第二十三話 「配達人はレモンイエロー」(中編)

ディープスラムを抜け、整備された隣の区画の表通りへと続く舗装された道を、ざんばら髪の筋骨逞しい青年と、身なりの

良い小太りの少年と、年配の修道女が並んで歩いていた。

デイブ、ニコル、シスターメアリーの三人がゆく、ニコルの家へと向かう道には、時間が遅いこともあって人通りが全くと

言って良いほど無い。

スラムの孤児達と遊んでやっていたと知れば、ニコルの両親がいい顔をしない。

さらに、本当の事を伝えた所で心労となるだけだと判断したメアリーは、教会へお祈りに来ていたのだと説明し、頬の腫れ

や服の汚れについては、教会の修繕奉仕活動中にアクシデントが起こったのだと説明する心積もりである。

乱暴者と評判高い自分が一緒に居れば、あからさまに渋い顔をされる事は判りきっているので、ニコルの両親へは姿を見せ

るつもりはないデイブだが、夜も遅いのでボディーガードとして同行している。

「すげーよね!デイブのパンチ!」

「こら!そんな言葉遣いじゃママさんに怒られんぞ?お前はもう良いトコの子なんだからよ、「凄いよね」って言わなくちゃ

なんねぇだろが?」

「え〜!?いいじゃんかぁ!今ぐらい前のまんまでもぉ!でさ、デイブって何であんな強いの?パンチだけじゃなくて、避け

るのもすげーじゃん!」

時間をおいたことで恐怖が消え、喧嘩を見た興奮として再咀嚼されたのか、ニコルは興奮気味にまくし立てると、ボクシン

グの構えを取って「ワンツー!」と宙へパンチを繰り出す。

「ん〜…、上手く言えねぇんだけどよぉ…、相手がどう動くのか、何となく判るような気がするんだよなぁ…。ま、勘で動く

と上手く行ってるって、そんな感じか?」

「へ〜、野生の勘ってヤツかなぁ?」

「さぁ?どうだろな」

デイブが肩を竦めると、それまで黙っていたメアリーが口を挟んだ。

「くれぐれも、喧嘩はほどほどにしておきなさいな?デイブ」

「判ってるって…」

メアリーに釘を刺されたデイブは、顔を顰めて頬の傷痕を掻く。

デイブは確かに粗野で乱暴ではあるが、理由無く暴力を振るう事はない。

その事が判っているからこそ、メアリーはデイブが喧嘩をしても、それほどきつくは叱らずに育てて来た。

メアリー自身は信仰を持っているが、デイブに対して徹底的な非暴力を強いる事は無い。

ディープスラムが理想と綺麗事だけで生きて行けるほど甘い場所ではない事を、長年暮らして痛いほど理解しているからで

ある。

やがて、目的地近くになると、デイブは最後の角を曲がらずに足を止めた。

「シスター、俺ぁここで待ってるよ。ニコルのパパママが心配して外に出てんだろうし、ツラ見せねぇ方が良いや。じゃあな

ニコル」

「判りました。すぐ戻って来ますね」

「あんがとデイブ!またね」

母親のような女性と弟のような少年を、片手を上げて見送ったデイブは、街灯の柱に寄り掛かり、目を細めて物思いに耽る。

引き取られてから五年も経つというのに、ニコルは毎週のようにディープスラムへ、孤児院へとやって来る。

そして子供達と遊んでやったり、痛んだ箇所の修繕を手伝ったりと、実によく奉仕してくれている。

それが、自分がやっている寄付同様、教会と孤児院、シスターメアリーへの恩返しだという事は理解できる。

が、ニコルは孤児院へ赴いた後、兄貴分と見て慕っているデイブが暮らす安アパートにもやって来る。

だが、そんな事を繰り返していたせいで青年達に目を付けらたのだろう。今夜はデイブを仲間に引き込むための材料として

拉致されてしまった。

自分と関わっているせいでニコルが酷い目に遭った。デイブにはその事が相当堪えている。

「…「もう来るな」って言ってやった方が、アイツの為なんだろうけどなぁ…」

ため息混じりに呟いたデイブは、細めていた目をゆっくりと閉じた。

そこには、青年達を相手に大立ち回りを演じた、獰猛な大男の姿は無い。

例えば、自分を追って危ない場所までついて来ようとする幼い弟を、慕われるのは嬉しいが、それでも叱るべきかと、慣れ

ぬ悩みに頭を悩ませる年端の行かぬ兄のような…。

そんな、どこかたどたどしい幼さを覗かせる青年が、少し寂しげに佇んでいるだけであった。



レースのカーテンが引かれている窓から月光が入り込み、清潔な絨毯を照らしている。

