インターミッション7 「イスラフィルとスィフィル」
赤くて暗い空が広がっている。
夕暮れの赤と宵闇の黒が混じり合ったような、暖かみより重苦しさを感じる赤黒い空が。
夕暮れ間際の赤光に夜の帳をそのまま被せ、しかし両者が領域を全く譲ろうとせず、せめぎ合って入り乱れ、そのまま落ち
着いてしまったかのような色合いの空は、地上で見られる空とは大いに様相を異にしていた。
その空を、年若い男が見上げている。
退屈極まりないといった顔つきで赤黒い空を凝視しているその男は、年の頃は恐らく20歳前後。黒髪に黄色い肌のアジア
系であった。
背は平均より少し高く、体はやせぎすでひょろりとしているが、それは体が引き締まっているからで、ひ弱な印象は無い。
厚く堅い布地で作られた、何処にも縫い目が見あたらない白い貫頭衣を身に付けており、その表情は抱いた倦怠感のせいで
曇っている。
靴は履いておらず、素足である。
その足の裏が踏み締めているのは、所々に小石や岩が転がる、乾いてひび割れた地面。
不毛の荒野。
その表現すらまだ的確とは言い難い、一切の息吹が感じられない荒野で、青年はぼうっと立ち尽くしていた。
「また、空を見ていたのか?」
唐突に背後からかけられた声に、青年はビクリと身を震わせた。
弾かれたように振り返ると、僅か2メートルも離れていないそこには、青いつなぎを身に纏う異形の男の姿。
その姿を目にした途端、突然の声に驚いていた青年の緊張が緩む。
それはその男が、異様な風体をしてはいても、この奇妙な世界において青年が知っている数少ない顔だったからである。
つい今し方まで誰も居なかったはずのそこに、何の音も、気配も感じさせず、いかにして現れたのかは判らない。
それでも青年は、この異形の男が唐突に現れる事に、徐々にだが慣れ始めていた。
「それ程までに、そなたの目にはこの空が奇妙な物に映るのか?」
男は自らも空を見上げ、目を細める。
薄暗い景色の中、男の持つ獣の目は、角度によってはうっすらと薄緑を帯びて見えた。
目だけが獣な訳ではない。
その男は、人間と同じ五指を備えた手足を持ち、言葉を話すものの、人間と同じ頭部は持っていなかった。
男の頭部は、耳が頭頂付近でピンと立ち、マズルが前にせり出した、獣の顔である。
灰色狼の頭を持つ、人の体に獣面を持つ異形…。それが、最初は青年が強い恐怖と嫌悪すら抱いていた、男の姿であった。
その全身は金属的な光沢を持つ灰色の被毛でくまなく覆われており、尻からはフサフサした毛に包まれた尻尾が生え、常に
だらりと下に垂れている。
身を包む被毛はいくらかの濃淡の差こそあれ、ほぼ全面が灰色だが、額には一部だけくっきりと黒い毛が生えており、まる
で紋様のように形を為していた。
円を形作るそれは、数字の「0」にも見える。
狼男。
青年は男の姿を、いつかホラー映画で見たモンスターに重ねて捉えている。
もっともこの狼男は、レンタルビデオでブラウン管越しに見た、知性も理性も無いあのケダモノとは程遠い。
やや機械的ではあるが、高い次元で理性と知性を兼ね備えた存在であるという事を、今では青年も理解している。
スィフィルと名乗っているその狼男は、青年の担当者であった。
「奇妙なんてもんじゃねぇよ…」
傍らに並んだスィフィルにつっけんどんな口調で応じた青年は、再び空を見上げて顔を顰めた。
「見た目が薄気味悪ぃ上に、いつまで経ってもちっとも変わらねぇなんて…、奇妙を通り越して異常だぜ?」
「ここにおいては不変の空こそが通常と言えよう。もしもこの空に変化が生じたならば、それこそ異常であろうな」
そう淡々と応じた狼男の顔を、青年は横目でちらりと見遣る。
