インターミッション6 「バザールとナキール」
ベッドの上に仰向けに寝ている桃色の配達人は、じっと天井を見つめていた。
まるで何かから目を逸らしているように、真上ではなくやや斜め上へ視線を固定して。
元々桃色の頬は、その赤味を少し強くしている。
薄い水色の患者衣を着ている半人半獣、彼女の名はバザール。
ぽってりと太った体に豚の頭部とピンク色の体を持つ、独立配達人である。
訳あって負傷中の身である彼女は、レモンイエローの飛行艇内の一室、白い壁に囲まれた医務室で傷を癒やしていた。
一辺15メートル程のその部屋は、天井までの高さは3メートル程で、壁も天井も床も、真っ白である。
室内には白い医療用寝台が六つ、壁際にはパイプ椅子が無数に置いてあり、床が見えている範囲が少ないせいか、やけに狭
苦しい印象を受ける。
彼女が纏っている患者衣は、この飛行艇をベースとする者の一人、レモンイエローの獅子があてがってくれた物である。
しばらく経つと、バザールは少しだけ首を動かし、ずっと天井に向けていた目を、恐る恐るといった様子でチラリと横に向
けた。
彼女の隣のベッドの脇では、患者衣を脱ぎ捨てた狼男が、たった今着込んだばかりのライダースーツのジッパーを首元まで
あげている。
バザールが目のやり場に困っていた理由は、これであった。
ナキールは隣のベッドに寝かされていた女性の目も気にせず、堂々と着替えていたのである。
身を起こすのにも苦労する有様の彼女と違い、同時に運び込まれた狼男の方は、すでに自力で立ち上がれるまでに回復して
いた。
「本当に、大丈夫なんですかぁ…?」
まだ微かに頬を染めながらも心配げに声をかけたバザールに、顔を向けつつ顎を引いて頷く灰色の狼。
「少々体が重く感じるが、さほど支障はない。大丈夫だ」
手を握ったり開いたりしながら感触を確かめて応じる狼を見遣りながら、バザールは少しだけ顔を曇らせる。
ナキールはあまり饒舌ではなく、親しくもなかった彼女も共通の話題が見つけられず、長時間隣のベッドに寝かされていな
がらも、会話などは殆ど無かった。
それでも、ナキールが部屋を出て行くとなると、バザールは急に寂しさを覚えた。
一方、相変わらず表情に乏しく、他者の情緒を読む事が苦手なナキールは、桃色の豚の心情には全く気付かぬまま訊ねる。
「飲み物でも取って来よう。ジュース類や乳製品、アルコール類、何でも揃っているが、希望はあるかね?」
「え?あぁいえぇ、お構いなくですぅ…!」
フルフルと首を左右に振ったバザールに頷くと、ナキールは「では、適当に見繕って来よう」と呟き、ベッドを迂回して出
口へ向かう。
狼男が手を伸ばすと、しかし寸前でノブが逃げ、ドアが向こう側へと引き開けられた。
ドアの向こうに立っている、黒革のつなぎを纏った虎顔の大男の姿が、ナキールの瞳に映り込む。
安静にしているはずの同僚の顔を間近で目にし、「お?」と声を漏らしつつ一瞬きょとんとしたムンカルは、次いで驚いた
ように声を上げた。
「ナキール!もう歩けるのか!?」
