第三十話 「敵対者たる条件」(後編)

「君には、復讐の正当な理由がある。そうは思わないかな?」

そんなイブリースの言葉が耳から忍び込み、デイブはのろのろと顔を上げた。

涙に濡れ、表情が抜け落ちた彼の眼前には、北極熊の大きな手と、その上に乗せられた黒い鉄の塊がある。

イブリースが広い手の平に乗せているそれは、デイブが眼鏡の紳士から贈られた拳銃であった。

部屋に隠しておいたはずのそれを、何故この男が持っているのか?

打ちのめされている今のデイブにはそんな疑問すら浮かばないどころか、北極熊が差し出しているそれが、紳士が置いて行っ

た銃だと気付く事すらできなかった。

ただ、「正当な復讐」という北極熊の魅惑的な言葉と、それを簡単に実行できるはずの、彼が差し出している道具が放つ甘

美な誘惑に心惹かれ、苦悶の表情を消し、魅入られたように拳銃へ視線を注いでいる。

やがて彼はのろのろと手を伸ばし、イブリースの手から凶器を受け取った。

「コルトパイソン6インチモデル…。マグナム弾を用いる銃だ。反動はかなりの物だから、それなりの気構えをしてトリガー

を引く事だね。弾は既に6発装填してある。すぐ使えるよ」

イブリースが淡々と説明するが、デイブは手にした凶器に目を奪われたまま、返事もせず、視線すら向けない。

しばらくそうして拳銃を見つめていたデイブは、ゆっくり、ゆっくりと、その大柄な体を大儀そうに起こし、立ち上がる。

あれだけ生気が漲っていた大男は、まるで抜け殻にでもなったかのように、表情を失っていた。

ゆっくりと踵を返したデイブは、涙の痕が残る無表情な顔を上げ、孤児院と隣接する黒々とした影…、横手に建つ教会の屋

根を見上げた。

「…なぁ…」

その瞳をボロボロの教会の屋根、そこへ掲げられている十字架へと向けたまま、デイブは背後のイブリースに話しかける。

「…あんた…、神様は信じてるか…?本当に空の上に居るのか…?」

北極熊はデイブの顔の向きに合わせて視線を動かし、十字架を見遣りながら口を開く。

「会った事は無いね」

「…ガキの頃からシスターに…、ずっと…、神様がいつでも見守ってくれてるんだって…、教えられて来たけどよ…」

デイブの声は掠れてこそいたが、悲しみも、怒りも、それどころか何の感情も伺わせない、平坦なものである。

それは、達観と冷静さが見え隠れするイブリースの淡々とした口調にも、何処かしら通じる物がある口調であった。

「…本当は居ねぇのかな…やっぱり…。あんたはどう思う…?」

問いかけはしたが、デイブは答えを期待してはいなかった。

神など居ない。

もしも居るならば、何故ニコルがあんな目にあった?

もしも居るならば、何故シスターがあんな事になった?

もし本当に見守っている存在があるのだとしたら、孤児も居ない、貧困も無い、病も無い、差別も無い…、そんな世界に何

故ならない?

神が、幼い頃に教えられた通りに真に全知全能の存在ならば、世界はこんな姿ではないはずだ。

神など存在しない。

居るとすれば、偽りの作られた神。崇めたい者にしか居ない神。崇められるだけで何もしてくれない神だけ。

(けど…。神は居なくても、悪魔なら居るかもしれねぇ…)

デイブはぼんやりと、そんな事を考え続ける。

自分の背後に立つ、赤いコートを纏った大柄な北極熊。

復讐の手段を自らに与えた彼は、あるいは悪魔なのかもしれない。

とりとめもなくそんな事を考えたデイブの頬が僅かに弛み、微笑が浮かぶ。

(それでも良いさ…。例えこの旦那が悪魔だったとしても、復讐の道具を配達してくれた事には感謝してる…)

しばしの沈黙の後、デイブは一歩踏み出す。

その背に、しばし黙していたイブリースが発した、囁くような声が届いた。

「…ユビキタス…」

「…あ…?」

振り向きもせず、足だけ止めて問い返したデイブに、しかしイブリースはそれ以上の言葉を与えようとはしなかった。

元々答えを期待していなかったので、言葉が続かない事で興味を無くしたのか、デイブはそれ以上訊ねる事もなく、やがて

歩みを再開させる。

ゆらり、ゆらりとぶれる足取りで、まるで幽鬼のように体を揺らしながら。

それまでの、生気が漲り、力強く、ふてぶてしいまでに堂々としていた彼からは想像もつかない程、力無い足取りで去って

ゆくデイブを、イブリースは物言わず、静かに佇んだまま見送る。

まるで、居場所を間違え彷徨い出た亡者のよう。

そんな印象を抱いたイブリースは、口の端を少しだけ上げ、皮肉げな微笑を浮かべる。

(ボクも同じか…。未練にしがみ付き当て所なく彷徨う亡霊…。違いない…)

