第四話 「配達人はマットブラック」(後編)

目を閉じている幼馴染みの顔を、コウキはじっと見下ろしている。

病院の清潔なベッドの上に寝かされたまま、意識が戻らないヤエ。

その右目の下の痛々しい青あざは、まだ消えていない。

その顔を、ベッド脇のパイプ椅子に腰掛けたコウキはただ黙って、じっと見下ろしている。

大量の薬剤を飲み込んだヤエは、一命を取り留めたものの、病院に運び込まれて十時間が経過した今も、意識が戻っていない。

今朝、普段の起床時間になっても起きて来ない事を訝り、彼女の部屋を訪れた母親が、一人娘の異常に気付いた。

発見がもう少し遅れていたならば、かなり危なかったという。

前夜にヤエと会っていたコウキは、ヤエの母親や医師から様々な事を尋ねられた。

だが、彼は知らぬ存ぜぬを決め込み、本当の事は何一つ話さなかった。

事件に巻き込まれるのが嫌だったからではない。その理由は、単純極まる物だった。

誰にも話さないと、ヤエと約束したから。誰にも知られたくないと、ヤエが望んだから。

だからコウキは何も知らない振りをした。顔には出さず、黙って、自分を責め続けながら。

ヤエが浮かべた作り笑いに、何故気付けなかったのか?

ヤエの「ダイジョブ」を、何故ああも簡単に信じてしまったのか?

幼い頃からずっと一緒に居ながら、幼馴染みの心情を読み切れなかった自分を、コウキは激しく責めた。

(ヤエが強い…?何を勘違いしていたんだ、僕は…!)

脚の上に置いた両手が拳を作り、きつく握り締められて爪が手の平に食い込む。

(女の子じゃないか…。活発で男勝りでも、ヤエは女の子じゃないか…!)

底抜けに明るく、とにかく活発で、いつも友達の輪の中心になっていて、昔から自分を強引に引っ張り回していた幼馴染み…。

そんなヤエが、昨夜はどれだけ傷ついているのかを察してやれず、「ダイジョブ」の一言で安心して、帰ってしまった。

(安心?…いや違う、僕は油断したんだ…!これだけ長く一緒に居ながら、お前はヤエの何を見てきたんだコウキ!?)

