インターミッション5 「ジブリールとナキール」

物音一つしない静かな部屋の中央に立ち、彼は薄く目を開ける。

青灰色の瞳に映り込んだ最初の色は、白であった。

部屋の四方の壁や床、そして天井は、ぼんやりと柔らかく発光する白い材質でできており、継ぎ目が見えない。

一辺15メートル程の、耳が痛くなるほど静かな正方形のその部屋には、彼以外にもう一人、佇んでいる者があった。

(…このお方が…)

青灰色の瞳に相手の姿を映し、胸の内で呟いた彼は、自分の3メートル程前に立つその男に会釈した。

「やぁ。はじめまして」

にこやかな笑みを浮かべて彼に会釈を返したのは、北極熊の頭部を持つ大男。

「はじめまして」

挨拶を返した彼は、改めて相手の姿を眺める。

高さもさる事ながら、横幅も厚みも半端ではないせいで、とんでもなくボリュームのある巨漢であった。

見上げるような巨体、でっぷり肥えた貫禄のある体格、大きい割に不思議なほど威圧感が無い。

晴れ渡った青空にプカプカ浮かび、のんびりと漂っている雲のような、柔らかな雰囲気を持っている。

真珠色の被毛に覆われた熊は、襟元を大きく開けた白いワイシャツに袖を通し、クリーム色のネクタイを緩く締め、白いス

ラックスをサスペンダーで吊っている。

履いている革靴は柔らかなライトブラウンで、コーディネートは柔らかな色で纏められていた。

特筆すべきは、身に付けている衣類の全てが冗談のようなサイズである事。

スラックスをサスペンダーで吊っているのは、腹回りがありすぎてベルトが締められないのか、それともサスペンダーが楽

なのか、恐らくその両方なのだろうと、彼は察しを付ける。

短い観察を終えて北極熊から視線を外した彼は、開いた手を胸の前に上げつつ視線を下に向け、自らの姿を確認した。

光沢のある黒い革のつなぎに、ごつい黒のブーツ。見慣れない、そして初めて身に付けるライダースーツに身を包んだ彼は、

狼の頭部を備えている。

身を覆うのは金属的な光沢を持つ灰色の被毛。

光の当たり具合によっては青みがかって見えるその毛は、フサフサとしており密度が高い。

手を握り、開き、動きの具合を確かめた彼は、次いで首を巡らせた。

つなぎの尻にあけられた穴から外に出ている、豊かな被毛で太くなっている尻尾を見遣り、左右に振って動作を確認すると、

狼男は北極熊に向き直る。

「地上に来るのも受肉も初経験だと聞いているけれど、調子はどうかな?」

「動作にやや違和感がありますが、問題ありません。肉の体特有のラグと思われます」

それを聞いた北極熊は微苦笑を浮かべ、太い指で頬をぽりぽりと掻く。

「あぁ〜…。その肉体のスペックはかなり高くしてあるんだけれど、初めてだとやっぱり気になるかもねぇ…。それは慣れる

までは仕方がないから、少し我慢して貰わなくちゃいけない」

「了解しました」

頷いた狼男に歩み寄り、北極熊は笑みを絶やさぬまま右手を差し出した。

「オレはジブリール。これからよろしく。新しい名前を貰ったと聞いているけれど…」

「ナキール。イスラフィルから頂いた名です」

分厚く大きい、そして柔らかな手を握り返し、狼男は貰ったばかりの名を告げた。



ジブリールに連れられて部屋を出たナキールは、通路を歩きながらしきりに首を巡らせ、周囲の様子を眺めていた。

先程の部屋と同じく、うっすらと発光する白い材質で構成された通路は、ゆるやかな左カーブを描いている。

天井はアーチ状になっており、北極熊の身長の三倍はありそうな程に高い。

通路の幅は10メートル程もあり、長いだけでなく広く、200メートル近く先までが見渡せるが、並んで歩む二人以外に

人影は無かった。

窓やドアなども一切見えず、ただ延々と代わり映えのしない眺めが続く通路を歩みながら、ジブリールは横を歩む狼男に話

しかけた。

「これからの事だけれど、転送機を使ってオレ達の移動ベースへ向かう事になる。…まぁ、ベースって言っても水陸両用飛行

艇なんだけれどね…。空間を弄って居住スペースを取っているから快適に過ごせると思うよ。実はもうキミの部屋も用意して

あるんだ。まだ空っぽだけれどね」

頷いたナキールを横目でちらりと見遣り、ジブリールは先を続ける。

