第二十八話 「敵対者たる条件」(前編)

白猫の少女に背を向けて振り返ったデイブは、得体の知れない相手を前に、困惑混じりの顰め面をしていた。

というのも、猿ぐつわのようなマスクを口に填めているワニ男は、あの北極熊とも、彼と友好的な関係ではないらしい他の

獣面達とも、そして今出会ったばかりの白猫とも違う雰囲気を持っていたからである。

覚醒しつつあるデイブには、人間とは違うとはっきり確信できる、彼らの独特な気配。それらとも違う異質な何かが、鳥の

ように口が細いワニから発散されている。

それは、禍々しさであった。

殺意や敵意として感じられる物とは明らかに異なる、しかし強烈な危機感。

ガビアルは両手をナイフの柄にかけ、ゆっくりと引き抜いた。

その紫色の毒々しい刃が、デイブを威嚇するように鈍く光る。

相手を間違いない脅威だと認識しているデイブは、ちらりと、背後の白猫を見遣った。

(アレもこいつの仲間なのか…?俺が死ぬって…、あいつに殺されるって事か…?)

デイブの顔が苛立ちに歪む。

ガビアルが、そして白猫が何者なのかも判らず、己が置かれている状況すら把握できていない。

それでも、言いようのない危機感は時が経つほど募ってゆく。

逃げる。そして教会へ急ぐ。振り切れないようなら撃退も考えよう。

デイブがそう決心した瞬間、彼が行動に移るよりも早く、ガビアルが動きを見せた。

口がブルブルと激しく震え、左右に張ってあった猿ぐつわの紐が、バツバツッと音を立て次々に切れる。

マズルを覆っていたマスクがずるりと落ち、ダラダラとヨダレを零す口が、ガチガチと耳障りに歯を鳴らした。

どんよりと曇ったその目が、デイブを、そして白猫をぼんやりと眺める。

「特異点、並ビニあざぜるヲ確認…。コレヨリ排除ヲ執行スル…」

抑揚のない、のっぺりと平坦な声が、ガビアルの細長い口から漏れた。

その何処か機械的ですらある、感情が全く読み取れない声音に、デイブは薄ら寒い物を覚える。

大男がじりっと、僅かに足の位置を変えたその時、ガビアルの姿が霞んだ。

風切り音が耳元で鳴り、路面に身を投げ出したデイブは肩を強打して呻く。

一瞬の出来事である。人が反応できる限界の速度で突っ込んできたガビアルの両手が閃くのにあわせ、デイブは身を投げ出

して回避に移っていた。

転ぶ恰好で地面に倒れ込んだデイブの胸には、その逞しい両腕で抱え込まれた白猫の姿。

唐突に斬りかかられたとはいえ、致命的なまでに体勢を崩していたのは、彼女を庇ったせいであった。

(仲間なんかじゃねぇ!このチビまで、俺もろともに殺す気だ!)