心の中で自分をなじるコウキは、静かにドアが開いた事に気付き、首を巡らせた。

「コウちゃん…。そろそろ帰った方が…」

ヤエの母が、両親にすら反発して学校を休み、娘に付き添っていてくれた幼馴染みに声をかけた。

「いいえ、大丈夫です」

ヤエの母の泣き腫らした目を見返しながら、コウキは首を横に振る。

まるで主に付き添う忠犬のように片時も娘から離れようとしない、線の細い幼馴染みの顔を見ながら、ヤエの母は微かな笑

みを浮かべた。

昔から引っ込み思案で、とても大人しく、いつも娘に付きまとわれ、イヤイヤ引っ張り回されていた幼馴染みが、今は自分

から進んで寄り添っている。

その事が、長年二人を見てきたヤエの母には嬉しかった。

「ねぇコウちゃん。お願いがあるんだけれど…」

「はい?」

何だろうと聴き返したコウキに、ヤエの母は困り顔で告げた。

「ヤエの部屋に行って、携帯を探して来てくれないかしら?」

「携帯?」

「ヤエが目を醒ましたら、携帯が無いと騒ぐと思うのよね…」

目を閉じている幼馴染みの顔をちらりと見遣り、コウキは頷いた。

「私が勝手に探したら怒るだろうから、お願いできないかしら?」

「僕だって怒られますよ」

苦笑いしながらも、コウキは彼女の頼みを引き受ける事にした。ついでに、ヤエの部屋から何か持ってきてやろうと考えて。

この殺風景な病室に、縫いぐるみの一つや二つ持ち込んでおいてやるのは、とても良い思いつきのようにコウキには思えた。



一気に深みを増してゆく夕闇の中、住宅街に立ち並ぶ中のある一軒の前で、紙片を手にした黒ずくめのライダーが、バイク

に跨ったまま呟く。

「…残り香だけ?既に移動したのか…」

何の変哲もない民家を路上からしばし眺めてから、ライダーはかぶりを振った。そして手にしていた紙片を懐に収め、

「だが…、昨夜の匂いである事は間違い無い。これで辿れる…」

呟きながらエンジンをふかすと、そのまま道を走り去った。

間を置かず、バイクと入れ替わりにやって来た自転車は、ライダーが眺めていた民家の前で停まった。

自転車から降りたコウキは、預かった鍵で玄関のドアを開け、無人の家に上がり込んだ。



幼馴染みの部屋、その勉強机に置かれていた携帯を手に取ったコウキは、手頃なサイズの縫いぐるみを二つ鞄に放り込んだ。

来慣れているはずの部屋は、しかしヤエが居ない間に上がり込むと、落ち着かない感じがした。

部屋を見回したコウキは、壁に吊されたハンガーにかかる紺色のウィンドブレーカーを見遣った。

秋風の吹く日が多くなってきた今日この頃、ヤエは外出時によくこのウィンドブレーカーを着ていたのを思い出し、コウキ

は何となく歩み寄る。そして、目を見張った。

ウィンドブレーカーの右肘の所が、擦れたように色が薄くなっており、そこに渇いた土が付着している。

さらに良く見ればジッパーが壊れており、胸に縫いつけてあるポケットの片側が千切れ、取れかけていた。

災厄の痕跡を目の当たりにし、コウキは改めて、ヤエの身に降りかかった出来事を実感した。

ショックを受けてしばらく立ち竦んでいたコウキは、やがて、握ったままだったヤエの携帯に視線を落とした。

(この携帯で…、ヤエは僕に救いを求めた…。なのに僕は、ヤエがどんなに傷ついていたか、追い詰められていたか、気付け

なかったんだ…)

