第四十一話 「新たなる配達人」(後編)
「ここが風呂場や」
「でっけぇ…!」
ミカールに案内されたムンカルは、浴室と湯船の広さに意表を突かれ、目を丸くした。
公衆浴場という風習から縁遠いムンカルからすれば、プールでもないのに何故ここまで大きな湯船を用意しなければならな
いのか、やや理解に苦しむ。
「でかいか?」
「でかいだろ普通に?そもそも俺、平均的なバスタブにしか浸かった事ねぇんだよ…」
ムンカルは「貧乏だから」と付け足すと、何か引っかかったように首を傾げた。
「ん?さっき聞いた話だと、部屋ごとにシャワーブースがあるんじゃなかったか?」
「あるけどな、ジブリールがどうしてもて言うから用意しとんねや。アイツおデブやさかい、狭い風呂は嫌なんやろ」
「…デブとか…、お前もそうじゃねぇか…」
思わずぼそりと呟いたムンカルは、「ん?何や?」と、聞こえなかったミカールに訊ね直されると、
「何でもねぇ。それより、俺もここ入って良いのか?」
と、さらりと流して話題を変えた。
「遠慮せんでええ。ワシもジブリールも、もっぱらここ使うとるしな」
ミカールの返答を聞いたムンカルは、少し嬉しそうに耳を寝せた。
一方その頃、食堂では…。
「…で、ムンカルのお相手はどんな子だったんだい?綺麗な子かい?スタイルはどうだった?」
ムンカルの恋人と、その別れの様子についてジブリールから聞かされていたイスラフィルは、少し身を乗り出し、肝心な事
を訊ねているところであった。
「太っていたね」
「…ほう…。胸はどうだった?」
「胸囲?結構あったと思う。少し垂れ気味だったかな?」
「垂れ乳かい。顔は?」
「赤ら顔だったね。頬がぷっくりしていた」
「ふくよかな子が好きなのかねぇ」
「どうだろう?」
「つまり、スタイルも良くなけりゃあ、整った顔立ちでも無かったってわけかい?」
「う〜ん…。人間達の一般的な美醜の感覚から言えば、たぶん…」
「そうかいそうかい。けどまぁ巨乳好き?それともポチャ好き?好みのタイプは絞れそうだねぇ」
頷いたイスラフィルに、ジブリールは手を差し伸べながら尋ねる。
「視覚映像、見るかい?」
「ああ、んじゃ頼もうか。その方が手っ取り早かったねぇ」
イスラフィルは頷くなり腰を浮かせて身を乗り出し、手を伸ばした。その手を軽く握ると、北極熊は複製した視覚データを
手の平から直接送り込む。
「ありがとよ。じゃあ早速…」
データを受け取りジブリールの手を離したイスラフィルは、椅子に座り直して軽く目を瞑った。
が、瞼を閉じたかと思えばすぐさまクワッと見開き、胡乱げな顔つきになる。
「…って男じゃないのさこれ!?一体誰の映像だよ」
「え?ムンカルの恋人の映像だけれど?」
「…は…?」
小首を傾げたイスラフィルは、もう一度目を閉じ、受け取った映像を再度吟味する。
どこからどう見ても男…。なのだが、イスラフィルはふと気が付いた。
今までのジブリールとの会話において、確かに相手の性別には触れなかった。
イスラフィルは女だと思いこんだまま対話し、ジブリールの返答にも特におかしいと感じる表現はなかったが、考えてみれ
ば、受け取った映像の太った男についての会話としても成り立ってしまう。
(それにしたって、男だったら男だって、最初に一言あって然るべきじゃないのかい?そこが一番重要な情報だって気づけな
いもんかねぇ?)
