第十四話 「ベビーフェイスジャッカル」(後編)
ケイタは、三人兄弟の末っ子であった。
父親に似て容姿の整っている、印象の似ている兄二人に比べ、恰幅の良い母親に似たらしい彼だけは、幼い頃から体格が良
かった。
体が大きく、色白で、おまけに太っているケイタは、兄二人によく「貰われっ子」などとからかわれた。
からかわれる…、というのはケイタ自身の弁だが、実際には子供特有の手加減無い罵倒や陰湿ないじめも時にはあった。
それでもケイタは、殆どの場合、泣きたいのも堪えて我慢した。
上の二人に比べて容姿も悪く、要領も良く無い、出来の悪い自分をも平等に可愛がってくれる母親の為に。
兄弟喧嘩をすれば、大好きな母親が悲しむ。
若くして夫を亡くしながらも、自分達兄弟を大切に育ててくれた母に心労をかけたくない。悲しい思いをさせたくない。
ケイタは幼い頃からただひとえに、母親の為に耐え、頑張って来た。
容姿に恵まれ、何でもでき、要領も良い兄達は、しかしケイタ程には母に感謝と愛情を抱いていなかった。
二人が共謀してしでかした様々な悪事…、ケイタの弁に寄れば悪ふざけとなるそれらを隠匿し、発覚した場合にはケイタ自
身がそれとなく疑われるような真似をしたり、自分がやったと嘘をついて罪を被ったのも、母を悲しませたくない、兄達の評
判を落としたくない、そんな気持ちからの事であった。
だが、そのケイタの献身的な行為は、逆に兄達の悪行をエスカレートさせる事となった。
おまけに、元々あまり進んで他人に関わるタイプでなかったケイタは、兄達の罪を身代わりに引き受け続けた事で、何を考
えているか判らない陰湿で危険な小悪党というイメージで周囲に知れ渡ってしまった。
何か有れば自分のせいにされる…。そんな不遇にもめげず、ケイタは母の為に、兄達の為に、罪を被り、必死に耐え続けた。
しかし、そんなケイタの我慢に綻びが生じたのは、長男による母の殺害事件が起こった時であった。
亡くなった母の死因が、生前の彼女から「絶対に食べるな」と言われてきた植物による中毒死だと知った際に、ケイタは違
和感を覚えた。
野山に自生するその植物は、古くからこれだけは食うなと言われ続け、子供が誤って食して死亡した際には大規模な駆除作
業が行われて来たのだと、母親から耳にたこができるほど聴かされている。
にも関わらず、母はその植物の実に当たって死んだ。
胸騒ぎを覚えたケイタは、実家近くの山の崖に向かった。
その崖の中腹には、駆除するにも危険なうえ、誰も取りに行けないという理由から放置されていたその植物が手付かずで残っ
ている。…はずであった。
幼い頃、母親が自分達に教えるために連れて行ってくれた崖下からは、一角から色付いた実が失せているその植物があった。
疑念は、こっそり検めた長男のボストンバックの中から、まだ青いその植物の実を見つけた事で確信へと変わった。
ケイタは知らなかった事だが、長男のケイスケは会社の金を使い込んでいた。
ケイスケは保険金目当てに母を毒殺し、使い込みがばれないよう、遺産を当てて痕跡を消していた。
調べてみれば、ケイスケは母の死の直前に里帰りしていた。
墓前に呼び出して兄を問い詰めたケイタは、犯した罪がバレた事で逆上したケイスケに襲い掛かられた。
取っ組み合ったあげくに、体格と、仕事柄培われていた体力とで勝っていたケイタは、勢い余って兄を崖から突き落として
しまった。
我に返って崖の縁から下を見下ろしたケイタは、慌てて藪を掻き分けて崖下に至ると、兄の傍らで立ち尽くした。
手足がおかしな方向に折れ曲がり、頭からドクドクと血を流している兄が助からない事を、ケイタは確信した。
息も絶え絶えになりながら、「悪かった」「助けてくれ」と、弱々しく繰り返す兄の泣き顔を見下ろし、ケイタは罪悪感と
涙を抑え込み、笑った。
笑って、兄を赦した。
幼い頃からそうしてきたように、兄の罪を隠蔽する事を決めた。
兄が母を殺害した。そして、自分がその兄を殺した。
その事実はケイタにとって、自分が殺人を犯したという事よりも、亡き母の評判が下がるという、忌わしき事柄であった。
