第三十五話 「敵対者の極めて平凡な日常」(後編)

ヘルマンは唖然として、その光景に見入っていた。

旅の途中で偶然出会い、親しくなった旅行中の親子。

とんでもなく大きく、とんでもなく太った父親と、華奢で小柄で可愛らしいが、人見知りなのか極端に無口な娘…。

二人と共に摂る朝食の席で、彼はあんぐりと口を開けている。

体格に見合った大食漢の父親は、明らかにおかしい量の朝食をオーダーし、あきらかにおかしい勢いで食べて…というより、

口に、胃に、詰め込んで行く。

片や、無口な娘の方はチビチビ、ノロノロと食事を摂っており、堅焼きパンを音もなく、やけにゆっくり食べている。

(娘さんは間違いなく母親似だ)

ちっとも似ていない親子を前に、ヘルマンはつくづくそう思う。

もっとも、ヘルマンがそう認識しているだけで、同席している二人は親子などではないのだが。

高級な長距離列車の高級な料理はあまり好みでもないのか、大して味わう事もせず、盛大に口に放り込んでゆく北極熊は、

グッチャグッチャと厚切りベーコンを噛みほぐしながらヘルマンに話しかけた。

「今日の昼前には到着だね。着いたら貴方はどうするのかな?すぐ取引に?」

「え?…あ、ああ。急ぎの用事だからね、すぐに取引先へ向かわなければいけないんですよ」

昨夜、仕事上での取引だと偽って説明している…と、自分では思い込んでいるヘルマンが、思い出したように朝食に取りか

かりながら応じる。

が、彼は実際のところ、イブリースに取引の事などは話していない。イブリースの方は魂への接触で勝手に情報を引き出し、

事情を把握しているのだが、ヘルマン自身が会話の成立に違和感を覚えないよう、植え付けられたスパイウェアが認識補完を

おこなっている。

少女が食べないらしい料理をその前から取り、口に放り込んで行く巨漢の姿を眺めていたヘルマンは、不意に視界が潤み、

慌てて眉間を押さえた。

妻を喪って以降、娘を元気付ける為に、ヘルマンは時折家庭的な、ありふれた食事を用意した。

それまで料理などした事もなかった彼が作るそれらは、本とにらめっこしながら作ってもなお、三割以上が失敗であった。

明らかな失敗料理は、娘が顔を顰めたその途端に、彼自身が処理する事が決まる。

口を固く引き結び、我慢している娘の前から、失敗作が乗った皿を取る自分…。

目の前の二人の姿に自分達父娘をだぶらせ、目頭を熱くしたヘルマンは、娘の顔を、声を思い出す。

好きでないピーマン入りの料理まで失敗作に紛れて押し付けようとする、幼い娘…。

顰め面を作ってそれを押し返す自分…。

ばれた事を悪びれもせず、ペロッと舌を出す娘…。

苦笑いして、結局は娘が除けて残したピーマンを食べる自分…。

(何も要らない…!ララが無事に帰って来てくれるなら、私は、他に何も望まない…!)

「選択の時は、迫っているよ」

出し抜けに耳に響いたその言葉で、ヘルマンの回想は打ち切られる。

いつのまにか手元に落ちていた視線を上げると、真っ直ぐに自分を見つめている巨漢と目があった。

前後も、脈絡も無く、ポンと投げ込まれた唐突な言葉は、ヘルマンには意味の判らない物だった。

「キミはもうじき、選ばなければならない」

北極熊は薄赤いその瞳で、ヘルマンの目を、その奥を、じっと見つめている。

意識の深淵まで見透かすようなその視線は、ヘルマンを慄然とさせた。

絶望に沈む者を、どん底を覗き込む者を、深い闇に囚われた者を見る度、イブリースはいつも囁いて来た。

そして、選択を促す。

何を諦めるのか、何を捨てるのか、何を手放すのか。

まるで、「キミは何を失える?」と問い掛けるように。

「大切な何かの為に、他の全てを踏みにじる覚悟はあるかい?」

「あ…、え…?」

畏怖に近い感情を覚え、困惑混じりの声を漏らしたヘルマンを見つめていたイブリースは、不意にあるかなしかの微かな笑

みを口の端に乗せた。

「何より大事な娘さんの為に、どんな苦難でも乗り越えるだけの覚悟が、キミにはあるかい?」

「どんな…苦難でも…?」

掠れ声で問い返したヘルマンから視線を外し、イブリースは傍らの少女を見遣った。

「ボクは、この子の為なら何でもしてあげられるし、何だって捨てられる。何より大切な存在だから。キミはどうなのかな?

