第二十七話 「大いなる敵対者」(後編)
かなり前のめりになった姿勢で全力疾走してゆくデイブを、すれ違った、あるいは勢いに驚き慌てて道を譲った通行人達が、
訝しげに振り返る。
そんな周囲の目に注意を向ける事も無く、デイブは膨れ上がる不安と焦りを抱えたまま、息を切らせて駆けてゆく。
「キミは、選ばなければならない」
「足踏みしていたらそこで終わるよ?」
「前倒しになったパーティーに遅刻してしまう」
北極熊が口にしていた言葉が、何度も思考の表面に浮かび上がっては繰り返される。
尋ねられたとしても、根拠も理由も説明できないであろう嫌な予感が消えないまま、伸びるに任せたざんばら髪を風に揺ら
し、なびかせ、デイブは無意識に道を選びつつ走る。
それは、デイブ自身意図していなかったが、先ほど北極熊が告げた、表通りを避け、かつ回り道しない最短のルートである。
細い路地に入る角をデイブが曲がった次の瞬間、バイクに跨った獣面の一団が、入れ違いにその通りに入り込んだ。
口々に「近いぞ!」「気を抜くなよ!」と叫びあう一団は、細い路地には目も向けず、駆け去ってゆくデイブの姿には気付
かない。
一方デイブも、自分が先ほどまで走っていた通りをバイクで疾走して行った一団に気付かないまま細い路地を駆け抜け、次
いで辿り着いたディープスラム方面への分岐路で、躊躇する事無く一番左の道を選ぶ。
その直後、デイブが選ばなかった方の道に、「ったく!物騒で仕方無いねぇ!」と大声でがなり立てながら、女性の黒牛が
壁を液体のように波打たせて突き抜け、大型バイクと共に現れた。
それは、何とも奇妙で、しかし見事な、ギリギリのすれ違いの連続であった。
もしもデイブが一つでも違うルートを選ぶか、あるいは足を止めるか緩めるかすれば、彼らの内の誰かと遭遇している。
だが、まるであらかじめそう計算されていたように、デイブは配達人や管理人らと出くわさぬまま、ディープスラムへ、育っ
た孤児院へと向かっている。
すれ違う者に目もくれず疾走するデイブの姿は、目にした人間達に、ある意味似通った、しかし正反対の印象を抱かせる。
半分の者は、獲物目がけて駆ける獣のようだと感じ、もう半分の者は、追い立てられて逃げる獣のようだと感じていた。
息を切らせ始めたデイブの歩みが滞ったのは、孤児院までの道を半ばまで踏破した頃であった。
足を緩め、やがて止めた大男の目は、胡乱げに細められている。
その瞳に映るのは、彼が足を止めた原因…、太陽が大きく傾いているせいで既に日が射さなくなり、薄暗い闇がたむろし始
めた路地に佇む、小柄な、一つの影。
それは、赤いコートを纏った女。
先に会った者達や北極熊と同じく、獣の顔をした奇妙な風体の少女であった。
白い猫の頭部を持つその少女の顔をまじまじと見つめ、デイブは悟る。
(こいつも…、あの白熊やさっきの連中と同じか…)
デイブはもはや、彼らの異様な姿が、ハロウィンの仮装などといった着ぐるみやメイクの類では無い事を悟っている。
それは、彼の中で目覚めつつある、普通の人間とは著しく異なる魂の本質がもたらした理解力による確信であった。
そして、彼らが人間ではないとデイブに悟らせたその感覚は、距離にして15メートル程離れた位置にいる少女についても、
ある奇妙な印象を捉えていた。
(…何だ?何かが…、そう、足りてねぇ…。欠けてる…?何だこの感じ…?)
