第十五話 「スカーレットスケルトン」(前編)
カトンカトン…、カトンカトン…と、陸橋を渡る列車が、侘しげな足音を遠くから響かせる。
午後八時。主要道路から少し外れた場所にあるコンビニの駐車場では、夏休みに入ったばかりの高校生達がたむろしていた。
曇った黒い夜空の下、車止めなどに腰掛け、ジュースを片手に他愛ない話題で盛り上がる若者達の数は五名。
いずれも男子で、髪を茶色に染めてピアスをしている顔立ちの整った者も居れば、高校球児のように頭を丸刈りにしている
大柄な者、眼鏡をかけて身なりもビシッと整えた生真面目そうな者など、皆が皆共通性のない格好で、見た目の上ではバラバ
ラでチグハグな集団であった。
近所の友人達なのか、それともクラスメートなのか、はたまた別の繋がりを持つグループなのか、その関係は判らないもの
の、楽しげに談笑する五人からは、ある種の連帯感が伝わって来る。
「…まずい。そろそろ帰らないと…」
眼鏡をかけた男子が、腕時計を確認しながら声を漏らすと、茶髪の男子がニヤニヤと笑う。
「そういやそろそろ門限だよな。急いで帰れよ?お前の母ちゃん怖いもんなぁ」
からかうような口調で言った友人に、眼鏡の男子は怒ったような口調で、しかし笑いながら「うるさいよっ」と言い返す。
「カトウ君の母さん、怖いの?」
「みたいですよぉ?すんごく厳しいって、前に聞きました」
車止めに腰掛けた大柄で幅のある丸刈りの男子が意外そうに尋ねると、そのすぐ隣に立つ、顔にやや幼さが残る小柄な少年
が、間延びした口調で応じた。
「だからここまで真っ直ぐ生真面目に育ったんだよ。間違いなく」
ジャージのズボンにノースリーブのシャツを纏う、すらりと背の高い角刈りの少年が訳知り顔でウンウン頷くと、眼鏡の男
子が「うっさいよコージ!」と、眉間に皺を寄せて声を上げる。
一同が朗らかな笑声を上げるその中で、最も小柄な少年が急に声を止め、眉根を寄せて首を縮めた。
「どうかしたの?コンドウ君」
不意に笑いを収めて真顔になった少年に、大柄な男子が問いかける。
「あ…いえ…。先輩…、なんか急に寒くなったような気、しません?」
「え?いや別に…。暑いぐらいだけど」
応じた男子は不意に心配そうに顔を曇らせ、小柄な少年に尋ねる。
「もしかして具合悪い?寒気がしてる?」
問われた少年は、しかし何と返答すれば良いのか迷った。
体調不良による悪寒とは違うような気がする。ただ、腕には鳥肌が立ち、理由の判らない不安が胸の鼓動を早めている。
優しいが、やや心配性が過ぎる先輩に、妙な事を言って心配をかけたくない。
そんな思いから、少年はその嫌な感覚に耐えて、
「いえ、たぶん何でもないです。風でも吹いたかなぁ?」
と、とぼけた調子で笑みを浮かべた。
手を上げて歩き去ろうとする眼鏡をかけた男子。手を上げ返して見送る他の四人。
そのいずれも、自分達以外の何者かがすぐそこに居る事を認識できてはいなかった。
ソレは、眼鏡をかけた男子が歩いて行く方向にポツンと立っていた。
ボロ布のような、あちこち擦り切れた真っ赤な衣を身に纏って。
一枚の布を頭からすっぽりと被るようにして着込んだソレは、被った布をフードのように頭に被せている。
その目深に被ったフードの下、赤い眼光を灯すソレの顔は、骨であった。
真っ白で、あちこちがひび割れた獣の頭骨…。形状は犬科のソレである。
本来はただの窪んだ穴となる両目の位置には、赤い光が灯っていた。
その光は、まるで半液体のようにドロリとしており、奇妙な揺らめきを見せている。
そのシルエットは酷くいびつであった。
体の脇にだらりと下げられた両腕は、人間で言えばふくらはぎにあたる位置に達する程長く、引き摺りそうに長い袖の先か
らは骨の手が覗いていた。
五人の中で小柄な少年だけは、おぼろげながらもソレの存在を感じていた。
だが、感じたところでどうしようもなく、既に手遅れだという事までは、少年の理解の及ばない次元の話である。