改めて、一見常識人ながら欠落が根深いジブリールに、雌牛は呆れ果てた。
(…まぁ、寛容って言やぁそうかもしれないけどさ…)
「…ところでさ…」
「うん?」
目を閉じたまま口を開いたイスラフィルに、ジブリールは見えないにも関わらず首を傾げる。
「このムンカルの元カレ、ちょっとミカールに似てないかい?」
北極熊は視線を上に向けて少しの間考え、「…そうかな?」と小さく呟く。
「そりゃあ人間だけどフォルムがさ、丸っこいフォルムがちょいと似ちゃあいないかって…。シャツにエプロンって、おなじ
みの格好までしてるしねぇ」
「ああ、言われてみれば…」
頷いたジブリールを、片目を開けた雌牛が見つめる。
「気がかりではあるけど、あたしが居る間に解決してやれそうな問題でもない。あんた達がしっかり支えてやんな?」
「努力するよ。彼こそが、ミカールがやっと見つけた、本物のリーズンだからね」
北極熊が何気なく口にした言葉に反応し、イスラフィルの片眉がぴくりと上がる。
「…あんたもそう思うかい?」
「キミもそう思っていたんだろう?」
「…正確には、「そうかもしれない」ってトコだけどね…」
黒い雌牛は小さくため息をつく。
本人とミカールが一緒に居る所を見ていないドビエルは、彼女の見解を聞いても結論を口にしなかった。
だが、ジブリールも同じ意見だと知った事で、予感はますます確信に近づく。
(ミカール自身は、自分のリーズンはイブリースだと思い込んでる。他の大勢と同様にね…。けれど…)
「ミカールが、自発的に自分の部屋に仮住まいさせるって、言ったよね?」
ジブリールの言葉に、イスラフィルは頷く。
「キミはどう感じたかな?」
「ん?…まぁ、言い出しっぺだし、責任もって面倒を見てやろうって気概の現れかなぁと…、そんなトコかね?」
「そうだね。自分と関係の薄い者への気配りが欠落してしまっているはずのミカールが、ムンカルには最初から距離を詰めて
接している。普通なら責任感からの行動と言う所だけれど…、いつもの彼から見れば、肩入れが過ぎると思わないかな?」
「それはまぁ、思ったさ…。けど…」
「ムンカルは、出会ったばかりなように見えて、実はミカールにとっては関係が薄い者ではなかったとしたら?」
自分の言葉を遮ってそう尋ねたジブリールの目を、イスラフィルはじっと見つめる。
「本物のリーズンだからこそ、最初からオレ達同様に仲間意識をもって接しているとしたら?」
「ちょいと待ちな。…すると何かい?あんたはムンカルが確実にミカールのリーズンだって…」
「思っているよ。確信しているとも言えるね」
ジブリールはぬるくなった紅茶を音もなく啜り、自分をじっと見ているイスラフィルに微笑みかけた。
「疑っているような顔だね?」
「ああ。あんた、まさか今回の件…、最初から全部「視えて」たんじゃないだろうね?」
「あ、そっちを疑っているの?」
イスラフィルの問いに、ジブリールは苦笑いしてみせた。
「視えなかったよ。もしあらかじめ知っていたら、誰より早く現場にかけつけていたところだ。決着をつけるために」
「…それもそうだ」
納得して頷いたイスラフィルに、ジブリールは続ける。
「もっとも、ミカールはオレを遠ざけたかったらしいけれど…。わざわざ連絡が回らないよう、通信網に細工していたぐらい
だからね」
(そりゃあ会わせたくないだろうよ…)
心の中で応じた雌牛は、ふっと表情を曇らせた。
「…悪いね…。最後まで付き合ってやるって約束していたのに、あたしはここまでだ…。何とも半端でスッキリしないねぇ…」
「感謝しているよ、イスラフィル。キミはいつだって文句一つ言わずに、オレやミカールに付き合って貧乏くじを引き続けて
くれた。ゴメンね、そして有り難う…」
改まって礼を言った北極熊に、黒い雌牛は「ふん!」と鼻を鳴らして渋い顔をして見せる。
「よせっての!…そんな事で礼を言ったり謝ったりって間柄でもないだろうが、あたしらは…!」
「…けど今、イスラフィルの方から謝ったよね?」
悪気は無いのだろうが、突っ込まなくて良い場所を的確に突いて来たジブリールに、
「…ふん…!」
イスラフィルは言い返す事もできず、鼻を鳴らして渋面を濃くした。
