第二十二話 「配達人はレモンイエロー」(前編)
開発が進む区画の傍にありながら、路地が入り組み雑然とした、古い家屋が並ぶ界隈。
目につく限り、街路灯は全く無い。
建ち並ぶ民家の窓から漏れるか細い灯りが寂しげに照らすばかりの、細い薄汚れた路地を、湿り気を帯びた生温い夜風が吹
き抜けてゆく。
いやに密集した、小さいという共通点以外に統一感のない家屋の集団は、肩を寄せ合っている難民を思わせた。
大都市として発展を続ける街と地続きではあるが、目に見えぬ決定的な隔たりが、この区画を別の物にしている。
様々な人種が流入し、低所得者がひしめき合う貧困街。
人種も価値観も言語も、全てが混然と混じり合う界隈。
ディープスラム。
何グループものストリートギャングがひしめき合い、犯罪が日常的に頻発する、すこぶる治安の悪いその区画の事を、ここ
の住人達も、外に住まう人間達も、等しくそう呼んでいる。
そんなディープスラムの、僅かな民家の漏灯と月灯りが照らすだけの寂れた裏路地を、大柄な男が歩いていた。
恐らく二十歳前後と思われる青年は、身長が2メートル近い巨漢である。
背が高いだけでなく、胸は分厚く、腕も足も太く、筋肉の塊のような体付きをしている。
ボディビルダーやアスリートのような、計算されて鍛えられた肉体ではない。
生まれ持っての体型と体質、日々の活動によって自然発達した分に加え、必要性から鍛え込まれた肉体は、それ故に無駄が
ない。
骨格からして頑健な体格はあまりにも大き過ぎ、筋肉は過度に発達しており、一般的な美意識からすれば到底プロポーショ
ンが良いとは言えない。
だが、男の肉体は決して不格好ではなかった。
野生の獣が躍動する姿が人の目を惹き付けるように、機能美とでも呼ぶべき壮観さと、野性的な精悍さとを有している。
肩まで伸びたざんばら髪は黒い。
ろくに手入れもせず、伸ばすに任せた前髪は目にかかり、俯けば両目が髪に隠れてしまう。
さらに特徴的なのは、男の顔に走る傷痕であった。
負った当時は頬骨にまで達していた古い裂傷は、鼻の右脇、右目の下から始まって、頬を斜め上に走り、もみあげの中に消
えている。
肌着として纏う薄いグレーのシャツは、発達した胸の筋肉と腹筋で押されて伸び、男が歩む度に微かなうねりが見て取れた。
洗いざらしの色褪せたジーンズは、太ももや膝が何ヶ所か裂けており、ボロボロのシューズは、切れた靴紐を何度も結び直
して締めている。
ゆるい夜風に掻き回される、路地裏の淀んだ空気を押し退けつつ、大男は前だけを見て歩む。
身なりは悪いが、男からは疲労や倦怠が微塵も感じられない。
頑強な体躯は生命力に満ちあふれ、重量のある体を運ぶ足取りは力強い。
やがて男は足を止め、進路左手側にあるドアに目を遣った。
ひと続きの壁に突如として現れたようにも見える、どこか場違いな印象すらあるその木製ドアは、家屋の裏口である。
この辺りでは民家も無計画に雑然と建てられており、壁と壁がくっついて、継ぎ目が無くなっているケースも多い。
路地の壁のようになっているのは、別々の家屋の壁がひと繋がりになった物であった。
男は足音を忍ばせてドアに近付くと、その前でしばし気配を窺った後、ドアノブに手をかけた。
廃屋の一室には、七名の青少年達が集まっていた。
背もたれが壊れた椅子や、傷だらけのローテーブルなどが集められた、いかにも隠れ家然としたその部屋に大男が踏み入る
と、青年達は一斉に緊張し、者によっては身構える。
「待ってたぜ、デイヴィッド」
スラリと背の高い、それなりに整った容姿の青年が、薄ら笑いを浮かべて大男に話しかけた。
が、声を掛けられた大男は返事をせず、視線すら合わせなかった。