ヘルマン」

「わた…しは…。私も…、ララの為なら、何でも…!」

萎縮していたヘルマンは、急に力を取り戻したように言葉に力を込めた。

「それならきっと、娘さんは幸せだね」

イブリースがそう言って目を細めると、呪縛されたように視線を逸らす事すらできなくなっていたヘルマンは、ハッと我に

返った。

一瞬前に抱いた畏怖も緊張もスパイウェアによって即座に消されてしまった彼は、

「そう…でしょうか…?」

釈然としない物を感じながらも、照れたような困ったような…そして微かな決意が滲む笑みを、その顔に浮かべた。



発車を知らせるブザーが、遠く鳴り響く。

駅の前に立つ北極熊は、ゆっくりホームから出て行く自分達が一晩過ごした列車にちらりと目を遣り、それから視線を戻す。

たった今別れの言葉を交わした、歩き去って行くヘルマンの背に。

茫洋とした視線をヘルマンの行く手へ向けている白猫の手を握るイブリースは、突如すぐ後ろに現れた気配にも、振り返り

はしなかった。

「遙々お越し頂き、恐悦至極にございます…」

腰を折り、深々と頭を下げ、恭しく礼をしたのは、鴨の頭部を持つ異形の女であった。

「お疲れでございましょう。出来うる限りの部屋をご用意しておりますので、どうぞごゆるりと滞在の程を…」

灰色の羽毛に覆われた体に赤いコートを纏う女は、イブリースの背に話し続ける。

ヘルマンが視界から消えるまで見送ったイブリースは、「有り難う」と感情のこもらない声で応じた後、鴨を振り返る。

「空気の香りが少し違うね。最近この辺りで、何か変わった事があったのかい?」

尋ねた北極熊に、鴨は「は…」と慇懃に礼をした。

「四週間程前になりますが、盗魂者が発生致しました。たまたま業務に赴いていた配達人がそれを消滅せしめたので、おそら

くアルがお感じになっておられるのは、その余波かと…」

「どんな配達人だったか、判るかい?」

問われた鴨は、一瞬口ごもった後、

「あ…いえ…、わたくしを含めて皆、極力気配を殺し、接触を避けておりましたので、はっきりとは…。チームだったのです

が、移動用ベースがその…、ザ・ヘリオンの駆る太陽色の飛行艇だった物で…」

と、歯切れ悪く応じる。

これを聞いたイブリースは、「おや…」と、目を少しだけ大きくした。

「珍しいね。すれ違いなんて何年ぶりだろう?」

イブリースの口調が何処か面白がっているようでもある事に気付き、鴨は不思議そうに目を細めた。

「どんなメンバー構成だったかは、判らないかな?」

「生憎と…。ただ、盗魂者を消滅させたのは、鉄色の虎だったそうです」

「鉄色の…」

繰り返そうとした言葉を、皆まで言わずに途中で飲み込み、イブリースは肩を震わせ始めた。

「ふ…、ふふふふふっ…!あっはっはっはっはっはっはっ!」

声を上げて笑い出した盟主の前で、鴨は信じられない物でも見たような顔で、目を大きく見開いた。

彼女自身、この北極熊が笑うのを見るのは初めてであり、そんな話も聞いた事はない。

それが、声まで上げて、突き出た腹を揺すって、さも楽しげに笑っている。

「そうか…、どうやら上手くやっているようだね」

笑いの名残を口元に留めたまま、イブリースはきょとんとしている鴨に尋ねた。

「他に判る者は居たかい?」

「あ…。あの…、姿は見ませんでしたが…、気配の残滓から考えて確実と思われるのは、遥か昔からザ・ヘリオンと共に居る、

あの男です」

「まぁ、居るだろうね。けれど少し違う。「ミカールと共に居る」んじゃない。「ミカールが共に居る」のさ」

「は?」

鴨が不思議そうな声を漏らしたが、イブリースはそれ以上この件について話すつもりが無いらしく、「ところで…」と、話

題を変えてしまう。

「ボクはこれから用事がある。一晩、この子の世話を頼めるかな?」

北極熊は白猫の華奢な背に、そっと、大きな手を添えた。



「話が違うぞ!ララをっ…!ララを返してくれっ!」

ヘルマンの叫び声は、山小屋の分厚い壁に半ば反射され、半ば吸い込まれる。

