第二十五話「大いなる敵対者」(前編)

「では、アルが気にしておられたその特異点…、乱れの根源らしき人間は、欠片の所持者ではないと?」

「うむ…」

高い位置に切られた細い窓から、午後の日差しが斜めに射し込む薄暗い部屋で、猿と、鷲と、ジャガーが、それぞれかなり

痛んだ木の椅子に腰掛けて顔をあわせ、ボソボソと囁き交わしていた。

そこは、商店が建ち並ぶ通りの一角にある、閉められて久しい店の、かつて商品倉庫として使われていた、奥まった部屋で

あった。

ミカールとでくわした位置からかなり離れたそこは、堕人達が身を潜める場所の一つで、配達人や管理人に悟られないよう、

特殊な迷彩が施してある。

一応は安全と言えるその場所で、外から戻ったジャガーは、身を潜めていた二人から様子を尋ねられている。

「では、何故興味を示されたのだ?」

「判らぬ。元より、あの御方がお考えになる事柄の多くは、我等如きに推し量れる物ではない…」

「…あるいは、何かに使えるとお考えになられたのだろうか?」

「さて、それも…。極めて珍しい魂ではあったので、一応、こちらに引き込める可能性について口にはしてみたが…」

「ほう…、どうだったのだ?」

「「どうだろう」とだけ…」

「それでは可とも不可ともつかんな…」

「管理人達も動いている。勿論、早々に移動なさるよう忠告申し上げては来たが…」

「それで動じる方ではない。管理人の一人や二人では、あの御方の歩みを止める事すらできん」

「確かに。ただ気がかりは…」

「オーバースペックの一人…、ミカールか…」

ジャガーがその名を口にすると、鷲と猿は黙り込んだ。

「よりによってアルが滞在しておられる街に配達しに来ているとは…」

「本当にたまたまなのか?アルの足取りを追ってという事は…」

「不可能だ。あの御方の気配を辿れる者など居ない」

「アルご自身も「偶然出会って向こうも驚いていた」とおっしゃっておられた事だからな…。たまたまなのだろう」

「私が案じている事は他にも一つ。普通の管理人達ならばともかく、その長たる「絶対矛盾」などと出くわしては、いかなあ

の御方といえども骨が折れよう…」

「それでも、ご自身のみであればいかようにも切り抜けられる事であろうがな…」

「そう、そこだ!」

猿が突然声を大きくし、ジャガーと鷲は仲間の顔を見遣った。

「あの御方はお一人でも大丈夫なのだ。むしろ、群れた所で得にならん。足手纏いが増えるだけだ。今我らが出歩くのは、あ

の御方にとっては我らの思惑とは裏腹に、不都合なだけなのではないか?」

「それは私も感じている。…そもそも、あの御方は我等に迎合している訳ではない。我等、堕人と呼ばれるに至った者共が、

一方的にアル・シャイターンとお呼びし、崇め奉り、旗印として祭り上げているに過ぎぬ…」

頷いたジャガーが静かに呟くと、鷲も首を縦に振って同意を示し、口を開いた。

「あの御方は、我らを臣下としている認識も、我らに対する仲間意識のようなものも持たれてはおらんだろう。あくまでも、

我らが勝手にあの御方の周囲に群れ集っているに過ぎん…。我らはそう、灯火に惹かれる虫のような物よ…」

「それは、寄り過ぎれば危険という事か?お主はあの御方の傍に居るのが怖いのか?」

咎めるように猿が声を荒げると、鷲は首を左右に振った。

「例えが悪かったかもしれん…。が、例えあの御方の傍に寄る事が、火に焼かれる事に等しいとしても…」

「無論…。アルから離れるつもりは無い」

鷲の後を引き取って言ったジャガーは、「それに…」と付け加えつつ、部屋の奥へと視線を向けた。

三人から少し離れた壁際のそこには、他の物より幾分立派な椅子が二組、クッションとシーツで見栄えを整えられて置いて

ある。

その片方には、赤いロングコートを纏った小柄な白猫が、ちょこんと、身じろぎ一つせず座っていた。

「こうして彼女を預けて行かれた以上は、我等もそれなりに信頼されているという事だろう」

置物のように身動きせず、感情を移さぬ瞳を壁の一点に向けている白猫を見遣りながら、ジャガーは呟いた。

「いかにも…」

「それもそうよな…」

言われて見ればと、猿と鷲は満足気に頷く。

一方で白猫は、彼らの視線を受けながらも、それらに対して全く反応を示さぬまま、

「………」

無言のまま、ただじっと、自分の保護者である北極熊が居るであろう方角に、遠い視線を向けていた。



