第十九話 「堕人」(後編)
桃色の豚は、身動きもままならない体を捻り、もがいていた。
地下でありながら水気の全くない乾ききった空気に、床に堆積した微細な砂埃が舞う。
埃っぽい空気を吸い込みながらも、独立配達人バザールは、自分を不当に戒めているハイエナの顔をねめあげ、地下室に響
く声を発した。
「私をどうする気ですか!?解放して下さい!」
ロープで縛られて床に転がるバザールを、縛った張本人であるハイエナは、優越感に浸りながら見下ろしている。
他者を虐げ、見下し、優越感に浸る。
本来であれば彼らが見いだせぬ類の快楽を噛み締めるハイエナは、今や配達人ではない。
堕ちたる配達人。
背から配達人の御印たる翼のエンブレムが消えた彼は、束縛から放たれ、かつて味わった事のない自由を噛み締めていた。
だが、真の自由ではない。
遅かれ早かれ、叛いた自分達には追っ手がかかる。
それだけではなく、この地上に散らばり職務に就いている配達人も自分達を捜し始める。
幾重もの包囲を何とかしなければ、真の自由は手に入らない。
「うるさい」
バザールの前で屈んだハイエナは、彼女の口元に手を掛け、丸く張った頬に指が食い込むほど力を込めて掴んだ。
強制的に口を半開きにされ、歯に頬の内側をギリギリと押し付けられて苦しげに呻くバザールの目を見つめながら、ハイエ
ナは低く押し殺した声で語りかける。
「俺達は自由が欲しいんだ…。その為に、お前には役に立って貰う…」
掴まれていた口元を突き押すようにして乱暴に放されると、バザールは埃っぽい床に後頭部をぶつけて「ぐぅっ!」と苦鳴
を上げた。
しかし、痛みに顔を歪ませつつも、バザールは怯む事無くハイエナの目を睨む。
「諦めなさい!逃げ切れる訳がないです!出頭すれば処罰も軽くなるはず…、手遅れになる前に反省の色を示して赦しを乞…」
「うるさい!」
気丈にも説得を試みたバザールを、ハイエナは苛立たしげに怒鳴りつけた。
「赦しを乞う?まっぴらゴメンだ!配達人で居る事にどんな得がある!?お前はどうだ!?配達人として下らない世界の維持
に汗だくになって、何か良い思いができたか!?あぁっ!?」
興奮し、唾を飛ばしながら大声で喚くハイエナ。
その背後、通路の暗がりから、すぅっと背の高い影が現れると、ハイエナは興奮を押さえ込んで舌打ちをした。
バザールもまた、新たに姿を現した男に視線を向ける。
腰ほどの高さの水瓶を斜めにし、音もなく転がして現れたのは、ワニの顔を持つ緑色の男であった。
「声が大きいぞ、ハールート」
しゃがれ声で注意したワニは、床に転がっているバザールへ視線を向ける。
一瞬助けが入ったのかと淡い期待を抱いたバザールだったが、直後に思い直した。
(このひと…、確か…マールさん…という名だった?…まさか彼も!?)