その右手には手錠が填められ、壁を這う太い金属パイプに繋がれていた。

指定された取引場所から幾度も移動を繰り返され、入念に尾行の有無を確認されたヘルマンは、最初に約束した場所から遠

く離れた山小屋へと連れて来られた。

そこで、数人の男達に力ずくで押さえ込まれ、手錠を填められたのである。

護身用にと持って来た果物ナイフは当然奪われ、男の一人が懐に仕舞い込んでしまった。

最悪の事態に備えたつもりのヘルマンの認識は、とことん甘かった。

いざとなればナイフで脅せばどうにかできると思い込んでしまう程、他者を傷つける覚悟が決められない程、彼は何処まで

も真っ当な人間だったのである。

ヘルマンの娘を誘拐した者達には、まともな取引をするつもりは初めから無かった。

道中でもその事を疑わなかった訳ではなかったが、改めて思い知らされたヘルマンは、半狂乱になって声を上げる。

「卑怯者っ!約束は守っただろう!?娘を返せっ!」

ガチャガチャと手錠を鳴らし、金属パイプを蹴り、殴り、押し、引っ張り、何とか自由になろうともがくヘルマンを、遠巻

きに取り囲んだ男達が冷笑する。

その中の一人が下卑た笑いを浮かべ、「あぁあぁ」と、気の抜けた声で返事をした。

「可愛い子だな。高値が期待できそうだ」

その言葉で、ヘルマンは冷水を浴びせられたように身を強ばらせた。

「安心しろよ、大事に売らせて貰うさ。ああいうちぃ〜さな女の子を好む金持ち連中ってのは、結構多いんでね」

「貴様らぁああああああああああああああっ!」

悲鳴混じりの怒声を上げるヘルマンを、男達の嘲笑が包み込む。

ひとしきり笑った男達は、

「さあ行くぞ。ボスもお待ちかねだ」

「だな。ちゃちゃっと済ませて帰ろうぜ」

そんな事を口々に言いつつ、壁際に置いてあったポリタンクを掴む。

「ヘルマンさんよぉ。その手錠だけどな、頑丈は頑丈なんだが、熱に弱くてな」

ポリタンクを抱え、中の液体を床に撒き散らしながら、男の一人はそんな事を言った。

「火にくべると、跡形もなく溶けちまうんだよ。証拠も残さず、ただの溶けた金属になる」

床に撒かれた液体が放つ異臭が、ヘルマンの鼻を刺激する。

「だからさ、あんたが火で焦げながら二十分ぐらい我慢できれば…、助かるかもな?」

ゲラゲラと下卑た笑い声を上げ、男達は小屋の出口へと向かう。

「ま、待て!貴様ら、こんな…、こんな行いをして許されると…!」

ヘルマンの怒声にも、男達は振り返らなかった。

その内の一人が胸元で手を擦り合わせ、シュポッと音を立てる。

次いで肩越しに放り込まれたマッチが、床に撒かれた油に着火した。

見る間に火が部屋の床を舐め尽くし、ヘルマンのすぐ傍までその手を伸ばす。

悲鳴を上げるヘルマンの耳には、出て行った男達が上げる笑い声も、車に乗り込む音も、走り出す音も届かない。

生き物のように蠢く炎が部屋の気温を一気に上げ、煙が空気を汚染する。

逃げ場もなく、煙を吸い込んで激しく咳き込むヘルマンの横で、

「なかなか派手好きなようだね、彼らは」

燃え盛る炎よりなお濃く、なお赤いコートを纏った北極熊は、感情のこもらない平坦な口調で呟いた。

間近に立つ彼の呟きは、しかしヘルマンの耳に届いても注意を引かない。

死を前にした者にすら認識されない、配達人達のそれを上回る強力な被認迷彩により、今のイブリースは同種以外には全く

知覚されない状態となっている。

ヘルマンが連れ回されている間に、イブリースは迷う事無くこの山小屋へとやって来た。

彼が連れて行かれる最終的な場所は、因果を読み解けるイブリースには最初から判っていたのである。

そして、騙されたヘルマンが拘束され、荷物を奪われる一部始終を観察していた。

列車内でヘルマンの因果を読み取ったイブリースは、彼が今日、ここで旅を終えるという事も当然知っていた。

だが、彼は今、ヘルマンを救う為にこの場に居る訳では無い。

目的からも少し外れた、個人的な興味を満足させる為に此処に居る。

手錠をガチャガチャと鳴らし、もがいていたヘルマンの動きは、次第に緩慢になってゆく。

