第二十六話 「大いなる敵対者」(中編)
モソモソとサンドイッチを囓りながら、レモンイエローの獅子は不機嫌そうな三白眼で、とある建物を睨んでいた。
賑やかな通りにある、裕福な観光客を客層としているホテルの屋上に愛車を停め、鉄製の手すりにもたれ掛かったまま。
ミカールが視線を注いでいるのは、ホテルから直線距離で五百メートル程離れている建物…ジュニアハイスクールである。
ミカールとデイブが接触し、また、北極熊もデイブと言葉を交わした日から、表向きは何事も無く二日が経った。
因果の乱れの原因となっている大男…デイブと接触するはずのニコルを張り込んでいるミカールは、
「…今日も学校から帰るだけの一日なんやろか…」
むっつりと不機嫌そうな顔をしながら、学校の窓、その中の教室で授業を受けている少年を見つめている。
日も傾き始めた午後三時。もうじき最後の授業も終わり、下校時間となる。
ずっとニコルを監視していたミカールだが、いまだにデイブと、彼に接触を持つはずの本命である北極熊を見つけられずに
いる。
苛立ちに加え、焦りまで感じ始めている童顔の獅子は、ガブリとサンドイッチに噛み付き、乱暴に食い千切った。
(執行人まで来てもうたんや…、早いトコあの大男を見つけへんと、おもろない事になってまう…。その上、管理人達を消滅
させてから、アイツの動きも活発になっとる…。犠牲者こそ出とらへんけど、あちこちで姿見られとるらしいし…)
しばしイチゴジャムサンドをムグムグと咀嚼していたミカールは、ゴクリと飲み込むと、
「んがぁーっ!めんどいわホンマっ!なんであんなデカい男がさっぱり見つからへんねや!?人多過ぎやこの街っ!増え過ぎ
なんや人間っ!」
癇癪を起こして声を上げつつ、握り拳で手すりをガンガンと叩き始めた。
「あのガキ、すぐ大男と会うと思っとったのに、毎日真っ直ぐ家に帰っては部屋にこもって暗ぁ〜くムツムツ何か作っとるし!
さっぱり出かけへん!えぇんか!?若い内からあんなんで!?もっとこう元気はつらつ外で遊んだらええんとちゃうか!?参
るわホンマ!」
大声で文句を言っているミカールは、もうじき事態が大きく、急激に動き出す事には、さすがに予想が及んでいなかった。
ニコルを監視するミカールがイライラしていた、その少し後。
午後の労働を終え、いつものカフェで夕刻の一休みと食事を楽しんでいたデイブの顔は、訝しげに眉根が寄った顰め面になっ
ていた。
それは、数日前に出会った巨漢…、北極熊のマスクを被っている肥満の大男が、またも椅子とテーブルの間を縫って、自分
に歩み寄って来たせいである。
「よう。あんたアレか?この辺で呼び込みのバイトか何かしてるのか?」
今度は自分から声をかけたデイブに、北極熊は、
「おや?ボクの事を覚えていてくれたのかい?」
と、静かな口調で訊ねる。
「そりゃあそんな恰好してんだからさ…」
マスクもそうだが、軽く2メートルを超える上にでっぷり肥えた、ボリュームが半端でない巨体の持ち主である。「忘れた
くとも忘れようがねぇって」と、デイブは苦笑いする。
「また、相席させて貰っても良いかな?」
「どうぞ」
訊ねた北極熊に、今日も何となくそんな事を言い出されるような気がしていたデイブは、至極あっさりと返事をした。
テーブルを挟んでデイブと向き合える席の椅子を引き、巨大な尻をその上にノシッと預けた北極熊は、手にしていたカップ
