第三十三話 「アズライル奮闘記」(後編)
強めの雨が分厚い、しかし清潔で透明な大窓を叩く。
空調がきかされた快適な室内には、当然外の湿気は及ばず、音も通らない。
「感動したよ。あの坊やと犬の夫婦の、親子の情にも近い信頼関係にはグッと来たね」
大きな手と太い指で繊細なナイフ捌きを披露し、分厚い肉を切り分けつつ、ジブリールは口元を綻ばせた。
貸し出されている品はサイズが合わなかったので、自分で精製した濃紺のナイトガウンを巨躯に纏っている。
その向かい側、テーブルを挟んだ席に行儀良く…というよりもいささか緊張気味に身を固くしながらついているアズライル
は、何度も相槌を打つ。
こちらはホテルの貸し出し品に合う物があったので、借り物で済ませている。
ジブリールの方が精製の際に参考にしたので、サイズが大幅に違うという一点を除けば、デザインも色も全く同じとなって
いる。
そんなお揃いのガウンを着たアズライルは、
(ジブリールとペアルックジブリールとペアルックジブリールとペアルックジブリールとペアルックジブリールとペアル…)
一度考えてしまってからという物、脳内で同じフレーズがリフレインし続けている。
普段から同デザインのつなぎを身に付けているのだが、仕事着とはやはり違うらしい。
二人が宿泊する部屋には、運び込まれた豪勢な料理の香りが漂い、穏やかな時が流れてゆく。
ミカールなどの一部の例外を除き、ジブリールと共に過ごす者は、彼独特の空気に巻き込まれる。
その穏やかな言葉とのんびりとした振る舞いが、時間がゆっくり流れてゆくような錯覚に陥らせてしまう。
今夜のアズライルもまた、例外なくその穏やかな雰囲気に包まれていた。
「ラストの、羊達のあの静かな整列と行進は凄かった…。あのシーンでは鳥肌が立ってしまった」
アズライルは控え目な口調で、ジブリールの表情を窺いながら意見を口にする。
「うん。あそこも素晴らしかった。騒がしくて賑やかなシーンが多かったせいかな?あのシーンは鮮烈だったね」
北極熊が変わらぬ笑みを浮かべながら頷くと、黒豹は僅かに開けた口から小さく息を吐き出した。
お互いに同じシーンを素晴らしいと感じていた。
ほんの些細なその事で、一見クールに見えるアズライルは、やや過剰に感動している。
二人きりの夕食は、しかしアズライルが構えていたようなアクシデントに見舞われる事も無く、終始和やかに進んだ。
緊張のあまり何かしでかしてしまうかもしれない。
それでジブリールに幻滅されてしまうかもしれない。
それがきっかけで口をきいて貰えなくなるかもしれない。
ややネガティブな「かもしれない運転心得」を胸に、緊張しつつ慎重に振る舞っていたアズライルだったが、ホテルの部屋
という非日常空間にも慣れて来たのか、徐々に体の強張りは解けて来ている。
「あぁ…、食べた食べた…」
食事を終え、満足げに呟きながらテーブルを回り込んだジブリールは、コルクを抜いたばかりの二本目のワインボトルを傾
け、アズライルのグラスへ赤い液体を注ぐ。
「あ…有り難う…」
何処で身に付けた物なのか、それとも元々こうできているのか、ふくよか過ぎる見た目とは裏腹に、洗練されたスマートな
動作でワインを注ぐ北極熊の姿に、アズライルは夢見心地で見入る。