煙を吸い込んで噎せ返り、充血した目から止めどなく涙を流し、熱と煙で朦朧としてもなお、もがく事を止めないヘルマン。

その脇に立ち、彼の苦闘を黙って見下ろしていたイブリースは、やがて小さく頷いた。

そして、ヘルマンの脇に屈み込み、歯が折れるのも構わず手錠の鎖に噛み付いている彼の耳元へ、

「さあ、選択の時だ」

そう、静かに囁いた。「キミはこれから選ばなければならない」と。

「選…択…?選ぶ…?何を…?」

朦朧としてまともな思考もできていないヘルマンの口は、まるで誘われるようにして問いを発した。

しかし、彼は未だにイブリースを認識できていない。

無意識下に送り込まれた問い掛けの意志その物に、やはり無意識に反応しているに過ぎない。

「何を諦めるのか、あるいは何を捨てるのか、キミは今、この場で選ばなければならない」

イブリースはそう囁きかけながらコートの懐に手を差し入れ、ある物をつまみ出した。

太い親指と人差し指で薄い刃を挟まれているそれは、ヘルマンが持ち込み、男達に奪われた果物ナイフであった。

付属していたケースが無い剥き身のナイフ。イブリースの大きな手につままれたそれは、何ともちっぽけで何とも頼りなく

見える。

そのナイフをヘルマンの足下にコトリと置いた北極熊は、彼に囁きかけた。

焦点の合わない充血したヘルマンの目が、微かな音と共に出現した足下のナイフに向く。

それが、自分が持ち込み、男達に奪われたはずのナイフである事は、ヘルマンには判らなかった。

だが、思考が千々に乱れていてもなお、その銀の煌めきを目にした彼の手は、反射的に動き、拾い上げていた。

手錠の鎖をピンと張り、掴んだナイフを振り下ろす。

しかし、脆弱な果物ナイフの刃先は、鎖に当たり負けして簡単に刃こぼれしてしまった。

今度はパイプを見たヘルマンだったが、鎖よりもなお破壊が難しい事は、冷静さを失っていてもなお判った。

ナイフを掴む手を眼前にかざし、苦悩するような表情で知恵を振り絞るヘルマンに、イブリースが囁きかける。

「さて…、大切な何かの為に他の全てを切り捨て、踏みにじるだけの覚悟が、はたしてキミにはあるかな?」

深層意識に響くその言葉は、ヘルマンにある閃きをもたらした。

一瞬の躊躇の後、覚悟を決めた彼は…。



ヘルマンの覚悟を見届けた北極熊は、その惨憺たる状況にも眉一つ動かさず、「ふむ…」と頷いた。

「なるほど。それがキミの選択という訳だね」

パイプに繋がれた手錠は、束縛する相手に逃れられ、ブラリと垂れ下がっている。

金属の輪はドロリと赤く染まっていた。

その下には、手首から先だけの右手が血溜まりの中に転がっている。

切断面がぼそぼそに乱れた、酷く損傷が激しい右手が。

そこから少し離れた床を、燃え盛る火炎にも怯まず、のろのろと歩む革靴を履いた足。

右腕を抱えて前のめりになっているヘルマンは、衣類を真っ赤に染めていた。

手錠も、パイプも、果物ナイフで壊す事はできない。

そう悟ったヘルマンは、自らの右手を切り捨てる事を選んだ。

しかし、果物ナイフ程度では人間の手首を切り落とすのは難しい。

一振りでスポンと切り離す事は不可能なので、ヘルマンは自身を拷問するような苦行に挑まねばならなかった。

ネクタイで腕をきつく縛り、血流を鈍らせた後、ナイフで何度も切り付け、皮膚も、脂肪も、筋肉も、血管も、グズグズに

なるまで傷つけた。

気絶しないのが不思議な程の苦痛に耐え、溢れる血の間から骨が露出するまで。

骨があらわになった後は、脂と血でぬめったナイフを、ひたすらに振り下ろした。

ナイフの刃先が欠け、作業は難航したが、ヘルマンは超人的な精神力と集中力を発揮し、骨を半ばまで切断した。

そして最終的には、切れ込みの入った骨だけとなった自らの手首を、自らの足で蹴り折ったのである。

そうして利き手を手首から切り捨て、手錠の束縛から逃れたヘルマンは、

「ララ…。ララ…」

うわごとのように娘の名を呟きつつ、激痛と失血で朦朧となりながらも、手首から先を失った手を抱え込むようにしてヨロ

