第二十一話 「清掃人はスチールグレー」

ハイエナの視界から、狼男の姿が完全に消えた。

清掃開始宣言と同時に急激に薄れ、向こう側が透けるほど希薄になったナキール…、いまやかつての力を取り戻したスィフ

ィルは、空気に溶け込むようにして消えた。

目の前で消えたそれが残像だという事に一瞬遅れて気付いたハールートは、大慌てで懐に手を突っ込みつつ、全感覚をフル

稼働させる。

かつて19名のザバーニーヤを率いていた獄卒筆頭の動きは、集中していない状態の肉眼では捉えられなかった。

アンヴェイルできない以上、肉体に施された出力制御から逃れられないハイエナと、アンヴェイルをおこなったスィフィル

との間には、どう足掻いても埋めようのない格の差が生じている。

懐からM92Fを引き抜いたハールートは、「ぐっ…」という呻きを背中に聞き、弾かれたように振り返る。

命令を実行し終えて弛んだ強制力と、本人の抵抗意思のせめぎあいが拮抗し、棒立ちになっていたバザールが、灰色の狼と

向き合っていた。

スィフィルの手にした草刈り鎌は、彼女のたっぷりとした顎の下に潜り込み、切っ先を喉に突き刺している。

バザールの喉に鎌の先を突き立てた狼は、眉一つ動かす事無く、そのまま勢い良く真下へ腕を振り下ろした。

ズバッと、音を立てて駆けた鎌の刃が、バザールの胸の谷間を通り、ぽっこりと張った腹を通過し、股下へと抜ける。

どういう訳か、刃の軌道から見て明らかに切り裂かれたはずのバザールの体とライダースーツには、傷一つついていなかっ

た。

棒立ちのまま立ち尽くすバザールの体、草刈鎌の刃がなぞったその線、ライダースーツのジッパーに沿って、緑色の液体が

滲み出す。

まるで、指などの切り傷から血が滲むようにして、ふつふつと球を作った粘性の強い緑の液体は、やがて堰を切ったように

ブワッと噴き出した。

噴出に押されるように仰け反ったバザールの体から、体のどこに収まっていたのか不思議に思えるほど大量の液体が迸り、

青い衣装に身を包んだスィフィルの体に降りかかる。

「な、何だ…?何が…」

呆然としているハールートの呟きに、緑の噴水を全身に浴びながら、スィフィルが応じた。

「自我を持たぬスパイウェアそのものには悪意が存在せぬ。だが、悪用された経緯により削ぎ落とすべき咎は発生しておった。

おかげで、ザバーニーヤたる自分も、この通り干渉する事ができる」

ゆっくりと振り向いたスィフィルの目が、ハールートを静かに見据えた。

あまりにも静謐な光を湛えるその瞳に、ハイエナは気圧されたように首を引き、僅かに仰け反る。

「完全に削ぎ落とせば、彼女の存在維持にすら支障をきたすのであろう?とりあえず行動を束縛できぬよう、スパイウェアは

適度に損傷させたが…、半端な清掃に留めねばならぬというのも、これがなかなかすっきりせぬ物よ。…ふむ?そうか、これ

が「歯痒い」という感覚なのかもしれぬな…」

スィフィルは何事かを理解したように、納得顔で頷く。

その、どこか緊張感に欠けた様子が、ハールートの中の何かを刺激した。

「…すな…」

顔を俯けたハールートは、小刻みに肩を震わせて呟く。

「…下すな…。見下すな…。見下すな…!見下すな!見下すな見下すな見下すな見下すな俺を見下すなぁああああっ!」

顔を上げるなり、絶叫しながら銃を乱射し始めるハールート。

バザールの前に立つスィフィルは、抜け殻のように立ち尽くしている彼女を護るようにして身構えると、眼にも止まらぬ速

度で両手の鎌を振るい、飛来する圧縮データ弾を残らず、正確に斬り飛ばし、断ち割り、叩き落とす。

冷静さを完全に欠いたハールートは、弾丸が届いていない事にも気付かず、ただ銃を撃ち続ける。

