インターミッション2 「アズライルとナキール」

遊佐恭子(ゆさきょうこ)は、百貨店の前で恋人を待っていた。

穏やかな春の日差しが降り注ぐ、県道脇の広い歩道。

いくつものベンチと花壇が並ぶその歩道を、親子連れやカップル、仕事中なのかスーツ姿の中年男性などが、暖かな春風を

受けながらすれ違う。

ベンチに腰掛けたキョウコは、花壇の花を眺めたり、県道を行き交う車を見遣ったりしながら、彼氏が来るのを今か今かと

待っている。

時刻は午後三時。既に約束の時間はだいぶ過ぎている。

もしかして約束を忘れているのだろうかと、少し焦りながら百貨店の時計を振り返り、次いで歩道を見回したキョウコは、

県道を走って来るバイクに目を止める。

特にバイクに興味があるわけではない。だが、キョウコはそのバイクと、その乗り手から目が離せなくなった。

オンオフ問わず走破できる性能が与えられたバイクに跨る、黒い革のつなぎを着込んだそのライダーは、ヘルメットを被っ

ていない。

しかし、キョウコが視線を釘付けにされているのは、ライダーがノーヘルだからという訳ではない。

剥きだしのその顔が、人間の物ではなかったからである。

鉄を思わせる青みがかった灰色の毛に覆われた頭部。

前にせり出したシャープなマズルと、先端の黒い鼻。

さらには、頭の上側で三角にピンと立った耳。

狼。ライダーの頭部は狼の物であったが、キョウコにはそれが判らず、犬だと考える。

ああいうヘルメットなのかしら?と、首を傾げつつ見つめているキョウコと、ライダーの視線がかちあう。

直後、バイクはウインカーを上げ、速度を緩めて歩道に寄った。

歩道に乗り上げてエンジンを切り、消火栓の脇にバイクを止めて降り立ったライダーは、キョウコに体ごと向き直った。

180近い長身で、引き締まった細身の体型。纏った黒いライダースーツは体にフィットしている。

腰の後ろからは下側が白、背側が灰色の毛に覆われたフサフサの尻尾が垂れている。

コツコツと石畳を踏み締め、背筋の伸びた姿勢で歩き出す狼男。

しばしその奇妙なライダーの姿を眺めていたキョウコは、灰色の狼男が自分に向かって歩いて来ている事に気付き、小首を

傾げた。

ベンチに座っているままのキョウコの前で足を止めると、狼男は顎を引くようにして軽く頭を下げる。

つられて頭を下げたキョウコを見下ろしたまま、狼男は口を開いた。

「こんにちは。こんな所で何をしているのかね?」

被り物だと思っていた狼の口が動き、キョウコは仰天した。

喋った狼の口の動きはなめらかで、不自然な所が全く無く、まるで本物のように見えた。

「ああ、この顔の事なら気にしなくていい。周りの人々も気にしていないだろう?」

狼男がそう言いながら首を巡らせ、キョウコもつられて周りを見回すが、確かに男の言うとおり、周囲の誰もこの奇妙な男

に注意を払っていない。

不思議ではあったが、キョウコはそういうものか、と何故か納得してしまった。

どうにも頭に霞がかかったようになっており、奇妙さがさほど奇妙と思えなくなっている。

狼男の腰の両側にはつなぎと同じく黒いホルスターついており、そこから拳銃の尻らしいものが覗いていたが、狼の顔と比

べればさしておかしな物にも感じられない。

警察に見つかれば職務質問は免れないだろうが、一種のコスプレなのだろうと、キョウコは結論付ける。

「それで、こんな所で何を?」