転んだ状態で身を捻り、地面を転がって離れつつ身を起こそうとするデイブの背を、冷たい汗が伝い落ちた。

デイブが一人で避けていれば白猫が餌食になる…。ガビアルの手にある二本のナイフは、そんな軌道で内から外へ、左右へ

振り抜く形で薙ぎ払われていた。

白猫を抱えたまま素早く身を起こして片膝立ちになったデイブの目前へ、低い姿勢でガビアルが迫る。

歯の根が合わないように顎を震わせ、カチカチと牙を鳴らすガビアルの両手が、二人目がけて伸びる。

再び身を投げ出し、横に転がって避けたデイブは、いつもと勝手が違う事に気付いた。

普段なら相手の動きを何となく予想できる勘。それが、今回に限っては全く働かない。

デイブは知らなかったが、刹那の先を見通す彼の能力は、配達人などが持つ、地上の理に縛られる者の因果を元に未来を予

測する能力の一端であった。

酷く不完全で微弱な物ではあったが、デイブは生身の人間でありながら、配達人らと同質の能力をその身に宿していたので

ある。

だが、その予測能力はあくまでも地上の理の中でこそ発揮されるもので、地上の因果に縛られない存在…、執行人たるワニ

男の行動は見通せない。

白猫を抱え込んだまま必死に避けるデイブだったが、ガビアルは素早く、そして容赦なく、着実に二人を追い詰めてゆく…。



さらさらと、光の粒子が空に舞い、地上へと降りてゆく。

季節外れの粉雪を思わせる光の乱舞の中、白い翼を広げ、赤いコートを纏った北極熊が、赤々と輝いていた瞳を閉じる。

再び瞼が上げられたその時、イブリースの瞳は元通りの薄赤い色に戻っていた。

攻撃的な輝きを消した瞳を、北極熊は胸元に上げた右手へ向ける。

そこには、半ばから折れた一振りの剣が握られていた。

戦闘の最中、北極熊に奪い取られ、自らの持ち主を斬って捨てたその剣は、結合を失って分解してゆき、周囲を漂う光の粒

子に混じり込んでゆく。

ほんの五秒ほど前までイブリースを囲んでいた執行人達は、もはや影も形もない。

最後の痕跡たる奪われた剣もまた、イブリースの手の中で静かに崩れてゆく。

物憂げな無表情で剣を見つめていたイブリースは、湯に沈んだ角砂糖のように崩れ、溶け去ってゆくそれを放り捨てると、

素早く身をさばいた。

その直後、ガンッと、叩き付けるような銃声が大気を揺さぶる。

身を捻りつつ斜めに仰け反る姿勢になったイブリースの胸元を、四発の弾丸が通り過ぎた。

ギリギリで回避に成功したイブリースは、その姿勢のまま自分の背を狙った相手を見遣る。

そこには、宙を踏み締めて立つ大柄な雌牛の姿。

右手でホルスターに収まったままの銃を握り、左手を添える恰好になっていたイスラフィルは、その深い色の瞳をひたりと

北極熊に据えている。

ホルスターに収まったままのリボルバーは、銃口を前に向けた腰溜めの姿勢で構えた雌牛に、撃鉄に左手を添えて連射され

ていた。

この姿勢で抜かずに発砲できるように、ホルスターの先には穴があいており、きっちり収まったその状態でも、銃口の先端

が5ミリほど覗いている。

あまりに速かったため、銃声が重なり合って一発に聞こえる程の連射であった。

ミカールが口を開こうとしないので、業を煮やして単独で挑みかかったイスラフィルの背からは、漆黒の翼が生え、広げら

れている。

周囲には黒い霧のような物が漂い、執行人達の残滓である光の粒子とせめぎ合っていた。

くるりと体の向きを変え、翼を大きく広げたイブリースの背へ、黒い雌牛の声がぶつかった。

「逃がしゃしないよぉっ!」

既に除幕形態となっているイスラフィルは、ファニングショットを回避された事にも全く痛痒を感じず、その両手を天に向

かって高々と上げる。

彼女の唇は、先程そうしたように再び歓喜の歌を口ずさみ始めた。

その声に呼応するようにして、イスラフィルの周囲の霧がすぅっと上に向かってたなびき始める。

動きを止めたイブリースは、ちらりとイスラフィルを振り返ると、右腕を頭上へ高々と上げた。

頭上にかざされた手の少し上でドーム状に白い光が展開し、傘となってイブリースの頭上に広がる。

そこへ、上空からポツリ、ポツリと、黒い滴が滴り落ち始めた。

初めは弱く、しかしすぐさま勢いを増して豪雨となったその黒い雨は、まるで墨汁のように濃く、しかもイブリースを中心

