第三十一話「アズライル奮闘記」(前編)

民家もまばらで田園風景が広がっている、日本特有ののどかな田舎町。

その和やかな景色の中を横切る、両側を高い土手に挟まれた太い河には、飛行艇が一機、プカプカと浮かんでいた。

その飛行艇にはレモンイエローの塗装が施されており、夕陽に照らされ朱が混じった色で輝く背には、一対の翼を象ったエ

ンブレムが白くマーキングしてある。

のどかな田舎の風景の中で異彩を放っているその飛行艇には、しかしどういう訳か、土手の上を散歩している老人とその愛

犬も、ジョギングしている近くの高校の陸上部員達も、全く注意を向けていない。

見慣れているから注意を払っていないという訳ではない。彼らは単に、その飛行艇を認識できていないのである。

やがて、低く轟くバイクの音が遠くから響き、真珠色に輝く大型バイクが飛行艇に向かって走って来る。

そのどっしりとした大型バイクは、あろう事か川面を走行していた。まるで、アスファルトの路面を走るように。

殆ど沈んでいないタイヤで水面に小波を残し、非常識な走行ルートを程よい速度で流しているそのバイクには、黒革のつな

ぎを身に付けた二人が跨っていた。

パールホワイトに塗装されたファットボーイに跨り、ハンドルを握っているのは、とんでもなく大きな、そしてとんでもな

く太った大男。

後部座席に跨っているのは、丈夫な黒革のライダースーツ越しでも恵まれたプロポーションが窺える、グラマーな女性。

二人は共に人間の顔をしていない。男の方は北極熊の顔をしており、女は黒い豹の顔である。

しかし、水上を走る大型バイクにも、それに跨る奇妙な容姿の二人にも、土手の上の人々は、飛行艇同様に一切の注意を向

けてはいなかった。



水面に向けて傾斜を作り、登り口となっていた後部ハッチを乗り越え、飛行艇の格納庫内に進入して来たバイクを、

「おっか〜」

背の低いずんぐり太った男が、そんな声をかけて出迎えた。

「ただいま」

「………」

出迎えたレモンイエローの獅子は、微笑みを浮かべて応じる北極熊と、ぼぅっとした顔のまま返事もしない黒豹を見比べる

と、一瞬訝しげな表情を浮かべた。

が、気を取り直すように右手を上げ、立てた親指で肩越しに背後を指し示す。

「夕飯の準備まだできてへん。しばらくかかるで。とりあえず風呂にでも浸かって時間潰しときぃ」

「うん。そうさせて貰うよ」

獅子に頷き、肩に手を当てて凝りをほぐすように首を左右に曲げた北極熊は、黒豹ににこやかな顔を向ける。

「それじゃあ、また後でねアズ。付き合ってくれてありがとう。楽しかったよ」

「え…?あ、ああ…」

どこかぼうっとした様子で頷く黒豹と、訝しげに眉根を寄せて二人を眺めている獅子を残し、北極熊は格納庫に並ぶ木製ド

アの一つへ向かう。

「アズライルも着替えて、飯の時間までゆっくりしときぃ」

「…ああ…」

獅子への返事も上の空。心ここにあらずといった様子で立ち尽くし、北極熊の背を見送る黒豹。

やがて、パールホワイトの北極熊…ジブリールが格納庫から姿を消すと、

「…で、で?どないやった?デートの方はっ!?」

レモンイエローの獅子…ミカールは、ニヤリと笑いながら肘で黒豹を小突きつつ、小声で訊ねる。

ジブリールが入っていったドアをぼーっと眺めながら、黒豹の女性…アズライルは口を開いた。

「…かわいいと…、言われた…」

「ほ?」

妙な声を漏らしたミカールの口と、その童顔っぷりを際だたせている大きな目が、揃って丸くなる。

「美人だ…、とも…」

「おおふっ!?」

目と口をまん丸にして驚いているミカールの前で、アズライルは天井を仰いだ。

「私は…もう…、例え今夜消滅する事になっても悔いは無い…!死神も残さない…!」

目を閉じ、胸元に上げた拳をググッと握り締めているアズライルの背をポンポン叩き、ミカールは親指で食堂を指し示した。