全く動じず、緊張も見せず、自分を無視して脇を抜け、バザールに処置を施したスィフィルの様子と行動を目にし、ハール

ートは彼に見下されていると感じた。

優位に立ちたい。下に見られたくない。自己顕示欲と支配欲が強過ぎた事が、彼が堕人となった遠因である。

職務に熱心ではなく、それ故に成果も上がらず、ミスも多く、しかしそれが原因で優遇されない己の境遇を嘆くばかりで、

態度を改善する意欲は無く、あげくに同僚からの注意に腹を立て、不満を募らせて行った彼は、積もりに積もった不満が我慢

の限界を超え、今回の事件を引き起こした。

自分に同情的だったマールートを味方に抱き込み、秘匿されていた技術を彼に奪取させたハイエナは、しかし気付いてはい

なかった。

今回の離反騒動の中でも、騒ぐばかりで他力本願。計画の立案も実行もマールート任せで、自身の力を全く使っていない事

には。

引き金は引くが後は周囲に任せる。その性根こそが彼自身を追い込んだ事など、ハイエナは理解していない。

それはまるっきり、彼自身が嫌悪して止まなかった脆弱で身勝手な存在、「人間」が持ち得る一面と同じである事にもまた、

気付いてはいない。

一部の人間の生き方に何処か共感を覚え、同じ事をしようと試みたという事など、プライドの高い彼には判らない。

見下されるのが嫌だった彼が、見下している人間の影響を受けている事など、気付いた所で認めるはずもないのだが…。

そのどこまでも人間らしい思考を、対峙するスィフィルは、理解できるまでに至ってはいない。

スィフィル=ナキールとハールートでは、その辺りが違っている。

人間を不快に思いながらも、その影響を受けてしまったハールート。

地上に出て以来人間を知ろうとし続けながら、未だに細やかな心情にはなかなか気を回せないスィフィル。

さらに決定的な違いは、スィフィルが職務を行う内に人間というものに対して興味を持つようになり、今では少なからず好

感を抱いている事。

口には出さない。それどころか、自分でもはっきりとは認識していないが、スィフィルは人間が好きであった。

ミカールに口煩く言われている事もあり、決して過度な肩入れこそしない物の、人間の持つ醜い一面に囚われる事無く、美

しい面だけに囚われる事無く、全体像を捉え、それでもなお人間に、世界に、絶望していない。

「捨てたものではない」

表現が下手なスィフィルなりの感想で述べるならば、人間とはそういうものとして彼の目に映るらしい。

弾を撃ち尽くしてもなお引き金を何度も何度も、しつこいほど繰り返し引いた後、ハールートは左手を握り込み、弾丸の精

製にかかる。

スィフィルはやや腰を落として前傾姿勢になり、無数の弾丸を切り落としながら、刃こぼれ一つ付いていない二本の草刈鎌

を、しっかりと握り締めた。

除幕された魂の強過ぎる拍動に、肉の体が耐え切れなくなるまで、そう猶予は残っていない。

このチャンスを逃さず、スィフィルは背後で立ち尽くしているバザールへの射線を封じたまま、ハイエナに接近する。

策も絡め手も一切無い馬鹿正直な突進であったが、無防備なバザールを守る為には、自らを射線に曝し、弾丸を防ぎつつ正

面から近付くのが手っ取り早かったのである。

タイミングは微妙。しかし撃たれた所で払い落とすのみ。

僅かにも躊躇せず前に出たスィフィルの背後で、同時に動いたものがあった。

振り向かずに疾走するスィフィルの後方に立つバザールは、その銃を前方へ真っ直ぐ向ける。

装填を終えようとしていたハールートは、予想外の事態を好機と受け取った。

(ついてる!スパイウェアはまだ活きてるのか!)

