第十二話 「ベビーフェイスジャッカル」(前編)
「ふぁ〜あ…。おはようさん…」
大口を開けて欠伸をし、大きく伸びをしながら食堂に入った大柄な虎男に、首を巡らせた北極熊と狼が挨拶を返す。
「おはよう、ムンカル」
「おはよう」
長テーブルが二つ並んでいる食堂では、北極熊と狼が一方のテーブルに向かい合って座っている。
「昨夜は夜更かししていたのかい?」
「まぁな」
「ミカールも?」
「ああ」
訊ねる北極熊に、ムンカルは襟元に手を突っ込み、鉄を思わせる灰色の被毛に覆われた胸をボリボリと掻きながら応じる。
筋骨隆々たる岩のような体躯を、タンクトップにジーンズというラフな格好で覆った虎男は、自分よりもさらに大きな、肥
満体の北極熊の隣に腰を据えた。
片側に三人が座ってもゆうゆう過ごせるだけの長テーブルは、しかし大柄な二人が並んだだけでスペースが埋まってしまう。
その列は壁際で壁を背にしており、食堂内に据えられている二つのテーブルを一望できた。
テーブルの上の大皿に盛られたツナやタマゴ、ハムのサンドイッチを摘むジブリールとナキールは、すでに仕事の準備を整
えており、いつもの黒革のつなぎを身に付けている。
席に着いたムンカルは、向かいの席に座っている灰色の狼男に視線を向け、何事か話しかけようと口を開き、
「あん?」
妙な声を漏らして眉根を寄せる。
同僚の隣、ジブリールの向かいに座っている、見知らぬ男の顔を見ながら。
それは、黒い毛に覆われた犬のような顔を持つ、濃い青色のつなぎを身に付けた男であった。
やや小柄で、首や顔を見るに痩身のようだが、厚手の布で作られたつなぎはややゆったりとしている。
男である事は確かなのだが、目が大きく円らでマズルが低めなせいか、顔立ちは幼く見え、少年と形容しても違和感がない。
無言でモソモソとツナサンドを食べている、顔すら上げようとしない向かいのジャッカルから視線を外したムンカルは、
「…こいつは…何処のどちらさんだ?旦那」
顔を横に向け、ジブリールに小声で訊ねてみた。
移動基地であり住まいでもあるこの飛行艇には、来客など滅多に無い。
修復が必要な魂を一時保護している場合を除けば、自分達以外の者が居る事自体稀である。
「彼はキャトル。ザバーニーヤだよ」
ジブリールはバナナの房のような手を広げて向かいの男を示し、紹介を始めた。
「ほうほう、…ざばぁにぃや…?なぁ…。なるほどなるほど」
ウンウンと頷くムンカルだったが、しかしそれが如何なるモノかさっぱり思い出せず、頭を巡らせている。
当の本人であるジャッカルは、ムンカルに一度顔を向けて目礼すると、再び視線をサンドイッチに落としてモソモソと咀嚼
している。
「一応補足しておくと、清掃人…、つまり冥牢を管理する19名の獄卒の事」
ジブリールが紳士的な気遣いで説明を付け足すと、カウンターを回り込んで厨房から姿を現した男が、「フン!」と鼻を鳴
らす。
「また忘れとったんやろ?ほんまに教え甲斐無いヤツやなオドレは」
ずんぐりした樽のような体型をしている、レモンイエローの太った獅子は、背が低く丸顔の童顔で、鬣ばかりが立派であった。
黒皮のつなぎを上半分脱いで腰の所で袖を結び、白い半袖ティーシャツの上から黄色いエプロンを纏っている。
その体格からはのっそり鈍い印象を受けるミカールだが、手先は器用で動作は機敏。
今日も今日とて出発時間に遅れないよう、外出メンバー達の朝食をきっちりと用意している。
「忘れてねぇって。ちょっと出てこなかっただけだ」
獅子に続いて厨房から現れたスタイルの良い黒の雌豹が、呆れたような半眼を虎男に向ける。
「それを普通は「忘れている」というのだと思うのがな?」
「いやいや、そんな事ねぇぞ?」
黒革のつなぎをグラマーな肢体に隙無く纏い、既に出発準備を終えているアズライルへ、何か言いかけて口を開いたムンカ
ルだったが、
「…いや、やっぱいい…」
彼女に言い訳が通用しない事は身に染みて判っている為、結局は反論を諦めて口を閉じる。
