ケージブレイカー(エピローグ)

赤い絨毯が敷かれた廊下を歩みながら、逞しいゴールデンレトリーバーの若者は、物珍しそうに周囲を見回していた。

時折その口から「ほ〜…」「へぇ〜…」などと、感嘆の声が漏れている。

「こらキンジ、キョロキョロしてんじゃねぇ」

前を行くマラミュートが小声で注意すると、肩を竦めたキンジは「すんません御頭」と応じ、視線を前に固定する。

今日から同僚になる周囲の黒服達は、かつて自分達も若者と同じような反応をしていた事を思い出し、口元を綻ばせた。

総勢五名の一団は、全員が黒いタキシード姿。日頃の警備業務ではなく、公式な場に赴く際にのみ身に付ける正装である。

着慣れていないはずのタキシードがやけに似合っている黄金色の若者は、鼓谷本社ビルの最上階を闊歩し、総帥の部屋へ向

かっていた。

そのフロアの豪華さは、かつて彼がある屋敷に忍び込んだ時と同様かそれ以上の驚きをもたらしている。

警備がついた二重のドアを抜け、やがて辿り着いた重厚な木造の扉の前で、シオンは両端に経つ最後の警備員に会釈されな

がら、手を上げてノックをした。

「マリバネです。新人を連れて参りやした」

「入りたまえ」

すぐに返ってきた声に、キンジは軽く眉根を寄せる。

(あん?何だか聞き覚えがあるような声だな…?)

シオンに続いて部屋に入ったキンジは、まずその部屋の雰囲気に感心した。

豪勢な調度が揃えられているが、それがけばけばしくない。統一感があって落ち着いており、シックな雰囲気は来客を威嚇

せず、やんわりと受け入れる。

その部屋の、居心地が悪くない、派手さが薄い高級感は、ある狸の自室をキンジに思い出させた。

「今回採用した羽取金示です」

シオンの声に、よそ見していたキンジは姿勢を正して前を向く。

そして、重厚な木のデスクにつき、その上に両肘をついて手を組み、上に顎を乗せている狸を目にして、

「あ?」

頭を下げる事も忘れ、目を丸くした。

何処かで見た顔だ。だがそう親しくもない。そう考えたキンジは、自分の雇い主になる総帥の顔を凝視し、

「あー!ずっと前に病院で何回か会ってたデブタヌ先生!だよなっ!?」

何処で見たのかを記憶の片隅からようやく掘り起こせたスッキリ感をそのままに声に出しつつ、あろう事か総帥の顔を指さ

した。

直後、くるりと向き直ったシオンの腕が上がり、手加減抜きの拳骨がキンジの前頭部をゴスッと、凄まじい音を立てて殴る。

「……………っ!!!」

声も出せずにその場に蹲ったキンジを凄まじい形相で睨み付けたシオンは、すぐ前に向き直ると、深々と頭を下げた。

「申し訳ございやせん…!腕っ節の方はともかく、どうやら頭と振る舞いは教育不足のようで…」

怒りを抑え込みながら恐縮しているシオンに、ニシキは鷹揚に頷いた。

「構わんよ。元はと言えばわしの悪戯が原因だ」

そしてのっそりと立ち上がると、デスクを回り込んでキンジに歩み寄る。

頭を押さえながら立ち上がったキンジは、自分より背が低い総帥を見下ろし、「すんません…」と頭を下げた。

「マリバネ君から聞いている。君は相当腕が立つようだね?」

「ま、腕っ節なら相当なもんですよ」

自慢するでもなく、当然の事としてあっさり応じたキンジは、シオンにジロリと睨まれ、

「いやー、でもやっぱりまだまだです」

と、すぐさま付け足した。

ニシキはしばしキンジの顔を眺めていたが、やがて踵を返してデスクに向かうと、上に置いてあったアタッシュケースを手

に取った。

(まさか、と思ってやしたが…。総帥、ソイツを渡すおつもりなんでやすね?)