だからこそ、ケイタは兄の死を事故に見せかけ、母の死について真実を知りながらも、明るみに出す事は止めた。
殺人鬼には涙を流す事など許されない。
だからケイタは笑う。心が引き裂かれそうに痛み、泣き叫びたくとも、ケイタは苦痛を堪えて笑い続ける。
シゲジの姿を、たまたま配達先となっていた、母子殺害事件が起こったマンションで見かけたのは、本当の偶然であった。
その日まで、ケイタはシゲジについては何も疑ってはいなかった。
その晩、息を切らせて階段を登り、ホールから出てその階の廊下に至ったケイタは、マンションの一室から顔を出し、辺り
を見回しているらしいシゲジの姿を目にした。
何やら見られたくなさそうな雰囲気だと察し、咄嗟に階段のホールに引っ込んだケイタは、そのまま兄とはちあわせしない
よう、一階上に上がる。
幸いにも、ケイタが廊下に出たその瞬間は、シゲジは反対側に顔を向けて窺っている所だったので、目撃した事はバレてい
なかった。
程なくホールに現れたシゲジは、口元に微かな笑みを浮かべながらも、何食わぬ風を装って階段を降りていった。
手すりの隙間からこっそり窺い、ちらりとだが兄の顔を見ていたケイタは微かな違和感を覚えたが、その時はまだ、兄があ
んな事をしでかしているとは思いもしなかった。
時間指定の配達物を届けた後、ケイタは兄が出てきた部屋に興味を覚えた。
何やらコソコソしていた事からまず連想したのは、女だろうか?という事である。
昔から特定の誰かと付き合うという事はして来なかった兄だが、新しい恋人でもできたのだろうか?
そんな事を考え、兄の幸福を少しばかりお裾分けして貰ったような気分になったケイタは、ウキウキと心を弾ませつつ、先
程シゲジが出てきた部屋の前に立った。
(まさか人妻とかじゃないだろうな?)
半ば冗談でそんな事を考えたケイタは、表札を見て顔を綻ばせた。
その部屋のドア脇に掲げられたプラスチックの表札には、男性一人と女性二人の名。
三人は夫婦と娘と察せられ、この娘が兄のいいひとなのだろうとケイタは考えた。
仮面ではなく、本当の笑みを浮かべて踵を返しかけたケイタは、妙な匂いに気が付いた。
生臭い、それでいて鉄臭い、鼻の奥を刺激するその匂いは、ケイタにあるものを連想させた。
それは、職場にある錆の浮いた古い倉庫の周囲で、雨上がりに嗅ぐ匂いと似ているように感じた。
心臓が強く跳ねた。
その匂いは、ケイスケの死を看取った際の、あの大量に流れ出た血の匂いとも酷似していたから。
おそるおそるノブに手をかけたケイタの嫌な予感は、鍵もチェーンもかけられていないドアがすんなりと自分を迎え入れた
事で、より強まった。
この時は、小さく「こんばんは…?」と声をかけたケイタだが、後になって、この時大声を出さなかった事を安堵しながら
思い返す事になる。
廊下で嗅いだ血臭は、ドアを潜った途端に一層濃くなった。
もはや先程までの穏やかな気持ちなど消え失せ、恐々としながら玄関にあがり、半開きになっているリビングのドアを開け
たケイタは、その惨劇の痕を目に焼き付けた。
ケイタはそれから半ば放心状態となり、滞りなく仕事を終えて部屋に帰り着き、倒れ込むようにして眠ってしまった。
そうらしい事を自覚したのは、翌朝目覚めてからぼんやりとであったが。
昼のニュースでこの凄惨な事件が報道された際、ケイタはガタガタと震えていた。
仕事中のために手袋をはめていたおかげで、ケイタの指紋は現場に残っていなかった。
だが、自分が疑われずに済む事などは、ケイタに安堵感をもたらしてはくれなかった。
ケイスケに続き、シゲジまでもが人を殺した。幼い子供まで…。
ケイタは思い出した。かつて故郷で起こった、覆面をした若い二人組によって、若い婦人が暴行されたという三件の事件を。
まさかと思った。兄達の悪事はささやかな物からそれなりに大きな物まで、ケイタは察して来ていた。
だが、あの件だけは疑いもしなかった。いくら何でも兄達はそこまでするまい、と。