にして直径10メートル程の範囲でしか降っていない。

イブリースの頭上に広げられた光の傘は、その黒い雨に打たれながらヂュッ、ヂュヂュッと、焼けた鉄板に水を垂らしたよ

うな音を立てる。

イスラフィルが呼んだ黒い雨は、彼女特有の攻性データである。

一粒一粒はデータ圧縮弾に及ばないものの、その数と継続力上、全体で見ればミカールが砲弾サイズに精製した圧縮データ

にも負けはしない制圧力を持つ。

その雨粒型という性質から回避が難しく、長時間継続するが故に、防いでも足止めを余儀なくされる攻撃であった。

自分にだけ降り注ぐ雨を防ぐイブリースが、この状況での転移精度がどれほどになるか試算し始めたその時、

「待ちぃイスラフィル!」

「おふぁっ!?」

斜め下から勢い良くかっ飛んで来たレモンイエローの獅子が、黒い雌牛の腰に後ろからタックルを仕掛ける形で抱き付いた。

「ちょっと!何すんだい!?」

黒い雌牛は身を捻ると、振り向き様に、腰にしがみついたままのミカールの頭へゴスッと拳骨を落とす。

「いぎゃあっ!話す!話すからちょっと落ち着けて!」

激しく降り注いでいた黒い雨は、イスラフィルの歌が途絶えると同時に勢いを失い、間もなく止んでしまった。

光の傘を解除したイブリースは、即座に周囲にノイズを走らせ、転移して姿を消す。

「ああ!ほら見なっ!逃げちまったじゃないのさチンマいライオン!」

「イスラフィル!ちゃんと説明したるからそのゲンコのけぇて!」

頭頂部を雌牛の拳でグリグリされながら、ミカールは悲鳴に近い声を上げた。

「今はあいつに手ぇ出したらあかん!今回はちっと状況が複雑なんや!」



「飾り付けオッケー」

「廊下の掃除もオッケー」

「準備オッケー?」

「全部オッケー!」

孤児院の一室に、子供達の楽しげな声が響く。

シスターメアリーの誕生パーティーの準備は終わり、それまでせわしなく動いていた子供達が、絶対に覗くなと言い含めて

厨房に追いやっていたシスターを呼びに行った。

にこやかな表情でその様子を眺めていた小太りの少年は、くいくいと服の裾を引っ張られ、首を巡らせる。

ニコルの後ろに立っていた小さな女の子は、兎の縫いぐるみを抱えながら、そばかすの浮いた少年の顔を見上げていた。

「ねぇ、ニコル兄ちゃん?デイブ兄ちゃんは?」

「今日もたぶん仕事だから、遅くなるかも」

応じたニコルは、今日ぐらいは早く来ればいいのにと、心の中で兄貴分に文句を言う。

元々デイブは夕食後から参加するつもりであったが、事情が変わって現在この孤児院へ向かっている最中。

ただし、かなり危機的な状況にあるのだが、ニコルら子供達はその事までは当然察せられない。

だが、そんなニコルの不満も、ピザトーストの香りを纏い、大きなトレイを手にしたシスターが室内に入って来ると、即座

に霧散した。

デイブが眼鏡の紳士から貰った高級チーズを惜しげもなくたっぷり使って仕上げた、シスター入魂のピザトーストが、テー

ブルの真ん中に乗る。

次いで、迎えに行った子供達が同じようにピザトーストをテーブルに上げ、ジュースとコップを置いてゆく。

それは非常に質素ではあったが、この貧しい孤児院ではとても贅沢な部類に入る夕食であった。

「デイブの分は?」

「後で焼くように厨房に用意していますよ」

ピザトーストはデイブの好物でもあった。来るまでに全部無くなってしまわないか気になって訊ねたニコルに、シスターメ

アリーが微笑んで応じる。

「じゃあ、間に合わなくて食べ損ねたって事にはならないね!」

笑みを見せたニコルはコップが不足している事に気付くと、取りに行こうとしたシスターを「主役なんだから」と制して、

自分が厨房へと向かった。

軋む廊下を抜けて厨房へ入ったニコルは、しかし気付かない。

自分が廊下から姿を消したタイミングで、入れ違いに玄関が開き、因縁のある青年達がエントランスホールに侵入した事に

は…。



ドンと背を壁につけて止まったデイブは、ハッとして左右を見回し、舌打ちをする。

白猫を庇ってさえいなければここまで防戦一方にはならず、あるいは逃げるチャンスもあったであろうデイブは、人間とは

まるっきり比較にならない身体能力を持つガビアルに、容易く追い詰められてしまった。

