第二十四話 「配達人はレモンイエロー」(後編)

(どうにかこうにか消滅は免れよったが…、無茶しよってホンマ…)

ドーベルマンに一通りの処置を施したミカールは、その脇に屈み込んだまま、彼の顔を覗き込んでいた。

仰向けに寝かされている管理人は、重大な損傷だけは応急処置で何とか修復させられたものの、まともに動ける状態にない。

然るべき場所で然るべき措置を、それなりの時間をかけて施す必要がある。

このまま継続して職務にあたるのは不可能であった。

ミカールは苛立ちから顔を顰め、口を開く。

「何で一人で仕掛けよったんや?ワシは相手がアイツやて言うたはずやで?」

厳しい顔で咎めるミカールに、仰向けに寝かされている管理人は済まなそうに耳を伏せながら応じた。

「面目…ない…。あ…侮って…おりました…。あれほどとは…。所詮…堕人だと…、軽く…見て…」

このドーベルマンは、中央管理室に配備されてから間がない。

それなりの実績は残して来たが、功を焦り、経験不足から相手の力量を過小評価してしまった。

「ま、これで骨身に染みたやろ?伊達にアル・シャイターンなんて呼ばれてへん」

「は…い…。以後…は…、より慎重に…、事に当たります…」

「そうしときぃ。今回はたまたま運が良かっただけやで?無茶は慎む事や」

「…はい…」

管理人とは本来、配達人と比べてかなり上位に位置する職務である。

だが、一介の配達人に過ぎないミカールに対して、エリートであるはずの管理人たるドーベルマンはかなり下手に出ていた。

何から何までが規格から外れたこの獅子は、他の上位職の者達からも特別扱いされている一人である。

「他の管理人どもを回収に呼んださかい、しんどいやろがもう少し待っとれ」

ドーベルマンに告げたミカールは、すっくと立ち上がると、屋上の縁に近付いて下を眺めた。

(アイツ…、まだこの街におったんやな…。昨夜のあれは、たまたま通りかかった訳やないちゅう事か…)

丸みを帯びた短い腕を胸の前で組み、太った獅子は考え込む。

(ここで何をしとるんや?あの乱れの原因はアイツなんか?それとも、ソレに引かれてここにおるんか?)

かぶりを振ったミカールは、物憂げにため息をつく。

(判らん…。半端無く永い事一緒におったのに…、今はもうアイツの事がよう判らんようになってもうた…)

ひどく疲れていた。それが昨夜の除幕だけが原因ではなく、心理的な物も関係しているという事は、ミカール自身も良く判っ

ている。

(なぁ…?何処行こうとしとるんや…?お前は…)

組んだ二の腕に当てられていた指が曲がり、ギリリと音を立て、レザージャケットに強く食い込む。

口をへの字にし、眉尻を下げ、鼻の上に皺を刻んだミカールの童顔は、

(いつまで…、そないな事続けるつもりや…?いつまで…、どれだけ…!)

まるで、仲の良い友達と喧嘩し、悔しくて、悲しくて、今にも泣き出しそうな子供のようにも見えた。

やがてミカールは深いため息をつくと、鬣を振り乱すほど強く、頭を左右に振った。

まるで、雑念を頭から追い出し、まとわりつく迷いを振り払おうとしているように。

そしてミカールは、気を取り直して顔を下に向け、人々が行き交う歩道の柵を眺める。

(あそこに寄り掛かっとったな?何か見えるんやろか…)

