第二十九話 「敵対者たる条件」(中編)

「手を出すな…ですと!?」

困惑して問い返した黒虎に、黒い雌牛は重々しく頷く。

先程イブリースに機能停止寸前まで追いやられていた彼は、修理人である青い猪の基礎修復を受け、ある程度動けるまでに

回復していた。

「何故です!?いや、そもそも看過できる事態では…。作戦の続行を提案します」

「やめときな。いたずらに犠牲を増やすだけさね」

食い下がろうとする黒虎に、イスラフィルはその豊満な胸の前で腕を組みながら、にべもなく言い放った。

が、鼻白んだ管理人達の様子を見て取ると、その口元を僅かに緩めて笑みを浮かべる。

「あんた達が心底納得できるとは思っちゃいなかったさ。そういうプロ根性、あたしは嫌いじゃあないよ?…けどね、今回ば

かりはその心意気を酌んでやれない。状況が状況だ」

夜の帳が落ちたカフェテラスの中央で、集まった獣頭人身の異形揃いの中でも特に大柄な女傑は、顔ぶれを見回しながら続

ける。

「我らが大敵の力は、現時点での予想を上回っている…。あの負けず嫌いのミカールの意見だ、認める他無いさね。ここから

はあいつとあたし共通の見解だけど、ドビエルが陣頭指揮を執るならともかく、今の状態じゃあ片っ端から潰されて終わりだ」

イスラフィルの言葉に、しかし反論しようとする者は居なかった。

意思を持たぬ代わりに強力な力を与えられた自立活動者…執行人達ですら、北極熊の前では紙切れ同然だったという事実は、

既に彼らも耳にする所となっている。

「知らないヤツがいるかもしれないから、一応言っとくよ。あいつは中央管理室長になっていたかもしれない男なんだ。そこ

の所をしっかりとわきまえる事さね」

水を打ったように静まりかえったカフェに、どこか投げやりですらあったイスラフィルの言葉が響き渡り、沈黙をさらに重

い物へと変える。

この場に集うまでは、緊張はしながらも意気揚々としていた配達人達も、イブリースの理不尽なまでの力を確認した今では、

声高に討伐協力を叫べない。

「仕事を片付けて飛んで来たドビエルに、あたしとミカールしか残っていない状況で事情を説明するのはゴメンだよ…。今は

時期が悪い。今回のところは見逃すのが最上の策だ」

イスラフィルの宣言に重苦しくなった雰囲気は、しかし雌牛が少し間をあけてから、口調をやや変えて再び口を開いた事で、

僅かながら軽くなる。

「…ただし、完全にほっぽり出す訳じゃあないよ?今ミカールがやっこさんを傍で監視してる。妙な真似ができないようにね」

イスラフィルの言葉で、北極熊に抗し得るレモンイエローの獅子が監視についたと知るなり、一同の顔にはいくらか納得し

た表情が浮かんだ。

その様子を確認しつつ、イスラフィルは胸の内で呟く。

(やれやれ、どうにか介入は止められたねぇ…。あとは執行人達か…。説得ができない以上、ルール違反だけど歌ってハッキ

ングするしかないさね。しかし、どういう事だい?滅びを内包した魂が人間として生まれていた?前例が無いよこんなのは…)

ミカールから告げられた、彼が予想した今回のイブリースの目的と、特異点たる大男の話を反芻した雌牛は、面倒な事にな

らなければ良いがと思いつつ、小さくため息をついた。

(ひとつ貸しだよミカール?あとでたらふくクリームシチュー食わせて貰うからね?)



