第三十二話 「アズライル奮闘記」(中編)

夕食の用意が中断されたまま、再開されない事が決まった食堂では、猫科の二人が密談をおこなっていた。

やや大きめのパーカーを身に付け、すらりとした脚にフィットする生地の柔らかいジーンズを穿き、右手にペンを持って手

帳をテーブルの上に広げているのは、マットブラックの被毛を持つ黒豹である。

グリーンのパーカーは、体格からすれば余裕があるサイズにも関わらず、豊かな胸の膨らみがはっきりと認められる。

大きめのパーカーに隠れたウェストは細くくびれ、その下にはジーンズの生地をピンと張らせる形の良いヒップ。

パーカーの背中側の裾、腰の後ろ側からは、長くしなやかな黒い尻尾がするりと伸び、椅子の横へと垂らされていた。

完璧なボディラインを飾らない衣類で覆ったアズライルは、実に魅力的なのだが…、いかんせん交際経験も無く、その恵ま

れたプロポーションを誘惑手段などに使った事もない。

恋愛戦略という配達人らからすれば本来縁遠い概念については、ずぶの素人であった。

彼女と向き合う形で椅子に座り、頬杖をつきながら何やら思案しているのは、レモンイエローの被毛が目にも鮮やかな獅子。

上は「燃えろ!えぇ女!」と胸に書かれた白いタンクトップ一枚、下は膝上までの丈があるモスグリーンのハーフパンツと

いうラフな格好。

背は低いが幅があり、極端にずんぐりした体躯をしている。

短身の獅子は鬣こそ立派なものの、大きくて円らな目をしており、丸顔で童顔。衣類と背格好からも幼い印象を受ける。

ハーフパンツの尻からは、先に筆のような房がついた尻尾が伸び、椅子の横へと垂れて、猫の尻尾が時折そうするようにし

て、思い出したようにフラッ…フラッ…と、断続的に揺れていた。

ミカールもまた立場上はアズライルと同じであるものの、見た目はともかく彼女よりも遥かに歳を経ている事もあり、恋愛

という概念をそれなりに理解している。

テーブルの上にはティーカップが二つとティーポットが置いてあるが、カップは二つとも空になってしばらく経つ。

二人は揃って難しい顔をしており、真剣に何かを話し合っている。その内容はというと…、

「せや、愛称で呼ぶとかどや?」

今夜の作戦に付随する、一歩進んだアプローチの仕方についてであった。

「愛称?」

胡乱げに眼を細めたアズライルに、ミカールは目を閉じてウンウン頷いて見せる。

「こう…、さりげな〜く、呼び方をフレンドリーなもんにしてみるんや」

フムフムと頷きながら手帳にメモを取る黒豹に、童顔の獅子は得意げに続ける。

「ささやかに見えて、しかしこれが案外効果的や。これだけでも結構距離縮むもんなんやで?」

「そうなのか…!いや、参考になる…」

熱心にメモを取っていたアズライルは、不意に顔を上げ、小さく首を傾げながら同僚の顔を見つめた。

「愛称で呼ぶとなると…、例えば、ムンカルが貴方を呼ぶようにだろうか?」

アズライルから顔を背け、「まぁ、そんな感じやろか…」と、指で鼻の先を掻きつつ、渋い顔でボソボソ呟くミカール。

「何と呼べば良いだろう?」

「何ってそら…、う〜ん…、そこは自分で考えへんと…。ワシそないなモンに触れて来ぃへんかったから、イマイチよう判ら

へんし…」

「私も、そういうモノにはあまり馴染みが…」

二人は同時に背もたれに体重を預け、腕を組み、全く同じ格好で考え込んだ。

