第十一話「ミッドナイトブルーメモリーズ」(後編)
日曜の午後11時。前日の夜同様、ライダー達が峠の待避所に集まっていた。
翌日は平日のスタートとなる月曜だというのに、減るどころか昨夜より多く集まったライダー達の中で、リュウイチは極め
て大柄な男と向き合っている。
「ムンカル達の方はもうじき下準備を終えると思う。もう少しだけこのまま待っていてくれるかな?」
スタイルの良い女と長身の男を伴ってやって来た、ムンカルの代理人だと名乗るその男は、巨体に見合った低く落ち着いた
声でリュウイチに告げた。
「判った。…ところで、これからどうすれば良い?」
「変った事は特に何も。いつもやっているように、普通に峠を走ってくれればそれで良いんだ。…ただ、紹介したい人物が居
るんだけれど、到着が遅れているから、それまでは皆に居て貰わなくちゃいけないけれどね」
リュウイチにそう説明したジブリールは、同伴してきたアズライルとナキールに視線を向ける。
表情に乏しい黒豹と狼は、集まったバイクに興味があるらしく、ゆっくりと視線を動かして周囲を眺めている。
(さて…、こっちの準備は整った…。あとはムンカルが上手くやれるかどうかにかかっているけれど…)
胸の内で呟いた北極熊は、暗がりの奥へと消える峠の道の先へと視線を向けた。
路肩に寄せてアイドリングしたままのファットボーイに跨った虎男は、目を閉じて静かにその時を待っていた。
時折峠を駆け抜けてゆくバイクに間近を通られても、目を開ける事無く。
認識迷彩をかけてライダー達の意識を向けさせぬようにしたまま、まるで彫像のように微動だにしない彼は、しかし被毛を
ゆるやかな風になぶらせながら、感覚を研ぎ澄ませて変化に備えている。
前触れも無くムンカルが動いたのは、そんな状態が数十分も続いた後の事であった。
おもむろに目を見開くと、即座に腕を解いてハンドルを握り、周囲の気配の変化を入念に観察する。
「…あっちか…!」
気配が収束してゆく先、行く手に視線を向けたムンカルは、アクセルをあけ、バイクに獣のような雄叫びを上げさせた。
空転したタイヤがけたたましい音を立ててアスファルトを擦るが、一瞬後にはしっかりと地面を掴み、急発進する。
長い車体を持て余すことなく、木立に挟まれた連続する急カーブを次々越え、ムンカルは気配が濃厚になっているポイント
を視認した。
右手側に太平洋を見下ろす崖の上、200メートル程の直線の先で青白い光の粒子が集まり、バイクに乗った人の姿を形作る。
姿を整えながら前方へと高速移動を開始した光の塊は、走りながら周囲の光を集め、次第にその輪郭をはっきりさせてゆく。
追い縋るムンカルの灰色の瞳に、くっきりと像を結んだ首の無いライダーの後ろ姿が映り込んだ。
首無しライダーが直線の先の左カーブに姿を消した直後、それを追う虎男はおもむろにハンドルから手を離す。
手が離れてもなおアクセルが全開に固定されたままのバイクの上で、ジッパーを下ろして大きく開けたライダースーツの胸
元に右腕を突っ込み、ムンカルは6インチバレルのリボルバーを素早く抜いた。
事前に因果管制室から取り寄せていた死記を、魂のリカバリーデータを込めてジブリールに精製し直して貰った弾丸は、既
に装填済みである。
射線にさえ捉えれば確実に命中させる自信はあるのだが…、
「…くそっ!相当この道を走り込んでやがる…!」
連続するカーブによって常に路肩の木か崖が間に割り込む上に、離されないようにするだけでやっと。発砲のタイミングを
作れない。
闇に尾を引くテールランプを必死に追うムンカルは、直線に出るまであとどの程度か記憶を手繰り、舌打ちした。
次の直線はしばらく後。しかも大して長くはない。到達するまでに直線距離以上に間合いを離されてしまう可能性がある。
「人間の身で…よくもまぁここまで…!」
ムンカルは驚嘆混じりの声を漏らした。魂だけの存在になったとはいえ、走りそのものは生前のリュウジそのままである。
