第三十六話 「審問会」(前編)
バチンッというスパーク音と同時に、象牙色の部屋の中心で、純白の光が瞬いた。
そこは、一辺10メートル程の正立方体で、ガランとした部屋である。
「ゲート開通」
「安定度を確認、良好」
「了解。これより拡張処理に移る」
白衣に身を包んだ猿、ビーバー、鳩の頭部を持つ異形の男達は、光球に向かって両手を翳しながら、眼を細めてそう口々に
声を上げた。
その少し後ろでは、黒いスーツと純白の被毛を纏う雪豹の顔をした男が、疲労を色濃く滲ませた顔で、白い玉を眺めている。
球体を形作るその眩い光は発生したその瞬間こそソフトボール大だったが、瞬く間に拡大し、直径3メートル程になる。
「通過反応有り。パターングレー」
鳩のさえずるような声に続き、光球の中にじわりと黒いシルエットが浮かんだ。
光が弱まるにつれ染み出すように大きくなり、輪郭もはっきりとして来たその影は、やがて人型になる。
急速に弱まってゆく光の中で、影は黒から灰色へ…本来の色へとその濃さを変えてゆく。
程なく、完全に光が消え失せた部屋の中心で、姿を現した筋骨隆々たる大男は、恭しく腰を折ってお辞儀する白衣の三名と
スーツ姿の雪豹を見遣り、頷くように会釈した。
現れた大男もまた、他の男達同様人間の顔をしていない。
グレーのスーツを纏う巌のような体躯は、密度の高い金属を思わせる灰色の毛に覆われ、頭部は熊のそれであった。
軽く2メートルを超える長身に、過剰なまでに筋肉が搭載された骨太の体格。表情の無い厳めしい顔に、毛色と同じ硬質な
輝きを放つグレーの瞳。
「お帰りなさいませ、ドビエル室長」
雪豹が代表して声をかけると、グリズリーは再び顎を引く。
「全員の撤収を確認してから帰還したつもりですが、わたくしが最後で間違いありませんか?」
猛々しさと荒々しさを感じさせるその見た目とは裏腹に、非常に丁寧な問い掛けをしたドビエルへ、四名は揃って頷いた。
「ドビエル室長が最終帰還者でいらっしゃいます。先に戻った管理人達は、修復が必要な者を除いて警戒配備に復帰致しまし
た。以後現在に至るまで、探索と監視を続行するとの事です」
「それは結構。仕事熱心で何よりです」
部下の答えを聞いて満足げに頷いたグリズリーは、「ですが…」と言葉を続ける。
「アスモデウスもアシュターも賢いですからね、特にアスモデウスは。二人とも今頃は既に雲を霞と何処ぞへ逃げ去っている
でしょう。少なくとも、わたくしが同じ状況におかれれば、捉えられるように動く過ちは冒しません。…管理室を二斑に分け、
交代で三時間ずつ休息を取らせて下さい。その後に配備を通常の物に切り換えます」
「了解致しました」
敬礼した雪豹に、ドビエルは「それと…」と付け加える。
「とりあえず監視に三名残すようにし、まずは交代で食事に行かせて下さい。わたくしの奢りだと食堂に通達しておくので、
遠慮せず好きな物をオーダーするようにと。皆には済みませんが、事後処理を終えるまでもう一踏ん張りして頂かないといけ
ませんからね」
「伝えます」
幾分疲労の色が和らいだ顔で、少し嬉しそうに雪豹が頷くと、ドビエルはその横を歩き過ぎながら、大きな手で肩をポンと
叩く。
上司の励ましを受けた雪豹は、元気を取り戻したような足取りでその後に続いた。
「では、わたくし達は戻らせて頂きます。お疲れ様です皆さん。もうじき緊急配備も全体解除されるでしょうが、それまでよ
ろしくお願い致します」
ドア前で足を止めたドビエルの、あくまでも丁寧な一礼と労いの言葉を受け、白衣の三人は慌ててお辞儀を返した。
壁面に現れたドアを潜って灰色熊と雪豹が姿を消すと、痕跡も残さず消えたドアの位置を眺めながら、ビーバーが呟いた。
「上司なのに、帰還は最後だってよ…。部下を先に帰してよこしたんだと…」