そして、彼の姿が孤児院の門からその先に続く闇へと消えると、おもむろに首を巡らせ、灯りが付いている孤児院の窓を見

遣り、そちらへゆっくりと歩き始めた。



玄関の戸を叩く荒々しいノックの音が部屋の中まで響いて来ると、ダイニングキッチンのソファーに腰掛けて項垂れていた

青年は、ビクリと身を震わせ、枕の下に手を入れる。

硬く冷たい拳銃の感触に、しかし彼は安堵できない。

決して善人ではなかったが、救いようのない悪党という訳でもない彼の小心な部分は、ニコルを撃った時のショックから全

く立ち直れていなかった。

誤って標的では無い相手を殺傷してしまった青年達は、慌てて孤児院から逃げ出したあの後、そのままてんでばらばらに逃

げ去った。

リーダー格である彼からして真っ直ぐ自宅へ逃げ帰る始末。他のメンバーを責められた物ではない。

あれから数時間が経ち、時計はもうじき日付の変更を示そうとしている。

そんな夜遅くにやって来た訪問者は、青年が無視していてもしつこくノックを続けた。

恐らくは、逃げ散った仲間の誰かが訊ねて来たのだろうと考え、青年は頭を抱えたくなった。

今は何も考えたくない。デイブの殺害計画を練り直すのも、今は嫌だった。

無視していればいずれ諦めるだろうと思ったが、訪問者はしつこくノックを続ける。

さすがにそろそろ黙っていられなくなった彼が腰を浮かせたその時、凄まじい音が玄関から響いた。

古い、そして安いアパートの一室である。

開け閉めする度に軋む立て付けの悪いドアは、訪問者が乱暴に足蹴にした事で、蝶番が外れて内側へ倒れ込んでいた。

仲間ではない。そう確信した青年の顔から血の気が引き、真っ白になる。

重々しい、ゆっくりとした足音が、痛んだ廊下を軋ませながら近付いて来る。

腰を浮かせて拳銃を握った青年は、廊下に通じるドアを凝視する。

ノブがゆっくりと回る様を、ドアが軋みながらゆっくり開く様を、その男がゆっくりと室内に入って来る様を、銃を構えた

まま、青年は恐怖で見開いた目で見つめていた。

「…やっぱり居たんじゃねぇか…」

低く掠れた声で呟いたデイブは、爛々と光る瞳で青年を見つめた。

ざんばら髪の下から覗くその目は、まるで恋い焦がれた恋人の姿を認めでもしたかのように、熱に浮かされている。

孤児院で発砲した人物を人間ならざる感覚で把握し、青年の気配を人間ならざる嗅覚で辿ったデイブは、ニコルとシスター

の仇の元へとようやく辿り着いた。

「…会いたかったぜ…」

デイブのその声は、小さな物であったにもかかわらず、青年はすぐ耳元で囁かれたように錯覚した。

「ひっ…、ひぃいっ!」

恐怖に駆られ、情けない声を上げながら、青年は発砲した。

ニコルの時同様、またも意識的に撃ったのではなく、銃を構えた弾みで撃ってしまったような物である。

だが、その銃弾はデイブの体を掠めもしなかった。

大男は銃が火を噴く寸前に半歩横へ動き、その射線から身を退けている。

硬質の輝きを放つデイブの目は、いまや深いグレーに染まり、地上の因果を、数瞬先の未来を、鮮明に見通していた。

熱を帯びたようでいながら、その実限りなく冷たい輝きを瞳に帯びたデイブは、手近にあった椅子の背もたれを掴むと、力

任せに放り投げた。

勢い良く飛んだ椅子は、「ひっ!」と悲鳴を発して頭を抱えた青年の遥か上、天井に当たってバラバラに砕ける。

「静かにしろよ…。こんな真夜中に騒いだら、近所迷惑だろう…?」

デイブの声は静かだったが、しかしどこかしら陰惨な愉悦すら滲む、ねっとりと熱のこもった物となっている。

バラバラになって青年とソファー、そして床の上に落下した椅子は、しゅうしゅうと音を立てながら細かな粒子に分解され、

湯気にも似た残骸を舞上げながら消えてゆく。

その作用こそが、イブリースが異質と認識し、ミカールが彼の提案に乗って監視を決めた理由…、デイブが内包した特異な

力に起因するものであった。

執行人に排除されかかった際には、蒸気のように両手から発散され、絶えず黒白に明滅していた不安定な燐光…。

しかし今や、その力は安定を見せ始めていた。

明滅は凄まじい速度で繰り返され、白と黒が入り混じり、燐光は灰色に近い色となっている。

この、今は燐光の形を取っている力こそが、因果の残り香をも微塵に分解し、結果的にミカール達に因果を見通させなかっ

たのである。

その燐光がデイブの全身を薄く覆っているのだが、対峙する青年の目には見えていない。

しかし見えてはいなくとも、その燐光が脅威である事は、本能よりも深い位置に根ざすもの…すなわち魂が、全力で青年に

訴えている。

だが、青年は逃げなかった。逃げる事すらできない程の強烈な恐れが、彼の体を縛り付けてしまっていた。

恐怖のあまり動けなくなった青年は、銃を構えたまま声も無くデイブを見つめる。

その眉間へ、デイブが手にしているコルトパイソンの銃口が、真っ直ぐに狙いを定めた。

「…まさかここまで来て止めないよね?」

いつからそこに居たのか、赤いコートを纏う北極熊はデイブの背後の廊下から室内を見遣りつつ、傍らの連れに声をかける。

「アホぬかせ。どうなろうと結果を見届けるだけや」

ぶっきらぼうに応じたミカールは、心の中で付け加える。

(そこのガキは、報いを受けるに値するだけの事をしとる。本来はワシらの仕事やし、死ねば因果も少々乱れてまうけど…、

今コイツを止める気分にはどうしてもなれへん…)