「迷惑をかけたが、もう大丈夫だ。復帰する」
「復帰ったって…、今日でここらの配達終わっちまったぜ?」
ナキールが「ふむ?」と、不思議そうな声を漏らすと、
「久々だからなのか…、それとも単にディオ乗り回したかったのか…、ミックが異様に張り切ってよ。十日の予定だったのが、
報いの配達だけたった六日で済んだ」
そう説明したムンカルは、耳を寝せて口をへの字にし、微妙な表情を浮かべつつ頭をガリガリと掻く。
「…つくづくバケモンだありゃあ…、乗るバイクさえ選べば旦那とタメ張れるぜ…」
「それは…、相当だな…」
嘆息する虎男の前で、ナキールは興味深そうに耳をピクッと動かして呟く。
「ま、ずっと空走らせてるせいでそれなりに疲れてるみてぇだが、それでも生き生きしてやがる。明日からはアズライルの方
手伝うってよ。俺はやれる事ねぇから留守番だ。…っと」
ムンカルはようやく自分が出口を塞いでいる事に気付くと、横に退いてナキールに道を譲る。
会釈してドアを潜ろうとしたナキールは、しかし上がりきっていなかった右足の爪先をカツンっと入り口の段差に引っ掛け、
「おや?」と首を傾げながら前のめりになる。
「おっとぉ!「おや?」じゃねぇよ!コケる瞬間にまで変に落ち着いてんじゃねぇ!」
胸と腋の下に太い腕を入れる形で、転びかけた狼男を支えつつムンカルが声を上げる。
「済まない。ありがとう」
転びかけたというのに嫌に落ち着き払った態度で礼を言ったナキールは、しかしそのまま両肩を掴んだムンカルにグイグイ
押され、後ろ向きに病室へ逆戻りする。
「やっぱりダメだ。寝てやがれ」
狼男を強引にベッドの傍まで押して行ったムンカルは、バザールへと視線を向けた。
「よっ!気分はどうだ、バザール?」
「上々ですよぅ。ただ、自由に動けないのが歯痒いですけどぉ…」
「がははははっ!ま、そいつは仕方ねぇやな!…そうだ、もう読み終わったろ?アズライルからまた他の雑誌貸して貰え。そ
ろそろ戻って来るはずだからよ」
声を上げて豪快に笑ったムンカルは、ナキールとバザールの顔を交互に見遣る。
「そうだ、飲み物でも取って来るか」
「その為に食堂へ行こうとしたのだがね」
ナキールが説明すると、「ああ、なるほど」とムンカルは納得する。
「けど無茶はいけねぇな。誰かに言えば持って来て…、と、そういや今日はミカールも出てるから、頼めるヤツが居なかった
のか…」
ふむふむと納得顔で頷いた虎男は、
「適当にクーラーボックスに入れて持ってくる。いいか?大人しくしとけよ?」
と言い残し、部屋を出て行った。
素直に従うつもりらしく、つなぎを着込んだままベッドに腰掛けたナキールに、バザールはちらりと目を向ける。
視線に気付いた狼男が首を動かし、目があうと、バザールはそっと視線を逸らした。
ナキールは、まだ大人しくしていなければいけない。もう少しはここに居なければならない。
その事に何故か安堵感を抱いている自分に、バザールは疑問を持つ。
(何でしょう…?何でわたし、こんなにドキドキしてるんでしょう…?)