「まぁ落ち着きぃ…。あっちでゆっくり話そ。な?詳しい話聞かして貰わんと、じっくりたっぷり…。…それにしても…」

言葉を切ったミカールは、不意に訝るような顔つきになる。

「あのニブチンデブチンに一体何があったんや…?何か妙な物食ったとか…、そんなオチとちゃうやろな…?」



湯船の縁に腕と顎を乗せ、うつ伏せに寝る格好で湯に浸かり、体を伸ばしていた鉄色の虎は、

「ご機嫌だなぁ、旦那」

壁際に座り込んでシャワーを浴びている北極熊の背に、口元に軽い笑みを浮かべつつ声を掛けた。

「うん?」

鼻歌交じりにシャワーノズルを胸元に押し当て、たっぷり肉が付いて垂れた胸を下から洗っていたジブリールは、少し首を

巡らせて同僚を見遣る。

軽く動く度にたっぷりと体についた脂肪が揺れ、歩けば出過ぎて垂れた腹が弾む。

誰がどう見ても肥え過ぎの北極熊は、しかし言動は穏やかで礼儀正しく、紳士的な振る舞いは堅苦しさよりもユーモラスさ

を印象付け、相対した者の微笑を誘う。

ムンカルがこの北極熊の事を「旦那」と呼ぶのは、彼をこのチームの実質的なリーダーだと認めているからでもあり、同時

に、恰幅の良い紳士である白熊にぴったりな呼び名であると考えたからでもある。

この呼び名は、かつてムンカルが彼と良く似た男と出会った際に、自然と口を突いて出た物でもあった。

「よっぽど良かったのか?」

「何がだい?」

「映画だよ。観て来たんだろ?アズライルと」

「ああ。うん、とても良かったよ」

笑みを浮かべてムンカルに頷いたジブリールは、太い指を長い被毛の中に差し込み、だぶついた贅肉を揉むようにして丁寧

に洗っている。

風呂好きで綺麗好きな同僚が丁寧に体を洗っている様子を眺めながら、虎男は興味深そうな半眼になった。

「どんなの観て来たんだよ?面白そうなら俺も観に行きてぇんだが…」

「豚の子供がね、農場経営者の家に引き取られて、他の動物たちと仲良くなったり、牧羊犬の代わりに活躍したりする…」

「ブタぁ!?」

ジブリールの説明を途中で遮り、ムンカルは唐突にすっとんきょうな声を上げた。

アズライルと一緒に映画を観ると聞いた時点で、間違いなくアクション、おそらく派手なカーアクションが含まれる物を観

にゆくのだろうと考えていた虎男は、完璧に裏をかかれて口をパクパクさせる。

「とても面白かったよ?」

「日本だろ…?チャンバラとかサムライとかニンジャとかゲイシャとかがショーグンとかがメインだろ?てっきりああいうの

を見に行ったんだとばかり思ってたぜ…」

ムンカルは意外そうな表情を浮かべ、偏見に満ちた感想をブツブツと呟いた。

一方でジブリールは、脇の下から腰にかけてのたっぷりした胴体側面を入念に洗い流しながら、思い出したように口を開く。

「ああ、そうそう。オレが注文していたバイクだけれど、十日後に届くから、約束通りファットボーイはキミに譲るよ」

「おおっ!?やりぃ!待ってて良かったぜ!早速ナキールに頼んで手伝って貰って…」

「自分に何を?」

不意に聞こえた声にムンカルが首を巡らせると、浴室のドアを押して足を踏み入れている灰色の狼男の姿。

「丁度良かったぜナキール。旦那の新しいバイクがもうじき届くんだとよ。でファットボーイはついに俺のモンだ!」

「そうか。おめでとう」

そう言ったナキールは相変わらず無表情で、本当にめでたいと思っているのかどうかが顔つきと声音からは全く判らない。

「それでよ、塗装とかカスタムしてぇから、貰ったら作業の手伝いよろしくな」

「了承した」

かなり手間がかかる用事をさらりと頼むムンカルと、何でもない事の様に引き受けるナキール。

入念に体を流しながら二人のやりとりを眺めていたジブリールは、口元を綻ばせながら提案した。

「必要なパーツがあるなら今の内に連絡を入れておくよ?納車にあわせて一緒に持って来て貰うようにすれば、すぐにでも作

業に取り掛かれるだろうし」