この走り慣れた峠の道に限って言えば、人の身でありながら配達人たるムンカルの技能を越えている。
まっとうなルートで勝負して勝てない。その事実にムンカルは驚き、悔しいながらも敬意すら抱いた。
首無しライダーが最後のカーブを抜ける。短い直線の後は、再びカーブが連続し、さらに距離を離されるのは目に見えていた。
追い縋るムンカルは、直線で相手の姿が見える瞬間、恐らくは一瞬にも満たない刹那の短い時間に掛けて一か八かで狙撃す
る事に決め、リボルバーを握り締める。
ムンカルを引き離しつつ先行して直線に入った首のないライダーは、その直線の中程、道の中央に立つ人影を、眼球に頼ら
ぬ視覚で捉えた。
風に鬣をなぶらせながら腕を組み、道の真ん中で仁王立ちしているのは、ずんぐりしたレモンイエローの獅子。
普段は半分脱ぎ、腰に袖を巻いて止めている黒革のつなぎを、今はきちんと着込んでいるミカールは、半眼になって面倒臭
そうな視線を首無しライダーに向ける。
速度を落とさず脇をすり抜けようとしたライダーは、しかしミカールとすれ違う直前に減速した。
まるで、水面に放り込まれた石が、水中に入った途端に勢いを殺されるように。
ブレーキをかけた訳ではない。車輪の回転が、エンジンの動きが、走行音が、減速再生された映像のようにスローになる。
その停滞の隙に直線に進入したムンカルは、速度が半分ほどに落ちた首無しライダーと、道の真ん中で腕組みをしている同
僚の姿を視界に捉えるなり、顔を顰めて舌打ちをし、銃を構える。
(余計な真似しやがって…!)
心の中で悪態をつきつつ、虎男はトリガーを引き絞った。
白に近い灰色の弾丸が、動きを鈍くした首無しライダーの背に命中し、消失する。
直後、その姿がザザッと、ノイズ混じりのテレビの画像のように乱れ、そして戻る。
首無しライダーの姿ではなく、生前の、フルフェイスのメットを被ったリュウジの姿に。
ミカールが腕を組んだまま目を閉じると、バイクは急加速した。
まるで、それまで頭を押さえられていたゼンマイ仕掛けのオモチャが飛び出すようにして、先程までの倍速で。
急ブレーキの音に続いて、愛車を止めたリュウジが振り返る。
道の真ん中に立つ太った獅子と、その脇でバイクに跨る筋骨隆々たる虎は、生前の姿を再現したリュウジの魂を見つめている。
「さすがはジブリール特製弾やな。磨耗した魂の復旧も上手く行っとる」
満足げに頷いたミカールの横で、ムンカルは「フン!」と不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「何で勝負に水さすような真似しやがった?」
不愉快さを隠そうともしないムンカルを、ミカールはジロリと睨んだ。
「ムンカル、自分をなんやとおもうとる?レーサーにでもなったつもりなんか?えぇ?」
「そんな事考えてもねぇ。だがな…!」
「「だが」やないわこのボケぇっ!えぇか!?お前は配達人や!配達すんのが仕事や!それとも何か?下らん意地張って配達
し損ねて、アイツを駄目にしてもえぇんか!?目的を見失うんやない!お前は何のために引き受けたんや?勝負する為やった
んか?救ったる為やなかったんか!?ハンパな真似してワヤにするんやったら、ハナっから引き受けんなや!」
怒鳴りつけられたムンカルは、反論できずに黙り込む。
勿論配達が優先だと頭では判っていた。だが、いざ追跡を始めると勝負に拘ってしまった。
負けん気の強さと熱くなりやすい性格を常から自覚しているムンカルは、怒鳴られて頭を冷やしたらしく、頬を掻きながら
少し項垂れる。
「…だな…。お前の言うとおりだ。悪かったよ…」
急にしおらしくなったムンカルに、ミカールは吊り上げていた目を半眼にし、コホンと咳払いした。
「オドレの意地っ張りなトコ、確かに短所やけどな、場合によったら長所や。意地の張り所、キッチリ見極めぇや…」
「おう…」
耳を倒して恥じ入っているムンカルから視線を外し、ミカールはリュウジを見遣る。