一方その頃、デイブが部屋を借りている安アパートの屋上では、ジャガーと猿が、ぼんやりと夜景を眺めている白猫を監視

していた。

「正直なところ、どれほどのお叱りを受けるかと、戦々恐々としていたのだが…」

猿が漏らした言葉に、ジャガーは重々しく頷く。

「思えば、あの御方をあの御方たらしめている「憤怒」は、一度たりともシステム側以外へ向けられた事はない…」

極端に言えば、イブリースにとって自分達は取るに足らない存在なのだろう。そんな思いを込めながら、ジャガーは言葉を

切った。

正気と狂気の挟間を何食わぬ顔で闊歩する北極熊がその心を寄せているのは、未だ壊れた心しか備えていない白猫のみ。

その事を重々承知していながらも、彼らはイブリースに崇拝に近い憧憬と敬愛の念を抱いている。

彼の為ならば何でもするし、どんな苦労も厭わず、我が身の危険すら厭わない。

一方的な忠義が、それを求める事をしないイブリースに、多くの堕人から寄せられている。

白猫が姿を消した後、預かるという役割を果たしおおせなかった彼らは、必死になって彼女を捜した。

だが、結局彼らが探し当てる前に、イブリースが彼らの所へ白猫を連れて来たのである。

跪いて詫びた彼らに、しかしイブリースは怒るでもなく、

「アズがその気になったら、そうそう止められはしないよ。自発的に動くのは計算外だったけれど…、ボクを案じての行動だ

としたら、喜ぶべき所だろうね…」

と、珍しい事に困ったような微笑すら浮かべて言っていた。

そして、「もうしばらく預かっていて欲しい」と言い残した彼らの旗印は、そのままアパートの一室に踏み入って何かを持

ち出し、再び何処かへと姿を消したのだが…。

「あちら側と話がついたとおっしゃられたが…、一体どのような交渉を?」

「さてな…。力ずく…というのもあの御方らしくない。決して不可能でないにせよ、あまり好まれん。…何か交渉材料を握っ

ておられたのであろうが…」

首を傾げる猿とジャガーは、盟主の事に想いを馳せながらも、また白猫が姿を消してしまわぬかと、不安げな面持ちで見つ

めていた。



貧しい孤児院の一室は、子供達にとっては真の母親であるシスターメアリーのバースデーパーティーの会場として飾り付け

られ、普段とは打って変わってきらびやかな内装が施されていた。

様々な色の紙を細く切り、輪にして鎖状に組み合わせ、壁と天井に固定して目にも楽しい飾りとし、テーブルにはややクリ

ーム色に変色しているとはいえ、古びたクロスをかけて明るくしつらえてある。

そのテーブルの上に乗せられたのは、デイブが孤児院に差し入れてくれたチーズをたっぷり使って、当のシスターメアリー

が焼いた、チーズとケチャップ、サラミや魚介類がトッピングされた、具沢山の各種ピザトースト。

同じくテーブルの上を飾る瓶には、色鮮やかな各種フルーツジュース。

皆が皆、楽しいパーティーになる事を疑わなかったこの夜が、招かれざる客の手によって悲劇の舞台になろうとは、めでた

いその日に喜び浮かれる一同の、一体誰が予測できたであろうか。

「騒ぐな!」

「ガキを黙らせろ!」

青年達の怒鳴り声と、子供達の泣き声が、一転して騒動の場となった部屋に満ちていた。

蹴り飛ばされたテーブルは倒れており、既に栓が開けられていた瓶は床に転がり、零れたジュースが床に染み込んでゆく。

シスターが手間を惜しまず、心を込めてこしらえたピザトーストが床に落ち、沢山乗っていた具が散らばっている。

食べられる事の無かったピザトーストが上げた良い香りが、むしろ寂しく部屋に立ち込めていた。

廊下側、入り口ドアの傍に身を寄せて息を殺しながら、小太りの少年はその様子を観察し、顔を歪ませて歯を食い縛った。

決して剛胆とは言えない、むしろ臆病なニコルではあったが、育ての親たるシスターメアリーと、兄弟同然の孤児達が部屋

の隅へと追いやられてゆく様を覗き見た事で、義憤で胸を煮え滾らせている。

「子供達に乱暴な真似をしないで下さい!」

「うるせぇババァ!」

シスターメアリーの悲鳴混じりの叱責と、リーダー格の青年の罵声が交錯した。

泣き止まない子供達に苛立ったリーダーが子供の一人を足蹴にし、怒ったシスターと揉み合いになっている。