「…デイヴィッドを…?」

身なりは悪いが顔立ちはそこそこ整っている青年は、掠れた声を発した。

先日ニコルを拉致し、デイブを仲間に引き込もうと画策したが、結果として逆鱗に触れ叩きのめされた、ストリートギャン

グのリーダーである。

川岸に建つ小ぎれいなホテルの一室で、革張りのソファーに腰掛けているが、落ち着かない様子でひどくオドオドしており、

顔は青ざめている。

部屋には他にもう一人、スーツを着た男が居るが、そちらは窓際に立って青年に背を向けている。

見事な夕暮れの景観を窓から眺めている男は、身長は低いがかなりがっしりしており、顔は厳つく、暴力的な雰囲気を纏っ

ている。

青年はつい先程、根城にしているディープスラムで「ある大物の使い」と称する男に声をかけられ、ここへ連れてこられた。

そして、今自分に背を向けているこの男と対面したのだが、それなりに良く知られているマフィアの一員に呼び出された事

で、青年は萎縮してしまっていた。

もしかして、自分達は知らずに何かのタブーを犯してしまったのではないか?と。

そんな気分でいたので、仕事を頼みたいと言われた青年は、一度は跳び上がらんばかりに喜んだ。

だが、その仕事の中身を聞かされた直後から、今の顔色になって硬直してしまっている。

「あの…、デイヴィッドは、何かしたんでしょうか?」

「知る必要は無い」

恐る恐る訊ねた青年に、男は短く応じて向き直る。

男は、眼鏡の紳士にリロと呼ばれていた、人相の悪い男であった。

決断力と行動力を持ち合わせている上に、その過激さと暴力性からファミリー内でも一目置かれているこの男は、紳士を送っ

た後に、さっそく自らの考えを実行に移した。

「先にも言ったが、やり遂げてくれたならばファミリーの一員として迎えるよう、口利きしてやろう。それでも嫌だと言うな

らば仕方がない、他の連中を当たってみるだけだ」

青年は組んだ手をカタカタ震わせつつ、しばし逡巡した。

ファミリーに迎え入れてくれるという提案は魅力的で、多少のリスクに目を瞑るだけの価値はある。

それに何より、聞かされた仕事の内容から言っても、断って無事に帰れる保証はない。

呼び出された時点で、もはや従う以外に道は残っていなかったのだと、青年は覚悟を決めた。

「…やります…。やってみます…!」

からからに乾いた唇を舐めて湿らせた青年は、組んだ手と、その下の膝をカタカタと震わせながらそう答えた。

その視線は、目の前のローテーブルに置かれた紙袋に固定されている。

先ほど中身を見せられたが、リロが用意したその袋には、オートマチックの拳銃が三丁収まっていた。

「人間一人殺すだけ…、簡単です。相手があのデイヴィッドでも、銃があるなら何とでもなる…!」

傷害事件も殺人事件も日常茶飯事の、ディープスラムで育った青年である。

仲間には殺しの経験がある者も二人おり、殺しを忌避する意識は薄い。

その上で、マフィアがバックに付き、拳銃という判り易い「力」を与えてくれるとなれば、殺人すらもそれほど重大な事に

は思えなくなっていた。

「そうか。やはり見所がある。お前に声をかけて正解だった」

リロはかなり努力して慎重に笑みを作り、自分の厳つい顔がいくらかでも和やかに見えるよう気を配った。

マフィアの同業者からも恐れられる男に笑いかけられ、期待の言葉までかけられた青年は、力強く頷いて、やや引き攣った

笑みを浮かべる。

「ただし、殺害の決行は私が指定する期間内として貰う。それより早くとも、勿論遅くとも駄目だ」

そう言って、リロは青年にある期限を伝えた。

リロが指定した抹殺の期間…。それは、デイブを気に入っているあの眼鏡の紳士がこの街を離れている期間の、序盤に当た

る数日間であった。

ボスが居ない間に彼を惑わす質の悪いチンピラを始末する…。

それも、彼と同じディープスラムのチンピラを利用して…。

表向きは、デイブはチンピラ同士の抗争で死んだという結果に見えるように…。

自分の手は汚さず、この青年を利用してデイブを消し、青年もまた口封じの為に始末する。それが、リロが思い描いている

形であった。

(居なくなりさえすれば、ボスも目を醒まされる事だろう…。あの方はまだまだ上に行ける。いや、行かねばならんし、ファ

ミリーはもっと強大になる。あんな小僧にいつまでも関心を示されていては困るのだ。…全てはあなたの為なのです、ボス…)