スィフィルが背後から撃たれる事を期待したハールートは、しかしバザールの目が明確な意思の光を宿している事に気付き、

顔を強張らせた。

「…お返し…、ですよぅっ…!」

銃声とともに飛び出した弾丸は、スィフィルの顔の左脇を通過し、正確にハールートの銃に命中した。

「うっ…!?」

満身創痍のバザールが放った、対配達人用ウィルス弾は、しかし銃に当たっては効果を発揮しない。

それでも着弾の衝撃は、反射的に筋力を増加させ、何とか弾かれずに堪えたハールートの右腕から、一時的に自由を奪う。

それは、ほんの一瞬のロス。しかし彼にとっては致命的なロスであった。

弱り切っていた桃色の豚は、引き金を絞ると同時に発射の反動で後方へたたらを踏み、尻餅をついたが、してやったりとば

かりに口元を歪めてニィッと笑う。

彼女がハールートに届けた僅かな停滞。その間にスチールグレーの清掃人は、刈り取るべき咎の眼前に達していた。

「程にも頃にも良き合いの手よ。感謝致します。バザール嬢」

呟きながら身を捻っているスィフィルの鎌を握る左手は、右肩の後ろ側まで大きく引かれ、左腕が顔の下半分を隠している。

手を伸ばせば届くその至近距離で相手の瞳を目にし、ハールートは総毛立った。

咎を持つ存在にとって、清掃人の得物は劇薬に等しい効果を発揮する。

それは堕人にとっても同様で、打ち込まれれば魂に甚大な損傷を受け、場合によっては消滅してしまう事もあり得る。

仰け反るように身をかわしたハイエナの鼻先を、鋭い鎌が閃いて通り過ぎる。

喉元を狙う横なぎの初撃をかわしたハールートは、至近距離で銃を構えようとする。

しかし、続いてスィフィルが右手を、手首を捻るようにして素早く返しながら振り上げると、鎌の刃の根本、エッジとグリッ

プの
L字型結合部に銃のバレルを下から引っ掛けられ、射線を斜め上空へ流されてしまう。

ザバーニーヤとしてのスィフィルの動きには、全く無駄がない。

幾度も繰り返し、慣れた作業をおこなっているような素早さと正確さがあった。

さらに、普通の配達人達では視る事のできない物まで見通す彼の優れた視覚は、本来の鋭さを完全に取り戻しており、ハー

ルートの動きをスローモーションで捉えている。

ほんの一瞬で追い詰められてしまったハールートと目を合わせながら、スィフィルは先に真横へ振りぬいていた左手の鎌を、

クルリと回して逆手に持ち替える。

刹那、陽光を跳ね返して閃いた黒い刃が、美しい黒円を手元に描く。

瞬時に舞い戻ってきた左手は、逆手に握ったその鎌を、ハイエナの首、右側面へと埋めていた。

黒い刃に首を真横から貫かれたハールートは、ぐるんと白目をむいてガクガクと痙攣する。

「…清掃完了…」

厳かに呟いたスィフィルが、素早く身を翻して背を向けつつ鎌を抜くと、ハールートの首から左右に、黒い火花がバシュッ

と散る。

支えを失ったハイエナの体は、その場でどしゃっと崩れ落ちた。

仰向けに倒れたハールートを振り返る事無く、スィフィルは胸の前で腕を交差させ、両手を左右下方向へと同時に振るう。

その手の中で、液体の中で角砂糖が溶けて砕けてゆくように、二本の草刈鎌はざらりと輪郭を崩す。

鎌が細かな黒い粒子と化して崩れ、風に溶けて消えると、スィフィルは「…むぅ…?」と呻いて眉をひそめ、視線を落とし

て軽く持ち上げた手を見遣る。

ガガガッと、映像がぶれるようなノイズが彼の周囲に走って空間を乱し、手が小刻みに震え出した。

最古のザバーニーヤ、スィフィルの魂が放つ強すぎる拍動に影響された肉体と周囲の物質、大気や砂粒までが、自壊寸前で

あると悲鳴を上げ始めていた。

「…できれば皆に迷惑をかけず自力帰還したかったのだが…、肉体と周囲がもたぬか…。止むを得ぬ…」

呟いたスィフィルが目を閉じると、額に浮かんでいた黒い「0」の刻印が薄れ、周囲の被毛と同じ灰色になり、溶け込んで

消える。

直後、糸が切れたように跪いたスィフィルの纏う青いつなぎが、ゆっくり一度明滅した。

銅像から古びた塗料が剥がれ落ちるようにして、つなぎから青がパラパラと剥離する。

厚みをもたない色だけが剥がれ落ち、黒色のライダースーツがその下から姿を現す中、分離した青は地に落ち、あるいは風

に撫でられ、細かな粒子となって散り、空気に溶けるようにして消えてゆく。

平常時の姿に戻り、跪いたまま目を開けたナキールは、しばらくじっと動かずにいた後、ぽつりと零した。

「…ふむ。やはり動けないようだ。困ったな…」

呟いた狼男はいつも通りに表情が乏しく、一見すると困った様子でもないが、こう見えて実は少々困っていた。

目だけ動かして視線を向けると、彼から少し離れた所では、尻餅をついて座り込んでいるバザールが、決まり悪そうな、申

し訳無さそうな、そして恥かしそうな顔で、耳をペタリと寝せながら自分を見つめている。

(やれやれ…。堕人はもう一人居るはずだが…、こちらはひとまず決着か…)