「…せや。ジブリールがお前呼ぶ時みたいにやな、名前の頭だけで呼んでみるっちゅうのはどないやろ?」

「…と言うと…」

アズライルは少し考えた後、表情を隠すように完全に俯き、肩を震わせながら口を開く。

「…ぢ…、ぢぢっ…ヂブ…とか…!?そんな風に呼べと…!?この私に…、かか彼をっ!?」

「なんや発音おかしいで?でもって何でまたこの程度で早くもテンパっとんのお前?本人もおらへんのに…」

同僚の度を超した奥手具合に少々呆れつつ、ミカールは傍に置いてあったティーポットを手に取り、空になっていた二つの

カップに紅茶を注いだ。

カップをぽってりとした手で取り、レモンティーの香りを嗅ぎながら眼を細めたミカールに、アズライルは小声で尋ねる。

「…ミカールが「ミック」なら…、同じ形式ではジブリールは「ジッブ」になるのだろうか?」

「なんやしっくり来んなぁ…。そんなんよりも「ジッビ〜」とかそんな感じはどないや?…あかん。自分でゆうといて何やけ

どイマイチやコレ…」

ムンカルが出発してから数十分。二人はこんな調子で、あれこれと意見を出し合っていたのである。

そして…、

「…ジブリン…」

ぼそりと呟いたアズライルの声に、ミカールがピクリと耳を動かして反応した。

「ジブリン…な…」

「…ジブリン…」

二人はしばし腕組みをして黙り込んだ後、

「…ええんやないか?」

「…ジブリン…」

「なんやダーリンゆうとるっぽい!」

「ダーリン…」

「こらごっつええわ!」

「…いいかも…」

「いけるでこれは!」

「…かも…」

どうやら、いけると踏んだようである。



ぐぅ…。と、呻き声のような音が、室内に響いて床を這った。

バーを思わせる薄紫の部屋でピアノにつき、しかし弾くわけでもなく、その上のメトロノームを凝視していた狼男は、首を

巡らせて振り返る。

その視線の先には、カウンターについてフォーマルスーツのカタログを眺めている、白い極度の肥満体。

「聞こえた?」

「はっきりと」

北極熊の短い問いに灰色狼が短く応じる。

「ははは…。お腹空いたなぁ…」

少々決まり悪そうに微苦笑しつつ、ジブリールは布袋腹を切なそうにさする。

「夕食遅いね。どうしたんだろうね?今日は…」

「何かトラブルがあったのかもしれない」

既にミカールから事情を説明され、協力者となっているナキールは、不審がられないよう振る舞いながら、ジブリールを監

視している。

もっとも、振る舞い自体は芝居するまでもなく普段と全く同じで、メトロノームを眺めながら同室しているだけなのだが。

「トラブルか…。ミカールのお陰で滅多に故障が無いけれど、本来はこのフネってデリケートだからね」

まさにその線で話を持っていこうと一同が目論んでいる点について、意図せぬまま言及するジブリール。

「ベースとしての機能の他にも、快適さを確保する為に色々と詰め込んでいるから…」

その機能の一つとして、「これだけは!」と主張してジャグジー付きの大型浴槽を取り付けたのは他でもない、度を超して

入浴好きな彼である。

「どこか調子が悪いのかな?」

労せず騙されてくれそうな、人の良い北極熊の問いに、

「どうだろうか」

監視する気があるのか無いのか、ナキールはメトロノームに視線を戻しつつ応じた。



一方その頃、見渡す限りの田園風景の真ん中からバイクを飛ばす事しばし、ようやく辿り着いたそこそこ整備された国道沿