アイドリングしているバイクに跨り、胸の前に上げた自分の両手をぼんやりと見下ろしながら、リュウジは自分の死の瞬間
を思い出していた。
「どんな具合やボウズ?思い出せたか?」
突如かけられた声にビクッと首を巡らせたリュウジは、いつの間にか歩み寄っていた背の低い太った獅子の顔を、バイクの
上から見下ろす。
「…うん…。おれ、死んだんだね…」
力ない声からは、当然ながらショックを受けている様子が窺えた。
しばし黙り込んだ後にメットを脱いだリュウジは、まだ若さに満ちあふれている成熟しきっていない顔をミカールに向ける。
半人半獣たる異形の彼らが何者なのかは、打ち込まれた弾丸に添付された情報によって理解している。
そして、これから自分がどうしなければならないのかという事もまた知っていた。
「さて、そろそろ行こか」
ミカールが腕を振って促すと、リュウジは寂しげな様子で頷いた。
一度で良い。兄に会って謝りたかった。バイクを駄目にした事と、先に死んでしまった事を。
だが、魂だけとなった自分が普通の人間に見えない事は、魂に刻まれた情報で知っている。もう、詫びる事も別れを告げる
事も叶わないと判っている。
メットを被ろうとしたリュウジは、ミカールに「心の準備しとき」と声をかけられ、手を止める。
「お節介なアホウが、ボウズの送別会の手配しとんねや」
ニィ〜っと笑った獅子の丸顔を見下ろしながら、リュウジは訝しげな表情を浮かべて首を捻った。
「来た来た」
微笑しながら呟いた大きな白熊の横で、リュウイチは眩しそうに眼を細めながら、闇を裂いて接近してくる二つのヘッドラ
イトを眺めた。
何故か一方のエンジン音に反応するように心が震えたリュウイチは、待避所に進入して街灯の光を受けたバイクを見つめた
まま絶句した。
ミッドナイトブルーに塗装されたそれは、あまりにも見慣れたバイク…。彼自身がカスタムした弟の愛車であった。
フルフェイスのメットを被っているため顔までは見えないが、跨るライダーは背格好まで弟と瓜二つである。
ギャラリーがざわめく中、皆の注目を集めているライダーに同行して来た二人連れ、朝に会った二人組がバイクを降りてリュ
ウイチに歩み寄る。
「悪ぃな。かなり遅くなっちまった」
笑いかけたムンカルをまん丸にした目で見つめながら、リュウイチはミッドナイトブルーのバイクに跨るライダーを指さした。
「あ、あれっ…!あれはっ…!?」
「ああ。弟さんのファンだ。真似て選んだ自分のバイクにな、追悼って事で同じ塗装をして来たんだ。ここまで遅れちまった
のは実はそのせいでよ。急なもんでなかなか塗装が乾かなくてなぁ」
ムンカルがリュウイチにしている説明が、周囲に居たギャラリーから広まってゆき、程なく待避所は落ち着きを取り戻す。
「こいつ相当速ぇぜ?で、追悼の仕上げにな、最高のレースを見せてやろうかと思ってよ」
ムンカルは背を曲げてリュウイチの耳に口を寄せ、ある事を耳打ちした。
「道の途中にギャラリーを散らす?」
「おう。ここじゃスタートとゴールしか見えねぇだろう?腕の見せ所、連続カーブやヘアピンに観客を散らす。どうだ?」
提案を受けたリュウイチは、皆に意見を聞いて回った。
常には無い観戦方法だったので、概ね好意的な返答が上がり、ギャラリーはバイクや車で峠の長い道に散ってゆく。
自分は何処で観戦しようかと考えながら車に歩み寄ったリュウイチは、
「ちょい待て。兄ちゃんにはやって貰いてぇ事がある」
と、ムンカルに呼び止められ、訝しげに振り返った。
「スタートサインと、勝者の見極めを頼みてぇ。引き受けて貰えるか?」
「ああ。構わないが…」
リュウイチは応じながら頷くと、首を巡らせたムンカルの視線を追う。
その先では、弟そっくりなライダーに、ムンカルと二人乗りしていたずんぐりした男が話しかけていた。
「最後の餞や。悔い残さんよう、思いっきり飛ばしてきぃや?」
「はい…!」
背を軽く叩いたミカールの言葉に頷くと、リュウジは兄の方を見遣る。
