第三十七話 「審問会」(中編)

「これより審問会を開会致します。申立人は、配達人ミカール。並びに配達人イスラフィル。両名前へ」

犀が重々しく告げると、入り口側から現れた二人…レモンイエローの獅子と黒い雌牛が、床が盛り上がって変形し、一段高

くなって出来上がった壇に設けられた証言席へと歩み寄った。

机自体が変形し、先程とは違いU字型となって証言席を囲む形になった元円卓の一席で、灰色熊は二人の顔を眺めている。

少し先を行く獅子は、背は低いが幅がかなりあるため、とにかく丸い。

フサフサとした陽光色の鬣は立派だが、頬がプックリと膨れた丸顔な上に、目が大きくクリッと丸いせいで、幼いとさえ言

える顔立ちになってしまっている。

正式な会議の場である為に、常のつなぎ姿とは違って薄黄色のワイシャツに黄色いネクタイを締め、落ち着いた薄茶色のダ

ブルのスーツを纏っているが、着用者と衣類には、何かの記念に写真を撮るに際して無理矢理貸衣装を着せられた子供のよう

な、キュートなアンバランスさがあった。

可愛らしいとさえ言える童顔を真面目に引き締めているミカールは、卓についているメンバーには全く視線を向けず、前だ

けを見て席の傍に至った。

いかにも頑強そうな、骨太で筋肉質な体付きの黒い雌牛がそのすぐ後に続いて席に寄る。

大柄な黒牛もまた仕事用のつなぎではなく、今回はスーツ姿であった。

白いワイシャツに黒い蝶ネクタイ。黒の男物スーツを着こなしてはいるが、胸部は豊満なバストで大きく張り出しており、

女性である事がはっきりと判る。

気が強そうにも見える目尻が少し吊り上がり気味の双眸が、卓につくメンバーの顔ぶれをそれとなく見る。

会社などに例えるならば、役員や幹部クラスが集う会議である。

一介の配達人であれば萎縮するところだが、ミカール同様、イスラフィルにも気後れしている様子は全く見られなかった。

視線を走らせて顔ぶれを確認していたイスラフィルの瞳は、ある一人の顔で止まる。

議長席につく犀のすぐ右手側、この会議で二位の位置とも言えるその席についている男の顔で。

視線は交わらず、先に見つめていたドビエルが視線をミカールへ向ける形で逸らした。

しかしイスラフィルの視線が自分に注がれていると確信した上で、屈強な体付きのグリズリーは、注意して見ていなければ

判らないほど小さく頷く。

任せなさい。

小さな仕草に込められたそんな意図を読み取ったイスラフィルは、相変わらずの無表情を顔に張り付けたままのドビエルか

ら視線を外し、正面へ向けた。



「待たせたな旦那」

ビルから出てきて歩み寄った虎顔の大男に、熊顔の巨漢は首を巡らせて微笑みかけた。

「挨拶はできたのかい?」

「いや、会えなかった。…伝言だけ頼んだが…、ま、仕方ねぇよな…」

残念そうにデイブが応じると、ちらりと懐中時計を一瞥した北極熊は、それをライダースーツのポケットに押し込む。

「さて、次は何処に行こうか?」

「まだ回ってくれんのかい旦那?」

「次はいつ来られるか判らないんだから、心残りが無いようにしておかないとね」

ジブリールはそう言うと、後部座席をポンポンと手で叩き、乗るようにデイブを促す。

バイクの後部、そのすぐ横で立ち止まったデイブは、少しばかり決まり悪そうに耳を倒し、頬を指先でポリポリと掻く。

「…じゃあ、お言葉に甘えるかな…。挨拶する訳じゃねぇけどよ、顔見ておきてぇヤツが他にも居るんだ。…良いかな?」

「構わないよ。遠慮は無しだ」

にこやかに応じた北極熊に「済まねぇ」と軽く頭を下げ、デイブはバイクの後部に跨る。

北極熊の愛車であるらしいハーレーの大型バイクは、少々古い型だが傷が全く無く、ピカピカに磨き上げられていた。

ガソリンタンクなどは乗り手の被毛同様のパールホワイトに塗装されており、全体が白と銀を基調にしたカラーリングとなっ

