第三話 「配達人はマットブラック」(前編)
点滴のチューブの上、小さなカプセル状の容器の中で、ぽつり、ぽつりと落ちている滴を、その男の子はじっと眺めていた。
長期入院患者用の個室、パイプ椅子に腰掛けたままうたた寝している母親の横で、自分には少し高過ぎる椅子にかけ、足を
ぶらぶらさせながら。
テレビに似た機械が出す鳥の鳴き声のような、最初は気になって仕方が無かった音にも、今ではすっかり慣れてしまった。
真っ白い清潔な掛け布団の下に潜り込む点滴の管が、その先端の針で食いついているのは、ベッドに横たわる痩せ衰えた老
人の左腕である。
自分が見ているそれが「てんてき」という物らしい事は、母親に尋ねて教えて貰ったものの、それが何のための物なのかと
いう事は、まだ四つになったばかりの男の子には判らない。
大好きなおじいちゃんがガンにおかされ、余命幾ばくもない事もまた、男の子は両親から知らされてはいなかった。
静かにしている男の子は、色白で、かなり細身の体付きをしている。
大人しそうな顔つきで、実際、ここ数週間は祖父に付き添う母親に伴われ、長時間病院で過ごす事も多かったが、飽きて騒
ぎ出す事も無ければ、何かに癇癪を起こす事も無く、実に良い子にしている。
彼が大好きなおじいちゃんは、もう一ヶ月近くもの間、昔話を語ってくれていない。
鼻にチューブを入れられた祖父は、時々薄く目をあけるだけで、一日の大半を眠って過ごしている。
最近では、起きているらしい時に男の子が話しかけても、声は発さずただ微かに笑みを浮かべるばかり。
「おじいちゃんは、いつおうちにかえれるの?」
男の子のそんな問いに、両親は「もうすぐ帰って来るよ」と答える。
老人が自宅に帰れるのはどんな状態になった時か、それを重々承知しながらも、まだ幼い男の子には、全てを話すような事
はせずに。
男の子は、母親と祖父を起こさないよう静かにして、祖父の顔を眺めている。
本当は読んで聞かせて欲しい絵本を、きちんと揃えた脚の上に置いたまま。
喜怒哀楽、様々な表情を浮かべる事で、長い年月を経て皺が刻まれた、所々シミが浮いた老人の顔。
眠っている祖父の顔を眺めながら、男の子は思う。
外に出ることもできず、ずっとベッドに寝かされている祖父が、なんだか可哀相だと。
男の子は祖父の顔から視線を外し、レースのカーテンがかけられた窓を見遣った。
清潔で白いレースと窓ガラス越しに、V字型の列を成した鳥達が、茜に染まった空を横切って飛んでゆくのが見えた。
しばらくそれを眺めていた男の子は、やけに音が静かな、スライド式のドアが開く音を耳にして、首を巡らせた。
医師か看護師が様子を見に来たのかとも思ったが、振り向いて入室者を見た男の子は、どうやらどちらでもないらしい事を
察した。
医師も看護師も、病院の者はたいがい皆が、白や薄い水色の服を着ているのを知っていたので、黒ずくめの入室者は病院の
者ではないと思ったのである。
初めて見る顔の入室者は外見がかなり特徴的だったので、男の子はその顔をマジマジと見つめた。
髪の毛どころか、顔全体が黒い毛に覆われていて、耳は頭の上にあり、薄くて平べったくて立っている。
黒い目は瞳孔が縦長で、顔の下側、鼻から下顎にかけてが前にせり出していた。
黒革のライダースーツに身を包んだ、どこもかしこも真っ黒な入室者の姿を眺めながら男の子は思う。
近所の家で飼われている黒猫のチャチャコと、ちょっと似た顔のひとだと。
入室者はすらりとした体付きで、男の子の母親よりも少しだけ背が高い。
革のスーツの胸が丸みを帯びて押し上げられているので、女の人なのだとは察しが付いた。
足には膝のすぐ下まで届く長い革靴を履いており、雨でもないのにどうしたのだろうと、ライダーウェアを知らない男の子
は少し不思議に思う。
男の子の位置からはよく見えないが、黒くて長いものが脚の横に下がっているのが見えた。