自分の方へと歩いてくる眼鏡をかけた男子に、赤い影は顔を向けていた。
値踏みするように首を動かし、つま先から頭のてっぺんまでを、ドロリと赤い目でじっくり観察しながら。
液体のようでいて、しかし零れる事の無い禍々しく赤い光が、眼窩で怪しくたゆたう。まるで、満足したかのように。
次の瞬間、赤い影はすぅっと眼鏡の男子に近付いた。
そして、全く存在を感知できていない彼の肩に手を回し、顎を大きく開いて、その首筋に食らいついた。
「ん?カトウ?」
急に立ち止まり、ビクリと身を強ばらせた眼鏡の男子の背に、皆の視線が注がれた。
直後、男子は膝から力が抜けたかのようにペタンとその場に尻餅をつき、次いで仰向けにひっくり返った。
「お、おいカトウ!?どうした!?」
声を上げ、慌てて駆け寄ろうとする他の男子達。その中で、
「あ…、あぁああああ…!」
小柄な少年だけが、ガタガタと震えながら目を大きく見開いていた。
先ほどにも増して、悪寒は強くなっていた。
少年には赤い影の姿は見えていない。見えてはいないが、何か良くないモノがソコに居るという事だけは、本能的に察知し
ていた。
倒れた眼鏡の男子。彼の元へ駆け寄っていく皆を止めなければと、理屈ではなく本能から感じている。
だが、先程よりも濃厚になった嫌な気配に恐怖し、身体ががくがくと震えて警告の声が出せない。
「カトウ?カトウ!どうしたっ!」
倒れた眼鏡の男子の脇に立っていた赤い影が、自分の方へと駆け寄って来る角刈りの男子に顔を向ける。
大きく目を見開いている少年の視線の先で、しかし誰にも見られていない赤い影は、角刈りの男子へすぅっと近付いた…。
夜の静寂を切り裂く鋭いブレーキ音を上げ、灰色の大型バイクは水銀灯の冷たい光の下で停止した。
右手に県立の広大な運動公園を臨む、整備された県道は、深夜という事もあって車通りが途絶えている。
そんな中、快適に飛ばしてきたバイクは、何も変わった所の無い場所で急停止している。
左右から余計なパーツがそぎ落とされ、フロントタイヤが前方に長く突き出た、チョッパーと呼ばれるタイプのカスタムバ
イク。
それは、海外のバイクをベースにし、この東洋の島国で戦前に開発された物であった。
長距離、長時間走行に適した改造が施されたそのバイクに跨っているのは、身の丈2メートルはあろうかという巨漢である。
身に纏った黒革のライダースーツの上からでもはっきり解るほど筋肉質で、胸は分厚く、肩は盛り上がり、腿も腕も太い。
上背もある上に筋骨隆々たる見事な体格だが、それら以上に注意を引くのは、頭部が人間のものとは大きく異なっている事
であった。
その顔は、虎の物である。
他にも人間と異なっているのは、金属的な光沢を持ち、所々に黒い縞模様が走る濃灰色の体毛が、スーツから露出している
部位をくまなく覆っている事。
そして、尻から黒い縞模様が入った長い尾が生えている事。
巨漢の両目もまた体毛同様の灰色で、瞳孔は縦に長く、今は何かに注意を向けているように、瞳孔も目も細められている。
身に纏う黒革のライダースーツの背中には、一対の翼を象ったエンブレム。
闇に溶け込むつなぎの黒さとは対照的に、翼のマークは鮮やかなまでに白く、水銀灯の光を弾き返している。
虎顔の巨漢という奇妙な格好の男は、バイクに跨ったまましばし鼻をひくつかせていたが、
「…何だ…?この嫌な空気は…」
と低い声で呟くなり、不快げに顔を顰めた。
配達人ムンカルは乱暴にアクセルを吹かし、太いタイヤからけたたましいスリップ音を立て、陸王を急発進させた。
突然倒れた角刈りの男子を抱き起こそうとした茶髪の男子が、どしゃりと音を立てて横倒しになる。
「タナベ君!?」
地面に跪き、眼鏡の男子を抱き起こしていた大柄な男子が、驚きと焦りで上ずった声を上げる。
初めに眼鏡の男子が倒れ、次いで角刈りの男子が、そして今茶髪の男子が、続けてバタバタと倒れている。
大柄な男子は理解できない事態に混乱しかけていたが、目を見開いたまま呼びかけにも反応しない眼鏡の男子の胸元を見遣