兄と弟の視線が、リュウジの被るフルフェイスのバイザー越しにぶつかった。
僅かな間見つめ合った後にリュウジが小さく会釈すると、リュウイチも軽く頭を下げる。
本来は滞在期限を過ぎている自分に、配達人の計らいで特別に与えられた、仮初めの肉体とほんの短い時間。
しかし、生者である兄と言葉をかわしたくとも、配達人達に迷惑をかける事になるので接触はできない。
よそよそしい振る舞いを心掛けるリュウジだったが、本心では兄に歩み寄り、声をかけ、その手を握りたかった。
衝動を堪えるリュウジの背を、ミカールはポンと軽く叩いた。
「気張れや。心が揺れとったら勝てへんで?何せ相手は、ウチで最速やさかい」
殆どの観客が移動し、スタートとゴールの瞬間を見届けるために十数名が残った待避所の中央で、
「仕上がりは完璧だ」
攻撃的なフォルムをしたバイクの脇に屈み込み、工具を手にして微調整をおこなっていた灰色の狼男が立ち上がる。
そのバイクの乗り手である黒豹は、少し離れた所に立って作業の終了を待っていた。
腕組みをしていたアズライルは、閉じていた目を薄く開け、しなやかな尾を不機嫌そうに左右にヒュンヒュン振る。
「気が乗らない…。元々ムンカルが引き受けた仕事だというのに、何故私が走らなければならないのだ?当初の予定であれば…」
再び目を閉じたアズライルは、少しだけ表情を緩めた。
「今頃は彼と一緒にテレビで映画を観ていたはずだった…。中に餡がたっぷり詰まった揚げパンも買い込んで来ていたし…、
幸せそうに微笑みながらパンを齧りつつテレビを眺める彼の隣で、私は…。…なのに」
黒豹の顔から穏やかさが完全に消え失せ、開かれた瞳が険呑な光を称えつつ、団欒の時間を奪った元凶の姿を映す。
ジロリと睨むその視線を感じ取ったのか、背を向けた状態のムンカルの首筋で鉄色の被毛がザワッと逆立っていた。
「アズ」
突如かけられた声に振り向いたアズライルは、瞳から険しい光を消すと、ニコニコしている北極熊の顔を見遣る。
「皆で応援しているよ。頑張って」
無言で小さく頷いたアズライルは、無表情のままツカツカと愛車に歩み寄る。
だがしかし、静謐な黒い瞳のその奥で、闘志の炎はメラメラと燃え盛っていた。
「…ちょ、調子はどうだ?あいつ、無茶苦茶速ぇぞ」
リュウイチの傍を離れてバイクに歩み寄ったムンカルが、先の殺気を察知していた事もあり、少々ビクつきながらアズライ
ルに声をかけた。
「心配無用だ。今夜の私は誰にも負けない…!」
黒革グローブをはめた右手をギュッと握り込んだアズライルを、ムンカルは不思議そうに首を捻って見つめる。
(…あれ?怒って…ねぇ?…何で急にやる気出したんだ?)
何故火がついたのかは判らないが、ムンカルにしてみればやる気を出してくれるのは大歓迎である。
「ザンザスか…。相手にとって不足はない…!」
静かな声音に煮えたぎる闘志を滲ませるアズライル。
「頼んだぜ?悔いの残らねぇレースにしてやってくれ」
「任せておけ。…確実に沈める…!」
なにやら物騒な事を呟いたアズライルは、腰の後ろのホルスターから大型拳銃を抜くと、おもむろに銃口を自分に向けた。
豊かな胸の谷間にゴツい拳銃の銃口を押し当て、右手の親指をトリガーにかける形で普段と逆に握った黒豹は、左手でスラ
イドを後退させるなり、引き金を押し込んだ。
ガチンッというハンマーの音に続き、アズライルの姿がザザッと音を立てて乱れる。
ノイズ混じりの画像のように乱れた姿が再び像を結ぶと、そこには流れるような美しい黒髪を腰まで伸ばした、浅黒い肌の
人間の女性が立っていた。
真っ黒なフルフェイスのヘルメットを片手にぶら下げる、黒い革のつなぎを着込んだ女性は、二十代半ば程度に見える。
「配達人の能力は使わず、同じ土俵で勝負しよう」
同じ条件で勝負する為、配達人としての機能を封じて人間の姿となったアズライルは、愛車に跨りつつ髪を撫でつけるよう
にして手早く纏めてメットを被ると、バイザー越しの視線をジブリールに向けた。
(勝利を貴方に…!)