軽く安堵するナキールは、居心地悪そうなバザールと視線を交わしたまま、珍しい事に小さくため息をつく。

お互いに動けない状態である事を確認し合い、無言で視線を交わらせている二人の間を、さして強くも無い乾いた風が、紐

のような細い枯れ草と細やかな砂塵を弄びながら吹き過ぎて行った。



「この状態やと、転送装置に入れるのは危険やで?アレ結構負担掛かるさかい。今は下手に動かさんで、ここである程度修復

したる方がええやろな」

ベッドの上で目を閉じているバザールを見下ろしながら、ミカールは額を手の甲で拭う。

スパイウェアを半壊に留め、存在維持機能を一部残すというナキールの機転により、危うい所で消滅を免れたバザールだっ

たが、損傷その物はかなり酷いレベルであった。

応急処置だけでもかなりの力を消費した獅子は、顔に疲れを滲ませている。

「こっちもかなりのダメージだね。配達人としての機能はズタズタだ。まぁ、ナキールの場合は根っこが違うから消滅の危険

はないけれど…」

バザールの隣のベッドに横たえられたナキールの、剥き出しにした胸に手を当てている北極熊は、目を開けている同僚に語

りかける。

「休んでいて良いよナキール?少しかかりそうだ」

「いや、自分も話を聞いておきたいので、スリープモードに入るのはもう少し後にしたい」

体は動かない物の、意識の方ははっきりしている狼男は、医務室に居る五人目に視線を向けた。

「彼らが用いていた対配達人用スパイウェアやウィルスの事だが、中枢が秘匿していた物を持ち出して使用したと、彼は言っ

ていた。真偽の程を聞きたいのだが…」

狼男に見つめられると、壁際に下がっていたドビエルは顎を引いて頷いた。

「全てお伝えしましょう。伏せていたそれらの技術の存在や、開発の経緯について…」



「…という性質の物が、今回使用されたスパイウェアです。元は更正の見込めない堕人に使用し、配達人として現場復帰を果

たさせる為に考案された物でしたが、結局この技術は危険過ぎると判断され、永久凍結処分となりました。マールの話では、

技術開発室に不正アクセスした際に存在を知り、残されていた開発途中の断片的なデータから、不完全ながら理論を再構築し

たようですが…」

「な…、何で黙っとったんや?配達人すら支配できるスパイウェアなんかができとる事…」

話の一部始終を黙って聞いていたミカールは、事情を知ると眉を吊り上げ、ドビエルに詰め寄った。

「もっと早くに知っとったら、怪しんで警戒するぐらいの事はできたんやで?性質や組み方なんかはともかく、「在る」ゆう

事だけでも教えられとったら…」

「いや…、これはちょっと公表できないよミカール」

応じたのはドビエルではなく、横から口を挟んだジブリールであった。

「配達人に効果を発揮するスパイウェアがあるなんて事が知れ渡ったら、その技術を得ようとする堕人も現れるし、配達人同

士もちょっとした事で疑心暗鬼に駆られかねない。ミカールとナキールが二人揃って看破できない程の物なんだから、現時点

でのあらゆるスキャンプログラムも役に立たないはず…。伏せておくのが妥当だよ」

北極熊は一度言葉を切ると、小さくため息をついた。

「ただし、外部に流出しないという条件がついての話だけれどね。実際に使用されなければ存在しないのとほぼ同義だけれど、