いの本屋で、

「おし…、これこれ…!」

明らかに姿が異様なライダースーツを纏う虎顔の大男…ムンカルは、手頃な雑誌を手にとって、満足げに頷いていた。

それは、見事な風景と有名建造物のカラー写真表紙が目を引く、しかし何処も同じような表紙にするため、ありふれたデザ

インである事は否めない旅雑誌である。

そのそこそこ広い店舗の本屋には、店員だけでなく他の客も居るのだが、周囲の人間達はムンカルの姿を正しくは認識でき

ておらず、その異様な風体には注意が向いていない。

停艇場所からそれなりに距離はあるものの、好条件のホテルが載っている事を確認したムンカルは、それをレジへと持って

ゆく。

彼らが被認迷彩を駆使すれば、誰にも気付かれないまま金を払わず持ち去る事も可能なのだが、幸いにも配達人はそんな真

似を働いたりはしない。

もっとも、人間達の法に完全に従っているという訳でもない。

その非常識なルートを選ぶ配達方法などからも解るとおり、こと交通ルールに関しては、個人的な程度の差こそあれ遵守し

ているとは言い難い。

目当ての品を入手し、ついでに自分の個人的な買い物もこっそりと済ませた虎男は、縞々の尻尾を左右に揺らしながら、機

嫌良さそうに本屋を出て行った。



「済まんけどな、今日は外で飯食ってくれるか?」

ミカールがそんな事を言いながら部屋に入ると、ジブリールは「え?」と声を漏らし、ナキールは「判った」と素直に頷く。

淡泊なリアクションを見せた狼男には、もう少し意外そうにするなどの演技をして欲しかったミカールではあったが、

(…このあっさりした反応の方が、ナキールの場合はむしろ自然やな…)

と、密かに思い直す。

「何かトラブルでもあったのかい?」

この北極熊の問いに、獅子はほくそ笑む。話を持ち出す前に察してくれるのは非常に有り難い。

「まぁ大した事でも無いんやけどな。コイツ、ちょいとご機嫌斜めなんや」

そう言いつつ足でトントンと床を叩いたミカールは、大仰にため息をついて見せた。

「火と水まわりが何やおかしい。風呂も台所も使えへん」

「それは大変だ。オレも手伝うからすぐに修復しよう」

空腹ではあったが、腰を浮かせてそう提案した北極熊に、そう言って来るだろう事を想定していたミカールは、慌てず騒が

ず首を横に振る。

「そこまで酷いモンやあらへんて。ワシ一人でおっけぇや。問題はホレ、飯も風呂もすぐには無理やさかい…」

一度言葉を切ったミカールは、考え込むふりをしてから、「そーや!」と、胸の前で平手をぽふっと合わせた。

「たまには外泊して来たらえぇやん?ワシは修理がてら留守番しとるさかい、ジブリールもナキールも、ホテルかどっか泊まっ

て来たらええ」

「ホテル?」

首を傾げたジブリールに、童顔の獅子はウンウン頷いて見せる。

「おお、せやせや!この間アズライルが日本の勉強ゆぅて旅行誌見とったんやけど、アレ確か人気の宿泊スポットとか載っとっ

たはずや!

たまに気分変えてそういうトコ見て来るんもええやろ?」

「けれど、ミカールだけ残して行くのは悪いよ。三人は…そうだね、何処かに外泊させていいけれど、せめてオレは手伝いに

残ろう」

歩み寄りつつ当然の反応を見せた北極熊の顔を、ミカールは内心でほくそ笑みながら見上げた。

(しめしめ…!こら予想以上に楽に行きそうや…!)