明確な言葉にはできなかったが、デイブは少女から感じるそれを、不足や欠落と捉えた。
ただし、何が欠けており、何が足りないのかという、具体的な事までは判らなかったが…。
デイブはしばし逡巡した後、足を踏み出した。
歩幅のあるデイブの歩みは、一般的な基準からすれば早い。
大股に歩む彼は、しかし本人からすれば足早と言うわけでもなく、あくまでも己の普段のペースで白猫に歩み寄り、その目
前で足を止める。
ぼんやりとデイブを見つめ続けていたその目は、今や身長差のあるデイブの顔を、首を反らして見上げる形になっていた。
少女を見下ろしたまま、デイブは考える。
敵意や悪意は感じない。先程見たスーツの一団から感じたような危機の気配もまた無い。
それどころか、その少女からは感情のような物も、生きているという印象も、受ける事は無かった。
(何かこう…、生きてねぇって言うか…、人形みてぇだ…)
味方ではないかもしれないが、少なくとも敵ではない。デイブは少女についてそう感じている。
突き動かされるようにして駆けてきたデイブは、存在自体が希薄に感じられるこの少女と出くわした事で、自分でもそうと
気付かぬまま、冷静さをいくらか取り戻していた。
自分は何も知らない。この異常な状況が何なのか、全く理解できていない。
そもそも、あの白熊ですら本当に敵ではないのか判った物ではない。
考えてもみればカフェで聞いたあの言葉も、脅迫と取れない事もない。
少女を無視して進むべきか?
それとも話しかけて、今の状況について、そして彼らが何者なのかについて訊ねてみるべきか?
デイブの頭をそんな考えが掠めたその時、少女の手が不意に持ち上がり、大男の顔へ真っ直ぐに向けられ、伸ばされたその
人差し指が眉間を指し示す。
指を突き付けられる恰好になったデイブは、自分に向けられた白猫の指を見つめ、怪訝そうに顔を顰めた。
その直後、それまで閉じられていた白猫の口が出し抜けに開いた。
「…あなた…」
鈴を転がすような幼い響きの、しかし何処か遠くから響くように現実感のない声が、どういう訳かある種の衝撃すら伴って
デイブの耳朶を打つ。
見れば、それまでは遠くを見ているように茫洋としていた白猫の目は、はっきりとデイブの瞳に焦点を合わせている。
威厳。
そう、その声は確かに幼く、どこか夢見心地で頼りない物だったにもかかわらず、この大胆不敵で負け知らずの大男にすら、
威厳を感じさせる物であった。
縛り付けられたように動けなくなったデイブに、明瞭さを増した少女の声が届く。
「貴方、死ぬわ」
その声は、先の一声とは異なり、大人の女性の声その物であった。
ようやくイブリースに銃を抜かせたミカールは、改めて管理人達へ顔を向ける。
「そろそろ待避した方がええで?アイツの力に巻き込まれたら…、いや、余波浴びただけで、たぶん影も残らへんさかい」
ミカールの遠回しな「足手纏いだから失せろ」宣言を受け、管理人達はさすがに色めき立った。
が、次元の違う戦いを見せつけられたばかりの彼らは、悔しいながらも言い返す事ができない。
一方で、抜いたばかりの自分の銃をしばし見つめていたイブリースは、やがて眼下のミカールに視線を向け、口を開いた。
「アハト・アハトとは恐れ入ったよ。高射砲を持ち出して来るとは思わなかった」
「どや?ごっつかっこええやろ?ワシのお気に入りは!」
胸を張ったミカールは、しかし直後に目を丸くし、次いで苦々しげに顔を顰めた。
イブリースが赤いコートのポケットへ、デリンジャーを落とし込むのを目にして。
「…オドレ…、何のつもりや…?」
やっと抜かせた銃を相手がしまった事でミカールは頭に血を昇らせ、伸びた鬣が心情を反映するように、風が無いにもかか
わらず、大きくざわりと揺らめいた。
童顔に赫怒を浮かべる古馴染みを、対照的な無表情で見下ろすイブリース。
「ワシ相手なら銃を抜く必要も無いて…、そういう意味か…?…おう?」
