第十三話 「ベビーフェイスジャッカル」(中編)

自分が運転すると言うケイタに従い、墓参りに行くべくバンの助手席に乗り込んだシゲジは、何気なく荷台を振り返った。

そして、シートを除けて広く取られたスペースに置いてある、中身が空でペシャンと潰れている寝袋を目にして口を開く。

「何で寝袋だ?」

「万が一車中泊になった時の為に、遠出の時は必ず積むようにしてるんだよ。俺、結構車で温泉なんかに出かけるんだ。一人

旅行ってヤツ」

実際にはそんな事などしていない。ここ数年でした旅行など職場の慰安旅行だけであった。

この寝袋はつい半月前に用意した物である。

ただし、正規の使い方を想定しての購入ではなく、兄の死体袋として利用する為に買っておいた。

「気楽で良いぞ?車での一人旅は。のんびり気が向くまま何処にでも…、ってね」

質問を想定して用意していた言葉をすらすらと吐くケイタ。

相変わらずの笑みを浮かべている弟を、シゲジは疑いもしなかった。

「なるほどな。でもお前の体で、あんな寝袋に入れるのか?」

カラカラと笑った兄に、ケイタはその笑みを曖昧な苦笑いに変えつつ向ける。

その笑みには、相変わらず殺意の欠片も滲んではいない。昔通りの、何をされても怒った事のない弟の笑みである。

二人が乗り込んだバンは走り出し、人通りが無く対向車も無い寂しい田舎道を抜け、やがて山道へと入り込んだ。

光量の落ちた空と、その下で蹲る山の境界線は、互いに溶け合うようにして次第に曖昧になってゆく。



合わせていた手を離して顔を上げたケイタは、線香の煙が揺らめく向こう、御影石に掘り込まれた墓碑銘を見透かす。

日は既に山の稜線の向こうへ落ち、ケイタとシゲジ以外に人影の無い墓地は、周囲の空気そのものが墨で染められたように

薄暗い。

ケイタが選んできた線香から昇る白檀の香りも濃厚な煙が、草の香混じりの穏やかな風にゆるゆるとたなびく中、シゲジが

先に踵を返し、ケイタもまたそれに従い、兄弟は揃って墓前を後にした。

賑やかな土地へ移り住み、近くに親族が住んでいない家も多い田舎の墓地は、手入れも満足にされていない古い墓ばかりが

立ち並ぶ。

放ったらかしのその有様は、ケイタに墓の墓場などという、妙な連想をさせた。

あまり頻繁には手入れに来られない事を、心苦しく思う。

だが暗くなってしまった今日は、もう手入れもできない。さらに明日以降は忙しくなる。

視線を兄の背に向けつつ考える。

墓に眠る顔ぶれにシゲジが加わる際には、一度徹底的に綺麗にしなければと。

今でも決心は揺るがない。生きて山から下りるのは自分一人でなければならない。

シゲジを崖から突き落として殺害する。

一番上の兄と同じ殺害方法であるため、疑いがかかる事を避ける為にも、今度は死体をそのままにはしておけない。

殺害後には持参した寝袋に詰めて運び、これもまた用意してきた釣り用の防水ベストを着せた上で、隣山の沢に沈めるつも

りであった。

クラウンは帰宅後に沢への上り口近くに停め、沢を足元に見下ろす高い位置の崖に釣り具一式をセットする。

そこは、以前も釣り人が一名事故死した場所であり、シゲジが「転落死」しても不思議ではない。

歩いて帰らねばならないのはおっくうだったが、これは仕方無い事であった。

シゲジの車で移動すれば、死体袋にする寝袋を持ち込む事ができない。

墓参りに行くのに寝袋を運び込むのは、いくらなんでも不自然過ぎる。

実家に戻った後はカレーを作り、手付かずのシゲジの分もきちんと用意して、自分の分を片付けた後、頃合を見て、周囲の

民家を「シゲジを見なかったか?」と尋ねてまわる。

そして、明日の朝には「兄が帰ってこないのです」と、警察に捜索願を出す。

シゲジの死体は、沢沿いですぐに見つかる事だろう。

釣りに行って沢に転落し、死ぬ。

それが、ケイタが思い描いている、兄の表向きの最期である。

車を停めた位置まで歩いて帰る途中、木の柵で隔てられた向こうに、切り立った崖があった。

山肌がむき出しで、所々小さな松が横に伸びているそこは…。

「兄貴はここだったよな…」

シゲジは呟きながら柵に歩み寄り、下を覗き込んだ。

ケイタは笑みを深くする。

予定では自分から切り出し、下を覗き込みながら傍へ来るよう誘導するつもりであったが、わざわざ自分から寄って行って

くれた。

ケイタは「そうだなぁ…。本当に急だった…」と応じつつ、のっそりと、シゲジの背後に近付いた。

自分の背後に覆い被さるように迫る、重苦しく大きな黒い影に、シゲジは全く気付いていなかった。



(!?)

懐で何かが微かに脈打ったのを感じ、アズライルは愛車を猛スピードで走らせたまま、片手でジッパーを引き下げた。

懐に突っ込んだ手が抜き出したのは、びっしりとアラビア文字が書き記された葉書…、これから届けるべき死の記録である。

消印が赤と紫に明滅し、配達人たる彼女に感じられるよう脈打っている葉書は、配達先の接近を知らせるのとはまた違う、

奇妙な反応を見せている。

(…何だ?この死記の主がどうかしたのか?)