「…良いよな、管理人達は…。仕事出来る上に優しい上司がトップで…。ウチなんてああなのに…」
「…言うな…。無い物ねだりしても虚しくなるだけだぞ…」
羨ましそうに鳩が、疲れたように猿が、それぞれ呟く。
技術部門を総括する技術室長である黒顔の羊は、ドビエルとは対照的にとことん人望が無かった。
象牙色の床にコツコツと革靴の音を弾ませ、すれ違う相手の邪魔にならないよう大きな体を通路の隅に寄せて歩むグリズリー
の斜め後ろを、歩幅の違う雪豹は、しかし苦もなく追いかけてゆく。
歩幅の広いドビエルは、殆ど無意識の内に、共に歩く者にペースを合わせてしまう。それ故に追従する者は従い易く、話も
し易い。
「被害報告はあらかた纏まっておりますが、如何致しましょう?」
「良ければすぐにも聞かせて欲しい所ですが、君も疲れているでしょう。先に休憩を入れて下さい」
「わたしは問題ありません」
雪豹の返答を聞いたドビエルは歩調を緩め、数歩進んだ所で立ち止まる。
首を巡らせた灰色熊の顔を、どうしたのだろう?と見上げた雪豹は、太い人差し指と中指で軽くトンと額を突かれ、キョト
ンとする。
「気の張り過ぎはいけませんよ?報告は後で結構です。纏っている分の資料だけわたくしのデスクに上げておいて貰えれば結
構ですからね」
口の端を僅かに上げたドビエルは、低い声で優しく部下を諭す。
グリズリーに微笑みかけられた雪豹は、恐縮したように耳を寝せて、「は…」と会釈した。
「審問会の準備がどうなっているかは、判りますか?」
尋ねつつ再び歩き出したドビエルへ、雪豹は背筋を伸ばしながら応じる。
「各室長、並びに支配人は既に準備を整えておられるようです。開会は予定通り七時間後となっております」
「申立人は既に到着しているのでしょうか?」
「いいえ。ミカール様、イスラフィル様、共に二時間後には登塔される予定だそうですが…」
帰還前、作戦遂行中の地上で受けた緊急連絡により、ドビエルは遥か遠い地で起こった事件の顛末を簡単に把握している。
そして、連絡を受けたその内容は、ドビエルを驚かせるに十分な物であった。
「地上生まれ…、それもイブリースの接触まで受けていた元人間…、おまけにブラストモード搭載者となれば、審問会が開か
れるのも無理はない異常事態ですね…」
呟いたドビエルは、初めて会う事になる、自分と同じ異質な力を宿す者の事を考えてみる。
強引に私信を入れてきた馴染みの黒牛から「鉄色の虎だよ」とは聞かされているが、それだけではどんな男なのかイメージ
が固まらなかった。
「時期が悪いですね」
「はい?」
ドビエルの呟きに反応した雪豹は、しかし上司が自分の考えに没頭して独り言を口にしたのだと気付くと、黙考の妨げにな
らないよう口をつぐんでついて行く。
(アスモデウスとアシュター、さらにあちらではイブリースですか…。間の悪い…。つくづく間の悪い事です。呼応して事を
起こした?…いいえ、違いますね…、同じ堕人でも、あの二名はイブリース支持派ではないはずです…)
灰色熊は眼を細め、眉間を太い指で揉みほぐしながら考え続ける。
(立て続けの戦闘で管理人のみならず技術室が派遣した執行人までが多大な被害を受けた上に、マリクまで消滅させられた今、
各室長もピリピリしている事でしょう…。こんな時に得体の知れない者をシステムに組み込む事を、保守派が良しとするはず
もありません。十中八九、その若虎の排斥を主張するでしょうね…)
「これは、彼女達が考えている以上の大仕事になりそうです…」
呟いたグリズリーの声に微かな疲労の色が混じっている事を、雪豹は目ざとく見抜いていた。
「あの…、室長も少し休まれた方がよろしいのでは…?せめて会議までは一度お部屋で休息を…」
「有り難う。でもまだまだ大丈夫ですよ。まぁ、準備を終えたら会議に備えて少し休みますので、その点はご心配なく」