り、弱々しいながらも呼吸している事を確かめた。
有害ガス。それが、混乱しかけた彼の頭に、出し抜けに浮かんだ単語であった。
匂いなどは感じられないが、ガスか何か、人体に良く無い気体が何処からか漏れて、周囲に漂っているのかもしれない。
「コンドウ君!離れて!救急車を!」
小柄な少年に警告するため、顔を起こして大声で叫んだ大柄な男子は、しかし気付いていなかった。
自分の脇で屈み込んだ赤い影が、白い顎を大きく開き、首筋に顔を寄せている事までは。
嫌な予感が膨れあがり、小柄な少年は大きく口を開け、悲鳴を上げた。
小柄な少年の喉から、笛の音のような甲高い音が発せられたのと、コンビニの屋根を乗り越えて宙に舞ったバイクの上から、
虎顔の巨漢がその光景を瞳に映したのは、赤い影が大柄な男子の首筋に食らいついたのと同時であった。
小柄な少年とは違い、相手をしっかりと確認しているムンカル。
その瞳孔が拡大した灰色の目が、赤い影が獲物を捕食する光景を捉える。
体と不釣合いに長いその腕で、抱擁するように大柄な少年の肩を抱き、首筋にかぶりついた赤い影は、首の横側を食い千切
るようにして素早く、そして鋭く頭を振った。
直後、大柄な男子はビクンと身体を硬直させ、他の三人と同じように地面に倒れ伏す。
その首筋には傷痕はおろか、噛まれた痕跡すら残ってはいない。
男子が倒れるのと同時にすっくと身を起こした赤い影は、口元に群青色に光る球体を咥えていた。
「てめぇっ!その魂を放しやがれっ!」
バイクが着地すると同時に、既に拳銃を引き抜いていたムンカルは、念の為に装填しておいた「この手の相手」との交戦用
の弾丸を、立て続けに二発放った。
帯電しているかのように、灰色の稲妻が表面を跳ね回る鉄色の弾丸が、赤い影めがけて音より速く突き進む。
だが、一発目は首を傾けた赤い影のフードを掠めて虚空へ飛び去り、二発目は肩を掠めて遥か向こうのブロック塀に着弾し、
痕跡を残さず消失する。
(避けやがった!?)
驚くムンカルを嘲笑うかのように、赤い影は喉を垂直に立て、顔を上向きにして口を大きく開けた。
咥えられていた群青色の球体が、顎の中を通り、連なる頸椎に沿って下へと落ちてゆき、赤い衣類の襟元から内側へと消え
てゆく。
「くそっ!飲み込みやがった!」
苛立たしげに舌打ちしたムンカルは、走らせたままのバイクを、赤い影めがけて疾走させる。
撥ねるつもりでマシンごと突っ込んだムンカルは、しかし直前で赤い影が跳躍した事で攻撃を空振りさせられた。
鉄色の虎はバイクを横滑りさせつつ方向転換し、跳び上がり、宙で静止した影を見上げる。
赤い影は、宙に浮くバイクに跨っていた。
乗り手の目と同じく、流動する赤い何かでできた車輪を持つ、悪夢の産物のようなマシン。
一見白いバイクに見えるそれは、大小長短、様々な形状の骨が組み合わされてバイクの形を為した、奇怪な乗り物であった。
眼下のムンカルを嘲笑するように「クカカカカッ!」と声を上げた赤い影は、人間の骨格と同じ形状の右手を鉄色の虎へと
向ける。
長くゆったりとした、端が擦り切れたガウンの袖の中から一丁の銃が滑り降り、その手に収まり握り込まれる。
ソウドオフ。銃身が極端に切り詰められ、小型化されたツインバレルのショットガンが、骨の手に握られていた。
轟音と火花。無数の散弾が殺到したそこには、しかし鉄色の虎の姿は既に無い。
宙で放たれ降り注いだ黒色の礫は、地面に吸い込まれるようにして跡を残さず消える。
バイクを急発進させ、いち早く射線から逃れたムンカルは、頭上の赤い影を見上げる形で弧を描くようにバイクを走らせつ
つ、三発の銃弾を立て続けに放つ。
だが、赤い影が全く同時に再び放った散弾と、ムンカルが放った三発の銃弾は、宙で引き合い、二者の中間で一点に収束し、
バギンッという耳障りな音を立てて消失した。
(俺の弾を、たった一射で対消滅させただと!?)
