第二話 「報いの配達人」

報いの配達人。

ムンカルはカドワキに手伝わせながら、ここまでの間に自分の仕事についてそう説明していた。

「何かを為せば何らかの報いが与えられる。世の中ってのはそういう風に出来てんだ」

住宅街のブロック塀の上をバイクで走破しながら、灰色の虎男はそう言った。

「だがな、最近じゃそうならねぇ事も結構ある。俺達は「因果流着連環現象」って呼んでるんだが、そいつが上手く働かねぇ

事が多くなってやがるんだ」

ムンカルは面倒臭そうに「…ま、いろいろと淀んだ世の中だからなぁ…」と、小さく付け加える。

「で、調律の為に…、要するにその現象の不具合の調節の為にだな、俺みてぇな仕事をするヤツが必要な訳だ。ちっと難しく

なるが、噛み砕いて説明するとだなぁ…」

直角に折れたブロック塀の角からバイクを宙に踊らせ、丁度走ってきた乗用車の天井で跳ね、道の向こうのブロック塀に着

地させながら、ムンカルは続ける。

「停滞した一つの因果は、それに関わるいくつもの因果にも影響を与えちまう。だから、滞ってる元の因果を通常通り流れる

ように導いて、纏めて調律してやる…。俺がやってるのは、つまりはそういう仕事だ」

ムンカルの口にする単語の中には判らない物も多かったが、その仕事を手伝いながら、カドワキは自分なりに、彼の事をこ

う解釈した。

ムンカルと名乗るこの虎男は、因果応報を司る、一種の天使か悪魔のような存在なのではないかと…。



「おつかれさん。残り二件で上がりだ。…やれやれ、今日のノルマもやっと終わるぜ…」

通行人がそこそこ多い歩道に自販機を見つけ、バイクを停めて休憩にしたムンカルは、カドワキに缶コーヒーを放ると、自

分はまたペットボトル入りの緑茶を買う。

すでに太陽はだいぶ傾き、空は茜に染まり始めていた。

傍の電気用品店の店頭では、テレビが夕方のニュースを流している。

「お茶、好きなんですか?」

大した意味もなくそう尋ねたカドワキに、ムンカルは目を細め、口の端を吊り上げて笑った。

「まぁな。この国は細々入り組んだ道が多くて嫌になるが、お好み焼きと、この緑茶って飲み物だけは最高だ!この奥深い味

にはブッたまげたぜ!」

心底楽しそうに言ったムンカルに、カドワキは不思議そうな視線を向けている。

「…お好み焼きを…食べるんですか?」

「ああ。同僚の一人に誘われてお好み焼き屋に行ったんだがな、あれは価値観が変わった…!コンビニにまで置いてあるのを

見つけた時は心底ビビッた!」

カドワキはお好み焼き屋やコンビニに出没する虎男の姿を想像し、それからプッと吹き出した。

「それは、店員が驚いたでしょうね」

「がははははっ!驚かねぇさ。俺をこの姿で認識できるヤツなんぞ極々希だからな」

笑いながら応じるムンカルの言うとおり、歩道を行き交う人々は、虎の頭と尾を持つ巨漢の傍を歩き過ぎても、さして注意

を向けようとはしない。

つくづく不思議だと、鋼鉄色の虎の姿を改めて眺めながらカドワキが考えていると、ムンカルはふと表情を引き締めた。

「ところで、聞きたい事があるんだが…」

「はい?」

「お前、お好み焼きとたこ焼き、どっちが好きだ?」

「へ?」

間の抜けた声で返事をしたカドワキの前で、真顔のムンカルが腕組みをする。

「いやなぁ…。同僚はたこ焼きこそがこの国の至高の料理だって言いやがるんだ。あれも確かに美味い。その事は認める。あ

の独特の食感と熱…、トッピングで大きく変わる風味…、確かに素晴らしいもんだ」

腕組みして目を瞑り、うんうん頷きながら言ったムンカルは、クワッと両目を見開く。

「…が!俺にはどう考えてもお好み焼きの方が上に思える!場所毎に作る手法も違い、焼き方一つで大きく変わる味と食感!

