第一話 「配達人はアイアングレー」

ついていない。

職安の待合室で込み合った長椅子に座り、ぐったりと項垂れている彼の状況を、一言であらわすならば、その一言につきる。

安物のスーツとワイシャツを身につけた中年の男は、「はぁ〜…」と、ため息を吐き出した。

これといって特徴の無い顔立ち。背丈は平均程度だが、やや中年太り。

押し上げる頬肉のせいで細くなった目は、困ったような表情を浮かべてもなお、本人の意図に反して微笑んでいるようにす

ら見えた。

そこそこの大学を出て、そこそこ有名な文具メーカーに就職して十五年。

彼の生活は順調だった。ついこの間までは。

ライバルに競り勝ち、大きなプロジェクトを任され、高揚感に包まれていた。

一年半交際してきた恋人に婚約を申し込み、オーケーの返事を貰えた。

新生活の為に、少し無理して眺めの良い海際の高級マンションを買った。

彼は幸せの絶頂にあった。ついこの間までは。

数時間も過ごした職業安定所の待合室で、彼は最近癖になりつつあるため息を再び吐き出す。

極秘プロジェクトの内容を漏らしていたと、あらぬ疑いをかけられたのは、半年前の事だった。

彼が主導するプロジェクトで商品化が企画されていた、斬新なコンセプトの商品群。

それらと酷似した品物が、ライバル社でいち早く商品化、発表されてしまった。

細部に至るまでが酷似した商品の出現によって、疑いの目は彼に向けられた。

全体像を把握しているのは彼ただ一人。開発データの入っているパソコンには、時間外に彼のパスでアクセスし、データを

コピーした痕跡が残っていた。

まったく覚えがない事だった。社外にデータを持ち出していないのはもちろん、データをコピーした事も無かった。

そもそも、リーダーを任された彼は、プロジェクトを成功させれば出世は約束されたようなものだった。

それなのに、情報を他社に売り渡すメリットなど殆ど無い。

だが、彼がどう主張しようと、状況証拠は、周囲は、彼を黒と判定した。

程なく、一方的な解雇通告が言い渡された。

「訴えられないだけでも有り難いと思え」

と、彼のライバルでもあった同僚は嗤っていた。

恋人との婚約は解消された。

生き甲斐としていた職を、初めて出来た恋人を、未来への希望を失った。

自分にとっては、それらが人生のほとんど全てだったのだと、彼は失ってから初めて気付いた。

それでも、働かなくては生きていけない。マンションを買った借金も残っている。

希望ではなく惰性で、彼は今日も職を探しに来ている。

これから、自分の運命を大きく変えてしまう、実に奇妙で不思議な男と出会う事になるとは、この時の彼には予想もできな

かった。



彼、門脇弘道(かどわきひろみち)がそのデパートに向かったのは、なんとなくだったのだろう。

彼自身、後から思い返してみても、この時デパートに向かった明確な理由は判らなかった。

強いて言うなら、日の光を反射し、キラキラ輝くデパートは遠目にも眩しくて、なんとなく足を向けた。ただそれだけの事

だったのかもしれない。

真っ直ぐにデパートを目指しながら、スクランブル交差点を渡る。

丁度彼が交差点の中央にかかったその時だった。大きなカートを引きずり、人混みの中で四苦八苦しながら向こうから歩い

てくる一人の老婆に気付いたのは。

人混みに惑い、息を切らせている老婆の姿を目にし、カドワキに憐憫の情が湧いた。

これまで駆け足で生きてきた彼は、その歩き疲れたような老婆の姿に奇妙な親近感を覚え、これまでにした事のない行動に

出た。

「大丈夫ですか?」

歩み寄ったカドワキは、老婆に優しく声をかけると、その手を引き、導いて歩き出す。

彼自身、少し驚いていた。見ず知らずの老人にこうして親切にしてやった事など無かったと、カドワキはこれまでの人生を

振り返る。

やがて、道を渡りきった老婆に何度も何度も、嬉しそうに礼を言われた彼は、少し気恥ずかしい思いをしながら、次の信号

を待って、改めて道を渡った。



カドワキは、辿り着いた屋上で街並みを眺めていた。

もうじき梅雨だというのに、地上10階の風は冷たい。

隣接する立体駐車場からデパートへと続く、眺めの良い空中歩道に何気なく足を向け、自分は何故こんな所に来たのかと自

問する。

無駄な事をしている。そう思いながら、自分の肩程までの高さの手すりにもたれかかり、上に両腕を乗せ、彼はまた深いた

め息をついた。

人気のない、風の音が甲高く鳴る屋上はひたすらに寂しく、気分が滅入る。

これからの事を考えれば考えるほどに、気分は際限なく暗く沈んでいく。

それが判っているのに考えずにはいられない、思考の悪循環を断ち切る術を、彼は持っていなかった。

キコッと、軽い、そのくせ耳障りな金属音が鳴ったのは、カドワキが二度目のため息をついたその時だった。

(…え?)

体が前に傾いでいく感覚。見下ろしていた遙か下の地面が上にせり上がり、見えていた空や向かいのビルは視界の上方に消

える。

接続部が緩んでいたのか、それとも老化していたのかは判断がつかなかった。

それでもカドワキは、もたれ掛かっていた手すりが外れ、自分が空中に投げ出されたのだけは悟った。

(…あ…。私はもしかして、これで死ぬのかな…?)

カドワキは、自分でも意外なほどに冷静だった。恐怖はあまり無く、ただ冷静に、

(痩せていれば、手すりは外れなかったかな…?あぁ〜…、地面に落ちた瞬間はさぞ痛いだろうなぁ…)