険しい顔つきになった黒豹の後ろで、ジャッカルは暗くなった空を仰ぐようにして顔を上げ、ピスピスと鼻を鳴らした。

アズライルの力で受ける風圧は減じているものの、それでもなお強い風に負けぬよう、大きな耳をピンと立てる。

気配が近い。匂いはどんどん濃さを増してゆく。

キャトルはアズライルにしがみつきながら、あの危険な魂は、そう遠くない距離に在るはずだと確信していた。



シゲジの背にケイタの手が伸びる。

たっぷり肉が付いたぶよぶよとしまりのない手だが、そこに込められた殺意と、状況を鑑みての危険性から言えば、抜き身

の刀と何ら変わりない。

両の掌で肩胛骨の少し下辺りを突き飛ばす。

柵を乗り越えてシゲジは転落する。

20メートルほど滑落し、崖下に横たわったシゲジはもう動けない。

これから起こる事を脳裏に描き、ケイタは笑う。殺意を覆い隠して。

シゲジの背まであと少し。一歩踏み込んで押せばそれで終わり。その時、

「そういえば…」

シゲジが不意に首を巡らせ、ケイタは手を下ろした。

「ん、何?」

振り向く気配を察して直前に手を下ろしたケイタの動きは、シゲジには悟られていなかった。

「恋人居ないんだよな?けど、仲の良い女友達とかも居ないのか?」

「当然ながら居ないなぁ。こんなナリだし無理もないさ」

秘めたる殺意は全く表に出さず、ケイタは苦笑いを浮かべて応じる。

弟が自分を殺そうとしているとは夢にも思わず、シゲジは歩き出しながら続けた。

「痩せる努力ぐらいしたらどうだ?…まぁ、そういう体型が好みって女も居るだろうけどな」

「それ以前に女っ気がないのさ。職場でも私生活でも、全く」

兄が崖から離れ、殺害の機会を逃したケイタは、内心の動揺を押し隠しながら応じた。

「合コンとかそういうのもしてないのか?」

「しないよ。俺なんかが行ってもどん引きされるって」

「お前は棘の無い性格してるから、積極的に出会う機会さえ作れば、気に入ってくれる女の一人や二人居ると思うけどな?無

害だし…」

無害なもんか。

胸の内ではそう思ったが、「そりゃあどうかな〜…」と、ケイタはただ曖昧に笑う。

「いやいや、積極的に行ってみろよ。お前、見た目はともかく性格は良いんだからさ」

無責任に楽観的な意見を述べつつ再び歩き出した兄の背を、すぐ後ろから追いながら眺め、ケイタは笑みを消した。

兄弟としての会話で、僅かながら心が揺れた。

だが、ケイタはそんな感傷を追い出すようにして小さくかぶりを振ると、再び笑顔の仮面をつける。

今更何があっても、兄を生かしておく事はできない。

事が明るみになる前に、どうしても始末をつけなければならない。

殺人鬼の決意は、もはや揺らぐ事は無かった。



「そこがどうかしたのか?」

切り立った崖上を巡る柵。その周辺で入念に匂いを嗅いで回っているジャッカルに、黒豹はバイクに跨ったまま胡乱げな表

情を向けた。

既に周囲は暗闇に閉ざされているが、二人の目には墓地に立ち並ぶ墓石一つ一つに刻まれた墓碑銘はおろか、法名碑の細か

な文字さえもはっきりと見えている。

キャトルはこれまでと違い、柵に鼻を近付けたり、地面に屈み込んで匂いを嗅ぎ回ったりしている。

…まだ新しい残り香…。

鼻を鳴らして立ち上がったキャトルは、麓へと続く道…、先程二人が登って来たのとは別の方向を指し示した。

「少し前までここに居て、あちら側に降りた…というところだろうか?」

期待を込め、凛々しい顔をなお引き締めて訊ねた黒豹に、ジャッカルは大きく頷いた。