それぞれサンドイッチを盛った大皿と、コーヒーポットを手にテーブルに歩み寄ったミカールとアズライルは、そんなムン
カルをじっと見つめた。
「…なんだよ?」
タマゴサンドに手を伸ばしかけていたムンカルは、じっと注がれる二人の視線を受けて居心地悪そうに顔を顰め…、
「…退け…」
消え入りそうに微かな、そのくせ何故かはっきりと聞こえる、地の底から響くようなとてもとても低いアズライルの声を耳
にし、全身の毛を逆立てた。
漆黒の瞳が、邪魔な存在を視るような明らかに冷たい光を湛えて、虎男の顔を見つめていた。
「こっちきぃやムンカル」
隣のテーブルについたミカールに手招きされ、大きな体を縮めてすごすごと席を変えるムンカルと、瞳から冷たい光を消し、
ジブリールの隣にあいた席へしずしずと腰を下ろすアズライル。
「うっかり席譲るの忘れたからって、あんなガンつけなくてもいいじゃねぇか…。喰い殺されるかと思ったぜ…」
ちらちらと黒豹の様子を伺いつつ、ムンカルは耳を倒しながらぼそぼそと呟いた。
先の黒豹の低い恫喝は聞こえていなかったジブリールが、メンバーが揃った事を受けて口を開く。
「さて、全員揃ったから改めて紹介しよう。彼は今回のケースに立ち合うために冥牢から派遣されたザバーニーヤ、キャトル
君だ。こちらに来るのは初めてだそうだけれど、事前にレクチャーを受けているから、基本的な事はしっかり覚えて来ている」
紹介を受けたジャッカルは、顔を上げて小さく会釈した。
かなり細身で、背はアズライルより低くミカールよりは幾分高い、二人の丁度中間ほどであった。
毛色は艶のある黒。顔にはくまどりのように灰色の模様が浮かんでおり、その色彩はまるで白黒反転させたモノクロ写真で
見るジャッカルのようである。
「彼がこちらに滞在するのは、今回のケースが片付くまでの短い間だけれど、仲良くしてあげて欲しい」
まるで転校生を紹介する教師のように助っ人を皆に紹介したジブリールに、このメンバー中ではいわゆるクラスの問題児に
該当するムンカルが挙手して訊ねた。
「旦那ぁ。今回のケースってのは、何だ?」
直後。彼とテーブルを挟んで座っていたミカールが、立ち上がりつつスリッパを振るい、振り返っているムンカルの頭を殴
打した。
「いって!何しやがる!?」
「寝ぼけ頭に喝入れたってんねやダァホ!」
獣の足をデフォルメしている、自分の毛と同色のフカフカしたスリッパを脱ぎ、同僚を引っぱたくという真似を一瞬でやっ
て見せたミカールは、振り返って歯を剥いたムンカルに怒鳴る。
「昨夜聞いた事もう忘れたんかオドレ!?その耳は飾りか?飾りなんかオゥコラ!?それとも物覚え悪いそのどたまにはヘリ
ウムガスでも詰まっとんのかゴルァッ!!!」
アズライルお手製のスリッパで、ボフボフボフボフと凄まじい速度の往復ビンタを食らわされたムンカルが、「あごぉおお
おおおおおおおっ!?」と妙な苦鳴を上げる。
「それじゃあ、もう一度説明しておこうか」
昨夜話した内容を忘れられた事にも腹を立てる事無く、ジブリールは律儀に再説明を始める。
「今回うちで受け持つ事になったこの特殊なケースは、つまる所、反応消失者についての調査と配達なのさ」
「反応消失って…、あれか?把握してる因果の糸が途絶えちまって、因果管制室でも捉えられねぇヤツだったか?」
なおも執拗に繰り出されるボフボフスリッパアタックを、ピーカーブースタイルのブロックで防ぎつつ、ムンカルはジブリ
ールを振り返った。
「そう。ただの反応消失者なら、いずれ糸が紡がれて再合流するから大して問題は無いんだけれど、配達期限が迫っていると
まずい事になる。重なる確率はそう高くないけれど、因管で探れない以上、現場でオレ達が調べるしか無くなるからねぇ」
彼らが見守る、複雑に絡み合う無数の因果の流れ。その中には時に彼らですら追えなくなってしまう物も稀に存在する。
その因果が途中で途絶えてしまい、あるいは複雑に絡み合う中に埋もれて見えなくなってしまい、その行く先を追えなくなっ