デイブが片付いた後に始末するつもりの青年を、口では励まし、誉め、持ち上げつつ、リロは薄い唇を横に引き、確信犯の

笑みを浮かべていた。



夕暮れの赤い光に染められた空の下、従事していた港での仕事も一段落したデイブは、荷揚げ場からほど近い店のオープン

テラスに陣取り、安物のサンドイッチを頬張っていた。

ディープスラムと隣接しているとは信じられないほどに、この区画は明るく賑やかで活気に溢れ、治安も良い。

夕刻の作業は終わったが、この後少し時間を置くと、日没後までの作業が始まる。

もっぱら荷の量が増える午後と、暗くて悪条件下で人手が少なくなる日没後までの荷揚げ荷下ろしは賃金の割が良いので、

デイブはこの時間帯だけ決して逃さず、狙って従事するようにしている。

しばし黙々とサンドイッチを嚥下していたデイブは、皿に伸ばした手を止め、正面に視線を固定した。

椅子とテーブルの合間を縫って、極めて大柄な男が自分の方へと向かって来ている事に気が付いて。

その男は、大柄なデイブですら見上げねばならない程の巨漢で、赤いロングコートを纏っていた。

右手に大型の紙コップを持って歩いて来るその男を、デイブは訝るような表情を浮かべつつ凝視する。

その巨漢の顔が、人間の物ではなかったからである。

巨漢の頭部は、真っ白い毛に覆われた獣…、北極熊の物であった。

(昼間に見た坊主みてぇな仮装だな?あれもハロウィン用の仮装か?けど何だってケダモノの仮装なんだ?テレビ番組か何か

の流行りか?それにしたって早いだろう?今年は早く準備しねぇとダメだとか、新しい法律でもできたのか?ハロウィン法と

か…)

とりとめもなくそんな事を考えているデイブの顔は、ゆっくりと上向きになって行った。

その巨漢が真っ直ぐにデイブの元へやって来て、目前に立ったせいで。

相手の獣面を胡乱げに、しかしある種の感嘆を込めて見上げるデイブに、

「相席させて貰っても構わないかな?」

北極熊は低い、しかし良く通る穏やかな声音で尋ねた。

デイブが被認迷彩を無効化し、自分を認識している事にも、驚いている様子は全く無い。

一方でデイブは、被認迷彩を看破するという自分の特異な性質には、全く気付いていないのだが。

頷いたデイブは、しかし北極熊が椅子を引いて腰を降ろした後に、他にもテーブルがあいている事に気付いて眉根を寄せた。

他の空いているテーブルに付かない点も奇妙だが、本人も自覚しているデイブの見てくれの悪さにも怯まず、わざわざ相席

を申し出たという点が奇妙で仕方が無い。

大柄で筋肉質な体に纏うのは、程度の悪い衣類。

伸びるに任せたざんばら髪の下から覗く鋭い目。

おまけに頬には目立つ傷痕があり、人相はすこぶる悪い。

それなのにこの巨漢は、わざわざ自分の前に座った。

この北極熊のマスクを取ると、下から見知った顔でも出て来るのではないだろうか?知り合いだからわざわざ自分と相席に

したのではないか?そんな風に考えたデイブは、

(いや、こんなでけぇ知り合いは絶対に居ねぇぞ…?)

すぐさま自分の考えを否定し、ますます訳が判らなくなる。

ただ、敵意や悪意…、害意とでもいうべきものは北極熊から感じられないので、不思議がってはいるが、それほど警戒はし

ていない。

(世の中には色々なのが居るからなぁ…。「相席マニア」とか妙な趣味のヤツが居たって不思議じゃねぇか…。あるいはアレ

だ。「貴方の幸せのために祈らせて下さい」とか言い出すつもりかもしれねぇな…。さらに入信の勧誘とか…)

そう自分を納得させようとしたデイブは、しかし違和感を消す事はできなかった。

この嫌が応にも目立つ恰好の北極熊に、周囲からは全く注意が向けられていない事が、どうにも不自然過ぎて。

席のすぐ傍にある歩道を行く若者も、近くの席に座り、明らかに北極熊を視界に入れているはずの中年女性も、この巨漢に

ちらりとも目を向けない。

北極熊をそれとなく眺めながら、デイブは僅かに首を捻る。

(今日この辺りでイベントか何かがあって、それでこういう恰好してるのか?見慣れてるから皆あまり気にならんとか、そう

いう事なのか?)