「んで、ここがワシの部屋や」
部屋に踏入って振り返り、自慢げに胸を張ったミカールの前で、ムンカルは「ほお…」と感嘆の声を漏らした。
ふかふかの絨毯が敷き詰められた部屋は、大型クローゼットにテレビ、さらにはレコードと大型スピーカーが設置してあり、
中央にはクッションとローソファーがくつろぎスポットを作っている。
部屋の隅にはミカールの身長からすればかなり広々と使えるであろう、天蓋付きの大型ベッド。
大人三人が川の字になって眠れそうなそのベッドは、気持ちよさそうな羽毛布団と枕がセットされている。
「すげぇ…!絨毯とかこれ…いくらすんだ!?何だよあのオバケベッド!?ホテルか!?ロイヤルスイートか!?」
ムンカルの驚きようを見たミカールは、まんざらでもなさそうに「ふふん…!」と鼻を鳴らす。
「遠慮せんと入れや」
「お?おう。…お邪魔します…」
ミカールが顎をしゃくって促すと、ムンカルは室内の様子を見回しつつ足を踏み入れた。
そのままミカールに従って部屋中央のソファーとクッションスペースに腰を下ろすと、鉄色の虎はしきりに周囲を見回した
り、直接腰を下ろした絨毯をさわさわと撫でたりし始める。
絨毯の上に焼き菓子が乗ったトレイを置き、一つ摘んだミカールは、ムンカルの私室について説明を始めた。
「ところで…、ホンマはお前の部屋も用意したれば良えんやけど、どうにかして部屋確保するまではここで寝て貰うで」
「へ?」
首を傾げるムンカルに、ミカールは「つまり…」と続ける。
「細かい事情は後で説明したるけど、このフネやともうこれ以上部屋増やせへんねや。お前の部屋が用意できるまで、ワシと
相部屋や」
じきにイスラフィルが居なくなる。
そうなれば空っぽになった彼女の部屋…つまり占有していた擬似空間を閉じ、新たに部屋を作る事もできる。
だが、イスラフィルから自分の異動がムンカルの件に関係しての事だと言わないよう、入念に釘を刺されていたミカールは、
部屋が確保できる時期と、その理由については口にしなかった。
もう少しグレードが上のフネになれば別だが、現在ミカール達がベースにしているこの飛行艇は、空間拡張も現状が限界な
のである。
「まずベッド用意せなあかんな。ジブリール程やないけど図体デカいから、デカいベッドがえぇやろ。…よっしゃ!」
そう思い立つなり即座に実行に移そうと、ミカールは腰を上げた。
「早速準備するから、ちっとその辺ぶらついて来ぃ。そんな待たさへんから。すぐできるよって」
「…おや?」
自室で軽くシャワーを済ませ、タオルを首にかけて格納庫に出てきた黒い雌牛は、鉄の壁に背を預けて座り込んでいるムン
カルの姿を見つけ、訝しげに首を捻る。
「な〜にしてんだい?」
歩み寄るイスラフィルに気付くと、項垂れるように下を向いていた虎男は、驚いたように顔を上げた。
「姉御…。いや、ベッド用意できるまでブラブラして来いって言われたんだけどよ…。勝手も判んねぇし、行くトコもねぇか
らここでバイク眺めてたらこう…何だ?その、ちょっと物思いに…な」
苦笑いするムンカルの顔には、やや寂しげな色が浮かぶ。
所在なくバイクを眺めてぼんやりしていたムンカルは、別れを告げてきた人々や、街の事、そしてこれまでの生活を振り返っ
ていた。
前を向こうとしてもままならず、気付けば振り返ってばかりいる。
表に出さないようにしていても、やはり不安や戸惑いがある。
一人になった時、会話が途切れた時、手持ちぶさたになった時、ムンカルの心には過去が忍び込む。
戻れないと判っていてもなお、振り返らずにはいられぬ過去が。
イスラフィルはしばし無言でムンカルの顔を見下ろしていたが、
「ムンカル。暇ならちょいと付き合いな」
と、おもむろに言うなり後部ハッチの方へ歩いて行く。
ついてくると確信しているのか、振り返りもしないイスラフィルの後を、胡乱げな顔をしながら腰を上げたムンカルがのっ
そりと追いかけた。
川面に浮かぶ飛行艇の上に登ると、静かに船腹を叩く水音に耳を軽くパタつかせ、イスラフィルは振り返る。
「どうだいここは?あたしの特等席さ」
声をかけられたムンカルは、顔を真上に向けたまま、「ああ…」と、やや気の抜けたような返事をした。