幾分低く潜められた声は、隠しようもない怒りで微かに揺れていた。
イブリースが「本気」どころか「その気」にすらならない事で、オーバースペックたる矜恃を傷つけられた獅子は、苛立ち
を憤怒へと変えてゆく。
対するイブリースは相変わらず泰然と構えており、獅子に答えもしない。
決してミカールを侮っている訳では無く、銃を収めた事にも彼なりの理由があるのだが、あえてそれを説明はしない。
その方が都合よく事が運ぶという事を、良く知っているからである。
獅子は僅かに開けた口から、低く抑えた声を発した。
「オドレら…、いつまでそこに居るんや?巻き添えになりたいんか?さっさと消えへんか…!」
その言葉は、周囲の管理人達に向けられた、八つ当たり気味の苛立ちさえこもった物である。
だが、管理人達はミカールの言葉に従って退去しようという様子は見せない。
その事が、ミカールの苛立ちをさらに高めてゆく。
宙を踏み締め、一人だけ高みから静かに様子を眺めている北極熊は、どうやら自分の思惑通りに事が進んでいるらしい事を、
改めて確認していた。
ミカールはザ・ヘリオンと渾名されるほど、沸点が異様に低い。
冷静さを欠けばそれだけ動きが大雑把になる上に、彼の真に恐るべき技術…、時干渉や空間制御を交えず、力押しになる傾
向がある。
そして自分では自覚していない事だが、相手の立場や面子に対しての理解が欠けている。
良く知っている身近な者への理解や共感はそれなりにできるが、関わりが薄い相手への配慮という物が上手くできない。
だからこそ、退去するよう告げた管理人達が、立場上素直に引き下がれない事にも察しが及ばず、苛立ちしか感じない。
管理人達が自分のように効率的に割り切って振る舞えず、また、振る舞う力も無い事に思いが至らない。
そのミカールの「欠落」は、自分達が袂を分かつ前から変わっていない事を、イブリースは察していた。
そして、激して冷静さを欠いた今のミカール相手なら、策は上手く行くと確信する。
「…準備はできた」
ぼそりと呟いた北極熊は、キッと自分を睨んだミカールの目を見据える。
「いつもなら、あまり会いたくはない相手だけれど…」
そう囁いたイブリースは、太い腕をすっと腕を上げ、手の平を天へ向ける。
「今日に限っては、キミを待っていた」
その声がその場にいる全員の耳に届くと同時に、空間が揺れた。
物理的に震動したのではないのだが、空間の質が変じたその感触は、ミカールと管理人達に、肌や鼓膜に感じる地鳴りのよ
うに認識される。
「何や!?」
高射砲の照準をイブリースに向けたまま警戒して周囲を見回したミカールは、何が起こったのかを肌で感じ取り、顔を顰め
て舌打ちをする。
「オドレ…、ダミー空間を乗っ取りよったな…?」
ミカールの言葉で、管理人達の顔つきが変わる。
彼らが全員で構築したダミー空間が、イブリースに乗っ取られた事実は、ミカールから一瞬遅れて彼らにも察せられた。
たった今、一瞬で乗っ取った訳では無い。ミカールとの交戦中に密やかに支配権奪取の手を回していたのである。
戦闘の最中に同時進行で乗っ取りを進めていたという、底の知れない処理能力もさる事ながら、真に恐るべきは、イブリー
スが敵の心情を含めて場を完全に把握、支配していた事である。
管理人達の注意が自分とミカールに向けられている事で、交戦中ならば気付かれずに侵蝕を進められるというその着眼点。
さらには除幕せず、銃すら抜かない事によって、激しやすいミカールを苛つかせ、戦闘にのめり込ませて周囲の異常を悟ら
れないようにする心理誘導。
さらには、管理人達は退却をよしとせず、ミカールはそんな彼らに苛立ちを募らせるという図式…。
デイブを行かせた後、わざと空間隔離されて以来、事の全てがイブリースの計算通りに進行していた。
今や隔離空間のコントロールは管理人らの手に無く、イブリースが完全に掌握している。
支配権が彼の手に渡り、改修を施され、より強固になった現実空間との断絶は、空間制御に長けたミカールといえども、イ