と、そんな事を考え、もげた手すりを抱き締めながら、きつく目を瞑った。

落下してゆく彼の耳元でビョウビョウと鳴る風の音に混じり、動物が唸るような低いエンジン音が聞こえる。

彼が思っていたより早く、衝撃はやって来た。そして、思った通り痛かった。

体の下で何かが潰れるような感触があった。

低いエンジン音は先程よりも近くで聞こえ、急ブレーキの甲高い音と、タイヤが焼けてでもいるのか、焦げ臭い匂いが鼻を

突いた。

腹部に衝撃を受け、肺の中の空気を一気に絞り出され、カドワキは苦鳴を上げる事もできずに噎せ返る。

そして…、

「うおっ!?なんだお前!?どっから湧きやがった!?」

激しく驚いているらしい、野太い男の声を耳にし、カドワキは目を開ける。

「は?え?う、うわわわわわあああああぁぁぁっ!?」

狼狽した叫びを上げるカドワキの視線の先で、遙か遠くの地面が、高速で横に滑ってゆく。

カドワキは大型バイクの後部座席に、俯せに、横向きに覆い被さっていた。

だが、彼は自分がしがみついているソレをバイクと認識する事は、しばらくはできなかった。

何故なら、彼の知っているバイクという乗り物は、空中を飛行するものでは決してなかったから。

「う、うわっ!うわわわわわっ!」

「えぇいっ!じたばたしねぇでじっとしてやがれ!」

狼狽して震えだしたカドワキの耳に、先程聞こえた男の声が響いた。

バイクは急に横倒しになり、カドワキの視界から地面が消え、デパートの窓が目の前に迫る。

窓の向こうには、上下逆さまになったデパートの買い物客の姿が見えた。

カドワキは頭を地面に尻を空に向けた状態で、実に奇妙な事に、デパートの壁にタイヤをつけて真横に走るバイクの後部座

席に倒れ込んでいる。

不安定な体勢ながらも振り落とされる事も無く、まるでそのバイクの周囲だけ、重力の向きが変わってしまっているかのよ

うに。

ただし、もはや異常事態に真っ白になりつつある彼の脳は、その奇妙な状況すらも奇妙な事とは捉えられないでいたが…。

やがて、ブレーキ音とタイヤが擦れる音が止み、バイクはデパートの壁に対して垂直の状態で停車する。

全身から汗が噴き出し、ドクドクと胸が鳴り、ハァハァと荒い息をつくカドワキの耳に、また先程の男の声が届く。

「…で、何だお前?どっから出やがった?」

冷や汗が伝い落ちる丸い顔を上げ、首を巡らせたカドワキは、バイクに跨り、自分を振り返っている男の姿を目にし、完全

に硬直した。

黒光りするレザーのつなぎ。その背中には真っ白な、鳥を思わせる羽が一対、あたかもそこから生えているようにプリント

されている。

バイクの乗り手は、2メートルはあろうかという巨漢であった。

着込んだライダースーツの上からでもはっきり判るほどに、筋骨隆々たる立派な体格をしている。

どういう訳か腰の後ろ、つなぎの尻からは、灰色と黒の縞々の太いロープのようなモノが伸びて、宙に揺れていた。

だがカドワキが硬直している理由は、相手が巨漢だったからでも、自分が置かれている奇妙な状況を認識したからでもない。

その男の顔が、人間のモノではなかったからである。