シオンは軽く驚きながら総帥の挙動を見守った。

部屋に入ってそのケースを見た瞬間に、シオン達、鼓谷のSP内でも上位に位置する選りすぐりの猛者は予感していた。

ケースに収められた品を、総帥は新人に渡すつもりで用意したのだと。

彼らは中身を見なくとも、だいたいどのような物であるかは理解していた。

自分達もまた、同じケースに入った品を渡されて、鼓谷の深部に足を踏み入れたのだから…。

「これは、世間にはまだ知られてはいけない品なんだよ」

ニシキはキンジの前に立つと、ケースを両手で保持して差し出す。

「オーバーテクノロジーの結晶と言っても良い。存在自体が機密な上に、酷く扱いが難しい品だが、禁圧障害すらある程度コ

ントロール可能な君ならばおそらく使いこなせるようになるだろうと、マリバネ君が以前報告して来た」

キンジはケースをじっと見つめ、やがてニシキの顔に目を向ける。

受け取ったらもう戻れない。シオン達と同じように鼓谷の裏側まで知る事ができると同時に、抜け出せなくなる。

そう直感したキンジは、やがて口元を歪めて笑った。

その笑みを見たニシキは深く頷く。

「「インドラ」という品だ。まだ試作段階で不安定だが、警護の際には役に立つだろう」

「有り難く頂戴します」

キンジがケースを受け取ると、ニシキはまた頷いてからシオンに向き直った。

「せがれ達にも紹介してやってくれたまえ。それと、彼の配備は伝えておいたかな?」

「いいえ。総帥直々に命じられると思っておりやしたから、まだ何も」

シオンが応じると、ニシキは「では…」と呟き、再びキンジに向き直る。

「ハトリ君。君にはある者を専属で警護して貰いたい。ゆくゆくは経営に携わる者なので、君もいずれは秘書兼務…という事

になるだろうが…」



雪がちらつく中、黒塗りの車が徐行し、屋敷の前に停まった。

「お疲れ様でした。坊ちゃん」

「ありがとうございます」

開けられたドアの上に傘を掲げ、使用人が迎えると、太った体に窮屈そうなスーツを纏った狸は、それだけで一仕事という

ように、車から重い体を引っ張り出す。

身長はやや低いが幅と厚みが尋常ではない、まん丸く太ったボールのような狸だった。

屋敷の玄関を潜り、暖かいロビーに足を踏み入れた狸は、

「お帰りなさいやし、坊ちゃん」

シオンに笑顔で迎えられ、顔を綻ばせる。

「シオンさん…!御苦労様です」

「沢山泳いでお疲れでしょう?」

「でも、最近はちょっと楽しくなって来ているんです、水泳。他のスポーツはてんで駄目だけど、泳ぐのはそれなりかもしれ

ません」

明るく話すキヌタに、シオンは笑みを深くしながら「お好きなら、そいつは何よりでさぁ」と頷いた。

あれから三年経ち、少し身長が伸びたものの、キヌタの成長はもう止まっている。

ただ、横幅の方はまだ成長途中らしく、さすがに本人も体重と体型を気にし始め、スイミングスクールに通うようになって

いた。勿論、警備が万全な鼓谷財閥配下のスポーツ施設での事だが。

腰が低いのは相変わらずだが、キヌタは以前と比べてかなり明るくなり、はきはきと喋れるようになった。

これは、キンジが居なくなって以降も変わらず遊びに来てくれている、気の良い快活な悪童達の影響である。

この春から、キヌタは大学に通いながらも鼓谷家の三男として動くようになる。

本人がそう望んでいなくとも、キヌタが総帥候補の一人であるという事実は、鼓谷と懇意になりたい者からすれば重要な事。

ちょっとした顔見せや挨拶、そして社交の場…、様々な場面で経験するだろう他者との接触は、世間慣れしていない若い狸

を翻弄して行く事だろう。

だがキヌタは、ハードスケジュールが約束されたその未来を受け入れた。