アクセルを開いて高々と排気音を上げさせつつ、片手を上げて親指を立てる気合満々のアズライルに、ジブリールはにこや
かな笑みを浮べながら片手を上げて応じる。
「あ〜…。やる気出たのはアレか…。旦那に何か言われたのか…?」
その様子を見ていた虎男に尋ねられ、同僚の狼男が頷く。
「「応援する」「頑張れ」に類する事を言われていた」
「それだけか?」
「それだけのようだったが?」
「…判りきった事だけどよ、ミックとアズライルの、旦那と俺の扱い…、だいぶ違うよなぁ…」
ボソリと呟いたムンカルの声は、猛々しいエンジン音と排気音に紛れて消えた。
道の中央、二人のライダーの前に立ったリュウイチは、万歳するように両手を頭上に上げた。
スタートの合図を待ち、場に緊張が満ちる。
引き絞られた弓の弦のように、あるいは撓められるバネのように、ミッドナイトブルーのザンザスと、マットブラックのファ
イアブレードにそれぞれ跨ったライダーは、解放される瞬間を静かに待つ。
両腕を高く掲げたリュウイチは、弟そっくりなライダーの顔、中までは見えない黒いバイザーをちらりと見る。
眼差しや表情は判らない。だが、スタートの瞬間に神経を研ぎ澄ませているはずの彼が微かに頷くと、リュウイチの疑念は
強まる。
このライダーは、本当にリュウジでは無いのか?
馬鹿げた疑念だと思う。首だけになったリュウジの身元確認をしたのは他でもない自分なのだ。
そう頭では判っているのに、心が訴える。「その男は本当に弟ではないのか?」と。
迷いを断ち切るように、リュウイチは両腕を振り下ろした。
素早く屈みながら両手を地面につける、大きな動作のスタートサインと同時に、二台のバイクは獲物を狙う肉食獣のように
飛び出した。
すれ違う刹那、屈んだリュウイチが横に向けた目が、ザンザスを駆るライダーの横顔を映す。
斜め上から降り注ぐ灯りで微かに透けた目の周りのシルエットは、やはり弟とそっくりに見えた。
所々にギャラリーが立つ峠の道を、二台のバイクが駆け抜ける。
前を行くはミッドナイトブルーのザンザス。すぐ後ろを追走するはマットブラックのファイアブレード。
連続するカーブの最短ルート、インギリギリを攻め続ける攻撃的な走りは二者共通。
走り慣れた道という地の利と経験の差で前に出たリュウジは、しかしピッタリと吸い付いているように後ろから離れない対
戦相手の技量に驚嘆していた。
他のコースで競うのであれば、相手の方が間違いなく速いと確信している。
僅差で追うアズライルもまた、若者の走りを目の当たりにして驚き、そして感心している。
リュウジのコース取りが完璧なため、抜こうにも並ぼうにもインに隙ができない。マシン性能も腕も拮抗しており、外から
抜くのは無理である。
鎖で繋がっているかのように差がピッタリ固定されたまま駆け抜ける二人のライダーに、ギャラリーが大声で声援を送る。
見ている方まで体が熱くなる僅差のレースに、皆が興奮せずにはいられなかった。
峠の端まで駆け抜けたバイクは、山間の道に進入してスタート地点へと向かう。
激しいアップダウンと左右に振られるカーブを、やはり距離を離さぬまま、二人のライダーが疾走する。
(勝てる!このままミスをしなければ、おれの勝ちだ!)