顔に覚えがあるワニの名を記憶の奥から引っ張り出しつつ、おそらくは脅威が増えたのだと感じ、息を飲んで焦慮を募らせ
るバザール。
ただでさえ緊縛され、身動きもままならないというのに、相手が二人となれば隙を見て逃走する事も不可能に近い。
新たに現れたワニは、感情を浮べない瞳でバザールを見下ろしつつ、大きな水瓶を転がして傍に寄る。
「出来たのか?マールート」
「ああ、解析と調整には少々手間取ったが…」
ハイエナ…ハールートの問いに応じると、マールートと呼ばれたワニは逞しい腕で水瓶を持ち上げた。そして、
「な、何を…、わぶっ!」
縛られて倒れているバザールに、水瓶に入っていた大量の液体を浴びせかける。
ドロリとした薄い緑色の液体が、バザールの桃色の体を汚す。
液体が鼻や目に入り、顔を顰めて咳き込んだバザールは、体の表面を虫が這うようなこそばゆさを感じた。
そして彼女は身じろぎしつつ首を曲げ、緑の液体塗れになった自分の体を見ると、小さく息を飲み込み、目を見開いた。
ドロッと粘性が強い液体は、重力で伝うのとは明らかに別種の動きを見せていた。
まるでそれ自体が意志を持っているかのように、バザールの体の表面を探るようにしてドロドロ、ドロドロと蠢く。
「ま、まさか…!?」
バザールが恐怖に声を掠れさせると、ハイエナは顔を歪めるようにして笑いながら口を開いた。
「お察しの通りスパイウェアだ。それも特製のな。配達人のプロテクトも無効化して、パーソナルデータまで侵食する」
ハイエナが話している間にも、液体はバザールの顔を目指して体を這い上ってゆく。
慌てて口を閉じ、縛られたまま芋虫のように這って逃げようとするバザール。しかし、ハイエナはそれを見過ごさなかった。
「大人しく…してろっ!」
その脂肪がたっぷりついた腹部を、ハールートは一度後ろに足を引いてから、思い切り蹴った。
「えぶぉっ!」
硬いブーツのつま先が深々と腹にめり込み、バザールは苦鳴を漏らしてえずく。
息を吐き出して大きく開いたその口めがけ、緑色の液体はゾゾッと移動した。
「ごぶっ!?がぼっ!がぶほっ!」
液体は口の中へ入り込むと、さらに奥へと進み、噎せ返るバザールの喉を下って体内に侵入する。
ゴボゴボと喉を鳴らし、咳き込んで吐き出そうと試みるバザールの抵抗は、しかし功を奏さなかった。
液体は抵抗を物ともせず、後から後から口の中に入り込み、バザールはドロドロとした液体を強制的に嚥下させられる。
「がぼっ!げぼぼっ!がぶっ!ごぽっ!げぶあっ!えぼぶっ!」
強制的に侵入して来る、大きな水瓶に入っていた大量の液体によって、バザールの腹が徐々に膨れあがってゆく。
その様子をニヤニヤしながら見下ろしていたハイエナは、唐突に屈み込むと、苦しみ悶えるバザールを縛り上げているロー
プに手を掛けた。
そして懐からナイフを取り出し、大量の液体を飲まされて膨れあがった腹に食い込むロープに当て、慎重に切断する。
戒めが解かれた途端に、バザールの腹は一層大きく膨れあがった。
やがて、水瓶いっぱいの液体を飲み干させられたバザールは、なおも手足は縛られたまま、床の上でぐったりと脱力する。
苦しさのあまり涙や鼻水、唾液を零し、顔中をグショグショにしたバザールは、何とかして液体を吐き出そうと舌を突き出
して喘ぐものの、腹の中に入り込んだ液体は一滴も出て来ない。
「苦しいのは今だけだ、じきに馴染む」
「だってよ」
マールートが口を開くと、ハイエナはねっとりとした視線をバザールの顔に向けながら、元の二倍にも膨れ上がった彼女の
腹に足を乗せた。
グッと体重を掛けられ、パンパンに張った腹に圧がかかって、鋭い痛みが走る。
「は…ぐ…!えぅ…」
「ブクブクに膨れやがって、まるでハムだな、ええおい?あ〜やだやだ、醜いねぇ…。顔も体も醜い醜い…」