「メンバーはオレの他に二人。キミを含めて四人になる。どちらも付き合い易い相手だと思うよ。まぁ、地上での活動は初め

てだし、仕事も生活も慣れるまでちょっと大変かもしれないけれど…」

「ご期待に添えるよう、努力します」

前を向いたまま応じたナキールは、前方、3メートル程先の壁に亀裂が走ったのを目にし、足を止めた。

それまで継ぎ目の見当たらなかった壁が動き、スライド式のドアになっている。

ナキールと同じく足を止めていたジブリールは、ドアから出てきた大柄な男を水色の瞳に映し、微笑した。

「やあ。久し振り」

ダブルのスーツの上にトレンチコートを羽織ったその巨漢は、首を巡らせてジブリールの姿を認めると、顎を引いて頷くよ

うな会釈をする。

ジブリールと同程度も身の丈がある灰色熊は、しかし北極熊とは違い、皮下脂肪の代わりに分厚い筋肉を大量に搭載した、

岩塊を思わせる巨漢であった。

「ご苦労様です。今日は会えるかもしれないと思っていましたよ」

開いた口から漏れたのは、低く、よく通る声。

厳つい外見にもかかわらず、灰色熊の声音は深みがあって優しげで、口調は丁寧であった。

「あぁ、迎えに来る事、知っていたんだね?」

「ええ、職務上」

ジブリールに応じた灰色熊は、数歩進んで二人と向き合うと、ナキールへと顔を向けた。

「受肉は滞りなく済んだようですね。活躍を祈ります、ナキール君」

「全力を尽くします」

かたい返事を返した狼男に微笑を見せると、灰色熊はジブリールの瞳に視線を戻す。

「現在、転送機は混雑しています。しばらく待つ事になると思いますよ?」

「え?」

首を捻った北極熊が目で問うと、灰色熊は事情を説明し始めた。

「八十二分ほど前にシステムエラーが発生してしまい、先程復旧したばかりなのですよ。…かく言うわたくしも順番待ちでし

て…」

「おやおや…。ところで、これから何処へ?」

「トランシルバニア方面まで」

「大変だねぇ管理人は」

「他人事のように言ってくれますね…。わたくしの席には本来キミが座るべきであるという事を、くれぐれもお忘れ無く」

居心地悪そうな苦笑いを浮かべたジブリールに、灰色熊は続けた。

「「捜し物」は、まだ見つかりませんか?」

ジブリールは笑みを消すと、目を伏せながら頷く。

「諦める事もできませんか?」

「…それは、いくら経っても無理だろうね…」

さらに重ねた問いにジブリールが顔を伏せ気味にしながら応じると、灰色熊は「ふむ…」と顎を引く。

「…まだ順番は廻らないでしょうから、カフェでお茶でもどうですか?ミカールの趣味ほど良い物は揃っていませんが、ホッ

トケーキは美味しいですよ」

少し表情を和らげたジブリールは、横に立つナキールに頷きかけると、歩き出した灰色熊の後ろに従った。



フニャフニャになるほど蜂蜜を吸わせたホットケーキをフォークで刺し、幸せそうな顔で口元に運ぶジブリールの横で、

「……………」

ナキールはホットケーキに乗せられたバターが溶けてゆく様子を、まじまじと見つめていた。

「それは「食べ物」です。そう警戒しなくとも大丈夫ですよ」

紅茶を啜りながら灰色熊が説明すると、頷いた狼男はホットケーキにかぶりついているジブリールの様子を窺い、真似るよ

うにしてホットケーキを切り始める。

三人は多数の客でごった返している広大なホールの中央付近で、丸テーブルを囲んで椅子にかけている。

それぞれの前にはホットケーキが乗った皿と、金の縁取りが美しい白のティーカップ。

テーブル中央には追加用のバターが盛られた小皿と、ティーカップとソーサー、それらと同じデザインのティーポットが置

いてあり、ミルクティーの甘い香りが薄く漂っていた。

直径は100メートルを下らず、天井まで20メートルはあろうかという巨大な円形のホールには、無数の丸テーブルがセッ

トされている。

それらについている者達は、人間とは異なる姿…、皆が人身獣頭、半人半獣の姿であった。

立派な角を生やし、ブレザーに身を包んだエメラルドグリーンのガゼルに、灰色のスーツをビシッと着こなした白黒のチー

ター。

中には桃色の豚や紺色の猪など、ナキールと同じデザインの黒いライダースーツを着込んでいる者の姿もある。

「肉の身体は「剥き身」の状態とは比較できない程、地上での長時間活動を可能にしてくれます。が、地上の動物達のように