「くそっ…!」

忌々しげに悪態をついたデイブは、しかしそれでも白猫を放そうとしなかった。

ガビアルの両手に握られたナイフが閃き、揃って突き込まれる。

まともに捉えられないその閃光の如き刺突へ、反射的に白猫から離れて動いたデイブの両手がぶつかった。

それは、まともな思考でそうした訳でもなく、自身でも意図せぬ、完全に反射的な動きであった。

攻撃を受け始めて以来、初めて白猫を放したデイブの両手は、ガビアルのナイフを一本ずつ、刃を握って止めている。

ざんばら髪に隠れたデイブの目が、驚きで丸くなった。

自身の無意識の動きに驚愕した他に、目にした光景から衝撃を受けて。

素手でナイフを掴んでいるにもかかわらず、デイブの手は切れていない。というのも、ナイフと手の間に僅かな隙間があり

直に触れていないからである。

デイブの視線が注がれる先で、彼の手とガビアルのナイフの隙間に、ぼんやりと燐光が蟠っていた。

刻々と明るくなっては反転して暗くなる、ゆっくりと明滅を繰り返している、自分の手を覆うその燐光に、デイブは目を奪

われた。

その燐光は、デイブが驚いている間にも効果を発揮していた。

ガビアルのナイフは燐光に侵されるようにして刃こぼれし、ボロボロになって行く。

原理不明のその現象を前に、しかしガビアルは驚いた様子もなくナイフを手放し、素早く離れる。

デイブの手の中で、地上の理に縛られないはずのナイフが、腐食とも違う急速な侵蝕を受けて分解されて行った。

驚きながらナイフを放り捨てて、素早く立ち上がったデイブは、その背後に白猫を庇ってガビアルを睨む。

相変わらずどんよりとした目を二人に向けているガビアルは、その手を肩へ伸ばし、背に固定していた剣の柄にかけた。

抜き放たれたそれは、先端が左右に膨らみ、切っ先が丸みを帯びて異様な形状になった斬首刀、エグゼキューショナーズソ

ードである。

執行人の武装を代表するそれは、刃が影のように黒く、青黒く光を照り返している。

「…おい…」

執行人が構えた禍々しい処刑用具を睨みながら、デイブは背後に庇った白猫に声をかける。

一言も声を漏らしていなかった白猫は、デイブの声が聞こえているのかいないのか、ぼうっとした目を空に向けていた。

「俺が引き付けるから、お前は逃げろ。路地の入り口に向かって真っ直ぐにだ。そのまま走って、人通りのあるところまで絶

対に立ち止まるな。良いな?」

白猫を庇ってさえいなければ、何とか立ち回り、逃げる事もできそうだと考え、デイブは自分の身を危険にさらすその提案

を口にした。

が、白猫はその言葉にも返事をせず、相変わらず空を眺めている。

「おい!俺の話ちゃんと聞いてん…」

「…アル…」

苛ついて声を荒げたデイブの言葉に、白猫が漏らした呟きが重なった。

紛うことなく敵である存在を前にしながら、デイブは思わず振り向き、直後に白猫の視線を追って空を見上げる。

その瞳に、急速落下して来る白い流星の姿が飛び込んできた。

赤を纏う白い巨体が、大きな純白の翼を広げ、デイブと執行人の間に落下した。

ズドンッと、腹に響く轟音と衝撃が、デイブを襲う。

巨躯に追い散らされた風が四方へ逃げ惑い、三人の体を打って衣類を激しくはためかせた。

落下の衝撃でへこんだ地面を太い両足で踏み締め、大きな翼を光の粒子へ分解して霧散させながら、イブリースは半身になっ

てデイブを振り返る。

「この状況は計算外だったよ。連れが迷惑をかけたね…」

涼やかなその声音には、しかし何処かしらほっとしているような響きが混じっていた。

そこへ、ガビアルが素早く詰め寄った。

「あ、あぶなっ…!」

デイブの叫びは半ばで途切れる。

デイブ達を振り返り、横向きの姿勢になっていたイブリースの鳩尾下に、真横から振るわれたエグゼキューショナーズソー

ドの刃が深々と食い込む。

斬られた。

一瞬そう思ったデイブは、しかし直後にそうではない事に気付いて目を見開く。

赤いコートに覆われた北極熊の胴、そのふくよかな腹部へ完全にめり込んではいるものの、剣は彼を傷つけていない。

凄まじい勢いで叩きつけられた剣が柔らかな皮下脂肪にめり込む形になったせいで、見ていたデイブは斬られたと錯覚した

が、刃はコートの表面で止まっていた。