少しばかり驚いたムンカルだが、最後の弾丸、六発目を打ち込むべく赤い影の眉間へ狙いを定める。
相手の銃は空。再装填の時間を与えるつもりは勿論無い。
トリガーを引き絞ろうとしたムンカルは、赤い影が左手を突き出す様を目にして舌打ちをする。
赤い袖の内側から滑り落ち、ムンカルに向けた手に握られたのは、二丁目のショットガンであった。
相手の弾は二発、しかも一発が自分の銃弾三発と対消滅を起こしている。
一発では押し切られるのは目に見えているが、ムンカルはトリガーを引いた。
轟音と轟音。再び中間地点で吸い寄せあう弾丸。
ムンカルの放った弾丸は消失し、対消滅に至らなかった散弾の残りが、一瞬の足止めを受けた後に殺到する。
しかし、ムンカルは弾丸が引き合って生じた僅かなタイムラグを利用して射線から逃れつつ、リボルバーからシリンダーを
押し出していた。
逃げるだけでは二射目に対応できないと踏んでの行為だったが、赤い影の予測を超えるには十分であった。
僅かに反応が遅れた二射目の一部を、バイクの後輪の上、泥除け兼カスタムシートに受けながらも避けたムンカルは、握り
込んだ左手の中で精製した新たな弾丸三発をシリンダーに押し込む。
不足ではあったが、僅かな隙で精製できたのはこの三発だけであった。
相手は弾切れ、今度こそ命中させる好機。銃口を影へ向けたムンカルは、しかしその顔を苦々しげに顰める。
赤い影が最初に弾を撃ち尽くしたショットガン、中折れ式のその銃が二つに割れ、宙に浮いた弾丸が見えない手で押し込ま
れてゆくかのように装填される様を目にして。
連射される三発の銃弾、迎え撃つはただ一回の銃声。
またも相殺現象が生じ、自分は弾切れ、相手は一発残しているという、虎男にとっては面白くない状況に陥る。
また回避しつつ弾丸を精製、装填しなければならないと思えばゲンナリするが、好き放題に撃たせてやる訳にも行かない。
腹をくくって回避行動に移ろうとしたムンカルはしかし、赤い影の後方、闇夜の黒空で僅かに煌く黒い照り返しを目にして、
軽く顔を顰めた。
直後、大気を揺さぶる轟音が赤い影の上空で響いた。
赤い影が反射的に振り向き発砲した無数の散弾と、上空から音を巻き添えにして降って来た一発の大型弾頭が、互いに引き
合って対消滅する。
雲が覆う黒い夜空を背に、宙を大地のようにしっかりと踏み締める漆黒のバイク。
攻撃的なフォルムの黒いバイクに跨り、黒いスーツと黒い被毛を纏った雌豹が、地上30メートルの高さから赤い影を睥睨
していた。
「…嫌な気配だな…。何者だ?」
相手の正体を確認もせず、警告も無しに第一射を放ったアズライルは、赤い影を瞳に映しながら誰何の声を上げる。
(いきなりぶっ放して「何者だ?」もねぇよなぁ…)
思わず苦笑いを浮かべたムンカルは、手早く六発の弾丸を装填し直していた。
赤い影は獣骨の顔をアズライルに向け、次いでムンカルに向けると、「クカカカカッ」と笑声を上げつつ宙を走った。
禍々しいバイクが低く震える駆動音を響かせ、赤い影はボロボロの衣服をはためかせつつ、二人から離れてゆく。
逃すものかと、愛車のエンジンをふかした上空の黒豹へ、
「よせ!追うなアズライル!」
地上の虎男は即座に叫んだ。若干の焦りすら、その声に滲ませながら。
制止の声を耳にし、胡乱げに首を曲げて同僚を見遣ったアズライルは、宙を走り去る赤い影を一瞥した後、バイクごと垂直
に降下した。
「無事か?ムンカル」
「おう。良いタイミングで仕掛けてくれたぜ」
バイクを着地させて横に並び、窺うように問いかけた黒豹へ、虎男は口の端を微かに吊り上げつつ頷く。
「…良かった…」
聞き取れぬ程の小声を口の中で転がし、安堵したようにほんの少しだけ表情を緩めたアズライルの顔を眺めながら、
(こういう可愛いトコもあるんだよなぁ。…俺には滅多に向けねぇが…)
などと、ムンカルは胸の内で呟いた。
「…深紅のロングガウンに獣骨の貌…。初めて見たが…、あれが死神というやつか…?」
黒豹は銃を腰の後ろのホルスターに戻しつつ、赤い影が去った方向の空を見遣る。