コウキは歯を食い縛り、携帯を強く握り締める。

その携帯が不意に震動し、コウキはビクリと手を震わせた。

驚きながら見つめた小窓には、「お父さん」という文字が表示されていた。

単身赴任中のヤエの父からの着信である事を知ったコウキは、しばし迷った後、電話に出た。

『も、もしもし!?ヤエか!?大丈夫なのか!?』

電波が変換された大声が耳元で炸裂し、コウキは顔を顰める。

「あ…、いえ、済みません。コウキですおじさん」

『え!?あ、あぁ…、コウちゃんか!母さんはどうしてるんだ?電話をかけても全然出ないんだ!』

コウキはだいぶ慌てているらしいヤエの父に、ヤエの母は病院内に居るので携帯の電源を切っているのだという事と、ヤエ

はまだ目を醒まさないものの、命に別状は無いらしい事を伝える。

『今空港に着いた所なんだ。済まないけれど、すぐに向かうが、着くのは九時過ぎ頃になると家内に伝えて貰えないかな?』

「判りました。お気を付けて」

通話を終えたコウキは、しばし携帯の画面を眺めた後、キーの操作を始める。

幼馴染みとはいえ他人の携帯である。プライベートを無断で覗き見る事に後ろめたさを感じたが、止める事はできなかった。

父親からの着信を先頭に、友人や知り合いの名前やニックネームが連なる着信履歴を眺めていたコウキは、特におかしな点

も見つけられず、携帯を閉じてポケットにしまった。

そして部屋を出て後ろ手にドアを閉めた後、ある事が気になってもう一度携帯を開いた。

今度は発信履歴を確認し始めたコウキは、訝しげに眼を細め、指を止めて画面に見入る。

自分の携帯当ての発信の前の履歴が、コウキには気になった。

画面をスクロールさせても、どの履歴も誰かの名前などで表示されている。

その中で異彩を放つ、昨日の夕方の日時が記された、ナンバーだけの履歴…。

コウキはしばし携帯を操作し、発着の履歴を見比べる。

やがて、違和感は閃きに変わった。

それから自分の携帯を取り出し、小学校からの顔見知りであるクラスメートの女子に電話をかけた。

ヤエとも親しいその女子からの着信の後、幼馴染みが誰に電話をかけたのか、自分の予想が間違っている事を祈りながら。



日没後の闇を照らす、赤い光を周囲に投げている救急車の脇で、黒いライダーはバイクを止めた。

病院の裏口でアイドリングしている、たった今患者を搬入したばかりの救急車の周りでは、救急隊員達が慌しく駆け回って

いる。

だが、眼を細めて救急車を見つめている、半人半獣のライダーには、誰一人注意を向けない。

奇妙な事に、忙しく動き回る救急隊員達は、まるで見えていないかのように視線を向けないにもかかわらず、間近に止めら

れたバイクをきちんと避けて動いている。

邪魔だと、文句一つ言う事も無く。

「…残り香が濃い…。近いな…」

ライダーは低く呟くと、バイクをゆっくりと進ませて駐輪場に寄せ、エンジンを止めた。



ヤエの病室に戻ったコウキは、備え付けの棚の上に、彼女の私物である縫いぐるみを二つ置く。

ヤエを見守らせるかのように、棚の上からベッドを見下ろさせる形に縫いぐるみの姿勢を整えてやると、コウキは満足げに

頷いた。

そして、ベッドの上のヤエの顔を見下ろし、痛ましげに眼を細める。

「…ヤエ…。知らない男なんかじゃ、無かったんだな…?」

ヤエの携帯の履歴を調べ、友人に確認したコウキは、発信履歴に残っていたナンバーが、誰の携帯のものなのかを知った。

そのナンバーで発信される前に電話で話した女の子が、かつてヤエに交際を申し込んだ先輩から、久々に会いたいから話を

通してくれと頼まれ、番号を伝えたと話してくれた。

ヤエが学校を休んだ理由をまだ知らないその友人は、珍しく欠席したコウキが、これまた珍しく電話をかけて寄越した事に

も驚いていた。

コウキはもちろん、彼女には真実を話さなかった。ちょっと体調を崩したみたいだ、とだけ伝えるに留めて。

そして今コウキは、ヤエが誰に乱暴されたのかを察している。

胸がムカムカして、背中に嫌な汗がふき出して来る。考えまいとしても止められない。

ズボンのポケットの中に突っ込んだ手は、電話の後にヤエの自室に戻り、ウィンドブレーカーを調べ直して見つけた、鎖の

千切れたシルバーのチェーンを握り締めている。

コウキは今、生まれて初めて、殺意に近い憎悪を抱いていた。

唇を噛み締め、眠り続ける幼馴染みの顔を見下ろしていたコウキは、気配を感じたような気がして振り返った。

コウキが戻ってすぐに売店へ向かったヤエの母が、買い物を終えて戻ってきたのかとも思ったが、病室には自分達以外に誰

の姿も無い。

コウキは小さく首を振ってヤエに向き直ると、その頬に手を伸ばし、そっと触れた。

感情を堪える為に握り締め、熱くなっていたコウキの指には、ヤエの頬はとても冷たく感じられた。

その感触を味わいながら、コウキは覚悟を決めた。

(赦さない…。償わせてやる…。必ず…!)