これほどまでに奥深く、しかも楽しめる料理は他にねぇ!…と、俺は思ってるんだがどうだ!?」

熱弁を振るい、そして尋ねて来たムンカルを前に、カドワキは首を傾げて考える。

もともと好きでも嫌いでもないので、どう反応すれば良いかが判らなかったものだから。

「どっちとも言えないんですが…。その時の気分次第ですかね?」

「そういうもんか?それで良いのか?」

首を捻るムンカルに、カドワキは苦笑いした。

「あんまり深く考えないで、素直に美味しく食べられたら、それで良いんじゃないですか?」

「…ふ〜む…」

ムンカルは腕組みしたまましばらく首を捻っていたが、唐突に「ん?」と声を漏らし、目つきを鋭くした。

「…あ?鞄が…」

ムンカルの視線を追うようにして、肩から下げたままだった鞄に視線を落としたカドワキは、留め金の宝石が紫色に光って

いる事に気付く。

「ん?何だか、色が…」

濃い。カドワキは鞄を持ち上げ、宝石を見つめながらそう思った。

宝石はこれまでと同じく赤味を加えた色彩の変化を見せていたが、放たれる光が、色が、これまでよりも濃い。

「開けてみろ。たぶん残りの二枚とも消印が変色してやがるはずだ」

ムンカルは言うが早いか、バイクに跨りエンジンをかける。

カドワキは慌ててその後を追い、後ろに乗りながら鞄を開けてみた。

すると、ムンカルの言った通り、残っていた葉書は二枚とも消印が紫に変色し、うっすらと光っている。

大急ぎで跨った発進直前のバイクの上で、カドワキは電気屋のテレビから聞こえて来るニュースキャスターの声を耳にして、

ふと首を巡らせた。

『…時頃…市…区内の県道で貨物トラックが…』

雑踏のざわめきの中から断片的に聞こえる声。

テレビに映し出された事故現場の映像を見たカドワキは、背中に氷の塊でも突っ込まれたような寒気を覚えた。

『現場は見通しの良い二車線で…運転して…意識不明…警察では飲酒運転の…調べ…』

路肩の電柱に突っ込んだ貨物トラック。潰れた運転席。車体横の、見覚えのある運送会社のロゴ…。

「そいつら二人で終いだ。さっさと済ませるか!」

アクセルを一気に開け、後輪を滑らせながら大型バイクを軽々と反転させ、発車させる。

その鋭い感覚と勘を頼みに、自分達を認識しない通行人の間を縫って、虎男はバイクを疾走させ始めた。

その後ろで、カドワキは冷や汗を流しながら考える。

(因果って…、因果の配達って…、まさか、これまでのも…全部ああいう風に…!?)

あれはさっきの貨物トラックだったのか?

他に手紙を配達した老人や、幼稚園児、親子連れの父親、皆あのような報いを受けさせられているのか?

確かめたいとも思ったが、尋ねるのが恐くなり、カドワキは口をつぐんだ。



「あれだな…」

日没直後、陽光の残滓にうっすら染まる空の下で、ビルの壁面に対して垂直にバイクを停めたムンカルは、目を細めて眼下

の大通りを見据えた。

賑わう大通りは、ようするに歓楽街。

煌びやかなネオンに彩られたそこかしこを、着飾った男女が闊歩し、車道脇にはタクシーの列が連なる。

灰色の瞳はその中の一台、後部座席のドアを開け、客を降ろそうとしているタクシーを見据えていた。

カドワキも虎男の視線から、それが今度の配達先だと気付き、タクシーに視線を注いで、

「…え…!?」

その口から、驚きの声を漏らした。

タクシーから降りた客は、彼の元同僚であり、ライバルでもあった男。

今度の配達先は、元同僚。だが、カドワキの驚愕はそれだけに留まらなかった。

その男に続いて降車したのは、またしても知った顔…。カドワキの元婚約者の女性であった。

(アキコ?何故?どうしてアイツと一緒に居るんだ?)

