第三十八話 「審問会」(後編)

「結構です」

メンバーの八割が挙手した事を確認し、犀は厳かに頷いた。

この結果を受け止めかねたのか、ミカールはきょとんとした顔をしている。

だが、予期していたイスラフィルは、表情一つ変えはしなかった。

事の次第を静かに見守っていたドビエルもまた、無表情のままである。

「挙手の無かった方は棄権と見なさせて頂きます。罰則適用必要2…、罰則適用不要16…、よって、二名に関しては責任を

問わず、罰則適用は無しとします」

最初の声がけに応じ、挙手して二人への罰則適応を求めたのは僅か二名。対して、二度目の声がけに応じて挙手し、罰則の

適用無しとの意思を示したのは十六名。

圧倒的大差により、二名は責任を問われない事となった。

罰則適応を半ば覚悟していたミカールは、この結果に大いに驚いた。だが、結果よりも驚かされたのは挙手の内訳である。

自分達を嫌っているはずの黒顔の羊は、二度目の声がけに応じた挙手により、罰則適応の必要無しとの意思を示した。

それだけでも驚きだったのだが、問題は適応を要するとの見解を示した二名の一方である。

一方は保守派で知られるアオウミガメ。いかなる場合も厳粛に規律遵守を求めるこちらの挙手は、当然とも言えるので驚く

には値しない。

だが、挙手したもう一名が古馴染みの灰色熊である事には、さすがに仰天していた。

(何でや…!?何でお前…、ドビエル…!)

驚愕し、困惑しているのはミカールだけではない。黒顔の羊もまた、ドビエルが要処罰で挙手する様子を驚きの表情で眺め

ていた。

ミカールやイスラフィルとは古い馴染みであり、親しい間柄でもあるグリズリーが、彼らに不利となるような行動を取ると

は思ってもみなかったのである。

一同の軽い混乱をよそに、犀は落ち着き払った太い声で先を続けた。

「最終弁論機会となりますが、意見がお有りの方は銀の雄弁をもって異議申し立てを…。結果を承認なさる方は金の沈黙をもっ

て賛成を…」

犀の言葉が終わると同時に、議場は静まり返った。

ミカールとイスラフィルも、議長席の隣にかけているドビエルも、黒面羊も、誰もが一言も発しないまま、

「金の沈黙を持ちまして、二名の潔白は承認されました」

犀の言葉が沈黙を破り、ミカール、イスラフィル、ともにお咎めなしとの決議結果となった。だが、

(何や?何かおかしいで?ダボ羊がワシらに有利な挙手をするのもおかしいが…、ドビエル、お前一体何考えとんねや?)