ケイタは悔やんだ。悔やんで悔やんで、自室に帰れば笑い続けた。
さらにその翌日のニュースで、以前起きた似たケースの事件の犯人と同一人物の犯行であるらしいと報じられたその時、ケ
イタは笑いながらも、堪えきれずに泣いた。
またやる。兄達は昔から、お気に入りの悪戯や、上手く行ってばれていない悪戯を、何度も繰り返す傾向があった。
長男のケイスケが会社の金を、簡単には返せない程になるまで使い込み続けてしまったのも、この傾向が抜けていなかった
からである。
ケイタは笑いながら涙を流し続けた。
事が明るみに出る前に、もう一人の兄を殺さなければならないと、悲壮な決意を抱きながら。
兄達がああなってしまったのは自分のせいだ。そんな罪悪感がケイタにはある。
幼い頃から自分が庇い、悪さを隠蔽してきたせいで、兄達は大人達に叱られるような事は滅多になかった。
それが原因で「悪事を働いても露見しない」「何をしても上手く行く」兄達はそんな風に錯覚してしまった。
悪いことをすれば怒られる。そんな当然の因果関係を、身をもって体験する事なく成長してしまった。
だからケイタは悔やむ。表向きは健やかに、心根はいびつに成長した兄達が起こした事件にも、自分は決して無関係ではな
いのだと。
薄く目を開けたケイタは、自分の顔を間近で覗き込む二人の顔を、仰向けに転がったままぼんやりと眺めた。
「…成功…、か…」
不思議なことに、これだけ近くから見ているのに、今ひとつ顔立ちをはっきり捉えられない女性が呟いた声が、ケイタの耳
に届いた。
ぼんやりとした曖昧な印象しか覚えられない女だが、しかしその声には疲れが色濃く滲んでいた。
ケイタもまた、指一本動かすのもおっくうに感じるほど体がだるく、酷い疲労感がある。
何がどうなったのか理解できておらず、困惑しながら頭を働かせ、刺されたという事をようやく思い出して目を見開いたケ
イタは、首を動かして浴室の奥で蹲る兄の姿を瞳に映した。
左手の甲を粉砕骨折し、激痛に震えているシゲジへと視線を移すアズライルとキャトル。
死記は配達された。
それによって同時に因果も修正されたのか、反応消失者であったシゲジの行く末は、アズライルの目にも視えるようになっ
ていた。
(まさか…、こんな旅の終わりを迎えようとは…。反応が消失したのはこのせいなのか…?それとも、因果が乱れた末にこの
結果が用意されたのか…?)
それは、アズライルも初めて視るケースであった。
(ジブリールですらも、これを見越していた様子はなかった…。キャトルが派遣された事も、この場に居合わせる結果となっ
た事も、全ては、我々にすら読み切れない、大いなる流れの内か…)
震えていたシゲジは、やおら立ち上がると、浴槽の縁に足をかけた。
そして、床から150センチ程の高さにある浴室の窓を、頭から飛び込むようにして突き破り、外へと跳び出した。
割れたガラスが裸体を傷つけるが、シゲジはそのままお構いなしで逃走する。
「あ…兄貴…!ぐ…」
身を起こそうとしたケイタは、しかし目眩を覚えて顔を顰めた。
アズライルが精製に成功した弾丸は、ケイタの傷を塞ぎ、跡形もなく消したものの、完全な修復を行うには至らなかった。
失われ過ぎた血液の全てを戻す事まではできず、ケイタには貧血症状が出ている。
アズライルもまた、不慣れな精製を行う過程で力を余分に発散させてしまい、消耗が激しい。
しかし、シゲジを追える者が、追うべき者が、二人の前ですっくと立ち上がった。
「あとは任せて良いか?君に…」
片膝をついたまま自分を見上げ、訊ねてきた黒豹に、ベビーフェイスのジャッカルが頷いた。
トトッと窓に向かって小走りに進んだキャトルは、シゲジが突き破って出て行った窓を、残ったガラスの破片に毛の一本掠
らせる事無く、頭から飛び込むようにしてすり抜ける。
170センチを越えるシゲジが浴槽を踏み台にして出て行ったというのに、さほど助走をつけたようにも見えなかったキャ
トルは、自分の身長ほどの高さに底辺がある窓を簡単に潜り抜けていた。