青年達を無視し、首を巡らせて室内を見回した大男は、その中で一際若い、顔にそばかすが目立つ、十代前半の少年に目を
止めた。
椅子に座らされ、後ろ手に縛られている小太りな少年は、この部屋に居る者の中で異彩を放っていた。
茶色いサラサラの髪は綺麗に刈り揃えられ、転んだのか、少し汚れがついているものの、白いワイシャツもサスペンダーで
吊られた半ズボンも高級な生地で仕立てられており、黒い革靴には光沢がある。
身なりの良い小太りな少年は、涙の痕が残るあどけない顔を大男に向けると、泣き腫らした目を大きく見開いた。
「デイブ…!」
「ニコル。怪我は?」
太く、そして低い、良く通る声で短く尋ねた大男に、名を呼ばれたそばかす顔の少年は、首をブンブンと横に振って応じる。
「んん…!へ、平気だよ…!」
デイブと呼ばれた大男は、ニコルの元々ぷっくりしている左頬が真っ赤に腫れ上がっている事に気付き、髪に隠れがちな目
をぎらりと輝かせる。
「…ごめん、ヘマやっちゃって…」
デイブは目を細めて軽く笑い、ニコルに頷きかけた。
もう大丈夫だ。
そう告げるような大男の仕草に、ニコルは項垂れて涙を流し、「ごめんよ…」と繰り返した。
「帰るぞ」
短く言葉を発し、少年に歩み寄ろうとした大男は、しかし行く手を三人に阻まれる。
「まぁ待てよデイヴィッド。伝言はちゃんと聞いて来たか?舎弟を無事に返して欲しかったら、グループに加わると誓って貰
わないとなぁ」
恐らくはリーダー格なのだろう整った顔をした青年が、ニヤニヤと笑いながらデイブに話しかける。
弟同然の古馴染みであるニコルを人質に取られて呼び出され、グループへの所属を迫られている…。それが、現在デイブが
置かれている状況であった。
デイブは室内に入ってから初めて、リーダーである青年と目を合わせた。
「…こんな手で、俺を飼い慣らせると思ったのか…?」
低い、ぼそぼそとしたその声を耳にした青年は、余裕の笑みを浮かべていた顔を、僅かに引き攣らせて凍り付かせた。
自分を見つめるデイブの目に、憤怒の色を見て取ったせいで。
この青年達は、結成から数ヶ月しか経っていない、若いストリートギャンググループである。
それ故に、体も大きく腕っ節も強いデイブを仲間に引き込み、戦力の増強を図ろうと考えた。
だが、その楽観的過ぎる計画は、立てた段階から既に間違いだらけであった事には、メンバーの誰も気付いていない。
デイブは口の両端を上げて、笑みを浮かべた。
その笑みは、先程ニコルに向けた微かな笑みとは、見た目も中身も完全に違っている。
友好の笑みではない。敵意に彩られた獰猛な笑みであった。
前髪に半ば隠れた目は、凶暴な光を湛えて爛々と輝き、丈夫そうな歯が見える程に唇がめくれ上がっている。
猛獣が笑えば、あるいはこういう顔になるかもしれない…。
青年達は、デイブの笑みからそんな印象を受けた。
ディープスラムには、大小問わず上げていけば数えるのも大変な程のストリートギャングが存在する。
バックに「本物」がついているグループも少なくない。
どこのグループにも属していないにも関わらず、喧嘩では負け知らずという腕っ節の強さで知られているデイブは、いくつ
かのグループからメンバーに加われと誘いを受けていた。
同じような境遇になれば、ステータスシンボルとして誇る者も居るであろうその勧誘の数々も、しかしストリートギャング
になるつもりなどさらさらないデイブからすれば、鬱陶しいだけである。
下らない小競り合いには関わりたくなかったし、何度断っても途切れない誘いにも正直うんざりしていた。
が、可愛い身内にまで手を出されては、面倒を嫌うデイブも流石に黙っていられない。