しばらく見つめた後に男の子が尻尾だと気付いたそれは、先端が床に付かないように持ち上がり、しなやかにくるっと曲がっ
ている。
入室者は縦長の瞳孔を持つ瞳を動かし、自分を見ている男の子の姿を映しながら、病室の中に入って来た。
そして、男の子がずっと見つめたままでいると、不意に足を止めて眼を細める。
男の子は、あまりひとの顔をジロジロ見るものではない、と母親に言われていた事を思い出すと、入室者の顔から視線を外
しながら軽くお辞儀して、脚の上に置いた絵本の表紙に視線を落とした。
入室者が足を止めたのは、自分がじっと見つめていたから、不愉快になったからかもしれないと思って。
一方、訝しげに感じたのか、しばし男の子を見つめていた入室者は、やがて男の子から視線を逸らす。
そして、その隣で椅子に座ってうたた寝している母親に、次いでベッドの上の老人にと、視線を移してゆく。
老人の顔に一番長く視線を止めていた入室者は、何かを確認したように小さく頷くと、ライダースーツの胸元のジッパーを
下ろし、黒革のグローブをはめた左手を、開いた懐に突っ込んだ。
程無く懐から抜き出されたその手には、一枚の葉書。
入室者は異国の文字で記されたその文面をしばし眺めた後、ベッドに向かって足を踏み出しながら葉書を握り込んだ。
静かに歩み、自分の右隣に並んだ入室者をちらりと見遣った男の子は、その手がグシャリと葉書を握り潰す様子を、少し恐
く思いながら横目で眺める。
握り込まれた革のグローブの隙間から、ボシュッという音と共に黒い煙が微かに漏れ、そしてすぐに消える。
次いでその手が開かれると、手の平の上には、ごろりと太く大きな一発の弾丸が現れていた。
現れた50AE弾のジャケットは、光沢のある黒。そこにはびっしりとアラビア文字が刻み込まれている。
男の子は、出現した弾丸が一体何なのか判らなかったが、葉書が別の物に変わるその様を、手品でも見せられているような
気分で興味深く見つめる。
入室者は左の手の平に弾丸を乗せたまま右手を腰の後ろに回すと、長い尻尾の上に固定されていた物を素早く引き抜いた。
腰の後ろに横向きに止められた黒革のホルスターに収められていたのは、一丁の大型拳銃。
入室者は弾丸を口に咥えると、金属の塊を思わせる角張った拳銃のリリーススイッチを右手で操作し、グリップの底からマ
ガジンを落として左手で受け止める。
銃を握る右手で口に咥えていた弾丸を摘み、マガジンにセットして銃へ押し込む。
その手慣れた様子の、素早い一連の動作に見とれる男の子の前で、入室者は銃の後部を掴んで引き、そして放す。
ガシャッと重々しい音を立ててスライドして弾丸を咥え込み、大型拳銃は発砲準備を整えた。
入室者は自分を見つめる男の子にちらりと視線を向け、男の子は叱られでもしたように身を竦めて俯く。
少しの間男の子を見つめた後、彼女は銃を握る右手を上げ、老人の顔に銃口を向ける。
指がスッポリ入りそうな程の大きさの穴を先端に持つそれが、「てっぽう」だという事は何となく判ったので、男の子は自
分の左隣に座って俯いたまま眠っている母親に、どうしよう?と視線を向けた。
母親を起こした方が良いのかどうか男の子が迷っていると、銃口を向けられた老人が、薄く目を開けた。
ぼんやりとした表情で、自分に銃口を向ける黒い入室者をしばし眺めた老人は、微笑を浮かべ、ひび割れた唇を微かに動かす。
声にならないその言葉は、男の子の耳には届かなかったが、入室者は顎を引くようにして小さく頷いていた。
直後、病室に轟音が鳴り響いた。
ビックリして飛び上がった男の子は、涙目になりながら祖父に、次いで母親に視線を向ける。
しかし、母親はまったく起きる気配を見せず、祖父はゆっくりと目を閉じて再び眠りにつく。
あれほどの大きな音が鳴ったのに、どうして二人とも平気なのか?