遠く離れて頑張っている大切な者に負けないよう、前を向いて歩く決意を固めたあの日から、キヌタは確かに変わったのだ。

「ところで、何かご用だったんじゃ?」

キヌタに問われ、シオンは「あー…」と微妙な顔つきになった。

「いえね、用事はあったんでやす。あったんでやすけどねぇ…」

マラミュートは視線を屋敷の奥に続く通路に走らせる。

と、丁度トイレから帰ってきた若者が、屋敷の使用人と親しげに話している姿が目に入った。

「おいコラ!とっとと来ねぇか馬鹿野郎!」

シオンにどやされて「うわやべ!」と駆け足になったキンジは、しかし二歩進んだ所で足を止めた。

その目が大きくなり、やがて細められる。

キヌタもまたその場に立ち尽くしたまま目を大きくしたが、次第に顔を弛ませ、微笑みを浮かべた。

シオンは二人の視線を妨げないよう横に一歩退き、コホンと咳払いする。

「うちの新人でさぁ。総帥命令で今日から坊ちゃんの専属になりやす」

「えっ!?」

キヌタの口から驚きの声が漏れた。

まだ正式に鼓谷財閥の内部に関われていないキヌタは、人事に口出しする権限は当然持っていない。

自分で護衛を選べるようになるには、頑張っても大学卒業までかかるだろうと踏んでいたのだが、まさか父が新人であるキ

ンジを自分につけてくれるとは思ってもみなかったのである。

願ってもいない嬉しい人事に、キヌタはただただ驚いて絶句し、素直に喜びを表現する事すらできなくなっている。

「…ま、今更あっしが紹介する必要はありやせんね。アイツの事に関しちゃ坊ちゃんの方がお詳しいでやしょうから…。まだ

教育しなきゃならねぇ事がたんまりあって、至らねぇトコばっかの半人前でやすが、どうか使ってやって下さいやし」

声も出せずに頷いたキヌタに、キンジはゆっくりと歩み寄り、丁寧にお辞儀した。

「羽取金示です。本日よりお坊ちゃんの警護を務めさせて頂きます」

「あ…、あの…。鼓谷絹太…です…。よろしくお願いします…」

主従の関係として改まった挨拶を交わした二人は、しばし黙り込む。

やがてキンジは警戒するようにチラッとシオンを見たが、彼がわざとらしくそっぽを向いている事に気付くと、ニヤリと笑っ

てキヌタに親指を立てた。

それを見たキヌタはほっとしたように表情を緩めると、親指を立て返して満面の笑みを浮かべる。

キンジの教育にはとことん厳しかったシオンだが、彼らが二人きりの時にはSPとしての接し方を強要するつもりは無かっ

た。何よりもそれではキヌタが喜ばないと重々承知していたので。

「さて、あっしは戻りやす。今後の警備配置も大きく変わりやすが、詳しい話はコイツにしてありやすから、初仕事だと思っ

て、たどたどしい説明に付き合ってやって下さいやし」

「は、はいっ!判りました!」

舞い上がっていたキヌタはつっかえながら返事をし、

「ああそれと…、コイツは基本的にこの屋敷に常駐するようになりやす。不備があったらあっしまでご連絡を。いつでも駆け

付けて「指導」しやすんで」

常駐という単語に仰天したキヌタの前で、指導という単語を耳にしたキンジの表情が一瞬硬くなっていた。



「タキシード姿なんて初めて見たから、ビックリしちゃった!」

自室に入ったキヌタは、キンジと二人きりになるなりそう切り出した。

「あれから背も伸びた?また差がついちゃったね」

距離が殆ど無い、突き出た腹が触れそうな程キンジに寄ったキヌタは、目を細めて愛しい男の顔を見上げる。

キンジが最後に帰って来たのは、昨年の春休みだった。

以後は寮の監督生になってしまい、最後の一年という事でシオン達から施される訓練も苛烈を極め、忙しさと疲労で休日も

戻って来られなくなってしまったので、今日はほぼ一年ぶりの帰郷と再会になっている。

電話では話すものの、顔を見るのは一年ぶり。以前にも増して逞しくなったキンジを前に、キヌタは感激していた。