有り体に言えば極度の肥満で、一般的な美の基準から言えばお世辞にも格好良いとは言えず、むしろ不格好な北極熊。
にもかかわらず、自分はこの男に心底惚れ込んでいる…。
その事が、アズライル自身も不思議であった。
美意識がおかしいのかと自問すれば、しかしこれには明確な答えが出ない。
綺麗な物を綺麗と思い、恰好の良い物を格好良いと思う。
自分のそれらの基準が一般的な物とそう変わりないらしい事は、周囲との意見の一致から実感できている。
惚れた理由が、外見を基準にした物ではないのだろうと自分を納得させているが、しかし実際にはそう単純でもないらしい
事は、心の片隅で感じている。
事実、ジブリールと同じような大柄で肥満した体格の男には、親しみに近い感情を覚える事も多い。
他にもいくつかある心当たりから考えても、一般的な美意識基準を持ちながらもなお、ジブリールのような外見を好ましい
と感じているのは、否定しようもなかった。
アズライルは手にとって軽く揺らしていたグラスから視線を離し、ちらりと向かいを見遣る。
席に戻り、グラスを傾けながら雨に煙る夜景を見遣っているジブリールは、思慮にふけるように遠い目をしていた。
彼もまた今夜は少しだけ様子が違っているのだが、余裕の無いアズライルはそこに気付けない。
密かな想いを寄せ続けている愛しい男を眺めながら、黒豹はぼんやりと思い出す。
(初めて会ったあの時…、私は…、彼を見て奇妙な感覚を抱いた…。あれは…、安心感と…、それと…、懐かしさのような何
か…)
あれ以来、何年経ってもずっと変わらず、包み込むような優しさを感じさせながら、自分の傍に居続けてくれた存在。
ジブリールに向ける尊敬の念だと思っていたそれが、実は恋慕の情であった事に気付くのに、そう時間はかからなかった。
以来何年も恋煩いに胸を痛めて来たが、結局今日に至るまで気持ちを打ち明けられずに居る。
(だ、だが…。だが今日こそは…!)
気持ちを伝えよう。アズライルはそう決心している。
もしも告白がきっかけになり、気まずくなってしまったら?傍に居られなくなってしまったら?
現在の「同僚」という関係にもかなり満足してしまっているからこそ、アズライルが抱いている、告白に付きまとう恐怖は
大きい。
だが今回は、持ち前の責任感から来る、お膳立てしてくれた皆の気持ちに応えなくてはならないという想いが背中を押した。
「あ、あのっ…!じ、じじっ…」
アズライルが声を発すると、ジブリールは窓の外に向けていた視線を彼女へと動かす。
「うん?なんだい?」
その、思慮深く穏やかな空色の瞳に見つめられ、アズライルは胸を高鳴らせた。
「じ…、じじっ…!…ジブリン…」
これで勝てる。
そうミカールに太鼓判を押された、アズライル入魂のニックネームが、震える唇から零れた。
反応を窺うアズライルには、きょとんとしたジブリールが開けた僅かな間が、とんでもなく長い物に思えている。
「ああ…、良いね」
少し間をあけたジブリールは、目を糸のように細め、口元を緩め、何とも柔らかで優しい笑みを浮かべた。
後にアズライルが「ほにゃ〜っとした顔」と表現するその笑みを浮かべ、北極熊は何度も何度もしきりに頷く。
「うん。良い、とても良いね」
自分が考えた愛称をそんなに気に入ってくれたのか?