ミカールは、諸手を挙げて喜べるような気分ではなかった。

その横に座した体格の良い黒雌牛は、その顔に感情の色を乗せる事も無く、ただ静かに、手元の資料に視線を落としている

ドビエルを見つめていた。



「このお店かい?」

「ああ…」

頷くデイブを同方向に顔を向けた、でっぷりと肥えた北極熊は、

「バー、グレイスモーク…か…」

アイドリングするバイクに跨ったまま、原色が塗りたくられた派手な看板を見上げる。

店の楕円形の看板は地色が赤で、枠の縁取りと文字は黄色。どぎつく目立つその看板で、この店がバーである事は判った。

バーやパブがひしめき、ギュウギュウと肩を寄せ合う繁華街の、一際みすぼらしい食堂兼バー。

昼には食事を出し、日が落ちれば朝までオープンの飲み屋に変わるというその店は、デイブがちょくちょく顔を出していた

馴染みの店でもあった。

「お店の名前には何か由来が?」

「あ〜、由来なぁ…。マスター兼オーナーの家に伝わってるグリルを置いてあるんだが、そいつがまた物凄ぇポンコツでな…。

いっつも灰色の煙をポコポコ吐き出してるもんで、調理風景眺めてると「お前グリルなのか機関車なのかはっきりしろっ!」

…とかつっこみたくなるぜ?」

「あはははは!それは愉快だねぇ。なるほど、それで灰色の煙なんだ?」

「ああ。チキングリルとか凄ぇモンだぜ?時々煤塗れで真っ黒になって、燻製みてぇな匂いさせて出てくんだからよ。…ま、

そういった失敗作、タダで食わして貰ってたし、助かってたけどな…」

少し寂しげに呟いたデイブは、しんみりした気分を追い散らすように頭をブンブン振ると、「ところでよ」と口調を改める。

「…見られねぇように…ってか「気付かれねぇように」か…、ドア開けて中に金置いてくるってのは、本当にできんのかい?」

「出来るよ。というよりも、「そう意識しない」限り被認迷彩は常に効果を発揮しているから、入って行っても違和感は覚え

られないはずさ。キミがそう望まない限りは、認識されずに出入りできるよ。…けれど、どうしてこっそりなんだい?」

説明していたジブリールは、不思議そうに首を傾げてデイブを見つめる。

「お別れを言うなら、言ってくれば良いのに…。どうしてわざわざ気付かれずにこっそりなんだい?」

問われたデイブは気まずそうに顔を顰め、指先で鼻の頭を掻いた。

「…付き合ってたヤツが…、ここで働いてんだよ…」

ぼそりと応じた虎男だったが、北極熊はなおも不思議そうな顔をしている。

「それなら、なおさらお別れの前に一目…」

「ああもうっ!良いんだよ!まだ付き合い始めて二ヶ月ぐれぇしか経ってねぇんだ!」

デイブは苛立たしげに声を荒らげ、ジブリールの言葉を遮った。

「下手に顔なんて見せねぇ方が良いんだよ、きっと。俺みてぇなヤツの事なんかその内忘れちまうさ。…その方が、アイツに

とっても良い…。もう一緒に居られねぇんだからよ…」

途中から声のトーンを落としてやや俯き加減になり、少し寂しげに言ったデイブは、

「じゃあ、ちっと行って来る。悪ぃな旦那、すぐ戻るからよ」

と、顔を上げつつ努めて明るい口調で言い残し、店の裏口側へと回って行った。

ツケがいくらかあると言ったデイブは、その支払い分もこっそり店に置いて来るつもりらしく、手紙を手にしている。