に立つストローを咥え、オレンジジュースを一口啜る。
「ここのオレンジジュースは、素材の風味が殆どしないね」
「ん?あ〜…、オレンジは飲んだ事ねぇからイマイチ判らねぇが…」
応じようとしたデイブは言葉を切って周囲を見回すと、口元に手を当て、辺りを憚るように声を潜めて北極熊に話しかける。
「ここ安いだろ?どのメニューも何か色々調味料使って味をごまかしてるらしいが…、材料は結構痛んだヤツとか使ってるっ
て話だぜ?」
少し身を乗り出したデイブの言葉に、耳をピクピクさせながら聞き入った北極熊は、「なるほど」と納得したように頷く。
「…けれど、作り物のようなこの味も、ボクはそう嫌いでもないな」
「お。そう思うか?俺もな、安かろう悪かろうって思って食いに来てるけどよ、マスタードとマヨネーズがドバッと入ったこ
このサンドイッチ、嫌いじゃねぇ。…ま、お互い舌が安上がりにできてんだろうな」
先日の戸惑いは殆ど消え、幾分気軽な態度で接しているデイブは、前回よりもさらに強い同族意識を北極熊に感じていた。
北極熊はそれを察しているのかいないのか、ストローを咥える口の端に、あるかなしかの細やかな笑みを浮かべ、デイブの
言葉に耳を傾けていた。
それは、奇妙な取り合わせであった。
世界の管理者達にとって最大の敵であり、堕人達の旗印となっている男と、無自覚のまま管理網の隙間を縫い、そうと知ら
ずに因果を乱してゆく人間…。
配達人や管理人にとっては見過ごす事のできない、地上の理から外れた存在である両者は、一方はそれを良く理解し、一方
はそれを知らず、穏やかとも言える時間を共有している。
だが、そのゆったりと流れる時は、そう長くは続かなかった。
「…始まるよ」
「ん?」
唐突にポツリと囁いた北極熊に視線を向け、デイブは聞き返す。
「もうすぐ、終わりが始まる」
北極熊は薄赤い瞳で、ざんばら髪に隠れたデイブの目を見つめた。
「目が増え過ぎた。欺き続けるのもさすがにもう難しくてね」
囁かれ続ける意味不明な言葉を耳にし、デイブは訝しげな表情を作る。
だが、北極熊は彼のそんな様子にも頓着せず、淡々とした口調で話し続けた。
「キミの日常は、あと数分もせずに終わり始める。もはや猶予は無く、防ぎようも無い。だからボクは時間稼ぎを諦めた」
「ちょっと待てよ。日常が終わる?猶予がねぇ?時間稼ぎ?あんた一体何の話をしてんだ?」
さすがに困惑したデイブが堪らずに口を挟んだが、北極熊は落ち着き払った態度と口調を崩さぬまま、自分と比べれば小さ
いものの、それでも大きく逞しい若者の目をじっと見つめている。
「これは忠告さ」
「…あん…?忠告…?」
訝るデイブに頷き、北極熊は告げた。
「キミは、選ばなければならない」
「選ぶ?何をだ?」
そうデイブが問い掛けると、北極熊は紙コップをテーブルに置き、静かに立ち上がった。
「やり直しの利かない選択だ。慎重に選ぶ事だね」
そう言った北極熊の目は、もはやデイブを見てはおらず、彼の頭上を越してその後方へと向けられていた。
デイブは本能的な危機感と、自分でも理由が判らない焦りに突き動かされ、椅子を倒して勢い良く立ち上がり北極熊に問う。
「待てよおい!だから「選ぶ」ってのは一体…」
薄赤い瞳に、デイブの後方に立つ五名…、獣面人身の男達の姿を映しながら、北極熊は囁くような小声で応じる。
「何を、諦めるかを…」