「いきなりは酷いなぁ…」

イブリースは顔を前に向けると、剣を叩きつけたままの姿勢でいる、自分より頭一つ以上背が低いガビアルを見つめる。

「ボクの知らない顔だけれど…、まぁ、その恰好からすると間違いなく執行人だろうね」

乱入者に驚いた様子も、剣の刃が通らない事に動揺も見せないガビアルは、呟いたイブリースを無言のまま見つめ返す。

執行人とは、更正不能と判断された堕人や、致命的な背信行為に及んだ配達人らの自我を破壊し、プログラムによって自立

活動するように仕込まれた、自動的な法の守護者である。

このガビアルは、かつて重大な配送ミスを数回しでかした配達人のなれの果てであった。

自我も感情も持たない人形に等しいガビアルに、それでもイブリースは語りかける。

「これからが大事なところ…、見極めにはまだ少しかかるんだ。悪いけれど、邪魔をされるといささか困る…」

「ギギ…ギ…」

イブリースの言葉を遮り、ガビアルの口から声が漏れる。

どんよりと曇った瞳に北極熊を映しながら、その細長い口が、平坦に、冷たく、言葉を紡ぎ始めた。

「消去対象、いぶりーすヲ確認…。特異点、あざぜる、共ニ排除ヲ執行スル…」

その直後、デイブは総毛立った。

それは、彼が生まれてこのかた初めて経験する、強烈と表現するのも生易しい恐怖を覚えたからである。

「…ぶな…」

その押し殺した声が誰のものであったのか、デイブには即座に把握できなかった。

「…な名前で呼ぶな…」

低く、小さく、そして微かな震えを帯びたその声が、北極熊の口から漏れている事に気付いたデイブは、自身が感じている

その恐怖の根源がこの男である事を知った。

薄赤い目は禍々しい赤光を発し、爛々と燃えている。

燃え盛る烈火の如き暴力的な熱を帯びた、嚇怒の滾る瞳でガビアルを見下ろしながら、北極熊は押し殺した声で繰り返す。

「…アズを…、そんな名前で呼ぶな…!」

デイブはこの時、初めて知った。

度を越した恐怖は、絶望の味がするという事を。

例えばそれは、出会いがしらに目と鼻の先を通過してゆく大型ダンプにも似ていた。

踏み出せば為す術無く粉砕される。確実にそれが判る事象が、もしかしたら自分に向かって来るかもしれない。

そしてそれが向いた時には、自分には何もできない。身を守る事も、逃げる事も、抗う事も…。

何もできないという絶望を孕んだ本能的な恐怖。それが、デイブがイブリースから感じている物であった。

おもむろに伸びた北極熊の手が、ガビアルの頭に触れる。

それは決して速くはない、むしろ緩慢と言える程のゆっくりした動作であった。

だがしかし、そのゆったりとした動作に込められている力は、見た目通りに穏やかな物ではない事を、デイブはすぐさま悟

る事になる。

ガビアルの頭に乗せられたイブリースの手が、下に向かって動く。

その細長いマズルを備えた頭部が僅かに沈んだ事から、北極熊がその手で彼の頭を下向きに押している事がデイブにも察せ

られた。

が、ワニ男の頭を下に向かって押さえつけるその動きは、その緩慢な速度のまま、止まらなかった。

ぐぐぐっと、ガビアルの首が沈む。

押さえ付ける力に抵抗しているのだろう膝が震えて、腰が曲がるが、それでも下向きに押し込まれるイブリースの手は一定

の速度を保ったまま動作を続行する。

剣を握るガビアルの手が力を込めるが、柔らかな腹にめり込んだ剣は、しかしそこから一ミリたりとも食い込まず、刃はコ

ートを切り裂けない。

そのゆっくりとした、悪夢のような光景は、見開かれたデイブの瞳に刻み込まれた。

上からの圧力に負けて膝を折り、地面に跪くガビアル。

その手が剣を手放し、頭に乗せられた北極熊の腕を掴むが、まるで吸い付いているように外れない。

既に腰を折って前屈みになっているイブリースは、そのままさらに体重をかける。

膝を折ったガビアルは正座の姿勢になっているが、それでも下がる手は止まらず、彼の頭は押し込まれ続け、やがて…。

途中から目を逸らしたデイブの耳に、メリメリ…メキッ…ブヂャッと、嫌な音が届いた。

何かが軋んで折れ、何かが爆ぜ割れ、湿った何かが飛び散る嫌な音に続いて、ジュウジュウと、鉄板の上で水か油が熱せら

れているような音が聞こえ始めた。