ヨロと歩いている。

しかし、遅々として進まぬその歩みに比べ、放たれた火の巡りは早く、退路は既に無い。

このままでは脱出して娘を救いに行く前に、焼け死んでしまうのは目に見えていた。

その、おぼつかない足取りで前へ進む無力な男の姿を眺めながら、イブリースは何度も頷いている。

その様子は、何かに納得しているようにも、満足しているようにも見えた。

「娘を救う。その為の代償として自分の手を自ら切り落とす事も厭わない。ひいては命を落としても構わない。…なるほど…」

しばしブツブツと呟いていたイブリースは、炎を映してなお赤く染まった瞳を輝かせた。

「大切な物の為に、他の全て…自分自身の利き手は勿論、命すら踏みにじる覚悟…。キミは確かに選択した」

宣言するようにそう言った北極熊は、やおら右手を上げると、太い指をパチンと鳴らす。

その音が合図となったかのように、山小屋を焦がしていた炎は突如消え去った。

それは、ただ「消えた」と表現するのも躊躇われる、あまりにも異常過ぎる消え方であった。

炎は吹き消された訳でも、放水で鎮火させられた訳でも、当然ない。

燃焼という現象そのものが、唐突に中断させられてしまっていた。

のみならず、焼けた天井や壁、熱で割れた窓ガラスも、全てが元通りになっている。

しかも、ただ新しくされたのではない。

壁の汚れや床の染みまでが、ヘルマンが入ってきた時点と全く変わっていない状況になっている。

それは、正確かつ完全な復元であった。

イブリースは力の増幅具たる銃にも頼らず、しかも一瞬で、指を鳴らすというささやかな動作だけであっさりとそれを成し

遂げている。

まるで幻覚のように痕跡すら残さず消え失せた火災が、しかし現実の物であったという事を、残滓のように漂う焦げ臭い香

りだけが主張していた。

火が消え去った事にも気付かず、もはや意識を失う寸前になりながらヨロヨロと進むヘルマンの脚から、突如力が抜けた。

膝が折れ、前のめりに崩れたその体を、いつのまに移動したのか、傍らに立った北極熊の太い腕が支える。

「…ララ…、今…」

弱々しい呟きを残し、ヘルマンはがっくりと頭を垂れた。

意識を失い、重力に引かれて崩れ落ちようとするその体を支えたまま、イブリースは呟いた。

「欠片の所持者に繋がる人間達は見つけた。返して貰うついでだから、キミの娘さんの事もなんとかしよう」

もはや聞こえていないヘルマンにそう告げると、イブリースは彼を床に横たえる。

覚悟の証となる彼の手だけは復元せず、ただ止血するのみに留めたイブリースは、首を巡らせると、床に転がるヘルマンの

右手に視線を据えた。

床を軋ませて歩み寄り、その手をひょいっと拾い上げたイブリースは、しばし顔の高さに吊してしげしげと見つめた後、お

もむろにあんぐりと、大きく口を開けた。

ゴキッ、ボキリと、嫌な音を立てて口を動かしながら、北極熊は気絶しているヘルマンの脇を、視線すら向けずに歩き過ぎ、

出口へ向かう。

そして、グッチャグッチャとヘルマンの右手を噛み砕き、咀嚼し、戸口に立ったイブリースは、べったりと血に塗れた口元

を手の甲で拭った。

「せっかくだから彼らに届けておこう。キミの覚悟を」

噛み砕き、半分は飲み下したヘルマンの手の残りを口内に残した北極熊は、口の端から血塗れの人差し指をはみ出させたま

ま、くぐもった声で囁いた。



曲がりくねった山道を、くすんだ白の車が駆け抜ける。

チェーンを装着し、雪深い道を走るその車には、先程ヘルマンから荷物を奪った男達が乗っていた。

「どうした?」

後部座席の片側、もぞもぞと身じろぎしている同僚に、隣の男が尋ねる。

「ああいや…、さっき取り上げたナイフな、落として来たみたいだ。鞘だけあるんだが…」

「どんな器用な落とし方してるんだお前?」

笑いが響いた車の中で、運転していた男は笑みを消し、「ん?」と、訝しげな表情を浮かべる。

カーブを曲がった際の感触が、ついさっきまでとは異なっていた。

(何だ?急に車体が重くなったような…?)