ブリースを牽制しながら破る事は難しい。
こうなってしまっては、先ほど高射砲をそうしたように外部から何かを転移させるのも不可能である。
「…まんまと閉じ込められた…てか…。これがオドレの狙いやな?」
そう呟いたミカールは、冷静さを取り戻している。
獅子にしてみれば、お互いに逃げ場のない、決着をつけ易いこの状況はむしろ歓迎したい程で、閉じ込められたという事に
対して焦りは感じていない。
だが、まんまとやられたという事実が、彼に渋面を作らせていた。
「わざわざこんな真似したんは、その気になったて事やな?…抜けや。でもって除幕せぇ」
牙を剥き出しにしたミカールの顔は、まん丸な童顔とはいえ獅子である。
交戦的な笑みを浮かべたその表情からは、愛くるしさ以上に猛々しさと獰猛さが滲み出ていた。
だが、対する北極熊は相変わらず、物憂げにも見える目と表情のない顔をしており、二人の間には炎と氷のような温度差が
あった。
「その事で、少し考えて貰いたい」
「考えるやと?」
闘志を湛えた目をいささかも和らげず、ミカールは北極熊に問い返した。
太い二本の足で宙を踏み締めていたイブリースは、そのままの姿勢でゆっくりと下降し、音もなく地面に降り立つ。
同じ高さに立ってもなお、視点の高さがだいぶ違う二人は、互いの目を真っ直ぐに見つめ合った。
「キミがどうしてもと言うなら、続きをしても良い。けれどその場合は…」
イブリースは言葉を切って首を巡らせる。
その視線を追い、管理人達を見回したミカールは、イブリースの意図を悟り、「ぐぅ…!」と悔しげに唸った。
「ボクも痩せ我慢せず、手加減を止める。つまり、彼らの身の安全は保証できない」
「オドレ…!一人も消滅させへんかったのはこの為やったんか…!」
涼しい声とあっさりした口調ではあったが、イブリースの言葉の中身は脅迫であった。
消滅させる事など容易かったにもかかわらず、管理人を一人とて仕留めていなかったのは、ミカールと自分を取り巻く状況
に巻き込まれればただでは済まないであろう彼らを、この場に留まらせておく必要があったからこそである。
そのため、足止めの為に弱らせはしても、消滅まではさせなかった。
もはや管理人達はミカールにとって味方戦力ではない。人質に取られたも同然であった。
「…で?要求は何や?大人しくやられろ…とかか?」
黙って従うつもりなどさらさら無かったが、ミカールは憎々しげにイブリースに問う。
だが、北極熊の返答は意外な物であった。
「そんな事は頼まないよ。ただ、しばらくここで大人しくしていて欲しいだけさ」
「あん?」
意味をはかりかねて眉根を寄せたミカールに、イブリースは続ける。
「もうじき、ある重要な事が決まる」
「重要な事?」
オウム返しに訊ねた獅子へ、北極熊は「デイヴィッド…」と囁くような声を投げかけた。
「キミも一度会っているね。稀に見る規模の特異点だ」
「あの大男か…、デイヴィッドて名前なんやな?オドレも関心持っとったらしいけど…、何企んどるんや?」
ミカールとイブリースの会話は、周囲の管理人達を完全に無視して進んでゆくが、関心の外にある彼らもまた、固唾を呑ん
でアル・シャイターンの言葉に耳を傾けている。
「今まではただ観察するだけだった。けれどもうじき…、そう、あとほんの少しで、彼は選択の時に至る」
「選択の時やて?…まさかオドレ…」
ミカールは何かに気付いたように目を大きくし、古馴染みであった北極熊の顔を見つめる。
「あいつの魂を砕くとか…、利用するとか…、そない計画立てとった訳や無いて事か?」
「利用しようにも、彼の行く先はまだ決まっていないよ」
少し考えたミカールは、北極熊の薄赤い目を見つめながら口を開いた。
「…なるほど…。「黙って見とれ」て…、そういう事やな?ワシを足止めする事が、オドレの本当の目的か…」
頷いたイブリースは、焼け付くような視線を向けて来る獅子に、「もう一つ…」と、静かに語りかけた。