彼が知る限り、二人には接点が無いはずであった。混乱するカドワキの前で、虎男が口を開く。

「都合良く二人一緒か。手間が省けて助かるぜ!」

機嫌良さそうに言ったムンカルの言葉に、カドワキは驚愕から身を硬直させた。

(あの二人が…、届け先…!?)

「どうした?」

カドワキの様子がおかしいことに気付いたムンカルが、首を巡らせて振り返る。

「あ、あの…。それって、やっぱり…、配達しなくちゃ…ならないんですよね?」

カドワキは視線を落とし、真っ赤に輝いている留め金の宝石を見ながら呟いた。

「当然だ。それが仕事だからな」

応じたムンカルは、目を細めてカドワキの様子を訝しんだ。

「…何だよ?どうかしたのか?」

「あ…、いえ…、その…」

思考が纏まらず、内心を上手く言葉で伝える事ができず、口ごもるカドワキ。

ムンカルはちらりと地上を見下ろし、男女が連れ立って歩いていく様子を確認し、舌打ちする。

「ぼやぼやしてると行っちまう。さっさと葉書をよこせ」

カドワキの脳裏に、先程ニュースで見た貨物トラックの有様が浮かんだ。

ほとんど反射的に、抵抗するように鞄を抱きかかえたカドワキを見て、ムンカルは眉根を寄せる。

「…ひょっとして、知り合いなのか?」

ピクッと体を震わせたカドワキから、ムンカルは一瞬で鞄を奪い取った。

「あ!」

声を上げたカドワキの前で、ムンカルは鞄から葉書を取り出し、その文面に目を通す。

「…ふむふむ…。それなりの報いを受けるだけの事はしてるな、こいつらも…」

「ま、待って下さい!あの二人は…」

泣きそうな顔で言いかけたカドワキの言葉を遮り、ムンカルは「ふん…」と面倒臭そうに鼻を鳴らし、葉書を握り潰した。

「男の方は、まぁ偽証と裏切りだな。職場の同僚を妬んで、そいつを失脚させる為に色々と汚ぇ事をした。そいつがやったよ

うに見せかけて、ライバル会社に情報を流したんだとよ」

ムンカルの手の中でボシュッという音が鳴り、隙間から灰色の煙が漏れ出る。

「女の方も大したタマだな、そこの男とグルだったらしい。その同僚に言い寄って、長いこと恋人のフリをしながら、色々と

情報を探ってたみてぇだな。パスワードとか、個人情報とか、一日の行動とかをな」

再びボシュッと音が鳴り、ムンカルの手の隙間からまた灰色の煙が漏れる。

「つまりはそう言うことだ。言っちゃあ悪いが、あの女は元々お前に好意なんぞ持っちゃいねぇ。ハナっからお前の身辺を探

るのが目的だったんだよ。あの男の差し金でな。ついでに言えば、あの二人は恋人同士。…ん?まぁ、少しばかり複雑だが…、

やっぱり恋人だな」

カドワキはあんぐりと口を開け、握り込まれているムンカルの手を見る。

「な、何故、そんな事まで…?」

「葉書に全部書いてあるんだよ。事細かくな。…なんなら二人がベッドの上で繋がった回数まで教えてやろうか?」

ニヤリと笑ったムンカルに、カドワキは慌てて首を横に振る。

(まさか自分達の個人情報が、こんな所で暴露されかかっているとは思いもしないだろうな…)