「流石…、といった所か。貴方は実に頼りになる。おかげで期限には間に合いそうだ。それでは急ぐとしよう」

配達期限となっている時刻まで、今からならばだいぶ猶予がある。これはアズライルの予想よりもだいぶ早かった。

道中常々、周囲の様々な物に視線を向けていたキャトルの様子に気付いていたアズライルは、時に微笑みすら浮かべていた。

初めて目にする地上の景色が、そこに溢れる様々な物が、珍しくて仕方ないのだろう。

できれば少しゆっくり見物させてやりたいとすら思っている。

安堵を覚え、そんな事を考える余裕すらあったアズライルはしかし、再び懐の死記が脈動した事で息を飲んだ。

「…何だ?また何か反応を…?」

反応消失者の死記は、相変わらず距離や位置を彼女に知らせてはくれないが、何かを訴えているかのように時折脈動する。

嫌な予感は、ここまで対象に迫った今でも、なかなか消えてはくれなかった。



「お前のカレー、美味いなぁ…」

昼にも食ったと文句を言った割に、カレーを二人前近くペロリと平らげたシゲジは、すっかり感心した様子で弟を褒めた。

居間となっている畳敷きの十畳間。中央に置かれた座卓には、空になった皿とコップが置かれている。

「お袋譲りのカレーだからなぁ。慣れ親しんだ味だから、たぶんチェーン店の物より舌にしっくりくるんだろ?」

カレーの味は家毎に異なる。母親が作っていたカレーと同じ味を再現するべく、ケイタはそれなりに努力を重ねて来た。

少しばかり誇らしげに応じた弟に、シゲジは「言えてる。懐かしい味だよ」と、笑いながら頷く。

「俺が片付けておくから、兄貴は腹が落ち着いたら風呂入って来たら良いんじゃないか?もう湧いた頃だと思う」

「んじゃ、悪いけど少し食休みしたら先に頂くかな」

のっそりと立ち上がって皿を片付け始めたケイタは、自前のエプロンを身につけ、台所に入って時間をかけて皿を洗いなが

ら、兄が居間を出て行くのを待った。

やがてシゲジが廊下に出て、風呂場に向かう気配を察したケイタは、念のために用意しておいた鋭いナイフを、右脇腹寄り

についているエプロンのポケットに入れる。

刃物で刺殺する事には少々抵抗を感じたが、また上手い具合に機会が巡って来るとも限らない。

入浴中の、無防備な全裸の状況を狙って殺害する。

この殺害方法は、当初の計画とは大きく異なる。刺殺した死体の始末も考えなければならない。

だが、後に延ばす事はできない。先程心が揺れたように、決心が揺らがないとも言い切れなかった。

ケイタは「やるしかない…」と、自分に言い聞かせるように小声で呟き、台所の戸へと足を進めた。



「あの家か?」

キャトルが背後から腕を延ばして指し示した、その先に建つ民家を見据えたアズライルは、またもや死記が蠢くのを感じ、

凛々しい顔を顰めた。

こんな反応を実際に経験するのは初めてだったが、彼女という存在の芯に刻み込まれた情報が、徐々に呼び起こされて来る。

やっと思い出せたそれは、死記の持ち主に何かが生じている兆候だという事であった。



がらりと音を立てて浴室の戸が開き、桶に汲んだ湯で頭を流していたシゲジは手を止めた。

そして湯で濡れた顔を手の平で拭いつつ、スポンジを片手に椅子に座った姿勢で振り返る。

「なんだよケイタ?一緒に入ろうってか?」

冗談めかしてけらけらと笑ったシゲジは、ケイタがエプロン姿である事から、それ以外の用件であるとは察している。

「いや、違うんだよ兄貴。入浴中、邪魔して悪いな?」