先程連絡を入れた回収役が来るまで、この場を離れる事も出来ない。

ミカールはさして手掛かりとなる期待もせず、ちょっとした暇つぶしのつもりで、北極熊が居た場所に自分も立ってみよう

と考えた。



古びたアパートから出て来た眼鏡をかけた紳士を乗せ、高級車が走り出すと、こわごわと覗き見ていた住民達は、興味がま

さった様子でちらほらと通りに姿を見せ始めた。

確かな情報は無いものの、あの紳士がデイブを口説きに来ている事は、皆が同じように想像し、ほぼ確信している。

乱暴者としてのデイブしか知らない付近の住民達は、彼が何故誘いに乗らないのかと疑問に感じていた。

ファミリーの正式な一員として、あちらからの招きによって加えられる…。

この界隈で生まれ育った殆どの若者が羨ましがるような好待遇である。

それを断るデイブの神経が知れない。深い事情まで知らない皆は、そう不思議がっていた。

しばしあって姿を見せたデイブは、先に紳士から貰った、新作チーズが入った包みを手にしていた。

興味深そうな周囲の視線を受けながら、それらをそよ風程にも感じている様子はなく、堂々とした足取りで通りをゆく。

奇異や畏怖、憎悪や憧憬、幼い頃から規格外であった大男は、昔から様々な視線を受け続け、それに慣れていた。

いちいち反応するのも面倒で、いつしかそれらに対して無関心になっている。

だが、無関心というだけで、視線に対して鈍感という訳ではない。

向けられるのが興味ならいざ知らず、敵意や殺意であれば即座に察知できる勘の鋭さがあるからこそ、目立つ存在でありな

がら、これまで一匹狼で通して来られた。

今自分に注がれている視線の中に、危険な物は混じっていないと判断し、デイブは教会へ向かっていた。

しかし、鋭い勘を持つ彼も、人ならざる存在が向ける感情が全くこもっていない視線には、反応する事ができなかった。

「……………」

無言でデイブを見下ろしているその小柄な女性は、デイブが今出てきたばかりのアパートの屋上から、彼の後ろ姿を見送っ

ている。

赤いロングコートを纏った、幼い印象を受ける顔立ちをしている白い猫は、手すりの上にロングブーツを履いた足を揃えて

立っていた。

着込む季節にはまだいささか早いコートを高所の風がなぶり、裾をはためかせるが、無表情な白猫の顔には、自身が居る位

置の高さへの恐れすらも浮かんではいない。

風が揺らすのは柔らかな被毛と硬いコートばかりで、その華奢な体はしっかりした地面を踏み締めているかのように、身を

さする風にも全く揺れない。

やがて、彼女はその手をゆっくりと上げ、だいぶ遠ざかり、小さくなったデイブの背を、ほっそりとした指でさし示した。

「あのひと」

白猫の口が小さく開かれ、か細い囁きが漏れると、

「なるほど。彼か」

白猫の背後から、太く低い、よく通る声が応じた。

いつからそこに居たのか、白猫と同じデザインの赤いロングコートを纏った純白の熊が、彼女が指し示している方向へ赤い

瞳を向け、目を細めていた。

いつ、どうやってか、白猫以外には誰も居なかったはずの屋上に忽然と現れた北極熊は、ゆっくり大股に足を進め、手すり

の上に立つ白猫のすぐ後ろに寄る。

2メートルを軽く越える北極熊と、1メートル程の高さの鉄柵の上に立つ小柄な猫は、頭の高さがほぼ同じになっていた。

極端に小柄で華奢な白猫と、極端に大柄で恰幅が良い北極熊は、かなりの体格差がある。

だが不思議と、体とコートの色が同じである事以外は全く似ていないその二人からは、対で居るのが相応しい印象を受ける。

ミカールと顔を合わせた後、空間跳躍で行方をくらませたはずの北極熊は、実はさして離れていない場所に舞い戻っていた。

連れの白猫が何かに反応を示していたので、昨夜からこの近辺で感じている乱れの気配と関連付けて考え、調べる為に。

そして北極熊は、ミカールが調べている乱れの根源を、たった今、彼に先駆けて視認している。しかし…。

「何だろうね、あれは…」

北極熊は呟く。乱れの根源である存在が、期待していた捜し物とは異なっている事を確認して。