ポカンと口をあけたケイタは、しかし兄がナイフを持っているという事を思い出す。
アズライルに手を蹴られた際に、ナイフは手放されて浴室の床に転がったが、その間の事はケイタには判らない。
そして、床に落ちていたナイフは実際に消えている。シゲジは激痛を堪えながら、凶器だけは確保して逃走に移っていた。
「だ、だめだ!行くな!戻るんだ君!」
声を上げながら立ち上がろうとしたケイタは、しかし濡れた床に立てた膝が滑り、前のめりに転んで顎をしたたかに打つ。
「彼の事は問題ない。それより、あまり動かない事だ」
声をかけながら胸の下に腕を入れ、自分の倍以上も体重があるケイタを軽々と起き上がらせたアズライルは、
「け、けれど…!兄貴は…、兄貴は刃物を…!」
なおも言い募るケイタを支えてやりながら、「それでも、問題ない」と、大きく頷いて見せた。
そして、何かに気付いたように動きを止める。
「……………?」
ゆっくりと視線を下に向け、ケイタが倒れぬよう支えている、弛んだ胸に押し当てた腕を見遣るアズライル。
剥き出しの白い、脂肪でだぶついた肌に、直接触れている事に気付いたアズライルは、
「っ!?!?!?」
慌てた様子でパッと身を離した。
当然、突然支えを失ったケイタは、支えられていた側の肩から再び床に突っ伏し、「ぐぇっ!?」と声を漏らす。
「あ、す…、済まない…!」
傷を修復するために上半身の衣類を脱がせていたのだが、間近で見て、そして触れたケイタの体型や肌の白さが、落ち着き
を取り戻したアズライルに、ある同僚を連想させていた。
そっぽを向いて黙り込んだアズライルに目をやったケイタは、自分が何故か半裸になっている事にやっと気が付くと、アズ
ライルに背を向けて両腕を組み、顔を真っ赤にして背を丸めた。
子供の頃に母親に触れられた事を除けば、女性に素肌を触らせる事など初めての経験であった。
「あ、あの…、な、なんかよく分かんないけど…、裸で済んません…」
「い、いや…。それに関しては君に責任は無い…」
気まずい思いをしながら互いに背を向けている二人は、同時に手を上げて首筋を擦った。
浴室の窓から飛び出したキャトルは、極端に前傾した、まるで獣のような低い姿勢で駆け、庭を横切り、逃げてゆくシゲジ
の後を追う。
損傷を修復した肉体からは少なくない量の力が消耗されてしまっていたが、キャトルは意にも介さず、不慣れな肉の体に指
令を送る。走れ、追え、と。
振り返る余裕もないが、追われている事だけは察しているシゲジは、最も近い民家めがけて走ってゆく。
やがてその民家の庭に辿り着いたシゲジは、転げるようにして玄関から飛び込んだ。
遅れて駆け付けたキャトルは、引き戸が開け放たれた玄関を潜った瞬間、悲鳴を耳にする。
台所に飛び込んだキャトルは、主婦らしき中年女性にナイフを突き付けたまま振り返ったシゲジの姿を瞳に映した。
「お、お前…!?刺したのに…!?」
追って来る者が誰なのかまでは確認していなかったシゲジは、ピンピンしているキャトルを目にして驚愕する。
そんなシゲジを前に、キャトルは右腕を横へ、肩の高さで真っ直ぐに伸ばした。
立てた親指は下に向けて、他の指は真っ直ぐに伸ばされたその手から、上下に黒い筋が走った。
黒い紐のようにシュルッと伸びた、影とも実体とも掴めないそれは、ピンと伸びた後に太さを増し、長い棒状の器具になる。
伸ばしていた指を曲げ、キャトルがキュッと軽く握り込んだそれは、先端にたわしがついた長い棒…。ありふれた清掃用具、
デッキブラシであった。
微かに木目が浮いて見えるデッキブラシは、ブラシの毛が灰色で、本体は黒色。黒檀のような質感を有している。
全長120センチ強のデッキブラシをくるりと回転させたキャトルは、柄を右の脇の下に挟むようにして、左手を開いて前
に突き出し、少し足を開いて身構えた。
キャトルのそれは、携えている物がデッキブラシだという事を除けば、棒術の構えに酷似していた。
何処から取り出したのか?デッキブラシで自分と戦うつもりなのか?そもそも刺したはずなのに、この犬顔の化物は平気な
のか?