しかしその違和感と疑問は、すぐさま消えてしまう。

彼が感じかけたそれは、感知する事が許可されない類の物であった。

走行中の車の屋根の上に跪き、その体重でボディをへこませながら、搭乗者達に認識されていないイブリースは足下に視線

を向けている。

パールホワイトの被毛を激しくなぶり、赤いコートをはためかせる激しい風の中、車体に吸い付いてでもいるように、僅か

にも体勢を崩す事無く。

しばし足下に目を向けていた北極熊は、その突き出た腹…胃の辺りに手の平を添えると、グッと勢い良く押し込んだ。

圧迫された胃から食道へ昇ったソレが、「んげっふ…」といささか品のない声を伴って喉をせり上がり、北極熊の舌に乗る。

口元に寄せた手に吐き出された唾液まみれのソレは、白い、骨のような色をした弾頭と血のように赤い薬莢から成る、一発

の弾丸であった。

喰らったヘルマンの右手を材料にイブリースが精製したその弾丸は、体積に比して異常な程重い。

小さな弾頭に変じても、大人の手の重みはそのまま残っている。

「報いを、届けに来たよ」

コートのポケットから取り出した黒いデリンジャーに弾丸を装填し、イブリースは呟く。

車の天井に小型拳銃の銃口を押し付けて。

小雪舞う山道に、銃声が響いた。



狭いビルのフロアに、銃声が響く。

仕事から戻ったばかりの男達は、魂が抜けたような表情で、仲間達を次々と撃ち殺して行った。

最初こそ混乱していた社内だったが、反逆と見て取り男達を銃撃する。

ところが、胸を撃たれても止まらず、足を撃たれても歩み、腕を撃たれても銃を落とさず、人形のようになった男達は仲間

を殺し続けた。

その激しい銃撃戦の中を、肥えた北極熊は悠然と歩んで通り過ぎる。

強まった気配を頼りに、時折鼻をフンフンと鳴らして周囲を見回しながら。

そのとんでもなくボリュームがある、分厚く大きく太い巨体を、不思議な事に飛び交う弾丸は掠めもしない。

彼が射線に入ったタイミングでは、誰もがトリガーを引かないのである。

階段に辿り着いて気怠そうに見上げた北極熊は、「上のようだね…」と、面倒臭そうに呟いた。

赤を纏う白い巨漢が階上に消えた後も、ヘルマンの執念を打ち込まれ、自我と魂を破壊されて人形となった男達は、痛みや

損傷を僅かにも恐れる事無く、生命活動が完全に停止するまで、機械のように動き続け、殺し続けた。



階下の騒ぎから逃れるべく、ボディーガードに付き添われて脱出しようとしていた壮年は、緊急用のエレベーターの前でビ

クンと身を突っ張らせた。

目を見開き口を大きく開け、気を付けの姿勢で完全に停止した壮年の脇で、異常に気付いたボディーガード達が慌て始める。

「社長?社長!どうしました!?」

目を見開いている壮年の周囲で騒ぐボディーガード達は、しかし認識できていなかった。

壮年の背にその大きな手を潜り込ませ、何かをまさぐっているように胸内をぐちゃぐちゃと掻き回している、白い巨漢の存

在を。

「…ああ、あったあった」

捜し物を見つけた者特有の喜びを乗せた、すっきりした表情を浮かべたイブリースは、壮年の背に潜り込ませていた手の動

きを止める。

そして、その指先に僅かな力を込めた。

パキンッと、音が響く。

それは、硬くて脆い何かが砕けるような、そんな音であった。