食事や睡眠が必要になってしまうのです」

「地上に適応できる代償として、少なからず地上の理に縛られる部分が出て来るんだ。こればかりはどうしようもないらしく

てね、打開策は見つかっていない。…まぁ、最初は面倒に感じるかもしれないけれど、食事は楽しい物だよ。すぐに好きにな

れるさ」

「また、肉の身体には力の過度な行使による自壊対策の為にリミッターが備わっています。通常時は行使できる力に制限がか

かりますが、一時的であれば解除も可能です。方法についてはジブリールに教えて貰うとよいでしょう」

灰色熊と北極熊の説明に頷き、ナキールはホットケーキを再び口元に運ぶ。

「…そう、ムンカル君はどうしていますか?」

思い出したように話題を変えた灰色熊に、頬張っていたホットケーキを飲み下したジブリールが応じる。

「元気に頑張っているよ。はははっ!教官が優秀で厳しいからね、じきに良い配達人になるはずさ」

快活に笑ったジブリールに、灰色熊は微苦笑を返す。

「ミカールはスパルタですからね…」

「けれど、音を上げずに食らい付いているよ。彼は頑張り屋さんだ」

しばし黙ってホットケーキを咀嚼していたナキールは、何か聞きたそうにジブリールへ視線を向ける。

「ああ。ムンカルというのはウチのメンバー。新人だから名前は聞いた事が無いよね?キミの同僚になるから、仲良くしてあ

げて欲しい」

「了解しました」

ジブリールの説明を受け、狼男はあらかじめ記憶に刻んでいたその名前を反芻する。彼の事を事前に教わっていた事はジブ

リールにも言えない、本当の出向理由に関わる機密である。

「あらジブリールさんっ!珍しいですねぇ此処で会うなんて。室長がお呼びしたんですか?」

空になったトレイを手にして通りかかった桃色の豚が、ジブリールに気付いて足を止め、笑みを浮かべて口を開いた。

「いや、ジブリールは別件で来ていたのですよ」

灰色熊がそう応じるピンクの豚は、背は低いが丸々とした体型で、纏ったライダースーツの胸が大きく膨らんでいる。

ナキールは桃色の豚がどうやら女性であるらしい事と、ジブリールの知った相手であるらしい事を悟る。

「やあバザール。お久しぶり、何年ぶりかなぁ?」

「七年ぶりですよぉ」

「…もうそんなになるんだ…?去年から独立配達人になったんだったね。一人じゃ何かと大変じゃない?」

「慣れましたよぉ。それに一人も結構良い物ですよ、気楽で。…あらいけない!そろそろ行かないとぉ…。それじゃあ、いず

れまた…」

ピンク色の豚はしばしジブリールと言葉を交わした後、ペコっとお辞儀してから立ち去る。

「彼女も配達人なのですか?」

「うん。名前はバザール。独立配達人…、つまりチームを組んでいるオレ達とは違って、単独で専門の届け物をして歩く配達

人さ。…まぁ、配達体制と合わせて、フネに着いたら詳しく説明しようか」

ナキールの問いにジブリールが応じると、灰色熊はカップの紅茶を飲み干し、静かにソーサーへ戻した。

「さて…、わたくしの方はそろそろ順番が廻って来る頃ですので、お先に失礼します」

席を立った灰色熊に頷き、微笑みかけるジブリール。

「会えて嬉しかったよ。手が空いたらたまにはフネにおいで。ミカールもムンカルも喜ぶ」

「ええ、機会があれば、またその内に伺います。では、ナキール君もお元気で…」

頷いたジブリールと軽く頭を下げたナキールに会釈をすると、灰色熊は重量のある体躯をきびきびと動かし、人混みに紛れ

て去って行った。



ゆるやかに流れる川面に、飛行艇は後部ハッチを開けたまま浮かんでいた。

格納庫から外を眺め、ナキールは思案しながら目を細める。

水蒸気の塊が浮かぶ青色の空に、動かぬ緑色の命に覆われた山々。

青く透き通る水が流れる川と、そこに息づく無数の生命。

土手と呼ぶらしい人工的な盛り土の上には道が横たわり、輪が二つ前後に並ぶ、棒が組み合わされた器具に跨る成長途中の

人間数名の姿が見える。

彼らが手にした棒の先は輪っかになっており、目の細かい網が風に揺れている。

何と物と色の多い世界なのだろう?ナキールはそんな事を考えていた。

必要な知識はダウンロードされているが、地上の景色を目にするのは初めてである。