情報が伏せられた状態で使われてしまっては、オレ達現場は後手に回るだけだ」

「それについては一言もありません…」

ドビエルは神妙な面持ちでジブリールに頭を下げると、ミカールの顔を見下ろした。

「公表しなかった経緯については、開発室と管制室との合同会議において、今ジブリールが言ってくれた通りの結論に至った

からです」

「公にできん、か…。言われてみれば確かにそやけどな…」

釈然としない様子ながらも、ミカールはしぶしぶ頷く。

「それで、彼らはこの後…?」

ベッドの上のナキールに問われると、ドビエルは腕組みをして何やら思案するような表情になる。

「彼ら次第…。いいえ、ハール次第ですが…」



拘束服を着せられ、飛行艇内の格納庫に転がされていたハールートは、首の疼きに顔を顰めて呻く。

その傍らには、同じく拘束服を着せられ、壁に背を預けて座っているマールートの姿。

咎削ぎの黒鎌によって首を貫かれたハールートだったが、元々処分を中枢に委ねるつもりだったスィフィル=ナキールは、

彼を破壊するまでの力は振るわなかったため、機能を強制停止させられただけで済んだ。

マールートの方もまた、敗北を確信しながらもなおドビエルに徹底抗戦した末、力尽きて捕らえられている。

痛む首を押さえる事もできず、苛立たしげにもぞっと身を捻ったハイエナは、相棒のワニに視線を向けた。

「…ヘマやらかしちまったな…」

「仕方あるまい。相手が「絶対矛盾」と「最古の清掃人」では、出会った時点で逃れようもなかった…」

「「最古の清掃人」?」

オウム返しに聞き返した相棒に、ワニは顎を引いて頷く。

「お前が意識を取り戻す前に、管理人から聞かされたのだが…。あの灰色狼、元ザバーニーヤのナンバーゼロ…、スィフィル

だそうだ」

それを聞いたハールートは、顔を顰めて舌打ちをし、

「反則だ…。額の黒い輪、あれ「0」のマークだったのかよ…」

と、苦々しく呟いた。

「ザバーニーヤが一人減って19人になった事は知っていたが、抜けたナンバーゼロが配達人になっているなんて思ってもみ

なかった…。おまけに、何だよこのフネ?ミカールにジブリール…。オーバースペックが揃い踏みだぜ…」

「狙ったフネが悪かった…、という事だな。どのチームのベースなのか、実行前に確認すべきだった」

「焦っていたんだろうな…。見つけただけでも運が良いと思って…。軽率だった…」

ハールートはため息をつくと、格納庫に並ぶドアの一つに視線を向けた。

ドアが向こう側から押し開けられ、圧倒的なボリュームを誇る灰色の巨躯が姿を現す。

コツリと、硬質の足音を立てて鉄の床を踏み締めたのは、トレンチコートを纏った灰色熊であった。

ドビエルは二人の前まで足を進めると、最初にワニを、次いでハイエナを見下ろした。

「貴方達はこれより中枢へ転送され、近いうちに審問会にかけられます。罪状は…説明しなくとも判りますね?」

「…ああ…」

苦々しい顔で頷いたハイエナの目には、ドビエルへの、見下ろす者への嫌悪が滲んでいた。

「最終確認です。ハール、貴方が今回の反逆行為に及んだのは、配達人として人間の監視をするのが嫌になったから…、そし

て、他の同僚から軽んじられている事が我慢できなかったから…、以上で間違いありませんね?」