川縁の灯りからも離れた、飛行艇の天井に乗って見上げる空には、人工の光にあまり弱められていない星々が瞬いている。
「……………」
美しい星空に見入って声も出せない虎男に、イスラフィルは満足げに笑いかけた。
「風の無い日はね、ここで寝たりもするんだ。気持ち良いもんだよ?星を数えて眠るってのも、これでなかなかオツなもんさ。
…よっと…」
イスラフィルは丸みを帯びた天井に腰を下ろすと、やや上体を反らし、後ろに手をついて体を支える。
足を少し開いて伸ばし、リラックスした格好で座る雌牛は、ムンカルに向かって手招きして見せた。
「おいで新入り。先輩として、ちょいと為になりそうな話をしてあげようじゃないか」
「へ?」
訝って目を丸くし、耳を倒したムンカルに、イスラフィルは笑いかけた。
「あたしも普段は、こういった話をする機会がまず無いからねぇ。理解者が居なくてさ」
それからしばし、体格の良い黒い雌牛と、体格の良い灰色の虎男は、星空の下で語らいの時を過ごした。
イスラフィルの話は、概ね、恋人と別れたムンカルへの慰めであった。
ひとしきりムンカルを慰めた黒牛は、その後、自分達、人間とは違う理の中に生きる者は、その多くが恋愛をしないという
事を説明した。
自分が数少ない例外である事を打ち明け、それ故にムンカルの心情を、人間同士がそうするように理解してやれると告げ、
孤独な若虎の肩を抱き、強引に引き寄せ、自分の胸にしなだれかからせた。
「たくさんの人と別れなきゃならなかっただろうけどね、あんたは今だって一人じゃないんだよ、ムンカル…。あたしらは家
族だ。同じフネで暮らし、同じ仕事をして、同じ飯を食って、同じ時間を歩む家族だ。…時間はたっぷりあるんだ。あんたの
心の隙間を埋めてくれるヤツも、その内見つかるさ。きっとね…」
ごつい雌牛の、それでも豊満な胸に顔の半面を埋めさせられたまま、ムンカルは涙ぐんだ。
「辛かったら泣いていい。右も左も判んない中、それでもシャンとしようってのは立派だけどね…。あんたはあたしらから見
りゃあまだまだガキだ。男共の前じゃ弱気な面ぁ見せたくないだろうけど、泣きたくなったらあたしんトコに来な…。見栄を
張るなら、色んなモン根っこから吐き出して、すっきりしてから張ってやんな…」
そんな風にして誰かに、ましてや女性に励まされ、慰められるのは、初めての経験であった。
やや子供扱いされているような所は少々気になったものの、実際、悠久の時を歩んできたイスラフィルからすれば、再誕し
て一日しか経っていないムンカルなど赤子のようなものである。
幼かった頃からシスターにも甘えず、年長者として子供達の世話をし、孤児院や家族を護ってきたムンカルが初めて経験し
た「甘えて良いんだよ」という無言の意志が込められた抱擁。
恥ずかしいと思い、反発する気持ちも無いではなかったが、ムンカルは拒絶らしい拒絶もせず、身を固くしたままイスラフィ
ルに抱かれていた。
人間達には認識されない、川面に浮かぶ飛行艇の上。
重なり合った大柄な影二つは、いつまでもいつまでも離れずに、緩やかな夜風に吹かれていた。
食堂から格納庫に移動し、周囲を見回した北極熊は、開け放ってあった後部ハッチの上側から、縁に手をかけてするっと内
側に入り込んだ雌牛を目にして「ああ、イスラフィル」と声をかけた。
「何だい?」
「ムンカルを見なかったかな?」
ジブリールの声が終わるか終わらないかの内に、ハッチ上部の縁に手をかけたムンカルが、体操選手もかくやという軽やか
な動きでぐるんと体を捻り、格納庫の床を踏みしめる。
「見ての通り一緒だったよ」
「らしいね。それにしても凄いねぇ二人とも。体だって大きいし逞しいのに、まるで猫のように身軽だ」
「コントロールさえできりゃあ体の大きさなんて関係無いさ。…ま、あんたはこの腹を何とかしないと、邪魔になってちょい
と厳しいだろうけどね」
感心しているジブリールに歩み寄った雌牛は、北極熊の突き出た腹めがけてボスンッと軽いボディブローをねじ込み、意地
悪く笑った。
イスラフィルの拳が手の甲半ばまで埋まったジブリールの腹は、衝撃でたぷんと波打つと、次いで自発的な揺れを始める。