「お待たせ」

背後から響いた声に、ハッチ付近に立っていたナキールが振り返る。

北極熊は木箱を二つ重ねて胸の前に持ち、格納庫横側に並ぶドアの一つから半身を覗かせていた。

互いに歩み寄り、格納庫の中央付近で向き合うと、ジブリールが上側の木箱の蓋を除け、ナキールが中を覗き込んだ。

木箱の内側、くりぬいたスポンジにピッタリと収まっていたのは、ローズウッドのグリップが美しいリボルバータイプの拳

銃。シングルアクションアーミーであった。

「下の箱も中身は同じ。ただし、左手で扱えるようにカスタムされた銃だけれどね。これらが、イスラフィルがここに居た頃

に使っていた銃だよ。形は古いけれど手入れはしっかりしてあるから、まだまだ現役で活躍できる」

頷いたナキールに、ジブリールは眉根を寄せて尋ねる。

「…けれど、本当にこの銃で良いのかい?カタログで選んで貰って、新しい品を取り寄せるつもりでいたんだけれど…」

「彼女がくれると言っていましたので、有り難く使わせて頂きます」

ナキールは箱を受け取ると、大事そうに両手でしっかりと胸に抱く。

「もしも自分に合わないと思ったら、遠慮しないで言って欲しい。すぐに代わりの銃を取り寄せるから」

「はい」

頷いた狼男の前で横に一歩足を踏み出した北極熊は、格納庫の両脇にずらりと並ぶドアを眺め回しつつ口を開いた。

「それじゃあ部屋に案内するよ。それからフネの中も一通り。これから毎日をここで過ごす事になるからね」



「ここは浴室。部屋にもユニットバスはあるけれど、こっちの方が広くて良いだろう?」

ジブリールの説明を聞きながら、開け放たれたドアから広い浴場を眺め、ナキールが頷いた。

「身を清め、ゆったりとリラックスし、心身ともにリフレッシュする…、正にそう!至高の癒やし空間!」

力説するジブリールの声を背中に聞き、狼男は浴室を隅々まで観察する。

大きな浴槽には湯が張られ、薄く蒸気が立ち込めており、いつでも入浴できるようになっていた。

「浴室。…覚えました」

口を開きながら振り返ったナキールの瞳には、いそいそと衣類を脱いでいる北極熊の姿。

「ジブリールさん。何を?」

「いや、せっかくだからお風呂に入ろうと…。使い方は知っているよね?」

「情報はあります。おそらく問題ないかと」

「なら試しに一緒に入ってみよう。まずは実践だ。その為に最後に案内したんだし」

棚に畳んだスラックスとワイシャツを入れ、次いで特大ボクサーブリーフに手を掛けるジブリールは、ニコニコと笑みを浮

かべている。

「二人が配達を終えて帰って来るまで、まだしばらくかかるだろうしね。背中でも流そう。さ、キミも脱いだ脱いだ」

「了解しました」

外に出た訳でも無いので体はまったく汚れておらず、特に入浴の必要も感じなかったが、拒否する理由も無かったナキール

は素直に頷く。

そして、事前に得ていた情報との一致を認め、ジブリールのすぐ横の棚に歩み寄りながら口を開いた。

「入浴が好きだとは聞いていましたが、情報は正しかったようですね」

ライダースーツのジッパーを引き下ろしながら言う狼男に、脱いだブリーフを洗濯用のボックスへ入れながら尋ねる北極熊。

「イスラフィルに?彼女から何て聞いているんだい?」

「「ジブリールは食う事と風呂がとにかく好きでねぇ…」などと言っていました」

「う〜ん…。正しいなぁ…」

ジブリールは微苦笑を浮かべ、最後まで身につけていた靴下を脱いだ。



ナキールを促して壁面に据え付けられた鏡の前に座らせると、ジブリールはその後ろで床に直接でんと腰を据え、温度を調

節しながら灰色の背にシャワーを当て始める。

「見たところ、刻印は消えたようだね?」

「そのようです」

肩から背中にかけて丁寧に湯で流して貰いながら、ナキールは鏡の中の自分を見つめる。

灰色の被毛に覆われた体には余分な脂肪が殆どついておらず、すらりと引き締まっている。

湯で濡れて毛が寝ている今は、隆起する筋肉のラインがあらわになっていた。

口周りと頬の下部は灰色が薄まっており、白に近くなっている。

顎下から喉、胸や腹、太ももの内側まで繋がったエリアはほぼ純白になっており、きめ細かな毛に変わっていた。

(刻印が無い事を除けば、本来の姿と完全に同じ造形だ…)

