第三十四話 「敵対者の極めて平凡な日常」(前編)
雪化粧した山脈を越えるレールを軋ませ、長距離列車は山間の町へと滑り込んだ。
町の中心にある駅の構内、ホームに面した軽食店に居ながら、その力強い足音を耳にした巨漢は、視線を皿に向けたまま耳
を小さく震わせた。
「来たようだね」
低く、しかしよく通る落ち着いた声を発した巨漢の顔は、人間の物ではない。
前へ大きく突き出たマズルに、人間よりも頭頂に寄った耳を備える、北極熊の顔である。
とんでもなく大きな男であった。
2メートルを軽く越える身の丈に加えて極度の肥満である為、大き過ぎる尻がはみ出している椅子に座ったその状況でも、
傍に立てば小山のような巨躯に遮られて向こう側が全く見えない。
オレンジジュースが入っているらしいプラスチックの大ジョッキをスッポリと覆ってしまう程大きく、そして分厚い手は、
まるでキャッチャーミットのようですらある。
その巨体は、山を染める雪よりもやや暖かみのある、パールホワイトの長い被毛に覆われている。
薄赤い瞳には瞼が半分かかっており、表情を浮かべていないその顔は、思慮に暮れているようにも、気怠そうにも見えた。
身に纏うのは、体色に映える赤いロングコート。
ブーツとズボンは黒く、コートの下に着ているセーターも黒い。
ポトフの入っていたスープ皿を両手で持ち上げ、残っていた細かな具ごとゾゾゾ〜ッと音を立てて啜り込んだ巨漢は、次い
でジョッキを取り上げてオレンジジュースをガブッと一気に胃へ流し込む。
そして、空になったジョッキを分厚い樫の丸テーブルへ置くと、向かい側に座っている同行者へと、その薄赤い瞳を向けた。
巨漢の向かい側に座っているのは、対照的に小さく、細く、少し押せば壊れてしまいそうな儚さを漂わせる、華奢な少女で
あった。
巨漢と同じく黒を基調とした衣類の上に、同デザインの赤いレザーコートを纏った少女は、真っ白な猫の顔をしていた。
こちらも表情が無いが、物憂げにも見える北極熊の無表情とは違い、感情や思考すら持たない人形のような無機質さがある。
「もう食べないのかい?アズ」
北極熊が訊ねても、人形のような白猫は口を開かず、ただじっと、手元の食器を見つめている。
小さく華奢な少女には一人前は多過ぎるらしく、食事は三割程度しか減っていなかった。
「食べたくないならジュースだけ飲んでも良いよ。ボクが片付けるから」
少女は相変わらず返事をしなかったが、それもいつもの事なので、無言を承諾と捉えた北極熊は、ジュースだけを白猫の前
に残して他の皿を自分の方へ引き寄せる。
小魚を丸々フライにしたオニオンソース掛けをフォークで刺し、口元に運びながら、北極熊はホームへ視線を向けた。
鉄のいななきを上げて滑り込んで来た列車を薄赤い瞳に映し、アル・シャイターンことイブリースは、パクッとフライを口
に咥える。
「もう二十三年も前になるね。以前この路線を利用した時の事、覚えているかい?」
二、三回噛んだだけでフライを飲み下したイブリースの語りかけに、しかし白猫は応じない。
オレンジジュースが入ったジョッキを華奢な両手で両側から挟み、色鮮やかで安価な飲料が揺れている様子を、ただただ無
言で眺めていた。
「あの時利用した列車はずいぶん老朽化していて、こんなに立派じゃあなかったね。それが今では…、ご覧?比較的新しい車
種だし、汚れも少なくてピカピカだよ」
白猫は全く返事をしないが、これはいつもの事なので、イブリースはいつものように一人で喋り続ける。
「もっとも、それは駅そのものにも、この町にも言える事だけれどね」
話している内容とは裏腹に、北極熊の顔には昔を振り返り懐かしむような色は浮かんでいない。