未曾有の被害によってシステム全体に混乱が広まっている今、部下に心配をかけてはならないと、ドビエルは意識して声に
張りを持たせた。
ノックの音が響き、ベッドに横たわっていたシスターは首を起こし、入室を促した。
「どうぞ」
この孤児院では、ノックマナーを守れる子供はあまり多くない。
ドアを開け放している場合が多い事が原因なのだが、この事はシスターの小さな悩みでもあった。
訪問者がノックを忘れなかった事から、どの子供なのかある程度予測をしたのだが、ドアが開いて訪問者の姿を捉えると、
シスターの目は驚きで大きく見開かれた。
入室して来た相手は、考えていた誰とも違っていたのである。
「デ…」
「具合はどうだ?シスター」
筋骨隆々たる体躯と頬の傷が特徴の、ざんばら髪の大男は、シスターの怪我の具合を案ずるように眉根を寄せて、彼女のベッ
ドに近付く。
シスターは昨夜意識を取り戻した後、子供達から話を聞かされて、事件後にデイブが孤児院に来た事を知っていた。
その後、行方が解らなくなっていたので嫌な予感がしていたのだが、デイブがぴんぴんしている事を確認し、ほっと胸を撫
で下ろす。
誰が通報したのか解らなかったが、昨夜シスターは、駆け付けた警官に保護されて意識を取り戻した。
男の声での通報があったと聞き、デイブが通報したのだろうと信じて疑っていなかったシスターは知らない。警察に連絡を
入れたその声は、デイブの物よりさらにずっと低い、落ち着いた物であった事までは。
「無事…だったのですね?」
改めて自分の姿を観察するシスターに、デイブは笑みを向けた。
「ご覧の通りピンピンしてるぜ」
拳銃で武装した青年達に復讐戦を挑みに行ったと思っていたシスターは、彼が無事に、元気に帰ってきた事で、気が抜けた
ように身を横たえた。
「…ニコルは…。残念だった…」
声を押し殺し、呻くように言ったデイブは、ベッド脇の丸い椅子に腰掛けた。
「…私が…、しっかりしていれば…」
呟いたシスターの頬を、涙が伝い落ちた。
その滴を指でそっと拭い、デイブはかぶりを振る。
「誰のせいとか言うの、もうやめようやシスター…。「俺のせい」でいいだろ?」
無理矢理捻り出した笑顔を浮かべ、冗談めかして言ったデイブの、その本当の気持ちが、痛みが、母親として接してきたシ
スターには良く判った。
冗談などではなく、ニコルが死んだのは本当に自分のせいだと、デイブは確信している。
慰めの否定を口にしようとしたシスターに、デイブは笑いかけた。
「ニコルの事もそうだし、孤児院のこれからの事も色々話さなきゃならねぇんだが…、俺の事でも一つ話さなきゃいけねぇ事
があるんだ…。まずは、そいつを聞いてくれるかい?シスター…」
「…え?ええ…」
涙でにじんだシスターの視界に、一瞬、妙な物が映った。
それが何なのかは深く意識できなかったシスターだが、デイブの姿に奇妙なイメージが重なった。
(灰…色…?縞模様…?)
ほんの一瞬だが、デイブの顔が灰色に見えたような気がした。
シスターの手を取ったデイブが大事な話を始めると、ドアの外に佇んでいた大柄な影は、耳を澄ませるのを止めた。
「…被認迷彩のコントロールは、まだ少し安定していないようだね…。まぁ、初めてだからこれも仕方ない事か」
呟いたその男は、とんでもなく大きくてひどく太った巨漢であった。
その頭部は北極熊のそれで、纏う衣類は黒革のライダースーツ。
胸に腹に臀部はおろか、首回りや顎下にまでたっぷり脂肪がついた極端な肥満体型であり、ライダースーツの前は閉まりき
らないのか、ジッパーが鳩尾まで引き下げられ、被毛同様に真っ白な肌着が覗いている。
ムッチリとした布袋腹は革のつなぎをぱつんぱつんに膨らませており、不恰好なユーモラスさがあるせいか、極めて大柄な
割には見た目に威圧感が無い。