違和感は強く、どう理由を想像しても全く薄れなかったが、そうとでも考えなければ説明がつかなかったので、デイブは無

理矢理自分を納得させる。

(しかし良くできてんなぁこれ…。口の中に穴があるのか?マスク脱がなくともジュースが飲めるのかよ…。それともこれも

パフォーマンスか?ストロー咥えてるだけで実際には飲んでねぇとか…。確かにジュースを啜ってる白熊はユーモラスだが…)

そんな事を考えているデイブの前で、北極熊はストローを咥えて、静かにオレンジジュースを啜っている。

少し首を伸ばして覗き見れば中身が減っている事に気付き、実際に飲んでいる事を確信できるのだが、デイブはそこまでし

なかった。

別のとある事に気を取られ、戸惑いを覚え始めていたせいで。

同席はしたものの、何か話しかけてくるでもなくジュースを啜っている北極熊に対して覚える、奇妙な親近感について、デ

イブは少しばかり戸惑っている。

孤児院の子供達やニコルに対して抱く親近感…仲間意識。それとは厳密には違うものの、そう離れてもいない何らかの感覚

が、デイブを困惑させていた。

デイブ自身ははっきりと認識できず、言葉に置き換える事はできなかったが、それは同族意識と呼ばれる物に近く、言い方

を変えれば、自分と似た匂いを感じているとも言える。

同じ目的を持つ訳でもなく、共に過ごして来た訳でもないが、根底に自分と同じ物を持っている印象を、デイブは北極熊に

対しておぼろげながら覚えていた。

その感覚は不慣れな物だったので戸惑いはしているものの、不快には感じられていない。

マスクを被って素顔も判らない相手が同席を申し出ているのに、何故自分の警戒心が刺激されないのか?

その点も奇妙で、やはり理解できなかったデイブは、あれこれ考え込むのを止めて、途中だった食事を片付け始める。

サンドイッチは値段に見合ってあまり上質ではない。

タマゴもハムも質はあまり良くない上に、パン生地はぱさぱさしている。

だが、挟まれたマスタードとマヨネーズは絶品で、作業後の空腹にはご馳走であった。

視線を手元に落とし、黙々と食事しているデイブは、北極熊の表情が微かに変化している事には気付いていない。

(…なるほど…、そういう事か…)

ジュースを啜りながら、間近でデイブを観察した北極熊は、胸の内で呟いた。

(やっぱり欠片の所持者じゃあない。けれど、少し様子を見ておく必要があるかな…)

そして声に出さぬまま、心の中でデイブに語りかける。

(さて、キミは一体どっちなんだろうね…?)

彼が、最初の一人であった。

デイブがいかなる存在であるのかを、はっきりと理解したのは。

やがて、安物のサンドイッチを薄いコーヒーで流し込み、簡素な食事を終えたデイブは、立ち上がりかけてふと表情を変え、

中腰の姿勢で止まる。

ぞくりと、背筋を冷たい物が走った。

ざんばら髪の下で目を光らせつつ、素早く首を巡らせて周囲の様子を窺った大男は、程なく訝しげに顔を顰めた。

「…ん?」

一瞬危険を感じたのだが、辺りには自分に注意を向けているような者はおらず、そして危機感そのものも一瞬でかき消えて

いた。

まるで、気圧の変化を鼓膜で感じるように、微かに空気の変化を感じたような気もしたが、その感覚もまた無くなっている。

おそらく何か、耳慣れない物音か気配にでも反応してしまったのだろうと考え、デイブは警戒を緩めた。

そして紙の皿とコップを掴み上げてグシャッと丸め、立ち去ろうとしたが、

「…時も場所も選ばず…か…」

小さな声を耳にして、北極熊に視線を向ける。

「ん?何だって?」

「いや、独り言さ。気にしないでおくれ」

聞き返したデイブにそう応じた北極熊は、薄赤い瞳を静かに降ろした瞼で隠す。

「つかぬ事を訊くけれど、キミには、大切な物はあるかい?」

「あん?」

問われたデイブは胡乱げな表情を浮かべ、目を閉じている北極熊を見つめた。

(…ん?このマスク…、瞼も閉じるのかよ?本格的だなぁ、どうなってんだ?)