周囲のボディーガード達にも聞こえないその音を聞き取っていたのは、この場ではイブリースと、自分が誰に何をされてい

るかも判っていない壮年だけであった。

ずるりと、壮年の背に痕跡を残さず腕を引き抜いたイブリースは、丸々とした人差し指と親指で摘んだそれを眼前にかざし、

満足げに目を細める。

玉虫色に輝くビー玉のようなそれは、壮年の魂に宿っていたものであった。

それを取り出すに際して魂を砕かれた壮年は、立ったまま、目を向いたまま、何が起こったのか判らぬまま、事切れていた。

「さて…、ヘルマンの娘さんを探さないといけないね」

北極熊は玉虫色の球体を大事そうに懐へ仕舞い込むと、騒ぎ出したボディーガード達と壮年の死体を残し、踵を返した。



匿名の通報を受けて現場に駆け付けた救急隊が、ヘルマンを病院に担ぎ込んだのは、陽の一片が暗い空を染め始めた頃の事

であった。

うわごとのように「ララ…、ララ…」と繰り返すヘルマンが、処置室に運び込まれようとしたその時、

「パパぁっ!」

リノリウムの床を駆け抜けた幼い声が、ストレッチャーへと追いついた。

弱々しく薄目を開け、力を振り絞り、僅かに首を起こしたヘルマンの目に、

「パーパぁあああっ!」

プラチナブロンドの髪を振り乱し、廊下を走って来る娘の姿が飛び込んだ。

「ラ…ラ…!?」

煙で喉をやられて酷く掠れた声が、ヘルマンの口から漏れる。

父に駆け寄る幼い娘の姿を、蛍光灯を映す床に立って見つめていたイブリースは、

「それじゃあ…、ヘルマン、ララちゃん、良き旅を…」

自らが救出してここまで連れてきた女の子と覚悟を示したその父親に、届かぬ声で別れを告げ、ノイズを残して姿を消した。

旅を終えるはずだったヘルマンが、利き手を失ったとはいえ生存している。

この些細なようで重大な変化は、後々にはかなり大きな因果の乱れとなり、配達人達に過酷な労働を強いる事になるのだが、

当然、北極熊にとってはどうでも良い事であった。



その頃、椅子に座って大人しくしている白猫を、一晩眠らず見守っていた鴨は、モーニングコーヒーを用意しながら口を開

いた。

「ミルクが多い方がお好みでしょうか?」

だが、白猫から答えは返って来ない。

意思疎通ができていない賓客のもてなしに、鴨はこの一晩、ずいぶんと苦労してきた。

イブリースの為に用意された高級ホテルの一室には、現在、鴨と白猫の二人しか居ない。

しかし、隣接する部屋には堕人達が待機しており、何かあれば身を捨ててでも白猫を護る準備が整えられている。

アル・シャイターンが何よりも大事にしているこの少女は、彼らからすれば盟主に次いで大切な客であった。

その少女の世話を直々に頼まれた事は、この上ない名誉である。

それと同時に、押し潰されそうな程重大な責任もまた、鴨は背負わされているのだが。

ミルクとシュガーをたっぷりと入れて甘くしたコーヒーを手に、椅子に座っている白猫の元へ戻った鴨は、

「…アル…」

それまで無言だった白猫が出し抜けに呟き、驚いて動きを止めた。

それは、白猫が彼女の前で初めて発した声であった。

ゆっくりと立ち上がった白い少女は、茫洋とした目を窓へ向ける。

その視線の先、室内の窓際で、ザザッと空間にノイズが走った。