配達人ジブリールは、腕を組んで壁に寄り掛かる。
人の身であるシスターは認識できていなかったが、彼の目は同種となったデイブの現在の姿をきちんと捉える事ができる。
もはや人間としての肉体は失われ、地上の理の外に属する存在として再構築されたデイブは、鉄色の被毛に覆われた虎の姿
をしている。
彼の魂の形に合わせて構築されているそれは、ジブリール達と同じく、人身獣頭に獣毛を纏う、理の外の存在たる特徴的な
姿であった。
相手には人間の姿に見えるよう調節している被認迷彩は、今のところそこそこ上手く機能しているようだった。
もしもコントロール不全に陥ったなら助け船を出すつもりではいるが、今は二人きりにしておいてやりたいと、北極熊は考
えている。
(…そろそろ二人は出発したかな?デイヴィッドの異端審問、上手く抜けられると良いけれど…)
レモンイエローの獅子は自信満々だったが、冷静な話し合いが下手だという事は、付き合いが長いジブリールは重々承知し
ている。
同行した黒い雌牛が、間違いなくエキサイトするであろうミカールを何とか押さえ付けてはくれるだろうが、見通しはあま
り良くない。
ジブリールは、今朝デイブを連れて出てくる前に聞いたミカールの言葉を、耳の奥に蘇らせた。
「ワシから誘ったんや、一緒に仕事せぇへんかって。…それに、一方的やったけど、あのガキの事はアイツからも…。責任持
たんとあかん」
くすりと小さく笑った北極熊は、面白がっているように目を細める。
「律儀だからね、ミカールは。何だかんだ言っても優しい」
本人が聞いたら照れながらキレるであろう事を、ジブリールはしみじみと呟いていた。
「以上で、この度のアスモデウス並びにアシュター両名とのエンカウント結果の報告を終わります」
天井から下がるスクリーンの前で、長い説明を終えた雪豹が一礼すると、議長を務める犀が口を開いた。
「ここまでで、何かご質問は?」
隣に座るドビエル以上の巨体を誇る犀は、すっと手が上がった事を紫紺の瞳を向けて確認し、発言を促す。
「単純な疑問ですが、此度の交戦において、マリクの協力を願う必要があったのでしょうか?」
黒い顔の羊は、空席となっている冥牢支配人席を見遣りながらそう切り出すと、チラリとドビエルを見遣った。
「結果的には管理室長及び管理人四名に加え、マリクまで出たにもかかわらず、アスモデウス、アシュターの両名はまんまと
逃げおおせた訳でして…、いたずらに被害を大きくしただけなのでは?」
ドビエルと羊、そして犀を除く、円卓を囲む二十名から軽いどよめきが上がった。
技術開発室長が中央管理室長に対抗心を燃やしているのは周知の事、何か一言あるだろうとは皆が感じていたが、まさかこ
うもあからさまに叩きに行くとは思わなかったのである。
「聞けば、マリクは単身でアスモデウスと交戦し、消滅されたようですが…。管理人達と室長殿は、その間何をしておいでだっ
たので?良ければ仔細に状況を説明して頂きたいのですがね…」
犀は表情を変えぬまま、
(相変わらずねちっこい…)
と、うんざりしながら胸中で呟き、傍らへ視線を向けた。
犀と同じく表情一つ変えないグリズリーは静かに挙手し、発言を求める。
すぐさま発言を許可されて立ち上がったドビエルは、無表情のまま口を開いた。
「仔細に説明しても良いのですが、此度の議事後には審問会も控えております。よって開発室長におかれましては、自ら派遣
した執行人よりデータ提供を受けた方が、より正確かつ、時間を取らずに事態を把握できるかと思われますが、如何でしょう
か?」
黒面の羊の顔に、さっと怒気が浮いた。
彼自慢の執行人達は一人も無事に帰還できず、データを回収するどころではなかった。
穏やかな口調ながらも内容的にはかなり辛辣なドビエルの発言に、
(ははは!こりゃ愉快!)