向こうへ歩いて行く、その行いを暴露されたかつての婚約者とかつての同僚の後ろ姿を眺めながら、カドワキはさして怒る

でもなく、そんな少しズレた事を考えていた。

「ま、こんな事まで喋ってやるのは少々違反なんだが…、これで判ったろう?同情の余地なんぞねぇって事がよ。この二枚の

葉書は、お前への行為に対する報いらしい。…とんでもねぇ偶然だなぁ?…いや、もしかするとこいつもまた因果の内か…」

可笑しそうに言いながらムンカルが手を開くと、そこには二発の弾丸が転がっている。

「ま、待って下さい!」

「ぬぉわっ!?」

銃を抜いたムンカルに、カドワキは後ろからしがみついた。

肥満のカドワキにがっしり抱き付かれてバランスを崩し、座席からずり落ちかけて弾丸を取り落としそうになった虎男は、

慌てて弾丸を握り込む。

「あ、あっぶねぇだろがおい!何だよいきなり!?」

「ど、どうか!見逃してあげてくれませんか!?」

「はぁ!?」

ムンカルは背中にしがみつくカドワキを振り返り、理解し難いと言いたげに目を見開き、次いで不機嫌そうに鼻面に皺を寄

せる。

「わ、私は良いんです!報いが行く事なんて望んでいません!」

カドワキは必死になってムンカルに懇願した。

「そ、それは…、少しも恨んでないとは言えませんし、憤りを感じないと言えば嘘になります!でも、でもあの二人は…!」

カドワキの脳裏に、生まれて初めて付き合った女性との、楽しかった日々が蘇る。

鎬を削った同僚と、一緒に飲みに行って馬鹿な話題で盛り上がった事が思い出される。

裏切りはあったかもしれない。全部偽りだったのかも知れない。

それでもカドワキは思った。あの二人が酷い目に遭うのは見たくない、と。

しばし無言でカドワキを見ていたムンカルは、やがて「ふぅ…」とため息をついた。

「お前…、馬鹿だろ…?」

呆れたように言った虎男の顔を見て、

「…でしょうね…」

カドワキは泣き笑いに近い苦笑を浮かべた。

そんな表情を見たムンカルは、目を細め、鋭い牙を見せてニカッと笑う。

「が、そういう馬鹿は嫌いじゃねぇ。…お前みてぇなヤツが居るから、この世界もまだ捨てたもんじゃねぇんだよな…」

開けっぴろげなその笑顔に、意外なその言葉に、カドワキは面食らって黙り込む。

「仕方ねぇさな、被害者本人がこう言ってんじゃあ…。本当は良くねぇんだが、手伝って貰った借りもある事だ…」

呟いた虎男は弾丸をぐっと握り込み、にやりと笑った。

「情状酌量…、お前の望み通り、連中への報いは少しばかり軽くしてやるよ」

「へ?」

開かれたムンカルの手の中には、表面からうっすらと灰色の煙を上げる、弾頭の色が少し薄くなったマグナム弾。

虎男はその弾丸を素早く銃に装填すると、カドワキが止める間もなくガゥン、ガゥン、と連射した。

二発の銃弾は、歩き去って行く男女、それぞれの背中のど真ん中に命中する。

「あああああああ!撃ったぁぁああああ!?」

声を上げるカドワキを振り返り、ムンカルは顔を顰めた。

「だぁもう!耳元で騒ぐなっての!心配すんな、軽くしてやったんだからよ」