「あっはっはっはっ。厳しいなぁ」
顔に苦笑を貼り付けつつ、腹を揺すって快活に笑った北極熊は、「ああそうそう」と、ムンカルに視線を向けた。
「さっきミカールから内線があってね。ベッドを準備したから確認して欲しいって」
「え?あ、ああ…!判った…」
何故かどぎまぎしているムンカルの様子に気付いたジブリールが、どうしたのか?と問うより早く、イスラフィルはムンカ
ルに顎をしゃくって見せた。
「行きな。ミカールは短気だからねぇ、間借りしてる内は下手に機嫌を損ねないように気をつけるんだよ?」
「お、おう…。…あの…、有り難うな?姐御…」
ムンカルはもごもごと礼を言うと、気恥ずかしそうに耳を伏せたまま、やや俯きながら足早にミカールの元へ向かう。
「…何かあったのかい?」
不思議そうに尋ねたジブリールに、イスラフィルは「まぁね」と、微かに口の端を吊り上げながら応じた。
「アドバイスしてやったのさ」
「アドバイス?」
「ああ。「家族に遠慮すんな」…ってね」
それを聞くと、常に柔和なジブリールの顔が、ひときわ優しく綻んだ。
「それは、良いアドバイスだね」
「だろう?」
親指を立て、得意げに応じたイスラフィルは、ムンカルの涙が染みこみ、乾きかけたシャツの胸元にそっと触れる。
(いきなり別世界に放り込まれたんだ。あの子は迷子と同じさ…。あたしが一緒に居てやれる間ぐらいは、めいっぱい優しく
してやんないとね…)
「…邪魔するぜ…」
ムンカルがのっそりとドアを潜ると、組み上がったベッドに向かっていたミカールは、びくっと背筋を伸ばしてから振り向
いた。
「お、おう!何処行っとったんや?あ、伝言頼んだんやけど、ジブリールと会わへんかったか?ベッドの準備出来たからな?」
「ああ、今そこで聞いた…」
イスラフィルに慰められた余韻を引きずり、やや湿っぽい雰囲気が抜けきっていないムンカルだったが、それでもキングサ
イズの重厚なベッドを前にして大仰に驚いて見せた。
「うお?凄ぇなこれ?」
「どや?途中で凝り始めてな、結局はかなり手間かけて構築したんやで?自信作や!」
殊更に胸を張るミカールもまた、態度が少々ぎこちない。
それは、胸の奥で疼く、罪悪感にも似たしこりのせいであった。
視てしまったのである。
飛行艇とリンクしているミカールは、ベッドができあがった後に、そのフネと一体化させられる感覚を使ってムンカルを探
した。
まず艇内を探査し、見つからないので天井の上まで探した挙げ句、イスラフィルとムンカルがどんな話をしていたのかを、
すっかり把握してしまったのである。
うっかり覗き見してしまったが、途中で罪悪感に駆られて感覚を閉ざし、ミカールは時間潰しとしてベッドを弄り始めた。
最初は一時しのぎなので簡素な物でよいと判断し、パイプベッドを作ったのだが、垣間見た光景が頭から離れず、悶々とし
ながら作り直している内に、現在の重厚なベッドができあがってしまったのである。
そして、うっかり覗いてしまった事が後ろめたくて、居ないと知っている食堂へ内線を繋げ、わざわざジブリールにも声を
かけた。
ムンカルが何処に居るか、自分は知らない。
そんなアピールをしている自分が、滑稽で腹立たしかったが…。
ムンカルを再誕させた事については、他に道は無かった。
あのまま消滅するよりはマシだったはずだと思っているし、今回の事件で正体が発覚せずとも、どの道ずっと人間達と暮ら
す事などできなかった。
遅かれ早かれ誰かに見いだされ、こちら側の存在としてシステムに認識される。
下手をすれば発見が遅れ、先に見つけて勘違いした墜人に消滅させられる羽目になっていたかもしれない。
自分達が出会って引き込んだ事は、結果的には、ムンカルにとっては良かったはずだ。
そう、頭で理解していても、自分に言い聞かせてみても、今、ミカールの心は晴れない。
ベッドを前にした二人の間で、会話は始まったばかりで不自然に途切れていた。
とりあえず声を上げてみたものの、ムンカルは言葉が続けられなくなっていた。
ムンカルが黙ってしまった事で、ミカールもまた話の先を探さなければならなくなった。
(…何…、話せばえぇんやろ…?)