すぐ後ろのプレッシャーに負けぬよう、自分を奮い立たせるリュウジの目に、最終コーナーとなる、コンクリートで巻かれ
た山肌を回り込む左カーブが映った。
抜ければその後はゴールまでほぼ直線となる。大きなミスさえせずに抜ければ勝ちが決まる。
そのカーブを、リュウジはこれまで何度もそうして来たように、続く直線へのライン取りも考えたコースで抜けた。
その一瞬後の事であった。直線進入直後の自分の左手側に、黒い影がすぅっと追いついたのは。
驚愕して横目で見遣ったリュウジを、アズライルがバイザー越しにちらりと見返す。
この最後のカーブでは、リュウジは直線での位置取りを考え、他のカーブよりも早めにインから離れる癖があった。
アズライルはその事を知っていた訳ではないが、インが僅かにあいたタイミングを見逃さず、躊躇無くアクセルをあけ、カ
ーブでは命取りになりかねないほどマシンを加速させ、隙間に突っ込んでいた。
外へ流れて膨らみそうになる車体を抑え込み、タイヤが摩擦を維持できるギリギリの角度まで斜めに傾いだ体勢で、山肌を
巻いているコンクリートに左肩を擦りつけながら。
少しでも角度がずれれば、それこそ五ミリにも満たない小石を踏んだだけでもタイヤが滑り、横倒しになって外側へ吹き飛
ばされてしまう危険な体勢。
逆にインに寄りすぎても、コンクリに擦れた肩が引っかかり、体全体を持って行かれてバイクから引き摺り落とされる。
人間のレベルの肉体に自分を構築し直した今の状態でクラッシュすれば、アズライルとてただでは済まない。
にも拘らず、恐怖を微塵も感じさせず、正気を疑うような危険なライン取りと、愛車を完璧に乗りこなすテクニックを披露し
ている。
(イカレてる!けどイカしてる!なんて腕と度胸なんだこのひと!)
かつてない強敵が見せた走りに鳥肌が立ったリュウジは、メットの中で笑みを浮かべた。
横に並んだまま直線を駆ける二台は、スタート地点でもあった待避所前を同時に通過する。
ギャラリーの歓声で迎えられた二台は、ブレーキ音を鳴らしてそれぞれの愛車に制動をかけた。
目を大きく見開いているリュウイチの耳に、「どっちだ?」という皆のざわめきが届く。
「おったまげたわ…」
ミカールが呟くと、そのすぐ後ろでナキールとムンカルがちらりと視線を交わした。
「自分には同着に見えたが、君の目にはどう見えた?」
「俺も、全く同時に思えた…」
振り返ったミカールは、二人の顔を交互に見遣った。
「アズライルと五分…、それどころか、途中までは前走っとったであのボウズ?おるんやなぁ、人間にもあんなヤツが…」
ギャラリーの声援を受けながら、ゆっくりとバイクを進めて戻ってきた二人に、ジブリールがにこやかに微笑みながら声を
かけた。
「お疲れ様、アズ。それにキミも。少しは満足できたかい?」
ヘルメットを取らぬまま小さく頷いたアズライルと、同じくメットを被ったまま顎を引くリュウジ。
興奮冷めやらぬギャラリーの中で、リュウイチが一同に歩み寄る。
「お疲れ様。凄い勝負だった」
足を引きずる兄に視線を向けたリュウジは、声を発しそうになるのをかろうじて堪えた。
フルフェイスを被っていても、その状態で何度も言葉を交わしてきた兄には、声だけで気付かれてしまう…。
間近に居ながらも言葉すら交わせない二人を不憫に思い、ムンカルはジブリールをちらりと見遣る。
視線に気付いた北極熊は、訝っているリュウイチと、答えたいのを堪えているリュウジを眺め、考え込んだ。
リュウジの正体が知られてしまっても、彼であれば記憶の消去ができる。
だが、ここに居るギャラリー全ての記憶を消すとなれば、かなりの重労働であった。
(やむを得ないかな…)
ムンカルに頷いて見せたジブリールは、声を発しても良い旨をリュウジに伝えようと足を踏み出し、
「…ミカール?」
レモンイエローの獅子が伸ばした手で制止され、彼の顔を見下ろした。
黙って顎をしゃくったミカールの視線を目で追ったジブリール達は、リュウイチが深々と頭を下げている事に気付いた。