「似合わねーだろ?こーゆーお上品な格好」

襟を摘んで顔を顰めたキンジだが、着こなしは様になっており、キヌタはブンブンと首を横に振った。

「ううん!そんな事ない、似合ってる!立派だよ!凄く格好良い!」

「そいつはどーも。…それよりおめぇ…」

キンジは顔を顰めると、トレーナー越しにキヌタの腹に触れ、丸く張ったその表面を円を描くように撫で回した。

「また肥えたんじゃね?」

「…………3キロだけね」

「今の間は嘘の間だな…」

「……5キロくらいかも」

「まだ嘘の間があるなー」

「ごめん13キロです…」

「盛大に鯖読みやがって」

腹肉を軽く掴まれ、キヌタは恥ずかしげに目を逸らす。

「一応…、スイミングスクールに通ってるんだけど…」

「ほー、いよいよダイエットにトライかー。ま、体力つけとくのは良い事だ」

キンジはすっと離れ、ソファーに向かう。

再会での熱烈な愛撫を期待していたキヌタは、しかしキンジがそうしてくれなかった事に微かな不安を覚えた。

「あ、あの…、キンちゃん?」

「ん?」

ソファーに腰を下ろしたキンジは、突っ立ったままのキヌタを見遣り、

「あの…、SPになったけど…、キンちゃんは…、友達のままだよね…?」

そんな言葉を受けて表情を消す。

「馬鹿言ってんじゃねー。おれらはもう友達なんて関係じゃねーよ」

突き放すようなその言葉に、キヌタは顔を強ばらせた。が…、

「…恋人同士だろーが…」

照れているのか、そっぽを向いて殊更にぶっきらぼうな口調でぼそぼそとキンジが言うと、きょとんとした後、耳を倒して

尻尾を揺すり、顔を弛緩させた。

「ところで、おれの荷物そろそろ届いてねーかな?本社直行だったから別の車に預けててさー、先輩がこっちに持って来てく

れるって言ってたんだけどよ」

「荷物?ちょっと訊いてみる」

キヌタは内線で問い合わせ、段ボールがいくつか運び込まれた事をキンジに告げる。

「住み込みの使用人さん達用の部屋を一つ片付けてあったから、そこに運んだって。当面はそこがキンちゃんの部屋になるみ

たい」

「その部屋って、もしかしてやたら豪華なトコか?落ち着かねーようなトコじゃねーだろな?」

「うーんと…、普通かな?」

「おめぇら一家の「普通」はあてになんねーからなー…」

キンジは肩を竦め、苦笑いしたキヌタは冷蔵庫からコーラの缶を取り出し、「はい」と手渡す。

「お、サンキュー!」

「荷物って何?着替えとか?」

「それもあるけど、道具だな。おめぇ用の土産」

「ぼく用?ぼくに?」

意外に思ったキヌタが少し驚きながら問うと、キンジはニヤニヤと笑った。

「そう、おめぇに。バイブとかアナパとか乳クリップとか拘束バンドとか拡張バルーンとかクスコとかローションとか…、お

めぇが悦びそうなモン、とにかくたんまり買ったんだぜ?後でじっくり見せてやるよ」

「へぇ〜!楽しみ!」

土産と聞いて単純に喜び、満面の笑みを浮かべたキヌタは、キンジが口にした単語群が何を意味するのか判っていない。

一方でキンジはコーラを煽り、表情を消して記憶を反芻していた。

総帥からキヌタ専属SPという役職を言い付かった後、彼はシオンに連れられて、本社内に居たキヌタの兄二人に挨拶して

来た。

片方は知っている。一度この屋敷で会った長兄は。

向こうはキンジがあの時居合わせた一人だとは気付いていなかったらしく、横柄でぞんざいな挨拶を交わし、追い払うよう

に退室を促した。

そちらは割とどうでも良いと、キンジは感じている。

底が浅い。恵まれた環境に胡座をかいている、上辺だけの取るに足りない相手だと。

だが、続いて挨拶しに行った次男坊の事が、キンジの頭から離れない。

(…やべーヤツだ。ありゃあ…)