「変わんねぇのが普通ってのは、普通じゃねぇと思うんだけどさ…。あんた自身はどっちが普通だと思う?やっぱこっち側が
普通か?青い空の方が奇妙に見えんのか?」
この問いに、狼男はゆっくりと首を左右に振り、一拍おいてから答えた。
「生憎、自分はこの空以外の空を知らぬ。地上の空は青く染まっていると聞いた事はあるが、このまなこに映した事は無い。
故に、「見慣れている」という意味を含めての「普通」という事であれば、やはりこの冥牢の空が普通と言わざるを得ぬ」
「じゃあ、青い空見たらびっくりすんのかな?」
「さて、どうであろうか?その空はそのような物なのであろうと、案外すんなり受け入れるやもしれぬ」
「「所変われば品変わる」ってか?そんな感じで受け入れるって?」
「ふむ、そうも言えよう。しかしながら、マリクによれば自分は刺激に対して極めて鈍いらしい。要するに鈍感である故、目
にしたら目にしたで、青い空にもすぐ慣れるような気もせんではない」
言葉を切ったスィフィルは、眼を細めてひとりごちた。
「もっとも、近い内に、実際にその青き空を目にする機会があるのやもしれぬが…」
「ん?」
「いや、こちらの話だ」
訝しげに首を捻った青年に短く応じ、スィフィルは音もなく踵を返す。
「そろそろ洗浄場へ行くが、構わぬか?」
「…ああ」
青年は心持ち顔を顰めて頷いた。
洗浄とは、この地において彼に唯一架せられた義務である。
狼男曰く、地上での旅…すなわちその生の間に犯して、旅の終わり…すなわち死を迎えるまでに精算し切れなかった咎を持
つ者は、冥牢と呼ばれているこの世界で、魂から咎を落とさなければならないらしい。
青年の魂にこびり付いた咎は、友への裏切りと殺害であった。
親への反抗がエスカレートし、勢いのままにチンピラとなり、暴力団に加わった彼は、些細な事から同じ兄貴分に従ってい
る別の若者と関係が悪化した。
青年はある時、ほんの嫌がらせのつもりで、「他の組と出入りがある」というデマの情報を伝えた。
夜遅く、緊急事態である旨を告げ、普段からいざこざが絶えなかったその組への襲撃が行われているとまくし立てた彼は、
兄貴分はもう向かっており、自分もこれから向かうとだけ告げると、電話を切ってほくそ笑んだ。
慌てて支度し、いざと覚悟を決めて出かけ、結局空振って腹を立てる相手の事を考え、しばしベッドの上で笑い転げた。
思い返してみれば自分でも呆れる程幼稚な、子供レベルの嫌がらせである。
だが、良く言えば素直な、悪く言えば愚直なその相手は、青年の嘘を真に受けた。
翌朝の事である。青年の組の大親分が、小競り合いを続けていた相手組の長から、夜分に鉄砲玉を送り込んでくる卑怯さを
罵る文を送りつけられたのは。
若者はそれきり、二度と姿を見せなかった。
埋められたか、それとも沈められたか、はたまた別の手段で処理されたか…。
青年達の兄貴分はその後の事情を知っていたらしいが、詳しくは語らなかった。
だがそれでも、自分の嘘のせいで殴り込んだ彼が、もう生きてはいないだろうという事だけは、青年にも判った。
相手組との関係はさらに悪化し、兄貴分は監督不行届を咎められ、非常に厳しい立場に追い込まれた。
青年は悔やんだ。悔やんでも悔やんでも悔やみ切れず、ついには部屋にこもりきりとなった。
面倒見の良い兄貴分は、自分が大変な状況になっているにも関わらず、こまめに青年の様子を見に来ては、兄弟分が死んだ
事で心に傷を負ったのだろうと考え、時に慰めの言葉を、時にキツい激励を与えた。
だが、その兄貴分の気遣いが、青年にはかえって辛かった。
とても言えないが、自分のせいで彼は死んだ。自分が殺したも同然だった。