胸の内を焦がすような怒りと悲しみ。

今や殺意へと変質した濃密な負の感情を、無表情の仮面の下に忍ばせ、コウキは奥歯を噛み締め、目を閉じた。

胸の内で燃え盛る感情を落ち着かせるよう、深呼吸をしてから目をあけたコウキは、それに気付いた。

今開けたばかりの、ヤエの顔を見つめる視界の隅に、目を閉じるまでは見えていなかった黒い何かがあった。

いつからそこに居たのか、コウキと並んでヤエを見下ろしていた黒ずくめの入室者は、その手をヤエの胸元に伸ばす。

コウキの頭の中で、入院していた祖父の病室で経験した記憶が再生される。

黒い、獣の顔をした入室者が、拳銃で祖父を撃った時の記憶が…。

口をポカンと開けたまま、コウキはヤエの胸の上に翳された、入室者の手を見つめた。

黒い革のグローブを外した、黒い被毛に覆われた手。その手に導かれるように、ヤエの胸から赤い光の粒が立ち昇る。

幼い頃、長靴をはいたネコだと思ったその入室者を、成長した今のコウキはこう認識した。

死神、と。

「…や…、やめ…!」

コウキが身を強ばらせながらも、掠れた声を漏らした瞬間、黒豹は素早く顔を巡らせた。

同時に、黒豹の手とヤエの胸の間を漂っていた赤い光が消える。

前屈みになっていた体を真っ直ぐにし、すぐ傍に立つコウキの顔を見つめると、黒豹は目を細めながら口を開いた。

「…驚いたな…。君は私を認識できるのか?」

正面から黒豹の顔を見たコウキは、しばし硬直していたが、やがてカクカクと頷いた。

理知的な口調ではあったが、顔は獣のそれである。コウキは恐怖すら覚えながら、それでも入室者と相対している。

パニックを起こしそうになるのを必死に堪え、コウキは声を絞り出した。

「ヤエを…、ヤエを、どうするつもりです?…こ、殺すつもりですか…!?」

黒豹は胡乱げに目を細め、線の細い若者の顔を見つめる。

普段から普通の人間からはその姿を正しく認識されない彼女だが、今は存在そのものを悟られないようにしている。そのは

ずであった。

この状態であれば、相手の目の前に立ち、鼻をつまんだ所で気付かれはしない。

救急隊員達が、無意識の内にぶつからないよう避ける等の反応は見せていたものの、しかし目の前に居た彼女とバイクを認

識できなかったように、彼女に注意を向ける事はできないはずであった。

(…だが、この若者は、認識迷彩を最大にしている私を視て、感じている…。しかもこの反応…、恐らくは本来の姿で視えて

いるな…)

黒豹はしばし黙考した後、何かを思い出したように、僅かばかり目を大きくした。

「…キミとは…、確か一度会っているな…?」

黒豹の言葉を聞いたコウキは、「や、やっぱり…!」と、顔を青ざめさせた。

「あ…、貴女は…!あの時僕のおじいさんを撃ったひとですね…!?」

黒豹はコウキの顔を見つめながら頷く。あの頃の面影が今も強く残っていると感じて。

感受性が豊かな幼い子供達の中には、極々稀に彼女達の本来の姿を看破する者が居る。

彼女がこれまでに出会った数少ないそういった子供の中の一人が、このコウキであった。

だからこそ十数年が経ってなお、彼女もまたコウキの事を覚えていたのである。

(あの頃備えていた性質が、まだ残っていたのか…。いや、途中までは私の存在に気付いていなかったはずだ。何故急に…?)