「ん?あぁ、そういや初めてか…。だが、その割に全然ビビってねぇな?旦那かミックから聞いてるだろ?」
訝しげに片眉を上げたムンカルに、アズライルは小さく鼻を鳴らした。
「事前情報のみで困難と決めつけ、挑む前から萎縮するのは臆病者だ」
「事前情報を軽視して状況を見誤るのは、救い難い愚か者だ。…とも言うよな?」
黒豹にジロリと睨まれたムンカルは、「前にミックが言ってたんだよ!」と慌てて言い添える。
「…心に留めておこう」
(俺が言ったんだったら認めもしねぇくせに…)
素直に頷いたアズライルの反応に釈然とせず、少しばかり顔を顰めたムンカルは、倒れている四人に視線を向けた。
「こいつらを頼む。俺がヤツから魂を取り返して来てやる。魂は抜かれちまったが、まだくたばっちゃいねぇ。仮死状態って
ヤツだな。たぶん救急車で運ばれるだろうが…、こいつは医者じゃあ手の打ちようがねぇ。お前はこいつらを搬送先まで追跡
して、空っぽの体に何も起こらねぇように見張っててくれや」
「…一人でも、大丈夫なのか?」
「お?心配してくれてんのか?」
ニヤリと笑い、からかうように言ったムンカルは、アズライルが神妙な顔で頷いたので、驚いて目を丸くする。
少々意外だったが、「心配するな」とでも声をかけてやろうと口を開いた虎男は、
「ムンカルの身ではなく、魂の奪還に失敗するのではないかという事を、心の底から心配している」
アズライルが淡々と、しかし至って真面目かつ深刻な顔でそう続けたので、憮然とした顔で口を閉ざした。
その三十二秒後、事件が起こったコンビニから数キロ離れた川に浮かぶ、レモンイエローの塗装が施された飛行艇のコック
ピット内で、
「こら、死神やな…」
「うん。死神だね…」
大型モニターに映し出されている、アズライルが転送してきた画像を見つめながら、レモンイエローの獅子が呟き、パール
ホワイトの北極熊が頷いた。
並んだ二人は、双方ともかなり幅があるでっぷりした体型だが、その身長はかなり違い、北極熊の鳩尾の高さに獅子の頭頂
部がある。
「久々やな。しかもコイツ…」
「かなりハイスペックだね」
ミカールは顔を顰め、ジブリールは表情を曇らせる。
「ムンカルが追跡許可を求めとる。…行かしてもえぇやろか…?」
珍しく迷っている様子の同僚に問われたジブリールは、少し考えた後に「ナキールは?」と問い返した。
「かなり離れとる。バックアップさせるにしても、ムンカルが今から向かったら間にあわへん」
「本人がやる気なら、許可しても良いんじゃないかな?ムンカルの腕を信用していない訳じゃないけれど、念の為にオレも追
うから」
そう宣言した北極熊は、腹のポケットから小型の拳銃を取り出し、空薬莢が入っていない事を確認すると、ギチュッとポケッ
トに押し込む。
ちらりと同僚の顔を窺ったミカールは、その顔に思った通りの表情が浮かんでいる事を確かめると、視線を下に向けながら、
小さくため息をついた。
『状況は確認したで。追跡は許可したる。…けどな、くれぐれも用心するんやでムンカル?』
ミカールの声が携帯越しに届き、ムンカルは「任せろ!」と、大きく頷いた。
『ええか?タイムリミットはあと2時間55分程度や!』
死神が魂を消化する速度は一定。飲まれてから3時間経過した程度であれば、魂の損傷は修復可能なレベルで済む。
だがその刻限を十数分過ぎた場合、ミカールやジブリールでも完全な修復は不可能となり、場合によっては消滅してしまう。
重要な事だけ再認識するよう念を押したミカールに、ムンカルは大きく頷く。
「アイツのデータはあるのか?」
『あるで。個体識別名称は「アンクー」。かなり手強いで?これまでに配達人が4人も消滅させられとる。その上、コイツの
発生は40年以上前や』
ミカールの言葉を聞き、ムンカルは舌打ちをした。
発生から40年以上が経過している。それはつまり、その間に出会った誰もが、アンクーと名付けられたその死神を消滅さ
せられなかったという事を意味している。
「ハンパねぇな…。こいつは気合い入れてかからねぇと…」