弾かれたように振り返ったデイブは、スーツを纏った異形の一団の姿を目にすると、「うわ…」と、感心しているとも呆れ
ているとも引いているとも取れる呻きを漏らす。
が、その反応も一瞬で、彼は即座に危機を感知して身を固くした。
一団が発する物騒な気配が、勘の良いデイブの肌を刺すように刺激する。
それは、厳密にはデイブではなく、北極熊に向けられたものなのだが、彼はその場に留まっていれば自らの身にも及ぶであ
ろうその危機を、いまやはっきりと感じていた。
この二日間の内に、この近辺には多くの人員が捕縛役として送り込まれた。
彼らの目が、明らかな異常を持つデイブを捉えられなかったのは、北極熊によって目が向かないように仕向けられていたか
らこそであった。
デイブの生活パターンを大まかに把握した北極熊は、わざと目立つように動き、あちこちで姿を晒しては、デイブから彼ら
を引き離していたのである。
それは、デイブを観察する為の時間を確保したいが故の行為ではあったが、同時に、彼の日常に二日間という、若干の猶予
を与えてもいた。
「キミはもう行った方が良い」
北極熊とスーツの一団の間に挟まれる恰好になっていたデイブは、背後の巨漢が発した静かな声に、警戒は緩めないまま半
面振り返る。
「彼らの当面の目的はボクだ。キミに構うだけの余裕は無いだろうから、今は見逃してくれるだろう」
「は?何を…」
「行くんだ。キミに残された時間は少ない。足踏みしていたらそこで終わるよ?」
聞き返そうとしたデイブは、北極熊に言葉を重ねられ、戸惑いの表情を浮かべる。
「彼らはね、これから仕事なんだ。邪魔をしちゃいけない」
薄く笑った北極熊の、あまりにも透明で屈託のない微笑は、これより戦いに臨もうとする者の表情には到底見えない。
あくまでも物静かで、これから自室でくつろぎ、茶でも楽しもうとしているような余裕と優雅さ、穏やかさがあった。
デイブはスーツの一団と北極熊をもう一度ずつ見遣ると、ゆっくりとテーブルから離れ、警戒を緩めないまま遠ざかる。
「夕方からの仕事は休む事だね。それと、表通りは避けた方が良い」
北極熊はスーツの一団から目を離し、後ろ向きに距離を取ったデイブに顔を向けた。
「今夜は、キミが育った場所で何かあるんだろう?回り道せず行く事だ。でないと、前倒しになったパーティーに遅刻してし
まう」
言われたデイブの頭に、今夜行うシスターの誕生パーティーの事が思い浮かんだ。
何故それを知っている?前倒しになるとはどういう事だ?
それらの疑問を、しかしデイブは口にせず、素早く身を翻して走り始めた。
本人もはっきりとした理由は判らなかったが、北極熊の言葉に従うつもりになっている。
そうするしかないという事に、頭ではなく、本能よりも深い魂のレベルで納得している。
理の外に身を置く者達との接触によって、彼は、本来そう存在すべきであった自分として、覚醒し始めていた。
走り去るデイブの背を見送っていた北極熊は笑みを消し、物憂げにも見える無表情に戻って、スーツの一団に視線を向けた。
その内の一名、屈強な体躯をした黒い虎が、懐から抜いた銃を頭上に向け、トリガーを引いた。
銃口から垂直に走った黒い弾丸は、街の上空で爆ぜ、ドォンという腹に響く音を轟かせ、黒い大輪の花を咲かせる。
人間達には見えず、音も聞こえぬ黒い花火は、北極熊の捕捉を周知するサインである。
(始まってしまったね…。さて、キミはどちらになるのかな?)
