第十八話 「堕人」(前編)

「反応ロスト…!応答がありません」

純白の被毛を纏う凛々しい顔つきの雪豹が、眼前に並ぶ機器類を凝視しながら口を開いた。

雪豹の瞳に映っているのは円形のレーダー。少し前まで三つの光点が映りこんでいたレーダーには、二つに数を減らした光

点が接して表示されている。

曲面を描く壁も、中央が一段高くなっている床も、ドーム型の天井も、全てが乳白色で統一された円形の部屋の中央で、雪

豹の後方の席に着いていた灰色の熊は、彼の言葉を耳にして目を細めた。

円形の部屋の壁は、出入り口となる一角を除き、ずらりと並んだパソコンやモニター、レーダー等、様々な機器に占領され

ている。

機器類に向かう十二の席には十二名の姿。いずれも半人半獣の姿を持ち、ワイシャツにスラックスを身に付けている。

灰色熊が着いている部屋の中央に置かれた机は円形で、椅子が内側に入り込むように一箇所が窪んでいる。

出入り口を左手に見る形で足場が一段高くされ、周囲の作業状況を一望できるようになっているその席で、灰色熊は腰を浮

かせた。

「再度呼びかけてみてください」

「はい」

返事をした雪豹が機器から伸びるマイクに声をかけようとしたその時、彼の目の前で円形のレーダーに映り込んでいた二つ

の光点が消えた。

「あ!二者の反応もロスト…!…依然応答無し!通信が切れました!」

室内のオペレーター達が一斉に雪豹を見遣り、ある者は息を飲み、ある者は呻くように声を漏らす。

にわかにざわつき出した部屋の中央で、灰色熊は口を開く。

「反応を探索し、通信を試みてください。フネの方にも引き続き呼びかけを。…わたくしは少し外します」

席を離れて出入り口へと向かう灰色熊に、振り返った雪豹が声をかける。

「管理人?どちらへ…」

「因果管制室まで。…場合によっては…最悪の事態も視野に入れなければならないかもしれません」

一度足を止めて応じた灰色熊は、壁に近付くなり壁面の一部がスライドして出現した出入り口をくぐり、部屋を出て行った。

灰色熊が去った後の、12名が残る部屋には、重苦しい沈黙と緊張が漂っていた。



暮れる空の下で赤みを増している桃色のぽってりとした手が、アラビア文字がびっしりと書き込まれた葉書を握り潰した。

握り込まれた手の隙間から、薄桃色の煙がボシュッと音を立てて漏れる。

再び開かれた手の上には、しかし握り潰されたはずの葉書は無く、代わりに桜色の弾丸が乗っていた。

45ACP弾をマガジンにセットする桃色の手の主は、テントが立ち並ぶ集合市場のメインロード、大勢の人々が行き交う活

気溢れる通りの真ん中で、荷物満載のバイクに跨っている。

人々の歩みが巻き上げた細やかな土煙がうっすら漂う、埃っぽく乾燥した風の中、アイドリングしているドゥカティのシー

トに尻を据えているのは、黒革のつなぎを纏う、ころりと丸い体型のライダー。

背は低いものの肉付きが良く、ジッパーが大きく引き下ろされた胸元や、かなり丸みを帯びた腹などは、スーツが丸く張っ

ている。

かなり太り気味のその女性ライダーは、異様に目立つ風貌をしていた。

頭部が人間のそれとは違い、豚の形状をしているのである。

しかし、そのすぐ脇を通り過ぎる頭にターバンを巻いた中年男性も、髭を刈り揃えた若者も、ヴェールを被った淑女も、雑

踏の中でバイクに跨る彼女を邪魔にするどころか、注意を向ける事もなく、ぶつからないように進路を変えて避けて通る。

豚の頭部を持つ女性ライダーはコンパクトなオートマチック式拳銃、コルトディフェンダーに弾丸を入れたマガジンを装填

