第三十九話 「新たなる配達人」(前編)

「ここのホットドッグも美味しいね」

「そうか。そりゃあ良かった。が…」

デイブは隣に座る北極熊を眺めながら、感心と呆れの入り混じったため息を漏らした。

現在二人は、川沿いの歩道で鉄柵に寄りかかっている。

デイブの右手にはホットコーヒーが入った紙コップ。

対してジブリールの右手にはホットドッグ、左手にはコーラが入った紙コップ。

走行中に露店を見つけたジブリールは、やにわに「オヤツにしよう」と言い出し、本日もう何度目か判らない食事タイムに

突入している。

(何なんだこの飯への執着は?この旦那が一時間以上何も食ってねぇトコ見てねぇような…)

そんな事を考えているデイブの横で、ジブリールは満足気にホットドッグにかぶりついている。

極めて大柄で体格の良いデイブと、それ以上に大きく極度の肥満体であるジブリールは、並んでいればまるで壁のようでも

ある。

それでも周囲の人間達は二人の存在に注意を奪われず、目の前をさっさと歩き過ぎてゆくばかり。

自分の物と並ぶジブリールの影を見遣りながら、デイブはコーヒーをズズッと啜った。

(こんだけ物食ってりゃあ、この体格も納得…ん?)

デイブは不意に聞こえた音に反応し、頭頂部付近に移動した、これまでとは少々聞こえ勝手が違う耳をピクリと動かす。

「電話か…。って、この呼び出し、そこの電話ボックスか?」

胡乱げに零したデイブの横で、ジブリールもその視線を5メートル程離れた位置の電話ボックスに向けた。

公衆電話が鳴る。無いわけでは無いが珍しい現象である。にもかかわらず、電話ボックスに注意を向けているのはデイブと

ジブリールだけであった。

その事に気付いたデイブは、周囲の人間達の様子を確認しつつ首を捻る。

周囲の人間が興味を示さないこの電話の音は、まるで、一般人から見えない自分達のようだと。

「ああ、オレか…」

呟いたジブリールは、鉄柵から尻を離して、鳴り止まない電話ボックスへとのっそり歩み寄る。

「え?旦那、出るのかよ?」

デイブに頷いたジブリールは、その巨体で電話ボックスに入るのは窮屈なのか、受話器を取ってコードを引っ張り、ボック

スに寄りかかる格好で「ウィ?」と電話に出る。

「ああ、イスラフィル。お疲れ様、どう?審問会は無事に終わったのかい?」

「うお…、ホントに旦那宛の電話だったのかよ?」

デイブは少し驚いたように尻尾を立て、その自分の尻尾の反応に戸惑ったように柵から離れ、顔を顰めつつ尻を見下ろす。

不慣れな尻尾の勝手な動きにデイブが驚き、困惑している間に、ジブリールはイスラフィルから現在の状況について聞かさ

れた。

「うん。うん。…ふぅん…、やっぱり荒れたんだね。え?うん、もちろん今も一緒に居るよ」

ジブリールは通話しながらデイブを振り返り、片手を上げ、太い指をひらひら動かして笑いかける。

つられて無意味に笑い返し、「何だ?」と眉根を寄せるデイブの顔は、笑いながら訝るという奇妙な表情を浮かべていた。

「え?そうなんだ?」

イスラフィルから審問会の流れについてかいつまんだ説明を受け、あまり旗色が良く無いと告げられた上で、良い知恵は無

いかと問われたジブリールは、

「うーん…、彼の安全性について上手く伝える方法ねぇ…」

考え込むように眉根を寄せながら、薄い青の瞳を上に向ける。

が、それはイスラフィルに言われた打開案を考えようとしていたのではなく、何故自分がそんな事を尋ねられるのだろうか?