一般的には割とささいな、しかし当人にとっては強烈な幸福感のあまり卒倒しそうになったアズライルは、
「アズも知っているとは思わなかったよ」
というジブリールの言葉で、オーバーヒート寸前だった脳が「?」と、一旦停止する。
「何が好きだい?もうあらかた見たのかな?」
「…え?」
「あのスタジオの作品は、どれも素晴らしいよね」
アズライルが首を傾げている事には気付かず、ジブリールは楽しげに続けた。
「ビデオで見たけれど、宅急便は特に良かった」
ここに至り、アズライルは何となく察した。
良く判らないが、話は映画繋がりで進んでいる。
自分が考えた愛称は、どうやら映画のタイトルか監督か制作会社繋がりの名称と同じであったか近いかしており、ジブリー
ルはそちらの方へと話を進めてしまっているのだと。
「箒に跨って空を舞う異能の配達人…。あの娘はオレ達ともほんのちょっと似ているね」
「あ、ああ…。そうだな…」
そうではない。
そうではないのだ。
心の中でそう思いつつも、アズライルは楽しげなジブリールの話を遮る事ができず、無難に曖昧な相槌を繰り返す。
愛称で呼んでみよう計画、失敗。
一方その頃、飛行艇内の一室、ミカールの部屋では、
「この娘の立場って、配達人とちっと似てへんか?魔女とか人間らの中やと伝説上の存在やし」
ジブリールが話題に出していた劇場用長編アニメーションが、ビデオで鑑賞されていた。
「まぁ、あっちは人間達に見えてるけどな。言われてみりゃあ少し似てるかもな?」
応じたムンカルは、もさもさとした鬣に顎を埋めつつ頷いている。
フカフカしたオレンジ色の絨毯が敷かれた床に胡座をかいたムンカルは、縫いぐるみでも抱くようにしてミカールを抱き、
座椅子代わりにされていた。
傍らの袋からポテトチップスをつまみ出してはバリバリと咀嚼し、菓子の油に塗れた指を行儀悪く舐めつつ、テレビ画面に
釘付けになっているミカール。
その真後ろから、両腕をころりと太い獅子の胴に回して抱いているムンカルは、ミカールが予想以上にアニメを気に入って
いるらしい事に気を良くし、縞々の尻尾で柔らかな絨毯をパフパフと叩いている。
その尻尾が、ミカールが体を硬くした事に気付いてピタリと止まった。
どうかしたのかと声をかけそうになったムンカルは、画面を見て「あぁ…」と納得する。
とある事情により配達物である鳥かごの中に縫いぐるみのふりをして潜んだ黒猫が、大きな犬に接近されて大量の脂汗を流
している。
その黒猫の窮地を、童顔の獅子は菓子を口元に運んだ指先を、しゃぶるようにして口に咥えたまま動きを止め、やや身を乗
り出し、食い入るように凝視していた。
(…馬鹿にされんじゃねぇかと思ってたから、これまで見せた事なかったんだが…。何だ、こういうのにも夢中になるんじゃ
ねぇか)
子供のように画面に見入っているミカールを抱いたまま、ムンカルはほくそ笑む。
わがままで態度も大きく短気で柄も悪いが、こうしている分には見た目も手伝って少年のよう。
そんな風に考えると、ムンカルはどうにも可笑しくなってしまったのである。
ややあって場面も変わると、身を乗り出していたミカールがほっと息を吐き、ムンカルの分厚い胸に背を預けた。
高さはともかく幅と厚みのおかげで相当重みがあるミカールだが、筋肉の塊のような屈強な虎男は、体重をかけられた所で
揺るぎもしない。
「面白ぇか?」
「アニメやゆうとったから、最初は正直舐めてかかっとった。…けど甘く見て悪かったわ。こらおもろい…」
神妙とも言える真面目な口調で応じたミカールに、ムンカルは「そうだろそうだろ」と、満足げに頷く。
「実はな、ナキールのヤツ他にも色々持ってんだぜ?また拝借して来るか」
「何でアニメのビデオとか所有しとんねや?よりによってアイツが…」
首を捻り、心底意外そうに訊ねた獅子に、虎男は微妙な表情を見せた。
「アイツ…、何でもかんでも眺めてんの好きだからな…」
その頃、川岸に陣取っている噂の狼は、
「……………」
尻尾をせわしなく振りながら、風雨で五度目の倒壊に見舞われた石積みを、めげるどころか嬉々として積み直していた。
バスルームから出てきた北極熊が、湯上がりでほかほかした巨体を揺すりながら窓際へやって来ると、アズライルは高鳴る
胸にそっと手をあてつつ、愛しの同僚の姿を盗み見る。
窓の外を眺めているふりをしながら横目で窺うと、椅子につかずに立ったままのジブリールもまた、夜景を眺めているらし
かった。
真横から見ると、たっぷりしたガウン越しにも、大きく出ている腹がユーモラスなラインを描いているのが良く判る。
その柔らかな腹部や、首周りのフサフサした被毛や、太い腕や分厚い胸に指を這わせる事を夢想し、黒豹は耳から湯気を出
し始めた。
同僚として過ごすようになって何年も経っているにもかかわらず、実はこれまで、バイクに二人乗りをする時を除けば、体
を触れ合わせた事はあまり無い。
エスコートされる際に手を握っただけで卒倒しそうになる自分が、念願の首周りフサフサやお腹ポフポフをした時、果たし
てショック消滅せずに済むのだろうか?