てしまった者…。彼らはそんな存在を反応消失者と呼ぶ。
ただ追えなくなったとしても、それは普段さほど問題にされていない。
因果はその性質により、配達人達が干渉せずともある程度は自律修正が行われ、一見消えたように見える因果の流れもまた、
いずれ見えるようになるのが常だからである。
だが、因果を辿って追う事ができなくなっているその状態で配達を行うのは困難が伴う。
具体的には、因果の乱れ自体を配達人自身が感じる事ができない上に、葉書の消印が接近反応を示さないのである。
つまり、この状態の相手に配達を行うには、人間達が人を探すのと同様の手間がかかる。
「しかも今回は反応消失者が死記を落としている。旅の終わりが近付いている状況でね。おまけに第一級の咎負い人だから冥
牢側でも見逃せない。そこでザバーニーヤである彼が派遣された訳」
「あ〜…。助っ人が来るとかどうとか言ってたのは、こいつの事だったのか?」
昨夜この話を聞かされた際には、その後に過ごすプライベートタイムに気を取られており、右から左へと聞き流していたム
ンカルだが、ここでようやく話の大筋を理解した。
同僚の理解が及んだと見て取り、それまで無言だったナキールが補足するべく口を挟んだ。
「ザバーニーヤは通常の配達人とは仕様が違う。キャトルの場合は、咎に対する嗅覚が鋭いのだよ」
ナキールの説明に、しかしムンカルは顔を顰め、キャトルと呼ばれているジャッカルを見つめた。
何か気に入らない事があるのではなく、心配しているかのような顔の顰め方である。
「けどよ、今日初めてこっちに来たんだろう?そんなんで大丈夫なのか?」
ジブリールは微かな笑みを浮かべて頷くと、
「その点については安心して欲しい。追跡にうってつけだと太鼓判を押して推薦してくれたのは、イスラフィルだからね」
「姉御が!?」
ジブリールの口から懐かしい名が出ると、ムンカルの顔から不安げな色が消え、笑みが浮かぶ。
「なら心配ねぇな。いや、話の腰折って悪かったな、異議無しだ」
態度を急変させたムンカルは、それまで直接言葉をかけていないキャトルに、親しげな笑みを浮かべた顔を向ける。
「姉御はあっちでも変わりねぇかな?元気にしてんのか?」
キャトルが無言で頷くと、虎男は「そうかそうか」と笑いながら頷く。
「ま、喋らんのは大目に見たれ。キャトルは今朝方到着した上に、肉の体もワシが急ごしらえで生成したもんや。上手くシン
クロしてへんのか、発声がでけへんらしい」
「加えて、君は元々無口だからな」
隣に座るナキールに言われ、キャトルはコクリと頷いた。
「アズ。手順はさっき話した通りだけれど、大丈夫かい?」
ジブリールの確認に、アズライルは小さく、しかしはっきりと頷いた。
「彼に同行して貰い、協力を得て対象を探索し、死記を届けて冥牢へ送る。期限は夜明けまで、だったな?」
対象者は間もなく旅を終えるはずだった若い男。おまけに重い咎を背負っている。
メンバー中最速の足を持つ上、死記の配達人たるアズライルにこの役目を回したジブリールの判断は、顔ぶれから言って妥
当と言えた。
臨時の配置につき、本来アズライルが担当するはずであった死記の探索と配達には、普段留守番役であるミカールが当たる
事になる。
「その通り。制限時間が厳しいけれど、何とか頼むよ。これ以上被害が広がる前にね…」
「了解した。安心して任せて欲しい」
静かながらも決意を滲ませる声を耳に、ジブリールは満足げに頷く。
(アズは本当に真面目で仕事熱心だなぁ…)
そんな事を思っている北極熊はしかし、その黒豹の熱心さが職務への使命感だけに由来する物では無いという事には、全然
さっぱりちっとも気付いていなかった。
「もぬけのから、か…」
三階建てのアパートの一室、ゴミ袋や重ねられた雑誌が雑然と積まれたその部屋で、アズライルは葉書を片手に呟いた。
そこは配達対象となっている男の部屋、居間に当たる部分なのだが、部屋の主は不在であった。
