インターミッション8 「続・バザールとナキール」

真っ白なタンクトップと空色のホットパンツを身に付け、桃色の豚は鏡の前で身だしなみをチェックした。

彼女の名はバザール。全身が柔らかなピンク色の、豚の頭部をした女性配達人である。

薄手のタンクトップの下にはキャミソールのみという軽装だが、右腰には愛用の小型拳銃を収めた革張りのホルスターが装

着されていた。

丸い。そうとしか表現しようのない体格である。

股下が数センチしか無いホットパンツに膝下までのカウボーイブーツを用いたコーディネートのため、太腿は露出している。

皮下脂肪でパンパンに張ってムッチリした太い桃色の腿は、色合いもあってとことん目を引く。

太腿同様に肩から先が剥き出しにされている腕もまた丸々としており、指先までポッテリしている。

バストは豊満と言って良いが、ウェストがさらに豊満であるため、かなり寸胴に見える。

口さがない者にはピンクのビア樽と評される事もあるが、バザールはその極めておっとりした性格もあって、自己の外見に

対する周囲の評価など、あまり気にしていなかった。

つい先日までは。

深くため息をつき、耳をペタリと寝せて項垂れたバザールは、

「どうかしたのですか?」

部屋の主である黒豹に声をかけられ、桃色の豚は「いぃえぇ…、何でも…」と、力ない笑みを浮べつつ応じる。

鏡に映る自分の向こう、シックな木製アームチェアに腰掛けてレースを編んでいる黒豹は、バザールのみならず、殆どの女

性が羨ましいと感じる程グラマラスな体付きをしていた。

もっとも、そのアズライルの容姿を羨ましいと思う感覚自体が、バザールにとっては新しい物だったのだが。

損傷が癒えたバザールは、飛行艇内に新しい部屋を用意するというミカールやジブリールの提案を断った。

治療しながら次の任務地まで送って貰えるだけでも有り難い。そこまで甘える訳には行かない。と遠慮したのである。

到着までの間、このまま医務室で休ませて貰えればそれで良いとバザールは訴えたのだが、結局はアズライルの好意により、

彼女の部屋にベッドを一つ増やして泊めて貰う事になった。

黒い部屋主とは対照的に、白を基調に木目の家具と手編みのレースオブジェで彩られたその部屋は、眩い程の純白で溢れて

いた。

ベッドも白、壁も白、チェストやテーブルにかけられたレース敷も白。

枕の横に足を投げ出す恰好で座る、彼女お手製であるらしい丸々とした熊の縫いぐるみも、当然白い。そして目が蒼い。

その、数日過ごした部屋の隅で、バザールはアズライルと自分のスタイルを比較し、軽く落ち込んでいた。

新たに得た感情…、一般的に恋と呼ばれるそれについて、思い悩みながら。



配達人に限らず、システムに属する者の多くは通常の生物と比べ、いくらか感情の色が少ない。

持たざる性質は個体により様々だが、彼らは欠けたそれらの性質を「欠落」と呼ぶ。

発生したばかりの者ほど欠落の傾向は顕著になり、甚だしい者では機械的と言える程に自我が弱く、自意識が乏しい。

それらは地上を監視する内に徐々に学習し、補われてゆく物なのだが、恋愛感情というものは特に埋まりにくい欠落の一つ

である。

生殖行為で仲間を増やす訳ではないので、彼らには元々そういった形態の精神的進化が必要なかったというのが、その一因

であった。

生物のそういった行為や価値観、精神活動は、学習によりある程度把握できるものの、自らの心情として抱く事ができない。

多くの者は恋愛についてそのようなスタンスである。

が、極々稀ながら、恋する事ができる者も現れる。

そして今やバザールは、その数少ない一人となっていた。

人間と接する機会が多く、下地が出来上がっていた彼女は、先日の一件である狼男に恋をしてしまったのである。

北へ向かう飛行艇の行く手には、もうじき海が見えて来るはずであった。