復讐したいならすれば良い。それでデイブが満足するならば目を瞑ってやろう。

今回に限って、ミカールはそんな考えすら抱いていた。

イブリースにも止めるつもりは毛頭無い。

デイブに銃を渡し、復讐を勧めるような発言をしたのも、狂った予定を修正する為の物であり、想定されていたこの場面へ

と導くのが狙いであった。

ここからデイブがどうなるかが、イブリースとミカールが見定めようとしている、一連の特異な流れの収束点である。

北極熊と獅子が視線を注ぐその先で、ついに内に秘めていた物を発散させ始めたデイブは、今まさに引き金を絞ろうとして

いた。

(さて…、キミはどっちかな…)

胸の内でイブリースが呟く。

もうじき、デイブの行く先は決まる。それがどの方向へと転ぶのかは、彼らにもまだ判らない。

目配せし合ったミカールとイブリースは、互いの得物、不釣り合いにシャープなルガーと、不似合いに小さいデリンジャー

を、そっと手の中に収めた。

二人の視線どころか存在にすら気付いていない様子のデイブは、引き金にかけた人差し指に力を込める。

しかし、コルトパイソンの銃口が火を吹くかと思われた次の瞬間、廊下に通じる側とは別のドアが開き、新たにもう一人が

ダイニングキッチンに姿を現した。

「お兄ちゃん…、音が凄いよぉ…。どうしたの…?」

着崩れたパジャマを纏い髪をぼさぼさにして、目を擦りながらドアを開けた少年に、デイブの拳銃が素早く向けられる。

「ピーター!来るな!」

悲鳴に近い声を上げた青年が、恐怖という名の呪縛を引き千切り、弾かれたように少年に向かって突進し、抱きすくめる。

いち早く銃を向けていたデイブは、しかしその射線に青年が入っても、引き金を絞る事ができなかった。

(…ニコ…ル…?)