「欠片を宿した魂じゃない…。けれど普通の魂とも違う…。あの魂はそう、まるで…」

眼を細め、思慮深げな表情で呟く北極熊は、デイブの魂を見定めながらぼそぼそと呟く。

その後方、少し離れた位置で、コツリと、床を踏み締める音が響いた。

「こちらにおいででしたか…。如何なさいましたか?アル」

探していた二人の姿を認め、建物の屋根から屋根へと飛び移って移動して来たジャガーは、ほっとしたように表情を緩めた。

かなり近い位置にまだミカールが居るはずなので、再び遭遇するのではないかと気が気でなかったのである。

そして彼は、振り向きもしない白猫と北極熊の後方へと歩み寄り、胸に手を当てて丁寧に一礼した。

二人の視線を追い、デイブの姿を捉えたジャガーは、その魂の波動を読み取ると、胡乱げに眉根を寄せた。

「…あの人間は…一体…?因果が全く読めぬとは…。この特異な現象…欠片を宿す者でしょうか?」

「いや、どうやら違うらしいね」

静かに応じた北極熊は、しばしの間、何事かを考えているように押し黙ると、やおらジャガーを振り返り、口を開いた。

「他の二人はどうしたんだい?」

「は。テリトリー内に身を潜めております」

「それじゃあ…」

北極熊は身を捻ると、その大きな両手で白猫の体を左右から挟み込む。

そうして両肩のすぐ下辺りを後ろから捕まえ、そっと持ち上げると、ジャガーに向き直って自分の前に下ろした。

抵抗もせずに手すりから下ろされた白猫は、北極熊を振り返る。

その頭にそっと大きな手を乗せ、まるで壊れ易い物にでも触れるように、この上なく優しく軽く撫でると、北極熊は口の端

を少しだけ上げた。

優しげで慈愛に満ちたその笑みに、ジャガーは一瞬、我を忘れて見入っていた。

自分に向けられた物でないと判っていながらも、見る者を穏やかな気分にさせずにはいられない、透き通った、魅力的な笑

みであった。

「アズをそこへ連れて行って欲しい。ボクはもう少し調べたい事がある」

北極熊の言葉を聞いたジャガーは、ピクリと動かした我が耳を疑った。

「ダメかい?」

「滅相も無い!謹んでお預かりし、この身に代えてもお守り致します!」

返事が無いので再度問う北極熊に、ジャガーは背筋を伸ばし、直立不動の姿勢を取って応じる。

「ありがとう。済まないけれど頼むよ」

北極熊は一見物憂げにも見えるいつもの表情に戻りながらも、口の端に微笑の名残りを乗せたまま、ジャガーに向かって白

猫の背を押した。

一瞬、ぼぅっとその表情に見とれたジャガーは、首を左右に振って気を引き締める。

そして歩いて来る白猫に歩み寄り、一礼して迎えると、期待を込めて北極熊に尋ねた。

「…あの者の魂、人間というよりはむしろ…。こちら側に引き込む事ができるのではありませんか?」

「さて…」

応じた北極熊は首を巡らせると、遠く離れて豆粒以下の大きさになったデイブの背を、細くした目で見つめた。

「どうだろうね…」



一方で、ディープスラムを出た高級車の中では、眼鏡の紳士が隣に座る部下に話しかけられていた。

「あの小僧、また首を縦に振らなかったのですな?」

部下である男の身長は160センチ程だが、がっしりしていて顔は厳つく、素人でもそうと判るほど身に纏う空気が物騒で

ある。

「リロ、短気は起こしてくれるなよ?」

眼鏡の紳士はにこやかな微笑を浮かべたまま、デイブの態度に腹を立てているらしい部下を宥めた。

「ボス。あの小僧の腕っ節は知っておりますが、何故そこまで気を遣われます?」

「ボディーガードとして、是非傍に欲しい」

紳士は笑みを浮かべたまま続ける。

「汚い仕事はさせない、身辺警護だけだと頼んでいるのだが、なかなか首を縦に振ってくれなくて…」

「ボス。今でも警護役はいるではありませんか?抗争で殺されても、代わりの者などいくらでもおりますから…」

「いやいや、デイヴィッド個人が良いんだ」

紳士は面白がっているように眼を細めた。

「知っているかなリロ?彼はディープスラムで育ち、ストリートギャング達を身一つで退けて来ながら、たったの一人も殺し

た事がない。殺すのは簡単だろうにな」

「ほう…。腰抜けですか?」