これから殺到して来るはずの敵を前に、北極熊は落ち着き払った態度で、デイブの事を考えていた。
彼の行く先は、北極熊の目にも視えない。
だが、デイブ自身の行動と、彼を取り巻く環境、接触する人々の乱れた因果を観察した北極熊は、その洞察力と類い希な知
性を持って、彼が辿るはずの未来をある程度予測している。
優れた知性と能力、そして技能。全てを併せ持つ北極熊は、因果管制室等のバックアップも受けず、データベースも利用せ
ず、配達人や管理人が得られる以上の事柄を独力で捉え、この件で他の誰よりも進んだ位置に立っていた。
このタイミングで動いたのは、時間稼ぎが限界であったという事の他にも、もう一つ理由がある。
それは、動くべき時の到来を掴んだからであった。
この時を伺っている間に、ミカールがニコルを監視している事も一方的に把握した上で、デイブがニコルと接触しないよう、
あれこれと手を回して周囲の因果に干渉しては、二人が顔を合わせる機会を作らないようにしてすらいた。
どうあっても、時が来るまで邪魔を入れられたくなかったからである。
北極熊はこうした読み合いや絡め手の使い方においても、直情型のミカールよりも一枚上手であった。
しかし今、そうやって接触を避けて来た、自分にとって最大の障害となり得る相手がこの場に駆け付ける事を十分に承知し
ながら、北極熊は悠然と佇んでいる。
むしろ、彼が来る事を待ち望んですら居た。
学校の正門を出て、下校してゆく生徒の群れを監視していたミカールは、その音を耳にして振り向いた。
黒い花火が夕暮れ迫る空に広がり、獅子の瞳に陰を落とす。
「…おったか…」
そう呟きつつ、遥か遠くで群れている生徒の一人、ニコルの姿を一瞥すると、ミカールは素早く愛車に跨った。
「むぅ〜っ!張り込み無駄やった!頑張ったんやけどなぁワシ…」
悔しげにそう吐き捨てた童顔の獅子は、獣の咆吼を思わせるエンジン音を周囲に響かせ、捕捉地点の方角へとマシンのヘッ
ドを向けた。
薄暗い部屋の中、椅子に座ったまま身じろぎ一つせず、長時間じっとしていた白い猫は、
「………」
無言のまま唐突に立ち上がり、三角の耳をピクピクと動かした。
「如何なさいましたか?」
彼女を預かっているジャガーは、急に動き出した小柄な白猫に歩み寄ると、やや腰を屈めて恭しく訊ねる。
「…アル…」
ポソッと、小声で囁いた白猫は、ジャガーが聞き返すよりも早く、空間を走るノイズに包まれた。
「なっ!?お、お待ちを!外は危険…」
ジャガーの言葉は、全て言い終える前に、バシィッという騒音に妨げられて途切れた。
「どうした!?」
ジャガーの声を耳にして隣室から飛び込んで来た猿は、呆然と立っている同志の姿を目にすると、次いで空間を走るノイズ
に目を遣り、事態を悟る。
収まりつつあるノイズの中には、白猫が座っていた椅子だけがぽつんと残っていた。
「何があった?何処へ行かれたのだ!?」
詰め寄って訊ねる猿に、ジャガーは首を横に振る。
「判らぬ!唐突に立ち上がられたかと思えば急に…!予備動作があまりにも短く、転移する前にお引き留めできなんだ!」
「えぇい!追うぞ!あの方に何かあっては、アルに申し開きできん!」
おろおろとしているジャガーを、猿は苛立たしげに叱咤する。
「行く先は…、考えるまでもなくあの御方の元か…!今やあの近辺は管理人やら執行人やらで騒がしいというのに!」
「とにかく、向かいながら声をかけられるだけかけ、現場に近い者を向かわせるぞ!おそらく、連中と一戦交える事になる!」
二人の堕人は、共に焦りの色を濃く顔に浮かべ、慌ただしく部屋を出て行った。
その直後、遠く響いた花火の音がようやく届き、部屋を軽く震わせた。
「ば…、化け物め…!」
色が消え失せ、白と黒、そして灰色が構成する世界で、地面に片膝をついた黒い虎は、脇腹を押さえながら苦しげに呻いた。
その視線の先には、彼の仲間の一斉射撃を受けながら、涼しい顔をしている北極熊の姿がある。
