インターミッション3 「ミカールとナキール」

巨大な総合病院の一角。

小さな子供から初老の女性まで、多くの人々が集った広い個室で、老人は死を迎えようとしていた。

身一つから会社を立ち上げ、一代で大企業に成長させたこの老人、瀬川伝二郎(せがわでんじろう)は、著名な資産家とし

ての顔もさることながら、一部では強引なやり口と黒い噂が絶えない事でも知られている。

病魔に蝕まれて死の床につきながら、デンジロウは微かな笑みを浮かべている。

企業を大きくするために色々とあくどい事もして来た。

使えない部下や、役に立たなくなった共同経営者は、容赦なく切り捨てた。

目障りになったので社会的に追い詰め、首を吊らせた邪魔者も居る。

「地獄に落ちろ」

「いずれ報いを受けるぞ」

そんな罵声や負け犬の遠吠えを聞かされた事は、それこそ数え切れない程ある。

(だが見ろ…。儂はこうして穏やかな最期を迎えようとしている…。報い?ふん…!病が報いだとしてそれがどうした?もう

82…、儂は十分に生き、楽しんだ。儂は勝者だ)

笑みを浮かべる老人の顔を、親類達は静かに囁き交わしながら見下ろしている。

人々の目には、老人が苦しんでいない事への安堵と、別れを惜しむ寂しげな光が宿っていた。

満ち足りた気分で最期を迎えようとしていた老人は、ふと、居並ぶ親類達の中に見知らぬ二人が混じっている事に気付く。

その二人は、皆が皆高価そうな、この場に相応しい衣類を纏っている中で、明らかに浮いていた。

一人は背が低く太っており、極端にずんぐりとした体付き。

いま一人はスラリと細身で、やや背が高い。

背格好が対照的な二人は、この場にそぐわない黒革のつなぎに身を包んでいる。

老人が最もおかしいと感じている事は、見覚えが無い者がこの病室内に居る事でも、ライダースーツを着込んでいる事でも

ない。

その二人の顔が、人間の物では無いという事であった。

背の低い太った男は、毛色がレモンイエローで、丸顔の獅子。

やや背の高い細身の男は、青みがかった灰色の被毛を持つ狼。

体付きは人の物でありながら、獣の頭部を持つ奇妙な二人を、老人は笑みを消して見つめた。

じっと老人を見つめていたレモンイエローの獅子は、傍らの狼の顔を見上げて口を開く。

「解るかナキール?ワシらを認識しとんのが」

獅子に話しかけられた狼は、老人を見つめたまま頷いた。

「まだ生きとっても、もうじき旅が終わるモンは、こうしてワシらの被認迷彩を見破りよる。例外的に、終点が近付いとらん

状態でも看破しよるモンもおるけどな。終点間際のこの現象は素養うんぬんに関係なく共通や」

「理解した。死者でなくとも、旅の終わり際からは被認迷彩起動中の我々を観る事ができるようになる。例外は素養を持つ一

部の認識者や、幼い子供。また、他者の死記に触れた者が一時的に看破能力を獲得する事もある。合っているかね?」

「上出来や。例外についてはまぁ、生きとっても死を受け入れとる変わりモンとか複雑なモンもおるしな、そっちは帰ってか

らじっくり説明したろ」

奇妙な事に、良く解らないやり取りをしている二人の会話に、周囲の者は一切反応を見せない。

「…にしても、ムンカルのダァホとちごうて、覚えが良くて助かるわホンマ。さすがはイスラフィルやな。現場知り尽くしと

る事もあって、えぇ候補を挙げてくれたわ」

「彼は物事を覚えるのが苦手なのかね?」

「苦手以前の問題やな。よう解らんトコも勝手に曲解したり、思い込みで勘違いして覚えてまうんや」

二人の奇妙なやりとりが続く中、デンジロウは大きく目を見開く。

(…何だ…?何だこいつらは…!?)

老人の異常を察し、ベッドに寄り添っていた初老の男が顔を下げ、窺うようにデンジロウの目を覗き込んだ。

「お義父さん?痛むんですか?」

片腕として働き、後継者となった婿の問いにも、デンジロウは答えられない。

(まさか…、まさかこれが?こいつらが?「お迎え」というヤツなのか!?)