シゲジの頭には疑問が渦巻いたが、ハッと我に返ると、怯えて硬直している中年女性の首に押し当てたナイフをこれ見よが
しに動かした。
中年女性はカタカタと震えながら目を硬く瞑る。
「う、動くな!妙な真似するなよ!?」
シゲジがそう叫ぶが早いか、キャトルは躊躇い無く素早く一歩踏み込み、右脇に柄を挟んでいたデッキブラシを、右手一本
で突き出した。
突き出す途中で手の中を滑らせ、柄尻の方を掴み直しつつ突き出す電光石火の一撃は、シゲジの反応を許さず、その顔面を
ヘッドで捉えていた。
ゴスッと、大きくも鈍い音が響き、シゲジはぐぅの音も出せずにもんどりうつ。
後ろ向きに転倒し、キッチンシンクに激突するかと思われたシゲジは、しかしステンレスのシンクを、その向こうの壁を、
それらがまるで液体で出来ているかのように突き抜けて消える。
シゲジを屋外に追いやったキャトルは、自分よりも少し背の高い中年女性を見遣る。
未だに目を瞑ったまま震えている中年女性の頭の上にデッキブラシのヘッドが差し出され、後ろでひっつめた髪をすくよう
に軽く擦った。
「………?」
女性が恐る恐る目を開けた時には、ナイフを手にした全裸の乱入者も、後から飛び込んできた少年も、既に姿を消していた。
それどころか…。
「…あら?あたし、何してたんだっけ?」
中年女性は首を傾げて呟く。が、すぐさま夕食の準備の最中であった事を思い出すと、火にかけたままの鍋に歩み寄った。
清掃人に擦られた女性の頭からは、不要な記憶が完全に洗い落とされていた。
「はぁ…!はっ…!はぁ…!くそっ!」
振り切る事を諦めたシゲジは、生き生きと草の茂る広い野原で足を止め、向き直った。
追っていたキャトルも足を止め、両者はその視線を繋げる。
野原は広く、周囲は広大な田畑に囲まれており、近くの民家まででも300メートルはある。
キャトルに追いつかれたシゲジは、もはやどこの民家に逃げ込む事もできはしない。
シゲジは追跡者であると同時に目撃者であるキャトルを殺すべく、左手を使用不能にされながら、なおもナイフをしっかり
と握って襲い掛かった。
だが、キャトルは先程の失敗を教訓、かつ参考データとして利用し、肉体と意識のズレを修正している。
肉の体の特性を多少でも理解した今となっては、人間相手に遅れを取る事はない。
素早く水平に振るわれたデッキブラシのヘッドが、したたかにシゲジの右手の甲を打つ。
ナイフが手から弾き飛ばされ、悲鳴を上げたシゲジは、アズライルに蹴られた左手に続き、右手の骨も粉々に砕かれていた。
両手の骨が粉と砕け、激痛に耐えかねて絶叫しながらも、もはや手で押さえる事すらできない。
その側頭部へ、横振りから加速をつけて戻って来たデッキブラシのヘッドが、情け容赦なく叩き込まれた。
パカンっと、小気味良いとすら言える音が夜の野原に響き渡る。が、殴られた方は当然堪ったものではない。
こめかみを痛打されて上体を横に捻じ曲げ、いびつな側転でもするように「グェッ!」と呻きつつ野原に転がるシゲジ。
シゲジが転倒し、頭を両腕で抱え込むようにしてのたうち回っている間に、キャトルは柄の中央を両手で掴み、デッキブラ
シを風車のようにヒュンヒュンと回転させる。
直後、ブラシのヘッドがその黒さを増し始め、ブラシの毛が根本から徐々に黒く染まって行く。
まるで、遠心力で黒い何かが先端に寄り、滲み出て、染め上げられているように。
シゲジが呻きながら顔を上げた時には、キャトルは毛先までが完全に黒く染まったブラシのヘッドを、草の中に沈み込ませ
て地面にヒタリとつけていた。
ブラシで床を擦るような、やや前屈みの腰を折った姿勢をとるジャッカルは、その場でぐるりと回転する。