以前訪れた時と比べての変化を、淡々と、確認するように口にしているだけである。
全く返事をしない白猫が、ジョッキを持ち上げてジュースをチビリと啜ると、北極熊は話すことを止め、追加分の食事に取
りかかった。
点検と補給の為にホームに身を横たえ、一時の微睡みに入った長距離列車を、視界の隅に捉えながら。
その頃、全ての客車が宿泊用の部屋となっている列車の中、先頭から五両目のコンパートメントの一室では、中年の男がベッ
ドの上に腰を下ろし、小さなジュラルミンケースを抱えて震えていた。
取り立てて目立つところのない、中肉中背の外見から着た物まで平凡な男だが、今は顔面が蒼白で、病人のようにも見える
顔色が特徴となっている。
車窓にはブラインドが下ろされ、ドアは施錠されている。
5平方メートル程の面積しかないその部屋の大半は、壁に立てる形で収納する事もできるベッドで占められていた。
長時間車内に居るにも関わらず、震えている男は外の空気を吸いたいとも思わなかった。
今、このケースから離れる訳には行かない。
今、このケースを不用意に他人の目にさらせない。
強迫観念に近い思考により、男は荷物から離れられず、列車どころか個室から出ることすらできず、この場に縛り付けられ
ている。
その行動も、しかし無理のない事であった。
彼が今抱えているそれは、娘の命も同然だったのである。
のんびりと…とは言い難い、大口を開けて胃に流し込むような勢いで食事を済ませた北極熊は、突き出た腹をポンポンと軽
く平手で叩き、いささか行儀悪く「ケフッ…」と小さくゲップを漏らす。
向きあって座る白猫は、その様子に反応してか、飲みかけのジュースをテーブルに戻しながら視線を上げた。
「うん?なんだい?」
些細な…とはいえ、白猫がこの場で初めて見せた反応らしい反応に、イブリースは興味を示した。
その視線がじっと、自分の顔よりも低い位置、テーブルの縁がめり込んでいる太鼓腹に注がれている事を確認すると、
「ああ…、今の音かい?」
再び腹を軽く叩き、先と同じ音を立ててみせた。
それで納得したのか、白猫は保護者から視線を外して再びジョッキに目を向けた。
しかし、いつまでも口を付ける様子を見せない。
「もうたくさんなら、ボクが飲むよ」
イブリースが声をかけても、やはり言葉に出しての反応は無かったが、白猫はジョッキから手を離す。
そのジョッキを伸ばした手で引き寄せ、半分程しか減っていないオレンジジュースを一気にあおると、
「さて、そろそろ行こうかアズ。乗った後でものんびりできるからね」
そう言いながらトレイと皿類を纏めたイブリースは、のっそりと立ち上がってカウンター脇の返却口にそれらを返して来る
と、座ったまま待っていた白猫の脇に立つ。
差し伸べられた大きな手に視線を向け、手を乗せた少女は、保護者のエスコートを受けて椅子から立ち上がった。
混み合う食堂を連れ立って歩き抜ける白い巨漢と白い少女に、しかし周囲の人間達は一切視線を注がない。
これだけ目立つにもかかわらず、視界に入っているにもかかわらず、全く注意が向けられない。
それは、彼らが持つ、人間に知覚される度合いを自在に変化させる力、被認迷彩の効果である。
これを使えばあれこれと悪事に活用できそうなものだが、堕人筆頭たるアル・シャイターンですら、きちんと代金を支払っ
て食事をする。
この場においても例外ではなく、注文に次いできちんと前払いの会計を済ませていた。
この辺りは、下手な人間よりよほど道徳的と言える。
そして、今から乗る列車のチケットも当然所持しており、正規の手続きを踏んでの乗車となる。
「四両目だったね。目標の隣の車両だ」