不思議に思った少年の耳には、肌をビリッと震わせた轟音が、まだはっきりとこびりついていた。
少しの間呆然としていた男の子は、足下に何かが転がっている事に気付き、視線を落とす。
入室者が屈んでつまみ上げたそれは、真っ黒な空薬莢。
グローブをはめた手が、文字の消えたソレを握り込み、そして開くと、手の上には何も書かれていない葉書が現れた。
折り目の一つもついていない真新しい葉書を、男の子は目を丸くして見つめる。
彼を一瞥した入室者は、まっさらな葉書を懐にしまい込んでジッパーを引き上げた。
そして、腰の後ろのホルスターに銃を戻しながら踵を返し、病室の引き戸に歩み寄ると、最後にもう一度男の子を一瞥して
からドアを開け、それっきり振り返る事無く病室を出て行った。
入室者が立ち去り際に見せた、真っ黒な革のつなぎの背にプリントされている、真っ白な一対の翼のエンブレムが、男の子
の目に鮮やかに焼きついた。
しばらくドアを見つめていた男の子は、首を巡らせ、ベッドの上で眠っている祖父の顔を見る。
撃たれたと思ったのに、怪我はない。
しかし、何事もなかったように、静かな寝息を漏らして眠っている祖父の顔は、何故かこれまでよりもとても穏やかに感じ
られた。
男の子は首を捻りながら、絵本の表紙を見る。
長靴を履いた猫が、得意げに胸を張っている絵本の表紙を。
「ながぐつをはいたねこ…」
男の子は小さな声でそう呟くと、少し違うような気がして首を傾げた。
さっきの入室者は、猫にしては、なんだか顔つきが少し恐かったような気がして。
その夜、男の子の祖父は亡くなった。
眠るように静かに、苦しむ様子も無く。
息を引き取ったのは、夕刻に家族全員と顔を合わせた少し後の事である。
男の子はその翌朝に、変わった顔をした不思議な入室者について両親に話したが、両親は息子が、絵本の内容に影響された
夢を見たのだろうと考えた。
誰にもまともに相手にされなかったので、賢い男の子は、それ以後は誰にもその話をしなくなった。
が、それから数年経っても、時折思い出しては考えた。
ただの一言も声を発さず、いきなりやって来ていきなり出て行った入室者は、一体何者だったのだろうか?と。
そして、十三年の歳月が流れる。
「おっはよぉコウキ!」
元気の良い声と同時に背中を強く叩かれ、唐羽公希(からばこうき)は前につんのめった。
たたらを踏んでなんとか堪え、すんでの所で転倒を免れたコウキは、自分を後ろから押した相手を振り返る。
「おはよう、ヤエ」
コウキが眼鏡越しに投げかけた恨みがましい視線の先には、制服を纏うショートカットの少女。
家が隣同士の幼馴染みであり、そして、付き合い始めたばかりの恋人でもある、安住耶枝(あずみやえ)。
スポーツが好きで、顔もスタイルも良く、明るく活発でクラスでも人気者のヤエ。
勉強こそできるものの、運動はまるで駄目、ガリガリに痩せた風貌と影の薄さから「ゴースト」とあだ名されるコウキ。
何から何まで正反対な自分の何処が良かったのかと、何度も首を捻ってみるが、つい二ヶ月前のお盆時期に、コウキがヤエ
に告白されている事実は変わらない。
今はもう卒業しているが、かつて、二つ上の先輩から告白されるも、さらりと断った事を知っているコウキは、あの顔の良
い先輩を蹴って自分を選ぶのはどういう感性による物だろうかと、今でも時折悩む。
「何で僕なんだ?貴嶋先輩の方がずっといい男じゃないか」
背も高く顔も良い。恵まれた容姿をシルバーのアクセサリーで飾る格好良い先輩ではなく、自分を恋人とした事に納得の行
く理由が見つからず、コウキは半月ほど前にそう尋ねた事がある。
その時、ヤエは面白がっているようにニコニコしながら、コウキにこう答えた。
「だって、キジマさんはかなりのプレイボーイって話だもん。悪い噂も聞くしさぁ。付き合うならやっぱり、浮気しない一途