ようやく顔を前に向けたデイブは、舞い散る光の粒の中に佇む北極熊の背を目にする。

いつの間にか、先程の恐怖感は消えていた。

「…計算が大きく狂った…。済まない、これはボクの身内のせいだね…」

涼やかな声音でそう言いながら振り向いたイブリースの瞳は、先程の凶々とした赤光を発してはいなかった。

普段通りの物憂げな薄赤い瞳をデイブに向け、次いでその背後に庇われたままになっている白猫を見遣ると、イブリースは

片方の眉を上げ、反対側の唇の端を下げ、何とも言えぬ微妙な表情を浮かべる。

「…キミは変わり者だ…。大きな借りを作ってしまった身としては、非難できないけれどね…」

低く呟かれた独り言は、しかしデイブの耳に内容までは届かず、大男は「あ?」と、困惑の抜け切っていない表情のまま首

を傾げた。

「アズ、おいで…」

北極熊が手を差し伸べると、白猫はデイブをトコトコと回り込み、保護者に歩み寄る。

そして、その肉がついて大きく分厚い手に、対照的に華奢で小さな手をそっと重ねた。

包み込まれるように握られた手を見遣った後、白猫はデイブを振り返る。

あいかわらず茫洋とした視線ではあったが、その瞳はデイブの顔を映し、記憶にとどめようとしているようにも見えた。

そんな白猫の顔を見下ろしていたイブリースは、やおら顔を上げてデイブに告げる。

「さあ行って、急いだ方が良い」

北極熊の言葉で、デイブの呆然とした表情が引き締まった。

「待てよ。急げってどういう意味だ?そもそもあんたら何者だ?何が起こってる?説明しろ!」

先程感じた恐怖の事も忘れ、詰め寄って詰問するデイブに、北極熊は静かに応じた。

「それらは、言葉で君に伝えて理解して貰うには、とても時間がかかる事なんだ。今はひとまず疑問を棚上げにして前に進む

べきだと思う。標もない道だけれど、おそらくはボクらに見えていないだけで、キミの行き先はそろそろ決まっているはずだ」

北極熊の言葉は相変わらず抽象的で、デイブは顔を顰めつつ理解に苦しんでいる。

「事情があるんだか何だか知らねぇが…、名前も名乗れねぇのか?」

苛立つデイブのその言葉に、北極熊は「あぁ…」と声を漏らす。

「ボクはイブリース。何者かという事は…、告げても、今のキミには理解できないと思う」

「理解できねぇとか、その辺の説明からしてちっとも判んねぇよ…」

デイブの返答に、イブリースは「それもそうだね」と、微かに口元を綻ばせた。

「噛み砕いて言うなら、敵対者さ」

「敵?何の?」

聞き返すデイブに、イブリースは諦観とも哀愁ともつかない色を瞳に浮かべ、微苦笑した。

「この世界を維持しているシステムの敵…、という事になるね」

「…さっぱり判んねぇ…」

呟いて顔を顰めたデイブからおもむろに視線を外し、イブリースは右手へ視線を向ける。

つられて横を向いたデイブの目に、レモンイエローの立派な鬣が印象的な、背が低くポッテリと肥えた獅子の姿が映った。

三人の方へまっすぐ歩いてくるその童顔の獅子を眺めながら、デイブはひとりごちる。

「…そうか…、あの坊主、思い出してみりゃ最初に見た獣マスクだが…、やっぱりアイツも連中と同類だったのか…」

「類別で言うならそうだね。もっとも、彼は維持する側だから、スタンスはボクとまるで違うけれど」

デイブの囁きを耳にしたイブリースは、簡単な説明を与えつつも、ミカールから目を離さない。

苛立っているように足早に近付いて来るミカールは、既に除幕形態ではなかった。

怒っている様子ではあるが闘志は感じられず、イブリースも警戒らしい警戒を敷いていない。

「提案は、受け入れて貰えるんだね?」

北極熊は距離が縮んだ獅子へおもむろに話しかける。

「釈然とせぇへんけどな、一時休戦や」

釈然としないどころか、あからさまに憮然としている様子のミカールが、不機嫌さを隠そうともせずつっけんどんに応じた。

「イスラフィルの説得に手こずったわ。…けど、結局は折れてくれて、この街に来とる管理人や配達人に事情を説明して、執

行人達の方も何とかしてくれるてゆうとった」

「それは助かった」

応じたイブリースを睨み付けながら、ミカールは胸の内で呟く。

(助かったんはどっちやろな…。間違いなく前より力が増しとる…。管理人達ですら、今のコイツの前やと紙くず同然や…)