口に出して確認するイブリースに手を引かれてトコトコと歩みつつ、それまでろくに反応も見せなかった白猫は、問い掛け
ですらないその言葉に頷いていた。
休憩を終えた列車が走り出すと、震えていた男は幾分緊張を和らげ、ケースを締め付けていた腕の力を抜いた。
停車中は、駅に居る見知らぬ大勢の中の誰かが、あるいは全員がケースを狙い、奪いに来るのではないかと疑心暗鬼に囚わ
れていたのだが、走り出してしまえば、それが馬鹿げた妄想だったと一笑できる。
ケースの中身を知っている者は、これから行く先の町にしか居ない。
ケースが何なのかを知っていて奪いに来る者など居ない。
男はケースを抱く腕に一度だけ力を込め、囁いた。
「必ず助けるから…、パパが助けるから…、だからララ、無事でいておくれ…」
「はい、イワン・ガブリリュクさんですね?」
高級客室の乗車券を確認し、名簿と突き合わせて記された名を読み上げた車掌に、イブリースは頷いた。
「結構です。快適な旅となるよう努力致しますので、何かございましたら気軽に声をおかけ下さい」
「ありがとう」
慇懃な礼を残して車掌が去ると、備え付けのソファーに腰を沈めたイブリースは室内を見回す。
「ここまで高級でなくとも良かったのに」
通路となる部分を除き、ほぼ一両丸々が客室となっている豪華な部屋に薄赤い視線を走らせた北極熊は、隣にチョコンと座っ
ている白猫を見下ろした。
「どうだい?彼らは気を利かせて用意してくれたようだけれど…」
白猫は感情の無い視線を宙へ向けたまま、やはり返事をしない。
イブリースを旗印と仰ぐ堕人達が気を遣って用意した豪華な部屋も、心の壊れた少女に感銘を与える事はできなかった。
かつて、人の姿に生まれてしまった若虎と出会った一件で、例外的にいくらかの反応と自立行動を見せた以外は、人形的で
機械的な少女は、必要な、そして断片的な言葉を極々稀に口にするだけである。
イブリースの方は無反応に慣れ切ってしまっているので、少女の返事が無い事で気を悪くする事もない。
永い永い年月が、彼から過度に期待する事を奪った。
期待しなければ失望もしないという事実を、彼は意図せずに体現してしまっている。
少女が人形のように動かない事を確認すると、イブリースは首を捻って窓の外を見遣った。
走行中の列車の窓からは、山々が連なる景色にかぶり、舞い降りる雪が見えた。
力強く走る列車に吹き散らされ、置き去りにされ、横へ流れてゆく雪を眺めながら、イブリースは呟く。
「仕方ないとはいっても…、今日も雪か…」
気怠そうに細められたその目には、ほんの微かに、昔を懐かしむような光が揺れていた。
だが、それもほんの短い間の事で、すぐさま感情の光を目から消すと、イブリースは再び少女を見下ろし、囁きかけた。
「さて…、早速用事を済ませて、到着までのんびり過ごそうか」
列車が走り出してしばらく経ち、いくらかリラックスできた男は、鞄に押し込んでおいた缶コーヒーを取り出した。
極力外に出たくないので、食事もパンやミルクを数食分纏めて買って、部屋に持ち帰って食べるようにしている。
缶コーヒーと共に財布を掴み出した男は、中に収めていた六つになったばかりの娘の写真を取り出す。
美人だった、若くして亡くした妻に良く似た、良い意味で人形のように可愛い、幼い我が子。
最大の宝物である愛娘の写真を見つめる男の目に、涙が滲んだ。
ヘルマン・キャンドラーは、税理士である。
ありふれた中流家庭に生まれ、平凡な学生時代を送り、人並みの苦悩と人並みの幸せ、人並みの挫折と人並みの恋を経験し、
少ない取り柄の一つを活かす道を選んで、社会の一員となった。
社会に出ても人並みの努力と人並みの苦労を味わい、ありふれた、しかしある意味恵まれた人生を歩んで来た。