狼男が繰り返すと、キョウコはデートの待ち合わせ中で、彼氏を待っている事を説明した。

狼男は何か考え込むように少しだけ目を細め、キョウコを見つめていたが、やがて携帯を取り出すと、アンテナを引っ張っ

て伸ばし、数度ボタンを押して耳に当てる。

「ナキールだ。今自分は………………だ。………そうだ。…判った。頼む」

携帯をしまいこんだ狼男は、キョウコの隣、ベンチの空いているスペースにちらりと視線を向けた。

「隣に座っても良いだろうか?」

何故自分の隣に?まさかとは思うがナンパだろうか?などと考えながら、ナンパされた経験のないキョウコは、少しドキド

キしながら曖昧に頷く。

彼女が頷いた事を確認した狼男は、さっさと隣に腰をおろし、口を開いた。

「自分はナキールと言う。キミは?」

キョウコが名乗ると、ナキールは小さく頷き、花壇に視線を向けた。

「毎日同じ景色で、飽きないかね?」

首を傾げたキョウコを、ナキールはチラリと横目で見遣る。

「…ふむ…。覚えていないのか…。なるほど、どうりで…」

納得したように呟いたナキールは、百貨店の壁に取り付けてある公開中の映画のタイトルが並ぶ看板を、肩越しに親指で指

した。

「どの映画を見るつもりだったのかね?」

振り向いてそれを眺めたキョウコは、タイトルを上から順番に見つめ、困惑した。

どの映画も、自分が見に来た物とは違うような気がして。

「映画というのは、どの程度の期間同じ物を上映しているのか判るかね?自分はそういう事に少々疎く、知らないのだが…」

ものにもよるが、だいたい一ヶ月程度だとキョウコが応じると、ナキールは少し意外そうに目を細めた。

「ほう。割と短いものなのだね?…なるほど、それでは無理も無いか…」

ナキールは看板を振り返ってタイトルを眺めると、再び携帯を取り出した。

「…済まないムンカル、今は大丈夫かね?…そうか、では手短に尋ねよう」

キョウコが首を傾げながら見つめている前で、ナキールは看板に掲載されていた映画のタイトルをすらすらと口にする。

「君の場合、女性と一緒に観るならばどれを選ぶかね?…いや、心理テストの類ではなく、純粋な質問なのだよ」

しばし相手の声に耳を傾けていたナキールは、

「そうか、参考になった。有り難う」

通話相手に礼を言うと、携帯を仕舞い込んでキョウコを見遣った。

「時間もある事だ。よければ一緒に映画でもどうかね?」

唐突な申し出にキョウコは戸惑い、次いで首を横に振った。待ち合わせの最中なので、それは無理だと。

少々変わっているこの男は、やはりナンパ目的で自分に近付いたのかと、キョウコは少し可笑しくなる。

まさかコスプレしてナンパを試みる者が居るとは思ってもみなかった、と。

ナキールは少し黙った後、顎を引いて「ふむ…」と小さく漏らす。

「君は、自分がいつからここに居るか、思い出せないかね?」

首を傾げたキョウコは、そういえば何時間待っただろうかと、記憶を手繰る。

が、少し前に来たばかりのような気もするし、長いこと待っているような気もする。

少なくとも待ち合わせの時間前には来ていたはずなので、最低でも一時間以上だと応えたキョウコに、

「8762時間と52分」

ナキールはキョウコの額の辺りを見つめながら呟いた。

「それが、君がこの場に留まっている時間だ」

言われている意味が判らず、それは一体何日になるのかと、笑いながら尋ねたキョウコに、狼男は前を向いて目を閉じなが