「か、軽くって…?」

半信半疑の様子で問い掛けたカドワキに、ムンカルは逞しい肩を竦めて見せた。

「野郎の方は、実はあの女の他に二人恋人が居てなぁ。つまり三股かけてんだこれが。で、今から行くホテルで楽しんだ後、

出たトコで残りの二人とばったり鉢合わせして、そいつがバレる。全員と破局で天国から地獄…。いやぁ修羅場はさぞや見応

えがあるだろうなぁ!がはははっ!」

やけに楽しそうに笑いながら、ムンカルはさらに続ける。

「でもって女の方は、今日からしばらく月のもんが止まる。実際には遅れるだけなんだが、そいつを妊娠の兆候と勘違いした

女は、喧嘩別れした男…、ああ、これから別れる事になるんだったな…、つまりあの野郎にけんか腰で堕胎費用を請求する。

が、妊娠してなかった事が判って赤っ恥をかく事になる」

「なんだか陰湿ですね…」

顔を顰めたカドワキに、ムンカルは顔を顰めつつ心外そうに応じる。

「おいおい、軽くしてやったんだぜ?本来なら野郎は不正が発覚して社会的に抹消。女は乳ガン発症って結末が待ってた所だ」

「重っ!」

「だろう?まぁ、発券機を押し潰すお前の体重よりは軽いがな」

「ひどっ!…結構根に持ちますねムンカルさん…」

「がははははっ!さぁて、ようやくノルマも片付いた事だ。そろそろ行くか!」

カドワキの抗議を無視して豪快に笑うと、ムンカルはバイクのエンジンを吹かし、ビルを垂直に駆け上った。

「これから飯を食いに行く。せっかくだから一緒に来ねぇか?」

「え?」

首を巡らせたムンカルは、カドワキにニカッと笑いかけた。

「安心しろ。手伝って貰った礼も兼ねて、俺の奢りだ」

カドワキはムンカルに笑みを返し、頷く。

「それじゃあ、お言葉に甘えて…。何を食べに行くんですか?」

「もちろんお好み焼きだ。…あ、もしかして嫌か?」

ムンカルの問いに、カドワキは笑いながら首を横に振った。

「いいえ、悪くないです」

走り出したバイクの後ろで、ムンカルの胴に腕を回してしがみつきながら、カドワキはふと考える。

今日ほど慌てたり笑ったり声を上げたりしたのは、いつ以来だっただろうか?と…。

二人を乗せたバイクは、夜闇をヘッドライトで切り裂きながら、誰にも認識される事無く、ビルからビルへと飛び移り、姿

を消した。



目覚めると、住み慣れたアパートのベッドの上に居た。

(…あれ?)

中年太りした体をおっくうそうに起こしたカドワキは、しばらくぼーっとした後、

「夢だったのか…」

と、ぼそりと呟いた。

(まぁ、当たり前だよな…。あんな奇妙な事…、現実にある訳が…)

身につけている服は、昨日出かけた時のまま。そこからネクタイを外しただけの姿だった。

どうやって帰り着いたのかも、ベッドに入ったのかも記憶に無かったが、疲れていたのだろうと自分を納得させる。

頭を振ってベッドから降りたカドワキは、苦笑しながらリビングに向かい、そこでチャイムの音を耳にする。

考えてみればしばらく鳴っていたのかもしれない。ベッドの上でも微かに聞こえていたような気がした。

(郵便かな?)