ジブリールの言葉から提案まで、ほぼムンカルが予測していた通りであった。

自分達が思う通りに事が進んでいるのが、獅子には愉快で仕方がない。

「手伝いはいらへんで。そない大仰なムクれ方もしてへんから、すぐ機嫌直すやろ。せっかくやからムンカルに手伝わす。構

造覚えさすええ機会やし」

少し考え込んだジブリールは、「そういう事ならお願いするけれど…」と、しぶしぶながらも首を縦に振った。

「ああ、何ならアズライルとナキール連れてったらええ。三人一緒に何処か泊まって美味いモンでも…」

「いや、自分は良い」

ミカールの言葉を、打ち合わせ通りにナキールが遮った。

「寝袋を持って一人キャンプに勤しむとしよう。昼間出歩いた時に丁度良い河原を見つけたので、石を積んで過ごす」

打ち合わせには無かった、かなり酷い罰ゲームのような一晩を過ごしたいという主張を口にしたナキールに、ミカールはや

や焦りを感じたが、

「ノスタルジーに浸って過ごすのも、たまには良いかもしれないね」

と、ジブリールは特に疑問も差し挟まずに受け入れてしまう。

訝しむような顔をしたミカールに、ジブリールはナキールを目で示しながら言った。

「知らなかったかい?ナキールは冥牢に居た頃、河原で手頃な石を見繕ってはうずたかく積み上げるのが趣味だったそうだよ」

「…そか…」

呆れたような疲れたような顔で頷いたミカールは、しかしすぐさま気を取り直す。

(上手い事流れに巻き込めとる…。これはイケるで!)