暖かなクリーム色の壁と天井に囲まれた自室のベッドで、ニコルはぐっすりと眠っていた。

仰向けに寝ているその胸に、もっさりとした、輪郭もおぼろげな影が落ちている。

ベッドに横たわってすやすやと眠っている、左頬が腫れている少年の顔を見下ろしながら、

「やっぱりあの建物におったらしいが…、ワシに視えとる範囲ではもう一回行く事は無さそうやな…」

そう呟きつつ、ポッテリ太った童顔の獅子は、思慮深げに眼を細めた。

戸締まりはしっかりされており、窓にも鍵がかかっているが、この獅子や同僚達にとって、それらは何ら障害にならない。

「…明日は旅立たへんな、このガキ…」

ぼそりと漏らされたその声には、ニコルが命を落とさずに済んだ事を祝福してやっているような、暖かな響きは一切無い。

冷徹な…そう言えるほどあらゆる感情を浮かべていない涼やかな視線を、因果の特異点となった少年に向けながら、ミカー

ルは考える。

実際に顔を見たニコルからも、因果の流着先が大きく変わった原因が何であるのかが読み取れない。

ニコルを捕らえていた、そして彼を殺してしまうはずだった青年達も含め、ある一定時間に限り、その身に起こったはずの

事象を視る事ができなくなっている。

それは、ミカールが経験した中でも、かなり強烈な部類に入る因果の乱れであった。

しかし、はっきりと認識できずとも、因果に干渉する何かの存在は確信できた。

例えば、絵の具のチューブが収められた箱があったとする。

きちんと収められている箱であれば、その中の一色が無くなっていれば気付く。

空のスペースを見て、無いという事が認識されるからである。

そこに在るべき物が抜けている…。

ミカールが抱いた感覚は、そう表現される物に近い違和感である。

まとめて白紙になった複数の報い。

旅を終えるはずだったのに、明日以降も地上に留まっている少年。

そして、ミカールの目を持ってしても視えない、乱れの原因。

「このガキ、因果から外れた存在から干渉されとる…。やっぱりアイツの接触があったんか?魂を砕かれとらんのが解せんけ

ど…、このガキが目的や無いて、そういう事やろか?このガキとチンピラどもの他にもあそこに誰かおったんか…?だとすれ

ばやけど…、アイツの狙いはそっちか…?」

不在の存在を認識したミカールは、面倒臭そうに舌打ちをした。

この手の不確定分子を放置すれば、今後どれだけ因果に狂いが生じるか予測もつかない。

さらには、因果管制室の予測していた因果すら書き換えられてしまう以上、到底見過ごす事はできない。

原因を探り、乱れの根源を突き止める。

行動方針を決めたミカールは、踵を返してニコルに背を向けた。

「この大規模な因果の乱れ…、アイツなら容易く起こせるはずや…。しかし判らんのは、あの場では何もせぇへんかった事や

な…。この件、ホンマにアイツが狙ってやっとるのか?それとも、たまたま居合わせただけなんか?…どう関わっとるのか、

見極めへんとな…」

赤いコートを纏った北極熊の顔を思い浮かべつつ部屋を横切り、ブツブツと呟いたミカールは、そのまま壁を突き抜け、ま

るで水面に広がるような微かな波紋を残して部屋から消えた。



デイブがニコルを救い出し、そしてミカールがニコルの様子を確認してから一夜明け、日も高々と上がった午前の終わり際。

その奇妙な恰好の二人組は、賑やかな大通りに佇んでいた。

歩道の端に立つ二人は、揃って革製の赤いロングコートを纏っており、車道に背を向けている。

赤いコートを纏う北極熊は、2メートルを軽く越える程の長身だが、あまりにも恰幅が良過ぎるせいで、まるで赤いフード

を被せられたドラム缶のような趣がある。

歩道と車道を隔てる柵によりかかっているが、鉄パイプが組み合わされた柵は、大兵肥満の北極熊にはいささか低く、尻を

軽く預ける程度の高さしかない。

一方、連れは北極熊とは対照的であった。

同じく赤いロングコートを纏う傍らの白猫は、豊かな胸と尻を除けば、触れれば壊れてしまいそうな程に細く、小さく、極

めて華奢な体格で、背もかなり低い。

額が広くマズルが低い、成獣とは呼べない幼さの残る顔立ちで、北極熊の臍の上辺りまでしか身長が無く、後ろに立てばすっ

ぽり隠れてしまう。

北極熊はまるで遠くを見るように薄赤い目を半眼にしており、行き交う人々の姿も目に入っていないようであった。