顔全体を覆った、鋼鉄の色を思わせる鈍い光沢のある濃い灰色の毛。それと同色の目には、縦に細長い瞳孔。

まるで針金のようなピンと伸びたヒゲ。そして頭の上の方から斜め上に向かう耳。額や頬に走るくっきりと黒い縞模様。

「ぎゃぁあああああっ!ばけものぉおおおおおおっ!?」

虎顔の巨漢という理解不能な生物を前に、カドワキは悲鳴を上げた。

「おうおうおう…!無賃乗車のあげくにひとさまをばけもん呼ばわりとは…、良い度胸だな兄ちゃん?えぇオイ?」

灰色の虎は口の端を吊り上げ、鋭い牙を見せて顔を歪める。

「だいたいどっから現れやがった?長年配達人やってるが、業務妨害されたのなんぞ初めてだぜ…」

不機嫌そうに続ける虎男を前に、カドワキはガタガタ震えるばかりで、返事もできない。

虎男は目を細めてカドワキを見つめ、しばらく黙り込んだ後、苛立たしげに舌打ちした。

「…仕方ねぇ…、一旦休憩にするか…」



「ほれ」

放られた缶コーヒーを胸の前で受け止めると、

「あ。ど、どうも…」

ベンチに座ったカドワキはぺこりと頭を下げた。

そして、自販機に小銭を投入している虎男の後ろ姿を、改めてまじまじと見つめる。

マスクを被っているとか、特殊メイクだとか、そういったものだろうかとも思ったが、どうにも違うらしい。

男の虎顔は、微細な表情を実に自然に形作っていた。

大口をあけ、ペットボトルの緑茶をガブ飲みしている様子を見て察せられたが、マスクやメイクだとすれば、よほど口が大

きい人間…、それこそ顔の下半分が口という事になる。

そして、さらに奇妙な事には…、

(なんで…)

カドワキは周囲を見回し、胸の内で自問する。

二人は今居るのは、団地に隣接する公園。

ベビーカーに乗せた赤子をあやす母親達や、散歩している老人、サッカーに興じる数人の子供達の姿もある、のどかで静か

な公園であった。

(なんで…、誰も驚かないんだ…?)

カドワキが疑問に思うのも無理のない事だった。

大型バイクの後部座席にカドワキを乗せた、灰色の虎の頭を持つ巨漢が公園に入った時も、ちらりと視線を向けた程度で、

誰一人としてさほど関心を払わなかった。

まるで、普通の人間を見るような、そんな自然な反応だった。

考え事をしている間に、虎男はカドワキの傍に歩み寄り、隣に腰を下ろす。

「ふぅ〜ん…。身に覚えのねぇ事で首切りねぇ…」

虎男は中身が半分ほどに減ったペットボトルをゆらゆら揺らし、呟いた。

カドワキは虎男の呟きに頷き返す。

ここまでに、カドワキは自分がデパートの屋上から落下するに至った経緯と、ついでに自分が置かれている状況について、

虎男に話していた。

同情するでも、共感するでも、否定するでもなく、淡々と相づちだけ打って話を聞く虎男の様子に、カドワキはむしろ安心

した。

他人から慰められるのが、彼はどういう訳か恐かったのだ。

「なるほどなぁ、それで境界を踏み超えちまったのかぁ…」

「境界?」

納得したようにうんうん頷く虎男に、カドワキが問い返す。

「お前、死んでも構わねぇと思ったろ?」

さらりと、虎男はそう言った。

普段なら「まさか」と笑って否定する所だろうが、カドワキは返事ができなかった。

(死んでも…構わない…?)

