少し離れた所で完全に硬直しているヨウ

コに視線を向ける。

ヨウコは驚愕の表情を浮かべ、口元を両手で覆って俺とホウスケを交互に見つめていた。

「見ての通り、俺達は人間ではない。…驚いただろう?」

俺の言葉に、ヨウコからの返事はない。驚愕の表情のまま、微かに震えながら、じっと俺を見つめている。

自嘲に口元が歪んだ。何を期待していたのだ?俺は…。彼女の口から、どんな答えが聞きたかったというのだ?

何を思ったのか、ホウスケは耳を寝せ、哀しげに目を伏せた。

「さてと…、まずはこいつに全てを告白してもらおうか」

俺はヒムロに歩み寄り、襟首を掴んで吊し上げた。残った左手が弱々しく俺の手を掴むが、もちろん放してやったりはしない。

「洗いざらい喋って貰おう。何度も名を、顔を変え、彼女の姉や、他の女性を殺し、その僅かな財を奪い続けて来た理由を」

名を変え、顔を変え、その都度痕跡を消して生まれ変わる。こいつもまた字伏せだな。

「言え。女達を騙し、殺し、手に入れた金…、いずれも大した額にはなっていないだろう?整形と身辺偽装だけで殆どが飛ん

でいたはずだ。生活の為ではあるまい。何故殺しを繰り返した?」

「…狩り…だ…」

「何?」

問い返した俺に、ヒムロは泣き出しそうな顔で笑いながら、また呟いた。

「狩りなんだよ…。女を狩る…。狩りだったんだ…」

…居るのだ。人間の中にもこういう存在は。

女を殺す。財を奪う。そして法の手から逃げる…。それをヒムロは狩りと言う。これも一種の快楽殺人だな。

あるいは、最初は純粋に何らかの事情があって殺しをしたのかもしれない。だが、その異常な生活がもたらす刺激が忘れが

たい物になってゆき、止められなくなっていったのだろう。

到底納得できる理由ではないが、一応理由は聞き出した。俺はヒムロに最後の質問をする。

「このマンションの管理人になったのは、彼女を狙っての事か?」

「…そうだ…」

顎をしゃくってヨウコを示すと、頷いたヒムロの顔が喜悦に歪む。

「いい女だった…。もう一度会えるとは思わなかった…。俺に殺されるために、また戻ってきてくれたんだ…」

…出血で意識が掠れ始めたらしい。もはや、ヨウコと姉の区別がついていないのか…。ヒムロはヨウコへ懐かしそうな視線

を向けた。

ヨウコは一瞬身を竦ませたが、口元を覆っていた両手を体の脇に下ろし、気丈にも背筋を伸ばし、ヒムロを睨み付ける。

気丈な女だ。…やはり、良く似ている…。

俺はヒムロを放り出し、ヨウコに向き直る。

「俺が渡した偽の住民票で、正体に気付いたのか?」

ヨウコは一瞬、恐れるように俺を見つめ、僅かな沈黙の後に頷いた。

「…あの名前を見た時、すぐに管理人と同姓同名である事に気付いたわ。そして、管理人が、それまでに言葉を発した事が無

かった事を思い出したの。それで…、あの後すぐに、携帯を使って、外線で管理人室へ電話を…」

思えば、ヨウコはヒムロの声を覚えていると言った。声さえ聞ければ確認できたのだ。

内線では誰からの電話か分かり、言葉を発しないかもしれない。それで外線でかけ、電話越しに声を確認したのだろう。

「大した行動力だが、少々無鉄砲だったな」

床に落ちていた出刃包丁に視線を向け、俺は思わず苦笑を浮かべた。そしてヨウコに視線を戻すと…、

俺は、自分の目を疑った。ヨウコは、俺を見つめて恥ずかしそうに微笑んでいた。その顔は、いつにも増して、俺の良く知っ

ていた女性の顔に似ていた…。

「…俺達が恐くないのか?」