ら告げる。

「君がここで旅を終えた日から、丁度一年が経った」

ナキールの言っている事は理解できなかったが、キョウコは漠然とした不安を覚えた。

足が地から離れ、フワフワと宙に漂っているような、何とも言えぬ心細さ。

何かとても大切な事を忘れているような、胸の中、背中側がささくれ立ってサワサワするような落ち着きの悪さ。

ナキールは前を向いたまま目を開け、花壇の脇に添えられた花束を見つめる。

「あの花は「視た」ところ六時間程前に置いてゆかれた物のようだ。それを置いていった人物の顔を、君はここから見ていた

はずだが…、魂の消耗が進行しているせいか、どうやら覚えていないようだな」

キョウコは呆然と花束を眺めながら、それを置いていった人物の事を思い出す。

狼男の言うとおり、自分はその人物を見ていたはずだと、キョウコは感じた。

今日だけではなく、もっともっと前から、何度も、何度も…。

キョウコは首を巡らせ、ナキールを見遣る。

彼女は思い出した。一年前、ここで恋人と待ち合わせしていた自分が、道路を横断しようとして車にはねられた事を。

「そう。君は人間達の概念で言う所の死を、一年前、ここで迎えた」

キョウコが思い出した事を理解し、ナキールはそう告げる。

「本来ならば、旅を終えた魂は自発的にゲートへと向かうのだが…、君は数少ないイレギュラーといったところだ」

キョウコは項垂れるが、ナキールは構わず先を続ける。

「おそらくは、君の魂が穏やかで澄みきっているせいだろう。誰にあだ為す事もなく、ただひたすらこの場に留まるのみの魂。

この近くを通りかかったはずの何人かの配達人達も気付かぬ程の、無害な残留者…。それも一年もの長い間だ。君は稀人(ま

れびと)だな」

言葉を切ったナキールは、項垂れているキョウコを横目で見遣る。

「理解できたかね?」

問われたキョウコは、小さく頷いた。

一年ぶりに話しかけられた事が呼び水となり、彼女は自分が「どうなった」のかを完全に思い出した。

そして「こうなった」自分が何をしなければならないのかという事も。だが…。

「ゲートへの行き方が、判らないのだね?」

ナキールの言葉に、キョウコは項垂れたまま頷いた。

「それについては心配無用。既に案内役は手配しておいた。…が、現在非常に立て込んでいるようでね。申し訳ないが、手が

空くまで少々時間がかかりそうなのだよ」

キョウコにそう説明したナキールは、首を巡らせて看板を見遣る。

「それで、映画などどうだろうかと思ったのだよ」

項垂れたまま答えないキョウコに、ナキールは看板を見ながら続ける。

「今回の君の旅は終わった。その後の一年間はともかく、その最期は因果の流れに反しない、「自然」なものだった。そして、

君の「死記」は既に充分埋められている。新しい旅に出る権利を、君は持っているのだよ」

視線を戻したナキールは、薄ぼんやりとした輪郭の、青い光の粒子で構成された少女の横顔を見つめる。

「ゲートを潜る事で、君は本当の旅の終わりを迎える。そして君は、またどこかから新たな旅を始める事になる。恐れる事は

無い。君という存在は無くなるのではなく、変わるだけなのだよ」

ナキールは言葉を切り、黙考するキョウコをしばし見守る。

「気が進まないなら映画でなくとも良い。ここでこうして時間を潰しても良いし、何処かへ出かけても良い。何処からでも、