他者に威張れる事などないと自負する彼であったが、自慢できる事が全く無い訳でもない。
彼の自慢は、美人で気だての良い妻と、幼いながらも利発な娘であった。
職場で出会い、自然に惹かれ合って結婚した妻は、二年前に事故で他界してしまった。
哀しみに暮れるヘルマンを救ってくれたのは、明るく気丈に振る舞う娘の存在である。
天国から母が見守っていると信じて、寂しいはずなのに元気に振る舞おうとする娘が、彼を支えてくれた。
そして、妻を亡くしてから二年、父子家庭ながらも順調に日々を乗り越えて来たヘルマンは、仕事で税務や帳簿の整理に入っ
たとある会社で、触れるべきではない帳簿に触れてしまった。
以前立ち入った倒産寸前の会社でも、帳簿に似たような支出科目と、相手先名の記載があった。
そこから浮かび上がる黒い関係を見過ごせない程度の、人並みの正義感を持ち合わせていたヘルマンは、その会社を揺すっ
ていた一味の存在を突き止め、摘発しようと考えた。
しかしそれが、彼の懐に危険を呼び込んだ。
正義感を発揮した代償に、ヘルマンは娘を人質にとられてしまったのである。
一味はヘルマンの、事実を公表しないという誓約書と、かき集めた証拠資料と引き替えに、娘を返すと連絡を寄越した。
悔しかったが是非もない。宝物である愛娘の命には替えられない。
ヘルマンは敗北を認め、指定された遠く離れた取引場所へと、相手によってあてがわれたケースに証拠書類を詰め込み、急
いでいた。
彼が今乗り込んでいるこの列車もまた、連中から指定された移動手段であった。
「…ララ…」
震える声で娘の名を漏らした、その次の瞬間、
「可愛い子だね。それに可愛い名前。とてもステキだ」
低い、穏やかなその声は、突如部屋に響いた。
自分以外に誰も居ないはずの部屋で耳にした他者の声に、ヘルマンは一瞬困惑して固まり、次いで弾かれたように首を巡ら
せた。
視線が最初に向かったドアの前には誰も居なかったが、その視界の隅、壁際に、恐ろしく大きな何かが立っていた。
熊。白い。赤い。大きい。
言葉にならない断片的なイメージが、混乱しかけているヘルマンの頭の中を駆け巡る。
自分を見つめる、薄赤い瞳の白い熊。
その獣面人身という異形の存在を前に、ヘルマンは蛇に睨まれたカエルのように動けなくなっていた。
北極熊の傍らには、白猫の顔をした小さな少女が寄り添っているのだが、そちらには注意を向ける余裕がない。
ヘルマンは本能的に察していた。
この白い巨漢が、自分を殺しに来たのだという事を。
しばしヘルマンを見つめていた北極熊は、「ふむ…」と小さく顎を引く。
「なかなか込み入った状況にあるようだね。キミも娘さんも」
カタカタと震えるヘルマンに向かって、イブリースは足を踏み出した。
「けれど、それはボクらに関係の無い事だ」
因果の糸を読み取りヘルマンが置かれている状況を理解したものの、結局のところ、イブリースのするべき事は変わらない。
「キミの魂に宿る欠片を、返して貰うよ?」
目前まで歩み寄った巨漢を見上げながら、ヘルマンは絶望の表情を浮かべた。
理屈ではなく、本能で判ってしまう。
自分がどう足掻いた所で逃れる事のできない、確実な終焉が目の前に立っているという事が。
ゆっくり上がったイブリースの手が、立ち尽くすヘルマンの胸元に伸びる。
その太い指がワイシャツに触れる寸前、
「ちがう」
出し抜けに、幼い声が上がった。
イブリースは手を止めたまま、声の主を振り返る事もなく口を開く。
「うん。どうやらそうらしいね」
何かを見定めているように、しばしじっとヘルマンの胸元を見つめていた北極熊は、やおら手を下ろして首を巡らせた。