か細い悲鳴を上げてかたく目と口を閉じたバザールを見下しながら、ハールートは口元を歪めた。
「けれどもまぁ、こんな雌ブタでも役には立つからな」
ハイエナがバザールを足蹴にしたまま振り返ると、マールートはズラリと鋭い牙が並ぶ大きな口を開いた。
「効果はすぐにあらわれる。十分程度で完了するだろう」
ワニ男の声を遠くに聴きながら、バザールは薄れゆく意識の中で感じていた。
腹中に入り込んだ液体が体中に浸透してゆく気味の悪い感覚と、意識が鈍麻させられてゆく不快さを。
やがて、バザールの口から何かが吐き出された。
どれほど力んでも吐き出すことが出来なかった液体に代わり、咳き込んだ彼女の口からは、その体に似た色の細やかな光の
粒子が吐き出され、埃っぽい空気に霧散して消えた。
意識が消失する寸前、バザールの口が微かに動いた。
(…助けてください…、誰か…)
しかし、弱々しく動いただけの口から声は出ず、心の中で呟かれただけの救いを求める言葉は、誰にも届かなかった。
侵入した液体と入れ替わるようにして桃色の粒子を吐き出させられ、動かなくなったバザールを見下ろしながら、ハールー
トは目を輝かせた。
「成功か?」
「そのようだ」
応じたマールートは、バザールの体に起こり始めた変化を観察する。
膨れ上がった腹が少しずつ縮み始め、同時に口と鼻から桃色に輝く光の粒がゆっくりと吐き出されてゆく。
やがて、光の粒子を吐き出し終えた分だけ体積が減り、二倍ほどに膨張していたバザールの腹部が元通りになった。
先にマールートが言った通り、全ては十分程度での出来事であった。
「…完了したようだ」
ワニ男が呟くと、ハイエナはあごを引いて頷き、バザールの肩を爪先で軽く蹴る。
その衝撃で覚醒したのか、閉じられていたバザールの目が薄く開いた。
「………」
バザールは首を動かし、半開きの目でハールートとマールートを見上げる。
意思の光が失せた、濁った瞳孔で。
一方その頃、レモンイエローの飛行艇内。
来訪者を案内し、ミーティングルームにもなっている食堂へと場所を移した配達人一同は、灰色熊と向き合う形でテーブル
を挟んで並んでいた。
ジブリールと向き合う形になった灰色熊は、その傍らに立つ黒豹が自分に興味の視線を注いでいる事に気付くと、用件を切
り出す前に口を開く。
「君とは、直にお会いするのは初めてですね。自己紹介が遅れましたが、中央管理室長を務めております、ドビエルです」
胸に手を当てて腰を折り、上体を屈めるようにして優雅に一礼するその仕草は、ジブリールのものと良く似ていた。
無骨な外見と厳つい顔に似合わず、洗練された動作で一礼した灰色熊の言葉に、アズライルはハッと息を飲む。
中央管理室とはつまり、配達人や清掃人、地上や冥牢も含めて「こちら側」に属する存在を総括する部署。
所属する者達は管理人と呼ばれ、エリート中のエリートで構成されている。
そこの室長ともなれば、一介の配達人からすれば、まさに雲の上の存在であった。
「配達人、アズライルです。初めまして…」
咄嗟にはどう反応して良いか判断できず、とりあえず失礼に当たらないよう深く頭を下げて名乗ったアズライルの背後で、
「んぉ?」
不意に、虎男の意外そうな声が漏れ聞こえた。
片付けを済ませていたせいで、他のメンバーからだいぶ遅れて食堂に入ってきたムンカルは、灰色熊の姿を認めるなり、相
好を崩してテーブルに歩み寄った。
「先生っ!どうしたんだよ?久し振りじゃねぇか!」
やけに親しげに話しかけるムンカルを振り返ったアズライルは、
「お久しぶりですね、ムンカル君。お元気そうで何よりです」
穏やかに微笑みながら応じる灰色熊を、驚きながら再び振り返る。
困惑しながら二人の顔を交互に見るアズライルに、ミカールが小声で説明した。