青年達の手にはナイフが光っている。それを目にしていささかも怯まないシスターの胆力も相当な物だが、この場合はそれ

が裏目に出て、最悪の結果にもなりかねない。

育ての母たるシスターの危機が、少年の恐怖を心の片隅へ押しやり、体を火照らせる。

皆の注意がそこへ向いたタイミングで、居ても立ってもいられなくなったニコルは、自分を心の中で叱咤し、奮い立たせた。

ニコルは部屋に飛び込み、ポケットに手を突っ込みつつ、まっしぐらにリーダーの青年めがけて走った。

走るニコルの手によってポケットから掴み出されたそれは、シスターへのバースデープレゼントに用意した、木彫りの聖母

像である。

ニコルはあまり器用ではないため、出来映えが良いとは言い難かったが、太い円柱型の木材から削り出されたそれは、ゴツ

ゴツとしていて頑丈であった。

ニコルは胸の内で詫びつつ、聖母像を走りながら山なりに投げる。

放物線を描いて飛んだ聖母は、青年達の頭上を越え、シスターと子供達を越え、壁に当たってゴンッ!と、鈍い音を立てた。

神経を張り詰めていた青年達が一斉にビクリと壁を見遣り、気付かれないまま接近することに成功したニコルは、シスター

と揉みあっていた青年達のリーダーへ、突進の勢いそのままに飛びついた。

狙いは右手。凶器を握るその腕に掴みかかる恰好で、ニコルは青年に体当たりした。

運動神経も良くない、機敏とも言えないニコルだが、ぽってりと肥えたその体は、突進の勢いが乗れば立派な武器になる。

斜め後ろから背に体当たりされつつ、右腕を掴まれた青年は、小太りな少年に後ろから組み敷かれる恰好で床に這った。

孤児院内の全員がこの部屋に居ると思っていた青年達は、突然の乱入者に奇襲され、リーダーを助けるどころか動揺してし

まっている。

ストリートギャングを名乗ってはいても、青年達は所詮素人である。

建物を占拠し、纏った数の人質を確保、管理するノウハウなどは、無論持っていない。

偶然にも直前で厨房に移動したニコルを見逃したのは、殺人を犯す予定による緊張と興奮で冷静さを欠いていたとはいえ、

彼らが犯した大きなミスであった。

「ニコラス!」

驚きで甲高くなったシスターメアリーの声が、室内に響き渡った。

この場で誰より驚いていたのは、育ての親でもあるシスターメアリー本人である。

小さい頃から泣き虫で、気弱で臆病だったニコルが、この危機的状況で強盗に飛び掛る勇気を見せた。

その事が、誰よりも身近でニコルを見てきたと自負しているシスターに、強い驚きを与えた。

だが、もしもこの場をデイブが見ていたならば、おそらくは誇らしげにこう言うはずである。

「見たかいシスター?俺の弟分は、やる時はガツンとやるんだぜ!」

ありったけの勇気を振り絞って青年達のリーダーに組み付いたニコルは、見事にシスターを危機から救って見せた。

だが、いくら奇襲を成功させたとはいえ、戦力差そのものは変わらない。

ニコルを除けば、他の子らは大きくても10歳。半分以上は六歳前後のほんの子供である。

シスターは大人とはいえ女性で、しかも若くもない。とてもではないが戦力になれない。

対して、心身ともに熱を帯びた時期にある青年達は、総勢六名。

いずれもニコルより年上で、男としてより成熟した状態にあり、喧嘩にも慣れており、当然少年より腕っ節も強い。

程無く動揺から立ち直った青年達は、リーダーを押さえ付けているニコルへ、一斉に襲いかかった。

引き剥がされ、蹴り飛ばされたニコルが床に転がり、執拗に、踏みつけるように蹴り付けられる。

「ニコラス!やめて下さい!やめ…、あっ!」

助けに入ろうとしたシスターは、青年の一人に乱暴に突き飛ばされて床に這った。

背を丸めて亀のようになったニコルは、その仕打ちにも歯を食い縛って耐え、抱え込んだソレを奪われないよう、必死になっ

て姿勢を維持している。

「くっそ…!」

小太りな少年に奇襲をかけられたリーダーは、屈辱に顔を歪めて立ち上がった。

ニコルを見逃していた事もそうだが、格下と見なしていた少年に一撃加えられ、さらには無様に押し倒された事で頭に血が

上っている。

「てめぇ…!今度はこの間みてぇな生ぬりぃ痛め付け方じゃ済まさねぇぞ…!」

