インターミッション11 「バザールとナキールと…」

「話は以上です。…くれぐれも、他言無用に願います」

無表情な灰色熊の言葉に、桃色の豚は小さく頷いた。

メオールの業務用修繕室の中、丸椅子にかけて向き合う二人の他に人影は無い。

イブリース出現から二時間。周囲では後始末が着々と進み、ドビエルは伝えるべき事を全てバザールに聞かせ終えた。

イブリース一行との接触で、バザールは深く関わり過ぎた。

本来存在しないはずの白猫と接触し、その力を注ぎ込まれて事なきを得た彼女は、室長クラスの情報所持者から見れば立派

な危険分子である。

管理人の頭たるドビエルは、その権限をもってバザールを隔離し、非公式に記憶の改竄を行わせる事もできるのだが、彼は

そこまでするべきではないと判断した。

理屈ではない。捉え所のないあやふやで曖昧な勘がそうさせたのである。

灰色熊自身はまだはっきりと自覚できていなかったが、この時には既に予感があった。

決して強靱でも強力でもなく、真面目さだけが取り柄の凡庸な一配達人であるバザールが、今後、この事態に深く関わって

来るという予感が…。

奇しくもドビエルはあの白猫と同じように、バザールからある可能性を嗅ぎ取っていたのである。それゆえに秘密を打ち明

ける決心もした。

混乱が窺えるバザールの顔を眺めながら、しばし黙り込んでいたドビエルは口を開く。

「以前のアズライルの事は、比較的若い世代は存在すら知りません。彼女が処刑される原因となったあの事件についても…。

そして、最古の堕人…イブリースの誕生についても…。…いえ、正確には最初の離反者にして反逆者は、アズライルという事

になるのかもしれませんが…」

遥か昔の記憶を辿るように、灰色熊は目を細め、遠くを眺めるような目つきになる。

「あの事件がキーとなって、今の体制が敷かれるようになりました。現在の我々の体制は、あの時間があっての事…。人間達

だけでなくわたくし達にとっても、全てはあの時から始まったのです」

独り言のようにそう零すと、ドビエルは席を立ち、ドアに向かった。

開いたドアから往来の喧噪が室内に入り込み、そして閉じられると同時に静かになる。

ドビエルが出て行き、一人取り残されたバザールは、項垂れて床を眺める。

「アズライルさんが…」

友人である黒豹の顔を思い浮かべながら、バザールは呟く。

アズライル、666の予言、滅ぶはずだった人類、最初の堕人、大いなる敵対者、そして…、

「アザゼル…。アズライルファントム…」

バザールはそう呟くなり、太った体を小刻みに震わせ始めた。

「う…!ううう…!うぅぅぅううっ…!」

何かを堪えるように歯を噛みしめ、その隙間から呻き声を漏らす彼女の目には、苦悩の色が濃く浮かんでいる。

危険な存在だという事は解った。だが、あの白猫は自分を助けてくれたし、それ自身が邪悪な訳でもない。

敵視する事はもちろん、また会ったとしても職務に従って抹殺などできるはずもない。

何より、彼女は白猫の力の一部を譲渡され、壊れかけた肉体と魂を危ういところで繋ぎ止めた。その接触と交感の影響で、

バザールは白猫の本質を部分的に理解している。

「空っぽなんですよ…。あの子は空っぽで、透明で、柔軟で…、だからあの子は本来、極めて無害なはずなんです…」

呻くように呟いたバザールは、だが、と続けて考える。

白猫はあまりにも何もなく、あまりにも柔らかすぎるせいで、何色にも染まらず、どんな物にも沿わず、誰にも変化させら

れない。無形の風と同じように。

実際、悠久の時を付き添って過ごした北極熊ですら、彼女にほとんど変化をもたらせなかった。

「イブリースはそれに気付いていないんでしょうか?気付いていないまま、あの子を…」

極めてニュートラルな存在である白猫を、どうにかして抹殺対象から外せないか?そんな事を考え、苦悩するバザールは、

再びドアが開いて通りの喧噪が部屋に入り込むと、ゆっくり顔を上げてから少し目を大きくした。部屋の入り口に立ったのが、

着込んだ黒く厳つい虎だったせいで。

てっきり部屋の主であるメオールが帰ってきたのかと思ったが、予想を裏切って現れた管理人は、紙袋を手にしたままドア