一方その頃、飛行艇内の一室、鉄色の虎の私室では…。

「ここだここ!夜景バッチリ!料理は美味い!ここのダブルを予約したぜ!」

最終打ち合わせに臨んでいたムンカルが、得意顔で床に広げた雑誌を指し示していた。

他の部屋と同じ面積と空間を保有するムンカルの部屋は、床全面が暖かな木目に覆われたフローリングで、壁は乳白色、天

井はライトブラウンと、住人の人柄からすれば意外な程に落ち着いた内装となっていた。

家具は飾り気のないゴツい木製衣装箪笥と、壁に取り付けられたスチールの書類棚、そして、どっしりとした金属フレーム

に硬いベッドマットが乗せられた、これまたゴツいベッドのみ。

ただし、床には所々に鉄色のクッションやマットが置かれており、それなりに過ごし易そうにも見える。

殺風景というよりは、広々と快適に空間を使えるようにしてあるサッパリした部屋…、そんな印象があった。

無駄な私物を殆ど増やさず、必然的に片付いた状態が維持されているその私室は、ある意味ムンカルらしさが出た部屋とも

言える。

そのフローリングの床にあぐらをかいたムンカルは、相手の方に向けて雑誌を開いていた。

虎男と向かい合い、間に挟んだ雑誌を見つめているアズライルは、正座を崩した横座りの恰好で、心細さや不安を誤魔化す

為なのか、手近にあったクッションを胸に抱き締めている。

普段から座布団や枕に使われているクッションは相当ムンカル臭いのだが、もはやアズライルにはそんな事に構う余裕など

残っていない。

その目でじっと、指し示されている部分を凝視するのみである。

ムンカルが取ったと言うそこは、それなりに高級なホテルの、それなりに値の張る部屋である。

平日という事もあって都合良く空いていたそこを、ムンカルはアズライルに確認を取る前に押さえていた。

ムンカルの手際の良さに感心しつつ、アズライルは呟く。

「ここに…、ジブリールと二人で…」

「おう。上手くやれよ?夜景の方はまぁ、曇って来たせいであんまり期待できねぇが、料理が一級品なのは天候も関係ねぇ」

言葉を切ったムンカルは、ふと思い出したようにアズライルの顔を覗き込んだ。

「判ってると思うがレストランには行くなよ?ルームサービス頼んで、二人きりでのんびり飯を食うんだぞ?」

「何故だ?」

問われたムンカルは、苦笑いしながら顎をしゃくった。

「お前、今日はあんまり余裕ねぇだろ?他にも客が居るレストランなんかより、部屋で二人きりの方が、余計な事に神経回さ

ねぇで済む」

「なるほど…、確かにそうかもしれない…」

納得して頷いたアズライルは、クッションをギュッと抱き締めつつ、部屋の写真を凝視した。

「…良いかアズライル?…ああいや…、頑張れよ…」

また余計な事を言いかけたムンカルが、思い直して無難に励ますと、

「…ああ…」

アズライルは写真を凝視したまま、上の空で返事をした。



その、一時間半程後。

田園風景が広がる停艇地からかなり離れた都市の高級ホテル、その一階カウンターで、ダブルのスーツを纏うでっぷり肥え

た北極熊は、受付嬢の前で宿泊名簿に記名していた。

慣れた手つきでイワン・ガヴリリュクと記名した巨漢を前に、受付嬢は「なるほど、大きいと思ったらロシアの人なのか」

と、納得顔になった。

それは、記名が必要になる場合に彼が使う偽名である。

極めて大柄で極端な肥満体型である事は察しているが、しかし受付嬢はそこにばかり注意が向き、その他の印象が掴めない。

しかしその「印象がはっきりしない」という事についてすらも、周囲の人間達には深く考察する事ができず、彼の姿を正し

く認識できないようにされている。

巨漢の背後に影のように付き従う女性も同様で、印象がはっきりしない。

その曖昧な印象の二人を、ボーイは何の疑問も無く最高級の部屋へと案内した。



「へぇ…。これは凄い、立派な部屋だねぇ」

感心した様子で周囲を見回すジブリールの後ろで、後から部屋に踏み入ったアズライルは、

「……………」

シックなグレーのスーツに身を包み、ただひたすらに黙ったまま、ホテルのボーイから説明を受けているジブリールの背を

眺めていた。

黒豹はいつものように引き締まった表情をしているが…、

(ホテルの部屋に…、ジブリールと二人きり…。私は、私はもう…!いつ消滅しても構わないっ!)

実は感動のあまり卒倒寸前である。

着慣れていないせいで落ち着かない、丈がかなり短いスカートの感触に初めは戸惑っていたが、もはやそんな事を気にして

いる余裕すら無くなっていた。

ボーイが出てゆき、いよいよ二人きりになると、黒豹の緊張はさらに高まった。

よく似合う薄茶色の背広を纏ったジブリールは、しばし絨毯から調度まで一級品揃いの室内を観察していたが、やがて上着

を脱いでワイシャツ姿になると、窓際を指し示しながらアズライルを振り返る。

「景色も良さそうだよ。こっちにおいでアズ」

ぼんやりとしているアズライルは、まるで見えない手にでも導かれるようにフラフラと、窓際に向かって歩くジブリールの

横へ並ぶ。

一撃であった。「こっちへおいで」という、発した当人にとっては何でもない一言が、黒豹にとってはノックアウト寸前に

追い込まれるだけの、強烈な一撃となっていた。

「生憎と曇天だけれど、ご覧よアズ?街の灯がとても綺麗だ」

床から天井までに及ぶ、高さのある大きな窓ガラスの向こうを眺めながら、ジブリールは眼を細めた。

小さく頷き「ああ…」と、半ば夢見心地で返事をするアズライルの頭の中では、

(ホテルにジブリールと二人きりホテルにジブリールと二人きりホテルにジブリールと二人きりホテルにジブリールと二人き

りホテルにジブリールと二人きりホテルにジブリールと二人きりホテルにジブリールと二人きりホテ…)