その手紙が二通用意されている事を知っていたジブリールは、今の話を聞いて納得した。

「お別れの挨拶は手紙で…、か…」

北極熊はゆっくりと顔を上に向け、天を振り仰ぐ。

「オレ達には…、お別れの言葉は無かったよね…、アズ…」

水色の瞳が空を映し、色が重なり合って濃い蒼を為す。

何を思うのか、何を思い出しているのか、その眼差しに宿る寂しげな色と、声音に宿る哀しげな響きは、誰の目にも映らず、

誰の耳にも届かなかった。



「ブラストモードを搭載しているだけでも驚異です」

「さよう。ドビエル室長がアレの制御にどれほどの時間と労力を費やしたか…」

「暴発時の臨界が不明である上、生まれたての者にあの力を制御できるとはとうてい思えません。危険極まりない」

二つめの議事、人間として生まれていたという大特異点についての審問の席は白熱していた。

戦わされているのは、デイブの持つ異端の力、侵食破壊能力に関連する議論である。

地上の因果に縛られない存在であろうと、侵食破壊は無効化できない。

いかなるプロテクトを持ってしても完全には防ぎ止められない彼の力は、いわば自分達に対しての特効能力であり、危険視

されて当然であった。

さらに、この席に当の本人デイヴィッド・ムンカルを連れて来なかった事が、印象をなお悪くしてしまっている。

ミカール、イスラフィルの両名にとっては予想通りの事だったが、デイブの言動や人柄などへの質問から始まった審問会の

第二幕は、早くも荒れ模様となっている。

挙手に次ぐ挙手。質問に次ぐ質問。危惧に次ぐ危惧。

デイブを連れて来なかった事は、一同が危険視するブラストモードの暴走について未然措置をはかった故である事をイスラ

フィルが申し立て、その一点については以降追求されなくなったものの、心証の悪さは払拭できなかった。

だが議長の犀は、この審問会へ本人を同席させなかったミカールとイスラフィルの、口にはしなかった本音を見抜いている。

(実物を見せたくなかったんだろうなぁ。昨日まで人間、こっちの常識を知らず、自分の境遇についても戸惑ってる若者を連

れて来て、「はいコイツです」な〜んて紹介するのは躊躇われたんだろう。ブラストモード搭載者の未熟さが知れれば、各部

門責任者の不安を煽るだろうからな)

まだこちら側に慣れていない、人間だったデイブをこの場に連れて来ても混乱するだけ、連れて来るべきではないというの

が、イスラフィルの主張であった。

心象が悪くなるだろう事は想像できたが、ミカールも、留守番役のジブリールも、これには同意している。

会議はだいぶ荒れ模様だが、ミカールとイスラフィル、そして犀が危惧していた黒面羊の態度は、デイブ擁護の方向へと向

いていた。

最初こそ「おや?」と首を傾げはしたものの、議長の犀はややあって理由に思い至り、納得した。

(ま、技術部門の責任者としちゃあ、排除反対派に回って当然かねぇ…)

中立のまま進行役を務め、議論の行方を見守る犀は、横手のグリズリーをちらりと見やる。

イスラフィル達との関係を考えれば、議論に加わって援護するのが当然に思えたが、ドビエルは相変わらずだんまりを決め

込んでいた。

(一体何を考えてんだよお前さん?さっきも二人の処罰に挙手してたし、今度は成り行きを見守るだけか?いつもそうだが、

今回は普段にも増して意図が読めないぞ…)