白猫の方もどこを見るでもなく、無表情にぼぅっと雑踏を眺めている。

どうしようもなく人目を引くはずの熊の巨漢と小柄な猫は、しかし周囲の人間達から目を向けられる事がない。

そして、奇妙な事に人々は、全く注意を払っていないように見えながら、彼にぶつからないように避けて動き、あるいは進

路を変えて行き過ぎる。

「昨夜の気配は…、何だったのかな…」

ずっと黙り込んでいた北極熊は、唐突に口を開いた。

誰かに問い掛けるようでも、自分に問い掛けるような口調でもあったが、傍らの白猫は返事を求められている訳では無いと

察しているのか、その言葉にも反応らしい反応は見せない。

そして北極熊も、白猫が返事をしない事がいかにも当然であるかのように、連れが無反応な事も気にしていない。

薄赤い瞳に物憂げな光を湛えて深い思慮に沈み込み、目を細めている北極熊。

その姿は、ふっくらし過ぎた体格にもかかわらず、見る者に不思議な気品と威厳を感じさせるが、しかし行き交う人間達は、

彼の存在を認識できていない。

それから程なく、その雑踏の中に、人々に紛れて二人に歩み寄る、赤いコートを纏う者達の姿が現れた。

てんでばらばらの方向から、北極熊と白猫に向かって真っ直ぐに歩いて来た三人は、二人の前でうやうやしく頭を下げた。

いずれも男で、それぞれが鷲と猿、そしてジャガーの頭部を持っている。

「こちらにおいででしたか、アル…」

ジャガーが口を開くと、北極熊は何も言わずに、赤い瞳を彼に向けた。

「嫌な匂いがしております。どうやら管理人が数名、この近辺を探っているようで…」

「昨夜、ミカールと会った」

ジャガーの言葉を遮り、北極熊は低い、しかしよく通る声を発した。

北極熊と白猫を除く三人は、揃って息を呑む。

「ザ・ヘリオンと…!?」

「よくご無事で…!」

緊張もあらわにして色めき立つ三人に、北極熊は静かに続ける。

「彼を通して、ボクがこの近辺に居る事が管理人達に伝わったんだろう」

「ただちに他の地へ移るとしましょう。幸い、そう遠くない場所にテリトリーを持つ者を数名知っておりますので、まずはそ

こへ…」

猿がそう提案すると、北極熊はゆっくりと首を横に振った。

「好きにすれば良い。ボクはまだ用事が済んでいない。もう少し留まる」

三人は困惑したように顔を見合わせたが、一度頷きあうと、北極熊に深々と頭を下げた。

「確かに、我等が居てはいざという場面で足手纏いになりましょう…」

「先に移動し、お二人でおくつろぎになれるよう、安全な場所を手配致しますので、ご用事を済まされ次第いらして下さい。

場所は…」

「…くれぐれも、ご油断なさいませぬよう…」

ジャガーが、猿が、鷲が口々に告げると、北極熊は返事もせずに傍らの白猫を見やった。

無言のまま北極熊の袖を掴んで注意を引いた小柄な白猫は、頭上を見上げている。

その視線を追った猿は、目を大きくして息を呑んだ。

スーツを纏った男が、ビルの屋上に、へりに足をかける形で立ち、五人を見下ろしていた。

それは、ドーベルマンの頭部を持つ半人半獣の男であった。

毛色も、瞳も、衣服も黒い男は、身に纏う漆黒のタキシードを風になぶらせ、鋭い視線で五人を睥睨している。

「か、管理人…!」

猿が怯えたような声を漏らした途端、屋上に立つ犬頭人身の管理人は、手にした銃のトリガーを引き絞った。

警告も無く放たれたデータ圧縮弾は、目標への中間地点で無数の細かな礫に別れ、五人めがけて殺到した。

黄色く光るそれらはまるで、意志を持った、煌めく雨のようであった。

無数の礫はその全てが、五人のいずれかを目がけて軌道を修正しつつ、凄まじい速度で突き進む。

銃弾が放たれ、分裂して対象に達するまでの、その刹那の間に、建物上に陣取った管理人は、目標の一人である北極熊が、

その大きな手を広げ、自分に向けるのを目にした。

(何を…?いや、何もできはすまい)

もはや回避も防御も間に合うタイミングではない。反射的に手を上げただけかと一瞬考えた管理人は、しかし自らが放ち、

分裂させたデータ圧縮弾が、北極熊の手に向かってその進路を変える様を目にし、驚愕に顔を強ばらせた。

無数の礫は途中で再度集合し、一発の弾丸に戻ると、その速度を緩め、北極熊の手の平に触れる寸前で停止する。

(強制的に再結合?コントロールを奪われた?…ばかな!そんな事が可能なのか!?)