思案する黒豹に、コウキは恐怖を押さえ込みながら一歩詰め寄る。

「あの時、貴女は僕のおじいさんを撃った…。傷も無かったし、その時は生きていたけれど、おじいさんは間もなく亡くなっ

た…!」

コウキは混乱しそうになる思考を纏め上げ、一言一言を選びながら、黒豹に話し続ける。

「あれは、貴女がおじいさんを殺したんだ!違いますか!?そして今度は…、ヤエを殺すつもりですね!?貴女は…死神だか

ら…!」

激しい口調でまくし立てる若者の顔を見つめていた黒豹は、静かに口を開いた。

「今のキミの言葉…、一つめは見方によっては当たっている。だが、二つめは完全な間違いだ。そして三つめは微妙なところ

だな」

黒豹の落ち着いた声を耳にすると、コウキは僅かながら冷静さを取り戻したのか、一度口を閉ざした。

ベッドの上の幼馴染みを庇うように、僅かに立ち位置を変えるコウキを眺めながら、黒豹は続けた。

「私は死神ではなく、配達人だ」

「…配達人…?」

訝しげに問い返すコウキに、黒豹は頷く。

「仕事を邪魔されてはかなわないし、それを力ずくで排除するというのもポリシーに反するので、誤解の無いよう簡単に説明

しよう。簡単に言えば、私がここに来たのはある物の回収の為だ」

「…か…、回収…?」

警戒したまま疑わしげに尋ねるコウキに、黒豹は頷いた。

「そう、回収しに来たのだよ。彼女が引き受けてしまった、本来は別の誰かの物である死をね」

黒豹はコウキから視線を外し、ヤエの顔を見つめながら続ける。

「本来の持ち主の元を離れた死を回収し、あるべきところへと届ける。それが私の仕事だ」

「ど、どういう事なのか、さっぱり…」

戸惑うコウキに、黒豹は顎を引いて頷いた。

「無理もない。普通は理解できないだろう。かいつまんで説明すると、全ての生物は共通して、生まれた時から持っている物

がある。それが君達人間の言葉で言うところの「死」だ」

目をパチパチと瞬きさせているコウキが理解しているかどうか確認する事もなく、黒豹は続けた。

「誤解されがちだが、死は訪れるものではない。皆がその内に持つ…、そうだな、時が来るまで使えないチケットのような物

だと想像して貰えれば良い」

「…チケット…?使う…?」

「そう。だから死をどこかに落としてしまったりすると、本来なら死ねるはずの時に死ねなくなってしまうのだ」

ちんぷんかんぷんなコウキは、半ばぼーっとした状態で話を聞いていたが、黒豹はそれ以上の説明はせず、おもむろにヤエ

の胸元へと手を伸ばした。

コウキが制止する間もなく、再び黒豹の手とヤエの胸の間に赤い光がちらつき始めた。

「ま、待って!」

慌てて手を伸ばしたコウキは、黒豹の手を掴み、そして雷に打たれでもしたように仰け反った。



…俺の誘い蹴っときながら、あんなのと付き合いやがって…

…滅茶滅茶にしてやるよ!…

…良い声で鳴くなぁおい。あのモヤシとやる時もこんな声出してんのか?…

…お前らもやれよ、遠慮しないで。ははっ!良いざまだぜアズミ!…

…いいねぇ!もっと泣けよ!助けなんか来ねぇけどな!…

…お前のよがり姿、きっちり撮ったからな?妙な真似はするなよ?…



コウキの頭に様々な言葉と、男達の下卑た笑い声が飛び込んで来た。

同時に、自分の記憶には無い光景が、目の奥で再生される。

それはヤエの聞いた言葉なのだと、ヤエが視た光景なのだと、コウキには何故かすぐに判った。

手を離し、よろめいて後退ったコウキには視線を向けず、黒豹はその手をゆっくりと上にあげてゆく。

その手に導かれるように、ヤエの胸、病院の患者着の表面に、何かが現れた。

まるで、水面に浮き上がるようにしてヤエの胸から現れたそれは、紙の切れ端であった。

大きく両目を見開いて見つめるコウキには、幼馴染みの胸から現れたそれは、郵便番号を記すマス目が印字された葉書の欠

片に見えた。

黒豹の指がそれを掴むと、周囲を照らしていた赤い光が消え失せる。

ショックを受けているらしいコウキに視線を向けた黒豹は、紙片を懐に仕舞い込みながら、すぅっと目を細めた。

「…記憶の奔流を受けたのか?」

「え?」

「私の手に触れた際に、何かが視え、そして聞こえたのではないか?」

黒豹の言葉に、コウキは顎を引いて頷く。

嫌な汗が背中を伝い落ちてゆく。心臓がバクバクと脈打ち、息が苦しい。

コウキは今、ヤエの記憶の欠片と共に、彼女が味わった恐怖や絶望もまた受け取っていた。

(私が引き出した死の欠片に共鳴した…。この若者も、死の欠片を持っているな…?)