会社を首になってから、客が来る事は滅多にない。

セールスか郵便配達と判断したカドワキは、サンダルをつっかけて玄関に出た。

「はい!今開けま〜す!」

これ以上待たせては悪いと思い、不用心にも魚眼レンズも確認せず、カドワキはドアを押し開け、

「…へ…?」

ドアノブに手をかけたまま、細い目を丸くして硬直した。

真っ黒い革のライダースーツを着込んだ、長身の男。

その後ろ、アパートの二階、手すりのついた通路には、オフロードバイクがスタンドで立ち、アイドリングしている。

カドワキは丸くした目で、男をまじまじと見つめた。

青灰色の毛に覆われた、狼の顔…。

黒革のライダースーツを身につけた、狼の頭部を持つ奇怪な男が、玄関の前に立ち、じっとカドワキを見つめていた。

青みがかった灰色の目にカドワキの顔を映し、狼男は小さく頷く。

「どうやら本当に、君には我々の本来の姿が見えているらしいな…」

カドワキは何度も大きく瞬きした後、おずおずと尋ねる。

「あ、あの…。もしかして…。あ、貴方は、ムンカルさんのお知り合いで…?」

「いかにも。ナキールと言う」

狼男は小さく頷き、そう名乗った。

あれは夢ではなかった。おまけに何かまた奇妙な男が現れた。

混乱しそうになる頭を整理しているカドワキを前に、ナキールと名乗った狼男は、体の横に垂らしていた右手を上げた。

その時になって初めて、カドワキはナキールが拳銃を握っていた事に気付く。

西部劇のガンマンが持つような、古めかしく、シャープなリボルバーを。

「本来ならば、面と向かって断りを入れるような事はしないのだが…。見えているのなら、一応一言添えるべきかと思ってね」

ナキールはそう呟きながら、カドワキのむっちりした腹に銃口を押し付けた。

柔らかい肉を押し込み、自分の腹に軽く沈み込んだ銃口を、カドワキは逃げる事すら思いつかないまま、呆然と見下ろす。

「報いを届けに来た」

ナキールの宣告と同時に、普通の人間には聞こえない銃声が鳴り響いた。

押し付けられた銃口はすぐに離され、カドワキは反射的に腹を押さえる。

痛みはない。だが、発射の際に銃が震えた衝撃だけが、ジンジンと腹に残っていた。

「わ…私は…」

カドワキは腹を押さえたまま、呻くように呟いた。

「私は、何をしてしまったんでしょうか…?」

ナキールはリボルバーをクルクルと回し、腰につけたホルスターに収めると、呆然としているカドワキの顔を見ながら口を

開く。

「君は昨日、横断歩道で老女の手を引いて、道を渡らせたな?」

視線を上げて自分を見返すカドワキに、ナキールは淡々と続けた。

「行動には結果が、つまり報いが発生する。君はこれから、老女の手を引いたという行為に対する報いを受ける事になる」

カドワキは青ざめた顔をし、掠れ声でナキールに問い掛けた。

「ま、まさか…。私が道を渡らせたせいで、あのおばあさんに何かあったんですか!?」

自分が受けるという報いの事より、カドワキにはそれが気になった。

それを察したのか、ナキールは不思議そうに青灰色の目を細める。

「…ムンカルの言うとおり、君は少し変わっている…。近頃では珍しいタイプだ」

そう呟くと、ナキールは口の端を微かに吊り上げた。

「君が手を引いて歩道を渡らせたおかげで、自転車と接触して骨折するはずだったあの老女は、バスに乗り遅れずに済み、孫

の誕生パーティーに遅刻せずに済んだのだ」

精悍な狼の顔に微笑を浮かべたナキールは、くるりと身を翻すと、

「安心したまえ。君が受けるのは、その善行に対する報いだ」

そう言ってカドワキへと、肩越しに軽く手を上げて見せた。

「本来はムンカルの仕事だったのだが…、どうやら直接礼をするのは照れ臭いらしくてね」

「え…?礼…?」

聞き返すカドワキには答えず、青灰色の狼はバイクに跨る。

「では、自分はこれで失礼させて貰う。今日もノルマが厳しいのでね…。君もそろそろ職業安定所に行く時間ではないのかな?」

そう淡々とした口調で告げると、ナキールはカドワキに視線を戻す事無く、バイクを発進させた。

オフロードバイクをウイリーさせて前輪を手すりに乗せると、そのまま軽々と乗り越え、ナキールはアパート前の道路へと

降りる。

狼男が跨ったバイクは、エンジンの咆吼を響かせながら、あっという間に道の向こうへと消えていった。

カドワキは呆然とそれを見送った後、我に返って部屋に引っ込んだ。職安へ出かける準備をするために。



その日、採用面接十六連敗中のカドワキは、やっと新しい就職先を紹介して貰えた。