少し痛い目を見せてやろうと考えたリーダーは、しかし手にしていたはずのナイフが無い事に気付き、周囲を見回す。

後ろから飛び付かれた際に取り落としたのだろうと思ったが、違っていた。

ナイフが何処へ行ったのかリーダーが気付いたその時、ニコルは蹴り転がされて仰向けにひっくり返り、よろめきながら上

体を起こす。

その手には、リーダーの手から奪い取ったナイフ。

蹴り付けられている間も必死に、素手で刃を掴んでいたニコルの手は、深く切れて血に染まっていた。

ニコルが奪ったそれを武器にするつもりだという考えにすぐさま思い至り、青年達は一様に警戒する。

喧嘩も弱く、素手ならば相手にならない少年といえども、刃物を持てば話は違う。

ニコルに覚悟さえあれば、訓練を積んだ訳でも無い青年達にとっては、腕力差を帳消しにできる武器を得た、対等の敵対者

となる。

数の有利はあっても、負傷、あるいは犠牲を覚悟しなければならない。

だが、ニコルはナイフを構えるでもなく、ただ両手でしっかりと胸に抱いているだけであった。

奪って刺そうなどとは、ニコルはそもそも考えてもいなかった。

単純に、シスターを傷つける可能性のあるその凶器を、相手から奪いたかっただけである。

強く、逞しく、何者にも屈さず、いかなる時も仲間を大事にする兄貴分…デイブに憧れながらも、決してデイブのようには

なれない…。

それが、生みの親にこの孤児院の前へ捨てられ、シスターに保護されて育てられ、優しい夫婦に引き取られ、血の繋がらな

い親から愛情を注がれたが故に、誰よりも「優しさ」という物を理解しているニコラスという少年の本質であった。

荒々しく、猛々しく、飄々と生きるデイブに惹かれつつ、その度し難い甘さを捨てられず、愛すべき臆病さを克服できない。

傷つけ、傷つけられる事を嫌い、平穏を望み、争いを忌避する性質を持つ少年は、それらが自分から切り離せない事を、心

の底では知っていた。

だからこそ、自分が手にできない物を持つデイブに、強い憧憬の感情を抱いていた。

そしてニコルは、この土壇場でもやはりデイブにはなれなかったのである。

ニコルが手にしたナイフで突きかかって来る様子も見せない事から、青年達は安堵を覚え、次いで怒りで顔を染めた。

突っかかって来る度胸も無い、取るに足りない臆病な少年を一瞬でも警戒した事が、ストリートギャングを自認する彼らの

矜持を傷付け、矮小な自尊心をチクチクと刺激する。

そして何よりも、明らかな怯えの表情を浮かべてカタカタと震えている少年が、それでも子供達やシスターの前に立って、

自分達の邪魔をしようとしている事が許せなかった。

弱者は弱者らしく、強者たる自分達に屈しなければならない。

彼らなりのプライドを守るため、青年達のリーダーは、自分からナイフを奪ったニコルを睨みつける。

そして、ナイフを奪われた事で空いたその手を、ゆっくりと懐に突っ込んだ。

抜き出されたその凶器、黒光りする拳銃を、ニコルが、シスターが、青ざめながら息を飲んで見つめる。

その反応に満足したらしいリーダーは、ニコルへと銃口を向けた。

本心では撃つつもりなど毛頭ない。ただの脅しのつもりであった。

デイブを殺すと決めても、他に死人を作るほどの覚悟まではしていない。

重大な犯罪行為である殺人を犯す事への常識的な忌避感は、ストリートギャングとはいえ駆け出しの彼らにも当然ある。

ニコルが泣いて命乞いし、人質達が大人しくなればそれで良い…。

その程度の認識で銃を抜いたリーダーであったが、しかしこれも思惑通りには行かなかった。

ガチガチと歯を鳴らし、膝をガタガタと震わせているニコルは、あろう事か、ナイフを手放して両手を大きく左右へ広げた

のである。

「ニコラス…!」

シスターの震える声が、子供達の泣き声が響く中、音圧に押されて消える。

泣き出したい。逃げ出したい。怯え、竦み、震えるニコルは、それでも臆病な自分の心を押さえつけ、体を張って大切な母

親を、そして幼い兄弟達を守ろうとした。

その行為に、青年達のリーダーは鼻白んだ。

リーダー格という一応の面子もある彼は、仲間達の手前、銃を抜いてしまった事で引っ込みがつかなくなってしまったので

ある。

今銃口を降ろしてしまえば、丸腰の取るに足りない少年に屈した事になる。