すると、スライドを手早く操作して弾丸を咥え込ませる。

そして、人々が行き交う雑踏の向こう、薄汚れた宝飾物を並べているテントに銃口を向けた。

テントの前には、手持ちで買えるギリギリの値段のブローチを前にして躊躇している、あまり身なりの良くない、全体的に

薄汚れた若い男性の姿。

想いを寄せる女性の為に買ってゆきたいのはやまやまだが、金額は馬鹿にならない。

日が変われば店自体が移動してしまい、二度と見つからないかも知れないので、決断はこの場でしなければならない。

悩む若者の後頭部に狙いを定め、ライダーは引き金に当てた指に力を込めた。

雑踏に響き渡る、直接鼓膜を叩くような乾いた破裂音。

しかしその音は、射手を除けば、活気溢れるバザーに集った誰の耳も感知はしていなかった。

通りを行く人々の間を一瞬で駆け抜け、若者の後頭部に命中したピンク色の弾頭は、しかし彼を傷つける事無く、淡い光を

散らして頭の中に消える。

撃たれた若者は、しかし自分が銃撃を受けた事にも気付かず、もっさりと口髭を蓄えた店主に「これ下さい!」と、声を大

きくして告げた。

先程までの迷いは、嘘のように消えていた。

手に入れなければならない。いや、手に入れるのが当然。そんな意識が若者の頭に生まれている。

ライダーは銃を下ろすと、ぷっくり膨れた頬に押し上げられて元々細い眼をさらに細め、のんびりとした口調で呟いた。

「お幸せに、ですよぉ」

少し無理をして買ったブローチが、彼とその恋人にもたらすはずの幸運に想いを馳せ、独立配達人バザールは右の太ももに

固定したホルスターへ銃を収める。

彼女が配達する物は「縁」である。ただし、物品と人との関係に限定される、所有の縁。

特定の品物は特定の持ち主の因果に引き寄せられる。

歴史を紐解いてみると少なからず残る、宝石や刀剣などが、時に持ち主を選ぶかのように数奇な運命を辿ってゆく逸話。

周囲に大きな影響を与える物だけが記録に残る中、大して目立たないというだけで、そういった品々と人々の物語は星の数

ほど存在する。

周囲に大きな影響を及ぼす出会いから、持ち主に小さな幸運をもたらすだけの品まで、人と品のあるべき巡り会いを推進す

るのがバザールの職務となっている。

もっとも、この配達項目は「報い」や「死記」、「吉兆」などと違い、配達対象となる者はあまり多くない。

場合によっては「吉兆」に、場合によっては「報い」に、品と人の縁は含まれる。

配達人達がチームを組んで配達業務をおこなっている大分類の配達物とは違う、細目の配達物。

担当する物は「報い」や「吉兆」などと比べれば件数も少なく、花形にはほど遠い、むしろ目立たぬ配達物ではあるが、バ

ザール自身はこの職務を気に入っていた。

この項目を担当する配達人は、チームを組まずに単独で行動する、独立配達人と呼ばれる職種となる。

独立配達人は、基本的に単独行動となる性質上、様々な技能を有し、柔軟な対応力を持った者でなければ務まらない。

また、職務への意欲と誠実さを重視して選抜されるため、独立配達人である事自体が勤勉な配達人である証でもある。

無事に配達を終え、安堵と満足の入り交じった表情を浮かべていたバザールは、不意に眉根を寄せると、顔を上に向けて大

きな鼻をフゴッと鳴らす。

同業者の気配を嗅ぎ取った彼女は、その姿を求めて往来の中を見回した。

そして、果物を売っているテントの支柱脇に立つ、ハイエナの頭部を持つ黒い配達人の姿を認める。

(あれは…、えぇと確か…、そう、確かハールさんって言いましたっけぇ?)