笑みを浮かべてそうことわったケイタは、エプロンのポケットに手を突っ込んだ。

ポケットの中で親指を鞘に当て、スライドさせてナイフの刃を出しつつ、ケイタは口を開いた。

「けど…、今が好機なんだ…」

ポケットから鏡のように輝くナイフを取り出した弟を、シゲジはキョトンとして眺める。

何が何だか判らないながらも向き直ろうとしたシゲジに、倍近い体重のケイタは、

「うおぉおおおおおおおおおおおおっ!」

自らを奮い立たせるべく雄叫びを上げつつ、ナイフを両手で握り締めて突っかかった。



玄関の引き戸を開け、土足のまま駆け込んだアズライルは、吼えるような叫び声を耳にして奥を目指した。

影のように走る黒豹の後ろに、キャトルは相変わらず無言のまま従う。

脱衣場に飛び込み、浴室を覗き込んだアズライルは、浴室の出入り口に立ち尽くし、肩で息をしている、大きくて太った男

の背を漆黒の瞳に映した。

男は上背も幅もある為、出入り口は殆ど塞がれ、アズライルの視点からでは浴室内部の様子が見えない。

兄に突き刺したナイフをそのままにして手放したケイタは、満面の笑みを浮かべている。

ナイフが柔らかな物に潜り込む感触に続き、硬い物に突き当たる感触があった。両手にはその瞬間の手応えがしっかりと残っ

ている。

人を刺すのは初めての事だったが、全身に鳥肌がたっており、背骨がバラバラに分離してふわふわと浮き上がっているよう

な、不快な寒気があった。

胸を抱え込むようにして前のめりになり、俯いているシゲジを、ケイタはただただ笑いながら見下ろしている。

「ケイタ…?何で…?」

困惑しているような掠れ声が、俯いたシゲジの口から漏れた。

ケイタは相変わらず笑いながら口を開く。

「始末をつけなきゃならなかったんだ…。あの主婦と子供の殺害や…、その前の殺人事件が明るみに出ない内に…」

ケイタは一度言葉を切り、息を吸い直してから口を開いた。

「…兄貴がやった事だって…、世間にバレない内に…」

息を吸ったシゲジの丸くした背が、僅かに震えて盛り上がる。

「俺…、あの晩、あのマンションに、時間指定の配達物を持って行ったんだ…。兄貴があの部屋から出る所も、偶然見たんだ

よ…」

ケイタは笑う。肉親を殺さねばならない哀しみを、笑みの仮面で覆い隠して。

「お袋が必死に育ててくれた俺らが、評判落とすような事しちゃいけないんだ…。お袋の顔に泥塗るような事しちゃ駄目なん

だ…。…だから…、恵助(けいすけ)兄ぃも俺が殺した…」

長男の殺害について告白したケイタは、分厚い手を丸みを帯びた胸に当てた。

動悸が激しく、息が乱れ、胸は早いペースで小さく上下している。

「お袋を毒殺した兄貴は赦せなかった…。親殺しなんて事…、子供に殺されたなんて事…、明るみに出たら、俺達を一生懸命

育ててくれたあのお袋が、世間に何て言われるか…」

血を分けた兄弟を殺める殺人鬼に、涙を流す権利などない。

だから笑う。ケイタは笑う。可笑しくなどないのにただ笑う。

泣きたい気持ちも哀しみも、笑みの仮面で封じ込め、外には一切漏らさずに。

蹲るシゲジの背が、小刻みに震えていた。

苦痛に震えているのかと思っていたケイタは、しかし下から響いてくる微かな音を耳にして訝しむ。

ガバッと身を起こしたシゲジは、手にしたナイフを素早く真横に振るった。

その行為そのものより、兄がまだ動けたという事に驚き、反射的に仰け反ったケイタのエプロンが、スパッと横一文字に切