犀がそんな事を考えているのが伝わった訳でもないだろうが、ドビエルは静かに手を挙げた。

犀が待ってましたとばかりに発言を促すと、灰色熊は静かに口を開き、直前の発言に対して意見を述べ始める。

「生まれたてでこの力とつきあって行かなければならなかったのは、わたくしも同様です」

当事者と同一の力を持つ唯一の存在、ドビエルの発言に、臨席した者は固唾をのんで耳を傾け、直前までざわついていた会

場はしんと静まりかえる。

この場にいる誰もが、内心では彼の意見を聞きたがっていたのである。

皆の注目を一身に浴びるドビエルは、黒い雌牛とレモンイエローの獅子が注ぐ視線を、そこに込められた期待を感じながら、

普段通りの落ち着いた口調で先を続けた。

「危険性は否定できませんが、排除という極論には賛同致し兼ねます。手探りの状態だったわたくしの時とは状況も異なりま

す。ノウハウなどを伝えれば、制御のコツを掴むまで、わたくし程はかからないでしょう」

発言を終えたドビエルが腰を下ろすと、会場は再びざわつきを取り戻した。

沈黙を守っていたドビエルが、今の発言の中で、排除には反対だという自分の考えについて、ついに明言した。

これにより、特に親管理室長派のメンバーはそれまでの曖昧な態度から、デイブ擁護へと方針を固め、議論はいよいよ会場

を二分し、一層激しく交わされる。

「ワシとイスラフィル、それにジブリールもおる!暴走許すヘマなんぞせんわ!」

折を見て声高にそう主張したミカールは、しかし挙手しておらず発言ルールを守っていない。

だが、その一言の効果は確かな物であった。

オーバースペック三名。その監視下にあればブラストモード搭載者であろうと暴走を食い止められる。

ミカールの主張はデイブに対する一同の不安を、危機感を、少なからず軽減した。

「宜しいですかな?」

ミカールの発言の後、一度静まった後、湯が徐々に沸騰するように再びざわつき始めた一同の中で、黒面羊が挙手する。

「なるほど確かに、彼ら三名に保護観察されれば危険性は封殺されるでしょう。大いに賛成です」

そう切り出した羊の様子を窺いながら、黒雌牛は嫌な予感を覚えた。

「…が、果たして三名も必要でしょうか?二名…いえ、配達人ミカール一名でも十分に抑えが利くかと…」

賛成意見の中に、否定が含まれている。何を否定しようとしているのか悟った瞬間、イスラフィルの顔が微かに歪んだ。

「少々話は逸れますが…、かねてより、オーバースペックが集中している彼らのチームのあり方は物議を醸しておりましたが、

これを機に構成見直しをかけるのも一つかと…。もしも人員不足となるならば、技術室としては、援助の技師派遣も検討致し

ます」

(ちくしょう!コレが狙いだったのかい!)

黒い雌牛は荒い鼻息をつき、テーブルの下できつく拳を握る。

デイブの保護にオーバースペック三名は不要。

譲歩の道を示すような黒面羊の提案は、デイブ受け入れ反対派に一考を促し、そして効果的に浸透した。

イスラフィルは表情を消し、歯軋りしたい衝動を堪える。

黒面羊の狙いははっきりした。

研究者として、そして技術者として、ブラストモードを持つデイブに興味を示すのは当然。この点については最初から推察

できていた。

そして反対勢力に対して妥協案のように提示された今の発言により、実質チームのメンバー削減を目論んでいる事が明らか

となった。

彼らのチームに空いたポジションに自分の息のかかった者を送り込み、間近でデイブを監視させたい。それが黒面の羊の本

当の望みであった。

発言を終えた黒顔の羊は様子を窺うように、一方的にライバル視しているグリズリーを見遣る。

その目が、真ん丸になった。

やや遅れて真意に気付いていきり立つミカールも、それを力ずくで抑えるイスラフィルも、彼の視界の中にありながら、注

意を全く引いていない。

灰色熊の隣にかけている犀もまた、信じられない物でも見たように紫紺の瞳を光らせている。

(頷い…た…!?え?今頷いたよなドビエル?)