年の頃が近いというだけで、太ってもいなければ髪の色も違う、弟分とは似ても似付かないその少年に、デイブは何故か、

ニコルの姿を重ねてしまった。

撃てなかった。動けなかった。目を離せなかった。

思い出されたニコルの面影が、融解寸前まで熱し切った彼の心を僅かに冷まし、動きを止めさせた。

その、時間にすれば一瞬の停滞が、寸前まで揺らいでいたデイブの運命をついに決定した。

「ひぃいいいいいいいいっ!」

青年の口から上がった悲鳴と共に、乾いた破裂音が立て続けに五度鳴った。

左肩に、右の脇腹に、胸の中央に、鳩尾に四発が着弾し、最後の一発は古傷が刻まれているのとは反対側の左頬を掠めて壁

にめり込む。

着弾の度に逞しい体を震わせたデイブは、僅かに一歩後退しただけで踏み止まっていた。

「なんで…」

不思議で仕方がないといった様子で、デイブの口が動いた。

「てめぇ…。弟をそうやって庇えるのに…」

デイブは四つの銃創と頬の裂傷から、夥しい血を流しながら、

「なのになんで…、なんでニコルを殺せたんだよ…?」

自分が撃たれた事よりも、青年が弟を庇ったその行動に衝撃を受け、呆けたような顔で立ち尽くしていた。

親に早く死なれ、学校も出ていない青年は、弟を養う為にストリートギャングという道を選んだ。

だが、弟をそれに引き込もうとは思ってもいない。あくまでも、弟を守る為に力と金を欲したのである。

そんな彼が、今度ばかりは弾みではなく、弟を守るという使命感に駆られてトリガーを引いた。

その姿から受けた衝撃があまりにも大きかったデイブは、弾丸の軌跡が事前に把握できていたにもかかわらず、茫然自失の

体で銃撃を受けてしまった。

その有様に驚いていたのは、撃った青年本人だけではない。

背後からデイブを見ていたミカールは、予想もしていなかった事の成り行きに目を奪われていた。

青年の弟である少年の存在には気付いていた。部屋に入って来る事も判っていた。

だが、彼の存在が復讐に酔ったデイブを止めるなどという事は、思ってもみなかったのである。

「あれは…!あれは事故だった…!殺す気なんて…、殺すつもりなんて無かったんだよぉおおおおっ!」

恐怖と悔恨から涙を流して叫ぶ青年を、デイブは呆然と見つめる。

「シスターは…?シスターは何で…?」

「殺す気は無かった!あれも事故だったんだ!ガキを撃っちまって…、こ、怖くなって!それで…!」

「なら…、何で銃なんか…」

デイブの呆けたような顔に、困惑の色が浮かぶ。

「お前は…、お前だけは殺さなきゃいけなかったんだ…!殺さなきゃ…、殺さなきゃ…!俺達が始末されちまうんだよ!」

怖くて泣き出してしまった弟を片腕で抱え、惨劇を見せないよう自分の胸に顔を押し付けさせながら、青年は涙ながらに叫

んだ。

その怯え切った様子を見ながら、デイブはふと、奇妙な感覚に囚われる。

それは、リーダーがたった今述べたばかりの、彼の都合によるデイブ抹殺の動機が呼び水となってもたらされた。

人間の基準に当てはまらない感覚を覚醒させつつあったデイブの頭に、漠然とした思考が浮かび上がる。

何かをすれば何かが返って来る。

地上の理に縛られている以上、何人たりとも逃れられない因果の連環は、自分にこの結末を用意した。

端的に言えば、自分の腕っ節が強かった事が問題だった。

そのせいで目をつけられ、周りを危険に巻き込んだ。

何の事は無い。自分が自分であるゆえに、この結果は避けられなかったのだ。

その呆然とした表情に、理解と、諦観と、一抹の寂しさが含まれた、いわく言い難い微苦笑が浮かぶ。

「…生まれて来ちまったのが…、そもそもの間違い…ってか…?俺が存在してるって、この状況自体が…、あっちゃならねぇ

事だったのか…」

独り言として呟かれたその言葉を耳にし、デイブが無抵抗に撃たれるという予想外の流れに呆然としてしまっていたミカー

ルは、ハッとして口を開いた。

「アホぬかせ!存在したらあかんなんて理不尽な事、あるわけないやろ!」

堪らず声を発したミカールへ、デイブはのろのろと視線を向けた。

ようやく観察者達の存在に気付いたデイブに、童顔の獅子が怒ったように続ける。

「そら、存在が許せへんとか、立場上の問題で敵対しとる相手にならそういう表現もあるかもしれへん!けどな、存在したら

あかんとか、そんな理由をハナから抱えて発生するモンなんぞ、何処の世界探したってあらへん!」

怒鳴るようにまくしたてた獅子の顔をぼんやりと眺めながら、デイブは微笑した。

「…優しいんだな…、坊主…」

「坊主やないっ!」

即座に反論したミカールに、血で左半面が汚れた顔を歪めて、デイブは笑いかけた。

「…ありがとよ坊主…。そう言って貰えて…救われた…。ほんのちっとだけな…」

礼を言われた事が意外だったらしく、落ち着き無くドギマギしながら口をつぐんだミカールから視線を外し、デイブは青年

に目を戻した。

その瞳が、弾を撃ち尽くした銃を構えながら怯えている青年と、縋り付いている弟を順番に見遣る。

そして大男は、手にしたリボルバーをすぅっと上げ、狙いを定めた。

あちこちに鉛弾が食い込み、血が吹き出している重傷の身でも、銃を構えたデイブの姿勢は揺るぎ無く、どっしりと安定し

た物であった。

「…届けもんだぜ…」

デイブの声に続き、重い銃声が立て続けに六度鳴り響いた。

ビクッと震えてきつく目を閉じ、兄にしがみ付いた男の子の頭に、何かの破片がバラバラと落ちかかる。

兄の体がガクガクっと痙攣したのを感じ、銃声でやられた耳に痛みを覚え、それでもきつく瞼を下ろしていた男の子は、や

がて恐る恐る、そっと目を開けた。

そして、煙が銃口からたなびいている銃を構えたままのデイブを見遣り、次いでびくびくと兄の顔を見上げる。

放心状態の青年は、目を大きく見開いたままデイブを見つめていた。

顔の両脇、頭上に二発、肩を掠めて両側、計六発放たれた弾丸は、それぞれが殴りつけるような衝撃と突風で青年を叩いた

ものの、彼にかすり傷一つつける事無く壁に穴を開けている。

デイブはわざと全弾を外した。青年にはそうはっきりと判った。