ている。

「俺はこういうのあんまり詳しくねぇけど…、良いバイクだよな」

尻の位置を調節しながらデイブが呟き、ジブリールは「有り難う。気に入っているんだ」と笑みを深くする。

「もしミカールの希望通りに配達部門に配置されたら、いずれキミも専用のバイクを選ぶようになるよ」

「専用のバイク?俺もバイクに乗るのか?」

きょとんとしているデイブに、ジブリールはたっぷりした二重顎を引いて頷いた。

「まぁ、最初は手が出ないだろうから、しばらくは貸与車に乗る形になるだろうけれど」

「貸与?貸して貰えるってのか?バイクを?」

貧しい生活に慣れきったデイブにとっては、バイクなど超高級品である。

生まれてこの方欲しいとすら思った事がない。そんな事は思ってもいけない。見上げる事すらおこがましい程遠い。そんな、

雲の上の存在であった。

そんなデイブの戸惑いを察したように、ジブリールは首を巡らせて尋ねた。

「バイクは嫌いかい?」

「え?…いや、嫌いとか好きとかそういうの以前に、自分が乗るトコなんて今まで想像もしなかったしな…」

「便利だよ?自分で飛ぶよりずっと楽だしね。今じゃもうこれ無しで配達なんてできない」

ジブリールは振り返ったままほがらかに笑い、愛車のガソリンタンクを軽く叩く。

「…バイクかぁ…」

ぼそっと呟いたデイブの口元が、微かに緩んだ。

突然バイクに乗れると聞かされ戸惑ってはいるものの、それでも徐々に興味が沸き始めて。

再誕した後に巨漢のバイクに乗せて貰い、バイク特有の乗り心地を初めて知ってから数時間。最初は少々おっかなびっくり

だったが、少し慣れてきた今では悪くないと感じている。

非常識なルートをほとんど選ばずあまりスピードを出さずにのんびりと走らせる、配達人としては珍しいといえるジブリー

ルの安全運転のおかげかもしれないが、デイブはバイクの乗り心地が気に入り始めてさえいた。

「それじゃあ出発しようか。もう慣れたと思うけれど、きちんと掴まるんだよ?」

「おう」

頷いたデイブは、北極熊の背に覆い被さるように密着し、太い胴に腕を回す。

とは言っても、大柄なデイブでもジブリールの極めて太い腹には腕が回りきらないため、つなぎの腹部を締めるベルトを臍

下左右で掴む格好になる。

慣れてさえ来れば、あまり速度が出ていない状態ならばライダーの腰後ろのベルトとシート最後尾のベルトを掴むだけで体

を保持できるようになるが、デイブが初心者という事もあって、ジブリールはこの密着スタイルでのタンデムを勧めていた。

蓄積された大量の脂肪によってムッチリと張り出しているのが革のライダースーツ越しにも判る腹。その段が付いた下腹部

が乗っているベルトをギュチッと掴み、デイブは「オッケーだぜ、よろしく旦那」と声をかける。

「お任せあれ。それじゃあしゅっぱ…」

ぐごご〜、ぎゅるるるるるるるるるる…。…るるっ…。

ジブリールの言葉は、バイクのアイドリングにも負けない物凄い音で途切れた。

音どころか、腹下のベルトを掴んだ手に震動を感じる程の腹の虫に驚き、デイブはパッと手を放す。

「あ、悪ぃ旦那!…って、ん?俺か?俺のせいなのか今の?ってか何だ今の?」

ビックリして反射的に謝ったデイブは直後に首を傾げ、ジブリールは気まずそうに耳を倒した。

「いや、キミのせいじゃあ全くないよ。こちらこそ悪いんだけれど…」

一度言葉を切った北極熊は、

「デイヴィッド君、そろそろお腹が減らないかい?」

つい今し方ホットドッグを食した事も忘れたように、少々切なげな声でそう尋ねた。



「…にて確認されましたが、イブリースが至近距離に存在していたため大特異点との接触の余裕は無く、また、追跡する事も