中央管理室のメンバー内では最も若手とはいえ、これまで幾度も盗魂者や堕人を排除して来た管理人は、信じられない現象

を目の当たりにし、二射目を撃つ事も忘れて立ち竦んだ。

ほんの一瞬ではあったが、彼が呆気に取られたその瞬間に、勝敗は決していた。

ドーベルマンはふと、妙な物が胸元にある事に気付き、視線を下に向けた。

不思議そうな表情を浮かべるドーベルマンの胸元から、光の棒が生えている。

一方で、北極熊は弾丸を握ったはずの手を前の方へ差し伸べており、その手首は脱力して垂れている。

まるで、何かを投げ終えた後のように。

「…な…?」

何だ?そう言おうとしたドーベルマンの体が、激しく痙攣した。

胸から生えていると彼が見たそれは、実際には胸から背に突き抜けて、彼を串刺しにしている。

先端が細く尖った光の棒…、それは、全長1メートル半程の、圧縮データで形成された手槍であった。

相手が放ち、拡散した圧縮データの弾丸に強制集合命令をかけ、一発の弾丸に戻し、引き寄せて掴み取る。

それを手槍の形状に変換し、モーションさえ見えぬほど高速で、しかし無造作な手つきで投擲。

瞬き一つにも満たない、刹那の間に行われたそれらの行為を完全に把握している者は、北極熊本人と、傍らに立つ白い猫だ

けであった。

管理人や配達人たちが力の行使の効率化のために利用する銃器の類も無しに、北極熊が無造作におこなったそれは、相手の

行為に介入するだけの技術と力量、実力差が無ければ不可能な芸当である。

並の配達人を大幅に上回るスペックを得ている管理人の行為に易々と介入したばかりか、それを利用して反撃までしてのけ

た北極熊は、自身が桁外れの存在である事を何気ない行為で、しかも片腕一本で証明していた。

しばらくガクガクと痙攣していた管理人が、やがてどうと仰向けに倒れ、屋上の縁の向こうへ消えると、猿と鷲とジャガー

は、はっと我に返って銃を抜いた。

「お怪我は!?」

「問題無い」

緊迫した様子で尋ねるジャガーに、何事もなかったかのように北極熊が短く応じると、猿と鷲は銃を構えて警戒しながら周

囲を見回す。

周囲を行き交う人間達は、この騒ぎにも全く気付いていなかった。

「…一人だけか?」

「どうやらそのようだ…。あの管理人、まだ消滅していない。とどめを…」

男達が囁き交わす声は、突如途切れた。

場の空気が一変し、ジャガーと鷲と猿が弾かれたように首を巡らせて頭上を振り仰ぎ、北極熊と白猫はゆっくりと顔を上に

向ける。

五人の視線の先、管理人が姿を消した屋上の縁に、入れ替わるようにして姿を現した者が居た。

レモンイエローの鬣を高所の風になぶらせているのは、背が低く太ってずんぐりしているせいで、極端な短身に見える獅子。

立派な鬣に囲まれた丸顔は明らかな敵意を浮かべ、口の端がめくれて牙を剥き出しにしている。

「堕人どもが雁首揃えて何の相談や?おう?」

低く潜められた声は、しかし距離があるにもかかわらず、全員の耳にはっきりと届く。

「ザ・ヘリオン…!」

「管理人に続いて…、今日は何という日だ…!」

緊張を滲ませて呟く猿と鷲は、傍らのジャガー同様、抜いた拳銃をミカールに向けている。

が、銃口を向けられている本人は、それらをいささかも気に留めてはいない。

北極熊に真っ直ぐ向けられた瞳は、敵意と憤激で強い光を帯びている。

「お退き下さい、アル!」

叫んだジャガーが発砲すると、他の二名の銃撃がそれに続く。