「この件…、デイヴィッドの事に関して、キミと取引がしたい」
白猫を見下ろしながら、デイブは戸惑っていた。
死ぬ。
そう威厳に満ちた声で告げた目の前の少女は、それが幻であったかの如く、再び茫洋とした眼差しに戻り、感情が読めない
視線をデイブに注いでいる。
死ぬと予告されたその不吉さよりも、困惑の方が強い。
というのも、デイブは死を恐れていないから…、死のイメージが明確に沸かないからであった。
勿論、自分もいつかは死ぬと判っている。
刺されて死ぬかもしれず、事故で死ぬかもしれず、病で死ぬかもしれない。
運良くそれらで命を落とさなくとも、いずれ寿命で死ぬ。
それらの事が頭で判っていても、まだ若いデイブは死を身近には感じておらず、自らの死について深く考えた事は無かった。
そんなデイブだからこそ、告げられた内容よりも、少女が一瞬だけ見せた変化に戸惑って、急がねばならないにも関わらず、
すっかり足を止めてしまっていた。
時間にすれば、デイブが少女の姿を認めてから30秒も経ってはいない。
だが、その停滞はデイブにとって致命的なズレを生じさせた。
配達人も管理人も手の内にあるかのように行動を読み、「配達人や管理人らと遭遇しない」という、ある意味絶対的な守護
をデイブにもたらしていたイブリースの計算は、他の誰でもない、彼自身の保護対象の行動によって狂った。
この街から遠ざけておいた白猫がデイブと接触する事は、北極熊も予想していなかったのである。
自らの保護者が交戦状態にある事を察知して転移して来た白猫は、さながら綺麗に舗装されたグラウンドの僅かな窪みに等
しい、イレギュラーバウンドを誘う不確定要素となった。
そして、その要素がもたらした変化により、イブリースの予定では接触するはずのなかった者がいま一人、デイブの姿を捉
えていた。
デイブの後方、路地の入り口に立つその男は、ワニである。
それも、顎が鼻先に向かって細くなっているワニ、ガビアルであった。
容姿の中で最も目を引くのは、前に長くせり出したその特徴的なフォルムの頭部である事は間違いないのだが、その中でも
異彩を放っているのは、長いマズルを覆う物であった。
猿ぐつわ。そう呼べる拘束具が、上下の顎をしっかり閉ざして装着されている。
茶色い革製のそれは上下のパーツに分かれており、左右の合わせ目にはずらりと並んだ穴に通す形で、何本もの皮紐が通し
てあり、入念に締めてあった。
シューズのそれを思わせる、交差してかけられた紐は、口の両側から流れ出る唾液でヌラヌラと光っている。
軍人を思わせる迷彩柄のコンバットスーツを纏い、胸には革製のベルト…ハーネスが装着されている。
左胸にはコンパクトな四角い鞘に収まったダガー、左腰には革のケースに覆われたサバイバルナイフを帯びており、背には
全長50センチ程の剣が、ごつい鉄製の鞘に収められた状態で固定されている。
「…あぶない…」
白猫が出し抜けに発した囁きと、自分の体を透かして先を見るような眼差しの向きから、デイブは背後に何かが居る事を悟
り、弾かれたように振り向いた。
「くそっ!侵入できんぞ!?」
「どうなってる?中の連中は何してんだ!?」
「逃がさないのは判るが、加勢も受けないのは一体…?」
カフェに集結した人身獣頭の異様な集団は、口々にわめき立てていた。
先の合図によって集まって来たは良いが、肝心の隔離空間に突入できずに居る。
イブリースによって内側から強固なプロテクトがかけられているせいなのだが、皆が皆、そこまでは気付いていない。
ダミー空間内部に閉じ込めた者達だけでなく、集まった者達もこの場に釘付けにする…。
イブリースの自らを囮にした時間稼ぎは、狙い通りの成果を上げていた。
物騒にも銃を抜いたままオープンテラスのカフェをうろうろと歩き回る、異様な風体の集団を、しかし周囲の人間達は全く
認識できておらず、のんびりと夕食を楽しんでいる者も居る。