表向きは表情を変えない犀は、しかし心の中でにやついていた。
「仔細な説明は後に譲るとして簡単にご回答致しますと、同時刻、アシュターとの交戦によって損傷した執行人に救済措置を
施していたため、わたくし自身は動きが取れない状況にありました。また、同行していた部下はアシュターの足止め及びアス
モデウスとの合流阻止の為行動中であり、必然的にアスモデウス側には近付けない状況にありました。戦略の組み立てに執行
人を上手く組み入れられなかったのは、わたくしの不徳の致す所…、次回は是非とも、「事前に派遣連絡を頂ける」と、無能
なわたくしめも助かります」
出しゃばって派遣したご自慢の執行人は足手纏いにしかならなかった。ドビエルの発言は、要約すればそんな内容であった。
黒顔の羊はテーブル下で握った拳をわなわなと震わせているが、他の面々はドビエルの回答を好意的に受け取った。
スクリーンを利用し、彼の部下である雪豹がおこなった先の説明では、執行人や技術開発室の不利益に繋がるような情報に
は触れられていなかった。
概略故に重要でない箇所は省いてあったその説明で、自分達の不手際と取られかねない事はほぼ全て網羅しながらも、他室
の不名誉はあえて伏せるような構成にしていたドビエルの気遣いが、周囲には好感を与えている。
逆に、つつきに行った黒顔の羊は、意図的に伏せられていた自分にとっては不名誉となる話をわざわざ暴露させる事になっ
た上に、印象を悪くしてしまう。
(役者が違うよ。噛み付くには一万年早い)
犀は声を上げて笑いたくなるのを堪え、堂々と振る舞う隣席の灰色熊をチラリと見遣った。
「なお、現地で修復可能だった執行人一名は、現在救護室で手厚い看護を受けております。彼からであれば仔細に渡る説明を
得られる事でしょう」
ドビエルの発言を受けて全員の視線が自分に集中すると、ドードー鳥の顔をした救護室長は緩慢に頷いた。
「き、聞いておりませんぞ!?何故そのような重要な情報を伏せておられたのです!?」
この件を全く知らなかった黒顔の羊は、発言ルールを守らず立ち上がってドビエルを非難したが、「静粛に!」と犀に怒鳴
られ、しぶしぶ着席する。
あちこちから失笑が漏れる円卓を見回した犀は、咳払いしてからもう一度「静粛に」と繰り返し、ドビエルを目で促した。
「はて?極めて重要な事でしたので、わたくしから室長宛に直接、データを添付したメールを送信致しましたが…。もしや見
ておられませんでしたか?」
驚いている風を巧みに装うドビエルの発言に続き、円卓のあちこちから、「ろくに見ないでゴミバコに?」「不要メールと
間違えて?」「添付ファイルあるのにかい?」「メールボックス自体開けてないとか…」と、囁き交わす声が次々上がる。
黒顔の羊が口をパクパクさせているのを見ながら、ドビエルは軽く頭を下げる。
「…いや申し訳ありません、気が利きませんでした。室長はお忙しいでしょうから、室員のどなたかに送り、伝えて頂いた方
が良かったかもしれませんね」
(こんな時、結構意地が悪いよなぁドビエルは…)
犀は必死になって、にやつきそうになる顔を引き締める。
黒顔の羊が自身のメールチェックも部下にやらせている事は、犀も知っている事だった。
室長宛には同クラス以上しか閲覧が許されない極秘文書も回る為、これは本来ならば許されない事である。
その事を知っているドビエルは、あえて羊あてのメールで通達していた。それも、本人でなければ着信を認識できないよう
細工した、被認迷彩の応用を施した極秘文書扱いで。
これではチェックにあたらせていた部下をなじる事もできない。届いている事すらも本人でなければ確認できないメールな
のだから、見なかった羊が悪いだけである。
おおまかな裏事情を察した犀は、自分をつつきに来るであろう羊の弱みをしっかり握っているだけでなく、さらに反撃材料
まで用意していたドビエルの周到さに舌を巻いていた。
大恥をかかされて黙り込んだ羊には一瞥もくれず、灰色熊は「わたくしからは以上です」と、答弁を締め括る。
「技術開発室長。何かありますか?」
笑い出したくなるのを堪えて尋ねた犀に、黒面の羊は「ありません…」と、震える声で応じる。
(まったく、己をわきまえずに噛み付くからこうなる。コイツ本当は口調ほど優しくないんだよ?)