おそらく居ないであろう事は確信していた。こんなに簡単に見つかるならば、そもそも因果の流れを掴めなくなるような事
はない。
アズライルは散らかった部屋を見回し、不快げに顔を顰めた。
(彼の部屋とは大違いだ…。なんとだらしのない…)
胸の内で呟きつつ、黒豹は同行者に視線を向けた。
「私には足取りが掴めないが、貴方は何か…」
アズライルはみなまで言わず言葉を切った。同行者のジャッカルは、壁の一点をじっと見つめている。
「何かあったのか?」
歩み寄り、期待を込めて訊ねたアズライルに、キャトルは自分が見つめている物を指さして見せる。
それは、小さな振り子時計であった。
振り子自体はただの飾りで、本体は電池仕掛けの電波時計という、見た目だけがレトロな、さして高くもない時計…。
その規則正しく揺れる振り子の動きを、ジャッカルは目で追っていた。
顔を自分に向け、「これは何?」とでも言いたそうに首を傾げる無表情なジャッカルに、アズライルは訝しげに眉根を寄せ
つつ応じる。
「これは時計だ。見た事は無いのか?」
頷いたキャトルは視線を時計に戻しつつ、アズライルが口にした言葉を繰り返すようにして口元を微かに動かした。が、や
はり声は出てこない。
「それで、対象の事については何か感じないか?」
問われたキャトルは顔を上げ、天井を見上げるようにしてフンフンと鼻を鳴らすと、おもむろに手を上げ、ある方向を指し
示した。
「…?あちらから何か感じるのか?西から?」
相変わらず無言のまま頷いたキャトルに、アズライルは「そうか…」と囁くように応じる。
「恥ずかしながら、こうしている今も私には何も掴めない。どうやら、本当に貴方の感覚に頼らざるを得ないらしい。済まな
いがよろしく頼む」
再び頷いたキャトルから視線を外し、アズライルは手にしていた葉書…死記に目を落とした。
数日前に持ち主から剥がれ落ち、他の配達人によって回収され、アズライルの元へ転送されて来たものである。
預かったその際には、まさかこれほど面倒な事になっているとは思わなかった。
「急ごう。期限が迫っている」
踵を返してドアに向かうアズライルに従い、足を踏み出したキャトルは、衣装箪笥の上に飾られている写真立てにちらりと
視線を向けた。
写真には田園をバックに、年配の女性と若い男が三人、並んで写っている。
親子なのだろう四人の内、母親は柔和そうな表情で、三人の若者の内二人はどこか照れているような顔で、一番端の男は楽
しげに、それぞれ笑みを浮かべている。
だが、その中で一つだけ、キャトルが違和感を覚えた顔があった。
獄卒として、魂の洗浄が必要な幾多の咎人を見てきたキャトルは、自身が強い感情を抱く事が殆ど無いにもかかわらず、相
手が隠そうとしている内面を敏感に察知する事ができる。
楽しげな、満面の笑みを浮かべている男の顔…。
本当は何も可笑しくなどない。楽しくなどない。
それなのに、周囲を偽るために笑みを浮かべている。それも、いかにも楽しそうな笑みを。
笑顔の裏に巧妙に隠された何か…。
非常に危険な魂。キャトルはそう認識していた。
朝乃恵太(あさのけいた)は、全国チェーンの牛丼屋で、少しばかり早めの昼食を取っていた。
背が高く恰幅が良い。と言えば聞こえは良いが、全体的にむっちりと丸みを帯びた体付きで、ぶよぶよと締まりがない。
カウンターの椅子に座り、背を丸めて牛丼を掻き込むその後ろ姿は、どことなくダルマを思わせた。
ベージュ色のカーゴパンツにメッシュ生地の黄色い半袖ティーシャツというラフな格好で、熱い牛丼を食っているせいか、
それとも今日の陽気のせいか、背には縦長の楕円形に、両脇や袖口にも色濃く輪になって、汗染みが浮いている。
ふと目を遣ったテレビでは、半月前に起こった母子殺害事件のニュースが流れている。
その日、事件が起こったマンションに押し入った強盗は、24歳のその女性を縛り上げ、散々殴り、絞殺したあげくに屍姦
していた。
もうじき二歳になるはずだった娘は、壁や床に何度も叩き付けられて殺害されている。恐らくは母親の目の前で。