ドーバー海峡を渡り、バザールの次の任務地となるロンドンに到着すれば、西進してダブリン方面へ向かう一行とはお別れ

となる。

独立行動し、配達業務に従事するバザールと、世界中を移動し、乱れの酷い地域を重点的に調整してゆく飛行艇のクルー達。

移動速度も違い、業務内容も少々異なる双方は、次にいつ会えるか判らない。

固く握って組んだ手を柔らかな胸にぎゅっと押し当て、バザールはため息をついた。

思いの丈を伝えようにも、相手は今、この飛行艇内に居ないのである。



「どないやねんもぉ!」

キッチンでフライパンを振り上げ、宙で裏返った半生の特大卵焼きを、衝撃を吸収するよう近い相対速度で受け入れ、僅か

にも崩さずキャッチするという荒技を披露しつつ、レモンイエローの獅子は困り顔で唸った。

「なんでこのタイミングで里帰りや!間が悪いにも程があるわ!」

「まぁまぁ、そろそろ帰って来るんだろ?ナキールのヤツ」

その後方で、冷蔵庫に背中を預けて立ち、日が高い内から早くも缶ビールを煽っている鉄色の虎は、気楽な口調で同僚に尋

ねる。

「そのはずやけど…」

「いくら何でも、まさかバザール降ろすまでに帰って来れねぇなんて事ぁねぇだろ?」

「そら問題無いやろ。…けど、余裕どんどん無くなって来とるやろ!?」

口調に焦りを覗かせつつも、ミカールの手は正確かつ素早く動き、卵焼きを完璧に仕上げてゆく。

しかし、手はともかく飛行艇の方には感情の揺れが如実に現れていた。

他のメンバーが自分の愛車とそうするように、ミカールは飛行艇とリンクしている。

自動操縦になっているとはいえ、レモンイエローの飛行艇は、彼の苛立ちや無念に影響され、時折ぐらついたり速度を落と

したりしていた。

もっとも、慣れっこのクルー達はその程度の事は全く気にしていないのだが。

「何でまたよりによって今システム改修なんや…。間ぁ悪いわホンマ…」

ミカールは大仰にため息をつき、繰り返し口る。

現在、咎持つ魂を浄化する特殊な異層…冥牢では、大規模なシステムメンテナンスが行われていた。

丁度良く移動と休暇期間に入っていたナキールは、彼本来の上司であるマリク、イスラフィルの招集に応じ、修復が完全に

済んでから今日までの数日間、ザバーニーヤとして現場復帰している。

そんな経緯で、狼男が折り悪く冥牢へ助っ人に行ってしまった為、ミカールが気合を入れてあれこれと仔細に渡って計画し

ていた「バザール、桃色の初恋大作戦〜ロンドン行き航空便に芽吹く恋の蕾〜」は、実行直前にあっさり頓挫してしまった。

「そう悲観したもんでもねぇさ。考えようによっちゃ、あいつの里帰りはプラスだ」

「…へ?なんでやねん?」

きょとんとした顔で振り返るミカール。その手は目と意識を離してもなおせかせかとフライパンを動かし、火の通りを最適

な物に保っていた。

「初めてなんだろ?バザールが誰かに恋愛感情を持つのってよ。初めて感じるその気分をこの数日である程度受け入れて、ちっ

とは馴染ませられたんじゃねぇかなぁ?その分はきっと、面と向かって話す時にプラスになる。ある程度は取り乱し難くなる

はずだぜ」

「そういうもんなんか?」

「そういうもんなんだ」

不思議そうな顔をしたミカールに、ムンカルは肩を竦めて見せる。

「お前の時はどうだったんだよ?新しい気持ちを恋だって認識した時、どんな具合だった?それから、ある程度落ち着くまで

いくらか時間必要だったんじゃねぇのか?」

問われた童顔の獅子は、思い出すように視線を上げ、

「かもしれへん…」

と、やや俯いてから呟いた。

「けどお前…、ワシには落ち着いて気持ち整理する余裕なんてくれへんかったやんか…」

「がははははっ!」

ミカールが恨みがましい目でジロッと睨むと、ムンカルは声を上げて豪快に笑った。

「そいつは悪かった!何せ辛抱堪らなくてよぉ…、ミックは魅力的だからなっ!」