犀は胸の内でそう呟きつつ、損害補填計画についての議事を開始した。
その隣で、嫌われ者を痛快にやりこめ、周囲から賞賛の視線を注がれている灰色熊は、
(…やれやれ…、とりあえず楔は打ち込んでみましたが…、最初からこの調子では先が思いやられますね…)
この会議の後に控えている、古馴染み達も参加する審問会の事を考え、暗澹とした気分になっていた。
大型バイクに跨った北極熊がエンジンに火を入れると、後部座席に跨った鉄色の虎は、ズビッと鼻を啜って口を開いた。
「あ…、あのよぉ…。済まなかったな…、なんか…、恰好悪ぃトコ見せちまって…」
「気にしないで良いよ」
言葉短く穏やかに応じた北極熊は、首を巡らせようとはしなかった。
今生の別れとなるであろうシスターとの面会の最中、堪えきれずに泣き出してしまった若虎が、今の自分の顔を見られたく
ないと思っている事は明白だった。
先程、デイブはシスターにこう告げた。
とある大企業の大型船の搭乗員として、雑用係としてだが正規雇用して貰える事になったのだと。
船籍がこの国では無いので、またこの港に来るのはいつになるか全く判らない。
それでも、憧れていた世界を飛び回る仕事なのだと、逃したくないチャンスなのだと、デイブは嘘をついた。
だが、実際のところは違う。もはや姿まで人間ではなくなってしまった彼は、例え望んだとしても皆と一緒に過ごす事はで
きない。
その事実を、哀しさを、寂しさを胸の奥に沈め、デイブは空元気を振り絞り、シスターに別れを告げた。
これまで通り仕送りをする。手紙も書く。旅先の写真も送る。
デイブは努めて明るくそんな話をしたが、涙は、勝手に零れてしまった。
辛いのを堪えて明るく振る舞っている事は判ったのだろう。シスターは我が子同然の大男に、「おめでとう」と「行ってらっ
しゃい」の二言を告げ、身を起こして彼を抱き締めた。
しかし、大男が嘘をついている事を、きっとあのシスターは悟っていた。ジブリールはそう考えている。
彼女がどんな想像を巡らせたのかは、失礼に当たると思い精神解析までは行わなかったので判らないが、デイブは彼自身が
言うように望んで発つのではなく、もうこの街にいられないから発つのだという事を、あのシスターはきっと察していたのだ
ろう。そう、ほぼ確信していた。
「わ…、悪ぃなジブリールの旦那?なんかこう、挨拶回りみてぇな事までさせて貰っちまって…、おまけに運転手までさせち
まってよぉ…」
鼻を啜り、目を拭い、涙声で詫びるデイブを振り返らないまま、
「それも気にしないで。これはまぁ、アフターサービスさ」
ジブリールは微笑しながらそう言った。
「それで、他に行きたい場所はあるかい?まだまだ時間はあるから、いくつでも遠慮しないで言っておくれ」
デイブがシスターとの別れを済ませ、北極熊の太い胴に後ろからしがみつき、次に別れを告げるべき相手の元へ向かったそ
の頃、
「以上で、この度ブルックリンで起こったイブリースエンカウントの報告を終わります」
開始された二つめの議事についての議論に先駆け、またも長い説明を終えた雪豹は、一礼してスクリーンから一歩離れた。
円卓を囲む顔ぶれをゆっくりと見回し、議長の犀が口を開く。
「ここまでで、何かご質問は?」
またも先の議事と同じタイミングで同じ位置から手が上がった事を確認した犀は、内心でうんざりしつつも発言を促した。
「あまり本筋とは関係のない質問ですが…」
黒羊は先程の怒りを何とか消化…あるいは何処かへ貯蔵し終えたらしく、落ち着き払った口調で話し始める。
今度は何に突っ込むつもりだろうか?皆がそんな事を思っている中、黒顔の羊は誰もが予想していなかった言葉を口にした。
「アザゼル」
ポツリと円卓の中心へ放たれたその短い名が、全員の息を潜めさせる。
「あの謎の存在については今の報告に含まれておりませんでしたが、今回は姿が見えなかったので?」
今度は単純に気になった事を訊いているだけらしい。そう判断したドビエルは、挙手して発言を求めると、先の件と同時発
生していた為、自分が立ち合った訳では無いが、部下によって姿が一度確認されている旨回答した。
「あれは…、何なのでしょうね?堕ちた誰かではない…、少なくともシステム側の誰かが堕ちた存在ではない…、そんな事実
は確認されていない…、当然盗魂者でもない…」
黒面の羊はブツブツとそう呟くと、とりあえず質問は以上である旨を述べ、口をつぐむ。
便宜上アザゼルと名付けられた、アル・シャイターンと行動を共にする白い猫。その正体は一切が不明。表向きはそうなっ
ている。
少なくとも、無表情を装うドビエルの胸中に宿る複雑な思いと、彼が察しを付けている白猫の正体について考察できる者は、
この円卓には今のところ一人もついていなかった。
(デイヴィッド!?)