「それが良いかもしれない。ムンカルも早く乗りたいだろうから」

「がはは!判ってるじゃねぇか!」

機嫌良さそうな苦笑いを浮かべ、湯船の中からピンっと縞々の尻尾を突き出させたムンカルは、

「ムンカルはせっかちだから判る。また、それでよく失敗もする」

「…判ってんじゃねぇか…」

しかし灰色狼に客観的かつ忌憚も容赦もない感想を述べられると、立てたばかりの尻尾をヘナッと力なく曲げた。



一方その頃食堂では、黒豹と獅子が長テーブルを挟んで向き合っていた。

夕食準備を途中で放り出したままのミカールは、今日の映画鑑賞について、アズライルに仔細な説明を求めている。

「社交辞令なのだろうが…、道中の看板に…、「余所見はするな、美人は居ない」と書いてあって…」

「ふむふむ」

「フレーズその物も、注意を促す意味でも、実に良くできた秀逸な看板だと感想を述べたのだが…」

「お前その手の看板ほんま好きやな…」

「ジブリールが…、「余所見して探さなくとも、美人ならオレの後ろに乗っているね」などと…」

「おおっ!?」

言い終えたアズライルがテーブルに突っ伏し、腕に顔を埋めるのと、ミカールが歓声を上げたのは殆ど同時であった。

「わ…私はっ…!例え今夜消滅したとしても…、もはや悔いは無いっ…!死神は残らない!」

「まま…、ちっと落ち着けてアズライル…」

突っ伏したまま背を震わせ、くぐもった声を漏らしながら感動しているアズライルを、ミカールが宥める。

(たぶんソレ社交辞令やないわ…。「欠けた」ゆうても、体色さえ除いたらアズの容姿は元々のアイツの好みそのものやさか

い…。美人やて言うたんは本音やろな…)

と思ったミカールだったが、これ以上刺激を与えるとアズライルがオーバーヒートして、耳やら鼻やら口やらから蒸気を噴

きつつフリーズしてしまいそうなので、とりあえず黙っておく事にした。

ジブリールの事に関して追い詰められたアズライルには、これが比喩ではなく文字通りの現象として実際に有り得る。

「で、可愛いて言われた件は、どんな状況やった?」

ミカールが促すと、顔を上げたアズライルは、視線を横へ逃がし、組み合わせた手をモジモジと揉みながら、

「映画は…、豚の子供が主役だったのだが…」

「ブタぁ!?」

アズライルの説明を途中で遮り、ミカールは突然すっとんきょうな声を上げた。

映画を観て来たアズライルがのぼせている時点で、間違いなくラブロマンス、おそらく恋が主題になっている物を観て来た

のだろうと考えていた獅子は、完全に裏をかかれて口をパクパクさせる。

「とても面白かった」

「日本やろ…?任侠物やら時代劇やら、ハードボイルドな私立探偵やったり前時代的やったりバンカラやったり、色んなロマ

ンス物ありそうやけど…。わざわざ子豚て…」

ミカールは意外そうな表情を浮かべ、偏見に満ちた感想をボソボソと呟いた。

無難過ぎるジブリールのチョイスを不満に感じたものの、それで満足してしまえるアズライルもまた救い難い。

「その豚を…、可愛いと評した私に…、彼は「そうだね、けれどアズの方が可愛いと思う」と…」

女性と動物の子を同列に置いて「可愛い」とのたまうジブリールも相当な物だが、子豚と比較された「可愛い」でノックア

ウトされるアズライルもまたかなりの物である。

ミカールはイライラしつつ、先に房がある尻尾を立てて、背後でヒュンヒュン振り回す。

アズライルを自分から映画鑑賞に誘うという今回のジブリールの行動には、ミカールとムンカルは二人で密かに「来るべき

時がついに来た!」と、盛り上がっていた。

が、済んでみれば何の事は無い、単に自分が観たかった面白そうな映画を一緒に観てみないか?と、普通に紳士的な誘いを

かけただけであったらしい。

(どうしてくれんねやこのテンション!?アゲアゲやったのに、このままやと消化不良のまま霧散してまうでホンマ!?納得

いかんっ!)