まるで呪文のように、短い言語的思考が延々と繰り返されている。

非日常。

ムンカルが口にしていた武器になるはずのソレは、むしろアズライルに対して効果覿面であった。

その傍らに立つジブリールの目には密度の高い市街地の灯と、ある程度離れると減り、遠く離れればまばらになる田園地帯

の灯が映り込んでいる。

そこへ、大粒の雨がポツリ、ポツリと落ち始め、やがて全ての灯は雨に滲んでぼやけてしまった。

次第に勢いを強め、窓の外を地表に向かって駆け下ってゆく雨に視界を遮られながら、しかし遠くを望む瞳はそのままに、

ジブリールは口を開いた。

「間違っていなかったとつくづく思うよ。ご覧?こんなにも美しい…。かつてキミが…」

遥か昔のことに思いを馳せるような、遠い目をしながら声を発したジブリールは、しかしそこで言葉を切り、続く言葉を飲

み込んだ。

「私が…何だ?」

やや落ち着きを取り戻した黒豹に問われると、北極熊は空色の瞳に瞼を被せ、静かに首を左右に振った。

「かつてキミが守った、人間達の営みの灯は」

そう口にしようとしたジブリールだったが、そんな事を言ってもアズライルが困惑するだけだと考え直し、言葉を飲み込ん

でいる。

このアズライルは、もはや自分達が知るかつてのアズライルではない。

本人であると認識してはいるが、そのものではない事もまた理解している。

今のアズライルは今のアズライルであり、その他の何者でもない。

そう理解しているにも関わらず、つい彼女の知らない昔の事を話してしまいそうになる。

そんな自分に苦笑いし、ジブリールは傍らの同僚を見下ろした。

「早速だけれど、食事にしても良いかな?すっかりお腹が減っちゃった」

「あ、ああ…」

再びぼうっとした眼差しになりながら頷いたアズライルに、ジブリールが訊ねる。

「レストランに行く?それともルームサービスを頼むかい?」

「貴方の好みの方で…」

いつものようにジブリールの好きな方にしようと、判断を任せかけたアズライルは、ムンカルの忠告を思い出し、慌てて口

を開いた。

「い、いや!ルームサービスにしたい!」

やや上ずった焦り声で返事をした黒豹に、北極熊は相変わらず落ち着き払った様子で頷く。

「そうだね。せっかくの素敵な部屋だ、ここで満喫するのも良い」

コクコクと頷いたアズライルは、「私が…」とジブリールを制し、いそいそと備え付けの電話に向かう。

尻尾が、太くなっていた。



一方、飛行艇の食堂では、

「おおっ!今日はピザか!」

スライスサラミと刻んだピーマンが乗った物に、照り焼きチキンと辛子マヨネーズがトッピングされた物、エビと白身魚の

魚介物、三種のピザを前に、ムンカルは目を輝かせていた。

「いつもと使うとるチーズ違うんやで。判るか?」

「おう!匂いが違うな!」

溢れてくる唾液を飲み込みつつ舌なめずりした虎男の向かいに座ると、ミカールは「料理は愛情!中華は火力♪」という可

愛いピンクのポップ体印字とは裏腹に、勇ましい黄色と赤のファイアパターンが施された勝負エプロンを脱いだ。

目下、企みが上手く進んでいる事で上機嫌のミカールは、常の五割増ほど気合いを入れて料理の腕をふるっている。

「お前に食わすピザに使うたるの勿体ない程高級品なんやで?けど、今回は頑張ったさかいご褒美や。遠慮せんと、た〜んと

食え!」

機嫌良くニンマリするミカールの前で、ムンカルは「勿論遠慮無く!」と、満面の笑みを浮かべる。

そして、おもむろに腰の後ろに手をやると、背もたれと尻の間に挟み、尻尾で押さえていた品を取り出し、テーブルの上に

乗せた。

「何やこれ?」

「プレゼントだ」

書店の名が刷られた紙袋を手に取り、興味津々手早く封を開けたミカールは、

「お。料理集…和食のか」

しっかりした厚表紙のレシピ集を開き、少し嬉しそうに口元を綻ばせる。

「ちらっと見たが、大根や人参と鶏肉なんかが具材の煮物が美味そうだった。今度作ってくれよ」

「よっしゃ、任しときぃ」

レパートリーを増やせると喜んでいるミカールに、オーソドックスな品を要求したムンカルは、さっそくピザに取りかかろ

うとして、ふと何かに気付いたように片眉を上げる。

「…そう言えば…、少し前から姿見ねぇが、アイツはどうしたんだ?」

これにミカールは、感心と呆れが複雑に入り交じった顔で応じた。

「さっき出かけたで?夕飯夜食兼用にサンドイッチのバスケット持たしたった」

「何処にだ?」

「河原。…さっきのアレ…、方便やのうて本気やったわ…」



そしてその頃、飛行艇が浮かぶ川の上流では、

「……………」

黒色の雨合羽で完全武装したナキールが、降りしきる雨の中、一人黙々と、河原で石を積んで、それはそれは見事な高さの

石灯籠を作っていた。

左右にせわしなく尻尾を振りながら。