「お前がまだおらん頃の話やけど…、ムンカルが配達人に成り立ての頃な、一時期アイツにフネまで出向いてもろて、指導受
けさしてたんや。なもんでアイツはドビエルの事「先生」て呼んどる」
「因果の配達は…、ミカールが指導したのではなかったのか?」
初めて耳にした話を意外に感じて訊ねたアズライルに、レモンイエローの獅子は肩を竦めながら応じる。
「ムンカルに限っては、ワシらだけでフォローできへんかった。ブラストモードの事は、ワシやジブリールでも教えてやれへ
んさかい…」
小声で説明していたミカールの言葉は、ジブリールが声を発した事で途切れた。
「とにかく座ろう。詳しい話を聞かせてくれるかいドビエル?」
灰色熊が頷いて椅子を引き、腰を下ろすと、まずジブリールが腰をおろし、他のメンバーがそれに倣う。
「報いの配達人、ハール。そしてマール。同じフネに乗っていたこの二名が堕人となりました」
ドビエルがそう切り出すと、ジブリールは目を細め、ミカールは眉を吊り上げ、ムンカルとアズライルは驚きの表情を浮か
べる。
ただ一人、目立った表情の変化を見せなかったナキールも、ドビエルの言葉を待つように表情を伺っている。
「確かかい?…と、訊くのが間違いか…。こうしてキミがわざわざ来たんだ。誤報や冗談かもしれないっていう、楽観的な希
望は持つべきじゃないね…」
水色の瞳に思慮深げな光と悲しげな色を同時に浮かべ、ジブリールは太い腕を胸の前で組み、小さく息を吐き出した。
「残念ながら、揺ぎ無い事実です」
ドビエルは深く頷くと、懐に手を突っ込み、銀色に輝く拳銃を引き抜いた。
バレルの横に熊の足跡が刻印されたリボルバーに、全員の視線が集まる。
「詳細はデータとしてお渡しします。よろしいですか?」
全員が頷いた事を確認すると同時に、ドビエルが手にしたリボルバーの、つるりとしたノンフルーテッドシリンダー、その
隙間から灰色の煙がフォシュッと僅かに漏れ出た。
銃の内部、シリンダー内に直接弾丸を精製したドビエルは、すっと銃を上げてジブリールの胸元に向ける。
食堂内に響き渡る轟音。バレル先端付近の両側上部に穿たれたマグナポートから左右斜め上に衝撃と噴煙が排出され、銀色
の拳銃は跳ね上がりを軽減される。
ジブリールの胸にデータが添付された弾丸が吸い込まれた直後にはミカールの胸に、次いでムンカル、ナキール、最後にア
ズライルの胸に、それぞれ弾丸が撃ち込まれた。
瞬き一つ以下の一瞬で五連射され、痕跡を残さず五人の胸に吸い込まれた弾丸は、内包された情報をそれぞれに伝達する。
配達人、ハールとマールが、所属するチームのフネの内部で、突如同僚を攻撃。
航行中だった飛行艇はコントロールを失い、ここからそう遠くない丘陵地帯へ墜落。
この時点までに二名の配達人が消滅させられたが、生き残っていた最後の一名は命からがらフネを離れ、因果管制室と中央
管理室への非常通信網を利用し、緊急連絡をよこした。
しかし、簡単に事情を説明し、助けを求めた直後に彼との通信は途絶え、直後に反応がロスト。
中央管理室は事実確認の為にフネへ連絡を入れるも、完全に大破しており不通。転送で駆け付ける事もできなかった。
最も近い区域で活動中だったチームに連絡を入れ、そちらに因果管制室と中央から数名が転送させられ、現場を確認したが、
確認できる範囲には既にハールとマールの姿はなく、痕跡も辿れなかった。
「同僚を消滅させてまで…。どうして…」
状況を把握したものの、二名の考えが理解できずに困惑するジブリール。
ムンカルやナキール、アズライルも答えられはしなかったが、ミカールだけは難しい表情で頷いていた。
「…ハールとマールな…。ニューヨーク沖の海難事故…、アレの因果修正が必要になったんは、あいつらの配達ミスからやっ
たな?」
「…そうだね…」