「ありがとう…。あんたみたいな腕の良いライダーに憧れて貰えて、リュウジのヤツも嬉しいと思う…」
少し震えている兄の声を、リュウジは黙って聞く。
「あいつ、速かったろ?イカしてたろ?」
その問いに、自分の事を言われて戸惑ったリュウジが、少しの間をあけてから頷くと、
「だろう?何せ、俺の自慢の、最高の弟だからな!」
リュウイチは笑みを浮かべて大きく頷いた。
「…あの兄ちゃん、もしかして…」
胡乱げな表情を浮べて呟いたムンカルに、ミカールは兄弟達を眺めながら小さく頷いた。
「どうやら何か勘付いとるようや。…けど、顔見せられへん訳が、名乗れへん訳が、言えへん訳があるちゅう事…、内容まで
は判らんでも、たぶん察しとる…」
言いたい事は山ほどあるのに、名乗る事すらできずに兄と向き合っているリュウジを、バイクに跨ったまま横から眺めてい
たアズライルは、それまでずっと閉じていた口を開いた。
「私も、彼のファンだった。彼ほど優れたバイク乗りは、そうは居ない」
リュウイチとリュウジが視線を向けると、アズライルはメットに手をかけて脱ぐ。
美しい黒髪が背に流れ落ち、小さくかぶりを振った浅黒い肌の美しい女は、リュウイチを見つめて続けた。
「知っているかな?彼は生前よくこう言っていた。兄が整備したバイクは速く、快適で、そして何よりも、楽しく乗れる相棒
だ。兄が整備してくれたバイクだから、自分は誰より速く走れる。…と」
リュウジはメットの中で目を見開いた。
(何でこのひとが知ってるんだ?おれ、誰にも言った事…無かったのに…!?)
心の中では常に思い、しかし照れ臭くて一度も口にした事の無かった言葉…。
それが他者の口から出た事で驚いているリュウジは、囁くような声を耳にして首を巡らせた。
「…うか…」
俯いて肩を震わせているリュウイチに、皆の視線が注がれる。
「…そうか…。そうか…!俺が弄ったバイクは…、楽しく乗れたか…!」
自分に影響されてバイクに興味を示した弟は、あげく、自分が弄ったバイクに乗って命を落とした。
そう思い続けてきたリュウイチは、弟の本音を聞かされ、救われた気がした。
俯いたリュウイチの目から落ちた水滴がアスファルトに落ち、バイクのハンドルを握るリュウジの手がギュッと握り込まれ
るのを目にすると、ムンカルはくるりと後ろを向いた。
同僚達の視線を後頭部に注がれながら、ムンカルは呟く。
「…良いモンだよな…、兄弟ってのは…」
腕でグイッと目の辺りを拭い、掠れ声で言いつつズズッと鼻を鳴らしたムンカルを、ナキールは不思議そうに、ジブリール
は微笑んで、ミカールは顔を顰めながら見つめる。
ぽってりした獅子はため息をつきつつ虎男に歩み寄ると、懐から取り出したハンカチをつっけんどんに差し出した。
「ホレ、顔拭っとけや…」
「…お、おう…」
向こうをむいたままハンカチを顔に押し当てたムンカルは、しばしグシグシと顔を拭った後、ぶーっ!と、盛大に鼻をかむ。
「…ありがとよミック…」
腕で目をグシグシ拭いながら、こっちを見もせずに差し出されたハンカチを不快げに睨んだミカールは、
「…洗って返せやダァホ!」
苛立たしげにムンカルに背を向けた。
気がつくと、リュウイチは車の中で、運転席のシートを倒して寝ていた。
身を起こして窓から外を眺めれば、車はリュウジの事故現場のすぐ近くにある狭い待避所に停まっていた。
(…あぁ…、そうか…。あの後も明け方までレースが続いたから、仮眠を取ってから帰る事にしたんだったか…)
既に朝日は水平線の少し上にあり、眩い光が海を照らしている。
車を降りたリュウイチは、道を横切ってガードレールの傍に寄った。
昨夜参加していたバイク乗りが手向けたのだろう、自分が添えた物とは違う花が何束か供えられているのを目にして微笑む。
「リュウジ…」
弟の名を呟いたリュウイチは、朝日を反射して青く輝く何かが崖下の海に見えている事に気付き、ガードレール越しに覗き