なひとが良いわよね」
「僕は一途なのかい?」
「少なくとも浮気する度胸はないでしょ?」
あんまりな一言ではあったものの、否定はできなかったので、コウキはそれ以上問うのは止めた。
もっとも、面と向かって言われていたたまれなくなったというのも、理由の一つではあったが。
並んで通学路を歩む二人は、しかし知る由も無かった。
ヤエがコウキに告白した事が、二人が付き合い始めた事が、自分達を取り巻く目に見えない何かを、どう動かして行ってい
るかという事には…。
授業で出された課題を終えたコウキは、伸びをしてから壁掛け時計を眺めた。
午後十時。眠るにはまだ早い時間である。教科書類を鞄にしまい込むと、コウキは部屋を出て階段を降りた。
二階の自室から一階の書斎へと移動したコウキは、ぎっしりと本が詰め込まれた本棚からぶ厚いハードカバーを一冊抜き出
し、古びたデスクセットについた。
元々は亡き祖父の物であったこの書斎は、今ではコウキの読書スペースである。
教師の祖父と父親を持つコウキは、両親の熱心な教育と厳格なしつけのせいもあり、成績はすこぶる良い。
控えめで大人しく、これまでに問題を起こした事などないコウキは、両親や先生方には優等生と評価されている。
が、自分は真面目なのではなく、規則を破ったり、言いつけに逆らったりする度胸が無いだけなのだと、コウキは考える。
言いつけ通りに勉強しているから、成績が維持されている。
規則を破る度胸が無いから、問題を起こさない。
別に真面目な訳ではなく、ただ臆病なだけなのだと、コウキは自己評価している。
しばらく本を読み進めたコウキは、やがて小さくため息をつくと、パコッと音を立てて本を閉じ、立ち上がった。
ハードカバーを本棚に戻してデスクに戻り、ジーンズのポケットから取り出した鍵を、一番上の引き出しについた鍵穴にさ
し込む。
開けられた引き出しの中には、バイクの雑誌やカタログが詰め込まれていた。
コウキはバイクが好きだった。だが、母親は大のバイク嫌いである。
街中でバイクに跨るライダーを見かければ顔を顰め、暴走族の報道などを目にすれば機嫌を悪くする。
母親曰く、野蛮で品のない道具。彼女の分類で言うならば、バイクは凶器であり、乗り物ですらないらしい。
そんな母親を持つコウキは、かつて彼女が外出している時に、父親と一緒にテレビで見た映画をきっかけにバイクを好きに
なってしまった事は、ずっと秘密にしてきた。
雑誌を開き、いかついフォルムをしたスーパースポーツタイプの大型バイクの勇姿を眺めながら、コウキは夢想する。
まるで生きているかのように震動し、頼もしいエンジン音を上げるバイクに跨り、何もない一本道を、風を切って何処まで
も駆けてゆく自分の姿を。
帰宅する客を一杯に乗せた電車が、鉄橋を震わせながら河を渡る。
地鳴りのような振動と、何かを叩くような金属性の音を鳴らしながら。
横窓から漏れる明かりが闇を押し退け、周囲を点滅させるように照らす。
その鉄橋の下、鉄橋下の河川敷に生い茂る草や、そこに佇む真っ黒な影と一台のバイクなども同様に。
電車の窓から漏れる灯りが、真っ黒な影の背にプリントされている、鳥を思わせる真っ白な一対の翼のエンブレムを浮かび
上がらせた。
堤防上から続く砂利の敷かれた道にスタンドで立ち、アイドリングしているバイクの傍らに佇む影は、
「…ここで乱れが生じたのは間違いない…。だが、残り香がやけに希薄だ…。一体…?」
背の高い草が生い茂る辺りを眺めながら呟き、縦長の瞳孔を細める。
身につけたライダースーツも黒ならば、顔も頭も真っ黒な毛に覆われたその影は、長くしなやかな尻尾を左右に揺らし、思
案するように口元に拳を当てた。
やがて影は自分と同じく真っ黒なバイクに跨ると、エンジンをふかしてスタートさせる。