「よう見ときやナキール。魂の剥離が始まっとる。もうじき「抜ける」で」

獅子がそう言った途端、デンジロウの視界に帳が下りた。

瞼が落ちた事で最初に視覚が、次に薬のせいで鈍麻していた触覚が消失し、病室の匂いで麻痺していた嗅覚と、自覚は無い

が味覚も消失する。

それなのに、どういう訳かいつまでも聴覚だけが比較的感度を保ったまま残った。

投与された薬物の効果か、苦しさはない。

ただ、浮遊感と喪失感があり、心細くなる。

魂が離れかけた肉体が鼓膜で音を拾い、自分の名を呼ぶ親族の声を脳に届ける。

啜り泣き混じりの親族達の声が次第に遠のき、やがてデンジロウの意識は途絶えた。



デンジロウの意識が戻ったのは、それからしばし後の事であった。

患者衣を纏った姿のままで広い場所に立っているデンジロウは、干されたシーツが周囲ではためくそこが病院の屋上である

事を、周囲を見回して理解する。

日没が近付き、屋上へはやや低い位置に移動した太陽が、斜めに光を投げかけている。

「…でまぁ、容れモンを離れた魂は、こうして最寄りのゲートまで移動して具現化するんや。で、開いた時を見計らって勝手

に潜るから、ワシらは特に何もせぇへん。普通はな」

声を聞いたデンジロウが首を巡らせると、屋上の白いフェンスに寄り掛かる獅子と、その傍らに立って自分を見ている狼…、

先程の二人の姿が目に入った。

「が、ゲートを潜れへんモンもたまにおる。ゲートの位置が判らんかったり、死記が不完全やったり、魂が摩耗しとったり…、

理由は色々や。最近多いのは、コイツのようなケースやな」

獅子は立ち尽くすデンジロウに視線を向けると、首まで上げていたスーツのジッパーを引き下ろし、懐に手を突っ込んだ。

ゆっくりと引き抜かれたむっちりと肉付きが良い手には、細い筒のようなバレルが前に突き出た、細身の銃が握られている。

「死記の内容によっては、そのまま次の旅に出れんモンもおる。旅の最中に報いが不十分やった魂は、次の旅の前に清算せな

あかんのや」

言葉を続ける獅子の指が、拳銃の上部にある摘みを両側から挟み、クイッと引いた。

上部パーツがスライドしつつ二つに折れて、山型を形作る。独特の機構によるトグルアクションで、ルガーP08は細いマガ

ジンから弾丸を咥え込んだ。

「清算が必要な魂は「冥牢」に入れなあかん。そこでこびりついたモンをすっかり落とし切るまで、次の旅には出…」

獅子は思い出したように言葉を切ると、狼に苦笑いを向ける。

「あぁ済まんな。そっちの方はお前の専門やった。まぁ、魂がどうなって冥牢に行っとったのか見た事は無いやろ?本来は死

記の配達人の仕事やから、お前が担当するモンやないけど、一応どんなモンか覚えとき」

「了解した」

狼が短く応じて頷き、獅子は視線をデンジロウに戻す。

「さて、もう理解しとると思うけどな、お前はこのままじゃゲートを潜れへん。冥牢できっちりお務めせぇや」

宣告と同時にルガーが咆吼し、放たれた弾丸はデンジロウの胸に吸い込まれた。

直後、デンジロウの足下、床から染み出すようにして、黒いドロリとした物が出現する。

滲み出た黒いコールタールのような物は、怯えて周囲を見回すデンジロウを中心にして、周囲の床に広がると、彼を取り囲

んで盛り上がり、何人もの人影となった。

黒い沼地のような有様になった病院の屋上で、デンジロウは恐怖に顔を引き攣らせる。

盛り上がった黒い液体が形作ったのは、いずれも見覚えのある顔ばかりであった。

裏での犯罪行為が明るみに出ようとした際、自分の身代わりとしてマスコミに差し出し、一家離散に追いやった下請け会社

の社長家族が居た。

邪魔になったので雇った文屋を使い、社会的に追い詰めてやると、程なく首を吊った新規参入企業の社長が居た。

繋がりのある暴力団に依頼して始末して貰った、自分の犯罪行為を暴こうとしていた若手記者が居た。

そして、親が遺した少ない遺産の相続の事で揉めて、自ら絞殺して山中に埋めた兄が居た。

無表情に詰めより、デンジロウに手を伸ばす彼らは、まるで真っ黒なマネキンのようにも見える。

恐怖に駆られて絶叫しながら、滅茶苦茶に暴れて手を振りほどこうとしたデンジロウだったが、ノロノロと、しかし怯まず

に掴みかかる黒いマネキン達に、やがて完全に抑え込まれてしまう。

捕らえられたデンジロウの足が、ズブリと、黒い沼に沈み込んだ。