そう考えたミカールは、このまま終わらせない手は何か無いかと、ブツブツ呟きつつ首を捻り始めた。

「…一応映画一緒に観たんやから…、話題はできた訳や…。延長戦行けへんやろか…?」

「延長戦?」

聞こえた単語を繰り返したアズライルに、獅子は尻尾をピンと立て、椅子をガタンとひっくり返して立ち上がりつつ、

「解ったぁああああああああああああああああああああっ!」

 と、突然大声を上げた。

「そう!延長戦や!映画、面白かったんやろ?」

「あ、ああ…」

「感動出来たか?」

「感動…したな…」

「おっけぇえええええええええええええいっ!」

返事を聞くなり、拳を握った右腕を脇につけ、ガッツポーズを取るミカール。

そんな獅子を眺めながら、アズライルはテンションの変化についてゆけず、少々引いている。

「同じ映画観て来たんや、一晩中でも語りあえるんとちゃうか!?ってか語りあえるやろ!?語りおうたらえぇんやない!?」

「語り…合う…?」

「そぉやっ!しかも此処やない!二人きりになれる何処かでや!ついでに一晩お外でお泊まりして来たったらええんやないか

い!?」

「お外…、お泊まり…」

ボソボソと呟いたアズライルのピンと立てた耳が、程なく、ゆるやかにたなびく蒸気を上げ始めた。

「…アズライル?おい?ちょっと?」

完全に硬直したアズライルの異常を察したミカールは、短い足が床から離れ、腹でテーブルに乗る恰好で身を乗り出しつつ、

瞬きすらしなくなった黒豹の目の前で手をぱっぱっと振る。

「…あかん…フリーズしてもうた…」

黒豹は、少なくとも彼女にとっては刺激が強い…を通り越して過激な提案により、物の見事に機能停止に陥っていた。



『えー、業務連絡ぅ〜、業務連絡ぅ〜。ムンカルはん、居てはりましたらコックピットまでどうぞ〜。大至急たのんまっせ〜』

馴染みのある声がスピーカーどころか継ぎ目も見当たらない天井から響き、上げた太い脚を太鼓腹につける窮屈そうな恰好

でいたジブリールは、

「平時に機内放送なんて珍しい…。どうしたんだろう?」

トランクスに足を半分通した恰好で動きを止めつつ、太い首を捻った。

「大至急だそうだが?」

狼男は静かになった天井から視線を外し、名指しで呼び出されている同僚を見遣った。

ムンカルは何かを察したらしく一瞬表情を引き締めていたが、すぐさま何でもない風を装って、気楽げな顔つきになる。

ピンポイントに脱衣場へのみ機内放送で呼びかける辺り、確実にムンカルの位置を掴んでいる。

加えて、奇妙な敬語での呼びかけから漂う、微妙なよそよそしさと、何かをとぼけているような印象。

これらの事でムンカルは察した。

ミカールが「例の件」について、自分を混ぜてこっそり相談したいと思っている…という事を。

「ま、ちょっくら行って来る。そんなには急いじゃいねぇらしいが、大至急って言ってるしな。遅刻してどやされるのも嫌だ」

苦笑いしながらそう言い、ボクサーブリーフに自慢の逸物を収めてジーンズに足を通したムンカルは、上には肌着すら着け

ないまま、残りの衣類を掴んで肩にひっかけ、さっさと脱衣場を後にした。



「有り…だな」

腕組みをしたムンカルは、真面目な顔で重々しく頷いた。

「せやろ?我ながらグッドなアイディアやて思うとった。流石ワシ」

ミカールもまた腕組みをしてウンウン頷く。

両者が操縦席と副操縦席につき、椅子を回転させて向き合っているコックピット。

その中間地点の横で、キャンプ等で用いる折り畳み式の屋外用アームチェアに深く腰掛けたアズライルは、緊張した面持ち

で二人のやり取りに耳を傾けている。

ミカールが提案した「映画の感想について二人っきりで語らいつつお外でお泊まりして来たらええんとちゃう?」計画は、

ムンカルの高い評価と支持を得た。