「その六発は置いてくぜ…」

デイブは青年に語りかけながら銃を降ろす。

彼の弟を殺し、自分と同じ思いをさせる…。頭の隅ではそう考えないでもなかった。

だが、因果の存在を肌で認識する程に覚醒が進んだデイブは、その復讐方法を諦めた。

今自分が噛み締めているこの苦しみと同じ物を、誰かに味わわせたいとは思わなかった。

そしてまた、青年を殺す事も止めた。

仮に殺せば、自分がニコルを失ったのと同じ痛みを、彼の弟に与える事になると悟って。

因果は繋がって行く。

それを実感したデイブには、自分の考えた復讐が堂々巡りの不毛なものに思えた。

だからこそ、自分のところでその連鎖を断ち切る決意をしたのである。

「そんなに俺が目障りだってんなら、このまま消えてやる」

致命的な傷を負っているにもかかわらず、青年を見据えるデイブの目には力が宿り、声には張りがあって、立姿は堂々とし

ていた。

傷など何でもない。そんな様子でしっかりと立ったデイブは、ニコルの仇であった青年を見下ろしながら続ける。

「…けどな、絶対に忘れんじゃねぇぞ?てめぇが今、大事な弟を抱き締めてるその手は、俺の弟を殺した手だ…。寝ても覚め

ても忘れんじゃねぇぞ?てめぇが撃ち殺されなかったのは、てめぇと俺の…二人の弟のおかげだ…!」

大男は踵を返すと、大股に、しかしゆっくりと、堂々とした足取りでドアに向かい、ちらりと青年を振り返る。

「てめぇの弟と…、ニコルに感謝して…、心の底から詫びやがれ…」

そう言い残し、デイブは部屋を出て行った。

取り残された青年は、泣いている弟を抱き締めたまま、ぼんやりと、大男が出て行った開けっ放しのドアを眺めていた。

そんな彼の視界に入りながらも認識されていない北極熊は、その手に握っていたデリンジャーを、コートのポケットにする

りと落とし込む。

「やれやれ…」

呟いた北極熊の顔を、傍らに立つ童顔の獅子が見上げる。

「それなりに期待していたんだけれど…、彼、見込みがないね」

肩を竦めたイブリースに、ミカールは疑惑の眼差しを注ぐ。

「…オドレ、ホンマは判っとったんやろ?」

「何がだい?」

「とぼけんなや。アイツがこの二人を殺さへん事も、堕ちへん事も、滅びの核にならへん事も、オドレはハナっから判っとっ

たんやな?」

「最初からというのは買いかぶり過ぎだよ。そもそも、もしそうだったとしたら、徒労に終わる事にわざわざ首を突っ込まな

いさ。それほど暇な訳でもないからね」

淡々と述べられたその言葉に、しかしミカールは納得しなかった。

「オドレが案じとったんはアイツが内包しとる「滅び」が暴走する事だけや。そうなった時、確実に食い止める為にワシがおっ

た方が都合ええから、あの嘘っこの提案をしたんやろ?「どっちの味方に付くか、一緒に見定めよう」てぬかしてな…」

童顔の獅子は「フン!」と鼻を鳴らし、

「アイツが堕人の側に寄らん事は、オドレには最初からお見通しやった。見定めたかったんは、地上に甚大な被害をもたらす

暴走が起こるかどうか…、その一点だけや」

「凄い想像力だ。キミにはシナリオライターの才能があると思うよ?」

「あくまでもシラ切るつもりやな…」

さらりと流し、答えようとしないイブリースを不機嫌そうに睨んだミカールは、やがて「まあええわ…」と、諦めたように

ため息をついた。

「オドレがアイツを救ってやりたかったって事は、皆には内緒にしたる」

「それこそ勘違いもいい所だよ。なにせボクは、「大いなる敵対者」なんだから」

片方の眉をあげ、反対側の口の端をあげ、シニカルな笑みを浮べたイブリースの周囲で、ザザッと、景色が乱れた。

「それじゃあね。しばらく会えない事を祈っているよ。それと…」

別れの挨拶に加え、何事かを小声で囁かれたミカールは、「フン!」と荒い鼻息を発し、不機嫌そうに顔を顰めた。

「…しゃーない…。その程度は引き受けたる…」

呆然としたままの青年の視界の中を、彼らに全く認識されていない童顔の獅子が横切り、デイブの後を追って部屋から出て

行った。



月光が降り注ぐアパートの屋上には、ゆるやかな風が吹いていた。

ドアの横、壁に背を預けて座り込んでいたデイブは、景色の乱れと同時に傍らに出現した北極熊へと億劫そうに顔を向ける。

「…よぉ…。いろいろ、世話んなっちまったな、旦那…。コイツまで持って来て貰ったのに…、結局上手く使えなかった…」

「文句は無いよ。それがキミの選択だからね」

拳銃をぶら下げて揺すって見せるデイブを見下ろしながら、北極熊はそう言って頷き、大男は何かを思い出したように軽く

首を傾げる。

「…選択…。そういやあんた…、選ばなきゃいけねぇって、言ってたっけな…。何だっけ…?あぁ…、諦める物を選ぶんだっ

けか…?」

「そう。そしてキミは復讐を諦めた」

「…他に…、何か別の…諦めるもんも…あったのか…?」

「「世界を諦める」…、その選択も実はあった。その場合はおそらく、君が内包した「滅び」はその場から周囲へ…、やがて

は世界に広まっていただろうね」

「…訳…わかんねぇ…」

顔を顰めたデイブに、イブリースは「だろうと思ったよ」と、何とも無責任でなげやりでとぼけた返事をする。

「けれど結局それは無くて、取り越し苦労だった。おまけに、少々期待してもいた別の事もあったんだけれど、どうやらキミ

には資格が無いらしい」

「資格…?」

「敵対者の資格さ」

イブリースは軽く肩を竦め、デイブは胡乱げに眉根を寄せる。

「大切な何かの為に、他の全てを踏み躙る事ができる…。それが、敵対者たる資格」

イブリースはふと表情を緩め、奇妙な笑みを浮かべる。

「残念ながらキミは見込みなしだ。大切なものがいくつもあるようでは問題外だね」

それはまるで、人道的には決して間違っていない事をしたせいで、代わりに校則違反をしでかしてしまった我が子を、こっ

そり誉めてやりたい親のような笑みであった。

(あるいはキミなら…、人として生れ落ち、可能性を示したキミなら…、ミカールのリーズンになれるかもしれない…)