これを聞いた獅子は、フライパンに目を戻しつつ、「…そか…」と呟く。

その尻尾は、上手い言葉が出て来ない事を誤魔化すように、左右にヒュンヒュンと揺れていた。

「…そ…、そいでな…、成功率どの程度や思うとる?」

話題を変えたミカールに、虎男は「う〜ん…」と唸ってしばし間を置き、慎重に口を開いた。

「微妙だ。俺が知ってる一般的な美意識基準からすりゃあ、バザールは美人でもグラマーでもねぇ。容姿に恵まれたアズライ

ルが旦那にベタ惚れしてんのとは状況が違う。真逆って言っても良いからな」

「…そうなんか?」

「けどまぁ、勝ちの目が全く無い…って訳でもねぇ。二人とも人間じゃねぇからな」

ムンカルはそう言うと、ミカールをピッと指さした。

「そいつだよ。ミックの今の反応…」

「へ?」

首を傾げたミカールに、ムンカルは苦笑いを浮かべる。

「こいつはワールドセーバー全体…いや、堕人も含めて種全部に言える事かも知れねぇが、俺が見たトコ、人間とは美意識が

結構違う。…といっても、「恰好良い」とか「美しい」とか、そんな基準は大概のヤツが人間と似通ってるんだがな」

鉄色の虎が何を言いたいのか理解できず、童顔の獅子はじれったそうに尻尾をヒュンヒュン振り回す。

「つまり何やねん?似とんの?似てへんの?」

「半分だけ似てるんだ。今挙げた逆…、要するに「恰好悪い」とか「醜い」とか人間が評価するモンについては、同じような

反発や忌避を持ってるヤツがあまり居ねぇ」

「…どういうこっちゃ?」

完成した特大卵焼きを大きな円形の皿に移しつつ、ミカールは首を傾げる。

「俺が今、美意識を物差しにした例…、旦那とアズライルのケースを出しても、ピンと来なかったろ?「そうなんか?」なん

つってよ」

「そら…、ん〜…そやったな。確かにピンと来ぃへんわ」

流し横の作業台に皿を乗せ、取り皿とスプーンをあてがいつつ、ミカールは頷く。

「例外もいくらか居るみてぇだが、ナキールなんて絶対にアレだ。物の美醜を感じるセンスまで「欠落」してるぜきっと。バ

ザールを見た目だけで嫌う事はねぇさ」

ミカールに手招きされたムンカルは、完成したばかりの卵焼きの前に立ち、「何カロリーあるんだこいつ?」と苦笑いする。

「ま、話しながらおやつにしとこ。冷めたら美味くなくなってまうで?」

「大丈夫だと思うけどな。ミックが作ったんだ。冷めても美味ぇさ」

虎男のさりげない一言で、少し嬉しそうに尻尾をパタつかせるミカール。

再誕前はブルックリンでブイブイ言わせていた百戦錬磨のムンカルは、相手を喜ばせるツボをわきまえている。

バザールとナキールの事を考えている昨今は、ミカールも影響されてその気になり易くなっている事を重々承知している為、

あわよくば…という思いから、自分の望む形の夜へ持ち込む下準備に余念が無い。

常々駄目駄目言われている虎男。こういった事に関しては抜け目なさが半端では無い。

まだ熱い卵焼きを取り分け、ケチャップをかけてハフハフ言いながら食べ始めたミカールに、ムンカルは先を続けた。

「でだ、結論から言うと「少なくとも嫌われる事はねぇ」と俺は踏んでる。だが、上手く行くかどうかは別問題だ」

「ふぁんふぇは?」(何でや?)

「がはは!食うか喋るかどっちかにしろって、可愛いなぁこの食いしん坊!」

不意打ちで可愛いと言われて噎せたミカールをニヤニヤと見つめながら、ムンカルは尻尾をクイッと持ち上げ、器用に獅子

の背中を撫でる。

「えふっ!えふっ!あ、もぉえぇ、平気や…。で?別問題って何でや?」

「ナキールの欠落の関係でだよ。バザールが慕っても、ナキールの野郎自身が恋心について全く理解できねぇんじゃ話になら

ねぇだろ?」

ミカールは首を傾げつつ、再び大口を開けて卵焼きを詰め込む。

「…ふぉほふぁほへ、ふぉひほひっへはほ?ひょーふふうふぉんふぁふぇ」(そこはホレ、押しの一手やろ?情移るもんやで)