親しい訳ではないが、何度か会った事のある同業者に片手を上げて見せたバザールは、バイクから降りて人混みの中をゆっ

くり押す。

笑みを浮かべて手を上げ返したハイエナに歩み寄ったバザールは、微かな違和感を覚えた。

現在自分が居るこの区域には、チームを組んでいる配達人達の一斉配送が完了したばかりで、彼女以外の配達人は出向して

いないはずであった。

おそらく休暇中なのだろうと考え、バザールはその違和感を忘れて歩み寄った。

「こんにちはぁ。お久しぶりです」

にこやかに手を振るハイエナの背、ライダースーツに浮かび上がっているはずの白い翼のエンブレムが消えている事には気

付かぬまま。

そして、背後から気配を消して近付く、もう一人の男の存在にも気付けぬまま…。



極めて大柄で極端に肥えた北極熊は、ぜぇひぃぜぇひぃと息を荒げながら、白い羽根を追って右に左にコートを駆け回って

いた。

体育館のそれを連想させる、表面がツルツルに光る木の床と木目の壁、高い天井を持つその部屋は、中央にネットが張られ

ている。

ドスドスと床を踏み鳴らし、よろけながらも何とか追いつき、ラケットを伸ばしてシャトルを打ち返したジブリールは、相

手コートに目をやるなり、「うぇ…」と、舌を出して呻いた。

ネットに詰め寄っていた鉄色の虎は、ネットの上をふわりと越えたシャトルを、元のコートへ鋭角に叩き落とす。

息も絶え絶えになっているジブリールのコートへ、容赦ないプッシュを叩き込んだムンカルは、腕を突き上げてガッツポー

ズを取った。

「おっし三連勝!」

「はぁ…!ふぅ…!か、敵わない…なぁ…。全然…!」

大袈裟に喜ぶムンカルと、疲労困憊といった様子で喘ぎながら、力尽き、その場でどすんと尻餅をつくジブリール。

部屋の壁際に置かれたベンチには、先程ムンカルに敗れた狼と獅子が、そして未参加の黒豹が、並んで腰掛けていた。

一日の業務を終えた五人は、食事と休憩を経て、バドミントンに興じていた。

「やるやんけ…。ムンカルのくせに生意気や…!」

すっかり汗だくのミカールは、憎々しげに舌打ちをして顔を顰めた。

赤いスポーツウェアを纏った童顔の獅子は上着を脱いでおり、いつもそうしているように、腰の所で袖を結んで帯のように

巻いている。

ファイアパターンが下半分に施されたオレンジのティーシャツの胸には、「直火の情熱!」と真っ赤なゴシック体でプリン

トされている。なお、バックプリントは黒いゴシックで「炭火の忍耐!」。

とりあえず、気合いが入っているらしい事は何となくだが伝わってくる。

事実ミカールは、スタミナが切れるまでは気迫が漲り、さながら黄色いゴム毬の如く、コート内を積極的に跳ね回っていた。

しかし、気合は哀しいまでに空転し、後半は文字通りコートを転げ回り、結果的にはジブリール同様一本も取れないまま一

方的に叩きのめされるという惨憺たる物であったが…。

「彼の得意項目であるコントロール性能…、つまり狙いの正確さが、あの強さの秘訣かもしれない」

一方、かなり善戦したナキールは、喘ぎながらおっくうそうに立ち上がり、ベンチに向かってくるジブリールと、三連戦を

終えてもスタミナが有り余っているムンカルを眺めながら、思慮深げな表情を浮かべて呟いた。

どんな事でもそつなくこなす狼男にとって、バドミントンもその例外ではなかった。

黒いジャージの上下に身を包んだナキールは、このメンバーの中で唯一人、ムンカルのコートにシャトルを数回打ち込んで

いる。

ムンカルはスポーツ全般が好きで、得意でもある。

運動性能がずば抜けており、その筋骨隆々たる体は、大柄でありながら機敏で柔軟。

対してスポーツなどしない上にウェイトもあるミカールやジブリールは、一方的に振り回されて全く歯が立たなかった。

「ああ、ありがとうアズ…。いやぁ、強いなぁムンカルは…」

立ち上がって迎え、タオルとドリンクを差し出したアズライルに礼を言ったジブリールの後ろで、虎男は誇らしげに胸を張っ

て笑い声を上げる。

「がはははは!どうだミック?もう一戦やらねぇか?」

快勝続きで気をよくしたムンカルが誘うと、ミカールは口元を歪ませ、ヒクヒクと顔を引き攣らせながら笑みを浮かべ、勢

い良く立ち上がる。

「図に乗っとんなオドレ…?見とれ!今度はギャフン言わし…ギャフン!」

腕まくりしてベンチから離れかけたミカールは、先端が筆のようになっている房のある尻尾をむんずと掴まれ、おかしな声

を上げた。

痛みに顔を顰めながら振り返ったミカールの瞳に、ギリギリと力を込めて自分の尻尾を掴んで引き留めている黒豹の顔が映

り込む。

「…次は…、私にやらせてくれ…」

地を這うようなとてもとても低い囁きが耳朶をくすぐり、ゾワッと全身の毛を逆立てたミカールは、慌てて頷きながらも抗

議する。

「判った!判ったから尻尾放しぃ!ひん曲がる!手形つくて!指にフィットする食い込みできてまうからワシの尻尾っ!」

ミカールの尾をパッと放すと、アズライルはベンチに置かれていた獅子のラケットを手に取った。

「お?興味ねぇんじゃ無かったのか?」

「気が変わった」

短く応じるアズライルの尾が毛を逆立てて、まるで収穫期の稲穂のように太くなって事には気付かぬまま、ムンカルはコー

トに戻る。

「あ〜疲れた…。たっぷり汗かいちゃったなぁ…。終わったらさっそくシャワーしよう…」

ストローを咥えてドリンクを啜り、一息ついている北極熊。

 振り返って、その汗だくの顔をちらりと見遣ったアズライルは、

(勝利を貴方に…!)