呆れと慈しみと暖かな諦めが混じった、なんとも優しい笑みが、そんな事を考えている大いなる敵対者…アル・シャイター

ンと呼ばれる男の顔に浮かんでいる。

「そろそろお別れだ。最後に一つだけ伝えておきたい事があるんだけれど…」

イブリースは一度言葉を切ると、デイブに微笑みかけた。

「シスターは生きているよ」

デイブの目が大きく、丸くなり、北極熊の顔を映す。

「どうやらニコラス少年のプレゼントらしい無骨な木彫りの聖母像。拾い上げていたそれが盾になっていた。弾丸は聖母が受

け止めていたよ。彼女の出血は砕けた木片が浅く刺さったせいでね、衝撃と、倒れた際に頭を打った脳震盪のせいで意識を失っ

ていただけさ」

「…ほ…ん…」

「本当さ」

声が上手く出ないデイブに、イブリースは大きく頷く。

「それじゃあね、若虎君。なるべくなら、しばらく会えない事を願っているよ」

奇妙な言い回しの別れの言葉にデイブが困惑した次の瞬間、空間にノイズが走り、それに紛れてどこもかしこも太い北極熊

の巨体が消える。

「…生きて…、シスターが…」

狐に摘まれたような様子で呟いたデイブの顔に、笑みが浮かんだ。

シスターは助かった。

その事実はデイブに、何もかもが悪かった訳でもない、救いが無かった訳でもないと、少しだけ明るい気分をもたらした。

俯き加減になり、肩を震わせて小さく笑ったデイブに、

「さっきは、立派な口上やったで」

と、階段を登ってきたミカールの声がかけられた。

「そうか?」

顔を上げぬまま問い返したデイブの前に回り込んだ童顔の獅子は、彼の目前に立って軽く肩を竦めた。

「ちと鼻に付くセリフやったけどな」

「がはは!やっぱ、臭かったか?」

笑い声を上げたデイブの口元から、赤い滴が零れて落ちる。

不思議に、それほど苦しくも、痛くもなかった。

元々あった傷と対を成すように走った、左頬にできたばかりの傷から流れ落ちる血が、襟元から入ってこそばゆい。その感

覚だけがやけに鮮明である。

満足げですらあるデイブの様子を間近で窺いながら、ミカールは初めて経験する奇妙な感情に、胸を揺さぶられていた。

仕事の上で管理はしているが、所詮は取るに足りない存在と見て、それほど感情移入もしなければ親身になった事もない、

人間…。

その人間の行為に、選択に、言葉に、ミカールは胸を打たれた。

中身が違うとはいえ、これまで人間として存在して来たデイブが見せた、高潔とも呼べる魂の強さは、この傍若無人な童顔

の獅子にすら、敬意と興味を抱かせるものであった。

夥しい出血でできた、自分が作り出した赤い水溜りに座り込んだまま、デイブはベルベッドのような夜空を見上げた。

明るく、柔らかく光を投げかける月を映し、ざんばら髪の下で光る目が満足気に細められる。

「死ぬには勿体無ぇ…、良い夜だなぁ…」

彼の横で屈み込んだミカールは、何も言わずにその視線を追い、同じように空を見上げる。

「ああ。えぇお月さんや…、ホンマ…」

「そう…思うだろ?一日で良いから仕事休んで…、こういう日にのんびり月でも眺めて、夜更かしでもすりゃあ良かった…。

ハーバーから見る海はよ、こんな夜には波がキラキラ光って綺麗だろうぜ?…そういや海も、仕事の合間にしか見て来なかっ

たが…、こうなっちまうと…、見られなくなるのも惜しいもんだな…」

しばし黙り込んだミカールは、その胸中で、イブリースが去り際に残した言葉を反芻していた。

『それじゃあね。しばらく会えない事を祈っているよ。それと…、彼の事は頼んだよ?ミカール…』

北極熊が残していったその言葉が、彼に決断を促した。

「…なぁ…」

「ん?」

デイブは目だけ動かし、自分の顔を見つめている獅子を見返す。

「お前にその気があるんやったら、ワシらと一緒に仕事してみんか?」

「しご…と…?」

焦点が合わなくなり始めているのだろう、ぼんやりとした目を向けて来るデイブに、ミカールは頷く。

「お前がえぇゆうなら、ワシが「道」用意してやれるかもしれへん…」

「…何の話だ…?あぁ、仕事…、紹介できるかも…って、事か…」

問い返すデイブの瞳は、瞳孔が開きつつあり、徐々に光が失われ始めている。

「どんな…仕事なんだ…?そいつは…」