通常の配達人などであれば二、三発でフリーズするはずの高密度圧縮データの弾丸は、北極熊に届く直前で、見えない壁に
当たったかのように砕け、細かい光の粒子となって周囲に散ってゆく。
銃撃を受け続けているその様子は、一見すると北極熊が防戦一方になっているようにも見えるが、実は逆であった。
攻め立てているように見える彼らは、絶え間なく銃撃を繰り返す事で、あくまでも北極熊の反撃を防いでいるだけである。
隙を作ればデータ弾を掴み取られ、倍以上の威力を伴って投げ返される。
現実の空間に重ねて、因果干渉から隔絶されたダミーの空間を構築し、北極熊を隔離するまではすんなりと事が運んだ。
だが、そのダミーフィールドで戦闘を開始し、一分と経っていない現時点で、黒い虎を含めた二人が戦闘不能になっている。
リタイヤ第一号は、脇腹を光のジャベリンに貫かれた黒虎であった。
貫通した光の槍は、彼自身の力を利用されて結合する性質を持たされたらしく、抜こうとしてもビクともしない上に、動か
すだけで損傷が広がってゆく。
二人目の犠牲者となった灰色の牛は、黒虎とは違って反応する事もできず、ジャベリンで頭部を貫かれた。
一撃で活動機能を破壊され、完全にフリーズしてしまった牛は、黒虎の脇で仰向けに横たわり、細かく痙攣している。
そして状況は、拮抗している訳でもない。
残る三名の一斉射撃を防壁で無効化しながら、北極熊はゆっくりと足を進めていた。
絶え間なく銃撃しつつ、じりじりと後退して間合いを保っている三名の顔には、隠しようもない焦慮の色。
北極熊がその気になれば、一気に接近して陣形を乱されてしまう。
攻撃が散発的になってしまったならば、足止めもままならないのは確実。
さらに絶望的なのは、北極熊が全く本気でない事が、明らかだという事であった。
黒虎も牛も、彼がその気になっていれば、消滅に瀕するだけの致命的なダメージを受けているはずである。
だが、黒虎は最初から腹を狙われ、頭部を射抜かれた牛ですらも、消滅に至るだけの機能障害をきたしてはいない。
まるで壊れ物を扱うように、細心の注意を払って加減している…。
赤いコートを翻して悠然と歩む北極熊は、その圧倒的な戦力差を見せつけつつも、しかし意識の大半はこの戦闘に向けてい
なかった。
(…張り込み位置から考えれば…、そろそろ来るはずだね…)
胸の内で呟いた北極熊の耳が、ピクリと動いた。
次の瞬間、それまでの緩慢ともいえる動作が嘘のように、残像すら残してコートを翻し、素早く振り向いた北極熊は、空間
を走る亀裂をその薄赤い瞳に映す。
直後、ガラスが割れるような音と共にダミーフィールドの一部が破壊された。
そして、割れた虚空から覗く、色を伴う現実空間を背にして、レモンイエローの獅子がフィールドに乱入する。
因果の断層を易々と突き破った獅子は、愛車と共にその咆吼を轟かせた。
「邪魔や!退いとれ管理人ども!」
宙を疾走するバイクに跨ったレモンイエローの獅子は、現実から隔離されたダミーフィールドに強制突入したその時点で、
北極熊との距離が10メートルも無い位置に居た。
その、彼らにとっては近接と呼べる間合いに入る短い距離を、ミカールは一瞬で詰める。
宙を走るバイクの車輪は、地面から2メートル程上を踏み締めていた。
急ハンドルを切って愛車をスピンさせたミカールは、同じ高さにある北極熊の左側頭部めがけ、加速の乗った後輪を叩き付
ける。
だが、素早く上げた北極熊の左腕がその車輪を事もなく防ぎ止め、バイクの方が激突の勢いで空中へ弾け飛んだ。
まるで地に根が張ったように、乱暴極まる奇襲でもビクともしなかった北極熊は、当たり負けして弾け飛んだバイクを薄赤
い瞳で追った直後、僅かに目を見開いた。
宙高く飛んだバイクの座席にも、その周囲にも、獅子の姿は無い。
素早く首を巡らせ、背後に向けた北極熊の鼻先に、ルガーのシャープな銃身が突き付けられていた。
その向こうには、上下逆さまになっている獅子の童顔。
当たり負けしたバイクが弾き飛ばされたその瞬間、シートを蹴って北極熊の死角に飛び込んでいたミカールは、そのアクロ