り裂かれる。

尻餅をついたケイタは、パックリと口をあけたエプロンの奥を反射的に見遣った。

ティーシャツが切れて、鳩尾の白い肌にうっすらと線が入り、そこから血がすぅっと滲んだ。

横にピンと張った赤い糸のように浮き上がる、薄皮一枚裂いた傷。

驚いて仰け反った事で掠っただけに留まったが、もしも棒立ちのままだったならば、ナイフは柄近くまで潜り込みながら、

ケイタの腹を横に捌いていたはずである。

その前で完全に立ち上がったシゲジは、整った顔を醜く歪めて笑う。

それは、ケイタの物とは違う笑み。

殺意と狂気が色濃く滲む、殺す事に罪悪感を持たぬ「本物の殺人鬼」の笑みであった。

「…へっ…!そこまでバレてたとはな…」

尻餅をついたまま、ケイタは困惑していた。

刺したはずの兄は、血の一滴も流してはいない。刺したはずの胸に傷がない。

それもそのはずで、兄を刺殺するという凶行への罪悪感と恐怖から、突きかかりながら目を硬く瞑っていたケイタのナイフ

は、咄嗟に手を上げたシゲジが手にしていたスポンジを貫き、ネックレスに当たって止まっていたのである。

シゲジ自身も意図しておこなった動作ではない。だが、その低確率で生じる偶然は、今のシゲジには頻繁に起きる。

死記を失いし咎負い人たるシゲジには、死が簡単には成立しない。つまり死なない…。死ねないのである。

アズライルが持つシゲジの死記が脈動していたのは、彼が死に損ねている事に反応したものであった。

手ぶらになり、混乱と驚愕に囚われているケイタと、ナイフを得て、弟を殺す事を決意したシゲジ。

いまや二人の立場は完全に逆転していた。

「この世に二人だけになっちまった兄弟だ…。ちょっとばっかし心が痛むが…、このままにはしておけねぇよなぁ…、残念だ

けど…。なぁ?白ブタ君?」

シゲジは炯々と目を光らせ、薄ら笑いを浮かべながら、自らが思いついて陰から流行らせた、弟の昔のあだ名を口にした。

その右手は握ったナイフを弄ぶようにして、ひらひらと揺すっている。

ケイタが尻餅をついたおかげで浴室内が見えるようになったアズライルとキャトルは、状況を見定めた。

アズライルは細めた黒い目に配達相手を映す。自宅を訪問し、カレー屋やコンビニなどに寄り、キャトルの協力を得て足取

りを追ってきた相手の姿を。

キャトルは目を一度しばたかせ、大きな耳をパタタッと動かした。

やっと辿り着いた咎人。それと対峙している、咎人の部屋で見た写真に写っていた、危険な魂を宿す者。

対処が必要な二つの魂を前に、キャトルはアズライルへ視線を向けた。

主はあくまでも配達人たる彼女である。サポート役である事をわきまえて動静を窺ったキャトルの前で、アズライルは被認

迷彩のレベルを落としつつ死記を弾丸に変え、腰の後ろのホルスターへ手を伸ばす。

見ていたキャトルはそれに倣い、自分も同じ程度まで被認迷彩のレベルを落とす。

アズライルのデザートイーグルが銃弾を咥え込んだその音で、尻餅をついたままのケイタを凝視していたシゲジは、初めて

その背後の暗がりへ、脱衣場へと顔を向ける。

そこには、黒豹とジャッカルの顔をした二人組、異形の部外者が控えていた。

「な、何だお前ら!?」

驚きの声を上げるシゲジと、驚いて背後を振り返るケイタ。

認識条件を満たしているシゲジとは違い、ケイタの方は被認迷彩のレベルが下げられた事で、初めて二人を認識できるよう

になった。

アズライルが迷彩のレベルを下げたのは、ケイタへ警告を発する為でもある。