一方で、一人だけ無事だった少年は、死神の気配が消えて恐怖の呪縛が解けると、コンビニの店員に助けを求めていた。
程なく駆け付けた救急車が四人を収容し、隊員が搬送先と連絡を取っているその間に、アズライルもまた、ジブリールへと
連絡を入れていた。
「これから収容先まで付き添い、容態を見守る。いざとなれば停滞の弾丸を撃ち込んで体の機能を凍結させるつもりだが…」
『うん、それで頼むよ。魂を奪還しても、再封入前に肉体が異常をきたしたらまずいからね。「容れ物」だけの状態は不安定
なんだ。目を離さないでいてあげて』
「了解した。安心して任せて欲しい」
ある同僚へのそっけない対応とは違い、実に丁寧に応じたアズライルは、通話を終えて携帯を懐にしまうと、赤い光を周囲
に散らす救急車の回転灯を眺めながら、先程遭遇した死神の姿を脳裏に描いた。
(バイクに銃…。我々と同じく物理現象に縛られない弾丸を精製する能力…。そして、あの姿…。あれはまるで…)
アズライルは、彼女が配達人となったばかりの頃、ジブリールから死神について聞かされた時の事を思い出した。
14年程前。
明らかに外見を大きく上回る空間を内包している飛行艇の中にある射撃場で、デザートイーグルから弾倉を抜き出したアズ
ライルは、
「今の弾丸は、何に使うのですか?これまでの物と違うようですが…」
首を傾げながら、たった今試射させられた弾丸について、先達である北極熊に尋ねていた。
その質問に応じる前にアズライルの背後からターゲットを眺めたジブリールは、「お見事」と同僚の腕を褒める。
射撃位置から50メートルの距離を置き、天井からぶら下がっている上半身をかたどったマンターゲットの左胸には、命中
した事を示す赤い円と「HIT!」の文字。
紙のような薄っぺらいマンターゲットは、弾丸が命中しても破れる事無く、それを吸収して文字を浮かべる特別製である。
しかも、どういう訳か頭部からは猫か犬のような尖った耳が生えた妙なデザインであった。
「休憩しながら説明しよう。弾丸の種類のおさらいもしながら」
分厚く大きな手が背中を優しく押し、促されたアズライルは顔を少し熱くさせながら、顎を小さく引いて頷く。
極端な肥満体型の極めて大きな北極熊は、同僚であると同時に、彼女にとっては指導役でもある。
部屋の隅にある丸机。それを囲む五つの椅子の内一つを引いてアズライルを座らせると、ジブリールはその隣に椅子を二つ
並べる。
大きい上に恰幅の良い北極熊は、尻もまた大き過ぎるため、普通サイズの椅子だと二つ並べなければ窮屈で仕方がない。
最初は違和感があったが、慣れてくるとその座り方もなかなかユーモラスで愛嬌があるように、アズライルには思えた。
並べた椅子に「よいしょ…」と呟きながら腰を下ろしたジブリールを眺めつつ、アズライルはほんの少しだけ口元を緩めた。
その体面や見てくれを気にしない振る舞いは、紳士的でありながら気取った所のない彼に似つかわしく感じられて。
「さっきの弾丸は、オレ達のような存在に有効な弾丸なのさ」
ジブリールの言った内容そのものは、彼女にはすぐに理解できた。
だが「そんな物が何故あるのか?」そして「使う必要があるのか?」という二つの疑問が即座に首をもたげた。
「残念な事だけれど、配達人も完全な存在じゃあ無いんだよ。時には「堕ちる」者も居る」
アズライルの疑問を聞くと、ジブリールはティーポットから琥珀色の紅茶をカップに注ぎつつ、そんな事を話し始めた。
「自立思考能力が与えられている以上、各々が独自の考えや価値観を持つのは当然の事。中には極端に誘惑に弱い者や、怠惰
な者も居る。…オレを見れば察しがつくと思うけれどね」
ジブリールは微苦笑すると、革のつなぎに押し込んだ大きな腹をポンと叩いて見せた。
「話を戻すけれど、誘惑に負けたり、怠惰が過ぎた者は、時に私利私欲に走ってシステムを狂わせる側の存在にも為り得る。
そういった配達人を、オレも実際にこれまで何人か見て来た。時にオレ達はそういう「堕ちた配達人」に対して、銃を向ける