ビルのエントランスに現れたざんばら髪の大男が周囲を見回している様子を目にし、若い男は目を見開いた。
ストリートギャングの青年達にデイブ抹殺を命じたリロ。その腹心である若い男は、昨夜殺害計画が決行された事を把握し
ている。
リロが不在である現在、この件についての総指揮を任されている若い男は、孤児院で標的外の少年が死んだ事と、青年達と
の連絡がつかない事で、この日は朝からかなり焦っていた。
そこへ、当の殺害対象であるデイブがのこのこと現れたのだから、驚くのも当然である。
(連中め、しくじったのか!)
青年達と連絡が付かないのは、失敗して雲隠れしたせい。予想していた中でも最悪に近い事態に陥っていると感じながらも、
若い男は誰かを捜しているらしいデイブに近付く。
もしかしたら、青年達から殺害を命じたのがリロであると聞き出したのかもしれない。そんな思いすら頭を過ぎる。
彼らのボスである紳士のお気に入り、デイブ殺害を企てたと知られれば、いかなリロでもお咎め無しで済まされるとは思え
ない。
同時にそれは、計画に携わっていた自分の身も安全ではなくなる事を意味する。
(確認しなければ…)
エントランスにたむろっている構成員達の物騒な視線を注がれたまま、なおも平然と周囲を見回しているデイブに向かって、
若い男は足を進めた。
「…お?」
若い男の接近に気付いて首を巡らせたデイブは、何度か見た顔である事を思い出しつつ、体ごと向き直る。
紳士がデイブのアパートを訪ねる際に、若い男は数度だけだが、リロと共に同行していた。デイブはそれを覚えていたので
ある。
「悪ぃが、取り次ぎ頼めねぇかな?」
挨拶も抜きに切り出すデイブの態度を、若い男は不快に捉える。
紳士の今後を憂いて殺害計画を練ったリロとは全く違う意味で、若い男はデイブが嫌いであった。
どのストリートギャングにも属さず、誰にも負けず、誰にも屈さず、誰にも迎合しない、ディープスラムのはぐれ虎。
自分達マフィアすら恐れず、対等の口をきくこの大男の態度は、若いこの男の目には、身の程知らずの不遜な自信以外の何
物にも映らない。
「旦那か、でなけりゃリロのおっちゃんにでも…」
上司の名を軽々しく、そして馴れ馴れしく口にされ、若い男の頬がヒクッと動く。が、彼は短気を堪えて口を開いた。
「ボスは旅行中だ。しばらく戻らん。リロさんも居ない」
「そうか…、旦那、まだ帰って来ねぇのか…」
そう呟いたデイブの顔に、ふと寂しげな色が浮かんだ事を見て取り、若い男は直前までの張り詰めた警戒心を思わず薄れさ
せ、おや?と眉をひそめた。
「散々土産も貰ったし、きちんと挨拶しておきたかったんだけどな…。仕方ねぇか…」
残念そうにそう零すと、デイブは若い男に軽く頭を下げた。
「済まねぇけど言伝頼めねぇか?…実は、今日この街を離れる事になってよ、向こう十何年かは戻って来られそうにねぇんだ」
若い男は、唐突に驚くべき事を言い始めたデイブの顔を、ポカンと口を開けて見上げていた。
一方その頃ビルの外では、
(そろそろ始まるかな?)
予定時刻をだいぶ回った懐中時計の針を眺め、北極熊が胸の内で呟いていた。
口で呟けなかったのは、軽食で口腔が埋まっているせいである。
大型バイクに跨り、平均の倍はあるジャイアントホットドッグを咥え、懐中時計を覗き込んでいる異様な巨漢の姿に、しか
しビルの正面口を警備している男達は視線を向けもしない。
モゴモゴと口を動かし、マスタードとケチャップの味を多幸感と共に噛み締めながら、ジブリールは同僚達の事を思う。
おそらくは前の議事が長引いて予定がずれ込んでいると、彼は読んでいる。
そして、その読みは的中していた。
同時刻、デイブの処遇を決める審問会は、丁度始まろうとしていた。