バティックな動きの中でも、正確なボディコントロールで、相手の後頭部に銃を突き付けていたのである。
奇襲成功寸前で策に気付かれたミカールは、苛立たしげに口元を歪めつつ、北極熊の顔面へと立て続けに銃弾を叩き込んだ。
が、連射された弾丸は、素早く首を振った北極熊の頬の横を通り過ぎ、虚空へと駆け抜ける。
「せぇっ!」
「ふっ!」
短い呼気が両者の口から漏れ、バヂヂヂヂッと、けたたましい音が鳴り響く。
かわされた事には一切心を取られず、ミカールは逆さまのまま身を捻り、その太く短い右足を、北極熊の頭部めがけて振るっ
ていた。
一方で北極熊は、腰から近い位置であるが故に重さが乗ったその回し蹴りを、野球グローブのような分厚く大きな手で、脛
の辺りを掴む形で受け止めていた。
その、両者が接触している部位、ミカールの脛と北極熊の手の間から、激しく火花が飛び散っている。
直接接触した両者は、一瞬の内に交錯した攻防とは打って変わり、今度は時が止まったように静止していた。
しかし二人は今、高速でプロテクトを書き換えつつ、ジャンクデータと妨害プログラム等を送り込み合う、目まぐるしいア
ドバンテージ争いの最中である。
配達人や管理人達の戦闘は、程度の違いこそあれ、概ね互いのプロテクトの削り合いがメインとなる。
ただし、ブラストモードを備える「絶対矛盾」、管理室長ドビエルは、肉体もプロテクトも関係なく、現象であるか物質で
あるかも問わずに破壊できるため、この法則に当てはまらず、咎を持つ者であれば得物が特効作用を持つ清掃人達も、この戦
闘法則を一部無視できる。
そう言った数少ない例外を除けば、いかに素早く相手のプロテクトを破壊、あるいはやり過ごして突破し、相手の攻撃を防
壁で防ぐかが鍵となる、技と力比べが彼らの戦闘の中身である。
「今度も簡単に逃げられる思うとったら、大間違いやでイブリース!」
近距離で逆さまに顔を向き合わせたまま、ミカールが吠える。
「相変わらず過激な挨拶だね、ミカール」
対する北極熊は、あくまでも穏やかな態度と口調のまま、猛る獅子に応じた。
「その余裕、今すぐ崩したるで…!来いや陸王っ!」
ミカールが吼えたその直後、北極熊の後方、先の接触で宙に跳ね飛び、回転しながら地面に向かって落下してゆくバイクが、
急にその運動を不自然に早め、本来なら側面から地に激突するそのタイミングで、しっかりと車輪を地面に付けて着地した。
気配を悟った北極熊が顔を巡らせたその瞬間、腕利きのスタントマンが操ってもこうはいかないほどの見事な着地を披露し
た無人のバイクは、鉄の咆吼を発して北極熊へ突進する。
「遠隔操作か…。相変わらず上手だね」
落ち着き払った様子で呟いた北極熊は、自分を跳ね飛ばそうと突進してきた大型バイクのヘッドランプを、空いていた方の
腕を伸ばして掴み、押し留める。
突進こそ止められたものの、なおもタイヤを空転させ続けて押し込むバイクと、ミカールに挟まれる恰好になっている北極
熊は、僅かに目を細めた。
「アンヴェイル…!」
ミカールの押し殺した声と同時に除幕が開始され、獅子の鬣がぞわりと伸びた。
身を覆うほどに伸びた鬣を眩く輝かせた獅子は、すぅっと息を吸い込むと、
「がおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
まるで人が獣の声を真似るような、腹に響くが少し間の抜けた吠え声を発した。
直後、両者の周囲で、レモンイエローの光が粉雪のように舞い始める。
その直後、金の燐粉にやや遅れる形で地面から湧き出た冷たく白い霧が、細やかな黄色い光を飲み込み、スパークを散らし
始めた。
直接接触での攻防に加え、今度は相手の居る座標を対象にした間接攻撃が展開されている。
そのキラキラとした美しい景観とは裏腹に、二人の周囲では今、並の配達人が不用意に踏み込んだが最後、脆弱なプロテク
トであれば瞬く間に突き破られ、一瞬で機能停止させられてしまう程の力の余波が暴れ回っていた。