必要に迫られる」
一度言葉を切ったジブリールは、一語一句聞き逃さぬよう熱心に耳を傾けているアズライルに、優しく微笑みかけた。
「勿論、そんな機会は無い方が喜ばしい。この銃弾を精製する機会が訪れない事をいつも願っているよ。…それともう一つ。
この弾を込めた銃を向ける相手は、他にも存在する」
首を傾げたアズライルに、ジブリールは声のトーンを落として続けた。
「盗魂者。人間達には死神とも呼ばれてる存在だ。まぁ、後者の名の方が通りが良いから、いつからかオレ達もそう呼ぶよう
になったけれどね。因果の外に在り、生き物の魂を捕食してエネルギーにして消費してしまう存在…。それが、本来この弾丸
を使うべき相手さ」
それからアズライルは、死神と称されるそれらの外見的特徴や、彼らが持つ各種能力について、一通りの説明を受けた。
「最も注意して欲しいのは、この弾丸を普通の生き物に向かって撃っちゃいけないという事だね。オレやアズのような配達人
と違って、普通の魂はこの弾丸がもたらす負荷にはまず耐えられない。フリーズするどころか一発でクラッシュしてしまう。
誤射にはくれぐれも注意しておくれ」
北極熊がそう話を締め括り、黒豹が頷くと、射撃場のドアを開けて鉄色の虎が顔を覗かせた。
「お?射撃訓練は終わったのか旦那?」
ムンカルがテーブルに歩み寄ると、ジブリールは頷く事で応じながら、手の平で虎男を示して口を開いた。
「死神のケースに関してはムンカルも経験豊富だよ。これまでに9体も討伐しているからね」
それを聞いたアズライルは、感心したような目をムンカルに向ける。
「凄いのですね、ムンカルさんは」
「よせやい、配達人は配達が本分だ。撃墜数なんぞ自慢にもなりゃしねぇよ」
耳を倒して苦笑いしたムンカルは、思い出したように「あ」と声を漏らした。
「ミックが呼んでるぜ、飯ができたってよ。ナキールももうテーブルについてる。冷めねぇ内に食おうぜ」
二人にそう告げると、鉄色の虎は踵を返して出口へ向かう。
「それじゃあ行こうか」
「はい」
立ち上がったジブリールに頷き、腰を上げたアズライルは、
「そうだ、それ…。敬語なんて使わなくて良いんだよ?オレ達は皆、対等な仲間なんだからね」
北極熊に苦笑いされ、少しばかり落ち着かないような表情で、おずおずと頷くと、
「判りました。…あ、いえ…、わかっ…た…」
たどたどしく、つかえながら返事をした。
回想を打ち切ったアズライルは、やっと発進した救急車の後を追ってバイクを走らせ始め、考える。
魂を盗られ、倒れ伏したあの少年達にも、それぞれの想い、悩み、生活や家族、人が抱える様々な物が当然ある。
だが、盗魂者にとってそんな事は関係がない。
ただ通りかかり、奪い行くだけの、慈悲も許容も持たない災禍。それが死神である。
そして、死神もまた配達人等と同じく、通常の因果に囚われない存在。
因果からその出現位置を予測する事はできず、接近した際に察知した匂いを辿るしか接触の方法はない。
積極的な討伐が為されていないのは、その捕捉難度による所が大きい。
死神への対応については、通常時それぞれの職務を抱えている配達人達は、後手に回らざるを得ないのである。
配達人になったばかりの頃を思い返す事で、あの時のジブリールとのやり取りにおいて奇妙な点があった事に気付いたアズ
ライルは、目を細くして黙考する。
あの時、ジブリールは弾丸を使う相手について教えてくれた。
その際に何故、本来あの銃弾を使うべき相手である死神についての説明ではなく、配達人についての説明を先におこなった
のか?
何故、配達人についての説明に比べ、死神についての説明は彼自身の主観が極めて薄く、淡々とした物になっていたのか?
(彼は死神の事を、「因果の外で発生する自立意志を持った現象」と言っていたが…、それは私達にも言える事なのではない
か?…死神とは、まさか…)
アズライルは、先程目にした死神の姿をまた脳裏に描く。そして再びこう感じた。
あれはまるで、白骨化した配達人のようだった。と…。