寝返りをうってナキールに背を向け、顔を見られないようにしたバザールは、豊満な胸にそっと手を当てながら、不快では
ない体の火照りを噛み締めていた。
ここ数日、ミカールらの手による修復を受け、衰弱しきった肉体の回復を待っている間、隣のベッドに横たわる狼男の事を、
バザールはずっと考えていた。
自らの身を危険に曝してまで自分を救ってくれた、あの時の狼男の姿は、バザールの脳裏にしっかりと焼き付けられている。
目を閉じれば、凛々しく気高く冷静で理知的で健やかで爽やかな、バザール補正をかけられて過度に美化されたナキールの
姿が瞼の裏に浮かび、さわやかに微笑みかけて来る。
胸の奥が苦しく、切なく、熱をもってシクシクと疼く。
それは、独立配達人バザールが、初めて経験する感覚であった。
その夜も、配達人達は飛行艇内の一室で、最近仲間内で流行っているバドミントンに興じていた。
壁際のベンチには、舌を出してはかはかと喘いでいるでっぷり肥えた北極熊。
既に二試合を終え、二度ともこてんぱんにされたジブリールは、汗だくになっている巨体から加湿器の如く湿気を撒き散ら
している。
その横では、参加こそしないものの一応同席している黒豹が、スポーツドリンクやタオルを甲斐甲斐しく差し出していた。
コートに立つのは無敗を誇る鉄色の虎。余裕の笑みさえ浮かべる大男の尻尾は、ゆらりゆらりと左右に揺れている。
相手を務めるのは、鼻息も荒いズングリムックリした獅子。
そのやる気を示すように、体色に合わせた黄色い袖無しティーシャツの背には「ダメにしたる!」と真っ赤なポップ体。胸
には放射性廃棄物を示すあの警告マーク。
「さあ、どっからでもかかって来んかい!」
吠える獅子の両手には、それぞれ一本ずつラケットが握られている。
「何で二本持ってんだよ?」
「むははははっ!今さっき思いついた新戦法、二刀流やっ!どや?ビビったか!?」
「ミック…、今更だけどお前バドミントンのルールあまり判ってねぇだろ?…まぁ良いけどよ…」
やる気だけはいつも通り十分、プレイ開始直後からめったやたらにラケットを振り回すミカール。
しかし、一本握っているだけでも当てる事すらおぼつかない彼が、二本握った所で上手く立ち回れる訳もない。
的確に左右へ打ち分けられ、空振りを繰り返しつつコート内を走らされ続け、やがて…、
「はぁ!ひぃ!ふぅ!し…、しんどっ!」
二本振り回している分だけ体力の消耗も早かったのか、5分も経たない内に、まん丸な体を揺すって喘ぎながら、コート内
をあっちへよろよろ、こっちへよろよろし始めた。
…普段にも増して散々な状態である。
サーブを打った直後などは、足下に置いていた二本目のラケットを拾っている間に情け容赦無く打ち返される始末。
「お、おかしぃなコレ…!?はひっ…!イケルおもたのに、ぜはっ…!メリット全然無いやんけ…!」
やがて、これではかえって勝ち目が無いとようやく悟ったミカールが、決まり悪そうにしぶしぶラケット一本のスタイルに
戻った頃、
「ナキール達は、いつ頃から動けるようになるのだろう?」
ベンチにかけている黒豹が、ようやく息を整えた北極熊にそう尋ねた。
ストローを咥え、人心地ついた顔でスポーツドリンクを啜っていたジブリールは、少し考えた後に口を開く。
「ナキールは明日中にでもほぼ万全な状態に戻るだろうね。もう歩けるようだし。バザールについてはもう数日かかりそうだ
けれど、そろそろ立ち上がれるんじゃないかな?」
「ナキールは、ザバーニーヤだったのだな…」
ポツリと呟いたアズライルを、ジブリールはチラリと目だけを動かして見遣る。
「一応、重要機密事項に当たる情報だから、口外しないで欲しい」
頷いたアズライルは眉根を僅かに寄せ、不思議がっているような表情を浮かべる。
「機密?」
「うん。彼の配置換えについては、単純に配達人の不足解消としてという面以外にもいくつか理由があるんだ。その一つが、