草木を迂回して、大小様々な石が転がる川岸にバイクを乗り入れた影は、そのまま真っ直ぐ川に突き進む。
獣のような咆哮を上げながら、バイクは河に沈む事無く、そのタイヤで水面を踏み締め、河の上を駆け抜けて向こう岸へと
渡って行く。
そして、あっという間に河を渡り切ると、やがて土手の急な斜面を苦もなく乗り越え、姿を消した。
一陣の風が吹き抜けたような、細波だけを川面に残して。
バイクのカタログを読み耽っていたコウキは、携帯の震動に気付き、ポケットに手を突っ込んだ。
携帯の背部にある小ウィンドウを覗き込めば、幼馴染の名前が表示されている。
(この時間に電話なんて、珍しい…)
時刻は午後十時。普段なら主にメールを使うヤエが電話をかけて来る事も珍しければ、この時刻にかけて来る事自体も珍しい。
コウキは折り畳み式の携帯を開き、耳に当てる。
「ヤエ。珍しいね、こんなに遅くにかけて寄越すなんて…」
いつもの調子で電話に出たコウキは、しかし眉根を寄せて訝しげな顔つきになる。
「ヤエ?どうしたんだ?」
問うコウキに、しかし電話の向こうからは言葉が返って来ない。
ただ啜り泣く声だけが、耳をすますコウキの鼓膜を震わせる。
「コ………キ…」
啜り泣きの隙間から、聞き慣れたはずの幼馴染みの声が、初めて耳にする弱々しい響きを伴って、コウキの耳に滑り込んだ。
コウキは狼狽した、女の子が泣いている様子など、小学校の時分以来目にしていない。
まして耳元でその声を聞くのは、これが初めての事である。
「どうした?何があったんだ?」
軽く狼狽しつつも、努めて落ち着こうとしながら、コウキは電話の向こうに問い掛ける。
「…あたし…、あたし…ね…?」
つっかえつっかえ、泣きながら幼馴染みが語ったその話を聞き、コウキは家を飛び出した。
そこら中が白やピンク、縫いぐるみとフリルで彩られた、少女趣味な内装の幼馴染みの部屋で、
「…落ち着いた?」
絨毯の上に座ったコウキは、ベッドに腰掛けたヤエの顔を見上げながら、気遣うように問い掛けた。
「…ん…」
右目の下に青あざを作ったヤエは、泣き腫らした目を擦りながら、小さく頷く。
「…本当に、母さん達には…、黙っててくれる…?」
ピンクに白い水玉模様の、可愛いパジャマに身を包んだ幼馴染みは、やけに小さく、頼りなく見えた。
「判ってる…。ヤエが望まない限りは、誰にも言わないよ…」
コウキは痛ましげに目を伏せ、そう応じた。
汚された。
ヤエは先の電話で、コウキにそう告げていた。
見知らぬ男達に無理矢理車に連れ込まれ、乱暴されたのだと。
普段なら絶対に外出しない時間に、母親の制止を振り切って家を飛び出したコウキは、ヤエの部屋を訪れて詳しい話を聞く
なり、警察に届けるべきだと主張した。
だが、それは嫌だとヤエは言う。
耐えかねてコウキに救いを求めてしまったものの、もう誰にも知られたくない。そういう事であった。
何度言っても頑なに首を横に振る幼馴染みを前に、無理強いする訳にも行かず、コウキは結局黙っている事を約束させられた。
「ごめんね?夜中に来させちゃったりして。あたしはもう大丈夫」
ヤエは気丈に笑顔を作ると、コウキの顔をじっと見つめ、難しい表情を作った。
「コウキ、もう帰んないとマズくない?お母さん怒るでしょ?」
「何でもないさ。そんなの」
「でももうじき日付変わるよぉ?「ウチのコウキが不良になった!」って、お母さん大慌てなんじゃない?」
ヤエの全く似ていない物真似でも、取り乱している母の様子がリアルに思い浮かび、コウキは顔を顰めた。
お隣同士、加えて幼馴染みの家だからこそ、日没後の行き来もある程度寛容に見てくれているものの、さすがにこの時間に
なると口うるさい母親は黙っていないはずである。
「ありがと、コウキ。あたしはもうダイジョブだからさ」
笑いかける幼馴染みの顔をしばし見つめた後、コウキは頷いた。