マンション自体が古い物で、防犯カメラの類は設置されておらず、部外者でも簡単に入り込めるようになっていた。
被害者の体内に残された犯人の体液などからDNA鑑定ができるものの、不審な人物の目撃情報は無く、犯人に迫るだけの手
掛かりは一切無い。
判っているのは、去年と一昨年、同じく女性の被害者が屍姦されていた強盗殺人事件で、体内に残っていた精液から検出さ
れたDNAの主と同一人物の犯行であるという事。
いずれの事件も預金通帳やカード類、財布の中身は盗られており、物盗りに入ったあげくの犯行というのが警察の見解であっ
た。
だが、これまでの所、どの事件でも警戒してか預金は引き出されておらず、犯人の正体や足取りは依然として掴めていない。
ケイタはCMに入ったテレビ画面から視線を外し、中身が半分に減った丼に顔を伏せるようにする。
それは擬装だ。本当は金銭などに全く興味は無い。
ケイタは笑う。目を細くし、いかにも人の良さそうな笑みを浮かべて。
見当外れな推理ばかり…、警察などには簡単に捕まらない。
ケイタは笑う。満面の笑みの下に凶暴な物をすっかり隠して。
今でもありありと思い出せる。
執拗に何度も何度も殴りつけられた顔のあちこちを紫に変色させて腫らし、唇の端や鼻穴から血を垂れ流している女。
荷造り用のビニールロープで手足を縛られ、首を絞められ、吐き出すようにして舌を口から大きくはみ出させていた。
顔中の穴という穴から血を流し、頭をめっこりと陥没させて動かない、赤子と幼児の中間の女の子。
ぐったりとして動かないそれは、まるで芋虫のようにも見えた。
ニュースを見て、あの女が自分と同じ歳であった事を、女の子が間もなく二歳になる所であった事を、初めて知った。
さして美人という訳ではなかった。どちらかと言えば容姿は恵まれているとは言えない。それでも、夫が居て子供が居た。
同い年のあの女と、ずっと独り身の自分ではどこが違うのだろうかと考えて見る。
ケイタは笑う。一切声を漏らさずただ笑う。
決まっている。あの女とは比較にならないほど自分は醜いからだ。
だぶだぶに肥えている日焼けし難い色白の体に、不釣り合いにサラサラの髪。極端に小さい瞳と細い目。学生時代のあだ名
は「白ブタ」であった。
出来の良い二人の兄に比べ、末っ子のケイタは容姿もさることながら、勉強もスポーツもからっきしであった。
兄達には何かと小馬鹿にされて来たが、母親は出来の悪い末っ子を一番可愛がってくれた。
父こそ物心がついた時には他界していたものの、幸せな家庭だった。傍目にはまるっきりそう見えていたはずである。
高校まで過ごした田舎での刺激に欠ける、しかし穏やかな日々は、ケイタにとって今でも懐かしく思い出される。
優しかった母は、昨年、食中毒で他界した。
一番上の兄もそのすぐ後に逝った。
死因は転落死。実家の近くの山で、両親が眠る墓地近くの崖から落ちて死んだ。
母の死に目にはあえなかったが、兄の最期は看取った。
母の時にはケイタだけが間に合わなかったが、兄の死に際に立ち会えたのは、逆にケイタ一人であった。
兄を崖から突き落とし、事故に見せかけて殺害したのが、ケイタ自身だったからである。
手足がでたらめな方向に折れ、しかし損傷が大きすぎて激痛にのたうち回る事もできず、長年自分を蔑んで来た兄が浮かべ
ていた、怯え、許しを請うような表情は、今でもはっきりと思い出せた。
兄が一人死んで、遺産の分け前が増えた。
極端な話、母と兄の保険金を得ているケイタと二番目の兄は、田舎の家や土地を売却すれば、働かなくとも食うに困らない。
実際、二番目の兄は務めていた会社を辞め、遺産を生活費にして、それまでに自分で稼いだ金をインターネットでの株投資
に費やしている。
だが、ケイタは仕事を辞めていない。様々な家の中を少しだけ覗き見できる宅配業という仕事は、結構気に入っている。
それに、二番目の兄のように遺産を生活費にするという使い道は、少々味気なくも感じている。