さらには兄貴分の立場も悪くした。それなのに伏せられた真実を知らず、疑いもしない兄貴分は、自分を慰めてくれる…。
仲間を死なせた悔恨と、兄貴分への申し訳なさ。
人格的にはやや問題があっても、人間的には真っ当な感性を有していた彼は、やがて良心の呵責に耐えられなくなり、自ら
の命を絶った。
それが、行く先をその時々の勢いに任せ続けた青年の、比較的短い生涯の終幕である。
責任を取るつもりで、前時代的に自刃して果てた青年だったが、しかし気が付けば、ドスで腹を切って血溜まりに突っ伏し
ている若い男を見下ろし、自室に立ち尽くしていた。
それから、どうやら死んだ自分を魂だけになった自分が見ているらしいぞと、そこそこ迷信深かった青年が考えていると、
黒ずくめの白い熊がやって来て、このままではキミは次の旅へ向かう事ができない云々を説明したのである。
恐ろしく大きくてとんでもなく太っているその北極熊は、彼が目にした最初の異形だったが、不思議と恐怖も嫌悪も感じな
かった。
そこから先は記憶が曖昧だが、床に黒い穴があいて、そこに引き込まれる形で床下の方へと沈んで行ったような気がする。
その折、自分のせいで死んでしまった相手の顔を見たような気もするが、やはり詳しくは思い出せない。
はっきりとした記憶が再開されるのは、大柄な黒い雌牛と向き合っている場面からである。
西欧風の、派手さは無く、質素ながらもセンスの良い調度品類が置かれた、乳白色の壁と天井から成るその部屋の奥で、頑
丈そうなデスクについた黒い雌牛…。
向き合って立った青年の顔を見つめるその雌牛は、女性でありながらかなり大柄で、発達した筋肉も逞しい、骨太の体つき
をしていた。
ネクタイこそ締めていないものの、ダークグレーに統一された男物のスーツに身を包んでおり、ワイシャツがはち切れんば
かりに豊満な胸と、スーツ越しにも判る大きな尻が、女遊びもろくに経験しなかった青年の脳裏に焼き付いている。
黒い雌牛は他の異形達からマリクと呼ばれていたが、それはどうやら名前ではなく、役職名のような物であるらしい事を、
青年はかなり後になって知った。
思い出せる記憶はその場面からで、直前の事までは覚えていないが、どうやら自分が自殺に至った経緯を説明していたらし
い事は、黒牛との話の流れから推測できた。
そして、自刃して意識が途切れ、北極熊に会った事まで話し終えた青年は、難しい顔つきをしている黒牛に話しかけられた。
「いいかい?良く聞きな若いの…」
黒牛は太く逞しい腕を豊満な乳房の前で組み合わせ、苦虫を噛み潰したような顔になる。
「相当な覚悟と悔恨から腹ぁ切ったって事情は判った。…けどね…」
一度言葉を切り、青年の顔を呆れと哀れみの混じった目で見つめ、黒牛は言った。
「状況に寄るものの、基本的に自死ってのは、咎を精算する行為にはならないんだよ。あんたの場合はねぇ、切腹する元気が
あるんなら、死んだそいつの家族や知り合いに償いをするべきだったんだ」
自刃した事でも、犯した罪は全く償われていない。
精算方法を誤ったのだと聞かされた青年は、腹を抱えて笑い転げた。
それは、償いのつもりで償いになっていない自害を決行した自分の滑稽さへの笑いでもあり、死してもなお罪の精算ができ
ていない事に絶望しての笑いでもあった。
「けどまぁ、悔恨の念がある以上、洗浄は割と早く済むだろうさ」
乾いた大笑いを続ける青年を前に、黒牛はそう呟くと、組んでいた腕を解き、大きな手をパンパンと打った。
「失礼致します」
拍手での招致に応じ、青年の背後にあったドアを開けて室内に現れたのは、灰色の狼…すなわちスィフィルであった。