ストリートギャングとして場数を踏んでいる訳でもなく、ただ不良行為の延長として徒党を組んだだけの青年達は、デイブ
の視線がゆっくりと巡らされると、一様に凍り付いた。
凍り付いていた青年の一人がその左頬に拳を受けたのは、デイブが無造作に三歩進んだ直後の事であった。
デイブの獰猛な表情を目にして完全に呑まれてしまっていた青年達は、仲間の一人が歩み寄ったデイブに殴り飛ばされたそ
の瞬間まで、相手を取り囲むどころか、身動きすらできなかった。
強烈な右フックを貰った青年が、キリキリと回りながら床に倒れ込み、勢い余って二回転がると、床を打つ激しい物音で呪
縛を解かれたのか、青年達はようやく動き出した。
動き出したとはいっても、最初は驚愕からの反射的な行動しか取れていない。
デイブの近くに居た二人の内、左側に居た一方は反射的にファイティングポーズを取った。
が、踏み込んだデイブが繰り出した左ストレートは、ガードするように顔の両脇に上げられた青年の腕の間を真っ直ぐに突
き抜け、鼻の下に命中する。
前歯を残らずへし折られ、仰け反りながら後ろへ倒れ込む青年は、痛みを感じる間もなく気絶していた。
もう一方の青年は、反射的に「何をする!?」と叫ぶ為に口を開けていたが、向き直る勢いを乗せ、屈強な上半身の重みを
加えて放ったデイブの左拳が腹に飛び込み、「なおぉっ!」と、質問が言葉になり損なった叫びを残して昏倒する。
敏捷かつ、しなやかにして力強い。まさしくそれは野獣の如き動きであった。
瞬く間に、それぞれ拳の一撃で敵対者を排除したデイブは、両拳で顔の下半分を覆う、ボクシングのガードスタイルにも似
た構えを取っている。
残る四人が曲がりなりにも臨戦態勢と呼べるだけの状態に入れたその時には、デイブは椅子に座ったニコルを背に庇う角度
で、猛然と突進していた。
同時に殴りかかった二人の内、一方の鼻に左のジャブを入れるデイブ。
殴られた青年の拳は、一瞬早く首を傾けていたデイブの顔の脇を抜けていた。
ジャブとはいえ、カウンター気味な上にデイブの拳は硬く、強く、重く、スピードが有り、仰け反った青年は意識を半分飛
ばされている。
もう一方、やや体が大きめなガッチリした青年が放った渾身の右ストレートは、素早く上体を振ったデイブにはかすりもし
ない。
奇妙な事に、青年の拳がその軌道で振るわれる事を予測していたかのように、デイブの動きは一拍前に、正確で無駄のない
回避行動を始めていた。
空振った勢いで体が前に泳いだ青年の腹に、すれ違うようにして前に出たデイブの膝がめり込む。
体がくの字に折れた青年の両足は、床から完全に離れて浮いていた。
強烈な膝蹴りをまともに食らった青年は、しかし不幸にも腹筋をそこそこ鍛えており、意識は飛んでいない。
おかげで、吐瀉物を口から撒き散らしつつ、地獄の苦しみを味わいながらのたうち回るはめになった。
巨体に見合わぬ軽いステップを踏み、リズミカルに床を軋ませながら立ち回るデイブは、残る一人の一方に向かってダッシュ
すると、相手の繰り出した拳に合わせ、自分はギリギリで避けながら、顔面へ見事なクロスカウンターを決める。
かつてのヘビー級チャンプ、ロッキー・マルシアノへの憧れから、見よう見まねで身に付けた不器用なボクシングと、慣れ
親しんだ喧嘩殺法が融合しているデイブの動きは、本人は意識していないながらも、多対一の喧嘩において理にかなったスタ
イルとなっている。
ボクシングのフットワークによる機動性と、デイブ自身が持つ一撃必殺のパワーは、過去においては十対一という極端な劣
勢での喧嘩でも、彼に勝利をもたらしていた。
リーダー格の青年は、この状況まで追い込まれて、なりふり構わずナイフを抜く。