驚く犀は、ドビエルが挙手して発言を求めると、咳払いして落ち着きを取り戻しつつ発言を許可した。

「只今、彼ら配達チームについてご意見が出ましたので、わたくしからも案を提示させて頂きます」

会場は静まり返り、ミカールが、イスラフィルが、古馴染みをじっと見つめてその言葉を待つ。

「チームメンバーの削減については、わたくしも賛成です」

「なっ!?」

ミカールが驚きの声を上げたが、ドビエルは一切の揺らぎを見せずに先を続けた。

「オーバースペック三名の一点集中…。高ノルマの配達業務をこなして貰ってはおりますが、ここまで力を集結させた状態は

好ましくない…。因果管制室には以前よりそんな意見が幾度も届いていると伺っております。マリクが喪われ、室長クラスの

業務を行える者に不足が生じてしまった今、過剰な力を一部の業務に割いておく余裕はありません。仮に新たな仲間を迎え入

れるとしても、見直しは必須と思われます」

会場はざわつく中、黒面羊は呆然としながらも、少々気分が良くなって来ていた。

ライバル視している灰色熊が自分の提案に賛成し、認めて後押しするような発言をしている。

敵視しているからこそ肩透かしを食らったような気分にもなったが、悪い気は当然しない。

少し表情を弛ませた彼は、しかし続くドビエルの発言で、「え?」と、間の抜けたか細い声を漏らす事になる。

「また、わたくしにはイスラフィルを次なるマリクに推挙する意思がある事を、先に申し上げておきます」

会場のざわつきは耳障りな程になり、視線は黒い雌牛に集中した。

「彼女ならば次期マリクにも適任かと思われます。先ほど咎めは無いと結論も出ました故、この昇進には問題が無いかと。か

ねてより「才覚」の配達は件数が減少の一途にあり、「吉兆」の一環に含め、統合して差し支えないとの意見も古くからあり

ました。これも見直しをかける意味で、イスラフィルの業務をジブリールの現在の業務に含めて遂行して貰えば、現状維持か、

あるいは統合か、可否を判断する良い機会となるでしょう。ミカールとジブリールの二名が現状を維持し、監視するのであれ

ば、ブラストモードの暴走についての対応も不足は無いと思われます」

先に罰則適応を主張したドビエルがこう発言した事で、一同は成り行きを見ての公正な判断だと錯覚した。

が、これこそがドビエルが先だって、ミカール達に不利な挙手をしておいた本当の狙いであった。

彼が証人達と親しい事は出席者全員が知っている。それ故に判断に公平さと客観性を欠くのではないか?そんな考えは皆の

頭にあった。

それ故に、彼らに対して不利に働くような挙手もしたし、弁護もここぞと言う場面まで控えた。

それらは全て、「あくまでも公正な立場で議事に参加している」と思わせる為の芝居である。

デイブの措置に加え、オーバースペックが集中していたミカール達のチームの構造見直し案。さらにはイスラフィルを次期

マリクへ推挙するという発言。才覚の配達を吉兆の配達区分に含めてはどうかという提案。

ドビエルが一時に発した内容は、ただでさえ混乱しかけていた議場をかき回した。

あちこちで議論の声が勝手に上がりはじめ、収拾がつかなくなる事を恐れた犀は、手元のハンマーを握ってカンカンと丸板

を叩く。

「静粛に!静粛に!一時休会とします!」

声を張り上げた犀は、次いで静かに深くため息を漏らし、傍らの灰色熊をちらりと見遣る。

(なるほどな、これが狙ってた形か…。こうまで引っ掻き回されちゃあ、皆の胸からは大特異点の件一つのインパクトは薄れ

る…。その先の事について意識のほとんどを持ってかれちまう…。ホント、大したもんだよお前さんは…)

ようやくドビエルの行動全てに対して納得の行く推測を捻り出せた犀は、呆れ混じりの微苦笑を口元に浮べていた。



「おかえり」

「おう…」

俯きながら戻って来て、北極熊に声をかけられたデイヴィッドは、張りのない声で返事をする。

別れが辛いのは、その顔を見ればジブリールにも容易く判った。

せめて一声でもかけて来れば踏ん切りもつき易いのだろうが、言葉を交わさずに別れる事を選んだデイブは、胸にモヤモヤ

した物を抱えたような気分である。

「本当に良いのかい?ちゃんとお別れを済ませなくて」

「良いんだよ」

虎男がぶっきらぼうに応じた直後の事であった。その後方でバタンと、勢い良く店のドアが開いたのは。

準備中である事を知らせる札が激しく揺れ、パカンパカンと表面を叩かれているドア。それを押し開けて飛び出して来たの

は、二十代前半から半ばに見える、真ん丸く太った青年だった。

頬の膨れた赤ら顔をさらに赤くして、涙を溜めた目で左右を見回している青年を眺めながら、ジブリールは軽く首を傾げた。

(マスター…じゃないよね?だいぶ若いし従業員かな?)

丸顔をせわしなく動かして通りを見回し、その場からでも無数に見える細い路地の入り口に目を凝らす青年。

仕込み中だったのか、タプタプと弛んだボディラインがはっきり判る薄手の半袖シャツの上に白いエプロンをかけ、落ちな

い汚れで色がくすんだジーンズを穿いている。

「おい!野郎居やがったか!?」

店の裏手側からそんな声を上げつつ駆け出してきたのは、引き締まった筋肉質な体付きの、長身の壮年。短く刈り込んだ髪

には白いものがだいぶ混じっている。

日に焼けた褐色の顔は下半分がもっさり髭に覆われ、額には切り傷と思しき古傷が斜めに走っているという、極めて人相の

悪い男であった。

「い、居やせんっ!いつの間に来てたんだかもさっぱりでさぁ…!」

丸い青年は今にも泣き出しそうに顔を歪め、駆けて来た髭面の壮年に応じる。

二人の手には、たった今デイブが置いてきたばかりの手紙が、それぞれ握られていた。

(…あれ…?)