そう考え、ちっぽけなプライドを捨てる事ができない彼には、ニコルの行為を認め、銃を降ろすという選択肢が思い浮かば

なかった。

張り詰めた空気と子供達の泣き声が支配する部屋に、緊張が満ちる。

その膠着状態の中、リーダーは背中に嫌な汗をかき始めた。

いつまでもこうしている訳には行かない。何らかの行動を示さなければ、自分がニコルに負けた事になる。そう考えて焦り

を感じている。

状況を一見しただけでは追い詰めているように見えても、実際に追い詰められているのはリーダーの方であった。

その焦りと緊張に支配された場を一転させたのは、ニコルでも、シスターでも、青年達でもない、ある一人の子供の行動で

あった。

その子供は、まだ四つの男の子である。

三つ上の女の子に守られるようにして抱き締められ、周りで皆が泣いているので、状況を理解しないながらも不安になって

泣いていたその男の子は、ふと、こう考えた。

どうやらあの見慣れない青年達が、皆を泣かせているらしい。

いつも遊んでくれるニコルと、優しいシスターを困らせている、間違いなく悪いヤツらなのだ。

そこで男の子は、銃が何なのかもまだ良く判っていない幼い頭を一生懸命回転させ、悪者を懲らしめる方法を考えた。

ヒックヒックとしゃくり上げながら、何となく周りを見回して考えた男の子は、足元に転がっているそれに気付く。

それは、ニコルが何日もかけて彫ったシスターへのバースデープレゼント。木彫りの聖母であった。

「…お願い…、もう止めなさいニコラス…!」

震える声を発したシスターメアリーへ、しかし誰も視線を向けない。

一触即発の状態にあるリーダーとニコルに、青年達も子供達も視線を釘付けにしている。

その時であった。何かが宙を飛んで、リーダーから少し離れた空間を横切り、壁にぶつかったのは。

ゴンッと壁に当たって跳ね返り、床を転がってシスターの足にコツンとぶつかったのは、ニコルが彫った聖母であった。

聖母を拾い上げた男の子は、懲らしめてやろうとリーダーめがけて投げつけたのである。

結果的に命中しなかったものの自分目掛けて物を投げられた事に、青年達のリーダーは腹を立てるどころか、内心でこっそ

り安堵すらしていた。

ニコルから銃口を逸らす、丁度良い口実ができたのである。

ほっとしつつ、冗談すら篭った脅しにと、男の子に銃口を向けるリーダー。

だが、不幸はその動作が引き金となって起きた。

男の子が撃たれると思ったニコルが、横に素早く動いて射線に割り込んだのである。

震えながら硬直していたニコルが不意に見せた、その急な動きに、リーダーはかなり驚いた。

そして、驚いた拍子に指が動き…。

パン!と、クラッカーとも少し違う、大きくて重く、金属が震える余韻を後に引き摺る音が、室内に響き渡る。

その乾いた破裂音と同時に、ニコルの体が震えた。

真横へ大きく広げられていた手がゆっくり動き、ぽこんとした腹の上部、鳩尾に触れる。

自分の腹部に、硬い物でぶたれたような衝撃、熱、そこから広がる振動などをもたらした物が何なのか、ニコルには良く判

らなかった。

耐え難い痛みを脳が認識する前に、少年の体は脱力した。

その場でへたっと崩れ落ち、床に座り込んだニコルは、ガクガクッと短く震え、顔を真っ青にする。

「…あ…」

小さく声を漏らしたニコルの、腹に当てられた色白の手。

その指の隙間から、服の繊維の間から、鮮やかな赤が流れ出ている。

衝撃で麻痺していた感覚が徐々に戻り、激痛は、遅れてやって来た。

「あ…!ひゅっ…!あぁ…、は…!」

痛みに弱々しく呻くニコルを見下ろしながら、リーダーは呆然としていた。

撃った実感が無かった。それでも、意図せず、無意識に、弾みで引き金を引いてしまったらしい事を、手にしっかりと残る

発砲の衝撃が、混乱する彼の頭に伝える。

デイブを殺す。その覚悟は決めてきた。

だが、それ以外の者を殺める事はなるべく避けたいと思っていた上に、事故で意図せず撃ってしまった。

デイブのみを殺すという最低限の覚悟しかできていなかった彼は、混乱の極みにあった。

カタカタと震えるその手は、銃を撃ったままの姿勢で固まっており、引き金に掛った指は、何かの弾みでまた暴発を誘いそ