「俺がお前にしたみてぇにか?」

「……………」

動かしていた口をピタリと止め、黙り込んで恥ずかしげに目を伏せるミカールに、ムンカルはビールをグビッと煽りながら

続けた。

「その手もねぇ訳じゃねぇんだけどな…。アタックして玉砕したら悲惨だぜ?積極的に行くバザールと、全く理解できねぇで

無表情にそれを眺めてるナキールの姿、ちょっと想像してみろ?」

考えながら卵焼きを飲み込んだミカールは、「…あぅあ…」と漏らして顔を顰めた。

「何やこう…、想像するだけで痛々しい光景やな…」

「だろ?少なくともその場に居合わせたくねぇ状況だな」

寒気でも覚えたように耳を倒して首を縮めるミカールに、「だからよ」とムンカルは続けた。

「どっちかっつぅとバザールの玉砕ダメージを軽減する為にも、正攻法で行くべきだと思うんだよ。さりげないアプローチか

ら親交を深めるって常識的なヤツだ。状況によっちゃそのまま告白に持ち込む手も…。けどちょっと厳しいか?」

「お前の頭でも確実な手は思いつかへんのかぁ…」

「残念だがこいつは難しいな。ナキールみてぇなヤツ、後にも先にもあれっきりだ、他に見た事ねぇしよ」

手が伸びないと見て取ったミカールが卵焼きを取り分けて手渡すと、大きく息を吸い込んで匂いを嗅いだ虎男は、「まぁ、

手は一つ打った」と呟き、口の端を僅かに上げる。

「お前に頼まれてたバザールのバイク修理な、実はまだやってねぇんだ。旦那にも手ぇ出さねぇでくれって言っといたし、ま

だぶっ壊れたまんま…」

「何さらしとんじゃオドレぇっ!?日数無いゆーたやろがこのトンチキがぁっ!」

「スネっ!?」

弁慶の泣き所を容赦なく爪先で蹴られ、ムンカルは片足立ちになって飛び跳ねる。

その手から落ちた卵焼きの皿をキャッチしたミカールは、脱いだスリッパを手に取りボフボフアタックでの追撃に移ろうと

したが、

「待て待て待て話聞けって!理由があんだよ理由が!キレんなっての!」

と、ムンカルが必死な声を上げると、とりあえず踏み止まる。

「おー…いってぇ…!別にサボってた訳じゃねぇ、修理をナキールにやらそうって考えたんだよ!バザールが話しかけるきっ

かけになるじゃねぇか!」

「…むぅ…?」

ミカールは少し考え、それから「おおぅ!」と、納得したように表情を緩めた。

「なるほど!こういう事にはホンマ頭がよう回るやっちゃなぁ!」

「褒める前にまず謝れよ!いきなりスネ蹴った事謝れよ!」

「はいはいすまんすまん」

「軽っ…」

涙目になったムンカルは、「ごほん!」と咳払いして気を取り直す。

「とにかく、自分のバイクを修理してくれてるナキールになら、バザールも声かけやすいだろ?一緒に居られる時間は少ねぇ

んだ。アイツが転送されて来次第、すぐにも作業に取りかかって貰うさ…」



狼男がゆっくりと目を開けると、そこは白い部屋であった。

「おかえり、ナキール」

正面に立って微笑みかけている北極熊に頷き、ナキールは口を開く。

「ただいま、ジブリール」

スラリと引き締まった体躯に、金属的な光沢を帯びた灰色の被毛を纏う狼男は、ずっと昔にもこんな事があったと、ぼんや

り思い出した。

かつて冥牢から出向となった折、一度目の転送に立ち合ったのもジブリールであった。

そして今、初めての里帰りを終えて戻った自分を迎えたのも、あの時と同じく北極熊である。

「どうだった?久し振りの冥牢は。…まぁ、仕事で赴いたんだから、のんびりして来られた訳でもないだろうけれど」

「これまで経験したいくつかの事象と比べても、「懐かしい」をより深く学習できた。…かもしれない」