先端を地面につけたデッキブラシが、キャトルを中心にして草に覆われた地面に円を描く。
草一本もなぎ倒さず、折らず、傷つけずにすり抜けたデッキブラシで、キャトルが描いた正円。
そのなぞられた地面の丸い軌跡が、ぼんやりと紫色に発光し始めた。
草の下から立ち昇る紫の光に淡く照らされながら、キャトルは右腕を真上に伸ばし、握ったデッキブラシを真っ直ぐ天に向
ける。
シゲジは見た。犬のような顔の奇妙な少年が、ゆっくりと口を動かす様を。
―さあ、審判の時だよ―
音を伴わぬその言葉が、シゲジには何故か理解できた。
直後、キャトルはすっと腕を下ろし、デッキブラシをシゲジに向けた。
ヒタリと自分を指したデッキブラシを見つめるシゲジめがけ、キャトルを囲んでいた紫の輪が、地面をススッと移動する。
スライドした紫の輪はシゲジの足元に滑り込み、彼を中心に据えるようにしてピタッと静止した。
そして、冥牢への道が開いた。
紫の輪から中心に向かい、闇よりもなお濃く、そして黒い影が滲み出る。
影がシゲジの足元に達したその時、シゲジはビクンと体を突っ張らせ、仰け反った。
ガシャンッ、というガラスが割れるような音と共に、その体から濃い緑色に濁った何かが無数に飛び出し、周囲に撒き散ら
された。
それは、砕け散ったシゲジの魂の破片。
冥牢で洗浄を受ける権利すら与えられぬ程に、汚れきった魂の欠片。
魂を砕かれたシゲジの体は、瞬時に活動を停止していた。
しばらく両膝で立った姿勢を維持していたシゲジの亡骸が、糸が切れた人形のように脱力し、ドシャッと音を立てて前に倒
れる。
先程アズライルが視たシゲジの旅の終わりこそが、キャトルによって引導を渡されるという、この光景であった。
シゲジの魂が消滅した事を確認したキャトルは、握ったデッキブラシをくるりと回転させて肩に担ぎ、濃紺の空を見上げた。
澄んだ大気の上で輝く、黄色も鮮やかな半月を瞳に映し、ベビーフェイスのザバーニーヤは考える。
同じく咎に汚れながらも、この兄弟の魂は何故こんなにも違うのだろうか?と…。
「…終わったのだな?」
ブラシを片手にぶら下げて引き返して来たキャトルは、顎を引くことでアズライルの問いに答える。
アズライルとケイタは互いに消耗しており、キャトルが出て行った直後同様、片や正座を横に崩した格好で、片やあぐらを
かいて、浴室に留まっていた。
ケイタについては、最初は兄を追おうとしていたものの、酷く消耗した体がいう事を聞かないのと、アズライルに止められ
た事もあり、ソワソワしながらも留まっていた。
キャトルが無事に戻って来た事でひとまず安堵したケイタだったが、堪りかねてキャトルに尋ねる。
「兄貴は!?兄貴はどうしたんだ!?まさか、ナイフを持ったまま逃げて…!?」
ケイタの問いには答えず、キャトルはじっと彼の顔を見つめる。
兄達の犯した罪。それを償う機会を奪う結果となったケイタの隠蔽行為と、長男の殺害…。それらは確かに咎であった。
諌める事もせず、隠蔽に手を貸す行為その物は、ザバーニーヤたるキャトルの判断基準に照らし合わせれば、ただの協力者
である。
咎人とはいえ、償う機会を与えずに長男の命を奪う権利もまた、少なくともケイタには無かった。
だが、その根底にある行動原理。母への想いを加味した場合、キャトルにはケイタが裁かれるべき存在なのかどうかが判ら
なくなる。
哀しかった。
ただただ、この自分より大きくとも遥かに脆弱な人間が、本来は汚れ無き美しい心を持っていたはずの男が、その魂を咎で
染め上げてしまっている事が。
キャトルはおもむろに手を上げ、デッキブラシのヘッドをケイタに向ける。そして、それを見つめるケイタの胸を、トンと