聞き返したデイブに、ミカールは大きく一つ頷いてから、胸を張って答えた。

「世界中を飛び回って、世の中に溢れ返っとる理不尽な事、ひっくり返したる仕事や!」

それを聞いたデイブは、少し間を開けてから小さく咳き込むように笑う。

「へっ…へへへ…!理不尽を…ひっくり返す…かぁ…。悪くねぇ…。俺でもやれるもんなら、やってみてもいいぜ…?」

「ホンマか?」

「ああ…。そいつは、面白そうだ…。ニコルに起こったみてぇな…理不尽…、ひっくり返してやったら…、痛快…だろうな…」

面白がっているように表情を緩めたデイブは、肩を揺すって小さく笑うと、ゴボリと、大量の鮮血を吐き出した。

弱々しくむせ返り、気管から血を追い出すデイブの頬は土気色になっており、もはや死人の貌となっている。

デイブの旅の終わりは、もうすぐそこまで迫っていた。

「…眠い…、おまけに…、寒いな…」

呟いたデイブの口は、しかし自分ではそう言ったつもりでも、もはや言葉を発してはいなかった。

込み上げて来る血がゴポゴポと喉を鳴らすだけで、声として発音できていない。

しかし大男が思っている事は、音声のみならず精神での意思疎通も可能としているミカールには、しっかりと伝わっている。

ぐっと丸めた獅子の背で、つなぎに描かれた翼のエンブレムが輝き、レモンイエローの粒子を噴き上げる。

光り輝く翼を背に生やしたミカールは、デイブの前で片膝立てて屈み込むと、その体と比べて不釣り合いな程に大きいそれ

を、ふわりと前へ回し、大男の体を覆う。

ヴェールのようにデイブを囲んだそれは、まるで、世の全ての災厄から彼を守る、光の壁のようでもあった。

その柔らかなレモン色の翼に包まれ、眩い光に囲まれたデイブは、正面に立ち、視線を同じ高さにした獅子に笑いかける。

獅子の顔をして、背も低く、太ってはいたが、ミカールは彼の目に、紛れもなく天使として映った。

自分を迎えに来た、少し変わった外見の天使と…。

「…あぁ…、あったけぇ…」

安堵したような、そして満足したような表情で、デイブは目を閉じる。

その手から離れた銃が、ゴツッと、硬く重い音を立てて足下に落ちた。

アパートの屋上に、月光よりもなお明るい光が満ちる。

レモンイエローの柔らかな翼に包まれながら、デイブの体が前に傾いた。

ついに力尽き、自分の身体を支えきれなくなって前のめりに倒れたデイブを、ミカールが柔らかく抱き止める。

「もうそろそろ、休んどきぃ…。な…?」

言い聞かせるように静かな、穏やかな口調で囁くミカールは、微かな戸惑いを覚えている。

理解しがたい男ではあったが、ミカールはデイブの事が気に入った。

だが、自分でもデイブに抱いている何らかの感情を把握し切れておらず、それ故に戸惑っている。

そんなミカールの、ジッパーが下ろされてシャツが剥き出しになった胸元で、脂肪が乗ってたぷついた胸に血塗れの顔を埋

めたまま、デイブは薄く目を開け、小さく頷くなり再び瞼をおろす。

「あった…けぇ…」

血が昇って来た喉を虎が唸るようにゴロゴロと鳴らすだけの、微かな呟きを最後に、デイブの呼吸が止まった。

今まさに旅を終えようとしているデイブを抱き止めたまま、ミカールはその腕に少しだけ力を込め、ゆるく、この上なく優

しく抱き締める。

レモンイエローの光に包まれ、不思議なほど安らいだ気分で夜の底に蹲るデイブの体から、完全に力が抜けた。



風がこそばゆい。

彼が最初に認識したのは、肌を撫でてゆく風の、少しばかり普段と違う感触であった。

薄く目を開けたデイブの目に、夜明けを間近に控えて白み始めた空が映り込む。

ぼんやりと、朝とも夜ともつかない曖昧な色合いの空を眺めたデイブの耳に、

「どうやら、上手く行ったようだね」

と、低く穏やかな声が忍び込む。

視線を少し動かして横に向けたデイブは、自分のすぐ傍に屈み込んでいる巨漢の姿を目にした。

北極熊はその空色の瞳でデイブの目を覗き込み、「オレの言葉は聞こえているかい?」と、微笑みながら訊ねる。

「あ、ああ…」

頷いたデイブのぼんやりとした頭の中に、微かな違和感が浮かぶ。

(服が…違う?赤いコートじゃねぇ…。そのせいでか?印象がずいぶん違うな…)