という疑問からの仕草であった。

「どうしてオレにそんな事を?ミカールは何も言わなかったのかい?」

心底不思議そうに訊ねたジブリールは、受話器の向こうのイスラフィルに問いを返され、困ったような苦笑いを浮かべた。

「そんなの簡単じゃないか。だって彼は…………」

それから二、三言葉を交わし、受話器を置いてバイクの傍まで戻って来たジブリールは、デイブから何か問いたげな視線を

向けられた。

「何かあったのかい旦那?」

「まあね。予定より少しかかりそうなんだってさ。と言うわけで…」

北極熊は目を細めて通りの左右を見回し、

「二人を待たずに夕食にしようか」

と発言してデイブを驚かせ、呆れさせた。

「今食ってたのに…。っつうか食ってばっかだな一日…」

「うん?オレの休日はいつもこんな具合だよ?食べ歩きが好きでね」

バイクに跨りつつ微笑むジブリールを眺めながら、デイブは納得しつつ胸の内で呟く。

(こんだけ食ってりゃあ、デカくも太くもなるわけだ…)



「どや?何やええ案あったか?」

電話を終えたイスラフィルにジロリと睨まれたミカールは、訳が判らないまま怯む。

「あんた…!…いや、良い…。あたしも思い至らなかったしね…」

「…だから、何や?何言われたんやアイツに?」

首を捻って訝しそうに訊ねるミカールの隣へ、黒い雌牛はどすっと腰を降ろす。

その顔には、どこか疲れたような、そして安心したような表情が浮かんでいた。

「やっぱアイツは小賢しいね。腹が立つくらい簡単に、効果的な打開案を思いついてくれたよ…」

どうにか難問の解決方法が見つかった。そんな疲労感と達成感、そして僅かばかりの悔しさすら覚え、イスラフィルは顔を

顰めるようにして笑う。

「言われて見ればなるほどだ。…こいつは、キくだろうね…」

「ワシにも説明せぇ。訳判らんがな…」

ミカールが頬を膨らませて催促すると、イスラフィルはジブリールから告げられた一言、ミカールが直に耳にしたはずの言

葉を、ゆっくりと口にした。



休憩を挟んで各々意見がほぼ固まったらしく、先程とは打って変わって静まり返った議場に、犀の厳かな声が響き渡った。

「それでは、決を採る前に最後の発言を…。お有りの方はおられますか?」

部屋を見回す犀の紫紺の瞳が、挙げられた黒い手を見据える。

「配達人イスラフィル、どうぞ」

発言を許されて会釈した雌牛は、静かに立ち上がって周囲を見回す。

先程、デイブのお守りとして地上に残っている同僚から貰ったアドバイスを、頭の中で反芻しながら。

「報告に無かったので、付け加えておきたい事が一つありました。イブリースと、大特異点の関係についてです」

議場の空気が凍りつき、静観していたドビエルの目が僅かに細くなる。

黒面羊の顔も厳しさを帯び、議長の犀も発言者たる黒い雌牛を注視している。

(おっし…!どうやら関心は引けたようじゃないか…。さぁイスラフィル、見せ所だ!しくじるんじゃないよ!?)

全員の視線を一身に浴び、傍らから緊張気味のミカールの視線を受けながら、イスラフィルは心中で己を鼓舞しつつ口を開

いた。

「ここまでに提示された情報から、イブリースがあの大特異点に並々ならぬ関心を抱いていた事は確実です。実際に、ミカー

ルは彼の口からもそんな心中を示唆するような言葉が出ていたと言っておりました」

黒顔の羊の顔に焦りが浮かぶ。

ここに来てイスラフィルが口にしたのは、皆に忌避される恐れと嫌悪の象徴、アル・シャイターンと件の大特異点の関係に

ついてであった。

しかも、どういう訳かイブリースがデイブに関心を持っていた事を強調するような口ぶりである。

これでは大特異点擁護派が有利になるどころか、排斥主張派が鼻息を荒くするのは目に見えている。

困惑しているのは羊だけではなかった。他の多くの者もイスラフィルの発言に戸惑っている。

何故そんな不利な証言を今になってする?

もしやマリクになるのが嫌で引っ掻き回すつもりか?