細かな所に感心してしまい、返事をするのも忘れているデイブに、北極熊は続けた。

「何より大切な物。…例えば、それの為に他の全てを失う事も、捨てる事も厭わない…。そんな物はあるかい?」

妙な恰好の相手から投げかけられた妙な問い掛けに、デイブは顔を顰めた。

「…あるような無いような…。他より大事だって言える物は…、まぁ、確かにあるか?」

しばし考えた後にそう言ったデイブは、広い肩を竦めた。

「けどそんな物は誰にだってあるだろ?誰だって「あれよりはこれが大切」「こっちよりあっちが大事」っての、あるんじゃ

ねぇか?」

「そうだね、その通りだ。重要性の強弱に関する価値観は、殆ど誰にでも備わっている。度合いの違いこそあれ、ね」

応じた北極熊はゆっくりとその目を開き、じっと大男の顔を見つめた。

「キミには、もしかしたら資格があるかもしれない」

目にかかるざんばら髪の下で眉根を寄せ、デイブは訊き返す。

「資格?何のだ?」

「…敵対者の資格が…」

ぼそりと呟いた北極熊は、言葉の意味が判らずに再び訊ねようとしたデイブに先んじて口を開いた。

「時間を取らせて済まなかったね。用事があったんじゃないのかな?」

「え?あ、ああ…」

言われたデイブは、釈然としなかったものの、作業の開始時間も迫っていたので、仕方なくテーブルを離れた。

周囲の客は一人として彼らに視線を向けておらず、会話の内容も耳に入っていない。

かなり目立つ自分と北極熊がまるっきり目に入っていないような周囲の無反応にも、しかし僅かに首を傾げているデイブは

気付けていなかった。

(何だありゃあ?やっぱり宗教関係の勧誘か何かか?…それにしちゃあ、本題に入らねぇまま解放してくれるなんておかしい

が…)