シゲジは異形の存在に驚愕し、混乱していたが、その驚き様と比較すればケイタの驚き方はまだ控えめな方であった。

二人を本来の姿で認識しているシゲジとは違い、ケイタは、グラマーな女性とやや小柄な少年の二人組と認識するのがせい

ぜいで、二人とも半人半獣の姿には見えていない。

「退きなさい」

静かな口調でケイタに告げたアズライルは、デザートイーグルの銃口をシゲジに向ける。

死記は既に装填されている。射竦められたように動かないシゲジを見据え、トリガーを引き絞るだけとなったその体勢で、

アズライルはしかし銃弾を放つ事はできなかった。

「に、逃げろ!早く!」

ケイタは尻餅をついた姿勢から、兄へ完全に背中を向ける形で向き直り、見知らぬ二人に警告を発した。

犯した殺人事件が暴かれ、しかもいつから居たのか定かでないながらも、現場に居合わせ話を聞いていたかもしれない相手

が居る。そんな状況で兄が二人を見逃すとは思えない。

まして二人は小柄な少年と女性、ナイフを手にしたシゲジと争っても殺されてしまう。

ケイタの中には、二人を逃がしたいという思いと、これ以上兄に罪を重ねさせたくないという思いが半分ずつあった。

そんなケイタの胸中を知るはずもなく、また、例え知っていたとしても、もはやどうとも思わないシゲジは、ナイフの柄に

両手を添え、腰の高さでしっかりと握り込んだ。

やむを得ず兄達を殺害しようとしたケイタとは違う。

シゲジは女性宅へ押し入った際のトラブルに備え、「きちんと殺す」為の刺し方を学んでいる。

ケイタの警告に一瞬注意を奪われたアズライルは、そのまま発砲の機会を逃してしまった。

シゲジが急に動いて背を屈め、それを食い止めるべく中腰になったケイタが射線を塞いでしまっている。

アズライルが躊躇したその一瞬に、反応したのは小柄なジャッカルであった。

二歩前に進むだけの助走で獣の如く跳躍し、中腰になってもなお自分の胸ほどの高さにあるケイタの右肩を飛び越え、兄弟

の間の湿った床にシタッと降り立つ。

驚くケイタとシゲジ、立ち直りは兄の方が早かった。

腰溜めにしたナイフで突きかかるシゲジ。

悠々と対処できるはずのそれにキャトルが遅れを取ったのは、足元にあるものが何かも知らぬまま、体勢を変えようとした

せいであった。

タイルの上に転がっていた、少し湿って泡を纏っている四角いそれは、キャトルが初めて目にする石鹸という代物である。

バレエダンサーのように右足を上げ、大きくバランスを崩したキャトルの右脇腹に、シゲジの手にしたナイフが根本まで潜

り込む。

まだ制御し切れていない、初めて使用する肉の体が、激痛という信号をキャトルに伝える。

刺された上に、当たり負けして吹っ飛ばされた小柄なキャトルを、ケイタは反射的に伸ばした手で抱き止めていた。

そのまま再び尻餅をついたケイタに、薄ら笑いを浮べた兄が素早く迫った。

弟の腕に抱き止められている異形の侵入者にとどめを刺すべく、シゲジは逆手に握ったナイフを振りかぶる。

自らが持ち込んだナイフがギラリと光り、振り下ろされるその瞬間、ケイタはキャトルを抱き込むようにして身を捻った。

刺さったという感触は無かった。

ただ、強くぶたれたような感覚が、左胸の脇に生じた。

熱と鈍痛。金属の冷たさ。異物感。

直後、脇腹と脇の下の中間で、肋骨の隙間に潜り込んでいたナイフが、捻られながらゾリュッと引き抜かれた。

アズライルの発砲は無かった。