が、ミカール目がけて飛んだ弾丸は、獅子の傍でぐんと速度を落とした。

「弾が…止まっ…?」

唖然として猿が呟く。が、それらの弾丸が停止した訳でない事には、三人ともすぐに気付いた。

殆ど静止しているように見えるが、実際にはじりじりと進んでいる。

弾丸はその運動速度を極端に減じられているだけで、完全に停止した訳ではない。

のろのろと動く弾丸の進行方向から、ミカールがゆっくりと身を退けると、弾丸はその戒めを解かれ、ミカールがよけた後

の空間を駆け抜けてゆく。

「…い、一体何が…?」

すっかり困惑している三人の後ろで、北極熊は顔色一つ変えずに呟いた。

「…時干渉」

「は?」

振り向いて聞き返したジャガーに、しかしミカールを静かに見つめる北極熊は、それ以上の説明をするつもりはないらしい。

やおらミカールから顔を背けて、傍らの白猫に目を向けると、手を軽く握りつつ見上げて来る彼女に、小さく頷きかけた。

「今度もまた上手い事逃げられるとでも思うとるんか?」

「やめておいた方が良いんじゃないのかな?」

ドスの利いた低い声で言い、背のエンブレムから金色の光粒を発散させ始めたミカールだったが、北極熊の静かな声に一度

眉根を寄せ、それから何かを思い出したように顔を顰めた。

彼の背後には、胸を光の手槍に貫かれて倒れ伏したドーベルマンが居る。

重大な損傷を被り、機能障害をきたした管理人は、このままではおそらく助からない。

その上、北極熊達の周囲では、何も知らぬ人間達が日常を謳歌している。

自分が気を配ったとしても、堕人達が周囲の人間達を巻き添えにするのも厭わず戦闘する事は目に見えている。

少なくとも人間達に影響を与えないよう空間隔離をおこなうなら別だが、そうでなければ間違いなく犠牲者が出るだろう。

しかし、隔離するにも膨大な力が必要な上に、準備に時間もかかる。

仮に、何のサポートも無しに空間隔離に成功したとしても、その後の消耗した状態では、他の堕人達はともかく、北極熊を

相手にする事はできない。

「…ワシが本気出せへん事見越しての落ち着きか…。相変わらず賢しいのぉオドレは…!ムカつくぐらいや…!」

童顔の獅子は憎々しげに丸い顔を顰め、苛立ちもあらわに舌打ちをした。

ミカールの背から発散されていた光が、翼を成す前に霧散すると、北極熊は獅子を静かに見つめ、仕掛けて来ない事を確認

しながら周囲の者達に告げた。

「…ボクらは移動する。キミ達が彼と事を構えるつもりなら止めないけれど…、一緒に行くかい?」

猿、鷲、ジャガーの三人は、ミカールが臨戦態勢を解いたと見ると、北極熊に向き直り、深々と頭を下げた。

『お供させて頂きます。アル・シャイターン』

返事を得て右手を上げた北極熊は、パチンと指を鳴らした。

その直後、五人の周囲にノイズが走り、やがて全員の姿が忽然とかき消える。

「…エラい慕われようやないか、ワシの古馴染みは…」

空間転移を見届け、堕人達が去った事を確認すると、憎々しげに呟いたミカールは素早く振り向き、倒れている管理人に駆

け寄って屈み込んだ。

「しっかりせぇや!ワシの声聞こえとるか?んん!?」

大きく見開いた目を自分に向け、パクパクと口を動かしているドーベルマンが、声すら出せない程の機能障害に陥っている

事を見て取ると、ミカールは彼の胸に突き立ったままの光の槍に銃を向けた。

直後、獅子が握るルガーP08の上部から、フォシュッと黄色い煙が漏れる。