殺した事がない。つまり殺せない。イコール腰抜け。

独自の答えに直結させたリロに、紳士は苦笑を向けた。

「そこが良いのさ。何とも格の違いを感じさせる。同時に、不必要な殺しを避けるスマートさも持ち合わせている」

「そういう物ですか…?」

納得しかねるのか、リロはいかつい顔を顰める。

「…どうしてもあの小僧が欲しいとおっしゃられるなら、私がちからずくで…。すぐに音を上げると思いま…」

「リロ」

名を呼ばれて言葉を途切れさせたリロは、隣から注がれる視線が変質している事に気付き、身を固くした。

「デイヴィッドは、私が個人的に気に入っている…、個人として認めている男であり、ちょっとした友人だ。いかなる手出し

も不要」

紳士は笑みを消し、横目でじっと部下を見つめながら、囁くように言った。

助手席に乗る男も、運転している男も、車内の空気が一変した事を敏感に感じ取り、身を固くしている。

身なりと態度こそ紳士的だが、幾度も修羅場を潜り抜け、ファミリーを立ち上げた男の、普段はその内側に仕舞い込まれて

いるものが滲み出ると、荒事慣れしている男達ですら萎縮させられてしまった。

「…は…、はい…!承知致しました…!」

リロは全身から脂汗が滲み出るのを感じながら、音を立てて唾を飲み込み、掠れた声で応じた。

「それとリロ、もう一つ…」

紳士は微笑を浮かべながらも、部下から視線を外さぬまま続けた。

「小耳に挟んで気になったのだがね…。ドラッグの売買など、してはいないな?」

リロは一拍間をあけてから、大きく頷いた。

「勿論しておりません。誓って」

「そうか。それなら良いんだ」

紳士はそれ以上追求しようとはしなかったが、リロは疑心を抱く。

(まさか勘付かれて…?いや、そんなはずは…)

「他に何をしても、薬と売春はいかん。儲けの手段としては申し分ないが、私達がすべきビジネスではない」

胸の内で呟いたリロは、紳士が静かに口を開くと、僅かに身を震わせた。

(シチリアでの会合では、おそらく他のファミリー相手に持論を展開なさるおつもりだろう…。だが、それでは駄目なのだ)

リロは歯噛みしつつ、胸の内で呟き続ける。

(俺とてボスのポリシーは尊重したいが、他のファミリーはクスリで莫大な利益を上げている…。今は良くとも、このまま行

けば収益差が開き、遠くない内に勢力図が書き換えられてしまう…。新参者や下っ端の中には、ファミリーの一員としての繋

がりも、最低限の義理と礼節すらも屁とも思わん連中も居る。美味い汁が吸えると知って、ボスを見限って他のファミリーに

流れるヤツらも現れかねん…)

隣に居る紳士には目を向けぬまま、リロは脚の上で組み、硬く握り締めた両手に視線を注ぐ。

(それではまずいのです…!力を保つには、ファミリーを守るには、毒ですら飲まねばならない…!)

ボスとファミリーの事を思い、考えを巡らせてはいたものの、リロにはいまだ紳士程の眼力は備わっていなかった。

その為、紳士が麻薬と売春によるビジネスを敬遠している理由も、一部分しか察する事ができていない。

紳士が薬と売春を禁止しているのは、決して人道的な理由からだけではない。

売春については病の蔓延と、恋愛感情のもつれから生じるトラブル、そして法規制の動きが気になるが故に敬遠している。

ドラッグについては警察の腰の入れ方も違う上に、気付かぬまま有能な芽を潰してしまうという弊害もある為に禁じている。

薬がばらまかれ、取引の場にされるのは、多くの場合、警官の目が届きにくい貧民街が中心になる。

スラム育ちの部下を幾人も抱え、そしてデイブともスラムで出会った紳士には、麻薬をビジネスにする事は、目先の利益に

囚われて強力な殺虫剤を使い、結局畑をだめにしてしまう行為と同様に思えている。

だが、リロにはそこまで深い部分は察せられていない。

ドラッグの売買は強力で魅力的な武器に思えており、デイブはただの無礼な若者に見えている。

(この大事な時期に心を割かれては、ボスの行動にも支障が出る…。シチリアに赴いていらっしゃる間に、あの邪魔な小僧は

内密に始末しておくべきか…)