うな有様であった。

「ニコラスっ!」

悲鳴を上げてニコルに駆け寄ろうとしたシスターへ、青年達のリーダーは反射的な動作で目を向ける。

「ひっ!」

悲鳴を漏らすリーダーの手が、その視線に連動するように動いた。

そして、銃口がシスターに向いたタイミングで、震えが大きくなった指先が引き金を刺激する。

二度目の銃声。

倒れるシスター。

子供達の悲鳴。

へたりこんだニコルは、それらの出来事を呆然と捉えている。

二人目を撃ってしまった事で、元々それほど豪胆でも非情でもない青年達のリーダーは、ついに恐怖に駆られた。

「に、逃げるぞ!」

もはや面子だのプライドだのと言っていられるような心理状態には無い。

悲鳴混じりの甲高い声を上げ、リーダーは仲間達を促してバタバタと部屋から出て行った。

青年達が我先にと部屋からまろび出てゆく様子を見送ったニコルは、ゆっくりと、仰向けに倒れた。

痛みのせいではかはかと乱れた呼吸が、溢れ出た血で真っ赤になった胸と腹を、浅く、早く上下させる。

「ニコル兄ちゃん!」

「シスター!」

子供達から悲鳴が上がり、倒れた二人の元へわらわらと集まる。

兄弟達に囲まれ、手を握られたり傷を押さえられたりしながら、少年はか細い声を漏らす。

「こわ…い…。痛い…よ…。寒い…」

天井を見上げるニコルの目から、我慢していた涙が溢れ出る。

それは、耐えてきた恐怖に対する涙であり、自身を苛ませている痛みに対する涙であり、同時に、安堵の涙でもあった。

人一倍臆病で優しい少年は、青年達が逃げていった事で、恐怖と痛みと同等の安堵を覚えている。

痛い。怖い。寒い。苦しい。…それでも、良かった…。

痛みのせいで纏らないニコルの思考は、おおよそそのような内容の、漠然とした感覚で構成された物であった。

少年は、兄弟達が助かったからそれで良いと、全てに満足して死ねる程強靭な精神を持ち合わせてはいない。

だがしかし、怖いし痛いし堪らないが、それでもなお同じ位に「良かった」と思える。

そんな、しなやかで優しい強さを、生みの親に捨てられた少年は、この孤児院と、引き取ってくれた両親によって育まれて

いた。

「…デイ…ブ…。僕…、頑張っ…」

ようやく恵まれた人生を歩み始めた少年は、ゆっくりと目を閉じる。

そしてその瞼は、もう二度と開かれる事は無かった。

自分が守ったのだと実感できる兄弟達の鳴き声に包まれながら、ニコラス・レッドフォードは、その長いとは言えない旅を

終えた。

彼が慕っていた兄貴分、無敵のデイブは、今回ばかりは間に合わなかった…。



敷地外まで聞こえる子供達の激しい泣き声の元へ、ざんばら髪の大男が息せき切って駆け込んだ。

玄関ドアを乱暴に叩き開け、廊下を踏み鳴らし、泣き声が聞こえて来る部屋に飛び込んだデイブは、その長い前髪の下に隠

れる目を大きく見開く。

「シ…、シスター…!?」

床に倒れ、泣きじゃくる子供達に囲まれている育ての母の姿を目にし、デイブは掠れた声を漏らした。

目の前が薄暗くなり、距離感が狂う。

景色は拡大と縮小を繰り返し、仰向けに倒れたまま動かない、胸元が僅かに血で汚れているシスターの姿を、瞳孔が大きく

開いたデイブの目に焼き付けた。

子供達の声がすぐ耳元で、あるいは離れ、近くで遠くで距離を変えつつ耳に入り込み、わんわんと頭の中に響く。

あまりの出来事に脳や五感すら暴走し、平衡感覚を失ったデイブは、よろよろと数歩進んでから、ガクリと膝をついた。

瞬きすら忘れて細かく震える目が、これ以上無い程大きくなって、育ての親の姿を映し続ける。

「…何…が…?」

混乱の極みの中、デイブはシスターの所よりも手前側にできている子供達の輪に気付く。

のろのろと足を立て、腰を上げかけたデイブの動きが、ピタリと止まった。

子供達の頭の向こう側に見えたのは、胸から腹を真っ赤に染め、仰向けに倒れている小太りな少年の姿であった。

「…ニ…?」

声は、何かが喉につっかえているようになり、吐き出せなかった。

間を置かずに受けた二度目の衝撃で息が止まり、目の前でチラチラと星が飛ぶ。

「ニ…、ニコル…?」

ようやっと声を発したデイブは、のろのろと子供達の輪に歩み寄った。