その様子を、まるでペンキでもかぶったように全身が鮮やかに青い猪が、少し離れて見つめていた。
配達人や管理人とは業務内容が異なる、彼らをサポートする立場の存在…修理人である彼は、たまたま近くに居たため、力
になれる事があればと駆けつけたのだが、戦闘が始まるどころか、管理人も配達人もダミー空間に入れず、右往左往している
ばかりである。
厳つい外見に似合わずやや気弱な修理人は、邪魔にならないように少し下がっていたのだが、隔離された空間内に居るはず
の者達の事を思い、少々焦りを覚えている。
そんな彼は、「一体何してんだい?連中は…」という、背後から聞こえた声に首を巡らせた。
少し遅れて到着した、ハーレーに跨っているそのライダーは、大柄な雌牛であった。
背が高いだけでなく、その体はライダースーツの上からでもはっきり判るほど逞しい。
太腿も二の腕も太く、筋肉の瘤がスーツにくっきりとした陰影を浮べさせていた。
その体色は夜空のような、内に深い青を抱える黒。
スーツの胸は豊満なバストで閉まりきらないのか、ジッパーを鳩尾の辺りまで下ろして、大きくはだけている。
そこから覗く真っ白なタンクトップが、全身の黒の中で鮮烈なアクセントとなって目を引いた。
青い猪はその雌牛の事を知っていたので、少し驚いていた。
はち切れんばかりに豊満な尻と胸が目を引く雌牛は、太い首を少し捻り、自分を見つめたまま驚いている青猪に訊ねる。
「ちょいとアンタ、連中は一体何をグズグズやってんだい?」
「え?あ、はい…!何でも、先に到着していた管理人達が展開したはずの隔離空間に、どういう訳か入れないとかで…。中か
ら侵入拒否されているらしいんですよ」
青い猪が、今に至るまで管理人や配達人が侵入を試みているにも関わらず、一向に中へ入れないのだという事をかいつまん
で説明すると、黒い雌牛は「ふぅん…、侵入拒否ねぇ…」と呟き、思案するように目を細め、立派な胸の前で太い腕を組む。
「チビデブが先に入ってるはずだねぇ…。アイツなら今居る連中が束になっても侵入できないようにもできるはずだけど…、
たぶん違う、アイツがやってるんじゃあないね…。邪魔されたくないなら、まどろっこしい真似なんかしないで怒鳴り散らす
はず…」
雌牛はぼそぼそと呟くと、「フン…」と鼻を鳴らす。
「さては乗っ取られたね?今ダミー空間のコントロールを掌握してるヤツは「こっち側」の連中じゃなく…」
皆まで言わずに言葉を切ると、雌牛はバイクから降り、青い猪の脇を抜け、無造作な足取りでカフェの中央へ向かった。
「おい、アンタら」
さほど大きくも無いのに良く通るその声に、皆が一斉に雌牛の方を向いた。
その大半の目が、軽い驚きで少し大きくなる。
「ちょいとその辺からどいてくんな。でないと巻き込んじまうよ?」
ぞんざいに言った雌牛は、右腕を上げてグローブの端を掴み、引っ張ってしっかりとはめ直す。
そしてすぅっと息を吸い込むと、その唇を薄く開けた。
「汝が力は再び結び合わせん、時の流れが切り離したる物を」
低く、柔らかく口ずさまれたのは、歓喜の歌としても知られる有名な交響曲、その合唱部の一節であった。
さほど大きな声でもない、むしろ小声であったが、彼女が適当な所から切り出したその歌は、その場にいる全員の心に高揚
感と満足感を与えた。
彼女の存在を認識できない、カフェにたむろっている人間達ですらも歌の影響を受け、なんとなしに周囲を見回し、ある者
はうっとりと、ある者は微笑を浮かべ、認識できていないその声音に、認識できないまま聞き惚れる。
彼らに問うても、何に耳を傾けているのか説明できず、そもそも耳を傾けるような何かが聞こえたのかすら解っていない。
ただ、その心を心地良く揺さぶり、満たしてゆく何かを、おぼろげに感じているだけである。
雌牛はそんな周囲の反応には頓着せず、ハスキーボイスで不思議なまでに美しく歓喜を歌い上げつつ、ギチュッと、音を立