弾倉内部に直接弾を精製したミカールは、銃口を手槍に突き付けるようにして引き金を絞った。

ガンッという音と共に黄色い弾頭が打ち込まれると、光の槍は石英の塊が砕けるように、鋭い細やかな欠片となって散り、

大気に溶けて消える。

「がふぁっ!げほっ!がふふっ…!」

ドーベルマンは戒めが解けたかのように咳き込み始め、背を丸めてのたうち回る。

「大人しゅうせぇや。今応急処置したるさかい」

ミカールはそう声をかけ、銃に力を送り込んで弾丸精製を始めつつ、

「運が良かった…て言えるやろな…。反射されただけやったからこの程度で済んどる。アイツ自身の攻撃やったら、触れた瞬

間に消滅しとったわ…」

そう、ほっとしたように小声で呟いた。



ミカールが堕人達をしぶしぶ見逃した、その少し前。ディープスラムの外側に近い区画では、

「…またかよ…?」

紙袋を手にしたざんばら髪の大男が、部屋を借りている安アパートの前で足を止め、軽く顔をしかめていた。

視線の先には、寂れた通りに不似合いな高級車。

そして、その後部ドアをスーツ姿の部下に開けられて降りて来る、50代前半程に見える、身なりの良い紳士。

「やあデイヴィッド。やっと帰ってきたね」

眼鏡をかけた顔ににこやかな微笑を浮かべ、紳士は親しげな様子でデイブに話しかけた。

「…おやっさん…。頼むから帰りを待つような真似しねぇでくれよぉ…」

ため息をついたデイブは、首を巡らせて辺りを見遣った。

周囲の建物の中や曲がり角から顔を覗かせ、多くの人々が不安と好奇心の入り混じった視線を高級車と紳士、そしてデイブ

に向けている。

「…用件は判ってるが…、ここじゃ目が気になる…。あんまり時間はねぇが、上がってくかい?」

「ふむ。お邪魔しよう。…ああ、付き添いは無用だ。車で待っていなさい」

眼鏡の紳士は微笑を浮べたまま頷き、同行しようとした部下を軽く手を上げて制すと、アパートの入り口へ向かうデイブの

後に従った。



歩けば板張りの床が盛大に軋むほど老朽化した、狭苦しい部屋の中で、

「今日は土産を持ってきた」

ニコニコと笑みを浮べながら、紳士は中央のテーブル上に二つの紙包みを置く。

「何か貰ったって答えは変わんねぇよ…」

デイブは困ったように顔を顰め、太い指で傷痕のある頬を軽く掻く。

「気にせず受け取ってくれたまえ。これは勧誘とは別、ただの好意だ。受け取ってくれたまえ」

紳士はそう言い、デイブの返事も待たずに一方の包みを解いた。

品物を守る厚い紙が取り払われると、長方形の、あまり厚みのない木箱が姿を現す。

「開けてみたまえ」

促されたデイブは、乗り気で無さそうに顔を顰めながら、木箱の蓋に手をかけた。

そして、中に収まっていた品を見るなり、前髪に隠れがちな目を丸くする。

「…何だよこりゃあ…?おい、おやっさん?」

中身を確認して困惑し、紳士の顔を見遣るデイブ。

眼鏡の紳士は穏やかな笑みを湛えたまま、木箱の中で鈍く光る、物騒な品に視線を向けていた。

「ステキだろう?グリップに最高級の木材を使用した特注品だ」

それは、光沢のある木材のグリップを備える、一丁の拳銃であった。

「…いらん…!」

顔を顰めて突っ返そうとしたデイブに、紳士は肩を竦めて見せた。

「ディープスラムは物騒だ。君はダガーどころかペーパーナイフすら持たずに闊歩して回るがね、護身用に武器の一つも持ち

歩くべきだろう」