元々デイブを仲間に引き入れるつもりだったので、仲間達にもナイフの使用を禁じていたが、恐怖が彼を突き動かしていた。
刃物をちらつかせれば、デイブが怯むかもしれない。
青年の中のまだ僅かに冷静な部分は、そんな甘い期待も抱いていた。
だが、青年は勧誘する相手の事を、この期に及んでもなお、完全に見誤っている。
いくつかのグループから誘われているデイブが、現在もなお何処のグループにも属していない理由について、青年は全く考
慮していなかった。
青年達のグループよりもずっと大きなストリートギャングですら、デイブを力ずくで引き込む事に成功していない。
そもそも、少し賢ければ力ずくなどという手段は考えもしない。
デイブに喧嘩を売れば、ただでは済まないからである。
逆鱗に触れてしまい、一人残らず完膚無きまでに叩きのめされ、解散に追い込まれたグループもいくつか存在する。
その上、デイブ個人に目を付けている「本物のギャング」も居る。
今夜この室内に居合わせた経験の少ない駆け出しストリートギャング達は、噂に聞くだけだったデイヴィッドという若者の
本質を、全く理解できていなかった。
デイブはギラつく刃にひるみもせず、素手だった他の青年達を相手取った時と同様に、いささかも躊躇わず前に出た。
突進して来るデイブへの怯えから、反射的に突き出された青年の右手は、握ったナイフで空気を刺した。
またしても、デイブは突きが繰り出される一拍前から、まるでその軌道を知っているかのように身を捌いている。
拳もナイフも、突いて来る動きそのものは同じ、避ける難易度もそう変わらないが、しかし難易度はともかく危険度は段違
いであり、ナイフを見れば萎縮するのが当然で、動きが鈍るか、多少なりとも変わるのが普通である。
だが、デイブの動きは先程までと全く変わらない。
この大男は、腕力や技術のみならず、その胆力も常識外れであった。
直後、バギャッと凄まじい音が響き、デイブに顔面を鷲掴みにされた青年は、その後頭部を背後の壁に叩き付けられていた。
青年はだらりと垂らした手からナイフを落とし、壁にずるずると背を擦って崩れ落ちると、糸が切れた人形のようにその場
に転がる。
青年達を完膚無きまでに叩きのめし、可愛い弟分を痛めつけられた憤怒がいくらか晴れたのか、デイブは荒げていた呼吸を
落ち着かせ、さめた目で室内を見回した。
青年達はことごとく床に伏し、意識のある者も再度デイブにつっかかって行けるような状況ではない。
青年達のリーダーは、いざとなればニコルを人質に取れば良いと考えていたが、少年に近い位置に居た三人は瞬く間に叩き
のめされており、奥の手は序盤で潰されてこの結果である。
人数差、一対六。加えて一人がナイフを取り出したにも関わらず、あまりにも一方的な、喧嘩とも呼べないような喧嘩は、
一分と経たずに終わっていた。
容赦なく痛めつけはしているものの、再起不能にならない程度に手心は加えている。
実際、リーダー格の青年の頭を掴んで壁に押し付ける際に、勢い良く叩き付けていれば、デイブの腕力によって脆い壁すら
即死級の凶器になり、頭蓋骨を陥没させている所である。
青年達のリーダーが完全に気を失っている事を再度確認すると、デイブは床に落ちたナイフを拾い上げつつ、足早にニコル
のもとへ歩み寄った。
「帰るぞ、ニコル」
何事も無かったかのように言い、自分を縛めているロープをナイフで切ってゆくデイブに、ニコルは項垂れながら「…ごめ
ん…」と、小さく謝った。
一台のバイクが湿った夜風になぶられながら、川岸の歩道でアイドリングしていた。
座席後部に箱が取り付けられたバイクに跨っている男は、黒革のライダースーツで全身を覆い、ゴツいブーツを履いている。