燃える闘志を瞳の奥にチロチロと覗かせ、ラケットをギュリリッと、きつく握り締めた。

「サーブそっちで良いぞ?」

コートに立ったアズライルは、ムンカルの言葉に頷くと、位置を変えてシャトルを手に持ち、ラケットを握り締めた。

そしてサーブの体勢に入ると…、

「…死ねっ…!」

「どぅおうっ!?」

シャトルと共に高速で横回転しながら飛んで来たラケットを、虎男は反射的に身を屈めつつ首を右へ傾ける事で避けた。

回転しながら飛翔したラケットは、首を傾けたムンカルの左耳を掠めて飛び過ぎてゆき、壁にガッ!と鋭くも重々しい音を

立てて激突し、跳ね返って床に落ち、ガラガラとけたたましい音を立てる。

シャトルを叩くと同時にラケットから手を放した…、というよりも、ラケットを投擲するついでにシャトルを打ったアズラ

イルは、ムンカルが上手く回避した様を見て「ちっ…」と露骨に、そして忌々しげに舌打ちをする。

「死ねって何だ死ねって!?今のわざとか?わざとだろ!?わざとだなっ!?」

顔を引き攣らせながら猛抗議するムンカルに、アズライルは面倒臭そうに「フン」と鼻を鳴らして応じた。

「「死ね」は嫌か?…なら次は「潰れろ」とでも言うとするか…」

「つっ、潰れろってなぁ何だ!?潰れろって!?」

「具体的には、その目障りな鼻や気に食わない目が対象だ。…潰れてしまえ…」

「何だとぉ!?しかもお前、今の出力フルだったろ!?スポーツは省エネモードでプレイするって決まりだろうが!」

「そうだったか?まぁ良いではないか。怪我をしたとしてもムンカルだ、誰も困らない」

「困るだろ俺がっ!!!」

とんでもない事を言い放つアズライルの目には、先程ジブリールがバドミントンでコテンパンにされていた様子は、虎男が

北極熊を不当に痛めつけているようにしか映っていなかった。

単にバドミントンの試合を楽しみ、汗を流していただけなのだが、黒豹的にはジブリールに辛そうな顔をさせた時点で、ム

ンカルは粛清対象となっている。

「大丈夫。…次は外さない…」

「何が大丈夫なんだ!?お前本当はルールも判ってねぇだろ!?」

静かに殺気立つアズライルと、堪った物ではないと声を大きくするムンカルのやりとりを、そろそろ止めるべきかと考えな

がら眺めていたジブリールは、

「…ん?」

不意に顔を上に向け、目を細くして耳をそばだてる。

「何や?誰か転送されて来るで?」

その隣で腰を浮かせたミカールも、耳をピクピクと動かして気配を探っている。

「二人とも、悪いけれど一度中止だ」

ジブリールが立ち上がりながら声を上げると、ムンカルとアズライルは言い合いをピタリと止めて首を巡らせた。

「客が来るで。…予定外やけど、何やろな?」

二人にそう告げたミカールは、壁の時計を見遣って訝るように眼を細めた。