ジブリールが頷くと、ミカールは顔を顰めたまま怒りもあらわに吐き捨てた。
「それだけやない。もっと前にはアズライルの…!」
はっと我に返って言葉を切ったミカールを、何故か自分の名前を出されたアズライルが訝しげに見遣る。
小さく咳払いした獅子は、「何でもない」と黒豹に告げ、懐に銃を戻すドビエルに視線を向ける。
「で、対処方針はどないなっとんねや?」
「離反の背景が判りませんので、まず規定通りに捕縛です。ただし、止むを得ない場合は消滅も視野に入れた強硬手段になり
ますが…」
「同僚三人消しとるんや、力ずくも無理ないやろな。…で、お前が直々に出とるっちゅう訳か?」
「そういう事です」
頷いた灰色熊に、ジブリールが問い掛ける。
「動機は?何故そんな真似をしたんだろう?貰ったデータだけじゃあ、オレには推測できなかった」
「今のところは判っていません。…ただ…、配達を終えて移動中だったベース内において、それぞれ不意打ちの形で一人ずつ
害し、離脱を図った最後の一人も、かなりの距離を追った末に害しています。墜落したベースからは持ち出しが容易で逃走に
役立ちそうな機器類があらかた持ち出されていましたので…」
「…計画的行動…」
ドビエルの説明が途切れると、それまでずっと黙っていた狼男がぽつりと呟いた。
「俺も同意見だ。仲間を手に掛けた上に、同業者でも追跡ができねぇ程痕跡が残ってねぇ…。なら、ハナっから計画を練って
いたんだろうよ」
ムンカルが同意すると、ナキールは顎を引いて頷く。
「自分は彼らと二度しか面識が無いが、どちらも普通の配達人だったと記憶している。少なくともジブリールやミカールのよ
うなオーバースペックではなかった。チームリーダーを含めて三人を消滅させようとすれば、事前に策を練るか、でなければ
他の三人を圧倒できるまでにアップデートするか、何か特別な力を手に入れておくか…、いずれにせよ、突発的な物ではない
と自分には思える」
「だな」
「ワシもそう思うわ」
ナキールが見解を述べると、同意を示してミカールとムンカルが大きく頷いた。
「どうやって同僚らを消滅させたんか知らんが、「過ち」ゆうレベルやないで。…この点については中央もそう考えとるんや
ろ?」
ミカールの問いに黙って頷いたドビエルに、次いでジブリールが訊ねた。
「それで、オレ達はどのレベルまで協力すれば良いんだい?」
「通常通りに職務を遂行して頂くついでに、彼らの探索をお願いしたいのです。発見し次第こちらに連絡をして頂ければ結構
です」
ジブリールとミカールは意外そうに目を細め、ムンカルは拍子抜けしたようにポカンと口をあける。
「何だよ?話の流れからいって、てっきり本格的な捜索に参加させられるのかと思ったんだが…、職務優先だなんて、随分あっ
さりしたもんだな?」
「配達人三名を消滅せしめた堕人が相手です。専門の者が対処すべき…、そう判断いたしました。冥牢からもナンバー15か
ら19まで、5名の清掃人が派遣されて来ますからね」
どこか不満そうに零したムンカルに応じると、ドビエルは一同に小さく頷きかける。
「ただでさえ因果の変転規模が拡大している今、配達人の職務を圧迫するのは得策ではありません。中央は中央で仕事をしな
ければ…。こんな事まで配達人任せにしていては、それこそただのお飾りですから」
低く、良く通る声で厳かに言ったドビエルは、腰を上げて一同に会釈した。
「それでは、他のフネにも連絡をしつつ様子見に伺わなければならないので、これで…」
「あ、もう行ってまうんか?ラザニア作ったるのに…」
ミカールが零した呟きを耳にし、灰色熊は動きを止めて耳をピクリと動かしたが、
「…残念ですが、今日は時間が無いので…。いずれお邪魔します。必ず…」
たっぷり五秒程黙り込んだ後、至極残念そうに呟いた。