ドビエルの言葉に、ハールートは黙って頷く。

彼が反抗を企てた理由は、少し前に聞いたミカールが激怒していたほどに、身勝手極まりないものであった。

「判りました。…もう少し話をお聞きしたいのですが、構いませんか?」

ハイエナは面倒臭そうにそっぽを向き、答えなかったが、ドビエルは構わず続けた。

「マールが反逆行為に及んだ理由は貴方とは異なるのですが、これはご存知でしたか?」

「…あん?」

「管理人!」

胡乱げに灰色熊に目を向けるハイエナと、慌てた様子で口を開いて身を乗り出すワニ。

「マールの理由は、「貴方を一人にしたくないから」というものです」

ドビエルの言葉を耳にしたハールートはきょとんとした顔になり、マールートは苦虫を噛み潰したような表情で「ぐぅ…!」

と呻く。

「マールは以前から、常々軽んじられている貴方の味方をして来ました。聞けば、貴方に原因があるとはいえ、職場環境は良

好とは言えなかったようですね」

ドビエルはハイエナの顔を見下ろしながら、感情を交えず淡々と言葉を紡ぐ。

「貴方が反逆を試みるにあたり、マールに声をかけたのは、彼だけは味方だと思っていたから…、違いますか?」

問いではなく、確認としてそう言ったドビエルから視線を外したハールートは、黙り込んでいる傍らの相棒に目を向けた。

「時に貴方の不手際をフォローし、慰めていた彼が、犯行に至っては一蓮托生となって協力したのは、ひとえに、貴方への情

があったからです」

マールートは観念したように顔を俯け、口と目を固く閉じている。

その横顔を眺めるハールートは、呆けたように口をポカンとあけ、目を丸くしていた。

「マールには犯行に加担するだけの理由はありませんでした。貴方が彼も自分同様に、皆から虐げられていると感じていたの

は、勝手な思い込みに過ぎません。貴方を庇うが故に、他のメンバーから距離を置かれてしまっただけでしょう」

ドビエルは言葉を切ると、その場で屈み込み、ハールートの顔を覗き込んだ。

「如何ですか?自分のせいで周囲から浮いてしまった同僚を、勝手な思い込みで犯行に巻き込み、破滅させたご感想は?」

ドビエルの低い声には感情の一かけらも浮かんではおらず、非常に硬質で、この上なく冷ややかに響いた。

「う…、ううぅ…!」

ハイエナは顔を引き攣らせ、喉の奥から呻き声を上げる。

「マールが犯行に加担したのは、彼にとっては他の同僚よりも貴方一人の方が大事だったからです。貴方はマールの好意を勘

違いして捉え、自分の同類だと思い込んで、巻き込んだのですよ」

「う…、ぐ…!ぐうぅ…!」

畳み掛けたドビエルは、苦しげな呻きを漏らすハールートの、驚愕と悔恨に彩られた表情を確認すると、静かに目を閉じた。

「…貴方もまた、マールの事だけは大事に思っているのですね…」

ドビエルがどうしても確かめておきたかった事。それは、マールートの真意と気付いていなかった事実を知ったハールート

が、彼を巻き込んだ事を悔やむかどうかという事であった。

はっきりと確認したドビエルは、のっそりと身を起こし、立ち上がってハイエナを見下ろす。

「貴方がマールに向ける心情、それが他者へも向けられていたなら、おそらく今回の件は起こりませんでした…。最後に一つ。