胸の中で呟きつつ歩み去るデイブを無言で見送った北極熊は、中身を飲み終えて空になった紙コップを、音もなくテーブル

に置いた。

「…さて、一応忠告しておこうか…」

囁くように言った北極熊は、立ち上がりながら頭上を仰ぎ見る。

北極熊のほぼ真上にあたる上空10メートル程、彼とデイブがついていたテーブルを三方から見下ろしている影があった。

オートマチックの拳銃を握り、その銃口と視線を眼下の北極熊に向けているのは、黒いスーツを纏った獣面の男達。

数で勝っている管理人達の顔には、しかし余裕の色は無い。

彼らがつい先程、巻き添えを出さぬ為に仕掛けた空間隔離は、効果を現す事がなかった。

だが、北極熊は座したまま、自己の周囲への干渉を妨害し、無効化してのけたのである。

デイブが感じた空気の変容は、彼らのその応酬に対しての物であったが、せめぎ合うでもなく一瞬で勝敗が決した為、しっ

かりと捉える事が出来なかった。

デイブがそれを危機と認識したのは、自身もまた空間隔離の影響を受ける事を魂のレベルで察知したからであり、北極熊が

空間隔離を妨害したのは、彼が影響を受ける事を理解していたからなのだが、三名の管理人達にはそこまで判っていなかった。

じっくり観察すれば、デイブが影響を受ける可能性に思い至る事もできたのだろうが、管理人達は特異点たる彼を認識しな

がらも、北極熊以外に注意を向ける余裕が無かったのである。

自分を見下ろしている、それぞれ豹と狼、馬の頭部を持つ管理人達を、物憂げにも見える光を湛えた赤い瞳で眺めつつ、北

極熊は口を開いた。

「帰った方が良い。ボクから何かをするつもりはないから」

静かなその声を浴びながら、管理人達はゆっくりと高度を下げ、北極熊を三方から取り囲む形を取る。

「…けれど、当然ながら降りかかる火の粉は払う」

完全に囲まれる形になっても、北極熊は落ち着いており、声音はあくまでも静かであった。

「この場で消滅する覚悟があるのなら好きにすればいい。どんな結果も、君達の自由意志がもたらす答えだからね」



「あんな事があったばっかやと、配達にも身が入らんなぁ…。けど放っとく訳にもいかへん。こっちが本職やしな」

一方で同じ頃、路肩にバイクを停め、傍のカート型移動売店で買ったハンバーガーを囓りながら、背が低くて太っている獅

子がぼやいた。

どうやら休憩中らしく、つなぎの前を大きく開けており、そこから出っ張った腹がぽっこりと張り出している様はどこか微

笑ましい。

負傷しているドーベルマンを迎えに来た管理人に引き渡し、配達を再開したものの、ミカールには相変わらず北極熊の事が

気になっている。

対処は管理人達に任せて、配達をしながらあの大男を捜し、派遣されて来るはずの執行人を説得する…。

それがミカールの立てたプランであったが、注意しながら駆け巡っているにも関わらず、ざんばら髪の大男は一向に捕捉で

きていない。

おまけに、古馴染みである管理室長である灰色熊は、遥か遠くの国でおおわらわになっており、連絡が届いていないらしい

と聞かされた事もあって、管理人達の戦力にも不安を覚え、やや焦りを感じ初めていた。

(ドビエル来られへんねやったら、ワシの見込みとかなりちごうて来るなぁ…。アイツもう他所行ったやろか?それともまだ

この近くにおるんやろか?二日続けておった以上、たまたまおった訳やない気がするんやけど…)