案内役との待ち合わせ場所までは、自分が責任を持って連れて行ってあげよう」

 少し間をあけ、キョウコは顔を上げてナキールを見遣った。頷いた狼男は、看板を振り返る。

「では、見たい映画を選びたまえ。…一応同僚に確認してみたが、彼のお勧めは…」

ナキールがタイトルを口にすると、キョウコはその映画で良いと応え、腰を上げた。

狼男に先導されながら一度花壇脇の花束を見遣り、歩き出そうとした彼女は、しかしガクンと後ろに引っ張られ、バランス

を崩す。

ジャラッという音に振り向けば、自分の右足首に黒い鎖が巻き付いているのが見えた。

歩道の石畳に溶け込むようにして繋がっている、金属のように見えるその鎖は、太く、重く、そして冷たい。

「やはり縛られていたのか…」

呟いたナキールの方を見遣ったキョウコは、地面に向けられている彼の左手が、拳銃を握っている事に気付く。

渇いた破裂音に続き、キョウコの足首を捕まえていた鎖が、半ばから弾け飛ぶ。

砕けた箇所からパラパラと細かな破片に、そして粉になって消えてゆく鎖を、呆然と眺めているキョウコの横で、ナキール

は右手をグッと握り込んだ。

青みがかった灰色の光の粒が、ナキールの右手の周囲で霧のように漂う。

その光が拳の中心めがけて一気に収束すると、次いでボシュッという音と共に、ナキールの拳の隙間から青灰色の煙が零れ

出た。

開かれたその手の平には、薄蒼い半透明の弾丸。

生成した弾丸をSAAに装填したナキールは、その銃口をキョウコの胸に向けた。

「こちらはサービスだ。自覚した以上、その姿では落ち着かないだろう?」

二度目の銃声。蒼い透き通った弾頭がキョウコの胸に吸い込まれると、おぼろげだった彼女の輪郭が濃さを増し、光の粒子

の集合体から、鮮明な外見を持った姿へと変わる。

濃い青のジーンズに薄いピンクのカーディガンを纏った、十七歳の少女の姿へ。

ぷっくりした頬が印象的な、太めの女の子の姿を眺め、ナキールは頷いた。

「一時的な物に過ぎないが、魂に内包された情報を元に仮の肉体を再構築した。魂だけでの行動は少々勝手が違う。君の場合

は、以前と同じ感覚の方が良いだろう」

ホルスターに拳銃を収めたナキールは、少し考えた後、自分の姿を確認している少女に手を差し伸べた。

同僚の一人なら、きっとこのようにエスコートするのだろうと考えながら。

少し驚いたような表情を浮かべ、躊躇する素振りを見せたキョウコは、ナキールがいつまでも手を引っ込めないので、やが

ておずおずとその手を握った。

「では、ゆこうか」

少し恥かしげに頷いたキョウコの手を引いて、ナキールは百貨店へと足を踏み入れた。



(何か違う…)

映画館内で、席に座ったナキールは、映画が始まって十分も経たない内に首を傾げた。

女性が喜びそうな映画はどれかという意味で同僚に尋ねたナキールだったが、しかしその同僚は、女性と一緒に観る事でお

いしい目を見られる映画という意味でこの作品を薦めたのである。

つまり、現在ナキールとキョウコが鑑賞しているのは、ホラー映画であった。しかも、かなりスプラッタなテイストが強い物。

さすがに乙女の心には堪えたか、キョウコはスプラッタなシーンが大映しになると、小さく悲鳴を上げて首を縮め、咄嗟に

ナキールの右手を掴んだ。

一瞬後に手を握ってしまった事に気付き、慌てて手を離したキョウコは、上目遣いでナキールを見ながら、恥かしげに謝った。

(悪い事をした…)