自分一人が遺産を相続したのであれば、あるいは仕事も辞めていたのかもしれないとも思うが…。
想い出が詰まった田舎の家や、愛着のある土地を売り払うのは抵抗があった。
兄は当初売却しようと言っていたが、いつも従順なケイタがこの時ばかりは珍しく強く反対したため、実家はそのままになっ
ている。
その二番目の兄。この世に残ったただ一人の肉親と、今日これから田舎の実家で会う。
その為に年休を使い、レンタカーで懐かしい実家へと向かっている。
かさばる物を運ぶのに便利そうな、バンタイプのレンタカーで。
牛丼を掻き込み、油と汁で濡れたポッテリとした唇を舌で舐め回し、ケイタは笑う。
久し振りに会う兄の顔を思い浮かべて。
着いてから交わす会話の内容について思いを巡らせて。
そして、明日の朝にはその兄も居なくなっているのだと、改めて考えて。
キャトルが「非常に危険な魂」と認識した殺人鬼は、未だ二人から遠く離れた所に在り、ここからさらに西へ、二人から遠
ざかる方向へ向かう。
バイクを停めた黒豹は黄色い看板を見つめながら、
「ここに寄った…と言うのだな?」
後部座席に跨り、自分の腰に手を回してしがみついているジャッカルに訊ねる。
無言で頷いたジャッカルは、ひらりとバイクから降り、フンフンと鼻を鳴らしながら駐車場を歩き回った。
どうやら被認迷彩は完璧のようで、駐車場に出入りする車も、店から出てくる客達も、地面を見ながらせかせかと歩き回っ
ているジャッカルには注意を払わず、しかし車などは歩き回る彼を轢かないように避けて走行している。
しばし入念に駐車場を観察した後、キャトルは店の入り口に視線を向け、それから駐車スペースの一角に視線を向け、アズ
ライルを振り返った。
ジャッカルの手が持ち上がり、店の前を通る国道、今し方二人がやってきた先を指し示す。
「…痕跡は感じるが、既に移動したと?何?約三時間前までは居た?…それは良い報せだ」
あいかわらず言葉は発さないものの、思考の波を飛ばして来る為、キャトルの言いたい事はアズライルへ完璧に伝わっている。
道路の先を見遣って頷いたアズライルは、大きく頷くなり首を巡らせた。
「では、追跡を続けようキャト…」
言葉を切ったアズライルの視線の先では、隣の床屋の前にある看板を見つめているキャトルの姿。
ジャッカルは瞬きもせずに、グルグルと回る床屋の看板を凝視していた。
「キャトル?そろそろ行くが…」
再度促されたキャトルは、名残惜しそうに看板から視線を外し、トテトテと小走りにバイクへ駆け寄った。
同行者が後部座席に跨ると、アズライルは愛車をスタートさせながら考えた。
(何と言うかこう…。物静かに見えて微妙にずれたこの感じは、どことなくナキールと似ているな…)
ケイタがレンタカーであるバンを入れた実家の庭には、既に到着していた兄のクラウンが停まっていた。
日はだいぶ傾き、日没が迫っている。
田畑に囲まれ、一番近い隣家とも300メートルは離れている実家は、茜の光で染め上げられていた。
この時間に到着したのは、計算しての事である。
車を降りたケイタは、大きく伸びをしてから左右に体を捻り、腰と背骨をほぐした。
長時間の運転で少々疲れはあったが、これからする事に支障を来す程では無さそうである。
長時間シートの背もたれによりかかっていたせいで、メッシュ生地の黄色い半袖ティーシャツの背中には、全体に汗染みが
広がっていた。
昔ながらの木造平屋建て、年季の入った民家の玄関へと、ボストンバッグを片手にぶら下げたケイタは、肥えた巨体を揺す
りながら足を運んだ。
磨りガラスがはまった引き戸になっている玄関を、ガラガラと音を立てて引き開けると、懐かしい匂いが鼻孔に入り込み、
胸の奥をくすぐった。
母が亡くなって以来住む者も無く、空気は埃っぽく微かにかび臭いが、その匂いは、優しかった母や、穏やかな昔の暮らし
を思い出させた。
…殺人鬼もまた郷愁に浸る…。