様々な憶測が居合わせる面々の頭を過ぎる中、十分な間を開けたイスラフィルが先を続ける。

「そして事の終わりまで見届けたミカールは、イブリースが姿を消す前に、彼がデイヴィッド・ムンカルについてこう言って

いたのを聞いたそうです」

そこまでで一度言葉を切り、息を吸い込んだイスラフィルが口を開くと、傍らのミカールも同じ言葉を呟いた。

『見込みがない』

その一言を耳にし、ドビエルの目が見開かれる。同時に議長である犀の瞳も理解の色を浮べていた。

「恐らくは彼の本質を見抜き、自分の側に引き込めないかと画策したのでしょうが、結局イブリースはそれを諦めざるをえま

せんでした。この事から二つ、推測できます」

イスラフィルは周囲を見回すまでもなく、一同の興味を十分に惹き付けていると確信した上で、続く言葉を述べる。

「一つは、デイヴィッド・ムンカルはイブリースが直に見ても引き込みたいと考えるほどの存在であった事。そしていま一つ

は、イブリースから見てもそちらへなびく可能性が無かったという事…」

犀は机の下で拳を握る。その口元は軽く持ち上がり、微かな笑みを称えてすらいた。

一方でドビエルは、ほんの僅かに肩から力を抜き、背もたれに体重をかけている。

「お考え下さい。イブリースが欲しがった人材を強制消滅に処す事が、果たして我々にとってプラスに働くのか?そして、イ

ブリースから見込みなしとされた彼が、堕ちる可能性は如何ほどの物か?」

イスラフィルは問いかける形で最後の発言を終えると、着席して小さく息を吐いた。

「…よう言うた!立派な、でもって完璧なダメ押しやったで!」

横から小声で囁いたミカールに、イスラフィルは軽くウインクする。

本来であれば聞いた本人であるミカールが述べるのが筋だったのだが、イスラフィルはこの役目を自ら買って出た。

それは、ミカールよりも自分の方がスピーチに向いているという自覚があっての事だったが、もう一つ別の理由も彼女を動

かしていた。

冥牢に赴く自分が、地上に残す同僚にして親友達への置き土産として、新メンバーを迎える為の最後の一押しをしてやりた

かったのである。

(あの若虎、珍しい事にミカールに興味持たれたみたいだしねぇ。…何より、まだ会ったばかりだけど、あたし自身もあいつ

に可能性を感じる…。何かどエラい事をしでかしてくれそうな気がする…。今終わらせるのはちょいと勿体無いって思う…)

この時の、「才覚」を司る専門家であったイスラフィルの見立てが正しかった事は、半世紀以上も経った後に証明されるの

だが、今この場ではその見立てを知る者はまだ無く、彼女の胸の内に仕舞われたままであった。

「では、これより採決に移ります」

犀の宣言が部屋に響くと、ミカールは唾を飲み込み、イスラフィルは軽く目を閉じた。



「8割が賛成かぁ。凄いねぇ、よほどキミ達の弁護が素晴らしかったんだろうね」

受話器を握りながらニコニコしているジブリールを、デイブは食堂の片隅から眺めていた。

少し前、食堂のカウンター内にある電話が鳴ったのだが、これに店の者が無反応だった。

まさかと思って胡乱げな顔をしたデイブの前で席を立ち、北極熊は本来客が侵入してはいけないカウンター向こうのキッチ

ンスペースへのっそりと入って行ったのだが、これが予想通りにジブリールあての電話であった。

大皿に盛られたスパゲッティーを自分の皿へ取り分けながら、デイブは首を傾げる。

(何で毎度毎度居る場所の電話にかかって来んだろうな?ひょっとして監視でもされてんのか俺達?)