「アズの言うとおり、彼は所持者ではないようだ。けれど、欠片の気配は間違いなく、彼一人しか居ないこの部屋にある。こ
れは一体どういう事だろうね?」
先程と同じく壁際に立ったままの白猫は、その問いかけにも口を開こうとはしない。
しかし、常ならば茫洋としているその視線は、イブリースでもヘルマンでもない、ある物にしっかりと据えられていた。
その視線を追い、イブリースの目がベッドの上に乗ったジュラルミンケースに向けられる。
ヘルマンの娘を誘拐した一味が、メッセージと共に彼に預けた書類入れは、ダイヤルとキーによって二重ロックできる、発
信器付きの物であった。
そのケースに視線を固定しながら、イブリースはスンスンと鼻を鳴らす。
「…あれかい?アズ」
「あれ」
イブリースの問いに、白猫は視線を固定したまま、口だけを動かして応じる。
「ふむ…」
イブリースは何かを考えるように小さく首を傾げ、右手を上げて顎下に曲げた人差し指を当てる。
黙考するイブリースの前で、脂汗を流しながら硬直していたヘルマンの体が、ビクンッと、強く、大きく痙攣した。
その胸には、おもむろに上げられたイブリースの左手が突き刺さっていた。
突き刺さっているとはいっても、血は流れず、衣類も損傷していない。
北極熊の大きな手は、まるで実体のない幻影であるかのように、物理的な損傷を全く負わせずにヘルマンの胸へと潜り込ん
でいる。
目をいっぱいに見開き、口を大きく開けたままビクン、ビクンと痙攣しているヘルマンの胸元で、中にある何かを探ってい
るように、イブリースの手がこねるような動きを見せていた。
「…ふむ…。なるほどね…」
ややあって、何かに納得したように呟いた北極熊は、ヘルマンの胸からスッと手を引き抜いた。
傷一つ残さず、着衣に乱れすら無く解放されたヘルマンは、目を大きく見開き口をポカンと開けた驚愕の表情のまま、その
場でへたっと座り込んだ。
魂へ直に接触された衝撃で、意識が飛んでいる。
壊さぬように注意を払い、指先で軽く触れたに過ぎないイブリースのダイレクトリンクは、しかし受けたヘルマンには凄ま
じい負担をかけた。
魂のキャパシティが違い過ぎるせいで、大型貨物船に脇を通り抜けられた木の葉の如く、立てられた波に激しく揺さぶられ
てしまうのである。
「どうやら、欠片の所持者は彼自身ではなく、その関係者という事らしいね」
振り向いたイブリースは、白猫に語りかける。
彼が求めている「欠片」と称されるモノは、人間の魂に宿る。
それを集めて世界中をさすらうイブリースは、時折少女が発する断片的な情報で行き先を決め、探し歩いている。
ただし、その白猫の情報は、いつ、どのようなタイミングで、どれだけの量が発せられるのか、まるで判らない。
今回などは、四川の食堂で辛いラーメンを食べていた最中、唐突に鉄道路線の名と列車名、そして車両と日時をすらすらと
述べられ、イブリースはラーメンをゾルゾル啜りながらそれらを暗記させられる羽目になった。
先日得たその情報が、直接欠片の所持者を示したのではなく、所持者に繋がる者と接触できる場所と時間を示していたのだ
と悟ったイブリースは、
「彼について行けば所持者に会える…という事だね。旅は道連れとも言うし、仲良くしておこう」
つい今し方、欠片を得るために魂を砕こうとしていた事を忘れたように、ヘルマンをひょいっと抱き上げ、丁寧にベッドに
寝かせた。
ふと気が付くと、ヘルマンは食堂車で食事を摂っていた。
「…それでまぁ、旅慣れているとは言っても、名物や名所という物には殆ど縁がなくて…」
向かいに座ったとんでもなく大きくてとんでもなく太った男の言葉に耳を傾けるヘルマンの手は、ハンバーグを切っていた
ナイフを途中で止めていた。
(…ん?私は一体…?)