アズライルはそんな心配をしている。
(いや…!もしもジブリールにお触りできたならば…、消滅したとしても悔いなど無いではないか…!)
そう、胸中で自分を叱咤するアズライルだが、問題はお触り以前に告白できるかどうかである。
食事は済んだ。
二人とも湯浴みも終えた。
映画の話しもたっぷりした。
もはやテレビを眺めるか寝るか語らうかしか無いのだが、そろそろ話題も無くなって来たアズライルには、時間稼ぎの手段
はほぼ残されていない。
ムードは良い。と思われる。
いつもとあまり変わらないが、悪くは無いと感じている。
告白するなら、悪くない雰囲気にはなっているはずだと、アズライルは自分を説得する。
何よりも、このまま決断を先送りにしていては、踏ん切りが付かないままずるずると流されてゆくばかりである。
「あ、あの…、ジブリール?」
「うん?」
何かを考え込むように眼を細め、神妙な顔をしていたジブリールは、アズライルに向き直ると、少し首を傾げてみせつつ椅
子を引き、腰を下ろした。
面と向き合う恰好になると、アズライルの緊張はさらに高まる。
黒豹は生唾を飲み込み、一度息を止め、「す、…す、すす…!」と、しばし歯の間からか細い音を漏らした後、
「す、好きです…!貴方が…!」
全身全霊を振り絞ってもなお頼り無く掠れてしまった声で、これまでは様々な理由をつけて飲み込んで来た言葉を告げた。
どっと汗が噴き出し、ジブリールが見せる反応に対する強い恐怖と淡い期待を胸に、アズライルは硬直する。
そんな黒豹の前で、一瞬きょとんとしたジブリールは、すぐさま破顔して「あはははっ」と快活に笑った。
楽しげな、そして嬉しそうなその笑声と笑顔を見たアズライルは、痛いほどに鼓動が強まった胸に、そっと右手を当てる。
「オレもアズが好きだよ」
そう言って、にこやかに微笑むジブリールの顔を目にし、黒豹はガクンと首を折り、俯いた。
「あれ?アズ?」
項垂れたまま急に動かなくなった黒豹の前で、北極熊は首を傾げた。
(好きと…。ジブリールが私の事を好きと…。好きと言ってくれれれれれれれれれれ…)
何とか頑張って来たアズライルだったが、ここでついにフリーズする。
実際には眠ったのではなく、俯いたままフリーズしたのだが、ジブリールはそれに気付かない。
それどころか、「疲れていたのかもしれないからそっとしておこう」などと考え、アズライルに気を遣って静かにチビチビ
とワインを飲み始めた。
だがやがて、アズライルがなかなか起きない(復旧しない)と見ると、ついに腰を上げる。
「そんな恰好で熟睡しちゃったら、体が痛くなっちゃうよ?アズ…」
静かに、優しい声音でそう囁いたジブリールは、その丸太のように太く逞しい、しかしたっぷりと脂肪がついて柔らかな両
腕でヒョイッと黒豹を抱き上げ、ベッドルームへ向かった。
「あ、ダブルベッドだったんだ…」
「良ぇ映画やった…。予想以上や…」
スタッフロールを眺めながら「ほふぅ…」と嘆息したミカールに、鉄色の虎は「だろ?」と頷く。
菓子の袋に手を突っ込み、ポテトチップを一枚引っ張り出したミカールは、それを自分の頭の上へと持って行った。
鼻先に差し出されたそれをパクリと咥えたムンカルは、良作を一本見終えて満足げな獅子の頭を、頷くように下げた顎で軽
く叩く。
「アズライル、上手くやってると良いんだがな…」