「高級ホテルなんかで二人きり…、夜景を眺めながら過ごす穏やかな一時…。しかも一緒に過ごすのは、気心知れた間柄…。

なら…、進展しねぇ方がおかしい」

確信を込めて言い切ったムンカルの前で、ミカールがおののく。

「ほ、ホテルやと!?高級ホテルと夜景!?そか!泊まる場所も大事なんやな!?」

「そうだ。雰囲気ってのは大事だからな。おまけに普段と違う空間ってのは効果的でな、環境が変わると何でも変わって感じ

られるもんだ。若い二人が旅の空の下では、違うお互いに気付いて意識しあう…。旅行や遠出がカップルを生むのは、古今東

西どこの国いつの時代でも共通だ」

「そか!雰囲気までも武器に取って落としにかかれて、そういう事やな!?」

ミカールは感心し、かつ興奮しつつ何度も頷く。

「駄目っ子やとばかり思っとったのに…、ムンカル…恐ろしい子っ…!」

「がーっはっはっはっ!じょーしきじょーしき!」

盛り上がる二人のその横で、俯き加減になって上目遣いに二人を眺めていたアズライルは、おずおずと右手を肩の高さに上

げた。

「はいアズライル。何だ?」

挙手に気付いたムンカルが、生徒を指名する教師のように促すと、黒豹はやや居心地悪そうに身じろぎしつつ、両手を膝の

上に乗せて俯く。

「つ、常からおこなっていないというのに…、と、突然外泊を申し出て…、しかもそれに誘うなどというのは…、どう考えて

も不自然ではないでしょうか…?」

まだ態度が極めて硬かった頃…出会ったばかりの頃を思わせる敬語と態度で訊ねたアズライルに、虎男は「良ぃ〜質問だア

ズライル…」とウンウン頷いて見せた。

得意分野という事も有り自信満々なムンカルは、前で腕を組んだ胸を張る。

「普通に誘えばそうだな。誘いが不自然になるのはなるべく避けて、真っ当な理由で自然に持って行きてぇトコだ。良いトコ

押さえてるぜアズライル。…だがな、目指す状況その物は「そこはかとなく普通じゃねぇ状況」だ。解るか?」

「え?えぇと…」

考え込むアズライルに、ムンカルはチッチッチッとゴツイ指を振って見せた。

「さっきも言ったろ?環境が変わると何でも変わって感じられるってよ…。非日常空間ってのは、それだけで武器として有効

利用できるんだなぁ、これがよぉ」

「あ…、あぁ!そうでした…!」

素直に頷くアズライルを前に、ムンカルは熱弁をふるい続ける。

「でもって、異常な状況…例えばアクシデントから派生した非日常ってのは、それだけで好シチュエーションだ…。まずは軽

いアクシデント、そこから発生した理由で訪れた非日常…。今回狙うのはこの流れだ」

一度そこで言葉を切ったムンカルは、難しい顔で考え込んでいるミカールと、話の続きを待つアズライルの顔を見比べる。

「具体的に言うとだな…、外泊せざるを得ない口実を俺達が用意する。で、外泊するアズライルに旦那を同行させる。この時

に「同じ映画を見た事だし、たっぷり話せる時間が偶然できた」的な事をさりげなく…あくまでもさりげな〜くアピールだ」

「さりげなく…ですか?」

「ああ。「私達昼間も一緒に居たよね?」って空気を、まずはほんのちょっとでも意識させりゃあそれで良い。こいつは前振

りだからな。後はまぁ、こっちでどうにかして旦那を同行させるからよ、外泊先で二人きりになってから実際に映画の話題を

出せば、徐々に前振りが効いて来る。話題にも困らねぇから一石二鳥だろ?」

「な、なるほど…!」

ムンカルはアズライルから視線を外し、ミカールに向き直る。

「ミックはアレだ。口実の方を準備してくれよな?」

「口実て…、どんなやろ?」

「外泊しなきゃいけねぇようなフネのトラブルとかだよ。この辺は俺じゃあ考えつかねぇだろうし…。適当な口実、何とかな

らねぇもんか?」

「そんな事なら何とでもなるわ。ワシが普段から気ぃ配っとるからなんも無いだけで、本来このフネて結構デリケートやから