「協力は惜しまないよ。手助けが必要なら、遠慮なく声をかけて欲しい」
立ち上がったジブリールが灰色熊にそう声をかけると、次いで腰を上げたムンカルも力強く頷いた。
「単純な荒事なら俺も手伝えるぜ。任せてくれよな先生」
「必要になった時には、お言葉に甘えさせて頂きますよ」
立ち上がって自分を見つめる五名の配達人に、灰色熊は微笑しながら頭を下げた。
「もう四日目で道にも慣れたと思うけれど、事故にはくれぐれも気を付けて」
明くる朝、出発準備を整えて格納庫に整列したムンカル、ナキール、アズライルを前に、ジブリールは朝の挨拶をおこなっ
ていた。
これは一種の朝礼のような物で、普段はせいぜい「運転に気を付けるように」など、平和的かつのどかな挨拶に留まるが、
特に注意すべき事項などがあれば各員に伝えられる。
そして今日は、昨晩ドビエルから伝え聞いた堕人についても勿論触れられていた。
「それじゃあ、今日も一日頑張って行こう」
挨拶がいつものセリフで締め括られ、頷いた三名がそれぞれの愛車へ向かうと、操縦席側のドアが開き、ミカールが顔を覗
かせた。
「済まんけど、ムンカルかナキールちょっと残ってくれへんか?今な、報い二件追加で受信しとる。残期限二日のヤツやさか
い、今日の配達分に含めたいんや」
ムンカルが面倒臭そうに口を開きかけると、ナキールが先んじて声を発した。
「自分が残ろう。今回の受け持ちは若干ムンカルより少ない。二件追加でタイと言った所なのでね」
「お?悪ぃなナキール!」
業務量が増えなかった事でほっとしムンカルは、気分すら良さげに口元を緩めた。
「せやな。ワシもムンカルなんかよりナキールに頼んだ方が安心できるわ」
「…何か引っかかる言い方だな…」
「勝手に引っかかっとれ。ホレ、さっさと行かんか」
シッシッと追い払うように手を振るミカールに思い切り顔を顰めて見せると、ムンカルは葉書を詰めた鞄を愛車の後部に設
置している発券機に押し込み、不機嫌そうにシートに跨った。
「先に行くよ」
「では、行ってくる」
声を掛けつつ先にハッチから飛び出して行ったジブリールとアズライルに続き、
「んじゃ、俺も先に行くぜ、追加分は頼むな?ナキール」
鉄色の虎も跨ったファットボーイに猛々しいエンジン音を轟かせながら、飛行艇を後にした。
「出発直前に足止めしてもうて、済まんかったなぁナキール」
「いや、構わない」
先に三人が出て行った、開け放たれたままのハッチの向こうを眺めやりながら応じたナキールは、「む?」と、小さく訝し
げな声を漏らした。
「何や?何か…」
ナキールが見ている方向へ視線を向けたミカールは、砂埃を巻き上げながら砂礫の大地をこちらへ直進して来るバイクの姿
を瞳に映した。
「誰か忘れもんして戻って来たんか?…まぁ忘れもんなんぞしよるんはムンカル以外におらんけど…」
苦々しげに呟いたミカールは、その直後、走って来るライダーが同僚の誰でもない事を確認した。
頭部は桃色、ずんぐりとした丸っこい体型、跨っているバイクは、自分達のフネに積んであるどのマシンとも違う。
「…ちゃう。ムンカルや無い。あれは…」
「…確か、バザールという名だったと思う。独立配達人ではなかったかな」
呟くミカールの横で、ナキールは数十年前に一度目にした事があるだけの同業者の名を記憶の底から引っ張り出した。
桃色の豚は大きく片手を上げながら何か叫んでいる。
何らかの緊急事態。相手の様子からそう判断したミカールは、両腕を上げ、頭上で丸を作る。
桃色の豚は速度を緩めて飛行艇に接近すると、登り台となっているハッチを乗り越え、ブレーキ音を響かせながら格納庫に
侵入した。
「…何があったんや?」
ガタガタと震え、肩で息をしているライダーが跨っているバイクを目にしたミカールは、顔を顰めながら口を開いた。