虎男がそんな事を考えていると、ジブリールは「ちょっとゴメン」と手招きした。

さらに深くなった笑みに頷き、デイブは席を立つ。

「ミカールからだよ」

受話器を預けてそう告げた北極熊は、そのバナナの房のような巨大な手で、デイブの逞しい肩をポンと叩いた。

「これから宜しくね?」

位置を替わりながらそう囁いたジブリールに首を傾げ、デイブは受話器を顔に寄せる。

ジブリールの改まった一言も謎だったが、ミカールからの電話の用件も判らなかった。

「おう。俺」

『良え子にしとったか?』

「…子供じゃねぇんだぞ?まぁ、一日旦那付き合わせちまったがよ」

言外に「子供のお前がそんな心配するな」と臭わせたデイブだったが、受話器の向こうのミカールには伝わっていない。

『こっちもまだ立て込んどるし、簡潔に伝えとく。…デイヴィッド・ムンカル』

「お?おう」

『お前は本日付けで、広域配達担当第13班へ見習い配達人として配置や。固有識別名称は「ムンカル」。…一日も早う一人

前になれるようみっちり絞ったるから、覚悟しときぃ!』

「…あ?」

ミカールとしては激励を込めた、そしてやや照れ臭い改めての挨拶だったのだが、言われた本人は意味が半分ほど判らず首

を捻った。

が、とにもかくにも、配達人ムンカル、誕生の瞬間であった。



中央管理室のドアが開く気配に、円形の部屋の壁側に配置されていたコンソール類に取り付いていた管理人達は、ある者は

手を休めぬまま、ある者は丁度手が止まったタイミングで、首を巡らせた。

黒い雌牛の姿がそこにある事を見て取り、振り向いていた者は一斉に動きを止め、振り返らなかった者達も雰囲気の変化に

気付いて後ろを向く。

ただ一人、気配に気付きながらも振り向こうとしない灰色熊だけが、中央の席に着いたまま、壁面の大型スクリーンに映し

出された折れ線グラフを眺めていた。

入り口傍に突っ立ったまま、ドビエルの背をしばし無言で見つめ続け、事情を知る管理人達の気まずさが高まって来た後、

イスラフィルはようやく口を開いた。

「ちょいと顔を貸してくれないか?管理室長」

しっかりとした、しかしあまりにも低い声音で発されたその言葉に、管理人達は身を強張らせる。

返事もせずにゆっくりと腰を浮かせたドビエルは、

「少し外します。応接室におりますので、何かあったら知らせて下さい」

と、部下達に声をかけると、初めて振り返りイスラフィルと目を合わせた。

「行きましょうか」

「あいよ」

二人が連れ立って出て行くと、管理人達は慌て始めた。

「あのさ…、応接室周りにシール展開した方が良いんじゃないか?」

「シールした所でどうしようも無いだろ?オーバースペックがその気になったら…」

イスラフィルが自身のマリク昇格について不満である事は、審問会の結果を聞いた管理人達にも理解できていた。

さばさばとした姉御肌の性格と気性の激しさで知られるイスラフィルの事、ひょっとしたら己の昇格を決定付ける第一声を

発したドビエルに一言文句を…下手をすれば一発お見舞いしようという心積もりではないだろうか?彼らはそんな不安に駆ら

れて右往左往し始める。

「と、とにかく…、警戒しながら様子を見よう…」

「頃合を見て、誰かお茶をお持ちして中の様子を見てくるとか…、どうだ?」

「「どうだ?」じゃないよ。お前行けよ。オレまだ消滅したくないよ」

口々に不安を口にする管理人達の中で、一人、雪豹だけは、そんな事態にはならないだろうと確信しながらも、同僚達に上

手く説明する事ができそうもなく、気まずそうに黙りこくっていた。



どこもかしこも丸っこい獅子が、白い廊下をペタペタと駆けてゆく。

何かを探しているらしく、しきりに左右の壁や通路を見遣りながら走っているミカールは、やがて差し掛かった十字路の中

央で立ち止まると、苛立ったように舌打ちをした。

「どこ行きよったんやイスラフィルのヤツ…!冥牢出向で自棄起こして妙な真似せんとえぇんやけど…。腹立てて本部内でカ

ルバリンのつるべ撃ちとかしかねへん…」

本人が聞いたなら「あんたと一緒にすんじゃないよ」と怒り出しそうな事をブツブツと呟いた獅子は、その背後にそ〜っと

何者かが歩み寄っている事には気付けなかった。

ある意味血湧き肉踊る被害状況を想像する事に集中し、巨大な影が自分をすっぽりと覆っても無反応である。

「いよぉうミカールっ!」

「のわぁっ!?」

不意に背後、それも至近距離の頭上から声が響いたかと思えば、何者かの手が脇の下に潜り込んでそのままひょいっと抱き