(…本当に元気出たのか?もっとこう、ダメージを受けているかと思ったけれど…、昔から強いもんな、ヤエは…)
とりあえずは、このまま居座っても自分には何もできる事はないし、ヤエも一人になって落ち着きたいと思っているかもし
れない。コウキはそう考えた。
「判った。…電話、枕元に置いておくから。何かあったら電話寄越して。…眠れないとか、そういうのでも構わないから…」
「ん…。ありがと…」
眼を細めて微笑んだヤエに、「本当だぞ?」と念を押し、コウキは腰を浮かせた。
「コウキ…」
「ん?」
ベッドに腰掛けたままのヤエの声を受け、ドアノブに手をかけていたコウキは振り返る。
「…ごめんね…?」
「何で謝るんだい?」
「ん〜…、何となく!」
笑顔を見せたヤエに、コウキも「何だよそれ?」と苦笑いを返す。ヤエは強いなぁと、そんな風に感心しながら。
「それじゃあ、お休みヤエ」
「うん。お休みコウキ。…じゃあね」
恋人でもある幼馴染みが部屋を出て行った後、ヤエは笑みを消し、顔を俯けた。
「…ごめんね…コウキ…」
「…おかしい…。いくらなんでも気配が希薄過ぎる…」
片側三車線の道路の脇、闇を押し退けるハロゲン灯の光がギリギリ届く隅で、バイクに跨った黒い影が呟いた。
後部席の上に乗せられた長い尻尾の先が振られ、黒い革のシートをトフトフと叩く。
影はおもむろにライダースーツの胸元に手を伸ばしてジッパーを引き下げると、懐に右手を突っ込んで携帯を取り出した。
「…私だ。発生は確認したものの、痕跡を見失ってしまった。おそらく少しかかると思う。済まないが、今日は先に上がって
おいて欲しい」
影は電話の相手にそう告げた後、二、三度「ああ」と頷き、やがて通話を終える。
携帯を懐に戻してジッパーを引き上げると、
「…さて…、何処から当たるか…」
影はそう呟き、瞳孔を細めた目で、オレンジ色の大きな満月が浮かぶ夜空を見上げた。
コウキが普段の起床時間よりも少し早く、救急車のサイレンで目を醒ましたのは、翌朝の事であった。
近付いて来たと思ったサイレンが途中で消えると、しばらくしてから、窓の外から慌ただしい気配が伝わって来た。
目を擦りながら窓に歩み寄り、カーテンを引き開け、二階にある自室の窓から道路を見下ろしたコウキは、
「…ん?」
隣家の前に停まった救急車と、タンカを抱えて家に駆け込んでゆく救急隊員の姿を目にし、短い間呆然と立ち竦んだ。
「…ヤエ…?」
しばし突っ立ったままだったコウキは、掠れた声で呟くと、大慌てで身を翻す。
階段を駆け下り、サンダルをつっかけ、パジャマのまま玄関を飛び出したコウキが目にしたのは、タンカに乗せられて救急
車に運び込まれる、幼馴染みの姿であった。
中天に差し掛かった秋の太陽が、柔らかな日差しで照らす道。
民家が建ち並ぶ区画の、升目状に連なるその道路を走行していた、真っ黒なスーパースポーツに跨る黒いライダーは、行く
手に見慣れた同僚の姿を認めてブレーキをかけた。
「や」
バス停脇の自販機前に立っていた極めて大柄な男は、黒いライダーが目前で止まると、白い毛に覆われた顔ににこやかな笑
みを浮かべながら片手を上げた。
その傍らにはやけに太いタイヤを履いた、重心の低いパールシルバーの大型バイク。
「…何故ここに?今日はこちらの方では無かったのでは?」
バイクに跨ったまま尋ねる黒いライダーは、人間の物とは違う黒豹の顔に、訝しげな表情を浮かべた。
「もしかしたら、手こずってるかもしれないと思ってね」
白い熊の顔をした巨漢は、黒豹に背を向けて自販機にコインを投入し始めた。
「そっちの方は大丈夫なのか?」
「オレの方は、今日のところは少し余裕があるからね。ほいっ」
振り向きざまに白熊が放ったブラックの缶コーヒーを、黒豹は肩の高さに上げた左手でキャッチする。
「まだ休憩するほど働いてもいないし、あまり余裕も…」