てて拳を握り込み、腕を大きく後ろに引いた。
その声が、歌が、現実空間と隔絶されたダミー空間の間に横たわる、物理的には零にして無限の距離を、徐々に埋めてゆく。
一方その頃、隔離された空間の中では、童顔の獅子が難しい顔で黙り込んでいた。
銃を収め、腕を組み、口を横一文字に引き結び、黙って何事かを考え込んでいるミカールに、十分な時間を与えたイブリー
スが静かに尋ねる。
「どうかな?」
提案に対する答えを求めるイブリースと、恐らくはその内容について吟味しているのだろう黙したミカールを、管理人達は
狐につままれたような表情で眺めていた。
大いなる敵対者イブリースが、オーバースペックたるミカールに持ちかけた取引とは、彼らが呆然としてしまう程に意外な
物だったのである。
「メリットとデメリットはお互い五分だと思うけれど…。勿論、受けるも断わるもキミ次第だ。皆を従わせろとは言わない。
キミがこの提案に乗るのなら…」
「本当に…、それだけでええんか?お前の望みは、そんな事なんか…?」
口を開いたミカールは、毒気を抜かれたような顔をしていた。
半ば困惑しているような、そして半ば呆れているような表情からは、先ほどまでの猛々しい闘争心は完全に消えている。
先ほどまでザワザワと揺れていた、除幕に伴って伸びた鬣も、今はふっさりと下向きになり、蓑のようにミカールの頭部か
ら背、足元までを覆っていた。
「つまり…、あいつは…」
「そう、どちらかまだ決まっていない。ボクにもまだ判らない」
ミカールの呟きに、イブリースは涼やかでよどみの無い言葉を重ねる。
「ノーならノーで構わないよ。望むところでは無いけれど、このまま足止めを続けるだけ…」
イブリースの言葉は、何かに気付いたような微細な表情の変化と共に途切れた。
「…そろそろだろうと思っていたけれど…」
北極熊がポツリと呟いたその直後、ガシャアンッと、ガラスが砕け散るような耳障りな音が響き渡り、管理人達がビクリと
身を震わせた。
顔を横に向けたミカールは目を丸くして、自分のすぐ脇、頭よりも少し高い位置に出現した物を見つめた。
それは、腕であった。
手に革のグローブをはめた肘から先の腕が、何も無い空間に突如出現している。
一同が視線を注ぐ中、拳を固めたその手が、唐突に縮んだように見えた。
実際には縮んだのではなく、その切り取られたように何も無い所に浮かんでいる肘の方向へスライドし、そこにある何かの
陰にでも隠れるようにして、見えている範囲が短くなっている。
まるで背景をそのまま書き写した騙し絵の陰に隠れるように引っ込んだ手は、先ほど肘の端があった位置、つまり突き破っ
た空間の裂け目に折り曲げた四本の指をかけ、横へズリッと動く。
その動きに伴ってバリバリバリッと何かが裂けるような凄まじい音が響き渡り、空間が震動した。
「邪魔するよ」
無理矢理広げられた突破口からのっそりと現れ、分厚いブーツの底でジャリッと地面を踏み締めたのは、黒い雌牛であった。
拳で空間を突き破り、その穴に手をかけて強引に広げ、隔離空間に踏み込んで来た存在へ、目をまん丸にしたミカールが話
しかける。
「イスラフィル!?何でお前ここに…」
「何でって事は無いんじゃないかい?緊急事態なんだからねぇ」
ミカールを見下ろして応じた雌牛は、自分に視線を注いでいる北極熊に視線を向ける。
「よ。久し振りじゃないのさ?元気そうだね」
「キミも変わりないようで何よりだよ。イスラフィル」
軽い調子で挨拶を交わす二人は、しかし笑み一つ浮かべるでもなかった。
「数秒も要さず異層への強制侵入を行う…、いや、界面の強行突破、か…。相変わらずパワフルだね」
オーバースペックの一人である黒い雌牛の渾名を思い出しながら、イブリースは懐かしむように、微かに声音を変えていた。
ボーダーブレイカー。境界破りのイスラフィルの力は、どうやら健在であるらしい、と。