「きっと大丈夫や。アイツはやれば出来る子やさかい」
やってみたけど駄目だった事は当然知らないまま、ミカールは成功を信じて力強く頷いた。
「…んじゃ…、あっちもヨロシクやってる事と信じてだな…」
ムンカルのボソボソとした呟きが途切れると、
「あにょふっ!?」
次の瞬間、ミカールは妙な声を上げ、ビクンと体を突っ張らせた。
「こっちはこっちで、夜のお楽しみと行こうぜぇ…?」
甘噛みされて唾液に濡れた耳に、至近距離からの吐息を交えて囁きかけられ、ブルッと身震いしたミカールは、
「あっ!ちょ…、ま、待ちぃムンカルっ!はにゃっ!」
すぐさまタンクトップをめくり上げて入り込んで来た手で、胸にタップリと乗った柔らかな脂肪をむんずと掴まれ、再び妙
な声を漏らす。
たぷついた胸をゴツイ手で揉みしだかれながら、抵抗するようにその上へ自分の手を重ねるものの、押さえ付けられる程の
力は、しかし籠もってはいない。
「は…、はんっ…!あんん…」
やや乱暴に胸をマッサージされ、息を弾ませるミカールの鬣に口を埋めたムンカルは、耳の後ろに舌を這わせ、ゾロリと舐
め上げてニンマリ顔を緩ませた。
「や、やめぇ…!やめぇて…!ムンカルぅ…!」
「とか何とか言ってよぉ、本当は止めて欲しくねぇんだろミック?なぁ?」
少しとぼけた意地の悪い口調で囁きつつ、ムンカルの片手が下へ動き、獅子の出っ腹にぴっちりとくっついているハーフパ
ンツのゴムを上げる。
「んにゃ!?ちょっ!?何処触っとんねんお前っ!」
股間に滑り込んで来たゴツイ手に抵抗し、両脚をきつく締めてジタバタするミカールだが、いかんせん体格と基礎膂力の差
で抗いきれない。
「いいだろぉ?な、お願いだミカール…」
甘噛みされ、舌を這わされ、唾液で濡らされた耳へと囁かれる、懇願と誘いと甘えの混じったムンカルの言葉。
耳元をくすぐるその声で、ミカールはやや大人しくなる。
首を捻って振り仰いだ獅子は、常には見せない恥じらいの浮かんだ表情と、熱っぽく潤んだ瞳を虎男へ向けた。
「こ、ここで…?」
「おう」
「今からか…?」
「当然」
二度即答したムンカルからふっと目を逸らし、ミカールはモジモジと体を揺する。
「…ダメや…。風呂…まだ入ってへんから…、先に…」
「後にしろ後に」
股間に潜り込ませようとしていた手を上げたムンカルは、筋肉が盛り上がる逞しい両腕を、ミカールの丸っこい胴へしっか
りと回す。
そして、決して他者の前では見せない愛くるしい仕草を、自分と二人きりのこんな時にだけ見せるパートナーを、さも愛お
しそうに抱きすくめた。
きゅっと軽く締め付ける、しかし苦しくない程度の力加減で抱擁されたミカールは、恥ずかしげに身じろぎしつつ、自分の
背とムンカルの腹の間で挟まれている尻尾をモジモジとくねらせた。
「…風呂入らへんと…、汗かいとるから…、臭うで…?」
「そこが良い」
目を伏せたままモゴモゴと呟く童顔の獅子。
その額に、ニンマリ笑った鉄色の虎が口を寄せる。
チュッと、小さな、湿った音が響くと同時に、再生を終えたビデオデッキが巻き戻しに入った。
「…で…「気付いたら朝だった」と…、そういう事か?」
ムンカルが難しい顔で確認すると、アズライルは俯き加減のまま小さく頷いた。
ミカールとムンカルは、いわく言い難い微妙な顰め面で視線を交わすと、揃って気まずそうにガリガリと頭を掻く。
(上手く行く確率は、結構高かったはずなんだけどなぁ…)