な。突然どっか故障したてホラ吹いても、そう不自然やあらへん」

「よし!その辺りは頼むぜ!…あとは外泊場所を選ばなきゃいけねぇが…、こいつは俺に案があるから任せとけ。ちょっと本

屋探して、宿泊施設が載ってる旅雑誌でも買って来る」

てきぱきと段取りを決めて行くムンカルを前に、ミカールは感心したように「おぉう…!」と声を漏らした。

「さすがムンカル!伊達に人間やった頃に恋人とっかえひっかえ遊んどった訳やないな!」

「がははははっ!まぁなっ!」

褒められているのかどうかかなり微妙だが、機嫌良さそうに笑うムンカル。

「けど今そない無節操な真似しくさったら消滅さすけどな!」

「がははははっ!…肝に銘じとく…」

ミカールの目が全く笑っていない事に気付き、頭を掻きながら縮むムンカル。

そんな虎男を、アズライルは眩しい物でも見るように目を細めながら見つめ、口を開いた。

「何故でしょう…?普段はああまで駄目なのに、今だけはムンカルさんが頼もしく見えます…」

「がっはっはっ!よせやい照れるじゃねぇか!」

機嫌良さそうに声を上げて笑うムンカルは、内容的にはちっとも褒められていない事には勿論気付いていない。

が、誉められた気になっている虎男はすっかり機嫌を良くし、下品に口元をにやつかせながら、太い尻尾で椅子の背もたれ

をベシベシ叩き始めた。

「後で初体験の話、詳しく聞かせてくれよ?それとまぁ、アレだ。旦那のナニは図体に反して可哀相なぐれぇ短小なんだから

よ、アソコきちんと締めてやんねぇと、チュッポンチュッポン抜けて大変だろうぜ?旦那も自信喪失しちまうだろうし…」

上機嫌だったムンカルが喋り過ぎたと気付いたのは、ジャガィンッ!と金属的なスライド音が室内に響いた後の事であった。

「頼もしいが…、げ…下品で破廉恥な口は変わらずか…。こ、こここ殺すぞ貴様っ…!?」

「わーっ!解った解った!悪かった全面的に!」

抜いたデザートイーグルの銃口をムンカルの眉間から僅か10センチ手前に据え、恐ろしく低い掠れた声で恫喝するアズラ

イル。

しかもこれが緊張と動揺と恥じらいで指を震えさせているのだから、銃口と近距離でにらめっこを強いられているムンカル

は気が気でない。

「まぁまぁ落ちつきぃアズライル!ムンカルはデリカシー皆無やさかい…」

そうのたまいながらアズライルを宥めるミカール自身、ムンカルをどうこう言える程のデリカシーを持ち合わせているとは、

客観的に見ておせじにも言い難いのだが、このフネにはその点につっこめる者が一人も乗り合わせていない。

肩を揺らしてふぅふぅと荒い息をつく黒豹を、「どうどう…」と馬にでもそうするような宥め方で落ち着かせながら、ミカ

ールはムンカルへ顎をしゃくって見せた。

「方便はワシの方できっちり準備しとくさかい、早めに本屋行ってきぃ。風呂と飯がダメんなるって方向のトラブル起きる事

にしとくわ。風呂好きで食い意地張っとるジブリールには効果的やろ。それと、ナキールにはワシから話して、こっちに抱き

込んどこな」

「だな。知らずに邪魔されちゃかなわねぇから、ナキールにも話しとくか。さて時間もねぇ、急ぎで行ってくるぜ」

真面目な顔になって立ち上がったムンカルは、同じく真顔のミカールと頷きあうと、準備に取りかかるべく颯爽と部屋を出

てゆく。

若い同僚の恋が成就する事を真摯に祈りつつも、しかし極端に言うと、他者の恋愛事に首を突っ込みたくて仕方がないとい

う野次馬根性も同程度にある…、そんなミカールとムンカルであった。

果たして二人の計略は、見事ジブリールをハメる事ができるのか?

そして、耳から煙を出して項垂れているアズライルに、無事延長戦は務まるのか?

まるで前途の困難を暗示するかのように、天気の良かった空は、夕刻から曇り始めていた。