無言でベッドの表面を撫でるムンカルの背を眺め、ミカールは途方に暮れる。
いたたまれない気分であった。
胸が締め付けられるようなその切なさは、ミカールが初めて経験する感覚でもあった。
大柄でタフそうな若虎が見せた、意外にも寂しげで不安そうな表情が、イスラフィルに慰められて声を殺して泣くその姿が、
ミカールの胸の奥深くに、じわりと何かを染み渡らせる。
ムンカルが不安なのも、寂しいのも、当然である。
自分が人間でないと知り、それまでに築いてきた価値観と判断基準は根こそぎ崩壊し、常識は粉々に砕け散った。
さらには自分を慕っていた弟分との死別や、家族同然だった孤児院の子供達、母親として敬愛していたシスター、恋人との
別れまでを一時に経験してしまった。
たった一人で無人の荒野に放り出された方が、まだマシだったかもしれない。
理解し、承知した上で別離の道を歩まざるを得なかった若き虎が、孤独感に打ちのめされるのも無理は無い。
だがしかし、「他者を慮る」「他者に共感する」という事が欠落している故に、ミカールはムンカルが抱く孤独感を、喪失
感を、深く理解してやる事ができない。
理解できず、歯痒い想いを抱えたまま、新入りの表情が耐え難いほど切なく感じられている。
やがて、沈黙に耐えきれなくなったミカールは、
「き、気にいらへんかったら、遠慮せんでゆえ。な?」
「あ…、えっと…」
ムンカルは少し困ったように項垂れると、
「…はは…。こんな立派なベッドで寝た事ねぇから…、気持ち良すぎて眠れなかったりしてな?」
冗談交じりに言う虎男の浮かべた笑みは、ミカールの目には痛々しく映った。
街を、歩いている。
歩き慣れた、でこぼこした石畳の感触を、分厚い靴底越しに感じながら。
人と、すれ違う。
見知った顔。見慣れた顔。良く覚えていない顔。目にして初めて思い出す顔。全く覚えていない顔。
評価していた人物。好かなかった人物。どちらでもない人物。どうでも良い人物。覚えのない人物。
人の波は一人として違わず、同じ方向へ動いている。
その中を、青年だけが逆向きに歩いている。
行く手で人の波が割れる。
虎面人身という異形の青年の前で、人間達は左右に割れて避けて行く。
誰も注意を向けない。誰も視線を向けない。
見慣れたストリートを、ムンカルはぼんやりとしながら歩く。
そして、ぼんやりとしたまま悟る。
これは、夢なのだと。
これが、現実なのだと。
夢の中のその光景は、確かに夢ではあったが、ムンカルが置かれた現実を如実に表していた。
すれ違っても誰も気付かない。そして、同じ方へは歩いてゆけない。
何故自分が?
頭の片隅に浮かびかけたその疑問が、ムンカルの足を止めた。
立ち止まったムンカルは、目を閉じて項垂れ、激しく頭を振る。
そんな事は考えるな。そう自分に言い聞かせて。
考えたところでどうしようもないのに、考えそうになる。
何故自分はこうなってしまったのか?
何故自分は皆と同じように生きられなかったのか?
何故自分が?何故自分だけが?何故他の誰かではなかったのか?
再誕させられる事なく、あのまま死んでしまえた方が楽だったのではないか?