顔には出さず、静かに決意を固めたリロの横で、紳士は部下の企みには気付かずに笑みを浮かべていた。

シチリア土産はどんな物が良いだろうかと、デイブの喜ぶ顔を思い浮かべながら…。



「む〜…。何も変わったもんはあらへんか…」

元よりさほど期待していなかったが、北極熊が立っていた位置から通りを眺め回したミカールは、ひどくがっかりしたよう

に呟いた。

「…にしても遅いな迎えの連中?よっぽど散っとったんやろか?管理人ゆうても複数人で動かんと、アイツ相手じゃ足止めに

もならへんのに…」

言葉を切ったミカールは、ふとある事に気が付いた。

ドーベルマンの独断専行と、回収の手際の悪さ、そして相手を過小評価している探索のスタイル。

そのどれもが、彼が良く知る管理室長の指示にしてはおかしかった。

「…ひょっとして、ドビエル来てへんのやろか?」

口にした途端に、それは確信となった。

ミカールが良く知っている灰色熊ならば、こんな動きは決して指示しない。

おまけにこの状況ならば、連絡を入れた直後に彼自身がここに飛んで来ていてもおかしくない。

(こらまずいわ…。そうなると、ワシの目論見とはだいぶ違って来よるで…)

管理人が三人一組で挑んでも、北極熊の足止めがせいぜい…、ミカールはそう戦力を見積もっている。

時間を稼いでいる間に、まともに相手が務まるドビエルや自分が駆け付けるという心積もりだったが、灰色熊が来ていない

となれば話は変わって来る。

「ぬぁ〜っ!何で来てへんねやあの筋肉達磨ぁっ!?」

背を反らして天を仰ぎ、苛立たしげに頭を掻きむしるミカールを、しかし気にする者は居なかった。

被認迷彩の作用で、周囲を歩いている人間達は、丸顔の獅子の存在に意識を向けられていない。

その誰も気付かないはずのミカールに、

「へぇ…、良くできてんなぁ?その被り物」

そう、声をかけた者があった。

一瞬同類かと思って、空に向けていた顔を前に戻したミカールは、その目を大きく見開いた。

顔にかかるざんばら髪の中に両目が半ば隠れている大柄な若者が、行き交う人々の中でただ一人足を止め、童顔の獅子を見

つめていた。

あまり身なりが良くない、頬に傷があるその若者の顔を、きょとんとして見つめたミカールは、

「…ほへ?」

怪訝そうな声を漏らしながら、ゆっくりと周囲を見回した。

辺りの人々は相変わらずミカールに意識を向けず、そして、立ち止まっている若者を無意識に避けて歩き過ぎてゆく。

ミカールのみならず、作用対象である彼に話しかけている若者もまた、その行動を周囲の人間達から認識されていない。

それは、ミカールの被認迷彩が正しく作用している証拠であった。

うっかり迷彩を解いてしまった訳ではない。にもかかわらず若者は自分を認識している。

辺りを見回してそう察したミカールは、改めて若者に視線を向けようとして顔を前に向け、直後、びくっと仰け反った。

いつの間にかミカールのすぐ前まで歩み寄っていた若者は、獅子の顔をまじまじと覗き込んでいる。

「一足早く仮装行列の練習か坊主?ハロウィンまでまだまだあるだろうに」

若者はミカールの動揺に一切気付かぬまま、心底面白がっているように笑う。

そして、どうやら外見から子供であると思い込んだらしく、ミカールの頭をわしわしと撫でた。

「良くできてるが…、これじゃあ「怖い」ってより「可愛い」だなぁ。がははは!」

いつもならば頭を撫でるその腕を払い除ける所なのだが、ミカールはそんな反応ができない程に慌ててしまっていた。

(まずっ!コイツ認識者か!?うっかりしとった!)

驚きながらも自分の軽率さに呆れ、されるがままに頭を撫でられていたミカールは、

(…違う…。何や…?何なんやこいつ…?)

次第に、驚愕からその顔を強張らせていった。

(…無い…。先が無い…。いや、後ろも…?視えへん…!このワシの目で、因果の繋がりが視えへんやと!?)