優れた嗅覚と視覚を持つザバーニーヤなら、配達を効率良くこなせるか?という試験運用。もう一つは…、咎に反応する彼ら
ザバーニーヤは、傍にいれば堕人の発生を即座に感知できる…。つまり抑止効果が期待できるかもしれないというのも理由」
「なるほど…」
頷いたアズライルは、同僚の灰色狼が死の匂いを嗅ぎ分ける嗅覚や、優れた看破視力を持っている事について、ようやく納
得していた。
説明を終えたジブリールは、少し耳を伏せながらアズライルから視線を外す。
ナキールがこのフネに配属された理由について、彼女には伏せている、言うつもりもない事が、ジブリールにはまだあった。
他のザバーニーヤではなく、ナンバーゼロであるナキールことスィフィルがこの役目を負わされたのは何故か。
それは、とある特定の配達人に対する抑止力としての役割を担う必要性が鑑みられたからである。
ブラストモードを搭載している、大特異点にして不確定要素、配達人ムンカル。
彼が万が一堕ちた場合に対応できるだけの力を有するザバーニーヤとして、彼が選抜された。
除幕状態であれば、シミュレート上ではブラストモードとの交戦も可能となるナキールは、ジブリールやミカール同様、ム
ンカルの同僚であると同時に、いざという時の鎖の役目を引き受けている。
もっとも、ナキールを推した本人、ムンカルの事を当初から完全に信用していたかつての同僚であり、現在の冥牢総括者か
らすれば、周囲への説得力としての意味も込めたナンバーゼロ選抜であった。
そして、ムンカルが堕ちる可能性が限りなく低いと判断された今では、ナキールがこのフネに縛られる理由はかなり希薄に
なっている。
それでも未だに冥牢に帰れないのは、彼が極めて優秀であるがゆえにミカールが手放したがらないからに他ならない。
「…まぁ、オレも他のメンバーが来るより、ナキールが居てくれた方が良いんだけれど…」
ぼそりと呟いたジブリールは、傍らのアズライルの不思議そうな視線を受け、「いや何でもないよ。こっちの話」と、笑っ
て誤魔化す。
頷いたアズライルは、コートでひぃひぃ言っているミカールと、日頃の立場が逆転したように容赦なく攻め立てるムンカル
の、試合とも呼べないようなワンサイドゲームに目を向ける。
「…私も、いずれアンヴェイルできるようになるのだろうか?」
自問するようなアズライルの呟きに、ジブリールはしかし答える事ができなかった。
このフネのクルーでアンヴェイルに至っていないのは、彼女とムンカルの二名だけである。
メンバー中で最も経験が浅いとはいえ、負けず嫌いの彼女には、それは少しばかり悔しい事であった。
「まぁ…、ゆっくりで良いよ…。焦る事なんてないさ」
優しく微笑みかけたジブリールの瞳に、少しばかり寂しげな光が浮かんでいる事には、コートに目を向けているアズライル
は気付けなかった。
「調子はどうだい?」
医務室に入った北極熊は、ベッドの上で大人しく雑誌を読んでいるバザールと、手すりに渡したテーブルの上にマッチで金
閣寺を建造しているナキールに尋ねた。
「問題ない」
「おかげ様で、随分良いですよぅ」
二人が口々に応じると、ジャージ姿のままのジブリールは、バザールの手元に視線を向ける。
アズライルの私物である女性が喜びそうな小物やファッションも紹介されている手芸雑誌は、まだ自力で立つ事のできない
バザールの慰めとして、どうやら十分に役立っているらしい。
「欲しい物があったら遠慮せず言っておくれよ?なるべく希望に添うよう努めるからね」
「いいえぇそんな勿体ない!どうかお気遣い無く…。ご迷惑をかけたわたしが、こんなにも手厚く看護して貰えて…、それだ
けでも身に余る程に有り難いですよぅ…」
恐縮して遠慮するバザールに、ジブリールは柔らかな笑みを返した。
「その点は気にしないで。君が悪いわけじゃないんだから」
バザールがハールとマールに操られ、迷惑をかけた事は、このフネの誰も咎めようとしなければ、気にもしていない。