できませんでした。管理室で押さえている事柄は以上となります」

雪豹が淀みなく説明を終えると、議長の犀が目で会釈し、口を開いた。

「では先に、越権行為と職務規定違反の疑いのある一件について審問を行います。配達人ミカール、証言と弁明を」

部屋中央のスペース、U字形の机に咥え込まれるような形で設置されている席は、議長の犀と向き合う形になっている。

高い椅子から腰を上げたミカールは、座っていた時よりも低い位置に移った視線を犀の顔に向け、頷いた。

この審問は、デイブの事について協議するだけでなく、ミカールとイスラフィルの二名に弁明を求めるという面も持ち合わ

せている。

イブリースとの取引に応じ、システム側からの彼とデイブへの接触を妨げる行為を選択したミカール。

同僚の提案を受け入れ、イブリース討伐の為に集合した者達に対して直に行動中止を訴えかけたイスラフィル。

これらの二人の行為は、意図的にデイブには伏せられているものの、実は重大な職務規定違反と越権行為であった。

特にミカールについては、システムに属する存在でありながら最大最悪の敵性存在アル・シャイターンと独断で取引したと

いう、立場上許されざる行いについても問題視されていた。

全員の注目を浴びながら、レモンイエローの丸い獅子が口を開いた。

「管理室の坊主が詳しく説明した通りや。先に述べられた事に間違いは一つもあらへんし、ワシから改めて補足する事も無し

や。話の続きになるイブリースとの取引について…、そっから説明さして貰う」



「仕事場からも近いからな、よくここに来てたんだ」

オープンテラスのカフェ、丸テーブルの一つについたデイブは、別れを惜しんでいるような抑えた声音で呟く。

空腹を訴えたジブリールを案内したのは、デイブがいつも利用していたカフェであった。

ここで赤眼の北極熊…イブリースと二度目の対面を果たしたのは、つい昨日の事である。

管理人達に包囲され、人為らざる者達の存在をはっきりと認識した昨日の夕刻から、まだ二十四時間経っていない。

再誕に当たって最低限の情報がダウンロードされているため、自分もまた彼らと同類であり、そしてどんな存在であるのか

という事はおぼろげながら理解しているが、この短時間ではなかなか自覚が沸いて来ない。鉄色の虎としてのデイブは、今朝

生まれたばかりなのである。

椅子に腰かけた際に尻尾の感触と位置が気になり、デイブは後ろを振り返りつつ背もたれと尻の間の尻尾をどうすべきか考

え、結局横に垂らす形に落ち着かせた。

尻尾もそうだが、人間であった時と比べてより鋭敏になっている感覚と、軽い体の感触にも戸惑いがある。

体が軽いといっても、体重そのものが減っている訳ではない。強靭かつ柔軟な骨格に加え、尻尾なども追加されているため、

むしろ重くなっているはずである。

それなのに軽く感じられるのは、デイブの魂の器として再構築された肉の体が、地上の理に縛られた生き物の身体性能限界

ギリギリのポテンシャルを秘めているせいであった。

身体能力の向上もさることながら、感覚器官の高性能化も驚嘆すべきレベルの物である。

視力、聴力、嗅覚に触覚。そして味覚も鋭くなっている事は、なじみのカフェの安コーヒーの味がより微細に捉えられる事

からも確認できた。その気になれば使った水やコーヒーの種類、クリープの味を別々に感知し、記憶しておく事もできそうだ

と感じられている。

味覚一つ取っても機能が深まっている五感。その中でも特に顕著なのは、触覚の変化であった。

全身が被毛に覆われた事もあって、体を撫でる風の感触を微細に感知できる。ジーンズに薄手のトレーナーという衣類越し

でも感知できるそれは、風の形を体で視ているような感覚をデイブに与えた。

「まだ新しい体は落ち着かないかな?」