「じゃあな坊主。練習頑張れよ」

驚愕のあまり硬直しているミカールに、若者は笑みを浮かべたままそう告げ、手を振って歩き出す。

「ニコルより少し下ぐれぇか?可愛いもんだ」

呟きながら遠ざかってゆく若者を呆然と見送ったミカールは、その背がだいぶ小さくなってから、はっと我に返り、後を追っ

て駆け出した。

が、角を曲がった直後に、愕然として立ち止まる。

何処かの路地に入ったのか、男の姿はどこにも見えなくなっていた。

ミカールはいくつかある路地入り口へ駆け寄り、一つずつ確認したが、あれだけ大柄な若者の姿は見つからない。

「見失ったやと…?アホな!何なんやアレ!?このワシが残り香すら読めんて…!」

童顔の獅子は目を大きく見開き、驚愕すら滲ませた口調で呻く。

気配も読めず、行き先も判らない。

そこへ繋がる因果も、そこから繋がる因果も、自分の眼をもってしてすら全く視えない人間…。

死記を失うなどのアクシデントにより、因果が一部読めなくなっている人間を見た事は幾度もあるが、完全に読めない人間

と出会うのは、ミカールが過ごして来た永き時の間において、これが初めての事であった。

この時、ミカールはまだ気付いていなかった。

自分が遭遇した男が、どんな存在なのかという事に。

これが、史上最大にして最悪の危険人物デイヴィッドと、最古のメッセンジャー…オーバースペックの一人であるミカール

との、最初の出会いであった。



「また来てやがったのか?」

孤児院入り口で掃き掃除をしていた小太りな少年は、デイブに睨まれて肩を竦める。

「昨日の今日だぜ?懲りねぇなぁ本当に…」

呆れた様子でそう言ったデイブは、持参した包みをニコルに押し付けた。

「何これ?」

「貰いもんのチーズだ。シスターに渡しといてくれ」

「チーズ!?じゃあシスターにピザトースト焼いて貰おう!」

「だな!サラミたっぷり乗っけたヤツをよ!…っと、いけねぇ遅刻しちまう…。じゃあなニコル!頼んだぜ!」

包みを手にして首を捻っているニコルに中身を説明すると、デイブは孤児院の中に入らず、慌ただしく去って行った。

自分達の様子を孤児院の屋根の上から見下ろしていた者の存在には、全く気付く事なく。

赤いペンキも色褪せた屋根の天辺に、恰幅の良い北極熊は静かに佇んでいた。

その巨体を支え切れているのが不思議な程に痛んだ、雨漏りすらしている老朽化した屋根の上で、赤いコートの裾を風には

ためかせながら。

傍らには白猫の姿は無く、ジャガーや猿などの堕人達の姿もない。

やがて、歩いて行ったデイブの姿が遠ざかり、小さくなると、

「…さて…、キミはどっちなんだろうね…」

観察していた北極熊は薄赤い瞳を煌めかせ、叫んだとしても声が届かないほど離れたデイブに向かって、そう語りかけた。

そして、屋根の上にノイズが走り、北極熊の姿は誰にも気付かれぬまま掻き消えた。



その頃、デイブを見失ったミカールは、痕跡を辿る事を諦めて、ドーベルマンを残して来た建物の屋上へと向かっていた。

「…特異点や…。昨夜のガキとはちゃう…。一部だけ見えへんのやのうて、元来た道も行き先も全く見えへんかった…」

腕組みをしながら首を捻ってぶつぶつ呟いている童顔の獅子は、建物の壁面に対して垂直に立ち、重力の働いている方向を

無視してテクテク登っている。

「乱れの影響を受けて視えへんようになっとるんとちゃう…。完全な特異点や…。アレが今回の乱れの原因て考えてええやろ」

誰にも見咎められる事無く、非常識な経路をごくごく普通に…、ただし窓を踏みつけないよう足の置き場は選んで歩きなが

ら、ミカールは顔を顰めて唸った。

「…何でワシでも視えへんねやしかし?因果流着連環現象の中に身を置いてへんちゅう事やろか?…だとしたら死者なんか…?