しかし、バザール自身にとっては、自分の意思では無かったとしても、決して忘れる事のできない失敗である。
思い出したのか、耳を伏せて項垂れたバザールに、「気にしない気にしない」とにこやかに繰り返した北極熊は、次いでナ
キールに視線を向けた。
「ナキールはだいぶ動けるようになったようだし、今日から入浴しても良いね。おいで、背中流してあげるから」
「了解した」
笑みを浮べたまま手招きしたジブリールに頷いた狼男は、出来上がった金閣寺を惜しげもなくマッチの山に戻すと、箱に収
めてベッドを出る。
「バザール、君の方はまだ入浴は厳しいね。アズライルが来るから、体を拭って貰って」
「そ、そんな!一人でできますよぅ!」
慌てて首を横に振ったバザールに、ジブリールは微苦笑を向けた。
「満足に動けない以上は手伝って貰った方が良いよ。体に無理…までは行かないだろうけれど、負担はかかるからね」
ジブリールが言い終えると同時にドアが開き、湯を張った洗面器を手にした黒豹が、そろりそろりと慎重な足取りで病室に
入って来た。
両手が塞がっている状態で、しなやかな長い尻尾で器用にドアを開け閉めしつつ、アズライルはバザールのベッド脇にやっ
て来る。
「後は私が引き受けよう」
「うん。お願いするよ」
にこやかに片手を上げて部屋を出て行くジブリールと、何やらじっと女性二人を見つめているナキール。
「洗浄であれば、自分も手を貸そうかね?」
「うぇえっ!?」
「結構だ」
声を上げるバザールと、冷静に切り返すアズライル。
ナキールの妙な行動や提案に慣れている黒豹は、この程度の事では全く動じない。
相変わらず表情の無い狼男は、「そうか。では失礼する」と言い残すと、何事も無かったように医務室を出て行った。
「あまり気にしないで下さい。彼はかなりズレているので」
部外者用のですます口調で、説明になっているようないないような事を述べると、アズライルはタオルを洗面器に浸して準
備を始めた。そんな彼女に、
「ナキールさんとは…、その…」
と、バザールは遠慮がちに声をかけた。
「アズライルさんは、結構親しいんでしょうか?」
「はい?」
おどおどと、伺うような目を向けてきた桃色の豚を、黒豹は首を傾げて見つめ返す。
「親しいと言うなら…、まぁ、そうなりますね。長年の同僚ですので。それが何か?」
「あ、いえ…、な、何でも無いんですぅ…」
バザールは取り繕うような笑みを浮かべると、黒豹の姿をそっと確認する。
すらりとした手足に豊満な胸、尻、くびれたウエスト。
完璧なプロポーションに加え、少々気が強そうではあるが、凛々しく美しい整った顔。
何故か小豆色の垢抜けないジャージ姿だが、魅力はいささかも失われていない。
かなりふくよかな自身の体型や顔と、アズライルの容姿をこっそり比較したバザールは、「ほはぁ…」と、元気無くため息
を漏らした。
「どうかしましたか?」
重ねて尋ねる黒豹に、バザールは「な、何でも無いですよぅ」と、慌てて笑みを向ける。
「た、ただそのぉ…、美人だなぁって…、思いましてぇ…」
「は?」
急にそんな事を言われ、きょとんとしたアズライルは、再びため息をついたバザールの顔をマジマジと見つめた。
少し苦しそうな、そして切なそうな表情とため息。
目を伏せて何事か考えているバザールの表情をしばし見つめていたアズライルは、「…まさか…」と、小さく呟いた。
「バザールさん。貴女はもしや…」
顔を上げ、「はい?」と聞き返したバザールに、黒豹は目を丸くしながら続けた。
「貴女は…、ナキールの事が…」
「えうぁおぅっ!?」
アズライルの言葉は、バザールの上げた妙な大声で途切れた。
「な、なななななななにゅへうぉのっ!」
「落ち着いて下さい」
またしても妙な声を上げたバザールに、落ち着くよう促したアズライルではあったが、相当驚いているらしく、相変わらず
目をまん丸にしている。
「…驚いた…。あのナキールに…」