頭を抱えて跪き、ムンカルは歯を食いしばる。
考えたくないのに考える。考えまいとすればするほど考える。
逃れられない堂々巡りの思考が、頭蓋の中を満たして目鼻から溢れ出てしまいそうだった。
絶え間なく流れて行く人の波は、蹲る迷子の前で左右に割れ、無関心に通り過ぎて行く。
シスターが、眼鏡の紳士が、孤児院の子供達が、ストリートギャングの青年達が、紳士の部下達が、職場の仲間が、常連と
なっていた店の者が、酒場の顔見知りが、一様に無表情で彼の脇を歩き抜けてゆく。
誰一人、ムンカルと同じ方向へ行く者は居ない。
誰一人、ムンカルに視線を向けはしない。
耐え難い孤独感と疎外感に、ムンカルは背を丸める。
世界と敵対する。
赤いコートを纏う北極熊の言葉が、出し抜けに頭に浮かんだ。
世界の敵になったなら、ひょっとしたらこれより酷い状況に置かれるのかもしれない。
気付かれず、無視されるだけでこの有様なのだから。
そう考えたムンカルは、自分には決して耐えられないと確信した。
自分はこんなにも弱かったのだと、愕然としながらも受け入れざるを得なかった。
さっき通り過ぎたはずの者が、また脇を歩き抜けてゆく。
何度も何度も、通り過ぎた者が再び前から歩いて来ては、彼の脇を抜けて後ろへ消えてゆく。
永遠にも思える繰り返しの中、ムンカルの前で、誰かの足が止まった。
地面に向けた視界の中、つま先を自分に向けて止まっている靴に、ムンカルはしばらくしてから気付いた。
ゆっくりと顔を上げると、太陽を背にして逆光の中に佇む、丸みを帯びたシルエットが一つ。
声も無く、ただじっと、ムンカルが顔を上げるのを待っていた者は、そっと手を差し伸べて…。
「…い。おい。おい、どないしたんやムンカル?」
目を開けたムンカルの視界に、間近で覗き込んでいる獅子の童顔が飛び込んで来た。
「…ウィッシュ…?…あ…、え…?あ…、み、ミカー…ル?」
半覚醒状態のムンカルが、乾ききって痛む喉から声を絞り出すと、ミカールの顔が安堵にゆるんだ。
「えらいうなされとったで?大丈夫か?ヤな夢でも見たんか?」
夢から覚めたムンカルの目が徐々に大きくなり、顔がカーッと熱を帯びる。
「ぐあぁっ!恥じぃ〜っ!」
両手で顔を覆ったムンカルは、ごろりと寝返りを打ち、ベッド脇に立ったミカールに背を向けた。
一度きょとんとしたミカールは、小さくため息をつくと、背を向けて大きな体を丸めたムンカルの脇で、ベッドにぽふっと
腰を下ろす。
抱え込んだ不安から悪夢を見たのだろうという事は、ミカールにも察しはついた。
そのあまりにも酷いうなされ方を見れば、どれほど心が不安定になっているか、嫌でも理解できた。
互いに背を向け合ったまま、気まずい沈黙が二人の間に落ちる。
「…なぁ、ムンカル」
「おう…?」
羞恥から顔を見られなくなっているムンカルは、ミカールの呼びかけにも背を向けたまま応じる。
「不安は色々あるやろが…、ワシが、面倒見たる」
「………」
見透かされていた。そう悟ったムンカルはますます恥ずかしくなり、ぎゅっと体を縮めた。
「ワシが…、傍についとる…」
体を丸めたムンカルの尻尾に、ぽってりしたミカールの手がそっと乗る。
びくっと身をすくめたムンカルに、童顔の獅子は精一杯に言葉を探し、語りかけた。
「お前が一人前になるまで、ずっと傍に居る。ずっと一緒に居る。一人になぞさせへんから…」
尻尾の先に軽く乗せられた、暖かな手の平の感触。
不器用に繰り返される、たどたどしい励ましの言葉。
「……………」
しばし身じろぎもしなかったムンカルは、別れたばかりの恋人や弟分ともどことなく似ている獅子に、黙って頷いた。
夢にうなされるなどという恥ずかしい所を見られたこそばゆさと、不慣れである事がはっきり判る不器用な励ましをくれた
ミカールへの感謝で、胸を熱くさせながら。
その感謝は、そう間を置かず別の感情へと変わってゆき、二人の関係もまた急激に変化してゆくのだが…、
「あの…よ…。ミカール…」
「ん?」
「…ありがと…な…」
「…おう…」
それはまた、別のお話…。