黒いマネキン達によって引きずり込まれるようにして、デンジロウの魂は恐怖の叫びを上げながら、屋上の床に沈んで行く。

周囲に広がっていた黒い沼も、デンジロウが沈むのに合わせて中心へと収束して行き、やがて、黒い手で押さえつけられた

彼の頭部が完全に沈み込んで程なく、排水口に吸い込まれる水のように引き、痕跡を残さず消失した。

すっかり元通りになった病院の屋上で、一部始終を見届けた狼は、傍らの獅子に訊ねた。

「今の黒い物は何だったのだろうか?」

「重ねた咎への悔恨や」

白い空薬莢を握り込みながら応じた獅子の手の隙間から、ボシュッと煙が漏れる。

直後に開かれたその手には、何も書かれていない葉書が乗っていた。

「あの弾丸で実体化した本人の罪の意識が、冥牢へ連れてってくれるんや」

「罪の意識を感じていない者はどうなるのかね?」

問う狼に、獅子は肩を竦めて見せた。

「冥牢にも行けへん。その場で魂が霧散してまう。…つまり、今のヤツはまだマシって事やな」

「聞いておきたいのだが、どのような罪をどの程度重ねれば、ゲートを潜れなくなるのかね?」

「千差万別やな。二十人死なせても潜れる場合もあれば、一人も殺めへんでも潜れん場合もある。結果的にした事やのうて、

どんなつもりでそれをしたかっちゅう事も重要になって来るんや。仮に、命を救おうとした医者が結果的に患者を死なせてし

もうた場合と、殺すつもりで相手を刺して怪我さすだけに留まった場合とやったら、扱いはまるっきりちゃう。もっと言うな

ら、生き死に、殺す殺されるは二の次や。そいつがどないな心根でそれをやったか、そこが重視されとる。あとは生きとる内

にどれだけ清算できたかやな。…まぁ、これもちっと複雑やから、おいおいじっくり教えたるわ」

「承知した」

頷いた狼に、獅子はまた苦笑を浮かべて見せた。

「しかし堅いやっちゃなぁお前?態度デカくて礼儀知らずなムンカルとはエラい違いや。もちっと砕けた話し方でええんやで?」

考え込むように少し眼を細めた狼は、

「了解した。これからは振る舞いについても考慮してみよう」

と、やはりやや堅い返答を口にした。



日が落ち、賑やかな街中に横たわる堀の両脇で、ポツポツと立つ街灯に光が灯る。

その街灯の一本の脇には、無骨な大型バイクが停められていた。

バイクの脇に立ったナキールは、物珍しげに周囲を見回し、灰色の瞳に賑やかな往来の景色を映す。

日が落ちてなお賑やかで、ネオンに彩られて活気溢れる街と人々。

狼の顔には表情こそ浮かんではいないものの、その目には興味の光が湛えられている。

やがてナキールは首を巡らせ、堀向こうを見遣った。

灰色の瞳が映すのは、建物の一面を占拠している、奇妙な形の巨大な電光看板。

その建物の通りに面した側いっぱいを利用している真新しい看板は、弾丸を立てて横から見たような形状で、両手を上げて

いるランナーが描かれた特徴的なデザインである。

下側は舞台のような造りになっているが、ナキールにはそれが何の為の物なのか判らない。

降り注ぐネオンの光が、青みを帯びた灰色の毛の色を刻々と変えてゆく。

賑やかで、雑然としていて、眩い。

周囲に馴染みのない物ばかりが溢れる奇妙な世界。

「これが…地上…」

ぽつりと呟いた狼は、聞くと見るとでは大違いだと、改めて感じた。

自分を配達人候補として推薦した雌牛から、彼女が前に仕事をしていた場所の話は時折聞いていた。

始めて耳にする物事や現象ばかりで、聞けば聞くほどそこの事はよく判らなくなった。

だが、まさかそこへ自分が来る事になるとは、当時は思いもしなかった。

しばし巨大な電光看板を見つめていたナキールは、おもむろに手を両側に上げ、一本足で立ってみる。

「何しとんねんナキール?」

訝るような調子の声を耳にし、その姿勢のまま首だけ巡らせて後ろを見遣れば、今日から同僚となった獅子の姿があった。

ミカールという名を与えられているその獅子は、紙製と思われる平たい箱を六つほど重ねて、両手で胸の前に持っている。

「あの看板を真似てみた。あの看板を客観的に観察し、その表情が「楽しげ」という物のように思われたので、真似をしてみ

れば「楽しい」という精神状態になるのかもしれないと思ったのだが、残念ながら自分には良く判らない」

「…さよか。まぁ、焦らんでえぇ、楽しいもムカつくもしんどいも、その内判って来るやろ」