力尽きるまで抵抗した後、捕縛されたマールが最初に何と言ったか、判りますか?」

「管理人!それは!」

押し黙っていたマールートが大声を上げ、ハールートは彼の顔を一度見た後、ドビエルを見上げる。

悔恨に彩られた顔を見せるハイエナに、灰色熊は告げた。

「「自分が全て計画した。あいつは自分が巻き込んだだけだ」。…貴方の親友は、そう言って貴方の命乞いをしました」

驚愕の表情を浮かべたハイエナの、大きく見開かれた目から、大粒の涙がポロリと落ちた。

声も無く、茫然自失の体ではらはらと涙を流すハイエナの隣で、ワニは思い切り顔を顰めながら口を開く。

「管理人…!この事は…、彼には決して言わないと約束したではないですか…!」

「困った事に、わたくしは時々約束を破りますので」

マールートの責めるような視線を受けると、ドビエルはふいっと目を天井に向けつつ、とぼけた調子でそう応じた。

「確認したかった事は済みました。転送準備が整うまで、しばらく待機していてください」

踵を返して背を向けたドビエルは、ハールとマールをその場に残し、ドアの一つに向かって歩き出した。



ズビィッ!とはなを啜る音が食堂に響きわたり、テーブルについていた黒豹は顔を顰めた。

緊急事態につき、配達期限が近付いているものだけを優先的に配達した後、呼集に応じて飛行艇へ帰還したムンカルとアズ

ライルは、食堂で待機させられている。

「…良いモンだな…、親友ってのは…」

直前まで覗いていた、僅かに開けたドアに背を向け、壁の方を向いて目の辺りをグシグシと腕で擦っているムンカルの後頭

部に、アズライルが放り投げたティッシュボックスが命中する。

「はなを啜るな、汚らしい…」

「お、おう…、悪ぃ…」

不快げに言ったアズライルに謝りつつ、足元に落ちたティッシュボックスを拾い上げたムンカルは、大量に抜き出したティッ

シュではなをかんだ。

豪快に響き渡ったズビィイイイイイッ!という音に顔を顰めたアズライルは、尻尾をンビンッと棒のように立て、耳を伏せ

て両手で押さえる。

「盗み聞きとは感心しませんね?ムンカル君」

先ほどから覗かれていた事を承知していたドビエルは、ドアを押し開けて食堂に踏み入るなり、微かな苦笑いを浮かべて教

え子の背を見遣った。

「あ!いや、こりゃあ…!」

ティッシュを丸めて背後に隠し、後ろ手にスナップのみではるか遠くのくずかごへ放り込んだムンカルは、「お見事」と、

妙技に感心しているドビエルに、「どうも…」と、やや引き攣った笑みを浮かべて見せた。

「で…、あいつら、どうなるんだ先生?」

表情を改めて訊ねたムンカルに、ドビエルは小さくかぶりを振って応じる。

「さて、どうなる事か…。わたくしが決められる事ではありませんので…」

最高位に君臨する存在とはいえ、独裁者とは訳が違う。

公正かつ厳粛な審問会において、ドビエルの意思はあくまでも一意見としての重みしか持たない。

「しかしそれでも…、擁護意見を提示してみようと思ってはおります。微力ですがね」

罪状を鑑みれば、厳しい量刑を背負わされる事は免れない。だが、幾分かは酌量される可能性もある。

(失われたものは戻りません。彼らの行為は取り返しのつかない結果を残しましたが…、やり直せる可能性があるのならば…)