の前で仁王立ちになり、じろりとバザールを見遣る。

「具合はどうかな?」

低い声で訊ねながら、窺うように目つきを鋭くした虎の眼光に、バザールは怯んだ。

冷静になって思い返せば、先の騒ぎでバザールはこの管理人の仕事を妨害していた。

間違った事はしていないと信じたいが、それでも自分が職務の邪魔したのは事実。黒虎が怒るのも無理はないと感じ、無言

のまま目を伏せて頭を下げる。

「流石にまだ調子は出ないか…」

黒虎は静かにそう呟くと、ゆっくりと踏み出してバザールに歩み寄る。

叱責されると覚悟して身を固く強張らせたバザールは、しかし脇の机にトスッと何かが置かれた音を聞き、零れた香りを嗅

ぎ、「ん?」と眉根を寄せながら顔を上げる。

「差し入れだ。食べてくれ」

そう言って身を引いた黒虎の前には、作業机の上に置かれた紙袋。

緊張したバザールは最初に気付けなかったが、それは近くのカフェのロゴがプリントされており、中からはパンやソーセー

ジにケチャップ、コーヒーの香りが漂い出ていた。

「それでは、失礼する」

黒虎はそう言って頷くような会釈をすると、足早にドアに向かい、慌ただしく出て行った。

(許してくれるって、事なんですかねぇ…?)

ほっとしたバザールは、黒虎が急ぎ足で出て行ったドアを眺め、まだ忙しいのだろうなぁ…などとぼんやり考えた。



一方、メオールの工房のすぐ外では、部屋を出るなり壁に背を預けてもたれかかった黒虎が胸に手を当て、少し俯いていた。

スーツ越しに感じる胸の鼓動が、いつもより速い。

トットットッと脈打つ心臓と、それより深い、どことも言い切れない部分がやや苦しい。

黒虎は動揺していた。

まさか?と思う。そんなはずはないだろう?とも思う。

だが、その複雑な感情は、知り合いや馴染みからちょくちょく聞いていたソレに酷似しているように思えた。

(まさか…。まさかとは思うが…。まさかこれが…?)

まさかを連発しながら、黒虎はゴクリと唾を飲み込んだ。

(これが…、恋なのか…!?)

先に見たバザールのきょとんとした顔を思い浮かべた黒虎は、「うう…!」と呻いてスーツの襟元を握り込む。

その顔を、声を思い起こす度、胸の内側で何かが疼き、体温が上がる。

知り合いから以前何度か聞いた事がある、恋の症状に極めて似ていた。

職務妨害は褒められた事ではないが、しかし先に見せつけられたバザールの態度は、黒虎の目に眩しく映った。

白猫を庇って執行人を相手取り、絶望的な戦力差をおそらくは実感しながら、それでも信念を貫き、己を曲げない…。

そんな彼女の、竦みながらも立ち向かう姿に、怯みながらも退かない心に、黒虎は感銘を受けた。

ドビエルがバザールに何を話していたのか知らない黒虎は、てっきり彼女が厳しく責められたと思い込み、落ち込んでいる

のではないかと気になって気になって職務に集中できず、慰めるつもりで差し入れを持って行ったのである。

「恋…。自分が恋など…!」

動揺しながらブツブツ呟いた黒虎は、

「コイがどしたい?」

傍らから声がかかり、飛び上がらんばかりに驚いた。

「めめめめメオールっ!?お前こんな所で何をしている!?」

ずんぐりした青毛猪は、訝るようだった顔を憮然とした物に変える。

「仕事場だもんよ、ソコ。そっちこそ何してるんだ?」

「き、奇遇だな!自分も仕事だとも!」

どう見ても仕事をしているようには見えない古馴染みの顔を胡乱げに眺め、メオールは太い首を捻った。そこへ…、

「…ごめんね?ちょっと良いかな」

脇から声をかけられた二人は、同時に首を曲げ、見上げるような巨漢を瞳に映す。

黒いライダースーツで肥満体を覆った北極熊の顔を見上げ、黒虎とメオールは背筋を伸ばした。

「おっと!しばらくですジブリールさん」

「お疲れ様です。ジブリール」

猪と虎が口々に挨拶すると、ジブリールもにっこりと微笑んで挨拶を返した。

「うん。久しぶりだねメオール。ベリアルも元気そうで何よりだよ」

メオールは相変わらず規格外に大きなオーバースペックの顔から視線を外し、その斜め後ろに控えている灰色狼に目を向け、

僅かに目を細める。

(…あれ?この狼って…)