「で、ガンを持てってか?…マフィアと一緒にしねぇでくれ!そもそも、俺ぁ今までも素手で無事に生き抜いて来た。こんな

もんは要らねぇよ」

呆れながら応じるデイブだったが、紳士は悪びれる様子も無く、穏やかに口を開く。

「私はね、君に死んで欲しくないんだよ。実際に使わなくとも、ちらつかせれば脅しになる。魔除けの護符とでも思って持ち

歩いてはどうかな?…まぁ、本当に気に入らないのなら、売り払って貰っても構わない。いくばくかの小銭にはなるだろうし。

…勿論私としては、売られるとちょっぴり残念だがね」

あくまでも穏やかな紳士の態度に対し、デイブの方はすっかり呆れかえっていた。

何を言っても持ち帰るつもりはなさそうだと察し、大男は諦めたようにため息をつくと、もう一方の包みに視線を向けた。

「…で、こっちは何だ?まさか爆弾とか言わねぇだろうな?」

「いやいや、もっともっと危険な物だよ」

紳士は眼鏡の奥で、理知的な瞳をキラリと輝かせた。

「先日出来上がったばかりで、まだ市場に出回っていない新作のチーズだ。他のチーズが食べられなくなるほど美味しいと感

じてくれるはずだ」

眼鏡の紳士が片方の眉を上げ、口の端を吊り上げると、

「そっちは大歓迎だ。シスターや子供達も喜ぶぜ。おやっさんから貰うチーズで作るピザトーストは、俺が知ってる中じゃあ

一番だ」

デイブはニヤリと口元を歪ませ、丈夫そうな白い歯を見せて太い笑みを浮かべる。

時折茶目っ気を見せるこの紳士の事が、デイブは嫌いではなかった。

マフィアの首領でありながらも、荒々しい面は全く見せず、いつでも理知的で穏やかな紳士。

しかし単純な衝突と真っ直ぐな敵対しか経験した事の無いデイブは、時にそういう人物の方が恐ろしいという事を、理解で

きるまでには至っていない。

ただ、その「らしくない」ところと、決して無理強いせず、頭ごなしに配下に加われとは絶対に言わない、対等な頼み方を

してくるこの紳士の事を、ひととして気に入っている。

だからこそ、時にこう思う。

もしも自分が、シスターや孤児院の子供達に縁を切られるような事になったら、その時は、この紳士の頼みを受けて、体を

張ってやっても良いかもしれない、と…。

そして紳士は心の底から望んでいる。

腕っ節の強さという魅力を除いても、どういう訳か気になって仕方がない、興味がそそられるデイブを、自分の傍に置きた

いと…。



デイブと紳士が出会ったのは、五年前の事である。

ディープスラム内で、紳士の正体を知らずに略奪に及ぼうとした駆け出しギャング達が居た。

ちょっとした事で部下とも離れてしまった紳士は、若者五人を前に、懐に呑んだ拳銃を抜くかどうかで迷っていた。

外見上は知的で穏やかだが、幾度も修羅場を潜り抜けてきたこの紳士には、その若者達に余裕が無い事が察せられていたの

である。

例え脅し目的だとしても、素人に毛が生えた程度の若者達は、銃を見せればパニックを起こすかもしれない。

その結果、もしもつっかかって来られれば、引き金を絞らざるをえなくなる。

殺してしまっても何の得にもならないし、何より面倒である。

銃を抜くか、それとも大して中身が入っていない財布を放り投げるか…。

例え後者を選択しても若者達が大人しく引き下がる補償は無く、じきに駆けつけた部下の知る所となれば、彼がいくら制止

したところで、ボスと組織のメンツを守るべく、けじめをつけさせてしまうだろう。