自分に問い掛けるが、イエスともノーとも判断がつかなかった。

ただ、もしも今すぐ自分が死んだとしても、影響を受ける者は誰も居ないのだろうとは漠然と感じた。

絶望し切っている訳でもなく、生きる事を諦めている訳でもないが、以前ほど人生に張り合いや意義が見い出せなくなって

いるのは確かだった。

「実感がねぇか?だが、俺を認識できちまうのが、何よりの証拠だ」

断言するように言った虎男の足下に、サッカーボールが転がって来て止まる。

虎男はボールを拾い上げると、

「そら、行くぞぉ!」

子供達に向かってポーンと投げ返した。

「ありがとー!」

「ありがとうございます!」

口々に礼を言い、笑顔で頭を下げた子供達に、虎男は「おう!」と、笑みを浮かべつつ手を上げて応じた。

それを呆然と眺めていたカドワキに視線を向けると、

「判るか?」

と、虎男は口を開いた。

「普通の連中はな、俺を人間じゃねぇとは認識できねぇんだよ。まして仕事中で、高レベルの認識迷彩をかけてる最中の俺の

存在を感知するなんぞ不可能だ。まっとうな生き物にはな。…たぶん、屋上から落ちた時に、死を受け入れちまったんだろう

なぁ…」

聞き慣れない単語を耳にして困惑しているカドワキを見つめ、虎男は首を傾げる。

「ちゃんと聞こえてるか?この国の言葉に合わせた思考で伝えてるつもりなんだが…」

「え?あ、あぁ…、はい…。まぁ、単語?…が…、その、いくつか判らないんですが…」

「ああそうか、悪い。同僚と話してるつもりで喋っちまってたな…。まっとうな人間となんぞ殆ど喋らねぇからなぁ…」

虎男はガシガシと頭を掻いてから続ける。

「まぁとにかく、小難しい理屈を抜きにするとだ、俺を正しい姿で認識できるのは、死に触れた者、死に逝く者…それこそ寸

前のな、そして死者そのもの、基本的にはこの三種類だけだ」

「死に触れた者と…、死の寸前にいる者と…、死者そのもの…」

呟いたカドワキは、虎男の口にした言葉から、ある存在を連想した。

死神。

自分の目の前に居る鉄色の虎は、もしかしてそんなモノなのではないだろうか?カドワキはそう考えた。

不思議と、恐怖は無かった。

あるいは恐怖を感じないというその事こそが、死神が見えてしまう、つまり死者の仲間入りをしている証拠なのかもしれな

いと、ぼんやり思った。

カドワキの横で立ち上がると、虎男は空になったペットボトルをヒョイッと放った。

空のボトルは自動販売機の横の篭、その狭い投入口にスポッと収まる。

「おみごと…」

「こりゃどうも」

思わず賞賛したカドワキに、虎男はニヤリと笑って応じた。

「さて、俺はそろそろ行くぜ」

そう言って踵を返した虎男に、カドワキは驚いて声をかける。

「あ、あの!私は…」

口封じなどをしなくていいのか?そう問い掛けようとした自分に、カドワキは失笑した。

「お前が、何だよ?」

問い返した虎男に、カドワキは苦笑いしながら告げる。

「口止めとか、口封じとか、そういうものをしなくても良いのかと思いまして…」

「がははははっ!必要ねぇさ。虎の顔した男に会いました〜、なんて言ったトコで誰が信じる?頭を疑われんのがオチだ」

「そういうものですか?」

「そういうもんさ。だから黙っとけ。じゃあ、もう仕事に戻らなきゃならねぇんでな、あばよ!」

軽い調子で言った虎男は、大型バイクに歩み寄った。

バイクに詳しくないカドワキには判らなかったが、虎男の乗っている大型バイクは、チョッパーと呼ばれるタイプのカスタ

ムバイクである。

フロントタイヤが前方へ長く突き出て、左右などからは余分なパーツが切り落とされ、二人乗りできるようになっている。