背は低く、丸々と肥え太っており、ずんぐりとした体型をしているその男、外見には体型その物よりも特徴的な点があった。
それは、男の頭部が人間の物では無いという点と、尻から尻尾が生えている点である。
男の顔は、獅子であった。
頭部はもさもさした長い鬣に囲まれており、筆のように先端に房がついている尻尾がシートの横に垂れている。
鬣こそ立派なものの、丸顔で目が大きい童顔である。
配達人ミカールは、手にした葉書をじっと見下ろしている。何も書かれていない真っ白な葉書を。
それは、つい先程まで、乱れた因果を補正する報いが記されていた葉書である。
「…ぬぅ〜…?」
ミカールは片方の眉を上げ、不思議そうに首を捻った。
いましがた本日何十件目かの配達を終え、次の葉書を引っ張り出して確認したミカールは、それを懐にしまって届け先へ向
かう途中だったのだが、中身を再確認すべく取りだしてみると、綺麗さっぱり消えてしまっていたのである。
先に確認した際の記憶によれば、拉致した少年に暴行を加え、結果として翌日には死亡させてしまう青年に届けるべき報い
であった。
「さっきまでは確かに文字浮かんどったんやけどなぁ…。珍しいこっちゃ」
因果管制室の予測範囲外から、因果同士が干渉し合い、予測していた物とは結果が変わる…。稀に見る現象であった。
配達人とて全てを見通せる訳ではない。有り得ない事では無いが、珍しいケースである。
今回について言えば、届けるべきだった報いに足るだけの何かが配達相手に生じ、報いを届ける必要が無くなったという事
だろうと、ミカールは推測した。
「まぁええか、一件得した訳やし…。終わって暇があったら調べよか」
呟いたミカールは、いつの間にかまっさらになっていた葉書をバイク後部の箱のサイドポケットに押し込むと、次の葉書を
取り出すべく箱を開けて中を覗き込み、手を突っ込む。
「…ん?」
訝しげな声を漏らして手を止めたミカールの目は、白い葉書が他にもある事を認めた。
「…なんやこれ…?」
慌てて確認してみると、文面が消えている葉書は七枚にも及んでいた。
偶然ではない。明らかに何らかの事態によって一斉に報いの内容が消失した事が、ミカールには察せられている。
「めんどいなぁ…。一体なんなんや?この妙な現象は…」
童顔の獅子は顔を顰め、苛立たしげに舌打ちをした。
デイブとニコルが錆びた格子門を抜けて敷地内に入ると、開かれていた教会のドア前に立っていた年配のシスターが、声を
上げて駆け寄った。
「ニコラス!」
年配のシスターは、デイブに背を押されて前に出た小太りな少年を、きつく抱き締めた。
「ああ!ああ!良かった…!心配しましたよ!」
「ご、ごめんなさいシスター…!」
目に涙を浮かべているシスターに、ニコルも涙目になりながら謝った。
夕刻、ニコルはこの教会から出たところで青年達に拉致されている。
シスターがたまたま外出していた当時、現場を目撃したのは、ここで暮らしている小さな子供達三人だけであった。
青年達に脅しつけられた子供達は、ほんの少し後に訪れたデイブに、ニコルを連れて行った者達が残した伝言を、泣きなが
ら告げた。
それを聞いたデイブが去った後、戻ってきたシスターは子供達から事情を聞き、胸を痛めながら二人の帰りを、こうしてずっ
と待っていた。
かつて自分が世話をしてやっていた、我が子同然の二人の帰りを…。
「ゴメンなシスター…。ニコルは悪くねぇんだ。こっちのゴタゴタに巻き込まれて、とばっちり食っちまっただけで…」
デイブはボサボサの髪に指を埋め、済まなそうに顔を顰めてガリガリと頭を掻く。
ディープスラムの片隅にある、このボロボロの教会は、孤児院も兼ねている。