「それは素晴らしいね。結構な事だよ」

妙な言い回しに笑顔で応じたジブリールは、「お風呂にするかい?それとも食事?」と、夫を出迎えた嫁のようなセリフを

口にしつつ、開けっ放しにしていたドアに向かい、

「うぶっふ!?」

そこから弾丸のような勢いで飛び込んで来たレモンイエローと激突した。

それは、フォルムもあって黄色い砲弾の如き一撃であった。

脂肪が分厚く蓄積された北極熊の巨腹に深々と顔を埋める形になったミカールは、「むぶっ!?」と呻いた直後、軽く跳ね

返ってたたらを踏み、後から来たムンカルに支えられる。

壁のような北極熊の巨躯と脂肪で、勢いが完全に減殺されていた。

「酷いなぁミカール。前方不注意だよ?」

「阻んだのお前やんか!うすらでかい図体しくさってホンマ!このブヨッ腹!」

自分の事は見事なまでに棚に上げて喚くミカールの耳に、後ろから羽交い締めにしたムンカルが「こらこら後にしろ後に!」

と囁きかける。

「ようナキール。お帰り」

「ただいまムンカル、ミカール」

無表情に応じたナキールに、ムンカルはニヤリと笑いかけた。

「戻って早速で悪ぃが、頼みてぇ事がある。ちょっと休憩したら面貸してくれ」



「…む?」

首を傾げたアズライルのすぐ後ろから、バザールが「どうしましたぁ?」と、不安げに尋ねる。

黒豹の後ろにピッタリと寄り添い、肩に手をかけて隠れている桃色の豚は、体格の関係上、実際にはまったく身を隠せてい

ない。

飛行艇の格納庫内、ナキールの部屋に通じるドアの前で、アズライルはノックした手を宙に留めたまま眉根を寄せる。

「…ナキールは、部屋に居ないようです」

「な、ななななら出直しましょぉ?ね?そうしましょぉ?お疲れですよぉきっとぉ!」

オドオドとしながら訴えるバザール。アズライルに誘われて一緒に「おかえりなさい」の一言を告げに来ただけなのだが、

既にこの挙動不審振りである。

風呂か?食堂か?どちらに行こうか考えるアズライルは、ふと横に視線を向けた。

「あ…、ジブリール…」

のっそりと部屋から出てきたジブリールは、ナキールの部屋の前に居る二人に気付くと、「あれ?ナキールにお帰りの挨拶

かい?」と首を傾げた。

「ええ。部屋に居ないようなのだが…、何処に行ったのだろう?」

「ああ、ムンカルの部屋に行ったはずだよ。何でも話があるとかでね」

「そうか…」

背中に縋り付いたまま、ホッと息を吐き出して緊張を緩めているバザールの様子には気付かぬまま、

(…勇気を振り絞ってお帰りを言いに来たバザールの出鼻を挫くとは…。いい度胸だ、撃ち殺してやろうかあの筋肉達磨?)

アズライルは不穏な空気を漂わせ始めていた。



その数分後。アズライルの部屋に戻り、緊張から解放されてほっと一息ついていたバザールは、床にベタッと座り込んで、

ぼんやりと鏡を見遣った。

ナキールの顔が見られない事が、この数日は残念で仕方なかった。

ところが、当人がやっと帰って来たというのに、今度は声をかける事に尻込みしてしまっている。

(本当に…、どうしちゃったんでしょう?私…)

胸の奥が苦しくなり、重ねた両手をそっと当てる。

その気持ちは恋という物なのだと、ミカール達から聞かされた。

長く配達人をしてきたバザールは、人間達の営みに含まれる恋というものについては、ある程度知っている。

だが、知っていた恋と体感する恋は、全くの別物であった。

(ナキールさんの事を考えると…、苦しくて…辛い…。けれど、胸の奥が温かくなって…)