「紹介するよ若いの。あんたの洗浄担当になるザバーニーヤ、スィフィルだ」
ゼロを意味するアラビア語を名に持つ獄卒は、笑いを収めた青年の視線を受け、無言で軽く頷く。
「そのスィフィルはウチでも最高の清掃人だ。彼に担当されれば、そうかからずに咎の精算を終えられるはずさね。…使う清
掃器具がちょいと猟奇的な点だけは、いささか評判悪いけどね…」
黒牛の紹介を受けた狼男は、これから自分が担当する咎人の姿を無感動な目で眺め回し、「よろしく頼む」と短く挨拶する。
それが、青年とスィフィルの出会いであった。
来た当初、咎人が次の旅までの合間の一時を、罪を清算しながら過ごす場所だと聞かされ、監獄のような物を想像していた
青年にとって、洗浄時以外は自由に過ごしていて構わないというここの風習は、拍子抜けする物であった。
手枷も足枷も無く、檻にも入れられない、自由な時間が大半を占める生活…。
これでは脱獄する者が多いのではないか?
その気のない青年は、来たばかりの頃こそ他人事のようにそう考えていたが、脱獄が不可能である事を程なく理解した。
もっとも、脱走しようにもこの世界には常に存在するような出入り口は無い。
送り込まれるのも出て行くのも、必要な時にのみ何処へでも現象のように現れる特殊なゲートを利用している。
おまけに、二十名居るらしい獄卒達は、全員が全員人間など比較にならない力を持っている。
青年も一度見たが、突っかかって行った大男が、子供のように小柄なジャッカル顔の獄卒に、あっという間に叩きのめされ
ていた。それも長柄のデッキブラシという、ありふれた清掃器具で。
さらに、自由が与えられているとはいえ、時が経つにつれていや増す孤独感と退屈は、どうしようもない責め苦となる。
他にも咎人が居るのに孤独だというのも妙な話だが、他の咎人とは会話が成立しないのである。
声は聞こえてもその意味…つまり言語が理解できず、恐らくは同じ日本人であろうと思われる咎人相手ですらも、会話が成
り立たない。
砂地に文字を書いても同様で、見覚えがあるのに理解ができない。
それは、配達人などが用いる被認迷彩にも似通った現象である。
冥牢という世界自体が咎人にのみ与える、認識にエラーを生じさせる症状…。
これのおかげで咎人同士が意思疎通し、組織立った暴動を起こす事ができない。
意思疎通ができず、閉じた世界そのものが監獄となっている上、獄卒はそもそも人間ですらない…。
そんな状況では脱獄騒ぎも暴動も起こせるはずもなく、この冥牢という世界は、咎人達が好き勝手に動き回れるにもかかわ
らず平穏であった。
「どうした?」
最近馴染み始めた声が耳に入り、青年は回想を中断した。
「…いや…、何でも…」
ぼそぼそと応じた青年は、空に視線を逃がす。
空や荒野に代表される殺伐とした景色と娯楽の無さは、騒がしい街に慣れきった青年にとっては、なかなか馴染める物では
なかった。
スィフィル以外の獄卒達の事は良く判らないし、他の咎人とは会話が成立しない。
他に唯一言葉を交わした事がある黒牛は、次々にやって来る咎人との面会で忙しいらしく、西欧風の面接棟から滅多に出て
来ない。
そんな中、自分の担当であるスィフィルは、青年にとって唯一の話し相手であった。
「それほど空が気になるのなら、今の内に見ておく事だ」
そう言ったスィフィルに、青年は訝しげな視線を向ける。
「君の洗浄は今回が締め括りとなる。この空も、もうしばしで見納めとなろう」
「は?」
素っ頓狂な声を上げた青年に、スィフィルは続けた。
「洗浄は今回で終わりだと言った。君の魂からは、既にあらかた咎を削ぎ落としている。残るは濯ぎ程度なのだ」