豚が跨っているドゥカティは、あちこちで塗装がはげ、所々穴が空いており、ライトが割れている。
銃撃された痕。それも、同類の攻撃でデータ欠損を起こされた痕。
返事もできず、苦しげに喘いでいる女性ライダーの様子を観察しながら、ミカールは昨夜ドビエルから受けた警告の事を思
い出していた。
「お、堕人が…!二人…!」
喘いでいるバザールが息の隙間から声を漏らすと同時に、ミカールは丸顔を縁取る鬣をざわりと逆立たせた。
「安心してえぇ、この中はいわゆる別世界や。外側から手出しできるモンはそうそうおらん」
神経を研ぎ澄ませ、襲撃が無いか気配を探りながら、ミカールは狼男と共に来訪者へ歩み寄った。
ナキールが手を貸してバイクから降ろすと、バザールはカタカタと体を震わせながら、二人に訴えた。
「知った顔でした、ハール、そしてマールという配達人です!彼らは、私を捕らえて…!」
体を震わせながら早口に状況を説明するバザールの様子をじっくりと見回し、ミカールは顔つきを険しくする。
(何発か被弾したんやな…。幸い致命的なモンやないが、体の方は結構キッツいはずや…)
「無理すな。説明はゆっくりでええ。とりあえず座って、ちょっと落ち着けや。な?」
ミカールは労るように声をかけると、格納庫端の簡易ベンチへと顎をしゃくる。
肩を貸すナキールに連れられてベンチへ向かったバザールは、気遣うミカールの制止も聞かず、二人の堕人の事について話
し始めた。
バザールの話によれば、そうと知らずに彼らの一方に近付いた彼女は、不意を突かれて一度捕らえられ、監禁されたらしい。
隙を見て逃げ出した物の途中まで追撃され、負傷してしまい、反応を頼りに最も近い移動ベースへバイクを走らせ、このレ
モンイエローの飛行艇に辿り着いたのだという。
再び捕らえる事は諦めたのか、飛行艇が見えた辺りで二人がUターンして姿を消した事まで話すと、バザールは自分の体を
両腕で抱くようにして身を縮めた。
「よう判った。もう大丈夫やで?中央も動いとるし、じきに連中も捕まる。よお頑張ったなぁ」
優しげに声をかけたミカールは、ナキールに視線を向け、口調を改める。
「ワシはこれからドビエルに連絡して、周りにも情報を発信して注意喚起しとく」
「判った。二人組が戻って来ないとも限らない。自分は周囲を警戒しておこう」
狼男は顎を引いて頷くと、右腰のホルスターに収まった拳銃のグリップにそっと触れた。
理解の早いナキールの返答に満足し、「頼むで?」と言い残すと、ミカールは操縦室に駆け込んで行った。
「君はここを動かないように」
座り込んだまま震えているバザールにそう告げると、ナキールは飛行艇の後部ハッチから、乾いた風が吹きすさぶ外へと出
てゆく。
格納庫に一人残されたバザールは、
「………」
不意に震えをピタリと止めると、表情を虚ろな物に変え、ゆらりと立ち上がった。
「………」
ゆっくり首を回し、どんよりと濁った目に周囲の光景を映し、格納庫にいくつも並ぶ扉を眺めた後、バザールは虚ろな視線
をドアの一つに定める。
「………」
無言のまま鉄の床を踏み締め、格納庫を横切るバザール。
体がやや傾き、右足をやや引き摺っており、明らかに体に異常をきたしている事が動作から判るにもかかわらず、その顔に
は苦痛の色が全く浮かんでいない事が、あまりにも異様であった。
やがて、見定めたドアの前に立ったバザールは、ノブに手をかけ、室内に入り込んだ。
一方その頃、ミカールは操縦室の通信装置にひっつき、大声でがなり立てていた。
「…ああ。今ウチに逃げ込んで来たんや!」
『逃げて来られたのは僥倖でした。方法は判りませんが、配達人を三名も消滅させ得るだけの力を手にしている堕人二名です。
負傷したとはいえ、消滅させられなくて何よりでした…』