不快なようでそうではない。苦痛なようでそれだけではない。

その複雑な甘酸っぱい思いは、バザールを落ち着かない気分にさせた。

ぼんやりと、真新しく新鮮な感覚を味わっていたバザールは、ノックの音を耳にして首を巡らせ、居住まいを正した。

「はいー。あ…。アズライルさんでしたら居られませんよぅ?」

そう応じたバザールは、直後、ドアが静かに開くと同時に息を飲んだ。

「具合はどうかね?バザール」

金属的な光沢を持つ灰色の狼が、開いたドアの向こうに立っていた。



「…それで、アイツの事だから挨拶まで気が回らねぇかもしれねぇと思ってな、バイクの修理の件を頼むと同時に、バザール

に声かけて来るように言ってやったんだよ」

「なるほど。では今頃は…」

「ああ。お前の部屋に行って、ツラ見せてるはずだ」

ムンカルはそこで言葉を切ると、「それで…」と、何かに耐えるような声音で呟く。

「解ったら銃を除けろ!」

床に仰向けになり、分厚い胸を足で踏まれて眉間に銃を突き付けられている虎男は、胸を踏みつけている黒豹へ憤慨しつつ

叫んだ。

ドアを開けるなり出会い頭に鼻面へ遠慮の無い渾身のストレートを貰い、仰向けにひっくり返った所で容赦なく胸を踏みつ

けられ、頭部にデザートイーグルを突き付けられるという一連の暴挙の名残で、虎男の鼻からはタラタラと血が流れ出ている。

「謝れよ!まず謝れよ!」

「悪かった悪かった」

「軽っ…!」



「な、ナキールさん…!お、おおおお帰りなさいです!」

わたわたと立ち上がったバザールに「ただいま」と短く応じたナキールは、

「それで、もうすっかり良いのかな?見たところ元気そうに思えるのだが」

「はは、はいぃっ!お陰様でもぉすっかり元気ですよぅ!」

「それは何より」

ガチガチに固くなっているバザールと、相変わらず受け答えがお堅いナキール。

そんな狼男に、

「明日の予定はどうなっているのかね?」

と、無表情のまま尋ねられ、バザールは「へっ?」と、目を丸くしつつ裏返った声を上げる。

「君のバイクだが、自分が修理をしたい。差し支えなければ最終調整だけでも立ち合って貰い、仕上がりを確認しつつ付加機

能などについて意見を聞かせて欲しいのだが」

「そ、そそそんなっ!確認だけなんてそんなっ!手伝いますっ!手伝いますよぅっ!知識はないですけど、簡単なお手伝いな

らできますからっ!有り難う御座いますっ!有り難う御座いますぅっ!」

「いや、確認だけで結構なの…」

手伝いは特に必要無い。そう思って断ろうとした狼男の言葉を遮り、桃色の豚は声を上げた。

「いいえぇっ!お手伝いしますよぅ!わたしのバイクなんですからぁっ!」

親しくなる絶好の機会と見て、バザールは必死に食らいつく。

ブンブンと首を横に振るその動作が激し過ぎて、豊満な胸や腹、全身にポッテリと乗った脂肪がタプタプと揺れる。

それを少し恥ずかしいと感じるのも、彼女にとっては始めての事であった。

かなり必死で余裕が無い、切羽詰まっているようなバザールの印象を、

(勝手に弄られては困るという事だろうか?確かに、愛車を見知らぬ誰か…それも修理人でもない者に弄られるのは不安に感

じるかもしれないな)

ナキールはそう解釈し、頷いた。

「了解した。では、手間をかける事になって済まないが、助力を頂くとしようか。よろしく頼むよ」

「て、手間だなんてそんなとんでもないっ!ここ、こちらこそヨロシクお願いしますぅ!」

軽く会釈したナキールに、バザールは深々と頭を下げる。

(や、やったっ!親しくなれるチャンスかもですよぅっ!)

胸中でこっそりガッツポーズを取るバザールは、バイク修繕作業中にどんな事を話そうかと、早くも舞い上がる。

そんな彼女の興奮気味な様子を見て取ったナキールは、訝っているように僅かに目を大きくすると、ツカツカと桃色の豚に

歩み寄った。

真正面、それもすぐ傍まで足早に寄って来た狼男の顔を、少し背が低いバザールはドギマギしながら見上げる。

「あ、あれ?ど、どどどうかなさいましたかぁ?」

「体温の上昇と発汗、心拍数の増加が確認できる。やはりまだ調子が悪いのではないのかね?」

そう尋ねるなり、ナキールはバザールの額へ手を乗せた。

直後、ボシュッと音を立て、バザールの両耳と鼻穴から蒸気が噴き出す。

「…バザール?」

一気に噴出した湯気に驚く事も動じる事もなかったナキールは、それでもバザールの様子が明らかにおかしい事には流石に

気が付いた。

桃色の体色を茹でたタコのような赤色に変じさせたバザールは、ぐらりと後ろへよろける。

鼻穴から湯気の名残をたなびかせながら倒れてゆくバザール。その体を、ナキールは敏捷な動きを見せて支えにかかった。

瞬時に横手に回り込んで背に腕を入れ、後頭部と背を床に打つ事を避けさせる。

そのまま横から抱く恰好で自らも屈み、ゆっくりと、尻餅をつかせる恰好で床に降ろしたナキールは、

「バザール?どうしたのかね?」

ガッチガチに固くなり、まともに目を合わせられなくなっているバザールの顔を、訝しげに覗き込んだ。

「あ、や…、ややややややっ!めめめ目眩ですっ!軽い目眩ですよぅ大丈夫っ!」

「やはり本調子ではないのだね。一度ミカールかジブリールに看て貰った方が良さそうだ」

大慌てで首をブンブン横に振っているバザールは、

(…は、恥ずかしぃですぅ…!けどでも、ちょっとラッキー…?)

スマートな見た目に反して意外に力強く、そして逞しい腕に背を支えられたまま、赤くなった体をさらに赤く染めていた。

そんな彼女の、ずっしりと重みのあるぽってりとした体を支える狼男は、

(…?この独特な柔らかさ…。初めての感触だな)

ジブリールやミカールの体とも少し違う、特有の柔らかさと弾力、張りを備えたバザールの感触に、微かな戸惑いを覚えて

いた。