いつまでも続くとばかり思っていた精算が、もうじき終わるという事を唐突に告げられた青年は、目を丸くした。
「自らの咎に対する悔恨の念を抱いている魂は、極めて咎を落とし易い。我々としても洗浄がはかどるものなのだが、君の場
合は破格の進行具合だ。稀に見る模範囚だと、マリクも愉快そうに笑っておられた」
「…赦されるのか?俺は…」
自覚がないまま呆然と呟いた青年に、スィフィルは頷いた。
「この短き精算を経た程度で転生が可能となる事こそが、君が抱き続けた深い悔恨が、遍く張られし見えざる糸…因果に認め
られた何よりの証拠となろう」
スィフィルの淡々としたその言葉では、赦された喜びも安堵も感動も得られず、青年は狐につままれたような顔で、短い付
き合いとなった担当者を見つめていた。
「先刻、識別番号、ホの20417号の洗浄が完了。同名は洗浄完了後にゲートを発生させ、次なる旅へと赴きました」
直立不動の姿勢で報告したスィフィルに、黒い雌牛は「ご苦労さん」と、労いの言葉をかける。
「ご報告は以上です。それでは…」
「まぁ待ちな」
退室の意を伝えようとしたスィフィルを、満足げな笑みを浮かべた雌牛が呼び止める。
「ちょっとそこに座んなスィフィル。前の同僚が地上の酒を送って寄越したんだ。話もあるから、一杯ぐらい付き合いな」
そう言いながら腰を上げた黒牛は、パンパンと手を叩いた。
すると、スィフィルの横で、床からせり上がるようにしてローテーブルとソファーのセットが出現する。
そのテーブルの上にはワインのボトルと、二人分のグラス、そしてスライスされたバターレーズンが乗った皿が、手を付け
られるのを待つようにセットされていた。
海面に現れる潜水艦のように床から浮上したソファーセットを目の当たりにしながら、スィフィルは軽い感嘆を覚える。
多くの者がその能力や技術をかなりの割合で制限される、極めて特殊な異層、冥牢…。
それにもかかわらず、彼女の力はこの世界においても、殆ど制限を受けずに発現する。
界面破りのイスラフィル。
かつては配達人であった自分の上司がそう呼ばれている事を思い出しながら、スィフィルは彼女の勧めに従ってソファーに
腰を下ろした。
イスラフィルが慣れた手つきでコルクを抜くと、葡萄の芳醇な香りが溢れ出し、スィフィルは僅かに鼻を鳴らす。
地上とはあらゆる法則が大きく異なるこの冥牢では、基本的に食事などのエネルギー摂取行為は必要ない。
よって、酒やツマミのみならず、その他の口に入れる物も、二人にとっては純然たる嗜好品である。
スィフィルは地上に赴いた事が一度も無いため、現在のマリクである黒牛が持ち込むまで、食事という行為自体、数える程
しかおこなった事が無かった。
摂取行為については、無駄な行為をしているという感覚と、普段味わえない刺激という二点が彼の中で均等に存在し、好き
か嫌いかという二択を迫られると判断に迷う。
そんな彼のグラスに色鮮やかな赤ワインを注ぎながら、イスラフィルはポツリと言った。
「あんた今度、地上に転属になるかもしれないよ」
グラスの中でたゆたう赤い液体を眺めながら、スィフィルが口にしたのは、「さようで…」という、短い言葉であった。
「驚かないねぇ?」
「しばし前より、洗浄が長期に渡るケースを預けられなくなっていた事から、近々何らかの変化があろう事は、薄々ながら感
じておりました故」
淡々と応じたスィフィルに苦笑を向けると、イスラフィルは自分のグラスに手ずからワインを注ぐ。
「なかなかどうして、あんたは鈍いようで時々鋭い」
「お褒めに預かり恐悦至極」