「そっちこそ相変わらずの力だねぇ、ミカールが隔離空間に足止めされるなんてさ。…いや、昔からそうだったか…。アンタ
はいつだって単純なミカールの一枚上を行っていたからねぇ…。力の差って言うより、ミカールがまんまと策に嵌ったって見
るべきか…」
さばさばとした口調でそんな事を言いながら、雌牛はミカールをチラリと見る。
「…どうしたんだい?やけに静かじゃないか?」
雌牛の問いに、ミカールは黙したまま答えない。
その妙に大人しい反応が、彼女には不思議でならなかった。
「ミカールには先に話をしたんだけれど、キミにも聞いて欲しい」
イブリースが口を開き、雌牛は胡乱げに細めた目を彼に向ける。
「提案したい事がある。お互いに、当面は疲れる事をしなくて良い提案だと思…」
北極熊の言葉は、途中で途切れた。
北極熊は耳をピクリと動かし、次いで僅かに眉を上げると、匂いを嗅ぐように小さく鼻を鳴らす。
イスラフィルによって因果の断層が破られた一角から漏れて来る、現実空間の気配。その中に含まれる微細な変化の兆しを
感じ取った直後、イブリースの顔つきが微かに変化した。
「アズ…!?」
保護対象の名を短く呟いた声は低く掠れ、僅かに動揺の気配が滲んでいる。
いつもは物憂げな光を称えている目の奥で、疑問と動揺の色が微かに踊る。
この時点まで、事態は概ね彼の予想通りに進んでいたが、完全に計算外な事が起こっていた。
即座にその事に気付いたイブリースは、ぐっと背を丸めて前屈みになる。
その背、赤いコートの背面に、うっすらと一対の何かのエンブレムが浮かび上がると、そこから体色同様の、眩い白が溢れ
出した。
勢い良く噴出した白い光の粒子は、一対の大きな翼を形成する。
赤いコートを纏う北極熊は、大きな白い翼を羽ばたかせ、勢い良く飛び立った。
その行く手でダミー空間の外壁が粉々に砕けて穴が空き、既に暗くなった現実の空が広がる。
「待ちぃイブリース!」
慌てて膝を縮め、翼を折り、北極熊の後を追って飛び立とうとしたミカールの腕を、イスラフィルの手がガッシリと掴んだ。
「待つのはアンタだよミカール!アンタ頭に血が昇り易いんだから、慎重に行きなっていつも言ってるだろう?」
「ワシは慎重や!」
「ウソつけチビデブゴム鞠!」
怒鳴るミカールに即座に怒鳴り返し、イスラフィルはムンズとレモンイエローの鬣を掴み、上から頭を押さえ付けた。
「見たところ戦闘の最中だった訳じゃないね?火薬庫みたいなアンタが手を休めてたのは何でだい?かっ飛んでく前にアタシ
にも事情を説明しな!アイツの提案ってのは一体何だい!?」
「頭押さえんのやめぇっ!背ぇ縮んでまうやろっ!?」
街の上空に舞い上がった赤い影は、純白の大きな翼を広げて宙に静止した。
ミカールと対峙してもなお泰然と構えていた彼は、しかし今は焦りの色を隠そうともせず、しきりに首を動かしてあちこち
へ視線を飛ばし、眼下に広がる街の様子を窺っている。
(何処だ…!?何処に居るんだ、アズ!)
薄赤い瞳は焦慮の輝きを帯び、口元から僅かに覗いた牙がギリッと噛み締められる。
眉間に深い皺を刻み、地上を見下ろすイブリースの真後ろ、そして右、次いで左に、迷彩柄のコンバットスーツを着込み、
胸部に革製のハーネスを着用した獣頭人身の男達が、北極熊のさらに上空から舞い降り、静止する。
三人は、いずれもその口部を拘束具で覆った、異様な雰囲気の男達であった。
「…執行人か…。今はキミ達に構っている暇は無い」
どんよりと濁った、感情を窺わせない目で北極熊を見つめる三名は、翼も無しに宙に浮き、地面の上に立つように大気を踏
み締めている。
「けれど、もしも邪魔をするなら…」
彼らには目も向けず、食い入るように街を見つめつつ呟くイブリースの前に、いま一人、狼の顔をした執行人が舞い降りた。
それと同時に、四名に増えた執行人は、背に固定していた剣の柄へ一斉に手をかける。
「…キミ達を塵にして、ボクは進む…」
低い声音でぼそりと呟いたイブリースの瞳が、冷徹に赤く輝いた。