黒豹は心の中で呟くと、コウキに向かって手を差し出した。

「どうやら君も持っているようだな。彼女が持っていたような、他人の死の欠片を…」

胸を押さえて苦しげな表情を浮かべ、その手を見つめるコウキに、黒豹は告げる。

「微かだが確かに感じる。君自身に宿っている訳では無さそうだが…、死が宿った何かを所持しているな?渡して貰おう」

最初は何を言われているのか判らなかった。だが、コウキは直感的に悟る。

ヤエと同じく、誰かの死が宿った何か。ヤエの部屋から持ち出したあるモノがそれだと、コウキは確信した。

黒豹の手をしばし見つめていたコウキは、視線を上げ、縦長の瞳孔を持つ瞳を見据えて口を開く。

「…渡したら…、どうするんですか?」

「本来の持ち主に届けにゆく」

答えを聞いたコウキは、ポケットに入れたままのシルバーチェーンを意識しながら口を開いた。

「ただでは渡せません。条件があります…」

訝しげに眼を細めた黒豹を前に、コウキは恐怖を押し殺しながら続けた。

「持ち主の所へ届けるなら、僕も連れて行って下さい。どんな人なのか、興味があるので…」

「私がその取引に応じる必要は無い」

「なら渡せません」

きっぱりと答えながらも、コウキは内心ではビクビクしていた。

相手は、以前祖父の病室で会った時と同様、腰の後ろに拳銃を持っているのである。

相手が女とはいえ、運動も苦手で体の線も細いコウキには、いざ力ずくとなれば勝ち目は無い。

が、有利な立場にあるはずの黒豹は、コウキの態度を目にして僅かに躊躇を見せた。

(無理に奪おうとして、死がこの若者に移っても困る…。自らの意思で渡して貰うのが一番良いのだが…)

本来ならば彼女は人間に認識されない。それゆえに気付かれぬ内に所持品をあらため、死を選定して抜き出す事は造作も無い。

だが、自分を認識しているコウキが抵抗の意思を持っていれば話は別である。

元々生き物に添うべき性質を持つ死は、コウキの意思に引かれて品物を離れ、彼の中に移ってしまう可能性があった。

死を奪う事は、与える事よりも遥かに難しい。命を奪う事は簡単でも、救う事は困難なように。

だが彼女が躊躇っている理由は、職務遂行が困難になるからという事だけが理由では無かった。

(認識迷彩を最大にしている私を正しく視る事ができる原因…。幼い頃の性質が残っていた訳ではない…。死の欠片を宿す品

に触れたせいか?…いや、それならば私が部屋に入った時点で気付いていたはずだ。死に触れた事も原因ではない…。となれ

ば…、この若者は「死に逝く者」か、あるいは「死者」という事になるが…)

彼女はしばし黙考した後、結局はコウキに頷いた。

「…判った、条件をのもう。だが、こちらからも条件を付けさせて貰う」

黒豹の内心の葛藤には気付かず、思いの他すんなりと承諾された事に、拍子抜けしつつも安堵するコウキ。そんな彼の目を

見つめながら、黒豹は続けた。

「追跡中は私の指示に従う事。それができないと言うのならば連れて行く訳には行かない。多少手荒な真似をしてでも、品物

を渡して貰う事になる」

脅しを含めた黒豹の言葉に、コウキは神妙な面持ちで頷いた。

「ならばすぐにでも行くぞ。急げ」

黒豹は踵を返してさっさとドアに向かい、コウキは慌てて口を開く。

「あ!その、ろ、廊下でちょっと待ってて下さい!すぐ行きますから!」

黒豹は半面だけ振り返った後、小さく頷いて部屋を出て行った。

コウキはヤエの顔を見下ろし、唇を噛み締めた後、備え付けの戸棚の引き出しを開ける。

箸やフォーク、スプーンなどが入れられたその中から果物ナイフを取り出し、上着のポケットに忍ばせたコウキは、突然ド

アが開いてビクリとする。

「寒くない格好で来るように。冷えるぞ?」

ドアを開けて顔を覗かせた黒豹は、それだけ言うと再びドアを閉めた。

(…結構…優しい?)