「この時間に…、それも事前に来訪連絡も無い、全く聞いていない来客…。緊急の用件だろうね」

応じたジブリールは、ドリンクを飲み干してベンチに置くと、先程の疲労困憊だった様子が嘘のようにしっかりとした足取

りで出入り口へ向かう。

その後ろに続く四人の内、ムンカルとアズライルは客の訪問という珍しい出来事にやや戸惑う様子を見せているが、ミカー

ルは渋い顔をしている。

最後尾についたナキールだけは、普段と変わらず表情に乏しく、事態を珍しがっている様子も、興味を覚えている様子も無

かった。

ドアを潜ろうとしたムンカルは、ふと思い直して足を止めると、

「片付けて行くから。先行ってろ」

アズライルとナキールにそう告げて、ラケットとシャトルを纏めるためにベンチへ引き返した。



「ん…、うん、ん…」

呻き声を漏らしたバザールは、薄く目を開けた。

細く開いた視界に捉えた景色は、乾燥した土の壁、そして床、天井。

埃っぽい空気がゆっくり流れる黄土色の景色に違和感を覚え、何故かぼんやりしている頭で原因を考察した彼女は、景色が

90度横に倒れているのが違和感の正体だと悟る。

一瞬遅れ、床に横向きで転がっているという現在の状態を自覚したバザールは、思考が徐々に明瞭さを取り戻してゆく中で、

自分がただ横たわっているだけではない事にも気付く。

ライダースーツを着ていない。

バザールはインナーである白いキャミソールとスパッツだけを纏った姿で、肉付きの良い桃色の裸体を外気に晒していた。

しかも、スーツを着ていないだけではない。その体は直径1センチ程のロープで緊縛されている。

手は背中側で、両脚は揃えて縛られており、ロープは細かに交差して模様を作っている。

身じろぎするだけでロープが肉に食い込むほどきつい亀甲縛り。バザールは状況が全く判らないながらも、体を捻って必死

にもがく。

しかし、ナイロンのように表面がツルツルとした光沢のあるロープは、彼女がいくらもがいても切れず、弛みもしない。

彼女らの肉体には、地上の生物を軽く凌駕するスペックが与えられている。それでもなお切れない程に、バザールの体に食

い込んでいるロープは頑丈であった。

「やっとお目覚めか」

突如響いた声にはっとして動きを止めたバザールは、首を捻って声の元へ目を向ける。

黄土色の部屋の入り口、上辺がアーチを描くポッカリと開いた暗がりへの入り口に、闇から染み出したような黒いハイエナ

が立っていた。

「ハールさん?」

丁度良い所に来てくれた。彼に頼んでこのロープを解いて貰おう。

刹那に満たぬ短い時間、そんな思考を頭に浮かべたバザールだったが、ハイエナの顔を見ている内に思い出した。

夕刻、配達終了後に彼の姿を見た。そして、挨拶しようと彼に歩み寄ったその直後から記憶が消えている。

自分が置かれているこの状況は、目の前のハイエナが原因ではないのか?