最近見たはずの顔だと記憶を手繰り、メオールは気付く。

その狼が、先にバザールの携帯で画像を見せられた、交際相手である事に。

「挨拶もそこそこで悪いけれど、訊いても良いかな?独立配達人のバザールがこの辺りで休憩していると聞いたんだけれど…」

「ああー。それなら今、この中で中央管理室長と…」

「いや、室長との話は終わったようで、今は一人です」

メオールの言葉をベリアルが補足し、ジブリールは頷く。

「それじゃあ、済まないけれどお邪魔させて貰うよ。彼女とはちょっとした付き合いがあってね、騒ぎに巻き込まれたと聞い

て心配していたんだ」

北極熊に頷いた二人は道を空け、ドアに手をかける巨漢と、その後ろに続く狼を交互に見遣った。



また開いたドアから入って来た男が「やあ」と笑みを浮かべて軽く片手を上げると、コーヒーを啜っていたバザールは目を

丸くした。

「ジブリールさん!?どうしたんです!?」

彼らの飛行艇がかなり離れた地域に停泊している事を知っていたので、桃色の豚はその来訪に驚いた。加えて…、

「ナキールさんまで!」

横に身を除けた北極熊の陰から、後ろ手にドアを閉めている灰色狼の姿が現れると、バザールの驚きはさらに大きくなる。

「事情を聞いてね。遅ればせながら状況を見に来たんだ。ナキールも随分心配していたようだから…」

「ナキールさんが?」

バザールが思わずといった具合に意外そうな声を漏らすと、狼男は深々と頷いた。

「心配だった。警報の渦中に居たそうだね」

ナキールは表情に乏しく、本当に心配していたのか見た目では判らないが、しかし彼がお世辞や社交辞令を口にする事がほ

とんどできない事を知っているバザールは、頬を染めてもじもじと身じろぎする。

だが、無事を確認したジブリールがニコニコしながら歩み寄ると、桃色の豚の体は急に硬くなった。

その微細な変化にまず気付いたのは北極熊。次いでナキールもそれを察し、最後にバザール自身が自覚する。

歩み寄る途中で動きを止めたジブリールを見上げ、バザールは戸惑いながら、やや気まずそうな顔をした。

その態度で、北極熊は全てを理解した。

「…会ったんだね?アル・シャイターンに…」

静かに問うジブリールに、バザールは小さく頷く。

目の前の北極熊があの巨漢と根っこから全く異なる事は、滲み出る雰囲気だけで理解できる。それでも、体は勝手に萎縮し、

硬くなってしまった。

そしてバザールは今、己の誤りを実感している。

イブリースの姿を目にした時、彼女はジブリールと似ていると感じた。

だがそれは間違っていた。

イブリースとジブリールは似ているのではない。

似ているなどという生易しいレベルではない。

鏡に映したように、全く同じ外見であった。

あの北極熊と外見上でただ一箇所だけ違う、澄んだ空色の瞳をしばし見つめ、バザールは静かに頭を垂れた。

申し訳ないと思った。

ドビエルから纏めて話を聞かされ、混乱はしたが理解したつもりになっていた。

それでも、あの邂逅で刻みつけられた根深い恐怖が、バザールの体を勝手に萎縮させてしまう…。

「その様子だと、誰かからオレの事を聞いたようだね」

ジブリールは静かに、穏やかに呟き、踵を返した。

「ドビエルとも話があるし、オレは席を外すよ。無事で良かった、バザール…」

「有り難うございます…」

その大きな背に礼を言ったバザールは、あまりにも寂しげな後ろ姿に、己を殴りつけたい衝動に駆られた。

情けなかった。ドビエルから信用されて打ち明けられたはずの事で、ジブリールに以前のように接する事ができなくなった

自分に、腹が立って仕方がなかった。

ジブリールが出て行くと、ナキールはバザールの前に進み出て、その太股の上に置かれたぽってりした手を取る。

「大丈夫かね?顔色が悪いし、震えている…。まだ調子が悪いのでは?」

無表情ながらも案ずるように手の甲を撫で、次いで頬に触れて体温を確認してきたナキールに、バザールは涙目になりなが

ら「大丈夫ですよぅ…」と力なく応じた。



「わたくしの独断でしたが、全て話しました」

夜明け前に破壊の痕跡を全て消すつもりで、破壊された路面や空間に生じた歪みを修正する作業に励んでいる面々を臨み、

ドビエルは少し離れた位置で呟く。

その隣でガードレールに尻を乗せ、大量に投入した砂糖とミルクでもはや苦みが全く無くなっているホットコーヒーを啜り

ながら、ジブリールは頷く。

どんな苦境でも、どんな悪環境でもめげず、いつでもにこにこと穏やかな北極熊は、珍しく表情に陰りがある。

バザールに会った時、何か感じたのだろうと目星を付けたドビエルは、旧友が落ち込んでいる事を察して気の毒に思った。

(バザールの態度が変化してしまうのも無理はないですが…。ジブリールも流石に堪えたようですね)