キンジは思い出しただけで薄ら寒い物を感じ、うなじの毛をふわりと逆立てる。

母親似だという次男坊は、自分の顔立ちに自信があるキンジから見てもハンサムだった。

ただし男前という訳ではない、中性的な美貌の持ち主だったのである。

すらりと華奢な細身の体躯と、静かな微笑。女がコロッといきそうな顔とスタイルだと、キンジは思った。

だが、その「綺麗さ」が上辺だけの物である事を、キンジは見抜いていた。

飾った上っ面で好感を得ながら、薄皮一枚捲った所ではどす黒い何かが打算を巡らせている…。つまり自分と同じようなヤ

ツだと、同族嫌悪に近い感情を抱いた。

そして何より、本能的に彼の危険性を察知している。

密かに胸に抱いた目的。その最大の障害になるのは、おそらくあの男だと…。

「どうしたのキンちゃん?」

表情が硬いキンジを、横に座りながらキヌタが案じる。

「何でもねーよ。柄にも無く緊張してたかな?ちょっと疲れたのかもしれねーや」

応じたキンジが肩に左腕を回すと、キヌタは喜んで身を寄せた。

夢にまで見たキンジの温もり、感触、匂い…。

肩に回された逞しい腕が首の横から下りて、抱えるような格好で乳房を掴むと、敏感なキヌタはトレーナー越しの軽い愛撫

にも過剰に反応した。

空いている右手をキヌタの正面に回し、彼が恥ずかしがる弛んだ腹に這わせてやりながら、キンジは少し考え、口を開いた。

「おめぇ、妙な才能があるらしいな」

「え?」

キヌタの反応は予想通りだった。キヌタ自身はその才能を自覚していないと、予めシオンから聞いていたので。

特待生として入学した高校に通いながらも、部活をさぼってまでシオンの訓練を受けていたキンジは、当時からSPとして

の採用がほぼ内定した者として扱われていた。

総帥であるニシキが彼に興味を抱き、また何か期待している節もあり、訓練開始早々からそのような対応になったのである。

それ故にキンジは、内密という事で聞かされていた。

キヌタが持つ、総帥譲りの特殊な才能について…。

「俯瞰推測」とニシキが呼んでいる、彼ら親子の特異な才能を一言で現すならば、「物事の本質を見抜く力」となる。

自身が意識できる物もできない物も含め、あらゆる情報を感覚的に読み取って、物事の本質を掴む…。その推測過程は複雑

過ぎる上に半ば自動でおこなわれるため、本人も経過を認識できなかったりもするが、とにかく唐突に、直感的に、事象の中

心や物の本質が理解でき、どうするのが一番良いのかという事がおおよそ判ってしまう。

だがシオンによれば、キヌタのそれはニシキの物とはかなり違うらしい。

キヌタの才能は、言うなればニシキの物の劣化版なのだ。

冷徹なまでに客観的に状況と情報を分析できるニシキに対し、キヌタの場合は根っからのお人好しな事が障害となって、才

能が上手く発揮されないのである。

脳の根幹に性善説が居座っているキヌタは、他者の悪意が判らない。警戒心が極めて薄くて無防備なのもそのせいである。

故に、他人が巡らせる悪巧みや非道徳的行いが、本質把握の材料として扱われない。

そのように推測の材料が欠けているのだから、導き出される答えも必然的に精密さを欠く。

つまりキヌタは、本来ならばいかなる危機も回避できる才能を持っていながらそれを活かしきれておらず、自分に向けられ

る悪意についてとことん無力なのだ。

だが、他者の悪意を読み取り、それをキヌタに教えられる者が傍に居れば、不完全なこの才能も、あるいは…。

キンジもシオンも気付いていなかったが、総帥が若いSPに期待したのはそのような役回りであった。

キンジはしばらく黙った後、キヌタに告げる。彼が持ち合わせている奇妙な才能の事を。

説明を受けたキヌタはきょとんとしていたが、キンジを信じ切っているが故に、その内容を受け入れる。自覚は無いが、彼

の言うとおりなのかもしれない、と…。

「えーと、何つったっけなー?ファンスイ式?…いや、ファンシーだったか?」

俯瞰推測という言葉がなかなか出て来なかったキンジは、やがて「ファジーだったか?確か…」と呟いた。

そして、考えながらも無意識に撫でさすっていたキヌタの、丸い腹にある窪み…つまり臍の感触をトレーナー越しに感じ取

ると、

「ファジーネーブル…とか、そーゆー名前の何か、あったよな?」

そんな事をキヌタに訊ねる。

「飲み物だったと思う。お酒…かな?…あひっ!」

答えたキヌタは、臍をぐりっとほじくられて妙な声を上げた。

「「曖昧な臍」か…。ぴったりな名前じゃねーか?何となく判るって才能には」

久々に抱く恋人が意外な所まで敏感だった事を発見し、キンジはニヤつきながらキヌタの臍をぐりぐり弄くった。

そして、「止めてぇ!おしっこつまってきちゃったー!」と声を上げて身悶えする狸を抱えながら、口元の歪みを不敵な物

に変える。

キヌタの才能を利用してのし上がる。

誰の手も届かないような高みに、キヌタを押し上げる。

キンジはこの三年間考え続け、キヌタを危険から守るために、逃げるのではなく、力を得る事を考えた。

大切な恋人を抱きながら、若い猟犬はふてぶてしい笑みを浮かべ、未来を、困難を、ギラつく目で見据える。

(おれはキヌタを総帥にする!誰にも手出しできねーように!キヌタはおれのモンだ。誰の好きにもさせやしねー…!)

胸に秘めたその野望は、まだ具体性に欠けて曖昧だったが、どんな困難も厭わず、手段も選ばず、何が何でもキヌタを守り

抜くというその決意は、揺るぎない物だった。

少年を脱しようとしながらもまだ大人になり切れていない二人は、苦難の大海に漕ぎ出そうとしている。何処にあるかもま

だ判らない安寧を探しながら…。

かくして少年は解き放たれた。

自分達を取り巻く環境と事情という檻を一切合切破壊する、破天荒なケージブレイカーの手で…。

おまけ