慌てて跪き、深く頭を垂れた鴨の前で、ノイズの中心へ視線を向けていた白猫が呟く。

「…アル…」

「ただいま。良い子にしていたかい?アズ」

収まってゆくノイズの中心に姿を現した北極熊は、白猫に語りかけると、次いで跪いている鴨に視線を向けた。

「有り難う。手間をかけさせてしまったね?」

「い、いいえ滅相もない!」

かけられた労いの言葉に感動し、言葉に詰まった鴨へ、イブリースは続けた。

「早速だけれど少し休みたい。この部屋はいつまで使えるんだい?」

「一週間確保しておりますが、ご希望なされるのでしたら、いくらでも延長致します。しばらくご滞在に?」

勢い込んで尋ねた鴨に、イブリースは小さく首を横に振った。

「いや、そういう意味じゃないんだ。朝の内にチェックアウトしなければいけないのかと思っただけでね。一日泊まれれば十

分だよ」

北極熊の返答で少し残念そうな顔をした鴨は、気を利かせてルームサービスをコールした後、恭しい礼を残して部屋を出て

行った。

「さて…」

深紅のコートを脱いだイブリースは、片手に吊るしながら白猫を見遣った。

「食事が届くまで間があるだろうから、ボクは今の内に入浴して来るけれど、アズはどうする?」

少女が無言のまま自分に歩み寄ると、北極熊は口元を僅かに綻ばせた。

「そう?なら一緒に入ろうか。それじゃあその前に…」

コートに手を伸ばしたイブリースは、その内ポケットから玉虫色の球体を取り出した。

そして少女の前で屈み込み、その大きな手を広げて、白猫の口元をそっと掴む。

頬を指で左右から軽く押された白猫は、口を小さく開けた。

そこへ、玉虫色の球体が静かに押し込まれる。

玉虫色の球体を口に入れられた白猫は、口内に入った白くて太い指をそっと引き抜かれると、口を閉じてコクンと、球体を

飲み込んだ。

球体を嚥下した少女をしばし見つめていたイブリースは、

「…そうそう、劇的な変化は無いか…」

そう小さく呟くと、相変わらず人形のように表情が無い少女を、その太い両腕でそっと抱き締めた。

「アズ…」

赤い瞳の北極熊は、最愛の少女に語りかけた。

「ボクは、必ずキミを取り戻す…。キミが元に戻るまで、いくつでも欠片を探し出す…」

遥か昔、人間という種を存続させる為に咎を背負い、力も心も失った女。

かつての力も、姿も、記憶も失い、話しかけてもろくに反応すら無い少女と、それでもイブリースは共に在り続ける。

どんなに願っても戻る事はできない。

どんなに祈っても取り戻す事はできない。

だから彼は、祈りも願いもしない。

その手を汚す事を厭わず、地上に散った可能性を集め続ける。

少女の為だけに存在し、必要であれば全ての障害を、降り積もった雪同様に躊躇いなく踏みにじって進む、世界に敵対する

者…。

それが、彼が足を置く、何があろうと揺るがない、敵対者たる立ち位置であった。

ややあって、無反応な少女からそっと身を離したイブリースは、白猫の華奢な両肩へ大きな手を軽く乗せ、窓の外へと目を

遣る。

磨かれたガラスの向こうが、薄赤い瞳に映り込んだ。

白く華奢な細かい雪が、ひらひら、ひらひらと、高層ビルの外を舞っている様を見ながら、

「…また…雪が降っているよ…、アズ…」

少女の肩を掴む大きな手に、イブリースは僅かに力を込めていた。