テーブルを挟んで座る北極熊にそう訊ねられ、デイブは軽く顔を顰める。

「無かったモンもついてるしな…」

彼の背後で持ち上がった長く太い縞々の尻尾が、くいっくいっと左右に先端を揺らして存在をアピールすると、ジブリール

は可笑しそうに顔を綻ばせる。

「確かに、それはこれまで無かったからね。オレの尻尾は短いからあっても無くても一緒だけれど」

「無くても困らねぇよなぁ、これ…」

振り返ったデイブの視線の先で、尻尾がククッと先端を曲げ、お辞儀する。

「それでもキミは適応が早い方だよ。驚く程にね。人間の物とはいえ、最初から肉の体に入っていたせいかな?それは一種の

才能だよ」

「そんなもんかい?まだ魂だけになった事ねぇから、俺にゃあピンと来ねぇが…」

「冥牢などの異層空間に転送される際には肉の体を置いて行く事もできるから、用事さえあればその内に体験できると思うよ。

ただし、魂だけの状態では、通常空間では甚大なエネルギーを消耗してしまう。地上に滞在するなら、肉の体…つまりシェル

ターが無いと不便なんだよ。存在維持だけで疲れるから」

「…ふぅん…」

話の半分程度も理解できずに空返事し、顔を前に戻したデイブは、目の前の北極熊の顔をまじまじと見つめた。

運ばれて来たばかりのハンバーガーにかぶりついている北極熊は、目の色を除けば昨日の北極熊と瓜二つである。

大柄なデイブをも大幅に上回る身長に、でっぷり肥えてドンと腹が出た極端な肥満体型、さらにはその顔形。

昨日の北極熊は、瞳の色が薄い赤で、赤いロングコートを纏っていた。

今日の北極熊は、瞳の色が薄い青で、黒いライダースーツを着ている。

別人であるという事はミカールから知らされているものの、昨日と同じ席で昨日と同じように向き合っていると、同一人物

なのではないかと錯覚しそうになる。

パサパサした安物のハンバーグがボソボソのパンに挟まれた、味はイマイチだが量はある特大ハンバーガーをペロリと平ら

げた北極熊は、

「どうかしたかい?」

自分をまじまじと見つめているデイブに気付き、首を傾げた。

「え?あ、ああ、えぇと…」

何と言うべきか迷ったデイブに、ジブリールは微苦笑してみせた。

「ああ、随分太っているなぁ、って?オレもミカールも食べる事が好きでね、肉体の最低限の欲求に留めておけないんだ。あ

ははは!不摂生だよねぇ?」

卑下するでも自嘲するでもなく、北極熊は快活に笑って丸い腹をポンと叩く。

そのほがらかな明るい笑顔を目にして、デイブの認識はしっかりと固まった。目の前の北極熊は、昨日の赤い目の北極熊と

は全くの別人であると。

(昨日の旦那は、いつも面倒臭そうな無表情で…、どっかこう…ぼんやりしてた…。けどこの旦那は生き生きしてる。明るく、

良く笑うし、表情が豊かだ。見た目は確かに似てるが、性格は全然違うのかもな)

「俺も、食うのは好きだ。けど味より量かな」

つられたように笑みを浮べたデイブがそう言うと、ジブリールは顔を綻ばせたまま少し目を大きくする。

「ミカールは料理が趣味でね、好きなだけじゃなくとても上手なんだ。美味しい物を沢山作ってくれるから、楽しみにしてお

くといいよ。ところで、キミは何が好物かな?」

「ん〜…、一番はピザかな?」

デイブがそう応じてコーヒーを口元に運ぶと、

「それならさらに期待していいよ。ミカールはピザ作りも得意だから」

ジブリールは笑みを深くし、その味を思い出して湧いてきた唾液をコクンと飲み込む。

「…あ。ところで旦那、一つ訊きてぇんだけど…」

ふと思い出したデイブは、コーヒーの入った紙コップをテーブルに置き、表情を改める。

「なんだい?」

「えぇと…、ユビキタスっての、何だか判るか?」

昨夜イブリースが口にしていた言葉を耳元に甦らせながら、デイブは訊ねる。

神は居ないのだろうか?