硬直していたコウキは、気を取り直すように頭を振ってジャンバーを羽織ると、眠ったままのヤエの顔を一度見下ろし、そ

れから黒豹の後を追って部屋を出た。



CBR1000RR!?これ2006年モデルですよね!?」

黒豹に連れられて病院を出たコウキは、スーパースポーツタイプのオートバイを目にし、思わず声を上げていた。

「知っているのか?」

目をキラキラさせているコウキを振り返り、黒豹は少し目を大きくして尋ねる。

「それはもう!カタログや雑誌で見てますから!」

コウキは現在の状況を一時忘れ、初めて実際に目にした憧れのバイクの一台に見入る。

猫科の肉食獣を連想させる、吊り上がった目のような形状のヘッドライト。

コンパクトに纏まりながらも、極端に攻撃的な印象を醸し出すそのフォルム。

目にするのは初めてだが、そのボディに秘められた驚くべき性能を、コウキは数値で理解している。

「私はファイアブレードと呼んでいるがな。これまでに何度か乗り換えたが、私にはこのメーカーのマシンが一番しっくり来る」

黒豹は自分と同色に塗装されたバイクに歩み寄ると、革張りのシートをポンと叩いた。

「中でもこれはとびっきりだ。最高の相棒だよ」

シートを撫でながら少し誇らしげに、そして自慢げに微笑んだ黒豹の顔を見たコウキは、一瞬言葉を失った。

これまで恐ろしげな印象を受けていた黒豹の無表情な顔が、その笑みを浮かべた途端、一変して親しみが感じられるものに

なっていた。まるで、仮面の下から素顔が覗いたように。

「乗りなさい。振り落とされないよう、しっかり捕まっているように」

バイクに跨り、エンジンをかけた黒豹がそう告げると、コウキはドキドキしながら漆黒のスーパースポーツに歩み寄る。

誌面で眺めるだけで、手の届かない存在であったはずの憧れのバイクに、実際に乗る…。

こんな状況で不謹慎だと思いながらも、コウキは胸が高鳴るのを抑え切れない。

おずおずと「失礼します…」と呟き、後部座席に跨ったコウキを、黒豹は振り返った。

「腰に手を回してしがみつきなさい。指をしっかり噛ませて」

「は、はい!…えっ!?」

自分にしがみつけ、そう指示を受けているのだと気付いたコウキは、顔を赤らめた。

「早く」

催促されてドギマギと従い、コウキは黒豹の腰に手を回した。

付き合っているとはいえ、ヤエとも手を繋ぐレベル。こんな事は初経験である。

「それでは駄目だ。もっと私の背中にくっつくようにしなさい」

くびれたウェストに手を回しながらも、体を遠ざけようとするコウキに、黒豹は再び指示を出す。

目を固く閉じ、心の中でヤエに詫びながら言われたとおりにしたコウキは、黒豹の腰の後ろに装着された、大型拳銃のホル

スターの感触で我に返った。

(…そうだ…。僕はこれから、先輩を…)

ゴクリと唾を飲み込み、小さく頷いたコウキに、黒豹は告げる。

「よし、出るぞ」

「あ、待って下さい!」

前を向いた黒豹に、コウキは大事な事を思い出して声をかけた。

「あの…。僕は唐羽公希。猫さんのお名前は?」

「猫ではないっ!私は豹だっ!」

耳を斜め後ろに倒し、牙を剥いて振り返った黒豹の怒りの形相を目にして、コウキはビクッと硬直した。

「アズライル。そう呼ばれている…!」

黒豹は不機嫌そうに前を向くと、バイクを急発進させる。

「わ!?わひゃぁあああああああああああああああっ!?」

悲鳴を上げるコウキを後ろに乗せ、配達人アズライルは、自慢の愛車を駆って駐車場から飛び出した。