黒いライダースーツを着込んでいる、極めて大きく、でっぷりと肥えた肥満体の北極熊の顔には、穏やかで慈愛に満ちた優

しい微笑が浮かんでいた。

乏しかった表情と物憂げな目が印象に残っていたデイブは、そのささやかながら決定的な違いに戸惑う。

そしてふと気付く。目の色が違うという事に。

自分を見つめているのは薄赤い瞳ではなく、晴れ渡った空を思わせる水色の瞳であった。

「…旦那…。その目、どうしたんだ?」

デイブの問いに「うん?」と首を捻った北極熊は、下向きにしていた顔を上げ、デイブを挟んだ反対側へと視線を向けた。

「ミカール。オレを知り合いか誰かと誤認しているようだよ?視覚調整で何か見落としがあったかな?」

「ちゃうわ。単純にソックリなヤツと間違うとるだけや」

聞き覚えのある声につられて視線を反対側へ向けると、デイブの瞳にはあぐらをかいて座り込んでいる獅子の童顔が映り込

んだ。

北極熊が「ああ、なるほど…」と納得したように頷くと、ミカールはデイブの目に視線を据えた。

「気分はどうや?」

「…悪くねぇ…。どうなってんだ?俺…、死んだんだよな?」

あれだけ撃たれたというのに痛みも苦しさも無い。

そもそも助かるとは思えない傷だった。

その自覚があるだけに、戸惑っておずおずと訊ねたデイブに、「ま、そやな」と、レモンイエローの獅子は頷く。

「言ったやろ?道、用意したるって。…ちと体起こしてみぃ?もう動けるはずや」

困惑しながらも頷き、腹筋の要領で身を起こしたデイブは、その予備動作として頭の上に上げ、そして下へ向かって振り下

ろした自分の腕を目にし、「…あん?」と、胡乱げな声を漏らす。

上半身を起こしたデイブの目には、雄壮なブルックリンブリッジの姿が飛び込んでいた。

その景観から、自分がイーストリバーの川岸、いつも働いていた荷揚げ場に近い、コンクリートでならされた平らな岸壁の

上に横たわっていた事を知る。

だが、あのアパートの屋上から遠く離れたこの場所へ移動していたという事よりも、すっかり様変わりした自分の両手に、

注意の殆ど全てを、そして目を奪われていた。

「なんだ…?こりゃあ…?」

灰色。鉄の色にも似た毛に覆われた自分の両腕を、デイブはまじまじと見つめた。

手袋?長袖?毛皮の服?

断片的な思考に単語が乗った、ごちゃごちゃした認識の中で、デイブはハスキーな女性の声を耳にする。

「そいつは、あんたの魂の形に合わせて再構築した新しい肉体さ。虎の坊や」

顔の前に上げていた手をそろそろと下げると、自分の足下側に立っていた、黒い雌牛の姿が目に飛び込んで来る。

彼が初めて目にするその雌牛は、デイブに勝るとも劣らない大柄な体躯をしており、肩幅があるがっしりした体型だが、胸

や尻は目を見張る程豊満であった。

「ま、自分の目で見た方が早いさね」

イスラフィルはそう言うと、ブーツの爪先を軽く上げ、トンと地面を打つ。

すると、水面に浮上する潜水艦のように、大きな、古めかしい姿見が、彼女のすぐ前、コンクリートの地面からすぅっと浮

き上がった。

その奇妙という表現すらいささか控えめな奇怪極まりない現象にも驚いたが、それよりも彼を驚かせたのは、頑丈そうな金

属フレームに収まった、高さ2メートル近い楕円形の鏡に映る、獣頭人身の異形の姿であった。

衣類の一切を身に付けていない、筋骨逞しいその大柄な体は、余すところ無く灰色の毛に覆われていた。

金属的な光沢を帯びる灰色の体には、背中側や手足の外側に黒い縞模様が走っている。

灰色の毛に覆われた体だけではなく、頭部の異形さも際立っていた。

顔の下半分、鼻と上下の顎…マズルが前側へと迫り出し、頭頂部近くにある耳は人間の物とは明らかに形状が異なっている。

ぽかんと半端に開けられた口の中に、先端を覗かせる鋭い牙。

驚愕で大きくなっている目には、瞳孔が縦長になっている、灰色の虹彩を備えた瞳。

「…これ…、俺か…?」

呟いたデイブが恐る恐る両手を上げ、顔に触れると、鏡の中の虎男もまた、そろそろと手を上げて顔に触れている。

「俺…なのか…?これが?」

驚きも冷めやらぬまま確信に至り、デイブは再び呟く。

古傷があった右頬と、銃弾が掠めて裂傷が刻まれた左頬には、まるでその名残のように、黒い縞模様が顔の両脇から伸びて

いた。

頬を撫でる風の肌触りを妙な物と感じたのも当然の事で、直に肌に触れる前に、灰色の毛がその感触を捉え、認識させてい

たからである。

姿見の横へ一歩ずれ、デイブの姿を改めて眺めたイスラフィルは、

「見たかい坊や?それがあんたの魂の形さね。なかなか恰好良いじゃないのさ?」

と、口元に笑みを浮かべる。

「一見無骨ながらもシックでエレガントなグレー…。誰かさんのけばけばしい黄色なんかより、よっぽど見栄えが良いねぇ」

「フン!お前が灰色好きなだけやないか!辛気臭い色やで、鉄色なんて!」

「黄色なんて目にも喧しい色じゃないのさ?モノトーンが何よりさね!」

互いに詰め寄り、ギャイギャイと言い合うイスラフィルとミカールを、戸惑い顔で眺めているデイブに、

「あまり気にしないで。あの二人はいつもああなんだ。決して仲が悪い訳じゃあないんだよ?」

と、北極熊が微苦笑を浮かべながら告げる。

「紹介は…、たぶんまだかな?黄色い方はミカール。黒い方はイスラフィル。オレはジブリール」

同僚と自分の名を告げたジブリールは、その思慮深げで優しそうな空色の瞳をデイブの灰色の瞳に据え、ニィッと歯を剥き、

快活な少年を思わせる笑みを浮かべた。

「キミの名前を聞かせて貰っても良いかい?…二人とも、そろそろ静かに…」

頷いたデイブは、ジブリールの言葉で静かになった獅子と雌牛の視線を受けながら、戸惑いつつも口を開いた。

「俺は…、デイヴィッド…。デイヴィッド・ムンカルだ」

1958年10月、秋晴れの朝が訪れたブルックリン。

こうして、鉄色の虎は誕生した。