裁きとしては消滅せしめるのが妥当ではあるのだが、ドビエルは不当にならない程度に二人を弁護するつもりになっていた。

ハールではなく、情にほだされて過ちを犯したマールの為に。

「優しいな、先生はよ」

ムンカルにそう言われると、灰色熊は軽く目を閉じ、首を左右に振る。

「優しいのとは違います。甘過ぎるのです」

配達人を三名も消滅させた二人に、それでもなお慈悲を与えようとする自分を、ドビエルはそう断じた。

「ところで管理室長、一つ伺いたいのですが」

「はい、何でしょうか?」

首を巡らせたドビエルに、アズライルは少しばかり不思議そうに目を細めて訊ねる。

「何故ムンカルや私…、それどころか堕人にまで敬語をお使いになるのですか?」

ドビエルは一瞬の間を開け、困ったように眉を八の字にした。

「それはですね…、地で喋ると、相手によっては引かれたり、聞き取り辛いと言われるからでして…」

「引かれる?」

首を傾げたアズライルに、ドビエルは困り顔で応じる。

「地はこぎゃん口きくとよ。おるが訛りいさぎきつか。がまだして言葉遣い気ぃ遣っとっとよ。どぎゃん?おるが言うこつ何

かわかっかね?」

「…えぇと…。ニュアンスで二割がた…」

神妙な顔で応じた黒豹に、「そうでしょう…?」と、灰色熊はいささか寂しげな表情でため息をついて見せた。

「すげぇぞ?先生が地でミックと喋ってると、喧嘩してんのかって思うぜ?」

ムンカルが真顔でそう言うと、直後にドアが開いてずんぐりした獅子が顰め面を見せる。

「何や何や?今ワシの事話しとったやろ?陰口かムンカル?おう?」

「いいえ、三人で「ミカールのラザニアは世界一だ」と、こっそり誉めていたのですよ」

さらりと誤魔化した灰色熊に、ミカールはまんざらでも無さそうに笑みを向けた。

「判っとるやないけ?よっしゃ!引渡し後はあいつらもお前の手ぇ離れるんやろし、ちょっと時間あるんやろ?ラザニア作っ

たろな!」

(さすが先生…)

ムンカルは感心しながらドビエルの横顔を見遣った。

完全に話題を逸らした誤魔化しがそのままさりげない要望になっており、さらにそれが通ってしまう。

古馴染みという以前に、おそらくはミカールの性格を熟知しているのだろうと感じたムンカルは、ミカールを扱う手本を見

せられたような気分になっていた。

「せや、ナキールの事なんやけどな、動けるようになるまで少々かかりよる。復帰までは代理でワシが出るわ」

キッチンに向かいかけたミカールが足を止めて振り返り、アズライルはキョトンとした顔を、ムンカルはあからさまに驚い

た顔をする。

「出んのか?マジに?何年ぶりだ?大丈夫なのかよミック?」

「ふっふっふ〜!ワシのディオちゃん舐めるんやないで?」

「ディオで出んのかよ!?」

ニヤリと笑う童顔の獅子に、鉄色の虎は呆れ顔で大声を上げた。

配達人が駆るマシンは、確かに常識を無視した走りを見せる。

が、機動力はマシンそのものの性能に大きく左右されるため、スクーターで砂礫の大地を駆け回るのは、やはり不向きと言

わざるを得ない。

「問題無いわ。ずっと空中走るつもりやから」

「そりゃあお前ならできるだろうよ、そういう疲れる真似も…。なら何もディオじゃなくて良いだろう?ってかそもそもディ

オで配達に行く必要ねぇだろうが?予備のバイクがあるじゃねぇか?スポーツスターとかよ」

「ええやろ、乗りたいんや。買うたばっかなんやから。この気持ち、ダメっ子動物には判らへんかなぁ…」

「また言ったな!?またダメっ子って言ったな!?」

ギャイギャイ言い始めた二人を眺めながら、ドビエルは微かな笑みを浮かべる。

ムンカルが配達人となった折、その人間に共感し過ぎる性質を問題視し、堕ちる可能性の高さを指摘する者も多かった。

だが彼を知る一部の者は、決して堕ちはしないと強く主張した。

ムンカルに手ほどきしたドビエルもまた、彼が堕人になる事はないと、今では確信している。

(堕ちようがありません。彼は決して己を見失ったりはしない。彼はどう足掻いても、堕人には…、システムの敵にはなり得

ないでしょう…。この性格ですから)

胸の内で呟いたドビエルは、エスカレートして脱いだスリッパでボフボフアタックを繰り出し始めたミカールと、防戦一方

になっているムンカルの言い合いを仲裁すべく、ゆっくりと二人に近付いた。

旧知であるらしい三人の様子を、テーブルについたまま眺めていたアズライルは、

「………」

相変わらず無言で無表情だが、椅子の脇に垂らされたその尻尾だけは、少しばかり寂しげに揺れていた。