呟くアズライルの前で、バザールは掛け布団を引っ張り上げて顔を隠し、フルフルと震えていた。
「バザールとはどんな話をしているんだい?」
湯煙で曇った壁面の鏡を眺めながら、ジブリールに背中を流して貰っていたナキールは、少し間を開けてから応じた。
「…考えて見れば、話など殆どしていなかった」
「ずっと黙っているのかい?」
困惑したように問いを重ねた北極熊の顔を、曇った鏡越しに見遣り、狼男は頷く。
「恐らくだが、自分はバザールに良く思われていない」
大きな手でスポンジを握り、丁寧に背中を洗ってやっていたジブリールは、「何故そう思うんだい?」と、手を止めて同僚
に訊ねる。
「自分が身じろぎするだけで驚いたように息を止めたり、時折こちらを伺うように見ているかと思えば、目を合わせると顔を
そむける。嫌われているか、怖がられていると取れる態度だ」
ジブリールは困り顔で鏡の中の狼男を見つめた。
「どうしてだろうねぇ?人間じゃあるまいし、狼の姿を怖がってるはずもない…」
「ザバーニーヤとしての姿も見られた。効果はともかく少々手荒に見える真似もした。あるいはそれが原因かもしれない」
「なるほど…」
ジブリールは寂しげにため息を漏らした。
(バザールも辛い目に遭わされたからね…。ナキールが自分を救った事は頭で理解できても、思い出してしまうのかな…)
「バザールがこのフネに居る間に、誤解を解けるよう努めてみようか?」
「それが良いかもしれない。酷い目に遭った上に気持ちも休まらないのでは、自分としても申し訳ない」
真に誤解しているのがどちらか理解しないまま、二人はそんな事を話していた。
入浴を終えて医務室に戻って来たナキールは、不思議そうに首を傾げる。
「何かあったのかね?」
狼男の視線の先には、背を起こしたベッドの上で座っているバザールと、その左右にパイプ椅子を寄せて座っているアズラ
イル、ミカールの姿。
「何でもあらへんがな。ナキール、今日から部屋で寝てえぇで?」
獅子が何かを隠しているような笑みを浮かべながらそう言うと、不意にナキールの背後に現れた虎顔の巨漢が、ニンマリと
笑いながらその両肩をがっしりと掴む。
「よぉしナキール!旦那誘ってポーカーしようぜ?な!」
「ふむ?しかし自分は大人しくしておくようにと…」
「そう言うなって!ミカールも良いって言ってんだ。なぁ?」
「おう。そいつバドミントンで調子付いとるさかい、こてんぱんにしたれやナキール」
ミカールが蝿でも追い払うようにシッシッと手を振ると、ムンカルは後ろから捕まえたナキールを強引に引っ張って行く。
席を立ったアズライルが静かにドアを閉め、鍵を掛ける様子を眺めながら、ミカールはニマ〜っと笑う。
「さぁて、これで邪魔は入らん。じっくり話し合おうやないか。力になったるで?ワシに何でも相談してみぃ?な?」
長年アズライルのアドバイザーとしてあれこれ世話をやいているミカールは、大いに張り切って、ずいっと大きく身を乗り
出す。
「は、はぁ…。えぇとぉ…」
思わず身を引きつつ、曖昧な表情で頷いた桃色の豚に、静かに席に戻ったアズライルは力強く頷いた。
「伊達に30年近くもひっそりと片想いしている訳ではありません。私には、貴女の気持ちは良く判ります…」
ぽってりとしたバザールの手を両手でそっと包み込むようにして取り、神妙な顔をしたアズライルは、常では考えられない
程優しい声音で語りかける。
30年片想いのままという言葉は、相手を励ませるような中身では決してないが、その事に気付いていないアズライルは、
無駄に力強く、真剣である。
「お互い、頑張りましょう!」
「そや!まずはブワァ〜っ!グワァ〜っ!と、溢れる想いをブチまけたれ!」
こちらもまた無駄に力強く励ますミカールは、ここでふと気が付いた。
(アズライルといい…、バザールといい…、何でこう、よりによって筋金入りのニブチンに好意持ってまったんやろな…?)