上げられ、ミカールは驚きの声を上げる。

床から1メートル以上も浮いた足をバタつかせながら首を捻った童顔の獅子は、

「は、ははハダニエルっ!?」

自分を背後からひょいっと抱き上げた相手の顔を確認し、抗議の声を上げた。

「ビックリするやろ放さんかいダァホっ!ウスラトンカチ!デクノボウ!オドラデク!」

「おいおい酷いなぁ?久々に話すってのにさぁ」

身の丈が2メートル半もある犀は、ミカールをそのまま高い高いする。

「ん〜、これこれ!ちっこいのにずっしり来るこの感じ!相変わらず可愛いなぁお前さんは。ほ〜れむにむにむにむに…」

「うひゃっ!?にゃ…、にゃははははははははっ!やめれ!やめんか阿呆っ!うひひひひっ!」

自分を抱き上げている脇の下に入った犀の手が、指先をウェーブさせるように動いてこちょこちょを開始すると、強制的に

笑わされたミカールの口から甲高い笑い声が上がる。

「や、やめっ!やめぇてうひひひひひっ!え、ええかっ…ええ加減にせっ…オドレっ…ひゃひひひっ!」

「お〜、やわっこいやわっこい。そ〜れこちょこちょこちょ…」

「あひゃひゃひゃひゃっ!しばくぞごるぁっ!うにゃはははっ!やめっ!やめぇて!やめぇてゆぅとるのが…判らんかこの特

大ドラム缶っ!」

「おぶっ!?」

暴れたミカールが身を捻って蹴りを繰り出し、鼻面に踵を貰った犀は童顔の獅子を放り出しつつ地響きすら立てて仰向けに

倒れる。

床にベタッと四つん這いで着地したミカールの背後で、両手で鼻面を覆った犀は、呻きながら身を起こした。

「おぉぉぉぉぉぉぅ!いだだだだだっ!…たははっ!相変わらず加減無いねぇお前さん…!ちょっとは優しくしてくれよぉ。

おぉイテ…!」

両手で鼻をさする犀の口調は、議場での丁寧かつ威厳ある口調とは打って変わって、砕けた気さくな物に変わっていた。

「多少の事でぶっ壊れるような繊細な体しとらんやろオドレは!」

鼻を鳴らして言い放ち、振り向いたミカールのキツイ視線が、幅広いマズルの先を押さえている古馴染みを射抜く。

「遅ればせながら、まずはおめでとう。…でもって、残念だったな?」

上体を起こして尻餅をついたまま発された犀の言葉に、ミカールは微妙な渋面を作った。

「処罰は覚悟しとった…。けど、お咎め無しの体を装ってイスラフィルがあんなんなるとは…、思ってもみぃへんかった…。

正直、ちと堪えたわ…」

目を伏せて、珍しく素直な心境を語ったミカールの前で、「そっか…」と呟いた犀は、尻を叩いて埃を落としながら立ち上

がった。

この犀、名をハダニエルと言い、本部の機能そのものを司る支配人と呼ばれる役職に就いている。

その立場は管理室長のドビエルに次ぐ高いポジションにあり、審問会や各種会議などでは先程のように議長をも務めている。

同じ室長級役員のドビエルのみならず、ミカールやイスラフィルとも気心知れた古馴染みであり、それゆえに今回の件では

三人の動向を気にかけていた。…のだが、

「せや、イスラフィル探しとったんや。お前なんぞに構っとる暇あらへん」

久々に顔をあわせたというのに、ミカールの態度は実にそっけない。

それというのも、審問会中のドビエルの態度と発言に納得が行かず、機嫌が良く無いからであった。

「イスラフィル止めへんと…。それと、ドビエルにどういうつもりなんか話させへんと…。何考えとんねやあのド阿呆…!」

「そんな事言ったらバチが当たっちまうぞ?ドビエルはな、選べる中から最良の手を選んでくれたんだぜ?あれでも…」

背後での犀の呟きに、苛立たしげな荒々しい足取りで立ち去りかけていたミカールは、足を止めつつ首を巡らせる。

「どういう意味や?それ…」

「おいらも気付くのがだいぶ遅れたけどな、二人の処罰を求めて挙手したのも…、いや、もっと前だ、直前の議事から既に、

あいつは色々と仕込みをしていたのさ…」

ミカールは首を傾げ、ハダニエルはニマッと笑う。

「説明してやるから、部屋寄って行きなよ?茶でも飲もう。イスラフィルとドビエルなら放っておいて大丈夫。…ってか、放っ

ておいてやんないとな、今は」

「あん?どういう意味や?」

不思議そうに首を捻ったミカールの手を、ハダニエルが掴む。

「いーからいーから気にしなくて、あっちのこった」

そう言いながら、巨体の犀は太い獅子の腕を引いて歩き出した。



黒革張りのソファーが僅かに軋む。

身を乗り出し、ローテーブルの上に置かれたティーポットに手を伸ばした灰色熊は、空になった自分のカップにレモンティー

を注ぎ入れた。