旅の終点を気付かへんまま過ぎてもうたとか…、そないな事情で地上滞在が続いとる死者やろか?」

何かに気付いたように唐突に足を止め、ミカールは目を丸くした。

「…それとも…、そもそも存在自体が地上の理から外れとる…?」

獅子は考え込むように視線を下に向け、ポツリと、短い言葉を口にする。

「…メサイア…」

しばし黙考した後、ミカールは首をブンブンと横に振った。

「いや、違うやろ…。生まれたら中央管理室が察知できん訳が無い…。そもそも…、ここまで世の中が乱れとる以上、もう二

度とメサイアなんぞ生まれへんやろ…。メサイアが発生する環境は、とうの昔に失われとる…」

深いため息を吐き出したミカールは、「ああもう!ホンマめんどいなぁ!」と声をあげ、頭を両手でワシワシと掻き毟った

後、再び歩き出す。

「…しかしどうしたらえぇんや?死者やない…、害のある魂かどうかは判らんけど…、因果の乱れの原因にはなっとる…」

ブツブツ言いながら壁面を登り切ったミカールの体は、縁のところでグリンと90度起き、重力の影響下に戻る。

そうして屋上に立った獅子は、屋上に残していたドーベルマンの姿を目にして「ん?」と首を傾げた。

伸縮指揮のアンテナを備えた、持ち運び方小型ラジオにも似た通信機に向かって、身を起こしたドーベルマンが何やら呟い

ていた。

「…そう、因果が視えない人間が居て…。今しがたミカールが追って行かれたが…。間違いない。あれは乱れを生み出してい

る。執行人の派遣を…」

内容を聞き取ったミカールは「執行人やと!?」と、目を見開きながら大声を上げた。

「あ…、お戻りになられましたか、ミカール…」

通信を終えたらしく、機械のスイッチを切ったドーベルマンは、ミカールの方へと顔を向けた。

「ちょい待ちぃ!今お前、執行人がどうとか…」

「はい。因果の乱れを生み出していると思われますので、処分依頼を。私達の管轄ではありませんから、彼らに任せるのが一

番でしょう」

ドーベルマンがそう答えると、ミカールは眉を吊り上げた。

「な、何で処分させるんや!?アレはまだ良えもんか悪いもんかも判ってへん!何も執行人呼ばんでも…!」

「え?で、ですが…、あれが乱れの根源となっている事は確かで…。しかし我々は、咎があるかどうか判断できない場合は、

魂を消滅させる事は許されておりませんし…。こういった場合、執行人に処分させるのが妥当かと考えたのですが…」

ミカールが何故怒っているのか判らず、剣幕に押されたドーベルマンはオロオロと答える。

管理人のその態度を目にし、ミカールは「ぐぅ…!」と呻いて怒鳴りつけたい衝動を堪える。

乱れの根源は排除しなければならない。

そして、例え排除対象となった魂であっても、それが消滅に値するだけの咎を持っている場合を除き、配達人も管理人も、

消滅に至るだけの危害を加えるのは職務規定違反となる。

規定に照らし合わせれば、ドーベルマンの判断は、一概に誤っているとも言えなかった。

だが、今回はケースが少々特殊である。

魂の咎について判断がつかない。しかし因果の乱れの原因である事は確実。

何より、あの大男が生きている間に、どれだけの因果が不確定な状態に陥るのか予想もつかない。

将来の事を考えれば排除が妥当とは思えるが、しかし、消滅させるに値するだけの咎を内包しているか熟考もせず、簡単に

消滅させて良い物かどうか…、そして、消滅させる以外に乱れの回避措置は講じられないのか…、ミカールはその点について

頭を悩ませていた。

管理人として日が浅いドーベルマンは、規定に従って最善と思われる手を考えた。

そこを経験不足と言ってしまうのは簡単だが、ミカールはこうも思った。

そこまで人間に肩入れせず、規定に従って処分を決定する方が、システムに則った正しいあり方なのかもしれない、と。

しばらく考えた後、ミカールは「はぁ…」と、大仰にため息をついた。

「規定の見直しも検討せなあかんやろな…。前の改定から時間も経って、人間が増え過ぎてケースも多様化しとる…。古い規

定で対応してくにも限界があるわ…」

「あ…、あの…、ミカール?私は…、もしかして判断ミスを…?」

獅子の表情と態度を目にし、急に自信が無くなったらしいドーベルマンがオドオドと声をかけると、ミカールは微苦笑を浮

かべた。

「いや…、お前が間違うとる訳やない。今の体制やったら無理のない判断や…。こいつは、ケースが特殊やからな…」

顔立ちは精悍な割に、オドオドし始めると途端に頼りなくなる新人の管理人を励ますと、ミカールは彼に背を向けて、デイ

ブを見失った方角へと目をやった。

(さて困ったで…。あの大男が処分されへんように、中央の連中を説得できるだけの材料を揃えへんと…。いや、それ以前に

あの大男が危険かどうか、きっちり見極めへんとな…)

そんな事を考えていたミカールは、しかしまだ気付いていない。

普段から人間への過度な肩入れは慎むようにと同僚達に言っている割に、今回はその自分こそが、らしくもなく寛大な判断

を下そうとしている事には。