再び自分に背を向けて自販機に硬貨を入れている白熊の背に、少し困ったような視線を向ける黒豹。
「まぁまぁそう言わず。あったまるよ?」
白熊が優しげな低い声で応じると、黒豹は諦めたようにかぶりを振り、バイクを歩道に乗り入れてエンジンを切る。
自販機からミルクティーを買った白熊は、目の前まで歩いてきた黒豹の顔を見下ろし、目を細めて微笑んだ。
二人とも、背に一対の鳥の翼がプリントされた黒い革のつなぎを着込んでいるが、デザインはともかくサイズはだいぶ違う。
光沢のない、影を思わせる黒い被毛を纏う豹の方は、160センチを越えるかどうかという身の丈。
革のライダースーツの胸は豊かな乳房で押し上げられ、ウェストはくびれ、尻は健康的に張り出しており、極めてスタイル
が良い。
形の良いヒップの上、尾てい骨の辺りからは、黒く、長く、しなやかな尻尾が生えている。
縦長の瞳孔を備えた瞳は、被毛と同じく濃い黒色。
目尻はやや吊り上がり気味で、表情を浮かべていないその顔は凛々しく、野生の美しさを備えている。
身に付けたつなぎと近い色の豹とは対照的に、質量にしてその四倍はある熊の方は、真珠を思わせる暖かな白色である。
長い被毛に覆われた巨体は2メートルを軽く超え、かなり恰幅の良い体付きをしている。
無理矢理押し込んだ太鼓腹のせいで、つなぎの胴回りはパツンパツンに張っていた。
十月も半ばを過ぎたこの時期でもジッパーを鳩尾の辺りまで引き下ろし、肌着も身につけておらず、大きく開けた胸元から
はフサフサした白い被毛が覗いている。
他の部分と同じくむっちりと張った尻の上には、短い尻尾がアクセサリーのようについていた。
体に比して小さな両目には、薄い水色の瞳。
見上げるような巨体の割に威圧感はなく、どことなく人の良さそうな雰囲気を纏っている。
背格好も体の色も、乗っているバイクのタイプもカラーも対照的な二人は、道路の方を向いて並び、缶を口元に当てて熱い
飲み物を飲む。
やがて、走ってきたバスが二人のすぐ前で停まった。
だが、バスから降りた子供連れの中年女性も、腰の曲がった老人も、バスの窓から外を眺めている乗客達も、運転手ですら
も、黒い豹の顔をした女性と白い熊の顔をした巨漢という、いささか珍妙な姿の二人組みには、さして注意を向けない。
せいぜいが、大きなバイクに少しばかりの感心を示す程度である。
バスが走り去り、降りた客達が居なくなると、白熊はおもむろに懐に手を入れ、一枚の紙片を取り出した。
問うように自分を見上げた黒豹に、数字とアラビア文字がびっしり書き込まれた小さな紙片をひらひらさせて見せ、白熊は
目を細める。
「はいこれ。この近辺で妙な匂いを感じたポイント」
白熊は紙片を黒豹に差し出しながら先を続けた。
「どれかがキミの目当ての匂いに当たるかもしれない。…余計なお世話だったかな?」
「…いや…。私は貴方程には鼻が利かない。正直助かる」
黒豹は小さく首を横に振ると、そう応じながら紙片を受け取った。
「借りができた。済んだら食事を奢らせて貰いたい」
「はははは!それは嬉しいね、早く終わる事を祈っておくよ」
黒豹の言葉を聞いた白熊は、快活な笑い声を上げた。
黒豹はコーヒーを飲み干すと、くずかごに放り込み、軽い身のこなしでひらりとバイクに跨る。
「では…」
「うん」
会った時と同じく、軽く手を上げた白熊に見送られ、黒豹はバイクを発進させた。
同僚が猛スピードで走り去った後、
「さて、オレも大急ぎで済ませなくちゃね。…実のところ今日は結構入ってるし…」
太い指で鼻先をコリコリと掻きながらそう呟いた白熊は、腰に手を当てて缶を煽り、だいぶ残っていたミルクティーをゴッ
プゴップと音を立てて飲み干す。
そして缶を丁寧にくずかごに入れると、「どっこいしょ…」と声を漏らしながらバイクに跨った。