ミカールは、つい今しがたこの場で執行人が消滅させられたらしい事を、漂う残滓から察している。

文句の一つを言う事すらできなかったのは、おそらくはデイブと白猫が執行人に排除されかかっていたのだろうと予想でき

たからであった。

イブリースはそんな獅子の思いに気付いた様子もなく、ミカールをまじまじと見つめているデイブに告げる。

「さあ、もう行った方が良い。彼の方でも協力してくれるようだから、もう邪魔は入らない」

「だから、行くって…」

焦りは消えていないが、困惑と疑問がいまだに強く残っているデイブが、なおも質問しようとすると、

「うっさいわ!!!とっとと行かんかダァホ!」

童顔の獅子が、重なり続けた不本意な成り行きの苛立ちを込め、半ば八つ当たり気味に怒鳴った。

「散々振り回しよって!オドレのせいでワシがどんだけ苦労したと思っとるんや!?これ以上グダグダぬかして手間かけさす

な!いてまうどゴラァっ!」

背の低い太った童顔の獅子に凄まじい剣幕で詰め寄られ、さしものデイブもたじろいだ。

彼にしてみれば、急に現れた子供のような獅子に、何故いきなりここまで怒られなければいけないのかさっぱり判らないし、

怒られるような心当たりもない。

理不尽に怒鳴られている感はあるのだが、「何を言っても無駄」という印象だけは強烈に感じられ、デイブは口答えするの

を諦める。

その後も一方的にギャイギャイとまくし立てたミカールは、怒鳴り散らした事である程度すっきりしたのか、

「判ったらはよ行かんか!面倒かけんなホンマ!」

と、追い払うような仕草でシッシッと手を振った。

「お…おう…」

ややげんなりした顔をしながらしぶしぶ踵を返したデイブは、イブリースと白猫をちらりと見遣り、駆け足で離れ、やがて

速度を上げて全力疾走に移った。

駆け去る大男の背を見送ったミカールは、ため息をつく。

「あの特異点…。最初に見た時はここまで大事になると思わへんかった…」

「ボクも最初は同じさ。奇妙だとは思ったけれど、まさかああだとは…」

頷いたイブリースは、手を握っている白猫に視線を向ける。

既にデイブの姿が見えなくなっているにもかかわらず、その瞳は彼が駆け去った方向へと据えられていた。

「…デイヴィッドについて最も詳しく、正確に把握していたのは、案外アズかもしれない…。あの夜、因果の乱れに反応した

最初の時から、あるいはデイヴィッドがどんな存在なのか、全て判っていたのかもね…」

イブリースの呟きに、ミカールもまた白猫へと視線を向ける。

アザゼル。管理人達からはそう呼ばれている白猫を見るミカールの目には、痛ましいものでも見るような、そして懐かしん

でいるような、微妙な光が宿っていた。

「…キミは、アズを排除しようとしないんだね?」

そう声をかけられ、獅子はイブリースの顔を見上げる。

「この街で最初に会った晩もそうだった。あの時キミは、アズにはダメージが及ぶ攻撃を仕掛けなかったね。転移直前にも、

発砲じゃなくわざわざ鬣で捕縛に来た。手足と同じく微細な力加減が利くあれなら、過度なダメージを与える事はないからだ

ろう?」

「………」