「驚いたし、恐かったけれど。でも、命の恩人ですもの。今は少しは平気よ。…綺麗な銀色ね」

ヨウコは目を細めて笑い、それからホウスケに視線を向ける。

「貴方も、助けてくれて有り難う」

ホウスケは一瞬目を丸くして驚き、それから照れたように視線を逸らし、頭をガシガシと掻いた。

ヨウコの笑顔は、やはり、とても良く似ていて…。

彼女の言葉で、俺はやっと、長年の苦しみから救われたような気がした…。

パンッ

乾いた音は、俺の背後からだった。

何かが俺の腕を掠めるとほとんど同時に、ヨウコの胸に、黒い穴が空いた。

もんどりうって背後へと倒れるヨウコの体を、ホウスケが抱き止める。

夜気を切り裂いて素早く向き直った俺の瞳に、左手で銃を構えたヒムロの姿が映り込む。

続く発砲。ホウスケが身を盾にしてヨウコに覆い被さる。

素早く首を僅かに傾げると、頬の毛を掠めて銃弾が通り過ぎていった。他の弾は避けるまでもなく、でたらめな軌跡を描い

て虚空へと飛び去る。

俺は、赫怒の咆吼を上げて床を蹴った。

恐怖に歪んだヒムロの顔が一瞬で近付く。

駆け抜け様に右腕を振るいつつ、俺はヤツの横を通り過ぎた。

ポンッというコミカルな音と共に、ヒムロの首がシャンパンのコルクのように宙に飛んだ。

振るい終えた右腕を一振りして向き直ると、首のないヒムロの体は、噴水のように鮮血を吹き上げ、よろめきながら数歩後

ろへ歩き、そして仰向けに倒れる。

落下して床に転がったヒムロの首が、恐怖の視線で俺を見上げ、瞬きした。

自分がどうなったのかも理解できていないだろう。頭部だけになりながらも、ヒムロの意識はまだ消えはしない。

人狼の呪い。

俺の呪いを受けて破壊された者は、死した体に魂を縛り付けられる。そして完全に朽ち果てるか、呪いが解けるかしない限

り、死ぬことは許されない。緩慢に朽ちながら、死に至った傷の痛みをいつまでも味わい続ける事になる。

気が狂うような絶え間ない苦痛の中で、本当の死に至るその時を待ち続ける。俺達の呪いとはそういうものだ。

ヒムロもまた呪いにより、死の安息を得る事は許されない身となった。朽ちて土に還るその時まで、俺の怒りを買った愚か

さを悔やみ続けるが良い…。

俺はヒムロの首に憎悪を一瞥をくれてやると、二人の元に駆け戻った。

身を起こしたホウスケは、床に横たわったヨウコを、今にも泣き出しそうな顔で見つめていた。

ヨウコの体から流れ出た血は、周囲の床に大きく広がり、赤黒い水たまりを作っていた。

屈み込み、ヨウコの傷を確認する。弾痕からは鼓動と共に血が噴き出しているが、出血の勢いは刻々と治まっている。…い

や、治まっているわけではない…。鼓動自体が弱まり、そして吐き出す程の血が体内にはあまり残っていないのだ…。

こういう傷を何度も見てきた俺には、傷を見た瞬間に理解できた。

…ヨウコは、もう助からない…。

凶弾は、ヨウコの胸に深々と食い込み、…心臓の右心室を破壊していた…。

「済まない…」

彼女がこんな目に遭ったのは…、俺が犯したミスが原因だ…。

血の気の失せた顔に脂汗を滲ませ、ヨウコは唇を動かした。

声は、もはや出ていない。

それでもその唇の動きから、俺達には彼女が何を言いたいのかが分かった。

『姉や、他の犠牲者達の仇を討ってくれて、ありがとう…』

ヨウコの瞳は虚ろに夜空を見上げる。美しい黒い瞳に、不夜城都市特有の弱々しい星の光が映り込む。

その瞳孔がゆっくりと拡大し、全身が弛緩した…。