「交戦したんだね?」

唐突に北極熊に問われたドビエルは、「ええ」と顎を引く。

「どうだったかな?」

「強いですね」

「どのくらい?」

「以前と変わらず」

「それは困った。けれどちょっとだけ安心した」

ジブリールが作業中の異形達をぼんやり眺めながら呟くと、ドビエルは僅かに眉根を寄せ、その顔を旧友に向ける。

「安心…ですか?」

「うん。あれ以上になられていたら、もう手が付けられないからね」

ジブリールは静かにコーヒーを啜り、一息ついてから訊ねた。

「アズが自力でアンヴェイルした事は、もう知っているかい?」

「ええ。先程報告を読みました」

「アズにも、人類滅亡回避の件について話した。666についても、昔のアズについても…」

「イブリースについては?」

「それはまだ。でも、近い内に話すつもりだよ。纏めて話をしたら混乱させるだろうから、ある程度整理ができてから…」

「急いだ方が良いかもしれませんね」

言葉を遮られた北極熊は、灰色熊の顔を横目で見遣り、視線で問う。

「そちらはアスモデウスと接触したようですが…、実は、彼ら強硬派堕人の動きが活発化しています。以前ハールとマールが

秘匿していた情報を持ち出した件ですが…、あれはどうやら、アーカイブのプロテクトが直前に堕人から介入を受け、一部の

機能が損なわれていたせいで成功したらしいのです」

「堕人達が、本部に直アクセスしたのかい?彼らにしては随分積極的だね…」

胡乱げに目を細めたジブリールに、ドビエルは頷きながら応じた。

「積極的です。まるで、全面戦争も辞さないと言わんばかりに」

灰色熊は思慮深そうな眼差しを路面に落とし、呟いた。

「確証はありませんが、どうやら技術開発局から少なくない情報が盗まれているようです。どうも室長が被害を隠しているよ

うで、これまで判りませんでしたが、ハダニエルが異常を察知してくれました。どうも胃の辺りがキリキリする、と言い出し

まして…、相変わらず大した勘です」

「敏感だからねぇハダニエルは。…それにしても、どうして被害が出た事を隠していたんだろう?」

「大事になるから、でしょう。間違いなく室長が責任を問われるケースです。…土台固めをしている段階ですが、近い内に内

部調査を行います。何が盗み出されたのか確認しない事には、枕を高くして眠る事もできませんから。…しかし、わたくしは

あそこの室長に嫌われていますからね。調査は難航するでしょう」

「…う〜ん…。とにかくだ、堕人達の動きが活発化したのは、盗み出した情報による影響だと考えているんだね?」

「可能性は否定できません。例えば…」

ドビエルは一度言葉を切り、声を潜めた。

「人間を皆殺しにできるような手段を、アーカイブからまんまと盗み出したとすれば…」

「あるのかい?そんな物が」

少し驚いた様子のジブリールに、ドビエルは肩を竦める。

「例えばの話です。それほど強力な、切り札になり得る物を手に入れたとなれば、自信を持って動くでしょうね」

「けれど、元々こちら側の技術なんだから、対策はきちんとできるんじゃないかな?」

「対策ができない物も多いですよ。歯止めが無く、危険過ぎるが故に封印された技術も、大量に眠っていますから…」

それを聞いたジブリールは、微苦笑して唸った。

「う〜ん、前途多難だなぁ」

空元気で無理矢理浮かべたその笑顔は、ドビエルの目には痛々しく映った。



「アズライルも心配していた」

向き合う形で椅子に座った狼男がそう告げると、バザールはこくんと頷く。

「彼女も損傷しており、ここへ来る事はミカールに止められたが、本人はとても来たがっていた」

「損傷したんですか?アズライルさんも?」

「程度は浅い。オーバーヒートでの損傷なのでね」

驚いた様子のバザールにそう説明すると、ナキールは彼女の目をじっと覗き込み、やがて何かに納得したようにうんうんと

しきりに頷いた。

「…何ですかぁ?」

「いや、本当に無事なのだなと確認して、安心していたところだ」

狼男はしきりに頷きながら言い、バザールはもじもじしつつ項垂れた。

「済みません…。心配おかけしちゃいましたね…」

「心配した。君に何かあったらと考えたら、不安という気持ちが理解できた」

即座に返事をしたナキールを、バザールは上目遣いに見つめ、小首を傾げる。

「君に本当に何かあったなら、自分は確実に、平静ではいられないだろう」

真顔でそう言ったナキールの前で、バザールは顔を赤くした。

嬉しいと思うと当時に、こんな状況で不謹慎だと、自分を戒めながら。



一方、バザールが恋人と話をしている事で、気を利かせて外で待っているメオールは、

「は?バザールの事?何でまた?」

唐突に妙な質問をしてきた友人に、胡乱げな顔を向けていた。

「何ででも良いだろう。馴染みなのか?どういうひとなんだ彼女は?」

バザールが現在ナキールと交際中とは知らない黒虎は、メオールに彼女の事を聞きたがった。

(恋…!そう、これは恋だ…!あんな素晴らしいひとを放っておけないと、魂が震える!叫ぶ!赤熱する!)

恋する管理人ベリアルは、初めて味わう感覚ですっかりのぼせ上がっていた…。