多面的な戦闘を繰り広げる、オーバースペックが一人、ザ・ヘリオンことミカールと、アル・シャイターン、イブリース。
両者の交戦は、乱入した際にミカールが警告するまでもなく、その場に居合わせた管理人達が介入できないレベルの物であっ
た。
各々が、次元の違うその戦いに萎縮し、状況も忘れてただただ呆然と見入るだけである。
だがしかし、交戦している両者の一方…、ミカールはかなり不機嫌であった。
アンヴェイルをおこなった自分に対し、イブリースが通常状態を維持しているのが面白くない。
「アンヴェイルせぇ!まさかオドレ、そのままでワシとやり合えるとか、思い上がっとるんとちゃうやろな!?」
そう叫ぶなり、獅子は手にした拳銃の内部へ直接データ圧縮弾を精製した。
数十手に及ぶ攻防を同時に展開しながらも、そちらを全くおろそかにせず、弾丸を精製できるその技量に、ギャラリーと化
していた管理人達が驚嘆の呻きを上げる。
その呻き声が漏れたか漏れないかの内に、ミカールは立て続けにトリガーを引いていた。
狙いはイブリースの頭部。しかしその銃弾群も、虚空を薙いで駆け去った。
瞬時に力比べを中断し、ノイズを残して5メートル程横へ転移したイブリースは、獅子へ向けた目を大きく見開いた。
イブリースが転移した事で支えを失い、駆け抜けようとしたバイクのシートに、ミカールは片手で逆立ちする恰好で接触し
ていた。
そしてその格好から一瞬でマシンをコントロール下に戻し、イブリースめがけて回頭させている。
くるりと反転してシートに跨った獅子は、長く伸びた鬣を後方へたなびかせ、カーブを描いてイブリースに迫る。
ぽってりと太った丸い体に見合わず、軽業師顔負けの曲乗りを披露した旧知の相手へ向けられた赤い目は、ほんのりと感嘆
の色を浮かべていた。
だが、その僅かな感慨も束の間である。
瞬時に迫ったレモンイエローの流星を前に、回避は困難と判断したイブリースは、腰を落として衝撃に備える。
愛車の前輪を跳ね上げてウイリーさせ、北極熊を轢き潰しにかかるミカール。
しっかりと両足を踏ん張り、両腕を前に伸ばしたイブリースは、自分の顔の高さで迫ったバイクの前輪を、事もあろうかそ
の両手でもって、白羽取りの要領で左右から挟み込んで捕らえた。
そしてそのまま、「ふっ!」と吐息を零しつつ、力任せに真横へうっちゃる。
金色の尾を引いたまま、マシンはイブリースによってバランスを崩し、地面に叩き付けられた。
が、バイクと、たなびく鬣を目で追ったイブリースは、今度もまた目を見開く。
凄まじい音を立てて地面に転倒したバイクには、またしてもミカールの姿がない。
途中で切り離されたらしい輝く鬣が、ハンドルに括り付けられて車体にまとわりつき、ダミーの役を果たしていた。
今度は目を離していなかった。一瞬車体の陰に隠れて姿が消えたものの、ミカールは何処へも跳んではいない。
軽く驚いているイブリースの足元で、ジジッと、ノイズが走った。
「かかりよったな?」
声を耳にしたイブリースが顔を前へ戻すより早く、地面に伏せていたミカールが、その低姿勢から伸び上がりつつ、固めた
拳を振り上げた。
赤いコートに覆われた北極熊の胴、その、大きく前にせり出している腹に、ミカールの拳が斜めに突き込まれた。
「…ぐっ…!」
歯を食い縛り、呻き声を漏らしたイブリースの巨体が、ミカールのボディブローで僅かに浮き上がっている。
短くも太い、頑丈な獅子の左腕は、北極熊の柔らかな腹部に肘までめり込んでいた。
「独力空間転移はオドレの専売特許やないで!」
空間制御はミカールも得意とする分野。イブリースの空間転移に距離は及ばず、視界内の近距離という制限はつくものの、
数回であれば一瞬での転移が可能である。
そのちょっとした隠し球を披露する形で、ミカールはうっちゃられるバイクに身が隠れたその瞬間に、鬣の一部を切り離し
てダミーにしつつ空間転移をおこなっていた。
そして、バイクを目で追ったイブリースの背後へ、次の一撃に備えた、四つん這いの低姿勢で出現していたのである。