「…褒めてるかどうかは微妙なんだけどねぇ…。褒められたと思うなら、まぁそれでもいいさね」
言葉を切ったイスラフィルは、赤い液体をなみなみ注いだワイングラスを取るなり、グイッと豪快に煽り、その半分を一息
に胃へ落とし込んだ。
おおよそ上品とは言えないワインの飲み方ではあったが、満足げに「ぷはーっ!」と息をつき、笑みを浮かべるその様子は、
いかにもこの女傑に似つかわしい。
対照的にチビリとワインを啜った狼男に、黒牛は先を続ける。
「行く事になるとすれば、転属先はあたしの古巣だ。配達の手が足りてなくてねぇ…。ミカール…あたしの同僚だった男なん
だけど、そいつが上をつつきまくってるそうだ」
「ザ・ヘリオン、ミカール…。自分も存じております」
頷いたスィフィルの前で、再びグラスをあおって空にしたイスラフィルが、「有名人だからねぇあのチビデブは」と苦笑い
した。
「候補者としてあんたの名前が上がった。…って言うのも、ちょいと複雑な事情が絡んでるからでねぇ…」
ザバーニーヤが地上勤務へ転属するなど、これまでに前例が無い。
一見無関心そうに見えながらも背後の事情について考察し始めたスィフィルは、上司の言葉を待つ。
「単に配達をするだけなら、ザバーニーヤが候補に上がったりはしない…。あそこへの転属の目的は、配達体制の強化だけじゃ
ないのさ」
空になった自分のグラスにトクトクとワインを注ぎつつ、イスラフィルは呟いた。
「ある配達人の監視…、それが裏の役目だ」
「ムンカルという名の配達人の事ですな?」
「勘が良いねぇ?」
スィフィルが即座に訊ねると、イスラフィルは少し驚いたように片眉を上げた。
地上の理に属さぬ魂を持ちながら、人間として発生していたという大特異点…。
数年前、彼は人間としての生を終えた後、イスラフィルを含むオーバースペック三名の手によって肉の体を再構築され、シ
ステム側の存在に匹敵する者として再誕した。
異例中の異例とも呼べる発生を遂げた彼の存在が遠因となり、イスラフィルが新たなマリクとして冥牢にやって来た事は、
ザバーニーヤの纏め役たるスィフィルも知っている。
実際には、ムンカルの事件と全く同時に別の場所で発生していた、前任のマリクが消滅した事件もまた、イスラフィルの冥
牢配備の原因となっている。
だが、イスラフィルがマリクに任命された経緯に、より深く関わっているのが、存在自体を危険視されているその配達人の
件である事は、誰が見ても明白であった。
各部門の責任者が集う室長会議において、強制消滅処置まで持ち上がった大特異点…。
他に獲得例が一名しか存在しない滅びの力を内包し、大いなる敵対者とも接触していたという経緯から危険視された事が、
強制消滅措置まで論じられた理由である。
その際にはオーバースペック二名が彼を手元に置き、保護観察するという事で議論に一旦決着がついた。
(…にも関わらず、上部には、ムンカルというその配達人の措置に不満を感じている者が、まだ残っているらしい…)
イスラフィルから多くを語られずとも、スィフィルはそう察しを付けた。
「ま、監視とは言っても、あたし個人としちゃあその必要性はゼロだ。なんせあの子は…」
黒い雌牛はくっくっと可笑しそうに含み笑いを漏らすと、微かに訝るような光を帯びたスィフィルの目を見つめる。
「大いなる敵対者直々に、見込み無しと判断された子なんだからねぇ!」
「そうでしたか」
特に興味も無さそうな返答をしたスィフィルは、しかしこの時点ではまだ知る由もない。
後に転属が本決まりとなり、イスラフィルより新たな名を与えられて赴いた地上で、監視対象であるその男と自分が、いず
れは深い信頼を寄せ合える同僚になるという事までは…。