ハンバーガーからはみ出して指についたケチャップを、チュバチュバと音すら立てて入念にしゃぶり取ると、ミカールは真

面目な思考を中断し、ハンバーガーのカートに視線を向けた。

「…もう一個食ってく余裕は…、大丈夫、まだ時間ある…。ちょびっとだけやちょびっと。もう一個だけ…」

程度の悪い安物と覚悟していたハンバーガーが予想以上に美味かったので、獅子はもう一個食べて行く事にして、再びカー

トに足を向ける。

だが、その歩みは二歩で止まった。

再び表情を引き締めたミカールは、鬣から覗く耳をピクピクと動かし、周囲を見回す。

「…声…?何や?」

叫び声を耳にしたような気がしたミカールは、衣類の乱れを直す事もせず、踵を返してバイクに駆け寄る。

愛車に跨るなりエンジンに火を入れた、口元を引き結んでいる童顔の獅子は、妙な胸騒ぎを覚えていた。



ゆっくりした歩調でコツコツと石畳を踏み締め、北極熊は一人、歩道を行く。

その背後に見える、オープンテラスのカフェを囲む生け垣から、黒い革靴を履いた足が突き出していた。

靴底を上に向け、天を突くように逆さに生えたそれは、繋がってゆく先が無い。

ズボンの裾に覆われたまま、膝の少し下で途切れた足だけがそこにあり、まるで長靴が逆さまに干してあるようにも見えた。

その足は、細かな光の粒子を発散しながら、徐々に輪郭を曖昧にし、希薄になってゆく。

果敢に北極熊へ挑んだ三名の管理人は、しかし結局力及ばなかった。

時間にしてほんの数秒。

先に行かせたデイブを再び観察する為に追いかけるには、タイムロスにもなっておらず、十分余裕がある。

空間隔離すらしていないにも関わらず、周囲に何の痕跡も残さず、三名は返り討ちにされた。

決死の覚悟で挑んでもなお、北極熊の足止めにすらならずに、消滅という結果を迎えている。

彼らの身に起こる消滅とは、つまり定命の存在とは異なる彼らにとっての死である。

同時に、通常の生物とは違って、転生すら無い完全なる死の形とも言える。

地上に赴き、肉の体に収まった状態で魂が消滅すれば、器である肉体もまた消え去る。

残響として死神が残る場合を除けば、遺体はおろか痕跡すら残さずに消えてしまう。

結合を失った魂は分解されて霧散し、大気に溶け込み、世界に散ってそのものの一部となる。

それが、彼らにとっての死…、消滅という現象であった。

歩き去った北極熊の姿が見えなくなり、唯一残っていた管理人の足一本がいよいよ消えようかというその時になって、レモ

ンイエローの獅子はその場に到着した。

もはやうっすらと光る棒のようにしか見えないそれを、走り込ませたバイクに跨ったまま、降りる事すら忘れて凝視したミ

カールは、

「………」

口をぽかんと開け、絶句していた。

その驚きのあまり呆けたようになっていた顔が、やがて悔恨に歪む。

「…甘かったんか…。ワシは…!」

残り香から、少なくとも管理人三名が消滅に至った事を悟り、ミカールは牙を噛み締めた。

擦れた歯がバリバリと音を立て、喉から押し殺した呻きが漏れる。

管理人が三人居ても、全く歯が立たなかった。

この実力差を見抜けていれば、最初から配達業務を先送りにし、行動を共にしていたのにと、ミカールは己の不明を悔いる。

(配達は後回しや…)

消えてゆく足を見つめながら、ミカールは胸の内で呟く。

(止めなあかん…!あいつはやっぱり、ワシが止めたらなあかんねや…!)

手がかりが残されていないかと周囲を見回したミカールは、そこである事に気付く。

カフェのウェイターの一人とレジ係の女性の因果履歴が、一部感知できなくなっていた。

(…因果の乱れ…?塗りつぶされたみたいに視えへんようになっとる…。この現象は…!)

二人がどんな存在と接触したのかを理解したミカールは、北極熊の行動についてもある程度察しをつける。

因果が一部視えなくなっている二名が言葉を交わした相手は、特異点たるあの大男と見て間違いない。

見えなくなっているのは数分前で、管理人達が消滅させられた時間とも一致する。

「興味持っとるんか、それとも何かしようとしとるんか判らへんが…、あの大男の周辺を嗅ぎ回っとるんか…」

ミカール。北極熊。そしてデイヴィッド…。

三人は引き寄せられてゆく。

人為らざる者でも視えず、読み解けない糸で手繰り寄せられるように…。



一方で、船着場での荷降ろし作業に汗を流し始めたデイブを、北極熊は遠くから眺めていた。

人間の目では捉える事が難しいほど遠く離れた、海上の波間に佇みながら。

ゆったりうねる水面に立ち、じっとデイブを観察しながら、北極熊は考える。

(資格はあるかもしれない。そして力も。…けれど灰色だね…。今はまだ、どちらに転ぶか判らない…)

見定めるには少々時間が必要。そう判断した北極熊は、ひっそりと、静かに、デイブの様子を観察していた。

獲物を狙って身を潜めているようにも見えて、保護すべき者を見守っているようにも見える。

感情の読めない眼差しを注ぐその姿には、そんな、どっちつかずの奇妙な雰囲気があった。



とある中流階級の家を、レモンイエローの獅子は、暗くなった空の下で見張っていた。

その車輪で大地をそうするように大気を踏み締めて空中に留まっている愛車に跨ったまま、無言でじっと動かずに。

そこは、先日ミカールが一度訪れた、ニコルの家である。

日没間際に見張り始めて程なく、ぽっちゃりした少年が帰宅した事は確認している。

その後ニコルは外出しておらず、今も自室の机について本とノートを広げ、学校から出されたのだろう課題か何かに取り組

んでいた。

遥か高空、カーテンが開いたままの窓から中を観察しながら、黙り込んでいた獅子は唐突に呟いた。

「この分やと、今日はもうあの乱れの原因と接触する事はないやろな…」

気配が察知できない因果の乱れを辿るならば、接触したはずの者をあたればよい。ミカールはそう考えた。

先に訪れた際、この家に住まう者は、ニコルを除いて因果の乱れを受けていない事は確認してある。

その事から、因果を乱す存在はこの家自体に縁があるのではなく、少年個人の知り合いだと目星をつけた。

自分の完璧な被認迷彩を看破した、行く先が視えない大男…。

北極熊があの大男に興味を持っていると、ミカールはカフェでおこなった洞察で確信している。

だからこそ、闇雲に探し回るよりも、ニコルと大男の接触を待って、彼の周囲を嗅ぎ回っているはずの北極熊を待ち伏せす

る方が効率的だと考えたのだが…、

「…なんやイライラして来よったで…。やっぱり張り込みはワシの性にあわんわ…。だいたい何で来ぃへんねやドビエルの阿

呆…!忙しいてゆうても、連絡付かへんてどういうこっちゃホンマ…!」

短気な獅子は早くも張り込みに飽きてしまい、不機嫌さを隠そうともせず、露骨に顔を顰めながらそんな事を呟いていた。