食事している。それは間違いないのだが、そこに至るまでの自分の行動が一瞬思い出せなかった。
「どうかしたのかな?」
向かいに座った男に親しげな口調で訊ねられ、ヘルマンは「ああ、いや…」と曖昧な笑みを浮かべた。
やや遅れて記憶が繋がり、覚えていた微かな違和感は、日だまりに堕ちた一片の雪の如く、あっという間に溶けて消える。
自分は通路で出くわして知り合った、イワンと名乗ったこの巨漢と意気投合し、食事を共にする事になったのだ。
そして今は、よく旅をするのかという自分の質問に、巨漢が詳しい答えを返してくれていた所だ。
…そう、イブリースによって植え付けられた偽りの記憶が、実際に生じていた意識の空白にもっともらしい橋をかけていた。
巨漢の横には、チマチマと食事をしている寡黙な少女。
一瞬考えた後、ヘルマンは「思い出した」。
妹なのか娘なのか、娘にしてはあまりにも似ていないと考えた自分に、そのまさかの答えを返して寄越した巨漢は、驚きを
隠せなかった顔を見ながら「よく驚かれるんだ」と呟き、少し照れているような苦笑いを浮かべて見せたのだった、と。
しかしそれは、実際には無かったやりとりである。
娘を想うヘルマンの感情が反映され、自動的に情報が補われているに過ぎない。
ダミーの記憶とそのプログラムを彼に埋め込んだ当人であるイブリースは、勤勉なスパイウェアが送って来るヘルマンの認
識状態を捉えると、
「娘ときたか…」
傍らの白猫をチラリと見遣り、微妙な表情と声音で呟いた。
少しずつ補完されてゆく記憶を、ど忘れした事を思い出していると錯覚しているヘルマンの頭の中では、彼らが自分と同じ
駅まで行く事、隣の車両の高級客室を取っている事、彼らはバカンスであちらへ行く事、自分は彼らにビジネスでの旅だと告
げた事など、次々と情報が組み立てられて行った。
しかし彼は気付かない。
記憶に欠落は無くとも、彼らに対する警戒心は欠落してしまっている事と、そもそもこの状況で初対面の相手に警戒を抱こ
うともしない心理の不自然さには…。
意識を失っている間にヘルマンに仕込んだスパイウェアが、正常に機能している事を確認したイブリースは、共に夕食を摂っ
た後、白猫を連れて部屋に戻った。
仕込んだスパイウェアが多少離れてもヘルマンの動きを把握させてくれるので、間近で監視する必要も無かったのである。
部屋にあるシャワーを利用し、まずは自分では何もできない人形のような白猫を綺麗に洗ってやって、ナイトガウンに着替
えさせてから、イブリースは改めてシャワールームに入った。
堕人の頭目と見られている彼だが、実際には、堕人達を指揮してどうこう、纏めてどうこうといった真似はしていないし、
しようとも思っていない。
現在そうしているように、白猫を伴ってふらふらと世界中を巡っているのが常である。
彼としては自分と白猫に降りかかる火の粉を払っているだけなのだが、システム側の存在を容易く返り討ちにしてしまうそ
の力に惹かれた多くの堕人から、一方的に英雄視されているというのが実情であった。
各地を訪れた際に、彼を崇拝する他の堕人が接触を求め、協力を申し出て来るので、それを察知したシステム側から「何か
企んでいる」と深読みされる事も多いのだが、基本的には気ままに、自由に、刻々と変わる行きたい所、行かねばならない所
への移動を繰り返すだけの日々を送っている。
そしてこの列車の高級客室チケットも、協力を申し出た堕人が用意してくれた品であった。
「部屋が豪勢である必要はないけれど、ベッドとシャワールームが比較的広いのは有り難いね」
でっぷりと肥え太った白い巨体を、贅肉を揉むようにして丁寧に洗いながら、入浴好きなイブリースは満足げに呟いた。
「おいで、アズ」
シャワーを終えてすっきりしたイブリースは、ナイトガウンを纏ったその巨体を、左側を下にする恰好でダブルベッドに横
たわった。
手招きされた白猫は、ソファーから立ち上がってトコトコとベッドに寄り、のろのろとよじ登り、小山のような北極熊にぴっ
たりと寄り添う。
豊かな被毛と脂肪のおかげで柔らかな分厚い胸へ、顔をすっぽりと埋める形で密着した少女に、北極熊の太く頑丈な右腕が
被せられた。
まるで、何者かに奪われる事のないように、あるいは、あらゆる災厄から護るかのように、背中側へと回して。
いつも通り自分にしがみついて眠りに落ちた白猫を、柔らかく包み込むように抱きながら、イブリースは目を閉じる。
『柔らかくて温かい…。こうしていると、心が安まるわね…。貴方はどうかしら?』
遥か昔に言われた事のある懐かしい言葉を、耳の奥に聞きながら。