「吹き飛べやぁああああああああああああっ!」
気合いの咆吼を上げつつ拳銃を手放したミカールの右手が拳を作り、その背中のエンブレムから光の奔流が溢れ出し、大き
な翼を形成する。
翼を広げて伸び上がりつつ放ったミカールのアッパーカットが、体をくの字に折ったイブリースの顎を、真下からまともに
捉えた。
「まだまだぁ!」
自分の三倍近くも体重がある相手を高々と打ち上げたミカールは、素早く屈みつつ落下中のルガーを右手で拾い上げ、左手
を地面に着く。
獅子のポッテリとした手が、パタッと地面を叩いたその瞬間、ダミー空間そのものが震動した。
次いで、ミカールの前で石畳が空間ごと割れ、太い筒状の物が、地面から生えるようにしてせり上がる。
その黒光りする巨大な鉄の塊を目にした管理人達は、そろって口をあんぐりと開けた。
ミカールの召還に応じて転移し、ダミー空間を突き破ってその威容を見せつけたのは、総重量7トン弱、全長5メートル近
い高射砲…FlaK36であった。
「で…、デタラメだ…!」
目を丸くした黒い虎が、掠れた声を漏らす。
物品の召還は、熟練している者でも、せいぜい扱い慣れた拳銃を呼べる程度。
それでも力の消費がやや大きいために効率は悪く、銃は携帯して歩くのが常である。
ところがミカールは、拳銃とは比較にならない大質量を隔離された空間へ直接呼び出すという、「彼らの常識」から言って
も明らかに出鱈目な行為を、平然とやってのけた。
地面から生えたFlaK36は、立ち上がったミカールが右腕を伸ばし、握った銃を上空へ向けると、連動するようにして同じ
方向へ砲身を向ける。
その砲身が真っ直ぐに向いたのは、拳を突き込まれた腹を押さえつつ宙で体勢を整え、虚空に両足を踏ん張って静止した北
極熊。
「景気よう響けや!アハト・アハト!」
ミカールの号令が上がると同時に、高射砲は特徴的な轟音と共に、88ミリ砲弾の形に形成された、レモンイエローの圧縮
データ弾を撃ち出した。
迫り来る、拳銃の弾とは比較にならない量のデータを内包した砲弾を前に、イブリースは軽く顔を顰めて腹を押さえたまま、
右手を素早く前へ、砲弾めがけて差し出す。
押し留めるように向けられた手の平の先で、ドーム状に展開されたプロテクトが88ミリ砲弾を受け止める。
が、一瞬の膠着状態の後、88ミリ砲弾は強固なプロテクトを易々と食い破った。
直撃。
見守っていた配達人達の誰もがそう確信した、その時であった。
北極熊の、腹を押さえていた左手がコートのポケットに滑り込んだのは。
直後、隔離空間を閃光が満たし、轟音が揺さぶった。
皆が目を覆う中、聳える高射砲の傍らで頭上を見上げていたミカールは、口の端を僅かに上げ、不敵な笑みを浮かべる。
獅子の視線の先で、力の衝突の残滓、飛び散って舞った細やかな粒子がその輝きを弱めて行く中、赤に覆われた白い巨体が
姿を現した。
先程と変わらない位置で宙を踏み締めている北極熊を見上げながら、ミカールは満足げに口を開いた。彼の左手に、期待通
りの物が握られていた事を確認して。
「やっと抜きよったな?」
ミカールの視線を追うようにして、イブリースは自分の手元へ目を向けた。
「抜いたというより、抜かざるをえなかった…、と言うところだね」
北極熊の左手には、小指と中指をグリップに巻き、中指をトリガーにかけ、短いバレルに人差し指を添えて持った、極端に
小振りな銃。
縦に二つ銃口が並ぶその銃は、艶消しが施された漆黒のデリンジャーであった。
イブリースの体を覆う純白の被毛とは対照的に黒く、また、巨体には不釣り合いな程小さいそれは、しかし彼の大きな手の
中にスッポリと収まっている様子を目にすると、どういう訳かこれ以上無い程に相応しい得物にも見えた。
銃器類は、彼らにとって力の補助を行う、スタンダードなアイテムである。
力の消費を押さえ、精度を高め、出力を上げるためのそれを、しかしイブリースは、今の今まで使用していなかった。