泣きじゃくりながらも、デイブが来た事を知って道を空けた子供達の間に、ざんばら髪の大男が屈み込んだ。

その逞しい腕が、弱々しくか細い震えに囚われつつも、可愛い弟へ伸ばされる。

小柄な割には太って重いその体は、命を失い脱力し切った今、デイブの腕にずしりとその重みを伝えた。

「ニコル…?おい…?」

流れ出た血が回り、じめっとしている背中に腕を入れて抱き起こしたデイブは、ニコルの顔を凝視した。

そばかすが浮いた顔は血の気が失せて青白く、涙の痕がまだ濡れたままで光っている。

「ニコル?ニコル、おい?どうした?」

声をかけるデイブは、しかし確信していた。だが、確信しながらも認められなかった。

「血ぃ…出てんぞ…?何があったんだニコル?」

その事は、大胆不敵で怖いもの知らずの大男にとっても、認め難い物であった。

「…お前…痛くねぇのか?…いや、痛ぇよな?泣いてるもんな…」

しかし、認め難くとも認めざるをえない。

何度呼びかけても、軽く頬を叩いても、涙を拭ってやっても、傷を押さえてやっても、ニコルはもう、ピクリとも動かなかっ

た。

ニコルが死んでいる。

その事実に、彼の心はようやく舌を這わせた。

「二…、ふ…、う…!うがぁああああああっ!」

温もりが消えつつあるニコルを抱いたまま、デイブは握った拳を床に叩きつけた。

「目ぇ…!目ぇ開けろ…!何だよこれ…!?こんなのねぇだろ!?なぁ!答えろ!答え…!」

物言わぬ少年を揺さぶるデイブに、しかし求める答えは、声は、眼差しは返らない。

ニコルはもう自分に微笑みかけてくれない。

あの声を聞かせてはくれない。

からかっても頬を膨らませない。

胸の奥底から込み上げてくる耐え難い喪失感が、自分を内側から蝕み、空っぽにしてゆく錯覚に襲われ、デイブは恐怖した。

ニコルが居なくなった。その事が、強靭だったデイブの心を完膚なきまでに叩きのめしていた。

「ニ…コ…!…ぐぅ…!ニコルぅうううううううううううううううううううううううううううううっ!」

弟分であった少年の亡骸を抱き、デイブは、喉も裂けよと叫び泣いた。



「…ここまで、見通しとったんか?」

惨劇の場となった部屋の入り口手前で、暗い廊下に立ったレモンイエローの獅子がその光景を眺めながら呟くと、すぐ横に

立つパールホワイトの熊が、小さく首を横に振りつつ口を開いた。

「いくつかの可能性は考えていたけれど、いささか状況が異なるね…。アズの介入で、流れは少なからずボクの予測範囲から

ずれたらしい…」

イブリースの返答を耳にしたミカールは、号泣するデイブの姿を見遣りながら続けて質問した。

「どんな未来を視とったんや?」

「いくつかあるね…。一つは、彼が間に合って、この事態を引き起こした青年達と対峙する状況。もう一つは今と似たような

状況で、デイヴィッドがやや遅れて到着して、逃げ出そうとしていた青年と遭遇する状況。最後の一つは…、デイヴィッドが

何も知らずに仕事を続け、間に合わなかった状況…。なんとか回避させようとした三つ目のケース同様の状況に、結局は辿り

着いてしまった」

淡々と述べるイブリースは、その視線をじっとデイブに注いでいた。

その、余計な物の一切を排斥し、ただ観察する事にのみ集中している薄赤い瞳には、一片の同情も浮かんではいない。

それどころか、慈悲や許容はもちろん、その他全ての感情すら廃された、機械的に冷たい目であった。

「…もしも件の現象に至るとすれば、この状況からの可能性が最も高いよ」

「…判っとる…」

ミカールの沈んだ声を耳にし、北極熊はその視線をデイブから外し、傍らへと向けた。

「珍しいね、同情しているのかい?キミはいつでも、人間達への過度な肩入れを嫌っていたのに」

「ガキがくたばるのなんぞ日常茶飯事や。こうしとる間にも世界中でパタパタ死んどる。いちいち同情なんぞしとれんわ」

つっけんどんに応じたミカールから視線を外したイブリースは、デイブの観察を再開しながら頷いた。

「リーズンを持たない君らしい意見だ」

「アホぬかせ、ワシのリーズンは今も真横に立っとるわ」

「それは光栄だね」

短く応じたイブリースは胸の内で、

(キミはボクのリーズンたり得ず、ボクもまた真にキミのリーズンではないだろうけれどね)