軽く突いた。
「うわ!?」
さして力を込めたようにも見えないにもかかわらず、ブラシのヘッドで押されたケイタはコロンと真後ろにひっくり返る。
仰向けに倒れたケイタの弛んだ白い胸に、デッキブラシのヘッドがヒタッと乗った。その次の瞬間。
ゴシゴシゴシゴシゴシゴシッ
「いでぁっ!?いで、いでででででっ!熱っ!」
デッキブラシの硬い毛で胸をゴシゴシと擦られ、ケイタは悲鳴を上げた。
「痛いっ!痛いってばヤメロっ!痛い熱い痛いっ!あっつぅううううああああああっ!」
転げ回るケイタの胸を、腹を、背を、首を、白い肌が見えている部位は徹底的に、容赦なく、無表情で擦るキャトル。
不思議と肌に傷はつかないものの、痛みや熱はきちんと与えられている。
「…なるほど…。確かに責め苦ではあるな、これは…」
キャトルがおこなう魂の洗浄の様子を眺めながら、アズライルは納得したようにポツリと呟いた。普段は冷静で表情を浮か
べていない顔を、微かに引き攣らせつつ。
「痛だだだだだだだっ!熱ぅうううううっ!勘弁!勘弁っ!やめて許してぇえええっ!」
魂を染める咎を強引に擦り落とされ、転げまわりながら、ケイタは悲鳴をあげ続けた。
「おかえりアズ、キャトル。お疲れ様、上手く行ったみたいだね?」
帰還した同僚と助っ人を、飛行艇のカーゴルームで出迎えた北極熊は、穏やかに微笑みながら二人に労いの言葉をかけた。
「キャトルのおかげで、他への影響を出す事無く済ませる事ができた。大いに助かった…」
黒豹に振り返られつつ後部座席からぴょこんと飛び降りたキャトルに、ゆっくりと歩み寄る巨大な北極熊。
ジブリールは腰を折って視線をキャトルと同じ高さにし、近付けた顔に浮べている笑みを深くした。
「ありがとう。不慣れな環境で大変だったんじゃないかな?」
ジブリールの顔を間近で見つめ返すキャトルは、耳をピルピルと細かく動かす。
「そうかい?少しでも気に入ってくれたなら、オレも嬉しいよ」
笑顔のまま頷いたジブリールに、バイクを所定の位置に停めて戻って来たアズライルが尋ねる。
「何が気に入ったと?」
「地上。「悪くない」ってさ」
少し嬉しそうな顔で応じたジブリールに「そうか…」と頷き返したアズライルは、口元に拳をあててコホンと咳払いし、ピ
ンクの包装紙に包まれた白い箱を差し出す。
「…あ…、あの…。これを…。土産のシュークリームだ。チョコとカスタードの二種類で、この店の人気商品らしい。…貴方
の口にあうと良いのだが…」
「ありがとうアズ。いつも悪いねぇ?皮が湿ってしまわない内に、さっそく皆でお茶にしようか」
満面の笑みでシュークリームが詰まった箱を受け取り、
(毎回皆を喜ばせようと御土産なんて用意して…、アズは本当に気配りができるなぁ…)
そう思ったジブリールはしかし、毎回のように土産を持ち帰って来るその気配りがメンバー皆に向けられた物では無いとい
う事には、全然全くこれっぽっちも気付いていなかった。
「ところでキャトル。ここの所に茶色いのがついてるよ?」
ジブリールが自分の口の右下を太い指で指し示すと、キャトルは首を傾げつつ舌を出して、ぺろりとソレを舐め取った。
目を覚ましたケイタは、畳の上でのそっと上体を起こす。
しょぼしょぼする目を擦りながら周囲を見回し、首を傾げた後、そこが実家の居間である事と、母の命日にあわせて帰郷し
ていた事を思い出した。
壁掛け時計を見れば、もうじき午前一時。
携帯にかけても兄は一向に出ず、日が落ちても来ないので先に夕食を摂ったのだが、腹がくちくなってウトウトし、この時
間まで眠り込んでしまったらしい。
…と、ケイタは認識した。