疑問が生じ、北極熊は眉根を寄せる。

デイブが用意した手紙は二通だった。片方は店主宛で、もう片方は恋人宛だったはずである。

壮年はまず間違いなく店主だとして、ツケを払う旨と挨拶を記した手紙を読んだのだろうが、もう一方の青年まで手紙を手

にしているのは何故なのか。そこがジブリールには判らない。

頑なに後ろを向こうとしないデイブの表情は、今にも怒り出すか泣き出すかしそうな具合にきつく顰められていた。

しばし黙っていたジブリールは、店から出て来た一方に、じっと目を凝らした。

通りの左右を見回してから、顔を伏せて右手を胸元に上げ、握り締められてクシャッと折れてしまっている手紙に視線を落

とす太った青年。

その指まで丸い手に、ポタリと透明な雫が落ちた。

彼の因果は、過去の旅路は、所々がジブリールの目をもってしても見通す事ができなかった。

デイブと深く関わったが故に、虫食い状に因果履歴が消えてしまっているのである。

(過去ログが部分的に参照できない…。なるほど、特異点特有の因果撹乱現象にも似ているけれど…、彼の正体が明らかになっ

た今なら判る。これはきっと副作用だ。制御できていなかったブラストが、関わった他者の因果履歴すらも判読不能な程に侵

食破壊していたんだろう。つくづく凄い物だね、ブラストという力は…。こんな形でカルマアーカイブにまで干渉してしまう

なんて…)

ブラストモードが持つ驚異的な拡大性と可能性と危険性を、ジブリールは改めて認識した。

が、彼は他の多くの者のように、その危険性を過度に恐れはしない。

彼の古馴染みは、手探り状態からブラストの制御を身に付けた。その事を覚えているから、よく知っているから、ジブリー

ルは若虎の行く末までは危険視していなかった。

もっとも、確信に近いその信用は、デイブ自身を見たから、古馴染みが同じ力を持っていたからというだけではなく、ミカー

ルを通して聞いた、ある者が発した一言によっても支えられているのだが。

(早々に制御可能となるよう、先生を手配してあげなくちゃ。顔をあわせれば一言や二言の文句は覚悟しなくちゃいけないだ

ろうけれど…、このケースについては彼以上の先生は居ないしね。それはそうと…)