 階段のように段がついたシートはやや後方にシフトしてあり、全体的に重心が低く改造されていた。

長距離運転に適したカスタムを施されたバイクの、後部座席のさらに後ろの部位には、幅が30センチほどの横長の、長方

形の箱が取り付けられている。

バイクの乗り手と同じく、鉄を思わせる灰色をした金属製のその箱は、プリンターか何かのように、上部には横に細長い口

が開いていた。

虎男は、さきほど屋上から転落したカドワキが激突したその箱の上に手を翳し、しばらくしてから「ん?」と首を傾げた。

カドワキが見ている前で、虎男はその箱をポンポンと、軽く手の平で叩く。

しばらく待ち、また首を傾げた後、今度はコンコンと、拳で叩く。

さらに待ち、険しい表情で箱を見つめると、虎男はバンバンバンッ!と、かなり乱暴に平手打ちした。

「…やべぇ…!まさか、いかれちまったのか…!?」

顔を引き攣らせながらそう呟いた虎男は、上着の内ポケットから携帯を取り出すと、手早くボタンを操作して携帯を耳に当

てる。

「…おう!ナキール!今何処だ?発券機がいかれちまったんだ。手ぇ空いてるならこっちに…」

大声で電話にがなった虎男は、不意に言葉を切ってしばらく沈黙し、

「…くそっ!じゃあこの辺で修理できるトコを…、何ぃ!?直らねぇ!?何でだ!?」

通話の相手に何を言われたのか、大声で問い返した虎男は、やがて肩を落として通話を切った。

「嘘だろ?この辺りには修理人が居ねぇだと…?道を走りゃあやたらとコンビニとスタンドはあるってのに、何だって修理人

だけ…」

途方に暮れた様子で呟いた虎男に、カドワキはおずおずと歩み寄る。

その箱が何なのかは判らなかったが、自分が押し潰して壊してしまった事だけは察しが付いた。

「あ、あの…。私が壊して…しまったんです…よね?」

「…たぶんな…。発券機がぶっ壊れる程とは…、呆れたデブだなぁ…」

「ひどっ!」

思わず声を上げたカドワキの顔を、虎男は何かに気付いたような表情を浮かべ、じっと見つめた。

「…そうだ。…うん…。こいつは名案だな…」

ブツブツと呟き、何度もウンウンと頷くと、虎男はカドワキにニヤリと笑った。

「プータローなら暇なんだろ?ちっと手伝えよ」

「は?」

目を丸くしたカドワキに、虎男は続ける。

「発券機が壊れちまったのはお前のせい…。うん。こりゃあ間違いねぇ。だから手伝え」

それが当然と言わんばかりの、有無を言わせない口調だった。カドワキはたじたじになりながら、何とか口を開く。

「て、手伝えって…、それは、つまり…」

ゴクリと唾を飲み込み、カドワキは虎男の顔を見つめた。

「し、死神の…仕事を…!?」

虎男はしばらく沈黙した後、

「誰が死神だよ?俺は配達人だ!」

と、心外そうに抗議した。

「配達人?」

「ああ、届け物をして回るのさ」

首を傾げたカドワキに、虎男は大きく頷く。

「なぁに、そう難しい事を手伝えって言う訳じゃねぇよ。後部座席に乗っかって、このぶっ壊れた発券機の代わりに手紙の仕

分けをして貰いてぇのさ」

そう言うと、虎男は箱の後ろを開き、中から箱よりも一回り小さい、黒革の鞄を引っ張り出した。

肩にかけられるようにベルトがついたその鞄を、押し付けるようにカドワキに手渡し、虎男はさっさとバイクに跨る。

カドワキは虎男に押し付けられ、両手で持った鞄を見下ろす。

全体が黒革のしっかりした造りで、頑丈そうな口の留め金には、小指の爪ほどの大きさの青い宝石が埋め込まれていた。

「さぁ乗んな!とっとと片付けねぇと日が暮れちまうぜ?」