今回の赴任に伴い必要になった肉の身体は、ジブリールが構築してくれた物である。

思考と動作のラグはやや気になるものの、それでも想像していた程の不自由は感じない。

おそらくは、かなりの手間を掛けて丁寧に創ってくれたのだろうと察している。

泡だらけになった灰色の背を擦りながら、ジブリールは狼男に尋ねた。

「かゆい所はないかい?」

「ありません」

「遠慮しないで言ってね」

「はい」

そこで一度会話が途切れ、ややあってからジブリールが再び口を開く。

「気持ち良くないかな?」

「…どうなのでしょうか?不快ではない刺激ですが…、これが「気持ち良い」なのでしょうか?」

「う〜ん…、たぶんそうかな?」

簡単に説明したところで判りそうもないので、後で詳しく話をする事にし、ジブリールは話題を変える。

「ところで…、そんなにかしこまった態度を取る必要は無いよ?さん付けだってしなくて良い。オレとキミは対等の同僚なん

だから」

「しかし…」

「イスラフィルともそんな調子で話していたのかい?」

「いいえ。「堅苦しくて落ち着かない」と嫌がられまして…」

思い出すように目を細めながらナキールが応じ、ジブリールは「だろうねぇ…」と苦笑いする。

「彼女と接していたような態度で接して欲しい。お願いできるかな?」

「了解しま…」

一度言葉を切ったナキールは、少し間をあけてから、

「判った。気を付けよう」

と、小さく頷いた。

それからしばし、ジブリールに様々な事を話しかけられ、それに応じていたナキールは、体をすっかり洗い終えると、椅子

に座ったままくるりと向きを変える。

「今度は、自分があなたを洗おう」

「え?」

ジブリールは意表を突かれて目を丸くすると、次いで嬉しそうに微笑した。

「それじゃあ、悪いけれどお願いしようかな…。けれど、オレ大きいから大変だよ?」

「任せて欲しい。不備のないよう努力する」

手をワキワキさせて応じたナキールと位置を交代し、ジブリールは鏡の前に寄る。

「手順は、先程自分がして貰ったようにで良いのかね?」

「うん。よろしく」

ニコニコと応じるジブリールの背にシャワーを当てたナキールは、むっちり肉が付いて丸みを帯び、大きく広い背に手を乗

せ、真珠色の長い被毛に指を分け入らせた。そして、

「………?」

唐突に動きを止めると、不思議そうな顔をしながら、被毛の中に潜り込ませた指を動かす。

「どうかしたのかい?」

ナキールが動かす指で背中がこそばゆいのか、ジブリールは顔を少し綻ばせ、身じろぎしながら首を巡らせた。

「…柔らかい…」

「あぁ、うん。脂肪が付きすぎてブヨブヨだろう?」

難しい顔をして、躊躇いがちに指を動かして感触を確かめているナキールに、ジブリールは少し恥ずかしげな微苦笑を浮か

べ、「感触が気になるのかい?」と尋ねた。

「……………」

無言で頷いたナキールに、ジブリールはこそばゆいのを堪えながら笑いかけた。

「う〜ん…。肉の身体の感覚をきちんと同期させておかないといけないからねぇ…。こうして感触のデータを蓄積するのも、

ある程度のならしにはなるかな?…あ…。そうだ…、こういうのはどうだろう…?」

しばし考えた後、ジブリールはウンウンと頷くと、体ごとナキールに向き直った。

「…よし!学習の為だし、一肌脱ごう!好きなだけどうぞ!」

降参のポーズを取るように両手を上げ、体の前面を晒した北極熊を前に、ナキールは戸惑っているように動きを止める。

少し動いただけでたゆんと揺れる、大きくせり出している上に自重で垂れた胸と腹。

大きな頭部を支える首もまたかなり太く、濡れて被毛が寝てもなお、その尋常でない太さは相変わらず。