「二度目の時もそうだった。銃を抜いた状態であそこまで接近していれば、警告無しに「流星群」を仕掛ける事も、それ以前

に、離れた位置からアハトアハトで狙撃する事もできたはずなのに、わざわざ先に声を掛けて気付かせた」

「不意打ちは好きやない」

つっけんどんに応じたミカールだったが、イブリースは微かな笑みを浮かべつつ首を左右に振った。

「ボクが一人の時には、遠慮無く奇襲をしかけて来るのに?」

ブスッとした顔で黙り込んだ獅子に、北極熊は微笑みかけた。

「優しいね、ミカールは」

「たまたまや。全っっっっっ部!都合のええ勘違いや」

力一杯否定しつつ、ミカールはデイブが向かったであろう孤児院の方角へ視線を向ける。

今ではもう道を違え、袂を分かった二人は、しかし今この時だけは、かつて何度もそうしたように、揃って同じ方向を眺め

ていた。



「わ!?」

トレイにコップを乗せたニコルは、激しい物音を耳にして振り返る。

彼が今居る厨房からでは良く聞こえなかったが、怒鳴り声と泣き声、そしてテーブルが倒されるような激しい物音が、廊下

を伝って遠く響いて来た。

「なに…!?」

持ち上げたばかりのトレイをテーブルに戻し、ニコルは駆け足で廊下へ飛び出した。

シスターの誕生パーティーの会場とすべく飾り付けをおこなった、皆が集まっている大部屋へと駆け戻る途中で、ニコルは

その足を緩めた。

聞こえてくるのは男達の怒声と、子供達の泣き声。

ただ事ではないと察したニコルは、忍び足になり、足音を殺して開いたままのドアに寄り、そっと部屋を覗き込んだ。

「!?」

ニコルは息を飲み、顔を引っ込める。

テーブルがひっくり返され、せっかくの料理が床に散らばり、割れた食器が散乱し、台無しにされたパーティー会場。

そこに、見覚えのある青年達数名の姿があった。

かつてニコルを誘拐し、デイブを引き込もうとしたストリートギャング達である。

大人しくしろ。騒ぐな。妙な真似をするな。

お決まりの文句を並べ立て、怒鳴り続ける青年達の声を聞きながら、ニコルはムッチリとした胸に手を当てる。

全身から脂汗が噴き出し、心臓は全力で走った直後のように激しく脈打ち、緊張で一瞬にして上がってしまった呼吸のせい

で、手を当てた胸が激しく上下する。

(強盗…!?なんで孤児院に!?お金なんか無いのに!)

冷静な思考を取り戻そうと努力するニコルの頭では、状況に対する疑問がグルグルと巡る。

ただでさえ経営難な上に、身寄りのない子供達を養育している孤児院。そこへ押し入るのは、物盗りにしては明らかに不自

然であった。

(目的は…デイブ…!?)

ニコルの思考は、すぐさま彼らの目的に辿り着く。

かつて自分を誘拐した時の目的がデイブの勧誘だったように、今回は古巣である孤児院自体を盾に取ってメンバー加入を迫

るつもりなのだろうと、ニコルは考えた。

だが、その推測は部分的に間違っている。

目的は確かにデイブであり、孤児院の子供やシスターを盾に取るつもりである事も当たってはいたが、彼らが求める結果は

ニコルが想像した物と違っていた。

リロからの依頼を受けた青年達は、今回はデイブを仲間に加えるべく動いている訳ではない。

彼らは今夜、デイブを亡き者にする為に動き始めたのである。