促されるまま後部席に跨ったカドワキを振り返り、虎男は思い出したように声をかける。

「ああ、こうなったら一応名乗っといた方が良いな…」

黒革のグローブをはめた手の、太い親指で自分を指し示し、

「俺はムンカル。よろしくな?」

丈夫そうな鋭い牙を口元に覗かせ、虎男はニッと笑ってそう告げた。



「この辺だと思うんだが…、反応はねぇか?」

河を渡る短い鉄橋、そのアーチの上で、足元を通り過ぎてゆく電車を一度ちらりと見下ろしたムンカルは、後ろに乗せたカ

ドワキを振り返った。

「え、ええと…」

カドワキは小脇に抱えた鞄の留め金、そこにはめ込まれた小指の爪ほどの宝石を見つめる。

青かったはずの宝石は、微かにだが赤みを帯び、紫に変化しつつあった。

彼がその事を伝えると、

「ふん…、もうちっとだな…。飛ばすぜ?」

ムンカルはそう呟き、アクセルを開ける。

バイクは猛々しいエンジン音を轟かせつつ、細いアーチの上から、猛スピードで発進した。

弧を描くアーチから飛び降り、防音フェンスの上端にタイヤを乗せると、バイクはグングン速度を上げて行く。

羽ばたく雀たちを追い抜き、電車を追い越し、二人を乗せたバイクは、細いフェンスの上を凄まじい速度で駆ける。

しかし、追い抜いた電車の客も、反対側の道路を走行する車のドライバー達も、雀達すらも、二人を乗せて常軌を逸した軌

道と速度で駆け抜けるバイクには全く気付けない。

最初は驚き、怯え、萎縮していたカドワキだったが、この奇妙なバイクと、ムンカルの選ぶ異常な走行ルートにも、少しず

つ慣れ始めていた。

時に壁を、時にトンネルの天井を、時には宙を、重力を完全に無視して駆けるそのバイクは、猛スピードで疾走しているに

も関わらず、不思議にも乗り手はそれほどの風圧に晒されていない。

せいぜい全速力で自転車を漕いだ程度の空気抵抗ではないだろうか?そう、しばらく自転車にも乗っていないカドワキは考

えた。

さらに彼が不思議に思ったのは、バイクに乗った経験の無い自分が、動きに合わせて自然に体重移動している事だった。

知識も持っておらず、経験も無く、もちろんムンカルから何か言われた訳でもない。

にもかかわらず、コーナーではハンドルを握る虎男に合わせるように、自然に、実に巧みに重心移動をおこなっている。

カドワキは絶叫マシーンが苦手で、自分が車を運転する際にもあまりスピードを出さない。

それなのに、猛スピードで疾走するバイクに不快さも恐怖も感じず、むしろ心地良さすら感じていた。

現在、バイクは非常識極まる事に、立ち並ぶ住宅を見下ろしつつ、鉄塔の間に張られた電線の上を走っている。

命綱無しの曲芸紛いのライディング。しかしこの状況に全く臆していない自分に、カドワキは少し驚いていた。

「あ、色が変わりました!紫色です!」

カドワキはムンカルにそう声をかけつつ、左腕を彼の逞しい胴に回したまま、片手で鞄を翳して確認する。

「なら近いな…。鞄の中から、消印が変わったヤツを出せ」

ムンカルは眼下の景色を素早く見回しながら、カドワキにそう告げる。

頷いたカドワキは鞄の口を開け、中を覗き込んだ。

鞄の中には葉書がぎっしり詰まっていた。それなりの風圧があるにも関わらず、鞄と葉書は風の影響を全く受けていないよ

うに、震えることも飛ぶこともない。

葉書に記された宛名も内容も日本語ではない。

カドワキは知らない事だったが、その葉書に記してあるのはアラビア語である。

やがて、鞄の中をまさぐっていたカドワキは、一枚の葉書を掴み出す。