両手で握り締めた拳銃を真下に向け、すぅっと前進した黒豹は、尚もナイフを振り上げて突き立てようとするシゲジの両手

めがけ、右足をしならせてハイキックを繰り出した。

キャトルを抱いたまま、血を流して倒れ伏しているケイタの上で、分厚いブーツに覆われた右足の甲が、シゲジの左手の甲

に命中した。

浴室に響く「ぎゃっ!」という悲鳴と同時に、ナイフが弾け飛ぶ。

死記を失い、死に至る害を受けなくなっているシゲジだが、傷自体を負わない訳ではない。

アズライルが放った非致死の打撃は、その左手を粉砕骨折に追いやっていた。

肉の体とはいえ、配達人の体は生物の常識の範疇を逸脱した性能を有する。

女性型のアズライルだが、身体性能は野獣のソレをも凌駕しており、その気になれば人間の肉体などクッキーでも割るよう

に破壊できる。

素手になったシゲジは、激痛の余り左手を抱え込むようにして蹲ったが、アズライルはそれ以上の攻撃は加えず、足下のケ

イタに視線を向けた。

「キャトル、動けるか?」

シャツを染める血がとうとうと流れ出ているケイタの、そのたるんだ腕を押し退けて、キャトルが無言で身を起こす。

つなぎに穴はあいているものの、刺された位置から血は出ていない。

ナイフが抜かれた直後には、特別製の肉体は自己修復を完全に終えていた。

修復によって肉体のエネルギーがだいぶ失われたキャトルは、自分を庇った男の顔を覗き込む。

瞳孔が開いて視線が定まらない目。

口がかすかに動いており、厚ぼったい唇がうわごとのように「逃げろ」と弱々しく繰り返している。

致命的な一突きを受けたその男が、間もなく絶命するであろう事を、キャトルは確信していた。

危険な魂。悲壮な決意で塗り固められた、危険で、強靱で、そして本当は温かいはずの魂。

それがこうまで咎で汚れてしまっている事を、キャトルは哀しいと思った。

その「哀しい」は、これまで永い時を冥牢で過ごして来たキャトルが、初めて抱いた感情らしい感情であった。

人間とは何と愚かで、脆くて、弱くて、そして眩しい存在なのだろう?

刺された程度でキャトルは死なない。物理的な損傷によって肉の体が機能を停止したところで、消滅には至らない。

そんなキャトルを庇って刺されたケイタの行動は、見方によっては無駄な行為であった。

だが、その無駄なはずの行為は、ザバーニーヤの心を強く揺り動かしていた。

魂とではなく、生きている状態の人間に関わる事で、キャトルは地上を含め、彼らが形成する社会という物をひっくるめ、

人間という存在をこれまでよりほんの少しだけ深く理解した。

ようやく、何となく興味を覚え、理解しかけた人間が一人、間もなく旅立つ。

それも、恐らくは本来の因果の流れに沿わない死に方で。

アズライルは蹲っているシゲジの脳天にデザートイーグルを向け、トリガーを引き絞った。

轟音と共に発射された死記がシゲジの頭に吸い込まれて消えるが、黒豹はそれを確認する事もなく、拳銃からマガジンを引

き抜いた。

足下に落ちた空薬莢には目もくれずに屈み込むと、アズライルは厳しい表情でケイタの傷を見る。

明らかに致命傷。だが、本来ケイタは今夜死ぬはずではなかった。

死記を失いし咎人が生じさせた因果の乱れが、他者を巻き込んで死に至らしめる…。

かつて他の配達人のミスが原因となって発生し、自らも経験した事態が、また目の前で繰り返されようとしている…。

(…今度は…止める…)

アズライルは右手を胸の前に上げ、グッと握り込んだ。

(誤った流れなど…変えて見せる…!)