それはかなりの規模を誇る文具メーカーで、同業界に居た彼は少々尻込みしていた。

面接に赴いた会社で、偶然にも昨日手を引いた老婆と顔を合わせ、カドワキはその老婆が、この会社の社長の母親である事

を知った。

その事で心証を良くした社長に大いに気に入られ、異例の好待遇で社に迎え入れられたカドワキは、以前務めていた会社で

培った知識と手腕を買われ、さっそく新しいプロジェクトに加わる事になった。

そして、カドワキにとってはあっという間に一週間が過ぎる。



通い始めたばかりでまだ不慣れな、新しい通勤路の途中で、カドワキはピタリと足を止めた。

人の行き交う歩道の端に、見覚えのある大型バイクと、二度と忘れそうにない特徴的な巨漢の姿を見つけて。

「ムンカルさん!」

自販機脇の箱に、中身を飲み終えたばかりの緑茶のペットボトルを押し込んでいた虎男は、「ん?」と顔を上げ、カドワキ

を見遣った。

「よう!こないだは世話になったな!」

ニカッと笑みを浮かべて手を上げたムンカルに歩み寄り、カドワキも笑みを返す。

行き交う人々はムンカルの異様な風体に気付く事もなく、しかしぶつからないように迂回して歩いてゆく。

男が立っている事は判っても、その男が人間で無い事は判らぬまま。

「その様子だと、どうやら上手くいってるみてぇだな?」

ムンカルの言葉に、カドワキは嬉しそうに頷いた。

「ええ。忙しいですが、充実しています」

カドワキが今どうしているのか、ムンカルは知っている。

老婆の手を引くというささやかな善行への報い。それに、仕事を手伝わせた埋め合わせとして少しばかり色を付けたのは、

他でもない彼自身だったのだから。

だが、その事をあえてカドワキに伝えるつもりは、彼には無い。

「そう言えば、あの次の日にナキールというひとが…」

自分の元を訪ねてきた狼男の事を話そうとしたカドワキは、

「…ん…?」

訝しげな声を漏らして、顔を顰めながら目を細めた。

これだけ特徴的な巨漢の姿を、ふと、行き交う人々の中に見失いそうになる。

盛んに目を擦るカドワキに、ムンカルは目を細めて笑いかけた。

「どうやら、無事に境界のそっちへ引き返せてたらしいな?もうじき俺達を認識できなくなるだろう」

先日までのカドワキは、自覚しないままに未来を放棄していた。

死に急ぐでもなく、死にたいと思うでもなく、ただ静かに、漠然と人生を放棄していた。

手すりが外れ、デパートの屋上から投げ出され、目の前に突然の死を突き付けられても、抵抗無くそれを受け入れてしまう

状態にあった。

端的に表現するならば、ある意味カドワキの心は生きていなかった。

望みも夢も無く、未来を描かず、惰性で生活を続けるのみの、歩むことを放棄した精神状態…。

その状態で死に触れ、生を諦めた事が、「挟間」に囚われ、ムンカルの姿を正しく認識できていた原因であった。

悪い行いには悪い報いが、良い行いには良い報いが訪れる…。

そんな事を知り、希望という道標を得て、歩む道を見据え続ける意志を取り戻したカドワキには、もはやムンカルの姿を認

識し続ける事は難しい。

「どうだ?まだ捨てたもんじゃねぇだろ、世の中ってのもよ」

「そう…ですね…」

ニッと笑ってそう言ったムンカルに、カドワキは微笑み返す。

「だって、悪くならないよう、ああやってムンカルさん達が頑張ってくれているんですからね」

「がはははは!よせやい!俺達がやってんのは、あくまでも因果の流れのサポートだ。悪ぃ因果を引き寄せるのも、良い因果

を引き付けるのも、全部、お前達一人一人の行動なんだぜ?」

ムンカルは照れたような苦笑いを見せると、カドワキに片手を上げて見せた。

「じゃあな!あばよカドワキ、元気でな!」

その言葉を最後にムンカルの姿と、その傍らに停めてあったバイクは、カドワキには見えなくなった。

消えた訳ではない。あれだけ特徴的だったにも関わらず、虎男の姿は人混みに紛れ込んで、周囲の誰とも見分けが付かず、

誰がムンカルであるのかが判らなくなってしまった。

「ムンカルさん!?」

声を上げたカドワキを、何人かが足を止め、何人かは足も止めずに訝しげに見遣ったが、その中にムンカルは居ないような

気がした。

カドワキは雑踏の中で立ちつくし、虎男の姿を求めて視線を彷徨わせる。

その耳に、獣が唸るような、バイクのエンジン音が届いた。

彼がはっと視線を巡らせた時には、姿の見えないバイクの咆吼と、別れの挨拶に鳴らされた軽いクラクションは、遙か上空

へと駆け上っていた。

交差点を囲むビルの間に見える、十字の青い空へと…。