他の葉書と違い、黒インクの消印が、ぼんやりと紫の光を放っていた。光は見る間に赤みを増し、深紅に近付いてゆく。

「赤くなってきました!」

「ああ、こっちも見つけたぜ」

手の平を上にして背中側に回されたムンカルの手に、カドワキは消印が赤々と輝く葉書を渡す。

革のグローブに包まれたムンカルの手は、葉書を受け取るなりグシャリと握り潰した。

そのまま顔の前に持っていった手の隙間から、ボシュッという音と、灰色の煙が漏れ出る。

再びその手が開かれると、そこには握り潰されたはずの葉書は無く、代わりに一発の弾丸が転がっていた。

357マグナム弾の形状をしたそれの弾頭は灰色。

紙のように真っ白な薬莢には、アラビア語でびっしりと何かが刻み込まれている。

ムンカルは薬莢に記された文面を確認して弾丸を口に咥えると、手放しでチョッパーを御しつつ、左手でジャケットの襟を

大きく開け放った。そのまま懐に右手を突っ込むと、黒い鉄の塊を引き抜く。

それは、バレルの長い、一丁のリボルバーマグナムであった。

ムンカルは右手で拳銃を操作し、リボルバー特有の回転シリンダーを押し出すと、咥えていた弾丸を左手で装弾する。

左手の指で擦るようにしてシリンダーを回転させ、右手のスナップを利かせて拳銃を外側に素早く倒すと、振られた反動で

ガシャッと音を立て、シリンダーは本体に収納された。

刹那の間も置かずに撃鉄を起こせば、シリンダーの六つのホールの内、一つだけに込められていた弾丸は、丁度撃鉄に叩か

れる位置に収まっている。

これらの全ては、送電線の上を猛スピードで疾走するバイクの上で、一瞬の内におこなわれた。

素早く、淀みのない、慣れた動作で射撃準備を終え、腕を伸ばして重量のある6インチバレルのマグナムを構えたムンカル

の視線の先には、陸橋を二人から見て右から左へ、真横に通過していく貨物トラックの姿があった。

助手席には誰もおらず、アルコールでも入っているのか、赤ら顔の眠そうな顔をした若い男がハンドルを握っている。

距離にして400メートル。カドワキには運転手の顔までは見えていないが、ムンカルの瞳はしっかりとその横顔を捉えて

いる。

「飲酒運転の挙句にひき逃げ…か…。最近は多いな、こういうのが…」

目を細めると、ムンカルは引き金を引き絞った。

ガォンッという、鼓膜が叩かれるような衝撃を伴う銃声に、カドワキが顔を顰める。

放たれた銃弾は、大気を貫いてトラックめがけて突き進み、閉じている助手席のガラスを通り抜け、運転手の側頭部に命中

した。

弾丸は、男の頭に傷を付ける事無く、すぅっと、頭の中に消える。

弾丸が貫いたはずの助手席の窓は割れず、男は狙撃された事にも気付かず、トラックは何事も無かったようにそのまま走り

去ってゆく。

「よし。15件目、配達完了だ」

ムンカルは鉄塔の上でバイクを停め、目の上に手でひさしを作り、走り去るトラックを眺めながら呟いた。

それから銃のシリンダーを押し出し、空薬莢を手の平に落とす。

白い空薬莢からは、先程は確かに刻まれていたはずの文字が跡形もなく消えており、つるんとした表面が光を反射している。

ムンカルがそれを握り込み、そして手を開くと、手の上には文字と消印の消えた、未使用の葉書が現れた。

「これ、後ろのポケットな?」

「あ、はい…」

差し出された葉書を受け取ったカドワキは、ムンカルに指示される通り、それを鞄の後ろ側にあるポケットに仕舞い込んだ。

「さぁて、次行くぜ!」

ムンカルに頷き返しながら、カドワキは先程彼から聞いた話を反芻し始めた。

報いの配達人と名乗った、ムンカルの仕事の内容の話を…。