ニコルを喪い、シスターもまた死んだと思い込み、この世に絶望したデイブが口にした問いかけ。

それに対しての返答だったのか、それとも別の何かだったのかは判らないが、イブリースはその一言を呟いた。

ジブリールは少し不思議そうに首を傾げ、ややあってから口を開く。

「「神は遍在する」…ラテン語だよ」

「へん…ざい?」

眉根を寄せたデイブに、ジブリールはだぶついた顎を引いて頷く。

「遍く在る。…つまり、いつでも、どこにでも在るという意味さ」

虎男は少しの間考え込んでいたが、やがて目の前の北極熊の顔をまじまじと見つめ、それから「ふぅん…」と、納得したよ

うに顎を引いた。

「なるほどな…、神はどこにでも居る、か…」



「以上で、配達人イスラフィルからの弁明を終わります」

黒い雌牛がそう締め括ると、会場から一斉に吐息が漏れた。

ミカールが、次いでイスラフィルが報告した内容は、集った面々の興味を惹くに足るものであった。

大いなる敵対者と相対し、なおかつ消滅させられずに帰還し、接触の様子を語れる者は多くないのである。

だが、会場のどよめきはそれだけが原因ではない。

アル・シャイターンに関する貴重な最新情報を持ち帰っただけでなく、二人はかつてない奇妙な事象に遭遇している。

人間として誕生し地上で暮らしていた、地の理の中で生まれ、地の理の中で生き、地の理から外れた存在…、すなわちデイ

ヴィッド・ムンカルとの接触とその保護である。

この審問会のメインとなる議題、デイブの処遇についての議論に入る前から、議場の空気はにわかに張り詰める。

「相変わらずイブリースの動向には謎が多いですな…」

「ですが、現時点での彼奴の力が計れたのは僥倖かと」

「果たして幸いといっても良いものか…。エリート中のエリート、管理人達でも歯が立たないというこの事態にどう対処すべ

きであろう…」

「もう一件の方、人間に生まれていたという存在についてもまた…」

「…それだけではございませんぞ。ブラストモードらしい力を持つとか…」

ボソボソと囁き交わす声があちこちから上がり、議長の犀は「静粛に!」と、太い声を張り上げる。

ピタリと囁き交わす声が止み、静かになった議場を見回した犀は、部屋の中央の席に並んでつく二名、ミカールとイスラフィ

ルに視線を向けた。

相変わらず二人には緊張した様子が全く見られず、ミカールに至っては椅子に踏ん反り返るという態度の大きさで、あてが

われていたコップを手にとって水を飲んでいる。

(少しは神妙な顔を見せたらいいだろうに、相変わらずふてぶてしい)

犀は呆れ混じりに胸の内で呟いてから、再び議場を見回した。

「二名の弁明について、ご意見がお有りの方は…」

すっと挙手された黒顔の羊の腕を視界の隅で捉え、犀は「またか」と、声には出さずに口の中で呟いた。

「二名が独断でイブリースと取引を交わした事も問題ですが、もう一つ、腑に落ちない事がございます。皆様方は既にお気付

きでしょうが…」

発言を促された羊は、そこまでで一度言葉を切ると、自分の発言の効果を確かめるように場内をゆっくりと見回す。

「ちゃっちゃとしゃべらんかいボケ。こちとらヒマ持て余しとるオドレと違うて忙しいんや」

(いいぞミカール、言え言えもっと言え)