キャトルの手によって拷問のような洗浄をおこなわれ、咎を擦り落とされたケイタの頭からは、咎に関する記憶もまた綺麗
に擦り落とされ、補完されていた。
母の死は不審な所の無いただの食中毒で、長男の死は不審な所の無い事故。
身内の誰も罪は犯しておらず、平凡な人生を送って来たという記憶を宿したケイタは、もちろん二人組みの訪問者の事など
覚えてはいない。
「…遅いなぁ兄貴…。何かあったんじゃないだろうな…」
時計を見上げたまま心配そうに呟くケイタは、嫌な予感を覚えながらも、しかし今はまだ予想もしていなかった。
翌朝、墓参りに行った老人が、崖下で倒れているシゲジを見つけて警察に通報し、自分に連絡が来るという事までは。
長男と同じ「事故」に遭ったシゲジは、衣類をきちんと着ており、両手も元通り、傷一つ無い状態になっている。
車は墓地の近くに停めてあり、中には泊まり用の着替え類が入ったバッグもあった。
暗くなったものの、命日の内に墓参りをしておきたかったのだろう。そして、暗くてよく見えないその状況で、誤って崖下
へ転落した。
皆が皆、ケイタまでもそう考える事になる。
風呂場の窓は完全に修復されており、損傷したエプロンやシャツも元通りになっている。
アズライルとキャトルがおこなった擬装は完璧で、誰もシゲジの死に不審な物を感じる事は無かった。
ただ一つ残った痕跡といえば…。
「…あれ?」
頭がぼーっとしていたため、片付けをきちんと済ませたか確認しようと台所に入ったケイタは、鍋を覗いて眉根を寄せ、声
を漏らした。
翌日も食べられるよう、多目に作ったカレーがいっぱいに入っていたはずの鍋は、完全に空っぽになっていた。
実は、偽装工作と修復作業に取り掛かる前に、消耗していた黒豹とジャッカルは、力を補給すべくこっそりカレーに手を付
けていた。
そして、予想外に美味しかった事からキャトルが夢中になり、結局全部食べてしまったのである。
小柄な体のどこにこれだけ入るのかと、アズライルに呆れられながら。
「へぇ、カレーなぁ?よっしゃ!そんなんでえぇなら作ったろ!」
食堂のカウンターに座ったアズライルから報告を受けたミカールは、グラスを磨きながら口を開いた。
休日前の夜。メンバー達は更けてゆく夜を食堂でくつろぎ、過ごしていた。
「さっきイスラフィルからメールが届いたけれど、キャトルには明日一日の休暇が与えられたそうだよ。せっかくだから少し
でも楽しい思い出を作ってあげたいし、好きな食べ物を用意してあげるのは良い事だね」
アズライルの隣に座り、先程シュークリームを食べたばかりにも関わらず、今度は特大プリンを食べているジブリールが、穏やかな笑みを浮べて賛成した。
次いでカウンターの向こう、ミカールの後ろで缶ビールを煽っていたムンカルが口を開く。
「…にしても、アレよぉ…」
虎男が顎をしゃくった方向へ、一同は視線を向ける。
皆の視線が注がれたその長テーブルでは、ナキールとキャトルがジェンガに興じていた。
しかし、それは正しい遊び方ではなく、長方形の木製ブロックを縦にして、タワーのように交互に積んでゆくという、いさ
さか変わった興じ方になっている。
「…ナキール並におかしなヤツだな…。アイツの妙な暇つぶしに、まともに付き合ってるぜ?」
「ザバーニーヤとは、刺激に餓えているのだろうか?」
「どうなんやろな…?まぁ無口なヤツばっかりやけど…」
「まぁ良いじゃない。本人達は楽しそうだし」
『楽しそう!?』
無表情のまま天井にも達するようなタワーを建造している二人を「楽しそう」と評したジブリールは、アズライル、ミカー
ル、ムンカルの視線を一斉に向けられると、不思議そうに首を傾げた。
「あれ…?オレ、何か変な事でも言ったのかい?」