通信機越しにドビエルの安堵したような声が返ると、一つ頷いたミカールは、やおら目を吊り上げて拳を握り、ドンと、計
器類が並んだコンソールを叩いた。
「とりあえずバザールの事は諦めた様子や。が、連中絶対にまだこの近くにおる!到着まで黙って待っとったら逃げられてま
う。ムンカルかジブリール、どっちか向かわしてひっ捕まえたる!」
『ミカール?深追いはせずにわたくし達に…』
「後手に回るのは好かん!えぇからはよ飛んで来い!こっちはこっちで動…、ん?」
ミカールは言葉を切ると、明かりの消えたコンソールを見下ろし、首を傾げた。
通信は切れており、レーダーや計器類、全ての機器が停止している。
「何や?ダウンする程オーバーワークはさせとらんで?」
訝しげに首を捻ったミカールは、他の配達人達が愛車とリンクしているのと同じように、自分とリンクしている飛行艇と意
識を直結させる。
その直後、童顔の獅子は驚愕して「あ!?」と声を漏らした。
「エネルギーゲートとの接続が切れとる!?何でや!?」
無尽蔵ともいえる膨大なエネルギーを飛行艇に供給している、いわゆる心臓部が、ミカールが脳裏に呼び出した動力経路か
ら抜けていた。
格納庫内から轟いたエンジン音を耳にし、哨戒に当たっていたナキールは訝しげに眼を細めて首を巡らせる。
耳慣れないエンジン音。それは、先程飛行艇に飛び込んだ際にバザールが乗っていたドゥカティの物であった。
音による判別は出来たが、何故それが聞こえるのかが判らない。
不思議に思っているナキールの視線の先で、飛行艇の後部ハッチから、バイクに跨ったバザールが飛び出した。
「バザール?何を…」
ナキールの呟きが止まる。バザールが脇に抱えた、ある品を目にして。
それは、形容するならば光の球という事になる。しかし質量を持つ物質ではない。
球体状に歪曲した空間…、清掃人や一部の配達人が生み出すゲートと同様、別の次元に繋がる小さな門である。
尽きる事無くエネルギーを汲み出せるそれは、扱いやすいように、あたかも物質であるかの如く持ち運び出来るように作ら
れた、いわば動く窓であった。
生み出すにも維持するにも手間がかかる貴重なそれは、飛行艇内に一つしか無い。
飛行艇の動力として利用されている一つしか…。
遠ざかるバザールの姿から視線を外し、ナキールは身を翻した。
何が起きているのか判断がつかず、ミカールに確認しようとハッチを駆け上り、格納庫に飛び込んだ狼男は、
「のわっ!?うぶ!」
慌てて駆け出してきたミカールと衝突し、後ろに転げそうになった獅子の肩を掴んで引き留める。
「ナキール!何や知らんが、バザールがエネルギーゲートを持ち出してまいよった!」
「やはり、ミカールが持ち出しを許可した訳では無いのだね?」
確認が取れた途端にミカールを放し、ナキールは風のように駆けて愛車に跨った。
主を乗せたアドベンチャーが、その意志を汲み取ってエンジンをスタートさせ、鋼の嘶きを上げる。
「至急バザールを追い、エネルギーゲートを奪還する」
「頼むで!…何でこんな真似するんや?バザールのヤツ…」
ミカールが応じるが早いか、獣機一体となって弾丸のように飛び出すナキール。
(まさか…、堕人と通じとったんか?)
ハッチから飛び出し、砂礫の大地を駆けて行くナキールを見送りつつ、困惑しながらそんな事を考えたミカールは、小さく
かぶりを振った。
(それは無いと思うんやけど…、背中の御印も消えてへん。つまり、バザール自身は堕ちるような行為を働いとらん証拠や…)
バザールが働いた行為その物は、職務妨害を超えたレベルの、明らかな敵対行動である。
にもかかわらず彼女のエンブレムが消えていない事から、ミカールは事態が単純なものでない事を嗅ぎ取っていた。
「…こりゃ…、面倒な事になりそうな気がしてきたで…」
呟いたミカールの目は、厳しい光を湛えていた。