ミカールが小声で悪態をつき、犀が胸の内で応援した次の瞬間、ゴスン!と、景気の良い音が議場に響いた。

レモンイエローの獅子の頭に、横合いの黒い雌牛が無言で無表情で無警告に、拳骨を落としたのである。

音が部屋中に響くほど強烈な嗜めの一発を頭頂部に貰い、したたかに舌を噛んでしまったミカールは、右手で頭を左手で口

元を押さえて声も無く悶絶し、それを見ていた議場のほぼ全員が一斉に、痛そうに顔を顰める。

そんな中で、ミカールの悪態が聞こえなかったかのように、黒顔の羊は先を続けた。

「犠牲者が出ぬよう、そして被害が拡大せぬよう、やむを得ずイブリースの言い分を聞き入れ、取引に応じた…。まぁこれは

宜しいと個人的には思えます。腑に落ちないのは、そもそも取引に応じる必要が本当にあったのか?という事でして…」

会場がざわつき始め、黒顔の羊はその反応に満足したように口の端を僅かに上げる。

「オーバースペックのお二人が居合わせながら、本当にイブリースとの取引に応じなければならなかったのですか?いかなイ

ブリースといえども、二人がかりで抑え切れないとは思えません」

黒面羊は部屋中央の二人…殊更にミカールの顔をじっと見つめ、

「やはり、昔馴染み故に便宜を図ってしまいますかな?」

と、勝ち誇ったような響きすら声に滲ませて言い放った。

(…う…!やば…!)

犀は軽く顔を顰め、胃の辺りを分厚い手で押さえる。

キリッと響く異物感。それが何を意味しているのか、この本部の維持管理を総括している彼にははっきりと判った。

この本部内に、誰かが何かを無理矢理召喚しようとしている。

その誰かとは、当然ミカールである。

イスラフィルの拳骨の名残りで目尻に涙を溜めてはいるものの、物凄い形相で、無言でブチ切れている童顔の獅子の鬣は、

風も無いのにざわめき、少し伸びてさえいる。

(こらこらこらこら除幕して何するつもりだ!?)

焦る犀の視線の先で、今正に議場の床を叩き割ってアハトアハトを呼び出そうとしていたミカールは、

「おら、止めときな」

「ぎゃっ!」

黒い雌牛の手が尻尾を力任せにきつく握り込んだ事で、集中を解かれて短く悲鳴を上げる。

「大人しくしてないと…、この筆尻尾、引っこ抜くよ?」

「わぁった!わぁったっちゅうに放せ筋肉女っ!」

ボソボソと囁き交わす二人の前で、犀はほっと息を吐いたが、すぐさま表情を引き締めて傍らの男の様子をそれとなく窺う。

二人の旧友でもあるドビエルは、黙したままである。

ここまで何の動きも見せていないだけでなく、弁護の言葉を口にしようとする素振りさえ見せない。

(良いのかドビエル?こりゃあ会場のほとんど全部が、二人の敵に回っちゃうぞ?)

心配しているように軽く眉間に皺を寄せた犀は、黒顔の羊の発言がもたらした効果の大きさを、極めて冷静に分析し、はっ

きりと認識していた。

ミカールの爆発によって議事進行が破綻し、さらに立場が悪くなる事は免れたものの、責を問われる二人は、黒面の羊の発

言によってさらに立場が危うくなった。

彼が口にした「その事」は、皆が薄々は感じながらも、これまで誰も口にしなかった事であった。

しかし、音声で会場に流れそれぞれの耳に届いたせいで、胸の内に仕舞い込んでいた者の心にも疑惑を芽生えさせる。

イブリースと知らぬ仲ではない二人。

オーバースペック二名が同時に接触するという理想的なシチュエーションとなったにも関わらず、相手側が持ちかけてきた

取引をのむという行動。

またも周囲をゆっくりと、得意げに見回し、自分の発言が会場にもたらした効果を満足そうに確かめた黒面羊は、用意して

いた最後のセリフをゆっくり、はっきりとした発音で吐き出す。

「…本当ならば、捕縛…、あるいは消滅せしめる事も可能だったのではありませんかな?ご両人。よもやみすみす逃した訳で

はありますまいな?」

尻尾を掴まれて椅子から立てないようにされているミカールが、歯をギリリと食い縛る。

反論できなかった。

確実に勝てるという補償も確信も無かったと言い張る事もできたが、それはあくまでも一対一の場合である。

イスラフィルと二人がかりであれば勝てた可能性も高い。当時イブリースがその気になっていなかったという不確定要素は

あるが、試しもせずに否定する事は、ミカールにはできなかった。

そんな、駆け引きに向かない同僚を、尻尾を掴んだままちらりと横目で見遣った雌牛は、僅かに口元を緩める。

(良くも悪くも、裏表無く真っ直ぐなんだよねぇ、コイツは…。だからこそ…)