現在はそこそこ裕福な家庭に養子として迎えられているニコルは、元々はこの孤児院で養われていた子供の一人である。
そして、今でこそ孤児院を出て自立しているデイブもまた、幼い頃に両親を相次いで亡くし、この孤児院で育った。
その為、本物のギャングに一目置かれる程のこの大男も、母親代わりであったシスターメアリーには頭が上がらない。
孤児院の経営が苦しい事を知っていたデイブは、今から七年前、13歳の時に孤児院を飛び出している。
昔から体も大きく腕力もあったデイブは、その頃にはいっぱしの大人顔負けの力仕事がこなせる程の体力を備えていた。
デイブは港での船荷運搬や工事作業現場での荷運びなど、もっぱら肉体労働に従事して、最低限の生活費を確保しつつ、自
分の古巣であり実家でもある孤児院へ賃金を寄付するようになった。
元々、喧嘩っぱやい悪童として近隣に知られていたデイブには、自立をきっかけに様々なグループから接触が為された。
組織として成り立っている巨大なファミリーからも、構成員になるよう持ちかけられている。
だが「喧嘩はしても悪事はするな」とメアリーからきつく言われて育った為、どんなに美味い条件を出されても、デイブは
これまで、決して首を縦に振る事はなかった。
「とにかく二人とも中にお入りなさい。…まぁニコル!こんなに腫れて…!頬を冷やさないといけませんね…」
「だ、大丈夫です!元々こんなですから…いたっ!」
冗談めかして笑おうとしたニコルは、しかし殴られた頬が痛み、顔を顰める。
メアリーは呆れたようにため息をつき、デイブは可笑しそうにくっくっと含み笑いを漏らした。
デイブに叩きのめされた青年達が、呻きながらそこかしこに転がっている部屋に、ライダースーツを纏った獅子が足を踏み
入れた。
侵入したミカールは、被認迷彩を最大レベルまで引き上げている為、部屋にいる青年達は、誰一人としてその存在を認識で
きていない。
恐怖混じりの悔しさと痛みに呻きを上げ、壁にもたれかかり、あるいは床に座り込み、思い思いに苦痛と屈辱に堪えている
青年達の姿を、金色に光る獅子の眼が、ゆっくりと眺め回す。
入念に観察した後、ミカールは腕を組んで首を捻る。
短身で童顔の見た目と相まって、立派な鬣と存在してきた時間に反し、首を傾げる様子はいささか可愛らしい。
「…完璧に報いの配達対象から外れとる…。それどころか…、近い未来が予測されとったもんとはちと変わっとる…。しかも、
原因になったもんが何なのか、さっぱり視えへん…」
ミカールがブツブツと呟くその声すらも、青年達は認識できていない。
獅子は小さくかぶりを振ると、再度室内を確認した。
「これから殺されるはずやったガキは…、ここにおったようやけど、何処行ったんや?しかも、視える限りはここでは誰も死
なへん…。因果流転が予測と大幅にズレとる。どないなっとんねやホンマに…」
難しい顔で黙り込むと、しばし何事か考えていたミカールは、やおらため息をついた。
「…めんどくさっ…!けど放置もでけへんしな…。こいつらの報いの原因になるはずやったガキ…、そっちも視てみよか…」
呟くなり踵を返そうとしたミカールは、ピタリと動きを止めた。
部屋の奥に二つあるひび割れた窓。その一方の向こう側に、白い影と赤い光が見えている。
ミカールの目は、窓の向こう、向かいの建物の屋根に立つ人影を映して大きく見開かれた。
それは、赤いレザーコートを身に纏う、2メートルを超える、恰幅の良い巨漢であった。
薄く輝く赤い瞳で室内を眺めているその男は、ミカール同様、人間ではない。
真っ白な、北極熊の頭部を持つ白い熊である。
銃を引き抜くなり、ミカールは牙を剥き出しにし、獰猛な顔つきになって床を蹴った。