込んだ。
「…!」
波に洗われる数十メートル下の岩礁…。あちこちの塗装が剥げたミッドナイトブルーのバイクが、岩場の中に横たわっていた。
満潮時に波に押し上げられたのか、入念に捜索されたにも関わらず見つからなかったバイクは、ひょっこりと、自分を調整
してくれた男の前に戻って来た。
バイクと共に波で戻されてきたらしい乗り手の遺骨は、近辺を捜索されると、その日の夕刻までにあっさりと見つかった。
不思議な事だったが、まるでずっとその場に留まっていたかのように、ほとんどの部分が欠ける事無く。
リュウジの体は愛車と共に、三ヶ月ぶりに家族のもとへと帰る事ができた。
配達人達が過ごす、内部の間取りと広さが妙な事になっている飛行艇、その食堂で、
「ザンザスの乗り心地と言うのは、どんな風だ?」
「どうって…、実はおれ、乗り比べとかした事殆ど無いんで、他とどう違うのか…」
どうやら自分と互角の勝負をした事ですっかり気に入ったらしく、黒豹はリュウジにあれこれ尋ねている。
テーブルの反対側に座ったジブリールは微笑を浮べてその様子を見遣りながら、中にアンコがたっぷり詰まった、これでも
かと砂糖をまぶしてある揚げパンを咥えて、カタカタとノートパソコンを叩いていた。
さらに別のテーブルでは、ナキールがマッチ棒で凱旋門に続いてエッフェル塔を建造している。
やがて、食堂のドアを開けて「戻ったで〜」と顔を出したのは、レモンイエローの獅子。
「上手い事リュウイチがめっけたで。今回はまぁ、ムンカルの提案は正解って事にしとこか」
「お?珍しく赤点じゃねぇんだな!がはははは!」
ニヤニヤしながら続いて入って来た鉄色の虎は、リュウジに顔を向けて口を開く。
「今さっきな、お前の兄ちゃんがバイク見つけたぜ。今日中にでも骨も拾って貰えるはずだ」
「あ、ありがとうございました!」
立ち上がって頭を下げたリュウジに、ジブリールがキーボードを叩きながら話しかけた。
「ふぁふぁふぃーふぉふゅーふふふぇーふぁふぁふふぇひふぃ、ふぉーふぉっふぉははふぃほうはんは。ふぁふいんふぁふぇ
ほ、ひふぉふぁんふはいふぁっふぇふへふ?」
「え?え〜…」
ドーナツを口に咥えたまま話しかけられ、内容が聞き取れずに困惑するリュウジに、ミカールが訳を伝える。
「魂の修復データ作成にもうちっとかかるんやと。で、悪いんやけど一晩ぐらい待ってくれるかて訊いとる」
「魂の…修復?」
首を傾げたリュウジに、ずんぐりした獅子は軽く肩を竦めて見せた。
「実はな、お前の魂、本来ありえへん変化をしとったせいで、結構磨耗しとるんや。応急処置でこうして復元されとるけどな、
このままゲート潜らすと、次の旅に支障が出るかもしれへんのや。…具体的には、そやな…、お前、小さい頃の思い出、何か
語ってみ?」
「え?はい…。えぇと…」
視線を天井に向けたリュウジは、しばしそのままの姿勢で硬直し、「あれ?」と首を傾げた。
「そういうこっちゃ。間に合わせで修復したけどな、魂の記録…つまり死記に刻まれとる経歴に欠損が出とる。今そこのデブ
チンがソレ埋めるために経歴拾って補填用のデータ組んどるさかい、もちっとまったってや」
「デブチンとかお前が言うかよ…」
ムンカルの呟きを無視して、ミカールは首を捻ったままのリュウジに続けた。
「寝泊りする部屋はなんぼでもある。後で案内したるから、準備ができるまでのんびりしときや」
この飛行艇の、明らかに外見よりも広い内部構造にも驚きだったリュウジは、ミカールの言葉にも曖昧に頷く以外のリアク
ションが取れなかった。
黙々と作品の建造に勤しんでいたナキールは、手を休め、アズライルの質問責めにあっているリュウジを見遣る。
旅先を見通す狼男の瞳には、ゲートを潜る事が決まってもなお、リュウジの行く末が映らない。
(…もう一度、この世界を旅する事になるのだろうな…)
心の中で呟いたナキールは、新たなお徳用マッチ箱をあけ、作業を再開した。