胸の内で呟いたイスラフィルは、口元を引き締めて挙手し、発言を求めた。

(だからこそ、こういうのはあたしらの役目だ)

犀が発言を促すと、イスラフィルは椅子から腰を浮かせて立ち上がる。

ドビエルがじっと見つめている事に気付きながらも、あえてそちらには視線を向けず、黒い雌牛はしっかりとした声音で言

い放った。

「古馴染みという点については、否定しません」

イスラフィルが挙手した途端に微妙な顔つきになっていた黒面羊は、これを聞いて口元をにやりと歪め、場内が軽くざわつ

いた。

が、まるで黒顔の羊の発言を肯定するような切り出し方をしたイスラフィルの発言は、そこまででは終わらなかった。

「確かにあたしもミカールもヤツの古馴染みです。ご臨席の室長、責任者の方々の約半数と同様に」

一拍置いて続けたイスラフィルは、傍らのミカールが見上げる前で、一同の顔を見回した。

古くから室長などを務めている者の中にはかつてのイブリースと面識がある者も多い。彼らに対して訴えかけるように、イ

スラフィルは続ける。

「誤解を恐れずに申しますが、あたしはヤツにある種の「恐れ」を抱いています。勝てないかもしれない相手だと。…同時に、

その力に対しては「惜しい」という評価も抱いております…。その欲と恐れが攻め手を鈍らせたと言われれば、これも否定の

しようがありません」

相変わらず勝ち誇ったような表情を浮かべていた黒顔の羊が、周囲の変化に気付いて笑みを消す。

「お答えは結構ですが、皆様方それぞれ、自分の心に問いかけてみて下さい。自分と誰かの二人がかりでイブリースに挑む…、

その時に全く恐れを抱きはしないか?自分がイブリースを追い詰めたとして、躊躇無く消滅せしめる事ができるのか?」

イスラフィルの声が止むと、議場は水を打ったように静まり返った。

誰も、表立ってイスラフィルに文句を言える者は居なかった。

一対一でイブリースと遭遇して勝てるかもしれない者など、議場に集まっている者の中には、ドビエルやミカール、イスラ

フィル程度しか居ない。二人がかりでも難しいのが実情である。

その中で勝算が高い一名が恐れを口にしたところで、責められる者など居なかった。

(こりゃあお前の読み違えだな。残念賞)

顔を赤くしている黒面羊を盗み見ながら、犀は胸の内で呟いた。

ミカールかイスラフィルが負けの可能性やイブリースに対する恐れを口にする事を、黒顔の羊は考えていなかったのである。

二名が意地を張れば、そこから突き崩し、醜態をさらさせて非難する事もできたが、イスラフィルがつまらない意地を張ら

ず、正直な気持ちを吐露して皆に訴えかけた事で、その目論見は泡と消えた。

また、イブリースの力を認める発言も、反発を招くどころか共感を誘った。

豪快でさばさばした性格ではあるが、海千山千の古強者イスラフィルは、論客としても十分な実力を備えている事を、審問

と言う滅多にない機会で証明してのけた。

(ドビエルに負けず劣らずだな。なかなか見応えがある)

面白がっているようにほんの少し口の端を上げていた犀は、イスラフィルが発言を終えた旨を明言して着席した後、一同を

見回して口を開いた。

「只今のイスラフィルの発言について、質問などがあれば挙手を」

手は、挙がらなかった。

多くの共感を集め、議場の雰囲気はイスラフィルに味方している。

顔を顰めたままではあったが、黒面羊ですらこの場でそれ以上二人を追い詰めるような発言を躊躇った。

「無いですかな?では配達人ミカール、配達人イスラフィル、それぞれ追加の弁明などは?」

「あらへん」

「ありません」

ミカールが不機嫌そうにムッツリしながら、イスラフィルがあくまでも堂々とした態度のまま応じると、ゆっくり頷いた犀

が口を開く。

「それでは、採決に入ります。配達人ミカール、配達人イスラフィルの行為について、職務違反に伴う罰則が適用されるべき

とお考えの方は挙手を…」