ケイタは自分の考えで口元を緩める。今度ばかりは本心を覆い隠すための仮面ではなく、内面から零れた笑みであった。
「ケイタか?」
玄関から奥へ伸びる廊下、その左手側にある開け放たれた障子戸の中から、若い男の声が聞こえた。
「ああ。遅くなってごめんよ兄貴」
居間から顔を覗かせたのは、伸ばした髪を後ろで女性のように結わえた、それなりに整った顔立ちの若い男であった。
朝乃恵治(あさのしげじ)。ケイタから見て二歳上の兄である。
白い半袖ティーシャツとタイトなジーンズを身に付ける、171センチの兄は均整の取れた体付きで顔も良い。
が、上背で勝り、ぶくぶくと肥えているケイタと比べると、いささかひ弱そうに見えてしまう。
「本当に遅いぞ?墓参り前に日が暮れるかと思った」
シゲジは胸元に吊してある、輪の中に鳩の足をあしらったネックレス、シルバーのピースマークを弄りながら口を尖らせた。
「ごめんごめん。出がけに職場から仕事のことで急な連絡があって、顔を出して来てさ。大急ぎで飛ばして来たんだが、この
時間になっちまった」
顔を顰めている兄に、ケイタは作り物の笑みを向けた。
嘘である。ケイタはわざわざこの時間になるよう調整しながら移動して来ている。
「まだ充分間に合うだろ?急いで行って来ようぜ、墓参り」
ケイタは笑みで殺意を覆い隠し、「充分」を強調して兄に訴える。
「…だな。今日の内に行った方が良いだろう」
ケイタの思惑など知らず、シゲジは素直に頷いた。
今日は、二人の母親の命日であった。
この日に決行すると決めたのは、不自然な理由を付けずに兄を実家へ呼び出せる好機だからこそ。
おまけに、命日であれば多少遅くなっても「今日の内に」と、人気のない墓地へ誘い出せる。
今から墓参りに行けば、線香を上げて引き返す頃には完全に日が落ちる。
一番上の兄をそうしたように、崖から突き落として殺害するチャンスであった。
「ところで、晩飯何だ?」
食事は自分が用意すると言っていたケイタに、シゲジは興味深そうに尋ねる。
「カレーの予定で具材揃えてきた」
「マジか?カレー食ったぞ今日…」
「まぁまぁ、美味くなるように作るから勘弁してくれよ」
ケイタは苦笑いしつつ、心配しなくとも食えなくなるのだから、日に二度カレーを食う事にはならないのだと、心の内で兄
に告げる。
サンダルをつっかけて玄関に降りたシゲジは、玄関に下ろしたボストンバッグを開けて線香を取り出している弟の脇腹に、
軽くジャブを見舞った。
「また太ったんじゃないか?そんなんじゃ恋人できないだろ?」
苦笑いを浮かべるケイタは「まったくその通り」、と応じつつ、秘めた殺意をまったく表には出さない完璧な演技を続けて
いた。
「じきに日が落ちる…」
アイドリングしている愛車に跨ったまま、アズライルは暮れなずむ山々を見つめていた。
キャトルが嗅ぎ取ってくれた対象の気配を辿り、バイクはしばし前から静かな田舎道を走っている。
畑が広がる見晴らしの良い平地で、遠くに重なり合う低い山々を眺める事ができる。
景色が良く、天気も道路状況も良いのだが、いかんせん今はそれらを楽しんでいる余裕は無い。
無言のままフンフンと鼻を鳴らし、路肩の自販機を入念に調べていたキャトルは、素早く首を巡らせつつ腕を真っ直ぐに上
げ、ある一方を指差した。
その先には、畑の間を通ってゆく細い道。本道から外れる脇道である。
「…あちらへ行ったのか?」
自分が眺めていた山の方へと続く道を見遣り、アズライルが尋ね、キャトルはやはり無言のままコクリと頷く。
キャトルへの言葉は質問の形になっているが、実際には確認に過ぎない。黒豹はジャッカルの鼻を信用している。
「辿ってきた県道等の太い道から一転し、ここにきて細い道…。どうやら、配達対象の目的地に迫っているようだ」
呟いたアズライルの後ろで、キャトルは素早く後部座席に跨った。
「では、ゆくぞ」
キャトルが頷くが早いか、黒豹は愛車を急スタートさせた。
二人はまだ、自分達が赴く先で何が起ころうとしているのか、全く知らない。