未だに何故同僚がこの映画を薦めたのか判らぬまま眉根を寄せながらも、ナキールはスプラッタなシーンを平然と眺めていた。



だいぶ傾いた日に照らされる海縁の展望台の下で、ナキールはホットココアの缶をキョウコに手渡した。

ホットのウーロン茶を飲みながら、茜に染まる海を眺めたナキールの横顔を、キョウコはじっと見つめる。

今更ながら、実に奇妙な男だった。

他の皆からは視線を向けられない。しかし、全く見えていないのかと思えば、どうやらそうでもないらしい。

映画館ではきちんと代金を払ってチケットを購入し、席についたのだから。

キョウコ自身にも同じ事が言えた。他者から注意を向けられていないにも関わらず、映画館内の通路などでは、肩がぶつか

りそうになれば相手も避けようとしていた。

キョウコはまだ開けていないココアの缶を見下ろし、次いで自分の体を眺め回した。

豊満なバストに、むっちりしたウエストやヒップ。かなり気にしていた太い脚もそのままで、生前と何処も変わっていない。

まだ自分は死んでいないのではないかと錯覚しそうになるが、今では彼女も理解している。

自分の命は、とうに尽きていたという事を。

「ココアは嫌いだったかな?」

唐突に声をかけられて顔を上げたキョウコは、首をふるふると横に振り、頂きますとナキールに伝え、プルタブを起こした。

熱いココアをちびりと口に含み、キョウコはその味を噛み締める。

ココアをこんなにも美味しいと思ったのは、初めての事だった。

視線を向けた茜に染まる海も、こんなに綺麗だと思ったのは、初めての事だった。

魂以外の全てが借り物の体で実感する、世界の素晴らしさ。

もうじき別れを告げなければならないという感傷からなのか、今更ながら、自分が生きてきた、生かされてきたこの世界が、

愛おしく思えた。

じっと海を見つめているキョウコから視線を外し、ナキールは海沿いを走る国道を見遣る。

薄暗い色にそまりつつあるアスファルトを噛み、減速したバイクがウィンカーを上げて展望台の駐車場に進入すると、ナキ

ールは「すぐに戻る」とキョウコに告げ、少し離れた位置にある駐輪場に向かった。

ナキールのデュアルパーパスの隣に、攻撃的なフォルムのバイクを停めたライダーは、歩み寄ったナキールに視線を向ける。

バイクから降りた黒豹の顔をした同僚に、頷くようにして軽く頭を下げたナキールは、キョウコに視線を向けながら告げた。

「混み合っている所を済まなかったアズライル。…それで、あそこにいる彼女が、電話で伝えた残留者だ」

「肉体を与えたのか?」

視線を向けるなり意外そうに呟いたアズライルに、ナキールは頷く。

「かりそめの物だが。もっとも、自分が作れる精一杯だがね」

「いや、大した物だ。私やムンカルでは真似できない」

アズライルは左手を顔の前に上げ、意識を集中するように目を細める。

左手の周りに、一瞬だけ黒いもやのような物が漂ったが、握った拳の中に吸い込まれるようにして消え去った。

ゆっくりと開かれた手の中には、黒い半透明の大きな弾丸。

それを口に咥えたアズライルは、右手で腰の後ろから大型拳銃を引き抜き、マガジンを取り出す。

黒く透き通る弾丸を装填し、スライドを後退させて発射準備を整えたアズライルは、ナキールに視線を向けた。

「準備はできた。いつでも良い」

頷いたナキールは踵を返し、キョウコの元へ向かう。

暗くなり始めた空の下、鮮やかさを失いつつある海を眺めていたキョウコは、歩み寄る狼男に視線を向けた。

「案内役が到着した。そろそろ旅立ちの時だが…、良いかね?」



キョウコは陽光の残滓が残る空と海をもう一度見遣り、それからナキールに視線を戻した。

「そうか…」

大きく頷いたキョウコに、顎を引くようにして微かに頷き返すナキール。

「あ、あの…」

おずおずと口を開いた少女に、狼男は「何だね?」と先を促す。

「アタシみたいのでも、一応、彼氏居たんだぁ…。でね?できればそのぉ、アタシの事は忘れて、元気にやってってね、みた

いな事…、伝えたいんだけどぉ…」

太った体をモジモジと縮め、上目遣いで窺うように言ったキョウコに、ナキールは「約束しよう」と頷く。

一年も放置されていたこの少女への保障としては、つかのまの生の延長と、遺された者への意識下への伝言程度は安い物。

独断で約束しても咎められはしないだろうと、ナキールは考える。

「えへへぇ…!あんがとぉっ!いいひとだね?ナキールさんは」