その正面、テーブルを挟んで座る黒い雌牛は、音も立てずに紅茶を味わいつつ、紅茶の消耗ペースが早いドビエルの顔を眺

める。

女性型ながらも大柄で体格の良いイスラフィルだが、ドビエルと向き合えばさすがに幾分小さく見える。

管理室長専用の応接室に入ってからというもの、いや、それ以前に中央管理室を出てからというもの、二人は一言も声を発

していない。

二人きりの応接室はあまりにも静かで、カップと受け皿が触れ合う音は、嫌に大きく響いた。

やがて、長い長い沈黙の後に、イスラフィルがおもむろに口を開く。

「よくもまぁやってくれたじゃないか?ええ?」

黒い雌牛の低い声を聞いたドビエルは、口元へカップを運んでいた手を止め、テーブルの上へ戻した。

「怒っていますか?」

「喜んでるとでも思ったかい?」

鼻で笑うような調子で問い返すイスラフィルと、口をつぐむドビエル。

交わされる視線。硬い沈黙。時が止まったようなその静寂を破ったのは、黒い雌牛のため息だった。

「相変わらず言い訳しないね」

「得意ではありませんので」

「説明しようともしない」

「今回はどう説明しようと言い訳にしかなりませんからね」

「だからだんまりか」

「そういう事です」

イスラフィルには解っていた。

審問会中は自分達に味方してくれなかったように見えても、その実ドビエルが、最も高い確率でデイブの消滅処理を回避さ

せ、チームの存続を認めさせる手を、態度を、発言を、模索して実行してくれた事が。

その結果、イスラフィルをマリクに就任させる事で、一同の、室長クラスに欠員が生じた事による不安と、自分達が冥牢に

出向しなければならないのではという不安を緩和させるという、部分的な切り捨て案を選択しなければならなかった事が。

そして、イスラフィルの冥牢出向を誰よりも気に病んでいるのが、提案者であるドビエル自身だという事が。

「しかしまぁあれだねぇ。涼しい顔してこのあたしを異層に飛ばそうとする辺り、大したモンだよ実際」

「……………」

意地悪くにやにやしながら身を乗り出し、表情を窺って来るイスラフィルに、しかしドビエルは答えない。

「もしかして、地上飛び回ってばっかのあたしに愛想が尽きたかい?」

「ぬしゃあ何ば…!」

挑発するような雌牛の言葉に、思わず強い調子で答えかけたドビエルは、はっとして口を閉じる。

身を乗り出してやや下から顔色を窺ってくるイスラフィルは、目を細めて口の端を緩やかに吊り上げ、いたずらっぽい表情

を浮かべていた。

まるで、ドビエルの反応を面白がっているように。

顔色を窺われる事に耐えかねたのか、ごつい灰色熊は肩を縮め、表情を隠すように顔を下に向ける。

「お…、おるがしいとるのは、ぬしがこつだけばい!そーにゃしいとる!」

もはや装う余裕も無くなったのか、俯いて声を大きくしたドビエルの言葉は、すっかり地の言葉遣いに染まっていた。

イスラフィルは一瞬目を丸くした後、

「…何でそう、あんたは…、ムード出せる時に訛っちまうのかねぇ…」

と、呆れているように、そして面白がっているように口元を綻ばせる。

「…ぬしがこつ…、そーにゃ…しいとっとよ…」

顔を完全に俯けて視線を避けながら、耳を伏せてボソボソと繰り返す。

「判ってるよ。十分にね…」

ドビエルとイスラフィルは、発生当初から恋慕を欠落していない稀有な存在であった。

古馴染みであると同時に慕い合う間柄でもある二人の関係は、ほんの数人にしか知られていない。

イスラフィルが赴く新たな職場…異層である冥牢とは、本部からでも基本的にリアルタイム通信ができない。話をしたけれ

ば直に会わなければならないのである。

だが、管理室長であるドビエルは多忙で頻繁には冥牢へ行けず、マリクとなるイスラフィルもまた冥牢をそうそう離れられ

なくなる。

これまでのように頻繁に連絡を取り合うのは難しくなる。声も聞けず、顔も見られず、何年も何十年も過ごさなければなら

ない。

別れの辛さからか、はたまた正直な心中を吐露した恥ずかしさからか、俯いたままのドビエルをしばらく眺め、黒い雌牛は

苦笑混じりに「ふぅっ…」と息をついた。

そして、立ち上がってテーブルを回り込んだ彼女は、ドビエルの隣に腰を下ろしつつ、わざとドンと強めに肩をぶつける。

その程度ではさして揺るぎもしないごつい恋人の頑強な肩に、イスラフィルは男同士が友人相手にでもそうするように、腕

を回して肩を組んだ。

「…たまには、会いに来ておくれよ…?」

耳を伏せたままのドビエルにそう語りかけたイスラフィルは、ドビエルが声もなく頷くと、彼の頬にそっとキスをした。