バザールのそんな疑いは、ハイエナの言葉で肯定された。

「お前のしまりのない体は随分重かった。ここまで運び込むのは一苦労だったぜ?」

黒いハイエナが薄ら笑いを浮かべてそう言った途端、困惑を湛えていたバザールの瞳が熱を宿す。

「どういうつもりですか?こんな真似をして…!解いて下さい、今すぐ!この件はすぐにでも因管に報告させて貰います!」

鼻息を荒くしたバザールを見下ろしたまま、ハイエナはクックッと低く笑った。

そして、その場でくるりと身を返し、バザールに自らの背中を晒す。

黒いライダースーツの背を目にした途端、憤りをあらわにしていたバザールの顔が、驚愕の色を浮かべて凍り付いた。

「…翼印(よくいん)が…無い…?」

配達人の制服でもある黒革のつなぎ。本来その背に浮かび上がっているはずの白い翼のエンブレムは、ハイエナの背には見

えなかった。

それが意味する事を悟ったバザールは、掠れ、震える声で問い掛ける。

「貴方…、堕人(おちうど)に…?」

「そういう事だ」

ハイエナは再びバザールに向き直ると、次いで室内を見回した。

「ここは、天から降り注ぐ脅威から身を守り、生き延びる為に人間達が建造した砦…、防空壕というヤツだ。身を隠す場所と

しては、洒落がきいているだろう?」

自らの危機を悟ったバザールは緊縛を解こうと必死にもがく。が、やはりロープは僅かにも緩まない。

「無駄だ。逃がしはしない」

バザールに歩み寄り、その姿を間近で見下ろすハイエナは、暗い喜悦に頬を歪ませると、屈み込んでロープの一本に指をか

けた。

そしておもむろに、力任せにロープを引っ張る。

「いぁっ!っく!あうぅ…!」

豊満な胸、腋の下、足の付け根、張り出した腹部、そして二の腕。

ロープはバザールの柔らかな肌に、肉に、容赦なく食い込み、苦痛を与える。

苦痛に顔を歪めながら身悶えするバザールをなぶるように、ハイエナは容赦なくロープを締め上げる。

「お前には感謝してるんだ。本当にな…。実に丁度良い所で会えた…。目眩ましとして活用させて貰うぞ…」



全体がうっすらと光る真っ白な部屋に踏み入った北極熊は、その中央に立つ大柄な灰色熊の姿を、澄んだ水色の瞳に映した。

 ダブルのスーツの上にトレンチコートを羽織った灰色熊は、胸に手を当て、腰を折って丁寧に頭を下げる。

 灰色熊はジブリールと同程度も上背があり、しかし体型は正反対で、筋骨隆々とした頑健な体付きをしているのが、衣類の

上からでもはっきり判った。

 スーツもコートもダークグレーで統一され、纏う灰色の被毛はムンカルの物と似た金属的な光沢を帯びており、さながら灰

色の巨大な塊を思わせる。

「事前連絡も無しに突然お伺いしてしまい、済みません。ジブリール」

低い声で詫びの言葉を口にした鉛色の熊に、ジブリールは顎を引いて頷いた。

「かまわないよ。…それより、何かあったんだね?」

ジブリールに続いて部屋に入ったミカールとナキールは、来訪者の姿を見るなり意外そうに目を細めた。

遅れて入室した最後尾のアズライルは、初めて目にする顔を訝しげに見つめている。

「火急の用件です」

灰色熊はジブリールの目を見つめ返しながら、重々しい口調で告げた。

「二人、堕ちました。本日、ここからそう遠くない場所での事です」