面倒な事だとかぶりをふり、しかし心を決め兼ねていた紳士の背後で、路面と砂粒をジャリッと踏み締めた者があった。

若者達が顔を強張らせているのを見て、かなり強面な自分の部下が来たのかと紳士が振り向けば、見知らぬ少年がそこに立っ

ていた。

当時15歳ながらも既に180センチを越え、大人を上回る体格を有していたデイブは、伸びるに任せた前髪の下から紳士

と若者達を眺め、状況を把握して大きく頷いた。

「おっさん。あんたみてぇなまっとうな人が、こんなトコに来ちゃあいけねぇや。怪我したくなけりゃ下がってな」

デイブは紳士にそう告げると、若者達と短く問答し、やがて向こうに引き下がる気は無いと察すると、実力行使で排除した。

時間にして二、三分。ナイフ等の武器すら手にしていた若者達を地面に這い蹲らせたデイブは、息を殆ど乱さずに紳士に向

き直る。

「命拾いしたなぁおっさん。表通りまで送ってやる。もう夜にこんなトコまで来ちゃダメだぜ?」

呆れ顔でそう言ったデイブを、紳士は呆然としながら眺めていた。

幾度も修羅場を経験し、腕っ節の強い男とて何人も知っている。

だが、デイブ程の男にお目にかかった事は、それまでついぞ有りはしなかった。

「…君…」

「ん?」

紳士はデイブに歩み寄り、礼を言うのも忘れてそのゴツい手を取った。

「ボディーガードとして私に雇われてみる気はないかね!?」

突然手を握られて困惑していたデイブは、唐突にそんな話を持ちかけられて呆けた顔になり、

「…は…?」

と、ポカンとあけた口から、やや間の抜けた声を漏らした。

デイブの凄まじい暴れっぷりと、圧倒的多数の相手にも怯まない胆力に、紳士はすっかり惚れ込んでしまったのである。



チーズの包みを持って重みを確かめ、悦に入っているデイブに、回想を打ち切った紳士は、

「実は、今日はもう一つ話があってね…」

と、少しだけ口調を改めて切り出した。

「良ければだが、船旅をしてみないかねデイヴィッド?」

唐突な発言に、大男は笑みを消して首を捻る。

一見そうは見えない、しかし大勢力を誇るマフィアのボスの顔を、デイブは胡乱げに見つめた。

「私は来週からシチリアへ行く。どうだね?良ければついて来てみないか?」

「今度は海外旅行をエサにする気かよ?」

デイブは呆れ混じりに苦笑いした。

港で作業をし、生活費を捻出しているデイブは、伝え聞く海外の話に興味を持っていた。

世界中を駆け回る大旅行とは行かないまでも、一度は海の向こうへ旅行してみたい。

紳士の提案は、デイブがそんな風に考えている事を重々承知してのものであった。

「悪ぃけど断わるぜ。元々来週はダメだったんだ。シスターの誕生日があるからな」

「それは残念。いや、めでたいが残念だ」

眼鏡の紳士は「タイミングが悪かったなぁ…」とひとりごちると、それ以上無理に誘う真似もせず、取り出した懐中時計に

視線を落とした。

「さて、そろそろ時間だな。外出前に時間を取らせてしまって、済まなかった」

「なんのなんの。チーズ貰ったしな」

拳銃の事にはあえて礼を言わず、そっけない口調で応じたデイブは、

「…何で俺が出かけるのを知ってるんだよ?」

「私は耳がよくてね。それに親切な知り合いも沢山居る。…さぁ急がないと。倉庫での荷運びの時間だろう?今日は第四倉庫

だったかな?」

「おっかねぇなぁ…、マフィアの情報網ってのは…」

デイブは嫌そうに顔を顰めて呟くが、紳士は依然としてニコニコと微笑んでいた。