あぐらをかいた丸々と太い腿の付け根…、出っ張って下がった腹の下も、むっちりと肉がついて三角にせり出していた。

そしてそこには、長い被毛とたっぷり蓄積された脂肪に埋もれるようにして、小振りな物がピンク色の先端を覗かせている。

視線を下に向けたナキールは、自分のソレと比較し、首を傾げた。

ナキール同様、ジブリールの肉体もまた魂の情報に合わせて構築されている。

何故ここまで自分と造形が異なるのだろうかと疑問に思いつつ、ナキールは口を開いた。

「では、失礼して…」

「うん。どんとこい!」

一度手を下ろし、大きな腹を両手でポンと叩いてたぷんと波打たせながら、ジブリールは少し恥ずかしげな笑みを浮かべた。

「…柔らかい…」

「…ぷくふっ…!」

「揺れる…。たぷたぷしていて…」

「…ん…んふふふふっ…!」

「…むっちりと…重量感が…」

「はひっ!あははははっ!」

「…ここも柔らかいのだろうか…?」

「ふぐっ!?だ、だめ!ソコはだめっ!そんなに強くつまんだら…、痛い痛い痛い!引っ張っちゃ痛い!」



「…と、自分の場合はそういった具合に、肉の身体の慣らし運転をさせて貰っていたのだよ」

言葉を切って湯飲みを口元に運び、番茶をずず〜っと啜ったナキールの前では、虎男が呆けたような顔をしている。

休日前の夜、食堂にはナキールとムンカルの姿しか無い。

ジブリールはアズライルを連れ、日本の祭りを見物させてやる為に外出中。

ミカールは最近購入し、目に痛いほどのレモンイエロー一色に染めたディオに跨り、散歩がてらコンビニへ雑誌と調味料を

買いに出て行ったばかりである。

「きっとあの時のキャトルも、不慣れな肉体で捉える感触が珍しかったのだろう。それでジブリールが音を上げるまで弄り続

けたのだ。自分の時と同様にね」

熱い茶を飲み下した狼男がそう意見を述べると、虎男はあんぐりと開けていた口をパコンと閉じ、深々とため息を漏らした。

ナキールは番茶を啜り啜り、昔の事に想いを馳せて眼を細めつつ呟いた。

「…あの体当たり教育があればこそ、自分は早くに肉体に馴染めたのだと思う」

(体当たり教育とは何か違う…。いや、少し合ってるか?)

そんな事を思ったものの、ムンカルは突っ込まず、別の事を口にした。

「…なるほどな…。アズライルがお前にガンつけたってのも納得だぜ…。そりゃあそうと、何で俺には黙っていたんだ?その

話…」

「意図的に黙っていたという訳でなく、伝える必要性が無いと判断していた上に、そういった話題に至る事も無かったので話

していなかっただけなのだが…、これは話しておくべき事だったのかね?」

「あぁ〜…、まぁ、確かに話す機会は無かったなぁ…。しかしお前な、もしかするとそんな調子で俺に話してねぇ事が他にも

結構あるんじゃねぇのか?」

「そうかもしれない。が、伝えるべき事と伝えても仕方がない事の判断がつかないのだよ。話す必要がある事は、気が付いた

限り全て話しているつもりなのだが…」

珍しく困ったように耳を寝せたナキールに、ムンカルが苦笑を向けつつ口を開いた。

「だろうな。お前いまだにそういうとこ判ってねぇ部分があるからなぁ…。まぁ、下らねぇと思う事でも、気が向いたら話し

てみろよ。…ただし、アズライルに伝える前にきちんと吟味しろよ?…旦那とのエピソードだけはな…」

「了解した。…ところで、彼女は今頃楽しんでいるだろうか?」

「ああ。…見た目からは良く判らんだろうが…」

頷きあった二人は、北極熊に連れられて無表情のまま上機嫌で歩いている黒豹の様子を思い浮かべ、口元を綻ばせた。