たっぷりと肉がついている顎下を擦りながら思案に暮れていた北極熊は、

「…男性だったんだ…」

太った青年をじっと見つめて呟く。

「嘘でやしょう!?すぐ帰って来るんでやすよねぇっ!?」

「くそったれデイブ!置いてった金、12ドル多いんだぞぉ!」

口々に声を上げる二人。堪えかねたようにギリッと音を立てて歯を噛み締め、拳を握り込んだデイブは、

「旦那…、もう良い、行こうぜ」

と、押し殺した声で呟き、バイクの後ろに跨った。

「色々、だねぇ…」

ジブリールはポツリとそう漏らし、愛車をゆっくりとスタートさせた。

角を曲がって、二人が、店が、通りが見えなくなっても、デイブは押し黙ったまま、一度も振り返ろうとはしなかった。



「何やアレ!?」

張り上げられた苛立たしげな大声と、蹴り倒された椅子が上げるけたたましい音が、控え室に響き渡った。

「落ち着きなよ、見苦しいねぇ」

肩をいからせているミカールの背に、イスラフィルの声がぶつかる。

「落ち着ける訳ないやろこんなんで!ってかお前は何で落ち着いとんねや!」

振り返ったミカールは、ソファーにかけて紅茶を啜っている黒い雌牛に喚き立てる。

「何考えとんねんドビエルのヤツ!イスラフィルをマリクにやと?本部付けならともかく、何で冥牢や!誰もやりたがらへん

アソコの責任者を、よりによってお前に…!」

「阿呆かいあんたは?」

舌打ちに続いたイスラフィルの言葉は、突き放すような冷たさが混じっていた。

「処罰受ける覚悟ぐらいはして来たろう?それとも、覚悟も考えも無しにあの若虎の面倒を見るって息巻いてたのかい?」

「舐めんなや!覚悟なんぞ決めとる!百年単位の幽閉刑含めて何だって受けたる覚悟はできとった!…けど…」

ミカールは悔しげに顔を歪めて言葉を切り、壁に拳を叩きつける。

「覚悟しとったんはワシ一人の処遇についてや!お前が冥牢なんて辛気臭いトコに飛ばされるんは我慢ならん!」

黒い雌牛はため息をつく。だが、それはどこか優しい、聞き分けのない子供に年長者が向けるような、愛情混じりの呆れが

篭ったため息であった。

「ミカール。あんたこそあたしを舐めんじゃないよ?あの時…、あんたがイブリースの提案を受け入れるって言ったあの時、

片棒を担ぐって決めると同時に覚悟も決めてたさ」

イスラフィルは言葉を切ると、自分のすぐ隣をポンポンと叩いた。

ミカールが顔を顰めながらも大人しく隣に座ると、黒い雌牛は口を開く。

「ドビエルが提案したのは、事態を丸く収める最大限の妥協案さ。…ま、不安と警戒ばかりが先に立ってるデイヴィッドの件

から目を逸らすって、撹乱じみた物も混じってるようだけどね…。様々な思惑を抱えた雑多な勢力の意見を、どうにかこうに

か一つに纏める妥協案。…あたし一人が冥牢に出向して全部収まるって言うんなら…、悪くない取引だと思わないかい?」

「…なら…、ワシが冥牢に…」

俯きながらボソリと言った獅子の頭を、イスラフィルの大きな手がワシワシっと乱暴に撫でた。

「馬鹿言ってんじゃないよ!あんた何のために配達人やってんだい!?何のためにジブリールにくっついてるんだい?」

「そりゃ…」

「それに、あの若虎の面倒見るのはあんたの役目だろ?自分は冥牢に逃げて、面倒事はあたしに押し付けようってのかい?」

「そんなん考えてへんわ!」

カチンと来たのか、歯を剥いて頭に乗った手を振り払ったミカールの顔を見つめ、黒い雌牛はニマっと笑う。

「なら、八つ当たりしたりしょぼくれたりする時間を別の事に使いな?デイヴィッドの件、休憩あけたら採決までそう余裕は

無いよ?一人でも多く納得させられる言葉を、何か探しときな」

ミカールは黙り込み、顔を俯ける。

「…ゴメンな…、イスラフィル…」

「下げる頭を別の事に使いな」

さばさばとした口調でそう言うと、イスラフィルは紅茶を口に含む。

(…さて、こうは言ったけどあたしにもイマイチ良い説得方法が思い浮かばないんだなぁこれが…。何か使えそうな手は…)

イスラフィルは考える。

自分の今後にも関係する様相を見せ始めた審問会。冥牢への出向案はかなりの確率で推されるだろうという事は、重々承知

している。

伸び伸びと過ごせる日々は終わる。惜しいとは思うが仕方が無いとも思う。

だが、ただでは終わらない。

(あたしがマリクにされるのは仕方がないとしても…、置き土産だ。フネとデイヴィッドの事ぐらいは、どうにかして最大限

の譲歩を引き出してやるさ。このイスラフィル様は安くないって事、これから同格になる各室長共に、きっちり判らせてやら

ないとね)

温くなり始めた紅茶を一息に飲み干すと、イスラフィルは勢い良く立ち上がった。

どうしたのか?と目で問う獅子に、黒い雌牛は名案でも浮かんだかのようなスッキリした笑みを浮べながら頷きかけた。

「ちょいと電話して来るよ」

「電話て…、誰にや?」

イスラフィルは器用にウインクし、どこか楽しげな口調で告げる。

「性格と見た目に寄らず、悪巧みがすこぶる上手いヤツにね」