液体を通り抜けるように波紋を残して壁を突き抜けて屋外に飛び出し、空中をしっかりと踏み締めて静止したミカールは、
その背を丸めて吐き捨てるように声を漏らす。
「アンヴェイル!」
ミカールの除幕宣言と同時に、つなぎの背に浮かぶ白い翼のエンブレムから、金色の光が噴出した。
金粉の如き美しい光の粒子が、鳥類のそれを思わせる形状の翼を形成し、同時に丸顔を囲む金色の鬣がぶわっと伸びる。
手にした銃はレモンイエローの燐光に包まれ、一瞬にして内部にデータ圧縮弾を精製されていた。
宙を踏み締め、凄まじい形相で自分を睨み付ける獅子を、白い熊はその顔に何の感慨も浮かべず、静かに見つめている。
無感動に自分を眺める北極熊を睨むミカールは、彼の横にもう一人、やや小柄な影が付き従っている事に気付いた。
そちらも北極熊と同じく、白い被毛に覆われた獣の頭部を持ち、血で染め上げたような赤いコートを纏っている。
女性の白猫は北極熊と同じく、何の感情も浮かべていない目でミカールを見つめていた。
白猫の姿を目にしたミカールの瞳が、複雑な感情を映して微かに揺れる。
軽く動揺したとも見て取れるミカールの周囲で、発散されている粒子が一瞬だけ薄まった。
「何でオドレがここにおるんや!?…今回の因果の異常…、オドレの仕業か!?」
白猫から目を離したミカールは、自分の倍以上大きい北極熊に鋭い視線を向けつつ、敵意を剥き出しにして叫ぶ。
しかし、激している獅子とは逆に、北極熊はただ静かにその場に佇んでいる。
ミカールが向けるルガーの銃口を前にしてもなお、その薄赤い瞳には、物憂げな光しか浮かんでいない。
「…アル…」
不意に白猫が鼻にかかった声を漏らし、北極熊は首を巡らせ、傍らに立つ自分の三分の一程しかない、小柄な女の顔を見下
ろした。
「…ああ。行こう」
自分を見上げる無表情な白猫に頷いてみせると、北極熊は赤いグローブをはめた左手を上げ、パチンと指を鳴らした。
「逃がさへんで!」
歌舞伎の獅子の毛髪を思わせる、身長以上に伸びた鬣を、上半身を回すようにして振り乱しつつミカールは叫んだ。
光の奔流となって伸び、押し寄せた鬣は、しかし白い二人には触れなかった。
二人の周囲でテレビ画面のノイズのように景色がザザッと揺れ、濁流のように押し寄せた光の鬣を押し留める。
「ちぃっ!」
舌打ちをしたミカールは、立て続けに発砲した。
が、レモンイエローの軌跡を残して殺到したデータ圧縮弾は、鬣同様ノイズの壁に阻まれる。
ノイズは徐々に激しくなり、やがてその向こうの熊と猫の姿が見えなくなり、やがて、パキンッという、何か硬い物でも割
れるような音が響くと同時に、唐突に収まった。
その時には既に、二人の姿はどこにもない。
「…機器の補助も無しに独力で空間転移か…。力はこれっぽっちも衰えとらんな…」
苦々しく呟いたミカールは、すぅっと目を閉じ、体を弛緩させた。
背の翼が細かな羽毛に分解されて夜風に舞い散り、空気に溶け込んで消える。
鬣は伸びた分が抜け落ちるようにしてミカールから離れ、翼と同じく、細やかな粒子となって消え去った。
先程までの激高をおさめ、疲労感すら漂わせてため息を漏らしたミカールは、銃を収めつつ建物を振り返り、窓の向こうに
青年達の姿を見透かしながらひとりごちた。
「…魂を砕かれたモンはおらん…。今回の件…、アイツが介入した訳やないんか…?ならなんでここにおったんや…?」
軽くかぶりを振ったミカールは、そのまますぅっと降下し、地面に降り立つと、ゆっくりと歩き出す。
その足取りが重いのは、瞬間的とはいえ除幕によってもたらされた疲労のためか、それとも別の要因によるものなのか、童
顔の獅子が浮かべる厳しい表情と思案するように細められた瞳からは、窺い知る事はできなかった。