両手と片足を下ろしたナキールは、ミカールが持っている箱から漏れ出る匂いを嗅ぎ取り、首を傾げた。

鋭い嗅覚により、先程から呼吸している空気に同じ匂いが微かに混じり込んでいる事には気付いている。

ミカールが持ち帰ったそれが、どうやら食料らしいと察しを付けると、不思議そうに眉根を寄せた。

「食事ならば、六時間二十七分前に摂り終えているが?」

「肉の体はな、地上での長期活動が可能やけど、維持する為にしょっちゅう物を食わなあかんねや。まだ慣れてへんやろが、

空腹って感覚には気ぃ配っとき。こっちでの力の行使は、この「肉体」の機能維持につこうとるエネルギーを流用する事にな

る。いざという時に使えへんとマズいから、「肉体」の訴えには常に気ぃつけとく事や」

可笑しそうに笑みを浮かべて説明したミカールは、愛車に歩み寄ってシートに箱を置くと、その内の一つをナキールに差し

出した。

箱を開けてみると、中には球状の物体がコロコロと並んで収まっている。

匂いの元を確認したナキールは、不思議そうに首を傾げた。

「これは一体…?妙な香りの液体に…、上のこれは…木くずだろうか?熱を持っているようだが…」

「木くずやないで?鰹節や。そう警戒せんと食うてみぃ、美味いもんやで?」

ナキールの反応を面白がっているようにカラカラと笑うと、ミカールは別の箱を一つ取り、楊枝で刺して口に放り込む。

ハフハフ言いながらボール状の物体を咀嚼しているミカールを見遣ると、ナキールも楊枝で一つ刺し、顔の前に持ち上げる。

フンフンと鼻を鳴らして匂いを嗅いだ後、狼はそれを口に入れた。

熱そうなそぶりも見せずにしばしムグムグと、入念過ぎる程に噛んでから飲み込んだ狼に、ミカールは興味深そうな視線を

向ける。

「どや?」

「美味い。…のだと思う。中に何か…、独特の歯応えの物が混じりこんでいたが…」

「タコやタコ。だからタコ焼き言うんや」

「この国では、デビルフィッシュも食すのか」

表情こそ変えないもののどうやら気に入ったらしく、タコ焼きを次々と口へ入れてゆく狼を、ずんぐりした獅子は口元に笑

みを浮かべながら見つめている。

「そや、帰ったらリスト見せたるから、乗りたいバイク選んどきぃ。何せ、配達人にとってバイクはかかせん相棒やさかい」

ミカールはタコ焼きを口に放り込む合間にそんな事を話し、ちらりと自分のバイクに目を遣った。

それは、海の向こうで生まれたバイクを源流とする、この国で作られたバイクである。

「ワシの陸王はムンカルにお下がりする約束しとるから、お前にはやれへんしな。決まって届くまでは予備のに乗っとき。イ

スラフィルが乗っとったヤツつこうてもかまへんし」

「彼女のバイクを?」

問い返したナキールに、ミカールは胸を張って応じた。

「ええバイクやで?心配要らん、アイツがおらんようになってもワシがきっちり整備しとったから、いつでも乗れるようになっ

とるで」

少し自慢げに言った獅子は、思い出したように目を大きくし、それから顎に手を当ててブツブツ呟き始めた。

「せやな…、物覚ええぇし、整備の仕方も教えとこか。ワシ一人しかでけへんと、いざっちゅう時困るしなぁ」

名案だとばかりにウンウン頷くと、ミカールは懐に手を突っ込み、懐中時計を取り出して時刻を確認する。

「ジブリールとムンカルも、もうしばらくすれば帰るやろ。土産もこうた事やし、そろそろ戻って飯の支度しよか…」

シートの上に残ったタコ焼き四箱をナキールに持たせると、ミカールはバイクに跨った。

「乗りぃ、そろそろ帰るで?お前が担当する報いの配達は、改めて明日レクチャーしたろな」

促され、本来のシートと換装して作られた、いまひとつ座り心地の良く無い扁平な簡易タンデムシートの後部に跨ったナキ

ールは、重ねたタコ焼きの箱を左腕で小脇に抱え、右腕をミカールの腰に回す。

狼の手がムッチリした腹の下に回り、つなぎの腰を締めるベルトをしっかりと掴むと、獅子はバイクのエンジンに火を入れた。

二人を乗せたバイクは、未だに人通りの多い堀沿いの歩道から車道に出て、急ぐでもなくゆったりとした速度で走り出した。

(彼女が言っていたとおり、悪くない職場かもしれない…)

ミカールが駆るバイクの後ろに跨りながら、ナキールは胸の内で呟く。

新鮮な世界で過ごす一日目は、もうじき終わろうとしていた。