(結局こっちだけ楽しんどったんか…。なんや申し訳無いわ…)
翌朝、二人が帰還するなりジブリールを風呂に追いやり、アズライルを捕まえ、早速結果報告を求めた二人だったが、結果
を聞いて愕然とした。
アズライルの説明によれば、告白の直後から記憶が飛んでおり、気が付けば朝になっていたのだと言う。
正気に返ってみれば自分一人がダブルベッドに横たわっており、一方でジブリールは朝まで窓際で景色を眺めていたのだと。
「わ、私は…!私はもうっ!消滅しても構わななななななななっ…」
自分的には一晩二人きり、同室で過ごしたと認識しているアズライルは、思い返して耳から煙を漏らしつつフリーズする。
(旦那のスルースキルの高さと鈍さも反則モンだが…、アズライル本人もこの程度で結構満足できちまうから、これだけあれ
これやっても、さっぱり進展しねぇんだろうなぁ…)
鉄色のサマーセーターの襟元に腕を突っ込み、気怠げにボリボリと胸を掻くムンカルは、すっかり呆れかえっていた。
「ジブリールがゆうた「好き」…。ラブやのうてライクやったんとちゃうか?」
「間違い無くそうだろうよ…」
作戦失敗を悟った二人は、揃って苦々しい表情を浮かべる。
「けどまぁ、何だかんだ言っても外泊前例は作った。今後はわざわざ口実用意しなくても、割と気軽にどっか泊まって来いっ
て言えるからな。一歩前進だ」
気を取り直したようにムンカルが言うと、ミカールは「おぅ?」と目と口を丸くする。
「一発で上手く行かねぇ事だって当然考えたさ。今回の作戦は、例え失敗したって後に繋げられるって踏んでたんだよ。旦那
とアズライルを一緒に外泊させた時点で50点は行った」
「ムンカル…、お前ホンマにこういう事に「だけ」は頭が回るんやなぁ…」
「がははははっ!まあなっ!ま、アズライルもそこそこ満足したらしいし、豚の話もたっぷり出来たらしい。今回はこれで良
いさ」
褒められたと思って機嫌良く笑うムンカルの横で、童顔の獅子はふと気になって首を捻る。
(そらそうと…、アズライル、ちゃんとジブリンて呼べたんやろか?)
呼べたけど駄目でした。
「ところで、さっき帰って来たみてぇだが、ナキールは一晩何やってたんだ?」
虎男が思い出したように訊ねると、童顔の獅子は思い出したように呆れ顔になり、軽く肩を竦める。
「雨ニモ負ケズ風ニモ負ケズ立派ナ石灯籠ヲ作リイツモ無表情デボーットシトル…」
「そういうモンに、あんましなりてぇとも思わねぇな…」
「同感や…」
「ブシュンッ!」
狼男が盛大にくしゃみをすると、その背を流していた北極熊が首を傾げる。
「雨で体を冷やしたのかい?」
「どうだろうか?体が冷えている自覚は無いが」
ジブリールはシャワーの温度を少し上げ、
「湯船に長めに浸かって、しっかり温まると良いね」
そう、丁寧にナキールの背中を流してやりながら、気遣いの言葉をかける。
(アズライルも男性型だったなら、苦労せずコンタクトが取れたのだろうか?)
そんな事を考えながら、ナキールは壁の鏡に映るジブリールに訊ねた。
「昨晩は、楽しく過ごせたのかね?」
「うん…。のんびり、楽しく過ごせたよ」
鏡越しに眺める、昨夜の事を思い出しながら浮かべたジブリールの穏やかな微笑が、何とも幸せそうな物に見えて、
「それは何よりだった」
ナキールは口の端に、微かな笑みを乗せながら呟いた。