笑みを浮べたキョウコは、狼男にペコッと頭を下げた。

「すっごく、楽しかった!ほんのちょっとの時間だったかもだけど、アタシ、ナキールさんと会えて良かったよぉ?」

のんびりとした口調でそう礼を言った少女に頷き、ナキールはアズライルへ視線を向けた。

頷いた黒豹は大型拳銃を地面に向けると、黒い弾丸をアスファルトに打ち込む。

弾丸が弾痕も残さずに消えたポイントを中心に、アスファルトの上に波紋が広がる。

直後、アスファルトの上に白い円がポツンと現れ、瞬く間に拡大して直径3メートル程の大きな円になる。

輝く白い円に見とれていたキョウコは、そこから眩い光が天へと立ち昇ると、それを追って空を仰いだ。

夜の濃紺に染まり始めた空へと吹き上がる光は、まるで小学校の時の遠足で見た間欠泉のように、キョウコの目に映った。

「ゲートの安定を確認。立会人は私、アズライル。遊佐恭子の越門を許可する」

厳かに宣言したアズライルは、キョウコを見遣り、次いでナキールを見る。

光の間欠泉にぼうっと見とれていたキョウコは、ナキールが歩み寄ると、ハッとしたように首を巡らせた。

「えっとぉ…、あんがとぉね?ナキールさん。それと、そっちの黒猫のひとも」

「猫ではないっ!私は豹だっ!」

「うぇ!?ご、ごめんなさい豹のひとぉっ!」

牙を剥いて即座に切り返したアズライルに、キョウコは慌てて詫びる。そして顔を上げると、少し目を大きくし、狼男の顔

を見つめた。

ほんの少しだけ口元を緩め、優しげな微笑を浮べているナキールの顔を。

ぼぅっとその顔を見ながら、キョウコはほんのりと頬を染めながら思う。

この狼は、こんなにも優しげに笑えるのだなぁと。

「わんこ顔ってのも、意外とハンサムなんですね…」

「うん?」

「あ!いえ、こっちの話!えへへぇ…!」

ポツリと口にしてしまった正直な観想を笑って誤魔化したキョウコに、ナキールは頷くようにして会釈した。

「では…、良き旅を」

「あ。は、はい…!」

慌ててガバッとお辞儀をしたキョウコは、最後にナキールに微笑みかけると、踵を返して白い光に向かい、その足を踏み出

した。

光の柱の中へと進んだキョウコの体は、吹き上がる光に触れた途端にかりそめの肉体を失い、青い光の粒子の集合体へと戻る。

そして、白い光と混じりあい、輪郭を不確かにしてゆき、やがて…。



「彼女に付き合ってやったのか?」

「お詫びの意味で、だがね。ジブリールならばそうするのではないかと考えて」

光の柱が消失し、真っ暗になった駐車場で、並んで立つアズライルとナキールはそう言葉を交わした。

「あの位置…、昨日私が通った道から3キロと離れていない。うかつだったな…」

「仕方がないさ。彼女の魂は乱れが無く、穏やかだった。あれではそうそう気付けない」

応じたナキールを横目で見遣ったアズライルは、訝っているように目を細め、表情のない同僚の横顔を窺う。

「…だが、貴方は気付いた。それも、配達エリアから大きく外れた所に居た彼女の存在に」

「自分は、通常の配達人とはいささか仕様が異なるからな…」

「ん?」

聞き返したアズライルに、ナキールは「いや、こちらの話だよ」と、小さく首を横に振って応じる。

「さて、引き上げようか」

「…ああ」

釈然としない様子で頷いたアズライルを促し、ナキールは駐輪場のバイクへと向かった。

「そうだ。自分は彼女と映画を見たのだが、今度ジブリールを誘って一緒に観てみると良いかもしれない」

「何故だ?」

歩きながら急に話題を変えた同僚を、アズライルは訝しげに首を捻りつつ見遣る。

問われたナキールは一瞬考え、それから同僚をちらりと見た。

「アズライルは、ホラー映画は好きかね?」

「どうだろうか?怖いと思えた試しはないので、ホラー映画を本当の意味では楽しめていないかもしれない」

「怖くないかね?では効果は全く期待できないな…」

呟いたナキールは今更ながら気付く。アズライルを通常の女性と同じラインに置いても駄目だという事に。

「何故効果が無いのだ?」

「君が豪胆過ぎるからだ」

「???どういう意味だ?」

同僚のその問いには答えぬままバイクに跨り、光の柱が建っていた位置に目を向ける狼男。

「…良き旅を、キョウコ君…」

小さく呟いたナキールの脳裏に、先ほどキョウコが光と共に消える寸前に見えた、一瞬の幻像が甦る。

白と黒の被毛に彩られた、むっくりしたフォルム。

彼らが管理するこの世界とは違うどこかで、新たな旅路を歩むキョウコの姿が。