そう、人知れず呟くと、とりあえずの観察が済んだのか、踵を返して玄関へと向かった。

部屋の中を最後に一度見回したミカールも、その後ろを追いかける。

観察者達が去った後も、デイブは天井を仰いで、獣のような慟哭を上げ続けていた。



のっそりと、引き摺るような足取りで玄関から出て来たデイブは、そこに立つレモンイエローの獅子と北極熊の姿を認める。

だが、彼らに声をかける事もなく、力なく玄関の石段に座り込み、項垂れた。

院内から聞こえて来る子供達の泣き声は、一向に弱まる気配が無い。

両手をそろそろと顔の前に上げたデイブは、弱い月明かりと玄関灯の下では黒く見えるニコルの血を、憑かれたような目で

見つめる。

シスターの亡骸は、確認して来なかった。

ニコルの死を確認して打ちのめされてしまったデイブには、続け様の衝撃に耐える自信が無かったのである。

「もう来るなって…、俺がはっきり言ってやれば、こんな事にはならなかったのによ…」

デイブは項垂れたまま両手で顔を覆い、背を震わせた。

「嬉しかったんだ…。ニコルが訊ねて来るのが…、心の底から嬉しかったんだ…。だから…、言えなかった…!」

両目から溢れ出た熱い滴が、顔を覆うデイブの手の平を濡らした。

「裕福な家に貰われてっても…、縁は切れてねぇんだって…、俺達の事を忘れてねぇって…、あいつの態度で実感できて…!」

イブリースは何も言わず、相変わらず無表情にデイブを見下ろしている。

一方でミカールは、苛立っているような表情を浮かべていた。

「そりゃあニコルが来なくなったら寂しかっただろうよ!けど我慢すりゃあ良かったんだ…!俺さえ我慢して、「もうお前は

こんな所に来るべきじゃねぇ」って、しっかり言ってやればあんな事には…!」

独白するデイブから視線を外した北極熊は、横目でちらりとミカールを盗み見る。

黙り込んでいるレモンイエローの獅子は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。

不機嫌。ただそうとだけは言い切れない何かが、古馴染みの顰めっ面に混じり込んでいる事を、イブリースは目ざとく看破

していた。

人間と距離を置く基本スタンスを尊ぶミカールが、明らかに苛つき、そして大男に共感めいた物を抱き始めている。

ミカールは、ニコルが近い内に旅を終えるであろう事を見抜いていた。

デイブとの接触で因果が乱れたとはいえ、それは所詮、振り子の揺れを指で押し、リズムを狂わせた程度の物。

落ち着くべき所に落ち着くよう定められた因果の連環には、地上の理から外れた存在であるデイブとはいえ、人間の範疇に

ある以上抗い切る事はできない。

それが些細な事であれば永続的に結果を変えてしまう事もあるが、ニコルの死をねじ曲げる程の影響力は、人の身であるデ

イブには無かった。

デイブ自身は知らぬその事を、彼の本質についてイブリースから聞かされたミカールは、今では完全に把握している。

自分が少し前から把握していた、ニコラスという名の少年が迎える旅の終わり…。

それに直面し、人目も憚らず涙を流す大男…。

この状況に対して、童顔の獅子は罪悪感を覚えていた。

本来ならば人間として生まれるはずではなかった存在。

そのあまりにも特異な境遇により、生まれてこの方地上でもがき続けて来た大男。

そんな彼が寄る辺としてきた存在を失い、打ちのめされているその様子は、ミカールの胸に締め付けるような痛みを与えて

いた。

それは、彼の「欠落」に芽生え始めた新たな感情に起因する痛みなのだが、ミカールにはまだそれが理解できていない。

それ故の苛立ちによって、不機嫌そうな顔をしているのである。

そんな心情までを見て取った北極熊は、「ミカール」と、静かに古馴染みの名を呼ぶ。

「部屋の中の様子を確認した方が良いんじゃないかな?因果の乱れはまだ収まっていない」

「…ああ…」

ミカールはデイブの脇を、両手で顔を覆っている彼の頭をちらりと見遣りながら抜け、孤児院内へ姿を消す。

その後ろ姿が消えた事を確認し、イブリースはデイブの前へ歩み寄った。

「君には、復讐の正当な理由がある。そうは思わないかな?」

打ちのめされたデイブの耳に、北極熊の静かな、落ち着いた声が、ゆるりと忍び込んだ。