肉の体を熱くさせるその想いが、目の前で倒れている男の体型と白さが、ある同僚を連想させるからだという事には、しか

しアズライル自身気付いていない。

握り込んだ手に意識と力を集中し、アズライルは弾丸の精製を試みる。

彼女がこれまでに生成した経験がない、「構築」の弾丸の精製を。

ジブリールが得意とし、ミカールやナキールもまた行使できる物体を構築する力は、実は彼女の不得意分野に属する。

肉体の損傷を修復するだけなので、丸々一つ肉体を構築する程の複雑さは無いが、今まさに離れ行こうとしている魂を繋ぎ

止める効果を付与しなければならない。

魂が完全に肉体から分離してしまったなら、例え彼女の同僚の北極熊や獅子でもどうしようもない。

しかし、焦るアズライルが拳に注ぎ込む力は、なかなか安定しなかった。

不完全な精製で薄い灰色の煙が生じ、手の隙間から漏れては天井へと逃げてゆく。

時間的余裕が無い事から生じる焦りが、アズライルの集中を妨げ、ただでさえ不慣れな精製が全く上手く行かない。

一向に弾丸は形を為さず、煙だけがゆるゆると漂う。

何度も失敗を繰り返してゆく内に、肉体の活動エネルギーがどんどん削られてゆく。

無から有を生み出すために支払う対価は、決して安い物ではない。

通常法則を超越した次元の存在たる配達人。その一員であるアズライルもまた、その例外ではなかった。

同僚の北極熊が精製し、何度か預けられた事のある弾丸の感触を思い起こし、黒豹は自分を叱咤する。

(しっかりしろ…!お前は「アズライル」なのだろう!?)

ただ意識を集中し、成功をイメージする。胸の内にあるのはただ、繰り返させたく無いという強い想い。

『その内できるようになるよ。キミになら』

いつだったか、彼女がまだ配達人としての基礎技術を学んでいた頃にかけられた、同僚の優しく励ます声が耳元で響いた。

いつでも穏やかで、優しく、傍に居ると安心できる、大切な同僚にして救い主…。

改めて見つめた目の前で倒れている男が、少し彼に似ていると感じたその瞬間、アズライルの手で力の結晶化が始まった。

常の弾丸精製とは違い、瞬時に具現化する事はできなかったが、凝縮されてゆく力は、アズライルの手の中で徐々に形を為

してゆく。

イメージの安定が、力の安定に繋がっていた。

穏やかで優しい同僚の北極熊のイメージが、対象の傷の修復、すなわち癒しのイメージと直結した事で、アズライルはきっ

かけを掴んだ。

米粒大に結晶化したそれに意識を集中し、アズライルは力を注ぎ込む。

その背中で、ライダースーツの背に浮かぶ白い翼がぼんやりと光り、内側から突き破るようにして光が噴出した。

まるで機械が冷却の為に蒸気を吹き出すように、アズライルの背から放出される、細やかで眩い光の粒子は、まるで、翼を

象っているようにも見えた。

ボシィッと、盛大な黒煙を手の隙間から漏らし、アズライルはついに弾丸の精製に成功する。

が、感慨にふける事も無く、黒豹はケイタのシャツに手をかけ、力任せにビリリッと引き裂いた。

しまりの無い白い胸と腹があらわになると、それまでじっとケイタの顔を見つめていたキャトルは、傷口がアズライルに見

えやすい位置になるよう、ケイタのたるんだ太い腕を両手で下から支え持ち、少しずらした。

皮膚を貫き臓腑に達する、生々しい刺し傷…。

大量の失血によって血の気を失ったケイタの、普段にも増していやに白くなっている肌に映える血の赤さは、目に痛いほど

であった。

血が滾々と溢れ出るその傷口へ、精製したばかりの弾丸を装填した銃を向けるアズライル。

照準を合わせるやいなや、黒豹は引き金を絞った。